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三好達治「堀辰雄君のこと」


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 一身|憔悴《せうすい》花ニ対シテ眠ル、  いつどこで記《おぽ》えた句か前後は忘れてしまったのが近頃時たま唇にのぼってくるのを愛誦している、まったくそれは今の僕の境涯だからね、  堀は臥床の中から天井を見あげたままそういって淋しく笑った。一昨年秋のこと、それが最後の訪問となった折の話柄であった。その庭さきにはカンナやなんぞ西洋花らしいのが二三美しく咲いていた。大歴の才子司空曙の七絶「病中妓ヲ遣ル」というのの前半「万事傷心目前二在リ、一身憔悴花ニ対シテ眠ル」はまったくそのまま当時の堀にあてはめて恰好《かつこう》であった。詩の後半「黄金散ジ尽シテ歌舞ヲ教ヘシガ、他人ニ留与シテ少年ヲ楽シマシメン」というのは、年少のお妾《めかけ》さんを憐れんで適当な若者に遣わそうというのだよ、と私がうろ記えのつけ足しをすると、それも不思議に堀の気に入ったようであった。牀中《しようちゆう》の堀は言葉少なに応答も大儀そうではかばかしくはなかったけれども。それから暫くして堀は内室に命じて所蔵の詩箋《しせん》や古めかしい小函《こばこ》に入った篆刻《てんこく》を私の前に並べさせて、それらに就てぽつりぽつり説明らしいことをいった。詩箋は平凡であったが、古印の方は私のような木念仁《ぼくねんじん》にも一顆一顆《いつかいつか》雅趣の掬《きく》すべき品位は分った。しかしながら刻字の読めないものがたいていであった。堀にも読めなかった。自由におしゃべりの出来かねた堀はそんな思いつきを談助としたのであろう、そのもてなしぶりは反って私には痛々しかった。むろんもう彼は読書も出来ない臥《ね》たきりの容態であった。新刊のフランス書なんかの友人達から贈られたものを、読むのではなしにただ掌の中に弄《もてあそ》んでいるのがせめてもの一楽だと本好きの彼はいった。先の詩箋は平凡であったが、こんな単純な花鳥画なんぞをぼんやり眺めているのが仕事のようになったともいった。私は縁側にいてただほどほどのことをいっているより外受答えの言葉はなかった。
 私は東京に帰っていつぞや端本で手に入れた清初複刻らしい十竹斎の古版画を追分に送った。暫くして追分からは宋朝四十八家詩四帙がとどけられた。こんなのはもう君にでも読んでもらうよりあるまいとあの追分の病室で堀が顎《あご》で示したその大部の詩集であった。
 堀辰雄の名は同人雑誌『驢馬』の上で早くから私は承知していた。時たま教室で見かける瀟洒《しようしや》な耳の長い学生を私はひとりぎめに堀辰雄だろうと推量していたのはうまく当っていた。彼の耳の形からあれが「驢馬」だなといくぶん私はヒントを与えられていたかも知れない。堀は国文科の学生であったが鈴木信太郎先生のフランス象徴詩の講義などを聴きに来ているようであった。学年末の試験には堀の答案が抜群だったそうで、私たち仏文の同期生は鈴木さんから何だか皮肉めいたことをいわれて迷惑を蒙《こうむ》った。その頃『驢馬」では堀はまだ小説の方では十分自信的なスタートは切っていなかったようで、手ごろな質量の機智に富んだハイカラな詩などを書いていた。アポリネール、コクトオの名はまだ一般に普及しないじぶんのことで、堀のスタイルはたいそう新鮮に見えた。堀は何かのお手習のつもりでそういう彼の準備的余技に耽《ふけ》っていたのであろう。その期間は相当永びいたようである。そういうあんばいであったから、多分そのじぶんのことであろう、芥川さんなんかも「辰ちゃんコ」がずいぶんのんきそうに見えたのであろう、蔭ではいくぶん心配顔でいられたそうである、  これはずっと後になって、堀が独自な作風を開拓してずんずん境地を推進《おしすす》めているじぶんになって、私は一つの昔話としてそれを萩原朔太郎さん( この人もまた芥川室生両氏とともに『驢馬」周辺の先輩の]人だった)から聞かされた。当時敏感な堀にまわりの心配顔が気がかりでなかったわけはないから、彼は相当永びいた期間の間辛抱よく我慢をしたであろう。彼は彼自身に十分辛抱よく手間をかけたであろう。これは余事だがついでにいっておくと、萩原さんはそのじぶんになってからもまだ堀の作風には多く同感的ではなく、「辰ちゃんもいいが何しろ甘くって」という風な口吻でもってあの人の例の大ざっぱな結論に代えられるのが常であった。当時の私ども青年たちの間では、中野重治梶井基次郎の両君が格別萩原さんの好みにかなっていたのと対照して、例の大ざっぱな見きりのよさはともかく、それはそれなりにはっきり萩原さんの側では筋が通っていたであろう。堀はそういう具合に出現したのであった。堀の場所は、今日に於てよりも当時に於ていっそう狭隘《きようあい》な座席であった。その進路は困難な、或は頼りなげな小径《こみち》であった。もう一つついでにいうと、当時同じく新進作家であった武田麟太郎君なんかも、堀のある短い作品を実例に手ひどい痛罵《つうば》を加えていたのを、私はただ今もその実例とともに記憶している。それは今日になって顧みてみると、堀の全作品中にあって摸索的《もさくてき》な試みに属する部分で必ずしも上出来のものではなく、武田にも応分の理由はあったが、理由は概《おおむ》ね当座の常識に属する程度のもので、私はその折も武田に推服したわけではなかったが、それかといって私自身にも格別な見透し洞察があったわけでは決してなかった。猶《な》お疑うべし、私は萩原武田両説に対して、それぞれの時期にそれぞれ疑いをもった。そうして私自身にもある種の予感の外見識はなかったから、適宜判断を停止した。私はここに細説の暇をもたないから私の見聞に属する実例をすべて略に附するが、堀文学は当初|凡《およ》そそのような周囲の中に登場した。そうしてそのような周囲の反響形勢はその後も永く継続した。意外に永く継続した。これも敏感な堀自身に刻々に反映しなかったわけはないから、この際は堀を内的にいっそう強情にすることに役立ったであろうと今日考えられる。堀はもともと外柔内剛の案外の硬骨漢であったから、当時の外剛内柔的一般文壇のやたらな騒音はさまで彼を煩わさなかったであろう。そのうえ彼には彼なりの孤独癖があってともすれば閑地にぽつんと索居するたちであったから、  それは必ずしも年来の宿痾《しゆくあ》のせいばかりではなかったと察せられる、それもまた彼の耳にうるさい世間の雑音を遮ぎる助けとはなったであろう。彼の宿痾と索居癖とはこの際恰好の組合せであった。厳冬の信濃路はなまなか楽な栖処《すみか》ではないが、彼はそんな境地で自らを深くし強くするのにお眺《あつら》え向きの人物であったのは、大きに仕合せであった。
 文学の好悪、肌に合うと合わないとは、人それぞれに持前性分のあることであって、説得も取換えもきき難いことであるが、どういうものか堀文学には当初にも中頃にもその後にも私の見るところでは反撥者《はんぱつしや》が相当に多い、決して少くない。.私の推察でいうと、理由は堀文学の(その文章の)あまりに繊細な紆余《うよ》と、彼に於ける心理世界の女性的雰囲気の強度  とでもいうのと、まずその辺のところに関聯《かんれん》するらしい。先の萩原武田両説もまさにそれであった。判断停止をしておいた私にもその点でいくぶん同感のふしがないでもないのをここにいい添えておく。しかしながら堀文学の同感者賛成者ないしは崇拝者も同じく理由はあらかたその辺のところに関聯している如くである。私自身もその点では九分九厘後者に属することをここでもう一度いい添えておこう。但しこれでは要するに水掛論というもので、判定にも計量にもいっこうに近づかないのがもどかしい。そこでもう一度私の推察を加えていうと、堀の同感者は彼の詩に同感を覚える側で、その不同感者は彼のポエジイに不感無覚の側だということになりそうである。さてそれではそういう分岐点となるところの彼の「詩」とはどういう性質のものかということが問題となろう。たしかに問題はそこにあって解明がたいそう厄介である。
 小説から世間智社会智識人生理解ないしは時務的或は人道的当為の問題を抽《ひ》き出そうとする読者、そういう習慣傾向のしたたかな読者には、彼の小説は殆んど毒にも薬にもならない一箇手のこんだ読ものにすぎないであろう。彼の小説には以上の実利性現実性(を私は軽んずる気持は毛頭ない)は殆んど乏しいであろう。といって、私は堀の作品を対象をもたない肆《ほしいまま》な空想の所産というのでもまたない。たしかにメドはある一定の場所にあるのであって、堀の凝視はいつもその一点ある一定の世界に専念に注がれていたといっていい。その意味で彼の作風を世間が「内面的リアリズム」というのはまず正しい。但し、リアリズムの語はこの際少しく問に合わせの感があって、堀のはリアリズムというよりはもう少し意欲的構成的の性質を多分に帯びた一種組立式の技法が寧《むし》ろその作風の重点特色ではなかろうかしら。彼は日頃触目の即興的スケッチを断片的に書き溜《た》めておいて適宜それらの小道具を活用した風であったから、その部分では細密描写家の取柄をも借用した形であったが、それは彼の場合には常に枝葉末節事であって、且つその合の手の伏線的効果を重んじていた風が寧ろ著しい。彼には常に意欲的な狙いがあってそのために丹念な組立式を構成した。少しく誇張していえば、彼は工学技師のように構成した。何かの図面を引くような精密への趣味が彼にあったのは、彼が一高で理科に籍をおいた青年時代の訓練の賜《たま》ものであったかも知れない。その点同時代の梶井基次郎にも確かにそれがあったのと私には同軌に見える。彼らは丹念な計画者でまたその辛抱強い実行者であった。計画と実践、この両者の迫持《せりもち》が彼らを強くし確乎《かつこ》とさせまた彼らを静かに持続的に緊張させた。堀や梶井の純粋性には何かそういう性質の近代的な、科学的な(?)ものがあった。自堕落な私にはそれがとりわけ美しく見えた。
 構成的組立式といっても、堀の小説の筋立はいつもきまって素朴なくらい単純である。専門の小説屋さんからみれば乳臭くさえ見えたかも知れない。私のいう彼の意欲的構成、組立て、作の魂胆は、たいていの場合が幼稚な陥穽《かんせい》にすぎないところの所謂《いわゆる》小説的筋立の錯綜《さくそう》とは係わりがない。堀がそのために精魂を費した、意欲のメドは別にあった。彼はそれによって、人生に何かをつけたし、人生に奥ゆきをつけたすことによって風景をつけたし、情趣と品位と快適な風通しとをつけたすことによって地上に香料をふり撒《ま》くようなぐあいに何かをそこにつけたすところのもの、そういういわば贅沢品的《ぜいたくひんてき》な余分なつけたしを企てたところに、彼の意欲のメドはあった。私にはどうもそう思える、或はそうとしか考えられない。それを堀はあるがっちりとした形態と重量を備えた、彼の意欲の持続の証明を伴うところの作品でもって遂行しようとした。彼は簡単に歌うだけでは気がすまなかったからそうしたのであろう。けれどもある種の詩人がそれをするような風に彼も彼式のやり方でそれを試みたのである。世間智や人生理解は彼の作品ではずっと奥の方に押しこめられ或は片脇に押しやられて、そこには絵解きや描写の代りに、彼の詩的独断を透過した別世界が構成されている。彼の小説を心理小説と見なすのは正しいが、そこに展開する心理絵図は、人間、心理の探訪者観察者の整理報告からはほど遠くて、寧ろ彼の嗜好的《しこうてき》選択の抽出、えり好みの配置|按排《あんばい》といった風の組立式がここでもやはり優勢なものとして眼につくではないか。ここには形象にも内景にも、リアリズム原理は決して優勢ではない。堀の小説はたいそう主観的で、その成立要素はつまらぬ小道具の外|悉《ことこと》く彼の内部を、例の彼の意欲の手にかかっていく度も濾過《ろか》された、一種|形而上的《けいじじようてき》確かさと従ってまたその非在的性格とを帯びたものとして私には感得される。とりわけ作中の女性はいつの場合も私にはたしかな地上的存在としてはうけとり難いふしが多い。この堀文学の架空性に不同感の側には、だからそれなり相当の理由があるかも知れない  ということになると、またしても最初の水掛論に逆もどりしたことになるであろう。
 香料は食餌《しよくじ》ではない。私ならしかしそれあるがためにいっそう香ばしく室内を愛する、というに今はとどめておこう。
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