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三好達治「豊中時代など」

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amizako

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 全国中等学校野球大会は今年から全国高等学校野球大会と名称が改まることになった。ごの大会の歴史はもう三十年を越えることであろう。その第一回は阪急《はんきゆう》沿線の豊中《とよなか》グランドで行われた。
 阪急もまだ宝塚《たからづか》ゆき電車であったし、豊中のグラウンドなるものが、ただのっべらぼうの平地に、粗末な観覧席がホームの背後にあるだけの、田舎の中学校の校庭かなんぞのよグにぽうぽうと草のはえた、周囲はどこからということもなくそのまま畑につながっている、しごくそぼくなものであった。スコアボールドはセンターのずっと奥の方にあって、それがあの大礼帽《たいれいぼう》に美しいひげをたくわえた美男子の仁丹《じんたん》の看板になっていた。それだけがペンキの塗りたてでまっさらだったのが今も眼にのこっている。
 当節の中学生ははかまなどというものをはかないだろうが、私らの時分には外出にはいつも制帽をかぶってはかまをはいた、それがちょっと気どった気分であったのを今も忘れない。野球見物に出かけるのにもそういう服装で出かけた。そうして外野の方の、ずっと遠方の方に腰を下ろして、退屈すると草の中にねころんだりしながら三、五人の友人たちと肩をあつめてムダ話をしつつしごくのんびりと試合を見物した。
 第一回大会には何度か歩をはこんだが、記憶はもうおぼろげになってしまった。早稲田《わせだ》実業、神戸二中、和歌山中学、長野師範、秋田中学、京都二中などという出場校の名前だけがわずかに記憶にのこっている。優勝戦は秋田中学と京都二中であった。二中には藤田《ふじた》、国枝《くにえだ》などといううまい選手がいた。
 優勝戦はかっこうな接戦で十二回戦ぐらいの延長戦になったのではなかったかしら、つい先ごろまでは記憶にあったのが、ただ今ではもうそんなことまですぐには思い起しかねる始末だ。勝負はたしか二対一かで京都二中の方が勝った。この時は三塁に近いスタンドの人ごみにまぎれて、途中でちょっとにわか雨があり、タイムになったのではなかったかしら、そんな記憶もあるが、私は終始熱心に試合を見物したのをおぼえている。
 豊中、鳴尾《なるお》、甲子園と、球場の移るにつれて、規模も設備も観客席のふんい気も「足とびの進歩をして、もう以前の光景などは記憶の底にしじまってゆくばかりで、かれこれ思い合せて見ると、それこそ隔世の感がある。けれども、野球そのものはその間にそれほど進歩をしたであろうか。素人の私にはたしかなことはいえないが、第一回の京都二中、秋田中学、第二回の慶応《けいおう》普通部、市岡《いちおか》中学、優勝を争ったそれらのチームは今日の甲子園に出しても、優勝候補の実力は備えていそうに思われる。
 試合がすんでグラウンドを出ると、石の高い田舎路で、路《みち》ばたにはハス芋《いも》の葉が風にそよぎ、あぜには枝豆がみのっていた。そんな中をぶらぶら停留所まで帰ってくる。緊張のとけた後の暮色の中で覚える気分は、なかなか野趣があって、いま思い出してみてもなつかしい。
 その時分のことを思いかえしてみると、三十余年という歳月は短くないが、その間に年を追ってにわかにさかんになっていった野球の普及力は、これを社会現象として考えてみても、他にちょっと比類がない。映画の流行と大衆化が、ようやくこれと比較しうる唯一《ゆいいつ》のものであろうか。日本はこの二つのもので、戦争以前から、少くとも世相の表面が急激にアメリカ化されつつあったといえるであろう。戦後はもとより、その勢いは底止《ていし》するところなく末ひろがりとひろがってゆくに違いない。そうして世相の底流では、もう一つ、マルキシズム(ーひろくいって社会主義思想)が、これは前二者とは全く出発も質もことにしながら、しかしその普遍性の面積では前二者に劣らず、これも今後]層持続的に普及してゆくに違いない。これら三者は、ただ今のところさし当って互《たがい》に何の関係もないが、これら三者がめいめいにおしのけてゆくところのものには、しずかに見るとあるいはいくらか共通した何ものかがあるかもしれない。

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