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河上肇「古今洞随筆」

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amizako

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 今歳正月宿約を果さんがため一文を本誌に寄せし折、それは余りの短文ゆえ他日更に一文を草してその責を補うべしと約束してこのかた、しきりにその約束の履行を催促されているに拘《かかわ》らず、今日に至るもなお之を果す能《あた》わず、已むなくテエブルに向い、さしあたり思いつくままのことを書きつけて、形ばかりの責を塞ぐ。

 私が今|倚《よ》りかかっているテエブルは、近頃京大経済学部の学生諸君から贈られたものである。それには「贈恩師河上肇先生、経済学部同好会々員一同」と書きつけてある。私は近頃大学教授の椅子を失ったが、その代りに、学生諸君から斯《か》かるテエブルを贈られたのである。私は悦《よろこ》んでこれを受け、今後私がなお生きていて、何等かのものを書くかぎり、永くこれを使用しようと思っている。私は従来、私宅では坐って執に向い、汰学の研究室では椅子してテエブルに向っていたのだが、大学へ出なくなって毎日うちにばかりいるとなると、時折テエブルが欲しくなっていたのである。
 私は極めて保存力に乏しい人間であって、手紙であろうと、書物であろうと、器旦ハであろうと、差し当り不用のものは、何等か整理の機会ある毎に手離してしまっている。私は京都に来て丁度二十年になるが、東京にいたころ使っていた器具では、只今のところ、ただ机一つを残しているのみである。それは、私が大学を卒業して間もないころ、神田の古道具屋で求めたもので、もとはテエブルであったのを、私のからだにあわせて脚を切り机となしたものである。私は、この過去四分の一世紀以上も使いなれた机を、書斎の南の窓ぎわに引き寄せ、新しく貰ったテエブルを、応接間の東の窓ぎわに据え、気の向くままに、今では太陽を避けて涼風を求めつつ、坐ったり椅子したりしている。
 大学の研究室に置いていた本を、自宅に持って帰らねばならなくなったので、その置き場所に困った。例によって、差し当り不用なものは、この際すべて売り払ってしまおうかとも考えたが、齢《とし》を取ったせいでもあろうか、多年座右に置いていたものと別れるのが何んとなく心細く思えたので、一生のうち再び見る気遣もなさそうな本まで、すべて自宅に持ち帰った。私は度々蔵書を売り払ったので、只今持っているものは皆な比較的に新らしいものばかりだが、そのうちに一二の例外がある。その一つは、ロッシャアの『国民経済学大系」である。それは、私がその扉に書きつけておいたので分かるが、明治三十一年十月八日に五円で買ったものである。私は過去のことは殆ど何も彼も忘れているが、この書物を始めて手に入れた折のことは能《よ》く覚えている。
 明治三十一年十月といえば、私が田舎から東京へ出て、大学へ入学してから一と月目のことである。震災後はどうなっているか知らぬが、当時は、お茶の水橋を渡って真直ぐに駿河台におりると、やや狭まくなった路次があった。そこを抜けると、東明館とかいう勧工場があったが、その附近の古本屋で私は前記のロッシャアを見つけたのである。私がそれを五円で買うたことは、その扉に書きつけてあるから今でも分かる。なお私はその買うたときのことを今でもよく覚えている。私がその価を訊《き》いたとき、古本屋の人が何と答えたか忘れているが、私がそれを値切ると相手がすぐそれにまけたということ、しかし私は現金を持ち合わせていなかったので明日取りに来ると言ったこと、そしたら古本屋の人々が顔を見合せてクスと笑ったこと、等々を今でもはっきり記憶している。本屋は、あまり簡単にまけたので、私が高く買い損ったと思って逃げを張るのだ、と判断したらしく思えた。私はそのときそれを非常に不愉快に感じたので、忘れっぽい私でも、そのときのことを今もなおよく記憶しているのである。私は翌日五円を持って早速それを買いに行った。
 私は金のしまりの全くできない人間だ。だから外国留学中は、文部省から半ヶ年分の学資を一纏《ひとまと》めに送ってくるために、弱ったものだ。月々送って貰えば大した誤算もしないが、何ヶ月分かが纏まって手許《てもと》にあると、先きのことは考えずに、必要に応じて使ってしまうので、後になって困ったのである。先きで困ることは分かっていても、さしあたり手許に金があれば、先きはまたどうにかなろうという風に考えて、当座の必要に費してしまうのが私の流儀だ。私は留学するときニッケルの時計を持っていたが、それが狂ったので時計屋へ持って行って見ると、修繕するよりも新しく買った方が得であった。それでベルリンにいたとき、向う十年か保証つきの時計を買うたが、間もなく世界大戦の勃発《ぼつばつ》のために、私はロンドンへ逃げ落ちた。ロンドンへ落ちついて見ると、新調の時計ははや狂いを生じたが、向う十年かの保証がついていても、それはドイツ人の保証だから何の役にも立たぬ。ロンドンの時計屋では、これはドイツ製で機械が違うから当地では直らないという。それで私は腹を立てて、ロンドンで有名な時計屋へ行って、銀側の最上のものをくれうと言って、百円出して銀時計を買うた。いつまでもつかと訊いたら、あなたの一生はもちますと店の人が答えたが、それから後私はそれをテエブルから落したことも一二回あるに拘らず、果して少しも狂ったことはない。それはとにかく、当時私は文部省から貰った半ヶ年分の学資を甚だしく使い越しているに拘らず、百円の時計を奮発したので、同僚のT君は私の英断(?)に驚かれた。とにかくそういう人間だから、私は大学時代にも、よく金に窮したものだ。
 それで先きに述べたロッシャアの経済学も、大学を卒業する前に、はや古本屋へ売ってしまった。ところが大学を卒業した翌年(明治三十六年)私は神田の淡路町に小さな家を構えていたが、先きに売ったロッシャアが九段下の大きな古本屋に出ているのを見て、私はシェーンベルヒの経済|叢書《そうしよ》と共に買い取り、馬をつれてうちまで帰った。しかるにその後明治三十八年の晩秋、  一切の教職を棄てて無我苑に入ったころ、  他の一切の蔵書とともに、再びロッシャアを売ってしまった。ところが明治三十九年六月二十三日に、私は三たび同じ書物を古本屋で見つけて、それを買い戻した。そんな因縁があるのでこのロッシャアのみは今もなお私の蔵書の一つとなっているのだが、近年『資本論』を繙《ひもと》いているとこのロッシャア先生、よく馬鹿なことを言うので、マルクスにより時折脚註のなかで、Herr Prof. Wilhelm Roscher(教授ウィルへルム・ロッシャア氏)が云々《うんぬん》とひやかされているのである。  この教授ウィルヘルム・ロッシャアの著書は、私が経済学を習い始めたときに買うたものであり、しかも買うては売り、買うては売りして、今ではちょっと棄てにくい因縁をもっているものだがと思えば、私はおかしくなる。
 ロッシャアの原論の初版は一八五四年に出ている。私が持っているのは一八八八年刊行の第十九版本で、私はそれを刊行後十年目の一八九八年(明治三十一年)に始めて買うたのである。マルクスの『資本論』の第一版は一八六七年(慶応三年)に公けにされ、その第二版は一八七三年(明治六年)に公けにされた。そしてロシアでは、原本の第二版が発行される前年(明治五年)の春に、その第一版の「見事な」翻訳がペテルスブルグで公けにされた。『資本論」第二版へのマルクスの跋文《ばつぶん》を見ると、そのロシア訳の「初版三千部が今やすでに殆ど売りきれとなっている」と書いてある。なおペテルスブルグの『ヴェーストニック・エヴロープイ」の一八七二年(明治五年)五月号の誌上には、「資本論の方法をのみ取扱った一論文」が現われ、そしてマルクスをして、「この筆者は、彼れがマルクスの真の方法と呼ぶところのものを、かくも見事に叙述し、そしてこの方法に関する私自身の応用を問題とするかぎりにおいては、かくも好意的に叙述しているのであるが、ここに彼れの叙述せるものは弁証的方法以外の何物であろうそ」と言わしめている。だが、それから二十何年も経っている明治三十一年に、私は大学へはいってもマルクスの学説を聴くことができなかったのは勿論、その名前をすら聴くことができなかった。そしてマルクスによって夙くに子供のように扱われているロッシャアを一番の学者の如くに思ったのである。ロッシャアに比べると、マルクスが問題となったのは、半世紀もおくれている。マルクスの弁証法については、明治五年に『ヴェーストニック・エヴロープイ』の筆者が理解し得て居たほどのものを、私の如きはつい近年に知りえたのである。このごろ私が大学生になるのであったら、大学の先生は何んと言おうとも、私は第一に『資本論」を買うたに相違ないのだが、明治三十一年代にはそんなことは思いもそめなかった。かくて現在の私にとっては学問上極めて縁遠いロッシャアの原論が、最も因縁多き蔵書の一つとなっているのである。
 私が東京にいたころ持っていた書物で、いまだに残っているものが今一冊ある。それは島崎藤村氏の『若菜集」で、明治三十二年四月二十二日発行の第四版本である。すでに東京にいたころ殆ど一冊も残さず蔵書を手離したことがあるに拘《かかわ》らず、この書物のみは、その難を免れて私と共に京都に移り、今もなお私の蔵書の一つとなっている。それは私が大学生時代に愛誦《あいしよう》したものである。私はそんな関係から、嘗《かつ》てフランス留学の際、下宿を決めるに迷うた末、当時パリーにいられた同氏をいきなり尋ねて、同氏の下宿の向側に宿を世話して貰ったことがある。私は同氏より早く帰朝していたので、同氏が帰朝されたときは、京都に迎えて洛東《らくとう》の瓢亭で会食したこともある。そんな因《ちな》みで、同氏から手紙を貰ったりなどしたことがあるが、その手紙が今度屏風《びようぶ》に張られた。私は序《ついで》にそのことを書いておこう。
 私は大学生時代に日記をつけたことがあるが、それは夙くに棄ててしまった。それ以来私は日記というものをつけなかったが、一昨年の正月に、某所から立派な特製の日記帳を貰ったので、それに釣られて日記をつけ始めた。ところが謂わゆる学生事件の関係で、正月の十五日に家宅捜索を受けた。それ以来、私は再び日記を断念した。家宅捜索を受けたとき、会計簿の提出を求められたが、私のうちでは年久しくそんなものを持っていないのである。要るものはどうせ要るのであり、費《つか》った金をつけておいたからとて、その金が再び戻ってくるわけはないのだから、私は家内に会計の記帳を命じたことがない。書翰《しよかん》類も捜索されたが、私の著書の読者から来た若干のものを除いては、みな新らしいものばかりで、古いものは一つもなかった。その筋の役人に向っては、事実ありのままに、私のうちでは手紙を見ると、用が済み次第、片端から反古籠《ほごかご》へ棄てていますのでと、答えた。だが、大学の研究室には、古い手紙が数通保存してあった。それは犯罪捜査の役に立つようなものでも何んでもない。大概は文学者から来たもので、字が奇麗なために棄てにくかったのである。殆ど半世紀にわたる私の友人櫛田民蔵君からは今日まプ、何百通かの手紙を貰ったことであろうが、字が乱暴な上に、消したり書き添えたりしてあるから、用が済むと引き裂いて棄てるに躊躇《ちゆうちよ》せずに済んだ。二三の文学者のは、そうは行かなかった。文字が芸術的である上に、文筆がしゃれていた。半ばは斯《か》かる理由のため取っておいたものに、故有島武郎氏のがあり、斎藤吊花氏のがあり、また長谷川如是閑氏のがあり、(同氏はいつもペンの走り書きだが、私の保存したものは珍らしく筆で立派に書いてあった)、また島崎藤村氏のがあった。
 大学の研究室を片づけるときに、そんなものが一緒に出た。これは私が宅へ持って帰っても、いずれ無くするだろうと思ったので、当日手伝いに来てくれたY君に進呈した。その時、私がドイツ留学中に『大阪朝日』へ寄せた通信文の原稿も出た。調べて見ると、『大阪朝日」に載ったものー後に『祖国を顧みて』に収めたもの  には、この通信文の一部分が削られてある。それを気にして、多分私が、帰朝後原稿の返却を求めたものであろう。しかも『祖国を顧みて』を編纂《へんさん》するときには、そのことを忘れていたのであろう。これも一緒にY君に進呈した。ところが同君はそれらのものを一枚の屏風に張られた。出来上がったものを見ると、私にとっては、なかなか面白い屏風になっている。私はいつかF君からドイツ土産としてマルクスとエンゲルスの手紙を貰ったときに、こんなものは私が貰うよりも大学へ寄附して下さいと言って、京都大学へF君の名で寄附して貰ったが、今では自分が貰っておけば可《よ》かったと思っている。藤村氏等の手紙も立派な屏風になったところを見ると、やはり自分で屏風にすれば可かったと思っている。

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