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三好達治「萩原朔太郎詩集あとがき」


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 萩原さんが生前上刊された詩集を刊行の年次に従って列記してみると次の如くである。
 「月に吠える」 (大正六年二月十五日 感情詩社 白日社出版部共同刊)
 「青猫」 (大正十二年一月二十六日 新潮社刊)
 「蝶を夢む」 (大正十二年七月十四日 新潮社刊)
 「純情小曲集」 (大正十四年八月十二日 新潮社刊)
 「萩原朔太郎詩集」 (昭和三年三月二十五日 第一書房刊)
 「氷島」 (昭和九年六月一日 第一書房刊)
 「定本青猫」 (昭和十一年三月二十日 版画荘刊)
 「宿命」 (昭和十四年九月十五日 創元社刊)
別に「月に吠える」の再版(大正十一年アルス刊)、「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)、その他の重版本合著選抄等数種があるが本文庫本の編輯に当ってはそれらは全く関聯するところがないから略する。本書の編纂に底本として用いたのは右に挙げた初版本八冊であった。さてその八冊の刊行年次は先の順序であるが、その内容の創作年次はそれとは別にいささか錯綜しているので、本書においては「蝶を夢む」を二つの部分に分ち、「純情小曲集」を同じくまた二つの部分に分って、それぞれその創作年次に従って、他の間に組み入れることをした。
 即ち「純情小曲集」の前半「愛憐詩篇」を第一に置き、「月に吠える」を第二に、「蝶を夢む」(詩集)の後半「松葉に光る」を第三に、「青猫」を第四に、「蝶を夢む」(詩集)の前半1これを「蝶を夢む」という題名の下に第五に、次に第一書房版「萩原朔太郎詩集」に初出の部分を「桃李の道」1とこれは三好が仮りに題名を設けたもの、同書においては「青猫(以後)」と萩原さん自身が一括して区切っていられる部分であるーこれを第六に、そうしてこの第六には「定本青猫」に初出の二篇をさらに追加し(その箇所における註記参照)、「純情小曲集」後半「郷土望景詩」を第七に、この第七には「萩原朔太郎詩集」(第一書房版)から一篇を追加し(註記参照)、「氷島」を第八に、最後の「散文詩」は「宿命」からとってこれを第九に、以上の如き順序に配置した、それによって読者はほぼ萩原さんの作品を本書においては刊本の年次によらず直ちにその創作年次順に通読されることになるであろう。断っておくが「宿命」からとった「散文詩」は年次からいうと第九に位置するものではないがこれは便宜巻末に一括した。それらの制作年次がまちまちの間隔をおいてあまりに飛び飛びになっているからである。だからこれはまあ全巻の附録とくらいに見てもらいたい。
 いまその「散文詩」を別にしていっても、それまでの分をかくの如く八段に区切りをつけて概括をしたところで、細部について精密にいうとなお年次的に多少の出入がある。即ち第六の「桃李の道」のある部分たとえば「吉原」「郵便局の窓口で」等(1はいま発表年次がはっきりしているから指摘しうるのであるが、その他は作風から考察してもらいたい、三好の考えでいうとその前後の数篇をも含めて)は第七の「郷土望景詩」(1ないしはその一部)よりもかえってやや後来の作かと考えられる如きである。かくの如く細部については他にも多少の疑問を残しているがここには精しく考えない、篤志の方は創元社版「萩原朔太郎全集」第八巻巻末の伊藤信吉君による作品年譜-今日ではこれが最も精備しているーを参照されたい。以上のような多少の問題を存してはいるが、ともあれだいたいの制作序次は本書の段落によって概括するのが便宜であってかつ大過はないであろう。もう一度断っておくが、これらの九つの部分それぞれの埒内での作品の配列順序は、それぞれの初版初出の際のままに則り従って、(それが時間的配列になっているというのでない、年譜参照)、たとえば「月に吠える」「青猫」の場合でいうと、第一書房版「萩原朔太郎詩集」「定本青猫」等はその点では何ら拠りどころとはしていない、その他の場合も同断。
 さて次に、本書の校訂について、卑見にやや錯綜した点があるのでこれを断っておきたい。テキストについては初版初出の原形、即ち最初に挙げた八冊の刊本のそれぞれの原形を最も尊重して第一の準拠とした。標題、句読、空劃、空行、行分け、用字、仮名つかい、すべて原形に力めて忠実ならんことを旨とした。それらの点で、後出のもの(主として第一書房版「萩原朔太郎詩集」)の改訂は萩原さん自身の手に出でたもの眼を通されたものといえども、それが明らかな誤謬の訂正としてなされているのでないかぎりは、本書においては原形につく建前で改訂を重んじないこととした。辞句の改作推敲に類するものは僅かな場合にすぎなかったが、句読点、空劃、空行等の、先には存したものが後に無視され追こまれあるいは省略されている箇所は枚挙に遑がなかった、iこれは萩原さん自身の作風が「月に吠える」から「青猫」へと移行するに従ってそういう風に推移していった跡が既に著しいのであって、「青猫」からさらに数年の後に出た第一書房版(昭和三年)当時において、「月に吠える」(大正六年)を悉くその流儀で加筆訂正されたのは、著者自身の当時の理由はともあれ、もとの「月に吠える」そのものとはひとまず切離して考えるのが、後来の私ども読者にとってはむしろ一応必要なことでもあろうかと考えられたからである。故に萩原さん自身の改訂をそれらの点では僭越のようだが姑《しば》らく卑見に従ってお預りとしておいた。次に仮名つかいの点については、原来萩原さんには不注意からの誤謬と意識的な独特の個人的用法(非文法的な)とが二つながら混在していて、にわかに私一箇の考えで校訂あるいは統一することを許されない場合が往々であった。但し萩原さん自身が先の非文法的用法を後に文法的に正しく改訂していられる分は(たとえば第一書房版においてそれが多い)、幸いにそれを拠りどころとすることができるからその分は、原形を惜まず本書においては著者の訂正に従うこととした。しかしながらなおその外に、原形においては文法的に正当であったのを、後に例のその独特の個人的用法に従って(むろん意識的に)非文法的に使い直された分は、これは少々困った問題であるが、やはりこの際は原形を重んずることとして後年の改訂はお預りとしておいた。凡そ以上の如き目安を以て仮名つかいは訂正に従いあるいは原形に従った。萩原さんの作品が一面極度に感覚的な性質によって強く支えられている点を考えるならば、文法的正否を以てのみ一律に統一整理しようとするのはどうかと考えられたからである。(第一童旦房版の改訂は概ね該書の校正者からの申出をどうやら承認された形のものであって、それとてもともと萩原さん自らの積極的な発意からのものでなかったのは、当時私が眼のあたりにした事実であった。これは余事ではあるが書き添えておく。用字の訂正もほぼそれと相似たぐあいで、もとめられて訂正はしつつも決して御機嫌はよろしくなかった。)以上のような理由から、ある一つの仮名つかいあるいは用字が、本書中においてもしばしば場所によって一致統一を欠くのは、そういう点で正確と整理との趣味のもともとなかったこの著者のものとして、姑らくやむをえないものとしておこうとする、校訂者の意の存するところをも併せて本書の読者には含んでおいていただきたいのである。
 要するに本書を通じて、原形における明かな誤謬と、ともあれ著者が後に改訂を認められた非文法的仮名つかい(及び不適切なる用字、あるいは誤字)との外、校訂者一個の考えからその外に積極的に改訂を加えることは力めて差控えて、初版初出の形式姿態をなるべくそのままに存することを旨とし方針としたのである。その方針において同時にいささか折衷的でもあったのは、先にいった如くである。
 ただ書中「愛憐」「恋を恋する人」(一四〇、一四二頁)の二篇は、当局の忌諱によって初版本「月に吠える」から刪除を命ぜられたものであるから、ここには再版本によって採録したのと、同じく「月に吠える」中の「山に登る」(一五六頁)の末尾一行は、初版本によらず第一書房版の改作によることとしたのとは、小さな例外であるのを附記しておく。
 萩原さんの作品は、本書巻頭の「愛憐詩篇」(ほぼ大正二三年頃の作)十数篇においてひとまず最初の完結を示した。それより以前の夥だしい試作「草稿詩篇」と、これと同じ頃の作品にして後にいずれの刊本にもとり容れられずにそのままとなった「拾遺詩篇」(雑誌「創作」その他に発表されたもの)とは、併せて創元社版全集第二巻に収録されているが、それらはすべて「愛憐詩篇」を以て代表して凡そ遺憾のない作ぶり品質のものであった。その「愛憐詩篇」は北原白秋主宰の雑誌「朱欒《ザムボア》」その他に発表を見たもので、当時「朱欒」誌上にこの人と儕輩として名を連ねた青年詩人に、室生犀星、吉川惣一郎(後の大手拓次)等があった。萩原さんは最初白秋の「邪宗門」「思ひ出」あるいは「東京景物詩」あたりから詩作の感興と多分の示唆をうけ、同時に同僚先の二氏からもいっそう身近な同時代者として同じく何がしかの感化を蒙った、とこれは後に萩原さん自身も筆にしていられるが、「愛憐詩篇」に関するかぎり、「抒情小曲集」あるいは「青き魚を釣る人」当時の室生犀星との交渉、両者の共感相互作用がなかんずく際だって顕著に見うけられる。「室生と僕とはどちらがどの部分でどう暗示し暗示されたか、互に影響があって、後には見境いがつかなくなってしまった」と萩原さんは後年語っていられたのを記憶する。初期白秋詩からの少くともその一面の系流に立つものとして、さらにいっそう新時代的な自意識切実感をそれに畳みこんだ推し進めを以て、室生萩原の新しき出発点を意味づけ特質づけるものと見るならば、その新発足は当時にあって恐らくは彼らの力を尽した協同作業でもあったことがほぼ推察されるであろう。詩誌「卓上噴水」は大正四年三月に、同じく「感情」は大正五年十月に、いずれも萩原室生の盟約によって創刊された。後者「感情」には後に大手拓次、山村暮鳥が加わり、他に多田不二、竹村俊郎、恩地孝四郎等が参加した。萩原さんの詩風は、最初の「愛憐詩篇」に到るまでにやや足踏みし比較的手間どったかに見えるのに引かえ、その一応の完結仕上げの後直ちに引続いて、その到着点がそのまま実はこの人の最初の真の出発点に外ならなかったといっていいような形に、質的切換点とそれがなって、時日をおかずそこから局面を新らしく転換した。即ち萩原さんの最も重要な詩集の一つ「月に吠える」及び本書においてその拾遺とした「松葉に光る」(大正三四五年に亘る作)は、先の「卓上噴水し「感情」を主要な舞台として比較的短い期間に発表された。その刮目すべき飛躍、展開、その輝かしい成功は、先ほどの協同作業をもはや遠い過去の小さなエテユードとくらいのものに顧みしめたであろう。初期白秋詩からの袂別もここでは既にきっぱりとしたものとなった。その自由な、ほとんど奔放な用語(日常口語の親近性を駆使した)の不思議な波うち、多分に病的な幻想幻覚の一種逆説的詩美、その奇妙に普遍的な内的実感、温熱、近代心理的錯綜と直截なリリスム、詩中の時間的空間的常理の解体倒錯、そのまた何やら得体の知れない暗示性浸透性、昏冥の微妙な深さ、それらのある部分ある性質は、ずっと後年第一次大戦後に移入されたダダイズムとも、さらに後のシュールレアリズムとも、ないしは近頃問題のエキジスタンシアリズムとさえも、今日顧みてなお多少の程度において無縁ではないところの、所謂近代性を以て、その点では全く意想外の斬新さを以てそれは当時の詩壇に登場した。その出現はたしかに驚異に値した。「僕は一夜にして名声を獲た」と時たま萩原さんは酔後に愉快げに放言されることがあったが、放言に罪がなかったとともにそれは決して虚言でも壮語でもなかった。「月に吠える」はそのようにして、この国の現代詩に一つの際だった眺望をもった近代的見渡しの窓口を開いた点で全く独創的であった。それはおしなべて従前の詩のおおかたを何か空々しい綺麗ごとかの如くにもともすれば感ぜしめかねない、いわば機構の裏がえし、何かの裏側に突き出た点から読者に背後をふりかえらしめる如き、ある重要な価値顛倒を伴うところの、一種革命的魅力で以て当時の青年たちを強く捉えた。
 * いずれも室生犀星の最初期を示す小曲集、前者は大正七年感情詩社刊、後者は大正十二年アルス刊、かく刊行の年次を隔てているが内容は共にこの著者の発足を語るものである。
 「月に吠える」の後、萩原さんには評論感想集「新しき欲情」(大正十一年四月アルス刊)の著があった。「青猫」はそれに続く大正十二年一月の上梓であって、同拾遺「蝶を夢む」以下をも含めて、その内容は大正六七年及び同十一二年にその大部分が出来上っているところを見ると、両度の制作期間の中間に介して「新しき欲情」は生れたものと考えてほぼ間違いあるまい。「青猫」は「月に吠える」の継続進展として、その語彙語脈はいっそう手慣れて豊かに変幻を極め、意の赴くところ手従う自由な詩技の円熟に達するとともに、一面艶媚なエロティスムの歌いあげと、一面独自な思索の影のようやくに深まらんとする揺曳とを伴って、後者の点ではとりわけこの詩集が「新しき欲情」との双生児でもあった事実に表裏符合している。その表裏の組合せは、後来エッセイスト思索者として特異な面目を示したこの詩人の、生来の人となりを明らかに語っているものでもあった。萩原さんは思考の上でも、慎重な推理と学術的精確とを喜ぶ風ではいっこうになかったけれども、そうして結論をやや肆《ほしいま》まに偏らせる慊いをしばしば伴ったけれども、その自由な着想と詩的な直観とには超凡な深さと鋭さとが常にあった。故にその考察判断には、ことの当否の外に、時にとってやや過剰な一種の風味を伴うのをまた常とした。ある時にはそれが極端に捷路をとった形に圧縮され、いっそう形象化されて発揮された。本書巻末の散文詩数篇は凡そそのような性質をどこかに備えているであろう。それらのあるものは評論感想中の一部をなしていたものが、後に抽出され、著者によって散文詩と改称された。おかしな置替えであるが、それでもいっこう差つかえなく、むしろその方がいっそう適切な名称を得て落ちつきよくさえ見えるのである。
 話頭が脇にそれた、先の「月に吠える」「青猫」の独自な詩境に関して、萩原さん自身は雑誌「感情」に後に同人でもあった山村暮鳥、大手拓次両氏から嘗て何がしか示唆を得た旨を、後年両者の歿後久しく年を経た追憶文中に語っていられる(創元社版全集第七巻参照)のは、一応注目に値するであろう。暮鳥には大正四年既に詩集「聖三稜玻璃」の著があった。拓次には後に「藍色の蟇」に収められた多量の作が、古く「朱欒《ザムボア》」当時からの引続きを一まとめに今日我々に残されている。ついて見られたい。追憶文中にいうところは後年の回憶である上にそういう文中の辞令をもいささか含んでいるだろうから、虚仮ではないまでもなお精しく考えるを要するからこれをいうのである。近頃上梓を見た北原白秋宛書翰集「若き日の欲情」(昭和二十四年角川書店刊、木俣修編)はその点についてのみならず、当時大正三四五年頃の消息環境を察する上に最も貴重であるのを参考までに附記しておく。
 さて二つの主著「月に吠える」「青猫」の後に、後者の拾遺に引続く「郷土望景詩」十一篇(「純情小曲集」後半、大正十四年作)は、その簡潔直截なズタイルと現実的即事実的な取材において、従ってまたその情感のさし逼った具体性において、この詩人の従前の諸作から遥かに埒外に出た、篇什こそ乏しけれ一箇隔絶した詩風を別に鮮明にかかげたものであった。この独立した一小頂点の標高は、あるいは前二著に卓《ぬき》んでていたかも知れない。しかしながらこの詩風の一時期は、極めて短小な時日の後に終熄した。それはそういう性質のものでもあったから、それが当然でもあったが、その事自身はまた萩原さんの胸裡に後にはその事自身への何か渇きのようなものをさえ持越させはしなかったであろうか。かくいうのは仮そめの私の推測をいうのであるが、私にはどうもそういう感じがする。二、つの主著の時期に、それぞれ窮まるところのない豊かな制作力を示したこの詩人は、この際は閃光的な燃焼の後にふっつり久しく沈黙した。そうして久しい沈黙の後に、それが再び詩集「氷島」(昭和五六年ー八年頃の作)に再度その爆発的表白を試みた時には、しかしながら既に何かしらそこにはもはや取りかえすすべもなく失われ変質されたものが私には感じられるのである。萩原さんの詩に終始「愛憐詩篇」の昔から通じて見られたあの非論理性《イロジスム》の魅力、あの独自の魔術は、それのみが露わに、ここでは何か秘密の調和を欠いて、ついにその歌口はただ索莫として私の耳には聞える。百木揺落の粛殺たる声に私の耳はついに耐ええないのかも知れない。余人にはいかがであろうか。
 昭和二十六年十一月記
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