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長谷川時雨「田沢稲舟」

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田沢稲舟

 赤と黄と、緑青《ろくしよう》が、白を溶いた絵の具皿のなかで、流れあって、虹《にじ》のように見えたり、彩雲《あやぐも》のように混じたりするのを、
 「あら、これー」
 絵の具皿を持っていた娘は呼んだ。
 「山田|美妙斎《びみようさい》の『蝴蝶《こちよう》』のようだわ。」
 乙姫《おとひめ》さんの竜《たつ》の都からくる春の潮の、海洋《わたつみ》の霞《かすみ》が娘の目に来た。
 山田美妙斎は、尾崎|紅葉《こうよう》、川上|眉山《びざん》たちと共に、硯友社《けんゆうしや》を創立したところの眉毛《まゆげ》美しいといわれた文人で、言文一致でものを書きはじめ『国民の友』へ掲載した「蝴蝶」は、いろいろの意味で評判が高かったのだ。
 源平屋島の戦いに、御座船《ござぶね》をはじめ、兵船もその他も海に沈みはてたとき、やんごとなき御
女性に仕えていた蝴蝶という若い女も、一たん海の底に沈んだが、思いがけず、なぎさに打上げられた。それは春の日のことで、霞める浦輪《うらわ》には、寄 せる白波のざわざわという音ばかり、磯の小貝は花のように光っている閑《のど》かさだった。見る人もなしと、思いがけなく生を得た蝴蝶は、全裸《まはだ か》になったーそのあたりを思いだしたのだ。
 「あたし、小説を書こう。」
 十七の娘、田沢|錦子《きんこ》は、薬指ににじむ、五彩の色をじっと見ながら、自分にいった。
 空はまっ青で、流れる水はふくらんでいる――
 何処《どこ》にか、雪消《ゆきげ》の匂いを残しながら、梅も、桜も、桃も、山吹《やまぶき》さえも咲き出して、蛙《かわず》の声もきこえてくれば、一足 外へ出れば、野では雉子《きじ》もケンケンと叫び、雲雀《ひばり》はせわしなくかけ廻っているという、錦子が溶きかけている絵旦ハ皿のとけあった色のよう な春が、五月まちかい北の国の、蝶の舞い出る日だった。
 むかしの、出羽《でわ》の郡司《ぐんじ》の娘、小町の容色をひく錦子も、真っ白な肌をもっている、しかも、十七の春であれば、薄もも色ににおってくる血の色のうつくしさに、自分でも見とれることもあるのだった。その生々しさが湧《わ》きあがったとき、この娘は、
 ーなんて拙《まず》いんだろう。
と、自分の描く絵が模写にすぎないのを、腹立たしくなっていた。
 -この色は出やあしない。こんな、綺麗《きれい》な色は、ちっとも出やあしないじゃないか、残念
だがー
 彼女は、自分の腕に喰《く》いつくこともあった。と、そこにパッとにじみだして開いてくる命の花のはなやぎを、どんなふうに色に出したら写せるかと、瞶《みつ》めながら匕《さじ》をなげた。
 匕を投げたといえば、錦子はお医者さまの娘だ。徳川時代には、お匕といえば、御殿医であることがわかり、医者が匕を投げたといえば病人が助からぬという ことであるし、匕を持つといえば内科医のことだった。これは漢法医が多く、漢薬は、きざんであったのを、盛りあわせて煎《ぜん》じるから、医者は薬箱をも たせ、薬箱には、柄《え》の永い、細長い平たい匕i連翹《れんぎよう》の花片《はなびら》の小がたのかたちのをもっていたものだ。
 錦子の家は出羽の西田川郡であったが、庄内米、酒田港と、物資の豊かな、鶴岡の市はずれではあり、明治廿年代で西洋医学をとり入れた医院だったから、文化の低い土地では、比較的新智識め家族で、名望もあった。
 iあたしの画はまずい。
と、思う下から、山田美妙斎の小説は、なんと素《す》ばらしく、女の肉体の豊富さを描きつくしているのだろうと、口惜《くや》しいほどだった。
 錦子は、水に濡《ぬ》れ浸《ひた》った蝴蝶の、光るような、なめらかな肌が、目の前にあるように、眼を
よせて眺《なが》めていた。小説の中の蝴蝶も、自分の年とおなじ位だと思うと、彼女は自分の肌を、美妙斎に、描写されたように恥《はずか》しかった。それ は、いつぞや、自分のことを言ってやった文《ふみ》に、 ――体に、脂《あぶら》があると見えて、お風呂《ふろ》にはいった時も、川で泳いだときも、水か ら出て見ると、水晶の玉のように、パラパラと水をはじいてしまってー
 そんなふうに、書いたこともあった気もするのだ。
 ーええ、泳ぎますとも、まっぱだかで・ とも書いたようだ。
 i田沢湖は秋田です。うつくしい郡司の娘が、恋人を慕《した》って身を投げたという湖は、それは先生、田沢という姓名からのお誤りでしょう。田沢いなぶ ねは、ピンピンしています。此処《ここ》には、近くでは、大岸の池というのがあります。あたくし、真っ白な鵬《おおとり》に乗った、あたくしの水浴《みず あみ》の姿を描きたいのですが、駄目《だめ》ですわー
 そんなふうにも書いたことがあったようだったが――1どうだろう、「蝴蝶」は、もつと前に出ているのだー
 錦子が、いくら呟《っぷや》いても仕方なかった。彼はとうとう大きな溜息《ためいき》をした。
 錦子は、絵の具皿の中から、白と紅《べに》とが解けあったところを、指のさきに掬《すく》いとると、傍《かたわら》の絵絹《えぎぬ》の上へ、くるりと、 女の腰の輪かくを一息に丸く描いて、その次には、上の方へもっていってポチリと点を打った盛《も》り上《あがり》をおいた。
 その反対の方へむけて、腕の曲折を、ふっくらとつくると、それは、思いがけない生々しさで錦子の前へ、若い女が横たわって、羞恥《しゆうち》を含んでいる――
 「おお、蝴蝶どの、そなたの姿はわらわによう似ていられる  」
歌舞伎役者のせりふもどき《、、、》で錦子は、満足した自分の体も、そこへ、その通りの姿態《ポ ズ》で肘《ひじ》を枕にして、ころがった。
 1小説にしようか、絵の修業をしようかーまとまりようのない空想が、あとからあとから湧《わ》いてくる。つい、うっとりとしていると、
 「あら、これ、何なの?」
 妹がその絵を、見ているのは好いが、その後から母も来る様子なのに、錦子は慌《あわ》てた。
 「その、小説の口絵を、真似《まね》たのよ。」
 そう言って妹はごまかせても、母親の眼は恐《こわ》い。絵の具が乾《かわ》かないで、生々して見えるその尻の恰好《かつこう》は、娘の尻の肉つきそのままであることを母親は、一目で見破るであろう。乳首の出ぬ丸いさしぢちは?
 iおお、まあ、なんてこの娘億、いやなー
と、呆《あき》れて、眼を反《そ》むけながら角立《つのだ》てるに違いはない。
 いつも、いつも、お前はなんて早熟《ませ》ているのだろうと呟《つぶや》く母親には、見られたくなかったので、錦子は跳《はね》おきると、乳房《おちぢ》は朝寅《あさがお》にしてしまい、腰の丸味は盥《たらい》にしてしまった。
 錦子は、まったくませ《、、》ていた。売出しの小説作家、山田美妙斎に文通しだした。だが、小説「蝴蝶」の書かれたのは、二、三年前だが、近頃になっ て、「蝴蝶」の出ていた、『国民の友』の新年附録を、探し出して読みふけり、すっかり魅了され、心酔しつくしてしまった。そして、急に、グイグイ引き寄せ られる気持ちになっている。錦子が動かされたのも無理はないほど、美妙斎の「蝴蝶」は、発表された当時も世評が高かったのだ。そのころ仲たがいをしていた 尾崎紅葉さえ、宛名《あてな》を、蝴蝶殿へとした公開状で、
  かくすべき雪の肌《はだえ》をあらはしてまことにどうも須磨《すま》の浦風と、一首ものしたように、それには挿絵《さしえ》に、渡辺省亭《わたなべせいてい》の日本画の裸体が、類のないことだったので、アッといわせもしたのだった。
 河井酔茗《かわいすいめい》氏の『山田美妙評伝』によると、美妙斎は東京神田柳町に生れ、十歳の時には芝の烏森《からすもり》校から、巴《ともえ》小学 校に移り、神童の称があったという。十三歳に府立二中に入学したが、学科はそっちのけで、『太平記』や、『平家物語』をはじめ、江戸時代の草双紙《くさぞ うも》の中では馬琴《ばきん》に私淑したとある。芝に生れた尾崎紅葉とは、二中の時おなじ学校で、紅葉が三田英学校から大学予備門にはいると、二級の時に 美妙斎が四級にはいり、旧交があたためられて、二人は文学で立とうという決心をあかし合い、しかも、芝からでは遠いというので、美妙斎の家は、学校に近い 駿河台《するがだい》に引越して、紅葉も寄宿し、入畳の室《へや》に、二人が机を並べ、そのうちに、おなじ予備門の学生|石橋思案《いしばししあん》も同 居し、文壇を風靡《ふうび》した硯友社《けんゆうしや》はその三人に、丸岡|九華《きゆうか》氏が加わって創立され、『我楽多文庫《がらくたぶんこ》』第 一号が出たのは明治十入年五月二日だと考証されている。
 その石橋思案氏が、後に脳をわずらわれたが、稲舟《いなぶね》女史の話を私にしてくだされたのだった。
 錦子は自分のしたことがおかしくなって、クックッ忍び笑いを洩《も》らしながら、
  ひとり さける のばら あわれ
  あかぬ いろを たれか すてん
  のばら のばら あかき のばらlI
㎞唄《うた》いかけた。この詩も、美妙の「野薔薇《のばら》」というのの一節だったが、妹は、後《うしろ》に立った母親に言った。
 「姉さんて、妙な人ねえ。お琴を弾《ひ》いても、唄わないくせに、ねえ。」
 けれど、その妹が、敵は幾万ありとても、すべて烏合《うこう》の勢《せい》なるぞーという軍歌が、おなじ
人が、早く作ったものだということは知らないでいた。
 「錦子は、お父さんのお許しが出そうなので跳《はず》んでいるのだよ。」
と、母は、錦子の室《へや》の中を見廻して言った。
 「姉さんがいなくなると、さびしいねえ。」
 錦子は、母親が現われたのでさっきからの、躍《おど》るような1火花が指のさきから散るような気持を、凝《じつ》と堪えて、握りしめた手《 》を胸におしつけていたが、思わず
 「あら! 東京へ行ける。」
と、感情の、顔に出るのを、さとられまいとしながら、せかせか言った。
 「でもね、本当に、美術学校って、女も入学出来るのだろうかって、お父さんは御心配なさってたが。」
 「出来ないはずないでしょ。済生《さいせい》学舎(医学校)だって、早くっから、女を入れたのでしょ。」
 「そうらしいけれどね。」
 母は、娘を、非凡な才智をもつものと見ている。それは、雪深い国では、何処《どこ》にもちょっと見当らない、薫《かお》りの高い一輪の名花だった。
 この娘を東京へ出して、思うままに修業をさせたら――それこそ小野の小町などは、明治の、才色兼備の娘に名誉を譲るだろう。
 そう思う母人《ははびと》の生れ育った時代は、幕末、明治と進歩進取の世に生れあわせていた。奥羽の各藩もさまざまの艱苦《かんく》の後、会津《あい つ》生れの山川|捨松《すてまつ》は十二歳(後の東大総長山川健次郎男の妹、大山|巌《いわお》公の夫人、徳冨蘆花《とくとみうか》の小説「不如帰《ほと とぎす》」では、浪子i本名信子さんといった女の後の母に当る人)、津田英語塾の創立者津田梅子女史は九歳、その他、七、八人の、十七、入歳を頭《かし ら》にした一行と、海外へ留学した最初の人を出したりして、その後も、何やかと、幕末からつづいた、新旧の、女丈夫たちに刺戟《しげき》されて来ているの で、東京では、もうすっかり急進欧化の反動期にはいっているときに、奥羽の隅《すみ》の家庭人は、かえって、そのころになって動いていた。
 「あたしも、なるたけ、出してあげたいと、骨を折っているけれどー」
 彼女は、娘の描いた、おとなしい絵を手にとって眺めて沈呻《ちんしん》した。
 1この娘はもっと強い子だがー
 琴を弾《ひ》かせても黙って弾《ひ》いている。あれは、あの時、胸のなかに、何か、物足らない思いが一ぱいに詰まっているのだ。この娘は、何も言わないが、どんなことを考えているか知れたものではないと、母親には、それが心配なのだ。
 けれど、錦子が琴をかき鳴らしても唄わないのは、邪念があったのではない。琴の糸の奏《かな》で出すあや《、、》は、彼女の空想を一ぽいにふくらませ、 どの芽から摘んでいいかわからない想いが湧上《わきあが》るのだ。どう整理してよいか、まだ、そのわけが分明《はつきり》としないものが醸酵《はつこう》 しかけてくるのだ。だから彼女は、うっとりとしたような、不機嫌のような、押だまったままでいるのだ。だがとうとう、錦子は、朝夕眺めた、鳥海山も羽黒山 も後にして、出京することになった。



 山田武太郎と表札の出ている、美妙斎の住居《すまい》を訪れた、みちのく少女《おとめ》のいなぶねは、田舎娘が来たのかと、気にもかけなかったであろう美妙に、ハッと目を瞶《みは》らせた。
 美妙は、たしか二十歳ごろから四、五年の間、女学生向きの『いらつめ』という月刊雑誌を出したりして、若い女性たちとも、顔をあわせることも多くあったし、その時分も、浅草公園裏の薄茶の店の、石井おとめとの関係もあったのだが、この小説家志願娘には心をひかれた。
 1いなにはあらぬいなぶねの――
 そんな句も、詩人美妙の胸には、ふと浮かんだかも知れない。
 「稲舟《いなぶね》って好い名だな。錦子さんでも好いけれど、最上川《もがみがわ》がそばなのでしょう。みちのくというと、最上川だの、名取川だの、衣 川《ころもがわ》だの、北上川《きたかみがわ》だのって、なつかしい川の名が多い。父が、ずっと、あっちにいたからかも知れないがII」
 美妙は、無口な娘を前にして、そんなことをいった。
 美妙斎のお父さんは、維新前後奥州の方にいっていて、美妙の武太郎は明治元年の夏留守中に生れたのだった。その後、長野県の方にお父さんは警部をつとめていて、美妙は、やかましい祖母《おばあ》さんと、お母さんに育てられた、内気な、おとなしい息子《むすこ》だった。
 父親が懐《なつか》しかった少年時を思出して、美妙は、あっちの方の川の名など数えたりして見た。
 「絵はやめてしまうのですか?」
 「ええ。」
 「小説を書こうというの?」
 「ええ。」
 十七でしたね、と訊《き》いてから美妙はおもしろい暗合を思い出していた。
 十七という年齢《とし》は、才女に、なにか不思議.なつながりを持つのか、中島|湘煙《しようえん》女史(自由党の箱入娘とよばれた岸田|俊子《とし こ》)も、十七歳のとき宮中へ召され、下田《しもだ》歌子女史も、まだ平尾|鉐子《せきこ》といった時分、十七で宮中官女に召され、歌子という名をたま わったのだ。そのほかにと考えながら、
 「田辺龍子《たなべたつこ》(三宅《みやけ》龍子・雪嶺《せつれい》氏夫人)さんも十七位だったかな、小説を書きはじめたのは、そうだ、木村|曙女《あけぼの》史も十七からだ。」
と、日本の、明治の、巾幗《きんかく》小説家たちの、創世期時代の人々の名をあげたが、それは、そんな古いことではなかったから、錦子も、おぼろげながら知っていた。
 「あたくしに、書けましょうか。」
 唐人髷《とうじんまげ》の、艶《つや》やかなのと、花櫛《はなぐし》ばかりを見せているように、うつむいてばかりいる娘は、その時顔をあげて、正面に美妙斎と眼を合わせた。
 盤隲の・クッキリした・白い額が・はずかしさに顔中赤味をさしたので、うつくしく匂った。女らしさがすぎるほど、女らしい女だった。
 肉附きの好い丸顔でi着物は何を着ていたかわからないが、彼女が次の年に「白薔薇《しろばら》」を書いたなかに、赤襟、唐人髷の美しいお嬢さまが、九段 《くだん》の坂の上をもの思いつつ歩く姿を、人の目につく黄八丈《きはちじよう》の、一ツ小袖に藤色紋|縮緬《ちりめん》の被布《ひふ》をかさねーとある のは、尤《もつと》も当時の好みであったから、それを応用しても間違いはなかろう。唐人髷が大好きだったことは友達が知っている。
 美妙斎は二十七になった美丈夫だ。白皙《はくせき》、黒髪、長身で、おとなしやかな坊ちゃん育ちも、彼の覇気《はき》は、かなり自由に伸びて、雑誌『都 《みやこ》の花』主幹として、日本橋区本町の金港堂《きんこうどう》書店から十分な月給をとっていたうえに、創作の収入も多かった。
 裄《ゆき》を、いくら伸して見ても、女の着物の仕立は、一尺七寸五、六分より裄は出ない。
 大柄《おおがら》な娘というのではないが、錦子はシックリした肉附きだ。丸い肩の上に、五分ほどつまんだ肩上げが、地方から出て来た娘々して、何処か鄙 《ひな》びているのを、美妙は、掘りたての、土の着いている竹の子のように、皮を剥《む》いていった下の、新鮮なものを感じていた。
 立った姿も、思いがけなく、すんなり《、、、、》しているのに、この娘のアクをおとしたならば、素晴
らしいと見た。
 この娘が、無口でいて、体で、何か雄弁に語っているのに気がつくと、紙へ書かせたならば、無口なだけに、案外大胆なことを書くのではないかと思ったのだろう。
 「絵を習うよりは、君は、書いた方が好いかも知れないね」
と、力を入れてやっても好いふうに言った。
 アクをおとしたならば、と美妙は錦子を見たが、そういう美妙もアクのある好みの方だった。何かの好みが、紅葉とは違っていた。
 それは、紅葉は町の子であって、美妙は神田ッ子でも、警部さんの息子で、家庭が、京阪でいうモッサリしていたからでもあろうが、大学予備門にいた、十九歳ごろから、小説で売出してからでも、長靴好きでよく穿《は》いていたということだ。
 だがまた、それは、明治の初期から二十年ころまではそうしたふうがハイカラだったのだ。ハイヵラ――高襟は、もつと、ずっと後日で生れた言葉だが、言い 現《あらわ》すのに都合が好いから借用する。芝居の、黙阿弥《もくあみ》もので見てもわかるが、房《ふ》っさりした散髪を一握り額にこぼして、シヤツを着 て長靴を穿《は》いているのが、文明開化人だ。しかも、金巾《カナキン》のポッサリした兵児帯《へこおび》を締《しめ》て、ダラリと尻《しり》へ垂らして いる。これも後には、白か紫の唐縮緬《モスリン》になり、哀れなほど腰の弱い安|縮緬《ちりめん》や、羽二重《はぶたえ》絞りの猫じやらしになったが、ど んな本絞りの鹿《か》の子《こ》でも、ぐいと締る下町ッ子とは、何処か肌合《はだあい》が違っている。しかし、絞りをしめだしたのもずっとあとだ。
 とはいえ、年少にて名をなした、美妙斎の額は、叡智《えいち》に輝いていた。
 ことに、その時分は、紅葉、眉山、思案、九華と、硯友社創立時の友達たちを向うに廻して、金は這入《はい》るが、「蝴蝶」を発表当時ほど言文一致派の気 焔《きえん》は上らないで、西鶴《さいかく》研究派の方が、頭角を出して来たうえに、言文一致は、二葉亭四迷《ふたばていしめい》の「浮《うき》くさ」の 方が、山田より前だのあとだのと論《あげ》つらわれたり、幸田露伴の「五重の塔」や「風流仏《ふうりゆうぶっ》」に、ぐっと前へ出られてしまってはいた が、美妙斎の優男《やさおとこ》に似合ぬ闘志さかんなのが、錦子には誰よりも勝《まさ》ったものに見えもすれば、スタイルも好きだった。
 「先生。」
と、彼女は、離れともない思慕もまじえて、
 「あたくし、一生懸命になります。当今《いま》どんな方たちが、女で、小説をお書きになってらつしゃいます。」
 座蒲団《ざぶとん》の隅を折りながら、うつむきがちに、それでも、ハッキリと言った。
 「さあ! 樋口一葉《ひぐちいちよう》という人が、勉強しているというが1三宅《みやけ》龍子、小金井《こがねい》喜美子、若松賤子《しずこ》iその人たちかな。あなたのように、書こうとしている女《ひと》はあるでしょうよ。」
 「その方たち、どういう方なのでございます。」
 「小金井喜美子さんは、森|鴎外《おうがい》さんの妹さんです。」
 「あ。あの『舞姫』をお書きになった、鴎外先生の?」
 「小金井さんは、ふらんす《、、、、》の翻訳。若松賤子は英語もので、両方とも強《しつ》かりしている。若松賤子は明治女学校の校長さんの夫人で、巌本|嘉志子《かしこ》というのが本名だ。」
 美妙斎は眼を窓の外にやって、この娘を送ってやりながら散歩してもいい日だと思っている。
 窓は八畳の室にあって、八、九年前には、学生だった紅葉山人が同居して、机を並べて、朝から晩まで文学談をやっていたということや、北向きだから冬は寒いということまで、窓をあけてお茶の水の土手を見渡しながら、美妙斎はへだてなく語った。
 そんなに気の合った紅葉が、たった三、四日で、飯田町《いいだまち》の祖父母の宅へ越していってしまったのは、窓が北向きで、寒いばかりではなかった。 長く、後家《ごけ》同様に暮している山田の母親と、その姑《しゆうとめ》にあたる、とても口やかましい祖母とがいて、おとなしい孫息子を、引っかかえすぎ るのに、煩《うる》さくなって越したのだが、その事だけは、美妙斎はいわなかった。
 神田川にそそぐお茶の水の堀割は、両岸の土手が高く、樹木が鬱蒼《うつそう》として、水戸《みと》家が聘《へい》した朱舜水《しゆしゆんすい》が、小赤壁《しようせきへき》の名を附したほど、茗渓《めいけい》は幽邃《ゆうすい》の地だった。
 徳川幕府の士人の大学、昌平黌《しようへいこう》聖堂の森は、まだ而影を残し、高等師範学校の塀《へい》は見えるが、かかったばかりのお茶の水橋は、細 く、すっと、好《い》い恰好《かつこう》だ。錦子も立って眺めた。鶯《うぐいす》がささ鳴きをし、目白《めじろ》が枝わたりをしている。人《ド》声もきこ えぬ静かさで、何処からか謡《うたい》の鼓《つづみ》の音がきこえてくる。
 「君は、やっぱり一ッ橋の女子職業学校にしましたか?」
 美妙斎は錦子を、傍におきたい慾望をもって言った。
 東京見物をするならばと誘われたが、錦子は、麹町《こうじまち》の女学校に、おなじ郷里から来ている友
達が、外まで迎えに来てくれているはずだからと断った。
 帰りがけに、書いて持って来ていた小説を、美妙の机の横において、目を通してくれといった。山田の門口《かどぐち》まで迎いに来ていたのは進藤孝子という仲のよい友達で、その女の生家も、鶴岡市の医者だった。
 錦子と孝子が逢えば、話はいつも詩のことだった。孝子は新体詩を好んだので、美妙が、美しい詩ばかりでなく、「貧」というのでは、紙屑《かみくず》買いをうたっているといえば、錦子は、坑夫の詩もあるし、車夫の小説もあると負けずに言う。
 この二人が文壇の見立《みたて》を探しだして、面白がって、くらべっこをした。
 「凌雲閣《りよううんかく》登壇人(未来の天狗木葉武者《てんぐこつばむしや》)ってのがあるわ。浅草公園、十二階のことでしょ。」
 錦子が展《ひろ》げると、孝子が首をのばして、
 「エレベエタア休止中、螺旋《らせん》階にて登りし人fとあるわ。」
と、読みだした。
 「頂上十二階までが、春のや主人  坪内逍遥《つぼうちしようよう》よ。それから、森鴎外、森田|思軒《しけん》、依田学海《よだがくかい》、宮崎|三昧道人《さんまいどうじん》。」
 「あたしにも読ましてよ。」
と錦子は引きとって、
 「エレベエタアにて一分間に登りし人、頂上十二階まで紅葉山人、露伴子、美妙斎主人iいいわね。」
 錦子は、苺《いちご》のような色の濡《ぬ》れた唇で、
 「十一階が二葉亭だわ。それと、 漣山人《さざなみさんじん》。十階に広津柳浪《ひろつりゆうろう》と江見水蔭《えみすいいん》よ。五階目通過中に川上|眉山人《びざんじん》がいる。いい気味だわ。」
 「どうして。」
と孝子は笑った。
 「硯友社だからでしょ。」
 「投書家って、よく何か知っているものね。ねえ、この凌雲閣の登りかたで、古い人のことも解るわねえ。」
 それは錦子のいう通りだった。彼女たちが見ている十二階登壇人の続きには、
 開業以前、建築中より登壇したる人というのに、末松青萍《すえまつせいひよう》、福地|桜痴《おうち》、矢野|竜渓《りゆうけい》、末広鉄腸《すえひろてつちよう》がある。
 末松さんは伊藤博文の愛婿《あいせい》で、若い時から非常な秀才と目されていた人だったという。明治十二、三年時分1もっと早くからかも知れな恥ー演劇改良、国立劇場設立をとなえている。
桜痴|居士《こじ》は、現今の歌舞伎座を創立し、九代目団十郎のために、いわゆる腹芸の新脚本を作り、その中で今でも諸方でやる「春雨傘《はるさめが さ》」が、市川家十八番の「助六」をきかせて、蔵前《くらまえ》の札差《ふださし》町人、大口屋|暁雨《ぎようう》の侠気《きようき》と、男達《おとこだ て》釣鐘庄兵衛の鋭い気魄《きはく》を持って生れながら、身分ちがいの故に腹を切るという、その頃では、まだ濃厚に残っていた差別待遇を諷《ふう》した作 を残している。
 その芝居へ出てくる、葛城太夫《かつらぎたゆう》と、丁山《らようざん》という二人の遊女が、吉原全盛期の、おなじ張《はり》と意気地《いさじ》をたっ とぶ女を出して、太夫と二枚目、品位と伝法《でんぽう》との型を対立させて見せてくれた。そしてそれには丁度よく美しく品位ある中村歌右衛門や、故人の沢 村源之助という、伝法肌《でんぽうはだ》な打ってつけの役者がいた。
 末広鉄腸は、早く「渓間《 マ》の姫|百合《マ 》」を出して、明治小説界の最も先駆者だが、その人たちは学者であり、政治家であり、社会人としても重きをなしていたから、十二階の高さにも、建築前に達していたというのであろう。
 事務員に黒岩涙香《くろいわるいこう》小史がいる。『万朝報《よろずちようほう》』の建立者で、ユーゴーの「ミゼラブル」や、その他「モンテ・クリスト」をはじめ、沢山の翻訳があって、ああしたものを、その頃の一般大衆にも読ませてくれた恩人だった。
 奥山閣からi花屋敷とよばれた中にあった、宇治の鳳凰堂《ほうおうどう》のような五層楼ー凌雲閣を睨《にら》む人に正直正太夫《しようじきしようだゆう》の緑雨醒客《りよくうせいきやく》のあるのも面白い。
 上野山から眺めている連中のなかには、不知庵主人内田|魯庵《ろあん》があり、漢詩の大家で、業病《こうびよう》にかかり妹の曾恵子《そえこ》を熱愛し ていた義弟勇三郎がその病の特効薬だときいて、他人の尻肉を斬《き》りとったりしたのち、死刑になった事件を引き起したりした、気の毒な野口|寧斎《ねい さい》がある。
 「ちょっと、ちょっと、これ見ない? 見たくなければ見せない。」
と、孝子が、ヒラヒラと見せびらかした一枚には「明治文学界八犬士」の見立《みたて》がある。滝沢|馬琴《ばきん》の有名な作、八犬伝の八犬士の気質|風貌《ふうぽう》を、明治文壇第一期の人々に見立てたのだ。
 「あら! 犬江親兵衛が美妙斎よ。」
と、錦子はよろこんだ。親兵衛は一番若くって、ピチピチしている人物だった。
 その親兵衛が美妙で、色ならば緑、草木ならば豊後梅《ぷんこうめ》だとある。
 「豊後梅は、実が大きくって、生で食べても、梅干にしてもおいしい。」
 「そんな、自慢ばかりしていないで、他《ぼか》のも読んでょ。」
と、孝子は笑った。
 犬山|道節《どうせつ》が森鴎外で、色は黒、花では紫苑《しおん》。犬飼現八《いぬかいげんばち》は森田思軒で、紫に猿猴杉《えんこうすぎ》。犬塚|信 乃《しの》が尾崎紅葉で緋色《ひいろ》と芙蓉《ふよう》。犬田|小文吾《こぶんご》が幸田露伴、栗とカリン。大法師が坪内逍遥で白とタコ。
 「緑は、すっきりしていて好いけれどi!もうちっと。」
と錦子が色に不服をいうと、孝子が「花見立」というのから、
 「桃よ、美妙斎は桃よ、紅葉は桜見立よ。」
と選《え》りだした。



 錦子は出京してから、一ッ橋の学校にも近いので、神田|猿楽町《さるがくちよう》の親戚《しんせき》の家に泊っていた。
 小さい家ではあったが、黒塀の中から、深張りの洋傘《こうもり》をさしたりして、錦,子が出てくると、附近には法律学校や医学校の書生が多かったので、目をひいた。
 駿河台《するがだい》の山田の家とはいくらも距離がなかったから、自然と足近くなっていった。美妙は文学者の話をよくしてくれた。そのうちに、手を入れてやった錦子の小説を、発表してくれるとも言った。
 駿河台の東紅梅町には、尼古来《ニコライ》教会が落成して問もなかった。あんな高台へ、あんな高い建築を許して勿体《もつたい》なくも皇居のお屋根まで 見えると、憤慨するものもあったほど巍然《ぎぜん》とした、石の壁と、銅|瓦《がわら》の、塔の屋根は尖《とが》っているが円く、妙致を極めたものだっ た。
 「昔だと、南蛮寺とでも、いったのでしょうね。これがニコライ寺さ。露西亜《ロシア》の国教です。日本へ伝道に来た坊さんの名をとって呼んでるけれど、ほんとは、基督《キリスト》復活聖堂というのですと。」
と、広壮な、寺院の廻りを、並んで歩きながら、美妙斎は、鐘楼の高さを、百二十五尺あるのだと語りながら、
 「そういえば、あなたの髪の毛は赤いね。」
と、洗い髪をそのまま、チョンピンにして、白い大幅のリボンを、額の上へ、大きな蝶のように結んで、紫の袴《はかま》を胸高《むなたか》に穿《は》いている錦子を凝《じつ》と見て、
 「稲舟なんていうより、君がそうしていると、この建築物によく似合っている。ほんとに好い、ほんとに好い。」
と、すこし離れて、透《すか》して見るようにした。
 「おかしな女《ひと》だ。日本|髷《がみ》を結《ゆ》うと黒い毛なのにね。」
 「いいえ、赤っ毛なんですわ。」
 錦子が、はずかしがって項垂《うなだ》れると、頸《くびすじ》から背中の生毛《うぶげ》が金色に覗《のぞ》かれた。
 片翳《かたかげ》りの、午後の街《まち》ではあったが、人っこ一人通らない閑静さで、蜥蜴《とかげ》が、チョロチョロと歩道を横ぎってゆくほどだった。美妙斎はおさえきれないように、いたずらっぼく錦子の髪の毛をひっぱった。
 見る見る、錦子の耳朶《みみたぷ》が、葉鶏頭《はげいとう》のような鮮紅《あかさ》の色になって、躰《からだ》をギユッと縮め、いよいよ俯向《うつむ》いてしまった。
 と、片側の赤|煉瓦《れんが》の、寮舎iニコライ寺の学寮――の窓かち、讃美歌が洩《も》れて来て、オルガンの合奏もきこえだしたので、美妙斎は錦子を抱《かか》えるようにして歩き出した。
 そんなことがあってから後だった。孝子に逢うと、錦子は、
 「嫌になっちまうわ。」
と呟《つぶ》やいた。
 「学校でね、跡見玉枝《あとみぎよくし》先生が、あたしの絵のことをね、あんまり濃艶《のうえん》すぎるって仰《おつ》しやるのよ。それだけなら好いけれど、ベタベタしているって言うんですものー」
 「絵がなの?」
 孝子が問いかえしたことは、それは、女生徒の間にも、女教師たちの間にも、不言不語《いわずかたらず》に考えられていることなのだ。彼女が描く絵はとに かくとして、出京当時にくらべると、びっくりするほど急に女つくって、毎目々々綺麗になってゆくのが、目に立つのだった。
 「あたし、種《いろいろ》々なことを覚えようと思ってるのよ、山田先生に教えて頂いてー」
と、錦子はいった。
 「ちょいと、文学者たちって、紅《べに》さまだの、美《よし》さまだのって、手紙に書いてたのね。あたし、紅より、っていう手紙見て、ちょいと怒ったことがあるの。そうしたら、紅葉さんですって。」
 六月の日が照りはじめると、稗蒔屋《ひえまきや》や、風鈴屋や、金魚売、苗売の声が、節《ふし》面白く季節を町に触れ流してゆくようになった。
 本郷台も駿河台も、すっかり青葉になって、お茶の水橋はまっさおな間に、細く白く見えるようになり、下ゆく水は、覗《のぞ》かなければ見えなくなった。夜は、関口《せきぐち》の方から蛍《ほたる》が飛んで来て、時鳥《ほととぎす》も鳴きすぎた。
 その頃、どうかすると美妙が、じりじりしているのを、錦子は見逃《みのが》さなかった。小説は「萩《はぎ》の花妻名誉の一本《ひともと》」を発表してもらえることになっていた。
 そうした日の、ある夕ぐれ、青葉の匂いを嗅《か》いで、そぞろ歩きをしようと、当然帰途は美妙斎におくってもらうつもりで訪《たず》ねると、留守だった。
 賢《かしこ》そうなお母さんが出て来て、まああがれ、まあ上れと進めた。
 美妙斎がお母さん孝行なことは、話をしていてもわかるので、錦子もお母さんの進めに逆らわなかった。
 「あなたは、他家へはお出《いで》になられないのでしょうね。御惣領《こそうりよう》では-ー」
と、なんとなく、お嫁にゆかれるのかというような、口うらをひかれた。
 「お宅は、お妹御《いもとこ》さんおひとりですか?」
ともいった。
 錦子は、美妙のお母さんのいう意味を、意識しながら、自分には優しくしてくれる祖母がいるので、大概な願いは叶《かな》うのだというように言った。
 すると、継母ではないのかときかれたので、錦子はどぎまぎした。そんなはずはないとうち消した。
 「でもね、財産のあるお家の、家督を捨《すて》て、いくらあなたが物好きでも……」
と、お母さんは考えるように言うのだった。
 錦子は、ふと、暗い気がした。美妙は好きで好きで堪《たま》らないが、このお母さんや、もっと強いおばあさんがいる、この家の者にはなりきれないと思うのだった。
 そんなこと、自分だけの考えだと思っていたらば、このお母さんも、何か、そんな事を考えているのだなと思えた。
 それは、錦子が感じた通りだったのだが、お母さんの方は、息子も厭《差ら》いでなさそうな娘で、丁度|好《よ》さそうだと思うが、この娘が自分に代って 炊事や、掃除《そうじ》などをするだろうかと考えるのだった。嫁は使いよい女中をかねなければならないというのが、その人たちの女庭訓《おんなていきん》 であったのだ。
 錦子は、美妙は師の君ででもよいが、もっと深い交渉も持ちたかった。だが、この家庭の嫁となることは躊躇《ちゆうちよ》された。彼女は美妙に愛されてーそれよりもっと愛されたいものが芽ぐんでいる。それは、一度根ざしたら、その生涯であろう芸術の芽だった。
 「ここいらあたりで身を固めさせたい。」
 賢なる母親は、あんまり年若く名をなした息子の盛名が、昨今、すこしなま《、、》っているので、なんとなく前途を危惧《きぐ》していた。地方の豪家と縁を結んでおけばlfそんな下心がないともいわれなかった。
 「武太郎は孝行ですよ。言文一致とかで書きだした時も、まっさきにあたしに読んできかせましたのですよ。あたしが、そこが、いけないといえばきっと直しました。」
 おお、それは、と錦子は眼をパチパチさせた。これは大変、自分のものも、そんなふうに差図されては堪《たま》らないと案じた。だが、
 「先生は、ほんとに美しい、よいお声でございますわねえ。」
と、長い袂《たもと》を、膝《ひざ》の上に、乗せたりかえしたりして、どうして、暇《いとま》を告げようかとしていた。
 「山形の方もお寒いのでしょうね、山田の父の出は、岩手県《なんぶ》の山田と申すところですの。いいえ、あたしたちは知りませんけれど。」
 美妙の母親は、江戸生れの者には、肌合《はだあい》が違う重っくるしさを、仲たがいをして離れている夫からとおなじにこの娘からも受取りながら、
 「でも、あたしも医者の娘ですよ。」
と笑った。東洋のシェクスピヤというような、輝かしいあだ名《、、、》のあった天才を生んで、しかもその独り子が、色白で美しくって、親孝行で、口答えも しないで、他家《よそ》の女の子より優しくしてくれる、めったにない息子を持っただけに錦子が、ムンズリと押黙ってしまうと、うちとけて話かけたくても、 だんだん渋ったくなる気がして、そう長くは引き止めなかった。
 それに、美妙がお酒好きで、飲みだすと帰りが遅くなるし女遊びをする様子も知っているだけに、
 「何処《どこ》へ寄りましたかねえ。あの入は、種《いろ》んなことを考えているので、お友達のところへ行
くと長いから。」
と、錦子に、帰るしお《、、》を与えた。
 錦子は、青葉の中を、美妙と、そぞろ歩きしようという、当《あて》が外《はず》れただけではない重っくるしさを抱えてぽっくり《、、、、》を引きずって歩いた。
 美妙斎の、特長のある長い顎《あご》も、西欧の詩人や学者のように、耳の辺《あたり》で、房《ふつ》さりと髪を縮らせた魅惑も、逢わない時はことさらに 強く思いうかべられて、こういう時には、ああいう眼をする。ああした時には、額よりも顎《あご》の方が光ると、チラチラと眼にうかぶのだが  あの入は好 きで好きでならないが、彼家《あすこ》のお嫁さんにと考えると、気が進まないのだった。
 それに、樋口一葉が、好い小説を書出したので、自分ももっと勉強しなければいけないと思っていることを、意地わるく、しつこく思いだしたりした。美妙に逢っていると、励まされるのでそんなに屈託しなかったがーー
 「樋口夏子は苦労しているもの。だからって、あなたが、求めて、あの女とおんなじ苦労をしなくっても好い。あなたは、あなたのものが生れてくるさ。それ に、僕がこんなに大事にしていれば、一葉は、かえって田沢錦子をうらやむかもしれない、いや、僕を好きなのではないが、あの女にも、恋はあろうさ。」
 そんなようにもいわれた。一葉は、あの細っこい体で、一文菓子《いちもんがし》の仕入れにも行くのだそうだが、客好きで、眉山《びざん》などから聞くと 不断《ふだん》は無口だが、文学談になると姐御《あねこ》のようになる。そうすると、青い顔の頬《ほお》の上が真赤になって、顔が綺麗になるということ だ。浅草の、大音寺前《だいおんじまえ》という吉原に近いところで荒物店《あらものや》を出すとかいうから、そのうちに吉原を素見《ひやか》しながら、あ の辺を通って見ようといったりして、
 「そんな生計《みすぎ》も、書くための、命をささえる代《しろ》なのだろう。」
と、それは、思いやりのある暗い眼つきをしたがI-ああ、やっぱり、競《くら》べものにはならないのだ。好い気になって、のんきな気持ちで聴いていたがー
 (じゃあ、あたしは、何を目的に、一生懸命になったら好いのだ。)
 自問自答すると、(恋愛)という答えしか出なかった。そしてまた、その目標は美妙斎だと思わないわけにはいかなかった。
 錦子が神保町《じんぽうちよう》へおりてくると、広い間口をもった宿屋の表二階一ぽいに、書生たちが重なって町を見おろしていた。この附近は下宿屋が醗 蝣といっていいほどあって・手すりに磊榔がどつさりぶらさがっていたり、寝具を干してある時もあるが、夕方などは、書生の顔が鈴なりになっているのだっ た。
 書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋《あめや》が来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。
 ヨカヨカ飴屋は二、三人|連《つれ》で、一人が唄《うた》うと二人が囃《はや》した。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きな盥《たらい》のようなものを乗 せて、太鼓を叩《たた》いているが、畳つきの下駄を穿《は》いた、キザな着物を東《あずま》からげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、 ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎《いなか》っぽいものだった。
 ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンと囃《はや》した。錦子が通
ると錦子に呼びかけるように、
   お竹さんもおいで、お松さんも椎茸《しいたけ》さんも姐《ねえ》ちゃんも寄っといで。といやらしく言って、
   恋の痴話文《ちわぶみ》ナ、鼠《ねずみ》にひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ――と一人が唄うと、
サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。
 二階から書生どもはワッと笑いたてた。
 錦子はカッとして、どんどん寄宿している叔父の家へ帰ってくると、一層不機嫌になっていた。孝子のところから手紙が来ているといわれても、ちっとも嬉《うれ》しくなかった。
 それでも手紙は気になった。急いであけて見ると、
   先達《せんだつ》ての「見立」の続きをお知らせいたします。あなたの好きな方のお名もありますか ら、早くお知らせいたしたく、お目にかかるまでとっておけないので手紙にしました。お礼をおっしゃい。
 「文壇女性見立」
  女教師鴎外、芸妓紅葉、女生徒|漣《さざなみ》、女壮士|正太夫《しようだゆう》、権妻《ごんさい》美妙、女役者|水蔭《すいいん》、比丘尼《びくに》露伴、後室《こうしつ》逍遥、踊の師匠眉山、町家の女房柳浪。
 それからね、衆議院議員見立には、山田美妙斎は改進党の島田しゃべ郎(三郎)よ。偉いのは
 田辺竜子と小金井貴美子と、若松|賤子《しずこ》の三人が、女でも、その仲間にはいっていました。
 「当世作者忠臣蔵見立」というのでは、
 由良之助《ゆらのすけ》が春のや(逍遥)で、若狭之助《わかさのすけ》が鴎外で、かおよ御前《ごぜん》が柳浪、勘平《かんべい》が紅葉で、美妙はおかるよ。力弥《りきや》が漣山《さざなみ》人なの。定九郎《さだくろう》が正太夫なのは好いわね。
 錦子は、おかるが美妙というところで、クスンと鼻で笑ったが、嬉しくなくはないが、なん
となく浮きたたなかった。
 その晩の出来ごとで、もひとつ錦子を悲しませたことが出来た。
 二、三年前から女の髪剪《かみき》りがはやっていたが、最初は、黒い粛の鋭い虫が噛《か》みきるのだといって下町の女たちは、極度に恐れて、呪文《じゆ もん》を書いた紙をしごいて、髪に結びつけたりしていたが、そのうちに、なんでもそれは、通り魔のようなもので、知らないうちに髷《まげ》を切られたり、 顔を斬られたりするのだといった。
 美しい娘で、外に立っていたらば、突然、痛いと思うと、頗《ほつ》ぺたから血がにじみだしたというようなことは、眼につきやすい女に多かった。
 錦子が、朝目ざめて見ると、唐人髷がころりと転《ころ》がりおちた。
 ハッと唇の色を変えて、錦子は顫《ふる》えあがったが、いたずらものが忍び込んだ形跡もないので家の者たちは神業《かみわざ》だと、禍《わざわい》のせ いにした。他分、表で斬られたのを、枕につくまで落ちずについていたのであったろう。だが錦子は、いやあな予感がしたのだった。
 七面鳥の錦嬢《きんじよう》という名を、近所の書生たちからつけられたのは、唐人髷を切られてからだった。
 短かい髪をニッに割《わ》けて、三ッ編《あみ》のお下げにし、華・やかな洋装となった錦子の学校通いは、
神田、本郷の書生さんたちの血を沸騰させた。美妙斎の食指のムズムズしないわけはない。
i今日錦嬢とー
という文字は、美妙斎の日記二十四年の末からはじまっている。二十五年にいたっては、ますます頻繁《ひんぱん》だ。
 ある時は、上野|摺鉢山《すりばちやま》iあの、昼も小暗《おぐら》く大樹の鬱蒼《うつそう》としていた、首くくりのよくある場所-上野公園のなかで も、とくに摺鉢山。ある時は九段ーーこれも、日中あまり人通りがなかった揚所だ。ある時は根津《ねづ》の旗亭《きてい》での食事。
 ここで、一言《ひとこと》筆者が申したいのは現今、どなたの稲舟《いなぶね》研究にも、十九で死んだことになっているが、わたしは二十三歳と信じてい た。ずっと前に書いた小伝にも根拠があって二十三と書いたのだが、この稿をはじめる時、あまり他の年譜を信じすぎて、自分の思いあやまりかと諸説にしたが い、末年を十九にとったために、年に無理が出来て来た。で、美妙が錦子の肩上げを見たところは十七であったが十八にしていただきたい。もつとも、錦子の生 れた地方も、他の、みちのくの国々とおなじに、丸年《まるどし》でIi満幾歳で数えていたとすれば、こじつけられないこともない。
 写真も古い『文芸倶楽部』に出ていたのは、何処やら野暮くさいが、二十三の春にうつした婚礼の丸髷のは、聡明で、しとやかで、柔らかみがあり、品のある顔と、しなやかな姿だった。
 さて、傍見《わきみ》をしないで、急ぎましょう。
 十九になった錦子は、小暗い木蔭の道路での、美妙斎の肘《ひじ》の小突き工合や、指の握りかた、その他のあしらいの荒っぽさや、丁寧さが、女の心を掴《つか》むのに、活殺自在であることを、なんとなく感知した。
 側にいても、身が縮まるような悦びは、それはもう、とうに過ぎさった日となった。今は、美妙が接する女は、自分ばかりでないのを知って悲しかった。
 ーあたしはこんなことを仕《し》に来たのではない。
 そんなふうに、冷たく自分を叱ることもある。
 ーこんなことで、 一葉に負けない小説が書けるかー
 悦びといまいましさと、切なさが、幻燈の花輪車《かりんしや》のように、赤く黄色く青く、くるくると廻る  そんな時に、国|許《もと》へ帰れと呼びかえされた。
 「お父さんが、あんなに、お前の、書いたり読んだりするのを嫌がって、厳しくなさったのを、学校を勉強するからと出してあげたのだ。」
 それがまあ、とんでもない女になって  と、可愛がった祖母までが怒っているという。
 七面鳥とは、派手に美しい錦子の洋服姿であり、昨日の優美な娘風と、=攸に変ったスタイルを、書生たちは言現《いいあらわ》したのであろうが、錦子は、たしかにその頃から、沈んだり、はしゃいだりすることが多くなった。
 「あたし、郷里《くに》へ帰らなきゃならないのよ。だけど、いいわ。あっちにいて、思いっきり勉強するの、好いもの書くわ。」
 そう言って泣かれた友達は、それも好いかも知れないと慰めて、
 「なにしろ、あんまりあなた、美妙斎が好きすぎるもの。『いらつ女《め》』に書いてる女《ひと》にも何かあるんだって? 困るわねえ、浅草にもだってね。」
 自分の好きな男は、他女《ひと》も好きなのだ  そんなふうに簡単に錦子に考えられたろうかP 錦子はこんなふうに思うこともある。阿古屋姫《あこやひめ》とは誰だろうーそもじは阿古屋の貝にもまさった宝と、何かに書いてあったが誰だろう。あたしかしら?
 i甘いささやきー
 銀蜂《ぎんばち》がブンブン言っているのでも、郷里《くに》へ帰った錦子は、ものごとが手につかなかった。
 だが、ふと、美妙の手許にあった、薄すべったい、青黒い表紙の雑記帳を、一ひらめくって見た、厭《いや》な思い出もおもいださないことはない。表紙うらに鉛筆・のはしり書きで、
  奈《な》まじいにあひ見る事のつれなきに
  さりともあはで返されもせず
 廿四年十一月六日作とあった。あれが、わたしへの、ほんとの美妙の心ではないかとも思い、いえ、そんなことは決してないはずだとも打消した。
 しかし、どうも、それは、はずでばかりはなかったようだ。人の心は微妙であるから、なんとも他《ほか》からはっきりは定《き》められないが、美妙斎はそ のころから関係のあった、浅草公園の女、石井|留女《とめじよ》を、九月|尽日《じんじつ》に落籍《らくせき》して、その祝賀を、その、おなじ雑記帳へも 書いているのだ。
 この女の人を、後《のち》におっぽりだしたので、『万朝報』でたたかれて、美妙斎は失脚の第一歩を踏んだのだったが、留女を落籍した日は暴風の日であっ て、一直《いちなお》から料理をとって祝った。茶碗もりや、鯛《たい》の頭附《かしらつ》きの焼もので、赤の飯で囃《はや》したてたのだ。その後、この女 のところへで
あろうが、別荘、別荘、と別荘行きを毎夜|記《しる》しつけてある。もとより、錦嬢とあってることも、その他の女とのこともある。
 これは、稲舟にも入用なことだ。稲舟の田沢錦子は、今日までの記録では、不良少女のようにいわれているけれど、そうした留女のような莫連女《ばくれんおんな》と同棲したからこそ美妙は、錦子のモダンな性格が一層|慕《した》わしかったのかも知れない。
 錦子はまた出京した。そしてまた帰った。どうしても郷里《くに》に凝《じつ》としていられない気持ちi
無論美妙斎からの手紙もある。それよりも彼女が出たいのだ。
 錦子がそうしているうちに、郷里で、彼女を恋いしたうものが出来た。それに、東京に来てから、墨田川へ身を投げようとしたような、発作《ほつさ》を起したこともあった。
 錦子に思いを寄せた郷里の男のことは、いなぶねの死後に出た秘書-美しい水茎《みずくき》のあとで、改良半紙に書かれた「鏡花録」によって僅《わずか》の人が知っているだけだ。墨田川投身も、知ってるものはすけない。
 その間に書いたものが、稲舟の文壇|初舞台《デビユほ》といってもよい小説「医学終業」だ。
 だが、錦子が煩悶《はんもん》に煩悶した三、四年の間を、美妙と留女との歓楽はつづいて、前川-浅草花川戸の鰻《うなぎ》屋1に行き、亀井戸の藤から本 所《ほんじよ》四ツ目の植文《うえぷん》の牡丹《ぼたん》見物としゃれ、万梅《まんばい》i浅草公園|伝法院《でんぽういん》わきの一流|割烹店《かつぼ うてん》1で食事をし、歌舞伎座見物の帰りは、銀座で今広《いまひろ》の鶏《とり》をたべるといったふうだった。
 美妙という人が、どんな生活をしていたかということが、稲舟はどうして死んだか、ということと、袷《あわせ》の裏表になるのだが、紙数をとるから、そん な事ばかりは書いていられない。塩田良平氏が美妙の日記を研究発表されるということであるから、やがて世に知れるであろう。
 とはいえ、世の中は悲しくも面白いものだ。その二十六年には、十二階に百美人の写真が出たのだ。あの、市村羽左衛門《いちむらうざえもん》との情話で名 高い、新橋の洗い髪のお妻が、髪結銭《かみゆいせん》もなく、仕方なしに、髪をあらったままで写した写真が百美人一等当選だったのを、美妙が六銭の入場料 をはらって見て、そしてお留《とめ》のところへいっている。

 近いうちに、どうしても東京へも一度行くという音信が、孝子のところへ、錦子から届いた。
 郷里《くに》の実家に、落附こうとすればするほどあたしはジリジリしてくる。どうして好いのか、笑って見たり、怒って見たり、疳癪《かんしやく》をおこしてばかりいる。
 あたしは、こんな事をしていて好いのかと、自分の胸を掻《か》き梍《むし》っている。郷里《いなか》へ帰ったからって、好いものは書けやしない。やッばりあたしは、美妙《せんせい》のそばにいなければいけないのだ。
 あなたは、美妙の評判がよくないと仰しゃるが、それは、あの人を女が好くので妬《ねた》まれるのです。それにこのごろ、紅葉の方が小説を多く書いて、美妙が休みがちなので、そんな噂《うわさ》をするのでしょう。
 実は、美妙からも出て来ないかといって下さるから、あたしはどうしても出京します。
 iそんなふうな手紙が幾度か繰返されてくるうちに、ある日、錦子は、孝子の前へ笑って立った。
 「いけない娘になってしまって1自分でも、我儘だと思うけれど、なんだかジリジリして。」
と、謝《あやま》るように孝子を見る眼に、嬌羞《きようしゆう》をうかべた。
 「あなたを、大層思っていた人が郷里に、あったというではないの。」
 「あんなの、なんでもないのよ。種《いろいろ》々なこという人随分あったけれど、戯談《じようだん》半分なのよ。」
と、錦子は友達の真面目《まじめ》なのを、ごまかしてしまおうとした。
 「でも、その人は、結婚を申込んだというのじゃないの。お父さんもお母さんも、御承知なのでしょ。」
 「でも、どうとでも、お前の心のままにしろというから、否《いや》だといったの。だから、それは何でもないのよ。もともと友達のつもりだったのだから。」
 そうはいったが錦子も、その男が、青くなったり、赤くなったりして涙ぐんだのを思い出すと気とがめもするのだった。
 「あたし、一生独立しようと心に誓って、はじめは、医者になろうかと思ったのですけれど、それもだめだったし、画師《えし》になろうかとも思ったのです けれど、それも駄目。やっぱり、もともと好きな文学でと思ってるのですの。けれど、それも下手《へた》の横好きというんでしょ。自分ながら才がないので、 気をもんじやって、それで始終むしやくしやしているのですの。だから、この頃は写真師にでもなろうかと考えていますからって断ったの。無理じ

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