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長谷川時雨「柳原燁子(白蓮)」


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柳原燁子(白蓮)
 ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究《きわ》められるものではない。人間と人間との交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽せよう。到底及びもつかないことだ。
 微妙な心の動きは、わが心の姿さえ、動揺のしやすくて、信実《まこと》は書きにくいのに、今日《こんにち》の問題の女史《ひと》をどうして書けよう。ほ んの、わたしが知っている彼女の一小部分をーそれとて、日常|傍《かたわ》らにある人の、片っぽの目が一分間見ていたよりも、知らなすぎるくらいなもの で、毎朝彼女の目覚《めざめ》る軒端《のきば》にとまる小雀《こすずめ》のほうが、よっぽど起居を知っているともいえる。ただ、わたしの強味は、おなじ時 代に、おなじ空気を呼吸しているということだけだ。
 火の国|筑紫《つくし》の女王|白蓮《びやくれん》と、誇らかな名をよばれ、いまは、府下中野の町の、細い小路のかたわらに、低い垣根と、粗雑な建具と をもった小屋《しようおく》に暮している燁子《あきこ》さんの室《へや》は、日差しは晴やかな家《うち》だが、垣の菊は霜にいたんで。古くなったタオルの 手拭《てぬぐい》が、日当りの縁に幾本か干してあるのが、妙にこの女人《ひと》にそぐわない感じだ。
 面《おも》やせがして、一層美をそえた大きい眼、すんなりとした鼻、小さい口、鏝《こて》をあてた頭髪《かみ》の毛が、やや細ったのもいたいたしい。金 紗《きんしや》お召の一つ綿入れに、長じゆばんの袖は紫友禅のモスリン。五つ衣《ぎぬ》を剥《は》ぎ、金冠をもぎとった、爵位も金権も何もない裸体になっ ても、離れぬ美と才と、彼女の持つものだけをもって、粛然としている。黒い一閑張《いつかんばり》の机の上には、新らしい聖書が置かれてある。仏の道に行 き、哲学を求め、いままた聖書に探《たず》ねるものはなにか――やがて妙諦《みようてい》を得て、一切を公平に、偽りなく自叙伝に書かれたら、こんなもの は入《い》らなくなる小記だ。
 燁子さんは、故伯爵|前光卿《さきみつきよう》を父とし、柳原二位のお局《つぼね》を伯母《おば》として生れた、現伯爵貴族院議員柳原義光氏の妹で、生 母は柳橋の芸妓だということを、ずっと後《のち》に知った女《ひと》だ。夜会ばやり、舞踏ばやりの鹿鳴館《ろくめいかん》時代、明治十八年に生れた。晩年 こそ謹厳いやしくもされなかった大御所古稀庵《おおごしよこきあん》老人でさえ、ダンス熱に夢中になって、山県の槍《やり》踊りの名さえ残した時代、上流 の俊髦《しゆんぽう》前光卿は沐猴《もくこう》の冠《かん》したのは違う大宮人《おおみやびと》の、温雅優麗な貴公子を父として、昔ならば后《きさき》が ねともなり得《う》る藤原氏の姫君に、歌人としての才能をもって生れてきた。
 実家だと思っていたほど、可愛がられて育った、養家《さと》親の家《うち》は、品川の漁師だった。その家
でのびのびと育って年頃のあまり違わない兄や、姉のある実家に取られてから、漁師言葉のあらくれたのも愛敬《あいきよう》に、愛されて、幸福に、華《は な》やいだ生涯の来るのを待っていたが、花ならばこれから咲こうとする十六の年に、暗い運命の一歩にふみだした。ういういしい花嫁|君《ぎみ》の行く道に は、祝いの花がまかれないで、呪《のろ》いの手が開《ひろ》げられていたのか、京都|下加茂《しもがも》の北小路家へ迎えられるとほどもなく、男の子一人 を産んで帰った。その十六の年の日記こそ、涙の綴《つづ》りの書出しであった。
 芸術の神は嫉妬《しつと》深いものだという。涙に裂くパンの味を知らない幸福なものには窺《うかが》い知れない殿堂だという。
 だが、燁子さんは明治四十四年の春、廿七歳のとき、伯爵母堂とともに別居していた麻布笄町《こうがいちよう》の別邸から、福岡の炭鉱王伊藤伝右衛門氏に とつぐまで、別段文芸に関心はもっていられなかったようだった。竹柏園《ちくはくえん》に通われたこともあったようだったが、ぬきんでた詠があるとはきか なかった。しかし、その結婚から、燁子さんという美しい女性の存在が世に知られて、物議をも醸《かも》した。それは、伝右衛門氏が五十二歳であるというこ とや、無学な鉱夫あがりの成金《なりきん》だなぞということから、胡砂《こさ》ふく異境に嫁《とつ》いだ「王昭君《おうしようくん》」のそれのように伝え られ、この結婚には、拾万円の仕度金が出たと、物質問題までが絡《から》んで、階級差別もまだはなはだしかったころなので、人身御供《ひとみごくう》だと までいわれ、哀れまれたのだった。
 人身売買と、親戚《しんせき》補助とは、似ていて違っているが、犠牲心の動きか、強《し》いられたためか、父と子のような年のちがいや醜美はともかくと して、石炭掘りから仕上げて、字は読めても書けない金持ちと、伝統と血統を誇るお命さまとの縁組みは・鑑ぐ寛が若く譱であればあるだけ、愛惜と同情とは、 物語りをつくり、物質が影にあるとおもうのは余儀ないことで、それについて伯爵家からの弁明はきかなかった。
 だが、そのままでは、燁子さんはありふれた家庭悲劇の女主人公になってしまう。甘んじて強いられた犠牲となったのかどうか。それは彼女の後日が生きて語ったではないか。この手紙は今年の春(大正十一年)中野の隠れ家《が》からうけた一節で、
 只今お手紙ありがたく拝見いたしました。実はわたくし、二、三日前からすこし気分がすぐれませんので床《とこ》についております。急に脈がむやみと多く なって、頭がいやあな気持ちになる、なんとも名のつけられない病気が時たま起りますので。でも今日は大分《だいぶ》よろしゅう御座いますから、早速御返事 申上げて置こうと、床の中での乱筆よろしく御判読願い上げます。(中略)仰せの通り世間のとかくの噂《うわさ》の中にはずい分、いやなと思う事もないでも 御座いませんけど、これも致方《いたしかた》がないなり行きだと、今までもあまり気にかけたことも御座いません。
私信の一部を公にしては悪いが、わたしの筆に幾万言を費《ついや》して現わそうとするよりも、この書簡の断片の方がどれだけ雄弁に語っているか知れない。はじめからそういうふうに冷淡に、噂《うわさ》を噂として聞流す女性はすくない。
 いつぞや九条武子《くじようたけこ》さんと座談のおり、旅行のことからの話ついでに、
  「別府《べつぶ》には燁《あき》さまの御別荘がおありですから、それはよろしう御座いますの。随分前から御一緒に行くお約束になっていて、やっと参り ましたのよ。伊藤さんがお迎えながらいらつしゃるはずでしたところ、風邪《かぜ》をおひきになったって電報が来たものですから、燁さまは急いでお帰りにな りましたの。だから残念でしたわ。」
 語る人のあでやかな笑顔《えがお》。それよりも前に、わたしはかなり重く信用してよい人から、こういうふうにも聞いていた。
 白蓮さんは伝右衛門氏のことを、此方《このかた》が、此方がといわれるので、何となく御主人へ対して気の毒な気がして返事がしにくかった。それに、あの人の歌は、どこまでが芸術で、どこまでが生活なのかーあの生活が嫌《いや》なのだとはどうしても思われない。
 手紙のことといい、武子さんの話の断片といい、この歌の評といい、突然なので、知らない読者には解しかねるであろうが、この間には、例の白蓮女史|失踪 《しつそう》事件があり、彼女の生活の豪華であったことが、知らぬものもないというほどであり、和歌集『踏絵《ふみえ》』を出してから、その物語りめく美 姫《びき》の情炎に、世人は魅せられていたからだ。
 この結婚は、無理だというのが公評になっていた。作品を通して眺めた夫人は、キリスト教徒のためされた、踏絵や、火刑よりも苦しい炮烙《ほうらく》の刑 にいる。けれど試《ため》す人は、それほど惨虐な心を抱いているのではない。それどころか、宝として確《しつ》かりと握っていたのだとも思われる。冷たさ にも、熱さにも、他の苦痛など、てんで考えている暇のない専有慾の満足と、自由を願うものとの葛藤《かつとう》だったのだ。もとより、いつも掴《つか》む ものは強いカをもち、かよわいものが折り伏せられるのは恒《つね》だがー



 ――これは前のつづきではない。前章は、大正十一年の二月に書いたのだが、その続きがどうしても見当らない、図書館にも幾度かいって探してもらったが、 続きの載《の》ったはずの雑誌はあっても出ていない。そこで、よく考えてみたらば、こんなことがあったのを忘れて、続きが出たとばかり思っていたのだっ た。
 こんなこととは、燁子さんの兄さんの柳原伯が、わたくしの母をわざわざ横浜の手前の生麦《なまむぎ》まで訪《たず》ねられて、続稿を、やめさせてくれま いかと頼まれたのだった。箱入り一閑張りの、細長い柱かけの、瓢箪《ひようたん》の花入れのお土産《みやげ》を取出して見せながら、母は言い憎そうにいう のだった。わたしは、そのふらふら《、、、、》瓢箪をみながら、止《や》めるとも止めないともいわないで、母のいうことだけきいていた。
 「お困りだそうだから――」
 わたしはただ笑った。ありとある新聞が、徹底的に書きつくしたのに、今になってと。だが、その、今になってが困るのかなと思った。だが、母の弱さにも嘆 息《ためいき》した。母は合資《こうし》の、倒れかけた紅葉館《こうようかん》を建て直して、儲《もう》けを新株にして、株式組織に固め、株主をよろこば せたうえで、追出された、年老いて・我が家も放り出しておいて、故中沢彦吉さんに見出されたからと、意気に感じて、夜の目も眠ないで尽した誠実はみとめら れずに、喧嘩のように出されて、子たちがいる家にも足むけが出来ないと、死にもしかねない有様に、当時、草|茫々《ぼうぼう》とした、破《あば》ら家 《や》を生麦に見つけだして、そこに連れて来てあげて、やっと心持ちを柔らげさせたのではなかったか。そのおり、利益のあったときには、長谷川さん長谷川 さんとやさしくした株主のだれが、優しい言葉をかけたか? もとより、無智だった母の、法律的なことは知らずに、感情からのゆきちがいはあったとしても、 権利、義務を主とした会社ではなく、酒と媚《こび》の附属する料理店で、お客であって株主でもある人たちは、一番やすく遊んで食べて、利益も得ている、そ の株主の一人で柳原さんもあったのだ。顔馴染《かおなじみ》を利用するのが、あんまり現金すぎるとも思い、引受けた母までが嫌《いや》だった。だからと いって、それとこれを混じて、ものを書くような卑劣さを持つかとおもわれるより、そう思うほうが、よっぽど賤《いや》しいと思ったのだった。だが、原稿の 続きは出なかったのだ。ガン張っても誌面は自分のものでないから、どうにもしようがなかったのだ。だから、つづきはわるいが、ここからは新しく書くことに する。
 白蓮さんを見たのは、歌集『踏絵』が出て、神田錦町《かんだにしきちよう》の三河屋という西洋料理やで披露があったとき、佐佐木信綱先生から、御招待が あったのでいったときだった。柳原伯夫人のお姉さんの、樺山《かばやま》常子夫人が介添《かいそえ》で、しつとりとしていられたが、白蓮さんには『踏絵』 で感じた人柄よりも、ちょく《、、、》で、うるおいがないと思ったのは、あまりに『踏絵』の序文が、
  「白蓮」は藤原氏の娘なり「王政ふたたびかへりて十八」の秋、ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫《つくし》の果《はて》にあり。――半生|漸《よう や》くすぎてかへり見る一生の「白き道」に咲き出でし心の花、花としいはばなほあだにぞすぎむ。!さはれ、その夢と悩みと憂愁と沈思とのこもりてなりしこ の三百余首を貫ける、深刻にかつ沈痛なる歌風の個性にいたりては、まさしく作者の独創といふべく、この点において、作者はまたく明治大正の女歌人にして、 またあくまでも白蓮その人なり。ここにおいてか、紫のゆかりふかき身をもて西の国にあなる藤原氏の一女を、わが『踏絵』の作者白蓮として見ることは、われ らの喜びとするところなり。
 こういう書きかたであって、しかも『踏絵』が次に示すような、哀愁をおびた、情熱的《パツシヨネ ト》ななかに、悲しい諦《あき》らめさえみせているの で、感じやすいわたしは自分から、すっかりつくりあげた人品《ひとがら》を「嫦娥《じようが》」というふうにきめてしまっていたのだった。『踏絵』の装幀 《そうてい》が、古い沼の水のような青い色に、見返しが銀で、白蓮にたとえたとかきいたが、それからくる感じも手伝って、嫦娥と思いこませ、この世の人に はない気高さを、まだ見ぬ作者から受取ろうとしていた。
 だが、わたしは、そのおりの印象を、ふらんすの貴婦人のように、細《ほそ》やかに美しい、凛《りん》としているといっている。そして、泉鏡花さんに、 『踏絵』の和歌《うた》から想像した、火のような情を、涙のように美しく冷たい体《からだ》で包んでしまった、この玲瓏《れいろう》たる貴女《きじよ》 を、貴下《あなた》の筆で活《いか》してくださいと古い美人伝では、いっている。貴下のお書きになる種々な人物のなかで、わたくしの一番好きな、気高い、 いつも白と紫の衣《きぬ》を重ねて着ているような、なんとなく霊気といったものが、その女をとりまいている。譬《たと》えていえば、玲瓏たる富士の峰が紫 に透《す》いて見えるような型の、貴女をといっている。これはだいぶ歌集『踏絵』に魅せられていた。
 たしかに、わたしは『踏絵』のうたと序文によっばらいすぎてはいたが、昔ならば、女御《によご》、后《きさき》がねとよばれるきわの女性が、つくし人 《びと》にさらわれて、遠いあなたの空から、都をしのび、いまは哲学めいた読《よみ》ものを好むとあれば、わたしの儚《はかな》んだロマンスは上々のもの で、かえって実在の人を見て、いますこしうちしめりておわし候え、と願ったのもよんどころない。それほどに『踏絵』一巻は人の心をとらえた。
われは此処《ここ》に神はいつくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地《あめつち》の中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日の来《き》しごとも歌|反故《ほぐ》いだき立てる火の前
吾《われ》は知る強き百千《ももち》の恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと
天地《あめつち》の一大事なりわが胸の秘密の扉誰《とびらたれ》か開きぬ
わが魂《たま》は吾《われ》に背《そむ》きて面《おも》見せず昨日《きのう》も今日も寂しき日かな
骨肉《こつにく》は父と母とにまかせ来ぬわが魂《たましい》よ誰れにかへさむ
追憶の帳《とばり》のかげにまぼろしの人ふと入れて今日もながむる
船ゆけば一筋白き道のあり吾《われ》には続く悲しびのあと
誰《たれ》か似る鳴けようたへとあやさるる緋房《ひぶさ》の籠《かご》の美しき鳥
歌集のようになるが、もう二、三首ひきたい。
 殊更《ことさら》に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
 わが足は大地《だいち》につきてはなれ得ぬその身もてなほあくがるる空
 毒の香たきて静かに眠らばや小がめの花のくつるる夕べ
 おとなしく身をまかせつる幾年《いくとし》は親を恨みし反逆者ぞ
 殉教者の如くに清く美しく君に死なばや白百合の床《とこ》
 昔より吾《われ》あらざりし其世より命ありきや鈴蘭の花
 息絶ゆるその刹那《せつな》こそ知るべくや死《しに》の趣《おもむき》恋のおもむき
 三十三歳の豊麗な、筑紫《つくし》の女王白蓮は、『踏絵』一巻でもろもろの人を魅了しつくしてしまって、銅御殿《あかがねこてん》の女王火の国の白蓮 と、その才華美貌を讃《たた》える声は、高まるばかりであった。伝右衛門氏は、それほどの女性《ひと》を、金で掴《つか》んでいるというふうに、好意をよ せられないのもしかたがなかった。
 だが、その時でも、どこまであの生活がいやなのか、あの歌のどこまでが真実なのかといったのは、彼女をよく知っていた人だと私は前にもいったが――



 大正十年十月廿二目の、『東京朝日新聞』朝刊の社会面をひらくと、白蓮女史|失踪《しつそう》のニュースが、全面を埋《う》めつくし、「同棲《どうせ い》十年の良人《おつと》を捨てて、白蓮女史情人の許《もと》へ走る。夫は五十二歳、女は二十七歳で結婚」と標柱して、左角の上には、伊藤|燁子《あき こ》の最近の写真の下に宮崎|竜介《りゆうすけ》氏のが一つ枠《わく》にあり、右下には、伊藤伝右衛門氏と燁子さんの結婚記念写真が出ていた。
 その記事によると、十月二十日午前九時三十分の特急列車で、福岡へかえる伝右衛門氏を東京駅へ見送りにいったまま、白蓮女史は旅館、日本橋の島屋《しま や》へかえらず、いなくなってしまったということや、恋人は帝大新人会員の宮崎竜介氏であることや、結婚の間違っていたことや、柳原家の驚きや、まだ福岡 の伊藤氏は知らないということが、紙面一ぱいで、誰にも、ああと叫ばせた。
 次の日、十三日の朝刊社会面には、伝右衛門氏へあてた、燁子さんからの最後の手紙ー絶縁状が出た。全文を引かせてもらうと、
  私は今|貴方《あなた》の妻として最後の手紙を差上げます。
  今私がこの手紙を差上げるということは貴方にとって、突然であるかもしれませんが私としては当然の結果に外ならないので御座います。貴方と私との結婚 当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従ってこの道を取るに至ったので御座います。御承知の通り結婚当初から貴方と私との間に は全く愛と理解とを欠いていました、この因襲的結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解とそして私の弱少の結果で御座いました。しかし私は愚 《おろか》にもこの結婚を有意義ならしめ出来得る限り愛とカとをこの中に見出して行きたいと期待し、かつ努力しようと決心しました。私が儚《はか》ない期 待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますがその間の私の生活はただ遣瀬《やるせ》ない涙を以ておおわれました。私の期待は凡《す べ》て裏切られ私の努力は凡て水泡に帰しました。貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私はここにくどくどしくは申しませんが、貴方に 仕えている多くの女性の中には貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもあります、貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われて いたこともありました。それも貴方の御意志であった事は勿論《もちろん》です。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。こういう状態において貴方と私 との間に真の愛や理解が育《はぐく》まれようはずがありません。私はこれらの事についてしばしば漏らした不平や反抗に対して貴方はあるいは離別するとか里 方《さとかた》に預けるとか申されて実に冷酷な態度を取られた事をお忘れにはなりますまい。またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても、常に貴方 の愛はなく従って妻としての価《あたい》を認められない私はどんなに頼り少く淋しい日を送ったかはよもや御承知なきはずはないと存じます。
私は折々我身の不幸を果敢《はか》なんで死を考えた事もありました。しかし私は出来得る限り苦悩を、憂愁を抑《おさ》えて今日まで参りました。この不遇な る運命を慰めるものは、唯《ただ》歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだこの不遇と、この不遇から受けた痛手《いたで》から私の生涯は所詮《しよ せん》暗い帳《とばり》の中に終るものだと諦《あきら》めた事もありました。しかし幸《さいわい》にして私には一人の
愛する人が与えられて私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにして置いては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖《おそ》れます。もはや今日は私の良心の命ずるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。
虚偽を去り真実につくの時がまいりました。依《よ》ってこの手紙により私は金力《きんりよく》を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別《けつ べつ》を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護《まも》りかつ培《つちか》うために貴方の許《もと》を離れます。永い間私を御養育下された御配慮に対し ては厚く御礼を申上げます。
二伸、私の宝石類を書留郵便で返送致します。衣類などは照山《てるやま》支配人への手紙に同封しました目録通り、凡《すべ》てそれぞれに分け与えて下さい まし。私の実印は御送り致しませんが、もし私の名義となっているものがありましたらその名義変更のためには何時《いつ》でも捺印《なついん》致します。
   十月廿一日                      燁子
     伊藤伝右衛門様
この手紙が出るまでもなく、前日の家出だけでも、事件はお釜《かま》の湯が煮えこぼれるような、大騒ぎになっていた。各新聞社は、隠れ家《が》の捜索に血 眼《ちまなこ》だったが、絶縁状が『朝日新聞』だけへ出ると物議はやかましくなった。しかも、その手紙が、肝心な夫《おつと》伝右衛門氏の手にはまだ渡っ ていないのに、新聞の方がさきへ発表したというので騒いだ。黒幕があるというのだ。
 おなじ廿三日の、おなじ欄に、伝右衛門氏の九州福岡での談話が載った
 「天才的の妻を理解していた」という見出しで、
  互《たがい》の世界はちがっていても、謙遜《けんそん》しあうのが夫婦の道、だが絶縁状を見たうえは、何とか処置する。
  勿論、今朝《けさ》の(廿二日)新聞で事情の大略は知ったが、しかし、そんな事が実際あるべきものとは思われない。燁子としても、そんな無分別なこと を果してしたものだろうか、本月末には博多《はかた》に帰って来る約束をしてある。家庭のことを振りかえって見ても、不愉快や、不満に思うふし《、、》は 毛頭《もうとう》あるはずがないと思います。随分|我儘《わがまま》な女です。何不自由なく、世間《せけん》から天才とか何とかいわれるまで勉強もさせ、 小遣《こづかい》だって月五十円はおろか一万円にものぼることすらある。あの女を、伊藤なればこそ養っているなどと噂《うわさ》もある。
  それは柳原さんや、入江《いりえ》さんも知っている。
  私は田舎者の無教育ですから、燁子が住んでいる文学の世界などは毛頭知りません。だからその点遠慮して、どんな事をしようが、何一ツ小言《こごと》をいった事はありません。
 「忘れがたき別府の一夜《いちや》」の題下には、大正八年一月末に(『踏絵』が出てから数えて三年目)湯の町の別府に、宮崎氏が白蓮さんをたずねた。その後『解放』の同人たちに噂が高く、春秋の上京に、散歩、観劇などを共にしていたとある。
 雑誌『解放』は、吉野博士を中心にして、帝大法科新人会の人たちが編輯《へんしゆう》をしていた、高級な思想文芸雑誌だった。白蓮女史の劇作「指鬘外道 《しまんげどう》」を掲載することについて、誰かがうちあわせにゆくことになり、宮崎氏がいったのだった。そのあとでは、宮崎氏の机上はうずたかくなるほ ど、電報で恋の歌がくるというので、みんなが羨《うらや》んだということだった。
 この事件についての、世間の反響の一部分を、おなじ新聞からとってみると、十三日のに、九大の久保猪之吉《くぽいのきち》博士夫人より江さんが――この夫妻も、帝大在学「雷会」時代からの歌人で、
  上京前に訪問したら、涙ぐんで、めいりこんでいて「伊藤が愛がないのでさびしくてしかたがない。高い崖《がけ》の上からでも飛降《とびお》りて死んで しまいたい」といっていたが、感情が昂《こう》じてこんな事になったのか、ある意味で白蓮さんはうた《、、》を実行されたのだ。
と語っている。
 また、九条武子さんは、まあ《、、》と大きな吐息をついて、
  只今が初耳でございます、随分思いきった事をなさいましたねえ。あの方とは、昨年お目にかかりました後《のち》は、お互にちょいちょいゆき来《き》は しておりますが、唯うた《、、》のお友達というだけ、それほど深い話もありません。先日も九州でおめにかかりましたが、それほど深いお悩みのあることは、 素振《そぶり》にもお見せになりませんでした。御主人は太っ腹な、それは気持ちのいい方です。まさか短気なことは遊ばしはしませんでしょうね。お年もと り、御思慮も深い方ですが、どうなる事でしょう。
と、さすがに友達の身を案じて、じっとしてはいられぬという面《おも》もちだったとある。
 博多中券《はかたなかけん》の芸妓ふな子は二十歳で、白蓮さんに受出されて、おていさんという本名になって、伊藤家にいる。その女《ひと》のいうのには、
  燁子さんは、お父さまにつかえているつもりだといって、平生《へいぜい》からさびしそうにしていたが、(私が)妾《めかけ》になったのもうけだされたのも、奥さまからなので、嫌《いや》だけれど納得したのに――
といっている。
 廿三日附朝刊には、論説も「燁子事件について」とあって、その概略をつまんでみると、
  燁子の事件はあくまで慨嘆すべきものか、あるいはかえって謳歌《おうか》すべきものか、吾人《ごじん》はこれを報道した責任として、ここにいささか批評を試みたい。(略)
  彼女の精神生活は甚だ同情すべきものだが、技巧と粉飾が臭気の高い歌で訴えるように事実苦しみぬいていたかどうか。(略)この行動が、はたして自動的か他動的か、これもまた批判してその価値をさだめる有力な材料でなくてはならないー
  f燁子事件の真相と燁子の思想とによってわかるるものと思う。更に細論の機会をまたんとす。
といっている。
 廿五日ごろになると、帝大法科の教授連が批判回避の申合せをし、自蓮問題は、暫《しばら》く何もいうまいということになったが、牧野、馨両博士が興味をもっているとあり・投書の「鉄箒」欄が段々やかましくなっている。
  白村《はくそん》の近代の恋愛観のエッセイを読み続けてゆくと、家名、利害をはさまず、人格と人格の結合、魂と魂との接触というが、白蓮、伊藤、宮崎 |各々《おのおの》辿《たど》るべきをたどった。(鉄箒)「法廷に立て」伝右衛門が白蓮女史に送った手紙誰が書いたのか、甚だもって伝右衛門らしくない。 彼がとる態度は、有夫|姦《がん》の告訴、白蓮は愛人をともなって法廷に立て。(鉄箒)
  「栄華の反映」自分を崇拝している年下の男の方が、自分の弱点を知る石炭みたいな男より我儘が出来るのが当然だが愛.がなくてもの同棲十年は、相当|情誼《じようぎ》を与えたはずだ。(鉄箒)
  天才は不遇な裡《うち》に味もあれば同情もあるのだ――虚名を求めて彼女の轍《てつ》を踏むときバクレンとなるなかれ。(鉄箒)
 「鉄箒」欄がいっている伝右衛門の手紙というのを引きたいが、夕刊紙かまたは他紙のであったのか、見当らなかった。震災が中にあったので、とっておいた参考紙も失なってしまったのでいまではわからない。
 で、柳原家の方では、合理的処置  円満離婚の上で自邸に引取る方針だ。その上で当事者の考えで解決するといい、宮崎氏は、燁子はきっと保護する。ただ父に(滔天《とうてん》氏)叱《しか》られはしまいかと、いかにも若々しい学徒の純情でいっている。
 厨川白村《くりやがわはくそん》氏の「近代の恋愛観」が廿回ばかりつづいて、やはり『東朝』に出ていた時分だったので、白村氏は「鉄箒氏」に答えて、
  ――今日の見合いの方法に、改良を加え青年男女に正当な接触を与えるのが、今日の社会のために望ましい事である。私は本紙に、近代の恋愛観というのを 草《そう》し、連載中燁子事件突発。近代生活の重要な問題として、概括的に一般に恋愛と結婚について述べたかの一文の中に、今回の事件について、凡《す べ》て私の見解にはあまり明瞭《めいりよう》すぎて、露骨なほど明かに書いておいたから、いま質問を受けるのを遺憾と思う。
  ――今度の行動には多くの欠点手落ちがあった。絶縁状が相手に落ちないうちに発表され、自分が独立しないで多くの人に依頼したこと、自ら妾《しよう》を夫に与えていた事、非難の点多し。これは外面的な、従属的なことである。
i今度のようなことは、男でも女でもちょっと思いきって決行出来ないのが普通だ。それを断行した事によって、このインフェルノから救われたのは、独り『踏絵』の女詩人ばかりではなく、伝右衛門氏にとってもまた幸福であったことを考えねばならぬ。(概略)
 白蓮さんの方で、着物も指輪も手紙をつけて送りかえしたといえば、伝右衛門氏の側では、絶縁状は未開封のまま突きもどすといい、正式に離婚をするといっ ている。各々の立場が違って、宮崎氏の方は、燁子さんの環境から見ても、どこまでもああした、自覚的態度を強調させようとし、事件が大袈裟《おおげさ》に なることは、もとより覚悟の上であったろうが、絶縁状の字句が、何やらん書生流で、ほんとに・心《しん》から底から・がまんのなりかねた女がつきつける手 紙としてはー情熱の歌人の書いたものとしては、おなじキッパリしすぎるなかに欠けたもののある感じと、踊らせよう、騒ぎたたせようとするいとがあるふうに も感じられる子供っぽい理窟《りくつ》、世馴《よな》れない腕白《わんぱく》さがあるのとは反対に、伝右衛門氏の方で、正式に離縁というのは、どことな く、どっしりして、わるあがきがちょっと去なされたかたちにもとれる。
 廿三日には隠れ家も知れて、黒ちりめんの羽織を着て、面《おも》やつれのした写真まで出ていた。軽い風邪《かぜ》で寝ていて、親戚《しんせき》の人にも面会を避けると、自殺の噂が立ったり、警察でも調べたとあった。
 そのころ、丁度ワシントン会議のあったころで、徳川公爵や、加藤友三郎大将の両全権が、鹿島丸《かしままる》でアラスカの沖を通っている時に、日本から の無電は白蓮事件をつたえ、乗組の客はみんな緊張して、すさまじい論戦が戦わされた。それは十四日のことだとも伝えてきた。
 と、いうだけでも、どんなにこの事件が、何処《どこ》もかもを沸騰させたかということがわかるではないか。まして生家の御同族がたをや! 真に、白蓮燁子は身の置きどころもない観だった。
 だが、ああいった武子さんは、自分で綿入れを縫って隠れ家へ届けている。
 わたしが訪ねたのは、もう写真班の攻撃もなくなった、燁子さんの廻りも、やっと落附いてきた時分だった。山本安夫と表札は男名でも、燁子さんと台所に女 の人がいただけだった。ふと、痩《や》せた女《ひと》の、帯のまわりのふくよかなのが目についた。そのことを、どこの何にも書いてなかったのは、気がつか なかったのかも知れないが、煩《うる》ささが倍加しなくてよかったと、わたしは心で悦んでいた。晒《さら》し韜《あん》で、台所の婦人《ひと》がこしらえ てくれたお汁粉《しるこ》の、赤いお椀《わん》の蓋《ふた》をとりながら、燁子さんが薄いお汁粉を掻《か》き廻している箸《はし》の手を見ると、新聞の鉄 箒欄の人は、自分を崇拝している年下の男の方が、我儘が出来るのは当然だがといったが、どんなところから割出したものかと思った。昨日《きのう》までは、 精神的の苦痛はあっても、いわゆる我儘な生活が出来たのだ。こんどは、精神的幸福はあっても、我儘な生活が出来るわけがないではないかといいたかった。ほ んとの、生きた生活に直面するのに――生きた生活とは、そんな生優《なまやさ》しいものではない。
 長男|香織《かおり》さんは生れた。生れる子供の籍だけは、こちらへほしいとは伝右衛門氏の願いだった。柳原家で拒んだのだという。生れた子のことで、 燁子さんは姿をかくさなければならなかった。わたしは子供を離さずに転々していた燁子さんを、あんなに好いたことはなかった。昨日は下総《しもうさ》に、 明日《あす》は京都の尼寺にと、行衛《ゆくえ》のさだまらないのを、はらはらして遠く見ていた。
あとでの話では、かえってその時分は経済的に楽だったのだということで、何処かしらから物質は乏しくなく届いていた。愁《つら》かったのは宮崎家の人と なってから、馴《な》れぬ上に、幼児は二人になり、竜介氏は喀血《かくけつ》がつづいて  ただ一人のたよりの人は喀血がつづく容体で――その時の心持ち はと、あるとき、語りながら燁子さんは面《おもて》をふせた。
 燁子さんは働きだした。達者《たつしや》に書いた。長編小説でもなんでも書いた。選挙運動には銀座の街頭にたって、短冊《たんざく》を書いて売った。家 庭には荒くれた男の人たちも多くいるし、廃娼《はいしよう》したい妓《ひと》たちも飛込んできた。そのなかで一ぱいに立ち働らきもする。かつての溜息《た めいき》は、栄耀《えよう》の餅《もち》の皮だと悟りもした。
 いつわらぬ心境を歌にきこうと、最近、以前のと近ごろとの歌を自選してくださいとおたのみしたらば、こんなのが来た。
  筑紫のころ
    われはここに神はいつこにましますや星のまたたきさびしき夜なり
    和田津海《わだつみ》の沖に火もゆる火の国にわれあり誰《た》そや思はれ人は
    われなくばわが世もあらじ人もあらじまして身をやく思ひもあらじ
  その後《こ》
    思ひきや月も流転《るてん》のかげそかしわがこし方《かた》に何をなげかむ
    かへりおそきわれを待ちかね寝《いね》し子の枕辺《まくらぺ》におく小さき包
    子らはまだ起きて待つやと生垣《いけがき》の間《あい》よりのぞく我家のあかり
    子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月
    ああけふも嬉しやかくて生《いき》の身のわがふみてたつ大地はめぐる
 なんという落附いた境地だろう。この安心立命の地を、武子さんはどう眺めたろう。おおそういえば、燁子さんは面白い話をしたことがある。武子さんが九州 へゆかれたとき、伊藤伝右衛門氏は、筑紫の女王のところへ、本願寺の生菩薩《いきぽさつ》さまが来られるときいて有頂天《うちようてん》になり、座ぶとん は揃《そろ》えて、緞子《どんす》、夜具類はちりめん、襖《ふすま》をはりかえさせ、調度は何もかも新しく、善つくし、美を尽さねばならぬときめた。それ はおなじ九州のある豪家へ武子さんが招《よ》ばれた時には、何千円かを差上げて来ていただいたというのに、我家《わがや》へは無償でこられるということよ り何より、それほどの人にわが成金《なりきん》ぶりと、何処にも負けない豪奢《こうしゃ》ぶりを見せなければおさまらないのだった。それをふと、
 本願寺さまだってお手|許《もと》がー武子さんはそんなにおごってはいません、といってしまったらば、急に見下げて、何もかも新しい調度は取消しにして、何もさせないので困ってしまったということだ。
 それが、何もかもを語っているとおもう。出来ない辛抱は、今の道にくるまでの、新らしい生活にもあったかもしれない。けれど、澄《て》みたる月は暴風雨《あらし》のあとにこそ来る。あらしはすぎた。燁子さんのこしかたも大きな暴風雨《あらし》だった。
                           ――昭和十年九月十七日――
燁子さんの生母《おかあ》さんのことも、このごろわかったが、もうお墓の下へはいっていて、燁子さんは墓参りをしただけで、なんにも言えなかったのだ。若 くて死んだお母さんは、柳橋でお良《りよう》さんと名乗り、左褄《ひだりづま》をとった人だった。姉さんは吉原芸妓の名妓だったが、その老女は、燁子さん を姪《めい》だということを、どんな親しい人にも言ったことがないほどかたい人だった。この姉妹は幕末の外国奉行|新見豊前守《にいみぶぜんのかみ》の遺 児だという。ここにも悲しき女《ひと》はいたのだ。

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