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神西清「散文の運命」

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 一つの幕間《まくあい》が予感される。つよい予感である。それは殆ど現実感を帯びている。ひょっとすると現実以上の必然であるのかも知れない。
 ここ半年ほどの文芸雑誌を散読して(今わたしは、あと数日で終戦一周年を迎えようという日に、これを書いているのだが)、その印象を、荒野に呼ばわる人の声がある  などという文句で言いあらわしたら、もとより大袈裟《おおげさ》のきらいがあるだろう。とはいえ、確かにそんな声は響いている。その声はおもに外国文学の畠からひびいてくる。その声はかなり気ぜわしく、わが小説の伝統に訣別《けつべつ》せよと叫んでいる。わびやさびの境地を振り棄てて、トルストイやスタンダールの門に帰向せよと叫んでいる。
 その声は誠実と熱意とにみちて、そのため些《いささ》か急《せ》きこみ気味ではあるが、為にする政治意識の汚染などは少しもみとめられない。まさしく新たな文学十字軍が、発航の準備にかかろうとして、その港へ人びとを招いているのだ。その呼び声の清純と熱誠とは、心ある若い世代を揺り動かさずには措《お》くまいと思われる。
 実をいうと、われわれ年配の者にとって、この叫びは初めて耳にする声ではない。そればかりか、裏切られた希望のにがい後味を思い出させさえもする。だが呼びかけられているのは、われわれ世代の者ではないのだ。
 今のところ、その呼び声に応じて起ちあがる潑剌《はつらつ》たる気配は、まだ全く見えないようである。むしろ深い沈黙の応答があるばかりだ。それはまだ気運というものをすら形成せず、たかだか気運への予兆であるにすぎない。それが気運になり、やがて風潮にまで育つためにすら、まだまだ長い時間がかかるだろう。しかもその上、エルサレムは遠いものと昔から相場がきまっている。トルストイやスタンダールが一世紀に一人出るか出ないかであることも、周知のとおりである。のみならず、明治文学の十字軍  あの自然主義運動が、どういう帰結をたどったかということも、決して古い記憶ではない。いま響いている預言者たちの声も、楽観よりは寧《むし》ろ懐疑をそそり立てる方が、一応は目にみえた効果であるかも知れない。
 懐疑や逡巡《しゆんじゆん》は長いほどいい、深いほどいい。情熱が意志にまで鍛えあげられるには、水につけられて焼入れされることが必要だ。
 では、この予感される幕間、この聖なる間歇《かんけつ》の一ときに、われわれはわれわれの淋しさをまぎらわすため、何か希望のことばを語ろう。新たな、さわやかな成熟を待つ、その心構えをしよう。その期待の祭壇に、分に応じた捧げ物をしよう。……
*
 小説は散文で書かれる。当り前なことである。だがこの当り前のことを、われわれは本当に知っているだろうか。散文ということ、散文の実体というものについて、考えてみたことがあるだろうか。
 思いうかぶままに一つ二つ例をひく。フランスの現代作家シャルドンヌに、次のような言葉がある。「愛についての或る観念は、洗練された文明の証拠だ。それは名誉観や、美しい散文と同じく。」……ここに言われているような意味で、われわれは曾《かつ》て散文というものを考えたことがあったであろうか。
 同じく現代フランスの批評家アンドレ・ルソーに、次のような不思議な言葉がある。
「フランスの散文  この、詩にとっての見忘れられたる源泉。」……つまり、詩が恩知らずにも自分の源泉であることを忘れているところの散文、というほどの意味だが、このような高さで散文というものを考えたことが、曾《かつ》てわれわれにはあるだろうか。
 美しい散文ということ、詩の源泉でさえあると言われる散文というもの、これは一たい何者だろうか。散文の美しさではない。美しい散文という、つきつめた、本質の問題である。
 残念ながらわれわれは、そのような反省をめぐらす余裕が全くなかったと白状しなければならない。散文は酷使に酷使を重ねられるだけで、その本質を哲学される機会などはついぞなかったのである。これは一面から言うとわれわれの文化の若さであるが、そのような反省のない、しかも無際限な酷使に堪えて来たわれわれの散文というものも、思えば奇妙なしろものであった。これまた、現代口語の若さであるかも知れない。若さといえば人聞きはいいが、常に少年時代にとどまりつつ、たえて成熟することのないその若さは、何かしら良識をたち超えた性質のものである。この二つのモーメント、作用する若さと作用される若さとが、互いにからまり合って、今日のわが散文のおどろくべき混乱と無性格とを生みなした。この相互関係は、たとえてみれば年じゅう下請仕事にあくせくと追い廻されている街の鍛冶屋《かじや》の主人と、そこに働く白痴の少年工の姿に似ている。余裕のない店の現状は、非人間的な酷使を必須《ひつす》とする。ところで少年工の白痴的な頑健さは、どこまでもその酷使に堪えてゆく。奇怪な調和のうえに成り立った凄惨《せいさん》な光景である。
 そもそも散文などと洒落《しや》れたことを考える前に、今日の口語というものの正体をまず眺めて、さて観念の眼をとじるか、絶望のあまり自棄になるか、そのどちらかを選ばねばならぬというのが、どうやらわれわれに似つかわしいことのようだ。
 語と語のあいだに粘着力viscpsityというものがなく、砂岩のように脆《もろ》く、弾性elasticityや柔軟性flexibilityを欠いて、心理の迂曲《うきよく》を追うのに徹底的に力ない現代口語。おなじく粘着力の欠けているところから、語の正常の位置への定着が妨げられがちで、落着きがなく浮動しがちで、そのため論理的な脈絡をすら確保しがたいような現代口語。音質の粗野と韻律の貧弱さとにおいておそらく世界無比であり、詩語としての資格を欠くのはもとより、雄弁にも朗読にも全く適せず、ひいては現代日本人の声量の乏しさをさえ決定しているのではないかと疑われるほどの現代口語。こうした根本的な欠陥があるうえに、同音異義語の氾濫《はんらん》は口から耳への伝達を現にすこぶる困難にしているばかりでなく、今後も、もし現在の造語法が何らかの奇跡によって忽然《こつぜん》として改まらぬ限りは、整理どころか、逆に日々の必要に押されて、同音異義語が刻一刻と増大の一路をたどることは必至であり、しかも、この趨勢《すうせい》を一分間でも堰《せ》きとめようとする試みは、直ちに文化の窒息を意味せずにはいないような現代口語。……こう考えてくると、事はむしろ散文以前であり、さらに詩歌以前ですらもあるのである。
 このような事態が、どこをどう辿《たど》ってわれわれの眼前に現われたのか。それさえも、その日暮しのわれわれは、ゆっくり考えてみる暇がなかった。言語の無性格もここまで徹底すれば、気品も尊厳もありはしない、その存在理由が酷使に堪えるということだけにあるような、ただもうお手軽一方の小道具で、われわれはその便利さについ甘えきって、急場急場をしのいで来たにすぎない。つまるところ、現代日本文化一般の性格を、わが口語も亦むざんにも分け持っているのに他ならないのである。
*
その昔わが散文も、粘着力に富み、音楽性に豊かな、美しい時代があった。わたしはその最高潮を平安の初中期に見いだし、あの頃の小説作品を、言いようのない懐かしさと、不思議な驚きの念をもって、回顧するのである。竹取にはじまり源氏に終る一聯《いちれん》の仮名がき物語がそれである。竹取といい伊勢といい源氏といい、そのあいだに文体は次第に古拙から簡潔へ、簡潔から複雑|優婉《ゆうえん》へと移りゆきながら、しかもその柔軟性と弾力とをほしいままにした散文の姿はどうであろう。そこには観念と言語のあいだの歎賞すべき照応性がある。心像とこれを盛る器とのあいだの、しっくりとめでたい調和がある。しかもそれが、律語の力をほとんど借りない散文の純潔性を守りながら行われているのだ。おどろくべき事実である。
 しかし源氏をすぎる頃から、次第にわが散文の堕落と衰弱の歴史がはじまる。思えば無名草子の筆者が、源氏を第一に推し、今ものがたりに対して冷淡であるのは、さすがにその達見を首肯させるものであった。この草子は文体論をふくんではいないが、物語の妙味も人聞批評の興趣も、散文の衰頽《すいたい》とともに急速に失せ弱まって行ったことは、何といっても目に見えた事実だからである。
 その散文の衰頽をうながす因をなしたものとしては、わたしのひそかに想像するところでは二つを数えることができるようだ。一つは漢文脈からする不断の、そして刻々に烈《はげ》しくなりまさる攻勢であり、もう一つは七五を主調とする律語の甚だ根づよい誘惑であった。この挟み打ちに逢って、王朝初中期の天才たちの打ち建てたものは、ほとんど一挙にして地に委《まか》してしまった。そこにはさながら宿命的なものすら感じられる。だが果してそうだろうか。
 漢文というものは、橋本進吉博士の説によると、言語の上からは決して外国文ではなく、日本語の文と見るべきだという話だ。もちろん初めのうちは純然たる外国文であった筈だが、それがどのようにして日本語の血肉の一部になり了《おお》せて行ったか、その経路をたどってみることは随分と興味の多いことにちがいない。これを、ラテン語とフランス語などとの関係と比較研究してくれる学者が出たら、色々の意味から今日の世を益することが多いのではあるまいか。それは例えば、源信《げんしん》の往生要集が漢文脈や漢語(主に仏教術語としてだが)のわが散文への流入摂取のうえに演じた役割は、おそらく空前絶後であったらしいが、これが一方には正法眼蔵《しようぽうげんぞう》などの純然たる漢文調へ、一方には歎異抄などの和文脈へと、二つの極へ分裂しながら、その中間にとりどりのニュアンスを帯びた無数の混淆物《こんこうぶつ》を生んで行った経路である。奈良仏教のように、いつまでも漢文を棒読みに音読して行ったなら、わが国語は全くちがった相貌を帯びるに至っただろうと言われるが、この運命の岐《わか》れについて、その成行きや功罪について、学者の想像力を豊かに働かせる人が現われたら、さぞ有難いことだと思う。
 ともあれ、和漢混淆体はかなり急調子な発達をつづけて、保元平治、殊には平家物語に及んで、ついに絶頂をきわめた。これらの軍記物に至って王朝の女性文体は、男性的な四六駢儷《しろくべんれい》のスタイルと、みごとに結婚を遂げたのである。それは如何にも美しい事実ではあった。しかし同時にそれは、わが散文の韻文(正しくは律語というべきだそうだが)への降服を意味するものにも違いなかった。漢語のおびただしい導入は、おのずからわが散文の粘着力を奪い、剛性を増す一方にこれを脆弱《ぜいじやく》ならしめる。ある種の合金のプロセスに似た現象がそこに起るのである。律語の採用は、明かにこの脆《もろ》さを防いで靭性《じんせい》を増すための、頗《すこぶ》る聡明《そうめい》な方便であった。しかもまた、耳なれぬ漢語の続出によって庶民の理解からようやくにして遠ざかろうとする文章に調子を与え、この調子によって庶民の耳に媚《こ》びようとする、これはまた頗る賢明な方便でもあった。こうして散文の堕落は、漢語の導入に伴って起らなければならぬ必然の勢いであったわけだ。単なる形式の模倣による詩文の混淆《こんこう》ではなくて、そうした必然に応ずるものであったればこそ、幼稚で未来性の全くない七五の音律と対偶法とは、これ以来いわゆる語り物の根づよい伝統を形づくって、永くわが散文を呪縛《じゆばく》し、内在律の自由な伸長をさまたげ、ひいては思考をもいたく形式化するに至ったのである。この伝統は次第に汚濁|頽廃《たいはい》しつつ、その末は遥かに江戸時代の読本に及んでいる。西鶴のような偉大な散文家ですら、この影響の外にはないように思われる。……
 わたしは何も、身のほど知らずな国文学回顧に、いたずらに耽《ふけ》っているのではない。もし仮にわたしの以上のような想像が、その粗筋だけにせよ当っているとするなら、明治期における文語から口語への移行、いわゆる言文一致化は、とりも直さず散文そのものの浄化運動であるべき筈であった。それは律語からの解放であると同時に、更に遡《さかのぼ》ってこの律語による呪縛を奥から支えているところの漢文脈、ひいては漢語そのものへの反省を伴うものでなければならぬ筈であった。
 よその国の同じような経験から、一つ引用をする。  子供はまずガラガラを喜ぶが、ついでコンパスを喜ぶようになる。韻文は耳に諂《へつら》うものだから、最も凡庸な韻文でも、なんとか我慢ができる。ところが散文体となると、言語の文法的知識を必要とするばかりでなく、理性の文法をも要求する。それは節奏の変化や、句切りの仕上げの多様さを要求して、反覆をゆるさない。すなわち韻文作家の実に多いのに反して、散文作家の殆どいない所以である。……誰でも詩が書けるようになって以来、人は詩に耳を傾けなくなった。そこここに聞えていた呟きが、終に一つに併《あ》わさって、おしなべての叫喚になった。
『散文を呉れ! 散文を! 水を、生水《きみず》を。」」
 この言葉は、ベストゥージェフ(マルリンスキイ)というロシヤの作家が、前世紀の二五年頃に書いたものである。彼はプーシキンの友人で、十二月党の乱に連坐してシベリヤに流され、ついでコーカサスに移されて、そこで浪漫的な小説を幾つか書いた。その散文は未だ律動的な装飾的な要素を失いきったものではなく、つまり生水になり切ったものではなかったのだが、それにしても右に見られるような用意ぶかい省察にもとついて、自覚的に行われたのである。同じ頃ヴャーゼムスキー公爵は、バンジャマン・コンスタンの『アドルフ』の露訳をした。プーシキンはこの友人の練達にして生彩ある筆が、コンスタンの「調和あり社交的で、屡々《しばしば》霊感にみちた形而上的言語」を、如何に征服してゆくかを注視した。ロシヤ散文の朝明けにあたって、役者も揃い、散文というものの本質への反省も、まず十分に深かったことが察せられる。にもかかわらず、なお散文の樹立ということは一朝一タの業ではなかった。レールモントフの散文はもとより、ゴーゴリの作品にしても、大時代な韻律美から全く脱却しきったものではなかったのである。これら一群の若い詩人たちの胎に孕《はら》まれた美しい思想が、ただしく次代の偉大な散文作家らによって継承されたところに、ロシヤ十九世紀文学の栄光への紛《まぎ》れもない鍵の一つがあった。
 わたしはこれを、明治のわが国語改革の運動に思い合わせてみる。あの頃は二葉亭もいた、逍遥もいた、鴎外も漱石もいた。役者が揃っていなかったのではない。この四人だけでも、みんな西洋の近代文学にじかに道をたずねた人々であった。そこで散文というものがどのように省察されていたか。それとも何かほかの事に気をとられて、そこまでは手が廻り兼ねたのか。くわしい事情は明治文学の研究者に聞いてみないと分らないが、結果から見ればどうやら失敗であったらしい。現にわれわれの手に伝えられている国語の蕪雑《ぶざつ》なすがたを見て、そう言うのである。
*
 今から十二年ほど前、わが文壇ではアランの散文論が流行を極めたことがあった。そのときジャーナリズムの上で、どれほど華々しい或いは深遠な論議が闘かわされたか、無精なわたしは切抜も持たず今ではあらかた忘れてしまったが、折角のその気運もさして著しい養分を醸し出すには至らなかったことは、やはり今日のわが散文の有様を見れば察しのつくことである。
 由来わが日本人という人種は、神や共産主義や霊魂や情念や幸福や……その他凡百の主題について、いとも尊げに論議することを好む。それらの観念をはるか現実の上方に安置して、これをいつき祭ることに専らで、それを現実の内に置くことを冒濱《ぼうとく》と感じる。思考の日常化ということを極度に忌み嫌う。あの時の論議にしても同様に、何か散文というものを空に考えうかべ、そのめぐりに思考を旋転せしめることを楽しんだのみで、一体アランがそれを以て考え、それについて考えていたところのフランスの散文が果してどういうものであるか、アランが最も純粋な散文と推称しているモンテーニュやスタンダールの散文が果してどういうものであるか、そして桑原武夫氏がそれに依って訳述し、自分がそれを以て読んでいる日本の散文が果してどういうものであるか、などということはそもそもの末の末、形而下《けいじか》の形而下として、一顧だも与えなかったのである。こうして思考は、良いにせよ悪いにせよわれわれの肉体に微かな痕跡《こんせき》すらも残さず、雲のかなたへ消えてしまったのだ。
 尤《もつと》もその後になって、散文精神ということが一しきり喧伝《けんでん》されたことがあった。散文論などという名目よりも一段と見ばえのする高尚な命題であるが、その内容は何かというと、もともと抒情性の否定、叙事性の強調ということであったらしい。というと一応の聞えはいいが、その実体は更に一歩をすすめて、日常市井の瑣末事《さまつじ》、すなわち俗にいう「散文的」なものごとを、がらがらと書きまくってゆく謂《い》わゆる「逞《たく》ましい」文学の宣伝で、まあ言ってみれば、娼婦《しようふ》の不貞腐《ふてくさ》れに類するものにまで転化していたらしい。
 穴ぼこだらけの粗雑な道路は、大きな車の遠い行動には適しない。わが散文は、ひょっとすると所謂《いわゆる》この「散文精神」ぐらいを駆るのに最もふさわしい道路であるのかも知れない。散文は表現の道具ではない。思考の器でさえもない。それは思考の道であり、つまりは思考そのものなのだ。
*
 折角の幕間《まくあい》である。尤もわたしのような不熱心な観客にとっては、年じゅう幕間みたいなものだが、まあ今のうちに少し勉強して置こうと思って、桑原武夫氏訳のアラン『芸術論集』をひらいて、散文論のところを読み返してみると、いつもながらの疑念が窓外の雲の峯《みね》のように、あとからあとから頭をもたげるのを禁じ得ない。……
 ──真の散文は眼で読まれなければならない。それは諧調《かいちよう》を排除する。この点において、散文は同時に詩と雄弁とに対立する。
 ──この声に出さずに眼で読むということは些細《ささい》な変化ではない。これは真の教養の極めて顕著な表徴なのだ。
 ──散文の秘訣《ひけつ》の一つは、語の結びつきと観念の綿密な吟味との間の思いもうけぬ応和、ただそれのみによって喜ばすことにある。
 ──かくて詩と雄弁は寧《むし》ろ音楽に類し、散文は寧ろ問われねば語らぬ建築、彫刻、絵画に類するものである。
 ──真の思想が決して強制せぬように、真の散文は惹《ひ》きつけ、また捉えることを拒む。
 ──静止の芸術によって十分訓練されていない限り、傍観者的精神が容易に詩から散文へ移れないのはこの故である。
 詩と散文を対照的に論じた章のなかから、骨髄ともいうべき思想を抜き出して、さてこう並べて眺めなおす。三つ目を中軸に右と左へ展開して、そこには散文の国フランスの最高の叡智《えいち》によって彫られた純粋散文に関する観念像の破片が、おもむろに像の全容を想像のうちに再び結ばせる。時の手によって純粋にせられた古い寺で、すぐれた仏像を観ての帰り、白い築地《ついじ》の崩れながらつづいている静かな道を歩きながら、記憶の残像をひそかにつなぎ合わせるのにも似た、読書のあとの楽しい一ときである。
 しかしやがて反省がはじまる。何かいらだつものが心の隅で、この美をわがものとすることが果して可能であろうかと問いはじめる。仮に可能として、そのためどのような準備が必要であろうかと問いはじめる。眼はおのずから、ことばの節々にあらためて凝らされる。
 まず「眼で読む」ということである。目読といい黙読といい、これは却《かえ》ってわれわれの得意の壇場である。明治の美文調ならいざしらず、われわれは今日われわれの小説に、音読の誘惑を感じることは決してない。「諧調《かいちよう》を排除する」という。江戸時代の読本まがいの文体を、今さら愛用する作家もあるまいから、排除さるべき諧調の一片だにないことをわれわれは寧《むし》ろ悲しむのみである。この限りにおいて、われわれは「真の教養の表徴」を立派に持っているというものだ。……
 ところでアランのいう真の散文とは、次のような約束を具《そな》えたものであった。まず、「対象と全然類似のない形象を以てする」表音文字によって綴られた散文であること。且つ、肉筆は「続け字や略字のために、その行間になお何か身振り的なものと舞踏的なものとを残す」がゆえに、印刷されたものたるべきこと。且つ、「語が音声によって模倣することは、常に趣味に対する罪」であるから、擬声語の使用にあたっては慎重たるべきこと。且つ、思想は「論理が普遍文法によって組織するところの諸関係」を意味するものであるから、語の排列もそれに則《のつと》って、転倒などによる強調を避くべきこと、等々。  アランの考察の対象になっているのは、およそこのような散文なのであった。
 そこで二三の注目すべき差異がわれわれの意識にのぼる。
 第一は言うまでもなく、わが散文が象形文字を交えて綴られることによって初めて適度な理解の速度を保障されるものであり、この象形文字というものが目読に際して、よしんば最も普通の体裁で印刷されていたとしても、観念よりも先に形象や色彩を想起せしめがちな「印象のつよい夾雑物《きようざつぶつ》」をなしていること。しかも、その文字自体の喚起する形や色の表象(乃至《ないし》は、その文字が他の熟字において帯びていた形、色、匂いなどの記憶)が、めざされた観念とは全く関わりのない、屡々《しばしば》却《かえ》って邪魔にさえなる聯想《れんそう》を伴う場合が極めて多いこと。  これらの点については特に説明を要しない。
 第二にわが現代国語は、殊さら「諧調の排除」を必要としないほどの粗野な音声(促音、拗音《ようおん》など)の、甚だ脆弱《ぜいじやく》な結びつきから成っているに反して、アランが心裡《しんり》に浮べつつ語っているはずの西欧語(殊にフランス語)が、元来音声に豊かに律動に富み、滑らかに磨きあげられ、しかも粘着力に乏しからぬ柔軟自在な材質をなしていること。
 この点は、或いは少々説明を要するかも知れない。外国人と暫くつき合ってみると分ることだが、われわれが自国語で話す場合、意味の疎通ということに気をとられて、殆ど音声的乃至音律的な愉楽を感ずることがない(時に音律的に成功した場合、却って下品な印象を与えがちである  )に反し、彼らは勿論意味の疎通をまず念頭に置いていることは確かであるにしても、同時にその発声はおのずから微妙あるいは濃密な抑揚と強弱を具えて、音声的ないし節奏的な愉楽を味いつつ語るといった感じが頗《すこぶ》る強いのである(そのうえ、周知のごとく表情や身ぶりの伴奏も豊富であるが、これは論外におく)。この事実は、彼我の散文朗読を比較してみてもはっきり分ることだし、手近なところではニュース放送ひとつ聴き比べてみても、容易に頷《うなず》かれるはずである、アランの思い浮べているのが、もともと音楽的な言語が、そのうえに日常の修練によって益々磨かれ富まされて行ったものなのであって、従って彼の勧告がその調子の濫用と過度とを戒める意味を多分に含んでいることを、われわれは断じて忘るべきではない。これに反してわが現代語は、世にも凡《およ》そ無表情と非音楽とを極めたことばであり、それを少しでもととのえようとする試みは、まず例外なしにあの単調陳腐な七五の律の袋小路へ追い込まれざるを得ないような、およそ芸のないことばなのである。日本人が会話をたしなまず、寡黙であり、二人乃至三人のあいだでは寧ろ沈黙をたのしむ傾きが強いのは、その内攻的な性格のほかに、この蕪雑《ぶざつ》な音声によって或る雰囲気をみだすまいとする心遣いも、あずかって力があるように思われる。これを譬《たと》えてみれば、彼は美食に飽いた人の粗食このみであり、我は  いや、食膳の話は今日はお互いに慎しむことにしよう。……ともあれ万事は、耳に少くも不快感を与えぬ程度にまで、わが現代語を洗練した上でのはなしである。
 第三は、これは前にもちょっと触れたと思うが、なかんずく音綴《おんてつ》の短い粗硬な漢音による熟字の氾濫《はんらん》によって、語句の粘着力を完全に失ってしまっている現代語の性質上、強調のためはおろか、わずかに論理的な脈絡を見失わない為にすら、語の巓倒《てんとう》や語の繰返し(それは結果として無用の強調をもちきたす)を必須《ひつす》にしていることである。
 差当ってまずこれ位にとどめるとして、既にこれだけでも、真の散文、美しい散文などという観念が、われわれにとってどれほどに縁どおい、遥かな夢想境にすぎないものであるかが、悟られようというものである。
*
 アランの指し示す散文の純粋像が、西欧語の伝統のなかに深く根をおろした思考の所産にほかならないことは事実である。それが日本語に適用できようとできまいと、彼の知ったことではないし、われわれにしても別に招かれも強制されもしてはいないのである。にも拘《かか》わらず、われわれは彼の手で彫りあげられた像に、言いようのない魅力を感ずる。牽引《けんいん》を感ずる。真理が人を惹《ひ》く力、美が人を打つ力を、目のあたりにする思いがする。われわれもまた、そのような散文でものを考え、そのような散文で書かれた散文作品をもちたいと心から望む。
 そのとき昔を顧みて、われわれの祖先が曾《かつ》て、今いうような純粋度に極めて近い散文を持っていた時代、あの平安の初中期に、どのような美しい思考をし、どのような美しい作品を生みつつあったかを思うとき、アランによってそそられた遥かな憧憬と、現状に対する暗い絶望感には、たちまちにして微かに明るい希望の光がさす。
 日本語の素地は、もともとそう異ったものではなかったのである。また、さほど粗悪なものでもなかったのである。ただそこに後から附加されたもの、そこに縫い取られ綾《あや》どられたものが、心ない構想と粗末な取扱いとによって、すっかりその地を蔽《おお》い汚してしまっただけなのである。
 その醜い糸を抜き、洗いきよめることによって、再びむかしの純粋さに立ち帰ることも可能であろう。ただよほど気をつけなければならない。糸はしっかりと地に喰い込んでいる。色綾は深く地にしみ入っている。時と必要と慣習とが、それをさせたのである。それを忘れると、いたずらに地を破ることになる。
 いうところの仮名もじ運動が、日本人の知力に対する頗る同情的な蔑視《べつし》を主な拠りどころとする簡便主義、実用主義の運動でありながら、しかも一面正しいもの高貴なものを含んでいるのは、その主張が期せずしてこの純粋への復帰の方向に合致しているからである。漢字制限ということも、頻度の計算などという見識の低い、将来性のない考えから出発して、常にむざんな失敗を重ねてばかりいながら、方向自体としては何としても正しいというのも、やはり同じ理由からである。
 たしかに、主なる禍根が漢字というものにあることは疑いない。さきに試みに挙げた三つの根本的な差異(あるいは難点)にしても、そのうちの少くも二つ、すなわち象形文字の不純さということも、音声上の欠陥ということも、かな文字への復帰によって、一つは直ちに、もう一つは恐らく徐々に、解決のつくことがらである。第三の脈絡の脆《もろ》さということに対しても、この措置は正の方向に働きこそすれ、負の方向に作用する心配はまずない。けだし脈絡の脆さは、主としても音韻上の欠陥から来る心理的|連繋《れんけい》の弱さにもとつくものだからである。
 にもかかわらず、将来の造語は、もはや今となっては漢字を基として行われるのほかはないであろう。そして、よほど用い馴れた漢音による熟字でも、その仮名がきは理解上の支障と混迷とをきたしがちである以上、新造熟字の仮名がきが無意味であり不可能であることは自明である。しかも、もしわれわれの文化がこのまま眠り込むのでないとしたら、哲学や科学の方面では殊に、今後とても術語の新造もしくは造語し直しが、次から次へと活潑《かつばつ》に要求されるに違いない。ここに日本語の当面するディレンマがある。やまと言葉は、その久しい眠りのなかから、みずみずしい新たな匂いと観念とを身につけて、続々と呼び醒まさるべきではあるが、さりとて将来の造語をそれのみに頼るときは、おそらく国語をひどく冗漫なものにするであろう。これは漢字による熟字の氾濫《はんらん》と正反対の過度に陥ることにほかならない。
 漢字はもとより精選さるべきだ。なるべく形や色への類似や聯想《れんそう》作用の失せた、できるだけ高度に抽象化された、しかも最も簡素な字画をもつ文字のみを、そのあらわす音の美醜をも忘れずに、且つ将来の必要をも慮《おもんぱか》りつつ、十分の量をとどめて置くのでなければならない。そのうえで、やまと言葉と漢字との、その水と油のごとき音と音とのあいだの疎遠さをいわば止揚して、そこに微妙な調和を生みだすための心づかいと労《いた》わりの念とを基調としながら、聡明《そうめい》な忍耐をもって、現行ないし将来にわたる語彙《こい》の整理、統合、改鋳の業が、おこなわれるのでなければならない。
 そこには、美学の介入が必要だ。美を分析し、美を愛する心の介入が入用だ。美は明日の必要にほかならない。そして愛とは、相手のうちに未来と可能とを見ることだ。その可能を伸ばしてやろうと願うこころだ。
 したがってそれは、まず哲学者と文学者とに託せられる仕事となるであろう。その文学者のなかでも小説にたずさわる者は、生ける現実との身をもってする対決において、ことばを生きる特権をもつ。小説を、人間の生き方の形象化の問題であるとするなら、散文はその小説の生き方の形象化の問題である。いませめてこの間歇《かんけつ》の一ときに、美しい散文へとわれわれの耳と眼とを修練して置こうではないか。

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