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長谷川時雨「遠藤(岩野)清子」

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遠藤(岩野)清子
 それは、華《はな》やかな日がさして、瞞《だま》されたような暖《あつた》かい日だった。
 遠藤清子の墓石《おはか》の建ったお寺は、谷中《やなか》の五重塔《ごじゆうのとう》を右に見て、左へ曲った通りだと、もう、法要のある時刻にも近いので、急いで家を出た。
 と、何やら途中から気流が荒くなって来たように感じた。
 「これは、途中で降られそうでi」
と、自動車《くるま》の運転手は、前の硝子《ガラス》から、行く手の空を覗《のぞ》いて言った。
 黒い雲が出ている。もっと丁寧にいうと、朱のなかへ、灰と、黒とを流しこんだような濁りがたなびいている。こちらの晴天とは激しい異《ちが》いの雲行きだ。
 赤坂からは、上野公園奥の、谷中墓地までは、だいぶ距離があるので、大雨《たいう》には、神田《かんだ》へかかると出合ってしまった。冬の雨にも、こんな豪宕《ごうとう》なのがあるかと思うばかりのすさまじさだ。
 私はすっかり湿っぽく、寒っぼくなってしまって、やがてお寺へ着いたが、そこでは、そんなに降らなかったのか、午前中からの暖かい日ざしに、何処《どこ》もかも明け放したままになって、火鉢《ひばち》だけが、火がつぎそえられてあった。
その日のお璽側は・詳の蘿懲の同人たちだった・薦らいてう、準撃という人たちが専ら肝入り役をつとめていた。死後、いつまでも、お墓《きもいやく》がなかった遠藤|清子《きよこ》のために、お友達たちがそれを為《な》した日の、供養《くよう》のあつまりだった。
 会計報告が、つつましやかに、秘々《ひそひそ》と示された。ずっと一隅《いちぐう》によって、白髪《しらが》の、羽織|袴《はかま》の角《かく》ばった 感じの老人と、その他《ほか》にも一、二の洋服の男《ひと》がいたので、その人たちへの遠慮で、後《あと》のことなどの相談をした。会費と、後《のちの ち》々の影向料《えこうりよう》とがあつめられたりした。
 やがて、本堂へ案内された。打|揃《そろ》って座についたが、本堂は硝子障子が多いので、書院よりは明るいが、その冷《ひえ》はひどかった。読経《どき よう》もすこしも有難みを誘わなかったが、私は、眼の前の畳の擺い目をみつめているうちに・その羹描りの空間へ・白光りの、炎とも、耀とも、線光とも、な んとも形容の出来ない妙なものが、チラチラとしてきた。
 -ー遠藤清子さんは悦《よろこ》んでいるだろう。
 たしかにそうも思いはしたが、それよりも、急に、わたしの胸を衝《つ》いてきたものがある。廿五年の歳月は、こんなにもみんなを老《お》わしたかと 誰 の頭髪《あたま》にも、みんな白髪《しらが》の一本や二本… もっとあるであろう。その面上にも、細かき、荒き、皺《しわ》が見える。
 ひとり、ひとりが、焼香に立った。
 悪寒《おかん》が、ぞっと、背筋《せすじ》をはしると、あたしはがくがく寒がった。雨のなかを通りぬけて来た時からの異状が、その時になって現われたのだが、すぐ後《うしろ》にいた岡田八千代《おかだやちよ》さんがびっくりして、
 「はやく、火鉢のある方へ行かなければ。」
と案じてくれた。生田花世《いくたはなよ》さんも、外套《がいとう》をもって来ましょうかといってくれた。
 みんなも気がついて、向うへ行っていよとすすめる。焼香もすましているので、あたしは親切な友達たちのいう言葉にしたがった。
 外套にくるまって、火鉢に噛《かじ》りついていると、どんなふうかと案じて来てくれながら、そうではないような様子に、
 「おお寒い寒い。」
と、自分も逃げて来たように言って、八千代さんはそこらの障子を閉《し》めてくれて傍《そば》へ来た。
  「どう? お寺で風邪《かぜ》なんぞひいたらいけないから。」
 あたしは大丈夫と言いながら丸くなって、友達の顔も見なかった。見たら、涙が出そうでしかたがない。
 みんな、たいした苦労だー
と、そればかりを噛《か》むように思った。みんな、跣足《はだし》で火を踏んだような人たちだ。今日《こんにち》の若人《わこうど》たちの眼から見たら ば、灰か、炭のように、黒っぼけて見えもするであろうが、みんな火のように燃えていて、みな、それぞれ、その一人々々が、苦闘して、今日の、若き女人《ひ と》たちが達しるというより、その出発点とするところまでの茨《いばら》の道を切り開き、築きあげて来たのだ。いたずらに増《ふ》えた髪の霜《しも》でも なく、欠伸《あくび》をしてつくった小皺《こじわ》でもない。
 ――その間に、こんなにも、こんなにも、女人《おんな》の出る道は進展したー
 前の夜《よ》、あまり生《いきいき》々したグルー。フのなかで、何時《いつ》までもいつまでも話しこんでいたあたしは、あんまり異《ちが》った仲間のな かにいて、たしかに戸まどいもしているのだった。年月などというものを、さほどに意識しない日頃であって、何時《いつ》も若い友達と一緒になっていられる 幸福のために、かえって、死《しに》もの狂いであった誰彼《たれかれ》なしの過去に、ひたと、面《おもて》をこすりつけられたような思いだった。
 表面《おもて》に、撥刺《はつらつ》と見えるからといって、青春者《わかいひとたち》が、やはり世の中へたつのは、多少とも死もの狂いであるのと同様、 先覚者《さきのひとたち》も決して休止状態でいるのではない。おなじ時代を歩んでいるのではあるが、まあ、なんと、今日《いま》から見れば、そんな些事 《こと》を――1といわれるほどの、何もかもの試練にさらされて来た人たちだろう――・
 私は、神近市子《かみちかいちこ》さんの横顔を眺め、舞踊家林きん子になった、日向《ひなた》さんに、この人だけは面影《おもかげ》のかわらない美しい丸髷《まるまげ》を見た。
 「清《きよ》も、よろこんでおりましょう。」
と、もとの座についた、白髪の老人は、重い口調で挨拶《あいさつ》をしていられる。
 それをきくと、周囲の人がわやわやとして、
 「長い間、お心が解けなかったそうですが、いま、お兄さんがそう仰しやったので、これで、
仏さまとの仲も、解けてー」
と、いうような意味の言葉を、一言《ひとこと》ずつ、綴《つづ》るように言った。とはいえ、解けあわぬ兄妹《きようだい》でも、遺骨は墓地に納めさせてく れてあったのを、その人々も知っている。墓を建てたのを、差出たことをしたと思われないようにとも、友達たちは老人をいたわるようにいった。
 「どういたしまして、よく、あれの心を知ってやってくださる、あなた方《がた》に、こうして頂いた事は、よい友達をもった、彼女《あれ》の名誉でi」
と、兄という人は思慮深くいうのだった。
 「あなた方は、彼女《あれ》のことばかりお聞きなさってでしょうがー」
と、老人は、感慨を籠《こ》めて、わたくしも困りましたと言っていた。
 そんな事も、よく聞きたいが、老人とわたしの座とは、かなり間がへだたっている。それに、洋服の男子《ひと》が、その老人の方へむかって坐って、何か話しかけているので、老人のいうことは、半分もきこえてこなかった。
 「彼女《あれ》も、さぞ、わからない兄だと思ったでございましょうが、わたくしも困りました。わたくしの眼の悪くなったのもi」
と、黄白《きじろ》い四角い顔の、腫《は》れあがったような眼瞼《まぶたて》に掌《のひら》をかぶせて、
 「ただいまで申す、殴《なぐ》りこみのようなことを、彼女《あれ》がいたしましたので――」
 新旧思想の衝突iさまざまな家族苦難の一節の、そんなことを話すように、口がほぐれて来たのは、記念の写真をとったり、お墓へ参ったりしたあと、谷中《やなか》名物の芋阪《いもざか》の羽二重団子《はぶたえだんご》などを食べだしてからだった。
 「それはどんな訳で?」
と、きいたものがある。
 「荷物でしたかなんだか、なんでもわたせと、男どもを連れて押かけてくるというので、それならばと、こちらでも、用心して人もいたのですがー戸障子をたたき破《こわ》すような騒ぎで、その時、乱暴人《あばれもの》に眼を打たれました。」
 視力も失《なく》したとでもいったのか、まあね、という嘆息もまじってきこえた。
 「あ、あすこのーあの時の方ですか?」
 後向きの男の人の一人が、そんなふうに言っている。も一人の人は、遠藤氏といって清子さんとは同姓であって、死ぬきわまで一緒に暮していた人だということを、誰だったか、ささやいていた。
 雑誌『青鞜《せいとう》』や、その他の書籍がひろげられて、なき人の書いたものが載っているのを、人々は見廻した。しめやかではあるが、わやわやしたなかなので、気分も悪いわたしは、近間《ちかま》で話している、ほんの一つ二つの逸話しか耳に残らなかった。
 「ごく若い時には日本髷《にほんがみ》がすきでね。それも、銀杏《いちよう》がえしに切《きれ》をかけたり、花櫛《はなぐし》がすきで、その姿で婦人記者だというのだから、訪問されてびっくりする。」
 「『二十世紀婦人』の記者でしたろう、その時分は。」
 「たしか、東洋学生会の仲聞で、印度人に、英語を教えていたでしょう。」
 人々の眼には、ずっと若い時分の、遠藤清子さんが話されていた。わたしの眼には、それよりずっと後《あと》の、大正六、七年ごろ、もう最後に近いおりの、がくりと頗《ほお》のおちた、鶴見《つるみ》のわたしの家で会食したおりの、つかれはてた顔ばかりが浮んでいる。
 荒木郁子さんが、清子さん母子の墓のことを気にかけていたのは、清子さんの死後託された男の子を、震災のおり見失なって以来、十年にもなるがわからないから、その子も一緒に入れて建てたいという発願《ほつがん》だった。
 郁子さんは、玉茗館《ぎよくめいかん》という旅館の娘だったので、清子さんの遺児はその遺志によって、『青鞜』同人たちから、郁子さんに依託することに なった。そして、あの大正十二年の大震火災のおり、広い二階座敷にいたその子は、表階段《おもてぱしご》の方へ逃げた。郁子さんは、裏階段《うらかいだ ん》へ逃《のが》れた。表階段《おもてばしご》の方へ駈《か》けていった後姿は見たが、それっきりで、どんなに探しても現われてこないのだった。その子 はー民雄《たみお》は、岩野泡鳴《いわのほうめい》氏の遺児ではあったが、当時の岩野夫人清子には実子ではないという事だった。父につかないで、清子さん の養子になり、離婚後も母と子として一緒にいた薄命な子だった。
 泡鳴氏には、他《ほか》にも子供は沢山ある。清子さんより先妻のお子、清子さんより後《のち》の妻の子。だが、清子さんとの結婚が風がわりであるばかりか、その子になっている民雄も、また別の腹に生れている不幸《ふしあわせ》な子だ。
 四十九歳で死んだ岩野泡鳴も、十九年間、わびしく墓表《ぽひよう》ばかりで、それも朽ち倒れかけた時、やはり荒木郁子さんの骨折りで、昨年、知友によっ て立派な墓石が建てられた。この人の半獣主義、刹那《せつな》哲学、新自由主義は、文芸愛好者の、あまりにもよく知っていることだが、まだ知らぬ人のため にもと、昨年建てられた石碑の、碑文は、尤《もつと》も簡単でよく述べられているから、それを記《しる》しておこう。
 岩野泡鳴本名|美衛《よしえ》、明治六年一月二十日|淡路国洲本《あわじのくにすもと》に生る。享年四十八歳、大正九年五月九日病死す。爾来《じらい》 墓石なきを悲み、友人相寄り此処にこの碑を建つ。泡鳴著作多く、詩歌《しいか》に小説に、独自の異才を放つ。その感情の豊饒《ほうじよう》と、着想の奇抜 は、時人を驚せり。その表現の率直なるは善良なる趣味性を害《そこな》ふの感あるも、誰も泡鳴の天賦を疑ふものあるを聞かず、彼が文学的円熟期に入らずし て死せるは、最も惜しむべきものとす。泡鳴初め浪漫主義を信じ、転じて表象・王義に入り、再転して霊肉|合致《がつち》より本能の重大を力説して刹那主義 なる新語を鋳造せり。泡鳴は人生の神秘を意識し、その絶対的単純化に依《よ》る生活力の充実を期せるものなり、遂《つい》に彼は、その信念を進めて新日本 主義となせり。思ふに泡鳴は、一時代先んじたるものにして、将《まさ》に来《きた》らんとする時代を暗示せり。
碑文はヨネ・ノグチ氏の撰である。(句点は仮に読みやすいように筆者が入れた。)
 死ぬること愚《おろか》なりといひて
    高笑ひ君はまことに
       命惜しみき
泡鳴子をおもうと、蒲原有明《かんばらありあけ》氏の歌も刻されてある。


かくのごとき文人と、その最も、思想的にも人間的にも精悍《せいかん》であったであろう時期に、深い交渉をもったのが遠藤清子なのであった。
 一方に泡鳴氏が、一風も二風もある、風変りの人であるのに、彼女もまた、一通りのものでない考えを、恋愛と結婚についてもっていた。それがまた、潔癖す ぎるほどに堅固に霊の結合をとなえ、精神的な融合から、性の問題にはいるべきだと、実に、きびしすぎるほど真面目《まじめ》に、彼女自身への貞操を守って いるのだった。
 彼女は、泡鳴氏に結婚を申込まれる前に、五年間もある人を思っていて、そして失恋している。プラトニックラブにやぶれた彼女は、国府津《こうつ》の海に 入水《じゆすい》したほど、「恋」に全霊的であり、彼女は事業も名誉も第二義的のもので、恋を生命としていたものは、それに破れれば現世に生きる意義を見 出せないとまでいっている。そして、その最初の恋を、心の底にいつまでも宿していた。
 彼女は、明治末期の、女性|覚醒《かくせい》期に生れあわせて、彼女は大きな理想のもとに、それまでの女性とは異なる、生活方針を創造しようとした。我 国において最初、覚醒運動を起した仲間の一人なので、彼女は彼女のゆく道を正しく歩もうと闘《たた》かったのだ。その理想主義者  泡鳴にいわせればロー マン主義者の、愛の闘争は、破れたといっても決して敗北とはいわれまい。
 そこへ忽然《こつぜん》と現われたのが、半獣主義を標榜《ひようぽう》する泡鳴だったのだ。
 明治四十二年十二月に、泡鳴は、突然面識もない彼女に、逢いに行って、二時間ばかりの問、率直に自分の半生の経歴を、告白的にあからさまに語りきかせ た。清子はそのおりのことを日記では、泡鳴氏の素行には同感できなかったが、恬淡《てんたん》な性質には敬意を持つことが出来たと書いている。
 その日はそれで帰ったが、五日ほどたつと、泡鳴は二度目の訪問をした。その日は清子の父親が来あわせていたので、
 「明日《あした》、も一度会見したい。実は、重大な御相談があるのだが。」
と言って帰っていった。翌日は、ちゃんとやって来て、こんどは家庭の事情を告白した。
 i妻とは名義だけであって、物質の補助をしてやるだけだからi
 「三年以上も絶縁しているのだが、妻の同意がないので、正式の離婚が出来ないでいるだけだ。」
 だから、気にかけないで清子に同棲《どうせい》してほしい、同時に結婚もしてくれと申込んだ。
 午後二時ごろ、お昼飯《ひるはん》をたべに、麻布《あざぶ》の竜土軒《りゆうどけん》へ行き、清子は井目《せいもく》をおいて、泡鳴と碁を二回かこんだ が、二度とも清子が敗《ま》けた。そのあとを、二時間ばかり、泡鳴が玉突きをするのを見物していたが、こうした友人づきあいが、すっかり打解けた気分には いりこめたものと見えて、幽霊坂の上でわかれる時には、引っこしの話までまとまって、新らしく家を借りる金を十五円泡鳴は清子に渡した。
 「愛のない結婚なんて、自身を辱《はずか》しめることだし、男を欺く罪悪だ。」
と清子は結婚は拒絶したが、一家に同棲して見るのは承知した。
 「無論、あなたの人格を尊重してー」
という約束をした。
 この約束は、突飛《とつぴ》なようでもあるけれど、二度の告白で、泡鳴の正直さは、正直な彼女の心に触れたのでもあったろうが、だが、彼女は独りになる と机の前で考えこんだ。愛は霊からはいったものでなければ本当でない、そして、正しい理智から出発したものでなければならないという、平常《へいぜい》か らの持論が拒んだ。
   あたしは、あなたに友情以上はもてない。
 そう書いて、預かったお金を封入してかえそうとするうちに泡鳴の方から手紙が来た。
 勿論《もちろん》第一条件だけでも拒絶されるよりもよいが、第二条件もなるべく考え直して承諾してもらいたいーそんな文面だった。
 「あなたは、樗牛《ちよぎゆう》を愛読することから来たロマンチスト、僕があなたのロマンチストになるか、君が新自然主義になるか。」
 泡鳴はそんなふうにもいったが、とも角《かく》共同生活にはいる話は、手っとりばやく纏《まと》まったの
だった。
 それまで、彼女は、五年間ばかりいた赤坂|檜町《ひのきちよう》十番地の家を引き払うことにしたのだ。拾った猫で、よく馴《な》れているのがいたが、泡 鳴が厭《きら》いだというので、近所へあずけてまで行くことにした。たしかに清子は、泡鳴に引かれたものであったには違いない。
 その前年かに、泡鳴は小説「耽溺《たんでき》」を『新小説』に書いている。自然主義の波は澎湃《ほうはい》として、田山花袋《たやまかたい》の「蒲団《ふとん》」が現れた時でもあった。
 ここで、泡鳴と清子の、不思議な生活がはじまることを書こうとする前に、婦人解放の先駆、青鞜社の文学運動が、男の連中をも、かなり刺激したことを思出した。生田春月《いくたしゆんげつ》さんが、花世《はなよ》さんに求婚したのも、そんなふうな動機だった。
 そしてまた、そのころは、自由劇場が、小山内《おさない》さんによって提唱され、劇運動の炬火《きよか》を押出した時でもあった。
 偶然といえば、今、わたしが机にむかっているところは、赤坂檜町である。十番地は乃木坂《のぎざか》のちかく、わたしの住居《すまい》の裏の崖《がけ》 の上になっている。いま、音楽家の原信子《はらのぶこ》の住んでいるところとの間になっている。あたしが、はじめに赤坂の家から遠藤清子のお墓にゆくとこ ろを書きだしたのも、ふと、その事を思ったからだ。しかも、泡鳴が清子を訪れたのは十二月の一日がはじめてで、十日にはもう大久保《おおくぼ》へ移転《ひ つこ》している。
 今日は、昭和となってから十二年、もっとも画期的な年の、南京《ナンキン》陥落をつげたその十二月であり、暦は廿二目だがー新劇運動の親、小山内|薫 《かおる》氏のなくなったのも、クリスマスの晩で、十年前のこの月廿五日の宵《よい》だった。そして、自由劇場再進出の計画が、市川左団次《いちかわさだ んじ》によって実現されようとしている。
 私は、霜白き暁を、多少の感傷をもって黙然《もくねん》としている。



 テトテトと、暁の霜に冴《さ》えるラッパの響きに、眠りついたばかりの床《とこ》のなかで、清子はうっすら眼をさました。
 歩兵一|聯隊《れんたい》の起床ラッパを、赤坂檜町の旧居で聴いている錯覚をおこしていたが、近くで猫が、咽喉《のど》を鳴らしている気もした。
 はっきりしない頭のどこかで、猫は近所へあずけて来たはずだがと、預けたとはいえ、空家《あきや》へ残して来た、黒と灰色との斑《まだら》の毛並が、老人《としより》のゴマシオ頭のように小汚《こぎた》ならしくなってしまっていた、老猫《おいねこ》のことがうかんだ。
 ーあれは、一ッ木《ひとぎ》の縁日へいった時、米屋の横の、溝《どぶ》っぶちに捨てられていたのを拾ってやったのだが、また宿なしになってしまやしないかしら。
 泡鳴氏が汚ながるし、厭《きら》いなので、捨てて来はしたが――
 と、そう思うと、引越しのとき、山のように積んだ荷車の、荷物の上へせっかく捨てた古柄杓《ふるひしやく》を、泡鳴氏は拾って載せたーあんなことをしな ければ好いのにと、見ないふりをして眼を反《そ》らしたが、冬の薄ら陽《び》が、かたむきかけたのを痩《や》せた背に受けて、古びしゃくを拾いあげて荷物 の上にさしこんでいる、厭《いや》だった姿が、まぶたの上にはっきりとした。
 「あ、赤坂の旧家《うち》じゃない。」
 パッチリと眼がさめると、猫だと思ったのは、隣室《となり》から、男のいびきがきこえていたのだった。
 ラッパの音は、戸山学校からきこえてくるのだった。大久保の新居に来ての朝夕、馴染《なじみ》のない場処《ところ》でありながら、赤坂に住んだ五年間と変らないのは、陸軍のラッパの、音をきくことだけだった。
 ilーもう、やがて、二十日ちかくにもなるー!
 目がさめさえすれば、妙にしょんぼりと、越して来た日のことが、目に浮ぶのが、この頃のならわしになっていて、十二月九日に泡鳴氏と、此処《ここ》に同 棲《どうせい》しはじめてからのことが、またしても繰返して思いだされるのだった。荷物を出してから、二人して来たこの家に、家主《やぬし》のところから 提燈《ちようちん》を借りて来て、二人は相対していた。冷《ひえびえ》々した夕闇《ゆうやみ》のなかで、提燈を抱《かか》えるようにして暖まったり、莨 《タバコ》を吸ったりして荷物のくるのを待った。お藝で夕食をすませると・もう荷物も着くだろうと、貂のなかを見廻して清子は言った.
 「とにかく、同棲しても、まだ友人関係なのですから、あたしの寝問《ねま》は、此処を茶の間にして、そっちの六畳ときめますから。」
 「では、僕は、八畳の方か。あすご、客間だね。」
と泡鳴氏はいった。二人は寒い、なんにもまだ置いてない室《へや》に眼をやった-iその寝間から、いびきは洩《も》れてくるのだった。
 「あんなに、泣いたり、怒ったりしても、よく寝られるものだ。」
 清子は毎夜のように持ちあがる、二人の間の暗闘――許す、許さぬの絡《から》みあいを思った。俺《おれ》は腹を切るといって怒るかと思えば、これほど熱 愛を捧《ささ》げる誠意を酌《く》まないのかと泣く男が、檬げつくと、ぐっすりと寝てしまうのを、不眠症になってしまって、朝まで眠れない自分とを思いく らべた。
   けれど、だんだん私は岩野を好きになっている。
と思わないわけにはゆかない。けれど、恋愛《こい》の芽もまだ宿してはいないと、心で頭《かむり》は横に強く振った。
 そんなことを思う傍らで、まだ移転《ひつこし》の日のつづきを思い出しているのだった。翌日に着いた泡鳴の荷物は、荷車に二台の書籍と、あとは夜着《よぎ》と、鉄の手焙《てあぶ》りだけだった。
 「僕は、なにしろ、蟹《かに》の缶詰《がんづめ》で失敗したから、何にもない。洋服が一着あるのだけれど、移転《ひつこし》の金が足りなかったから、質《しち》に入れてしまった。」
 その費用の幾分でも、分担しようと、清子が銀時計を出すと、
 「君の品《もの》なんぞ出さなくったって好《い》い。何しろ、樺太《からふと》で、蟹の缶詰で一儲《ひともう》けしようと思ったのだがlI蟹はあるが、缶の方がうまくいかなかったんだ。」
 彼はてれくさく、笑いながら言った。
 1良いところのある人だー
 清子は頬《ほお》をおさえた手に、頬骨がさわる気がした。毎朝見る鏡に、眼ばかり大きくなってゆくのがわかるのだが、こう段々に、夜が苦しいものになって来ては堪《たま》らないし、眼のさめた瞬間の心さびしさも、朝々ごとに、たまらないものに思った。
 腕力をもってくるなら、反抗する決心もあるが、沁《しみじみ》々と訴えられるのは愁《つら》い。自分の思想を守るのに、そんなごどで屈伏したり、陥落は出来ないとも思った。
 最初の「霊の恋」の対手《あいて》の男は、もう、すっかり醒《さ》めてしまっているのに、
 「あなたは、泡鳴氏と、もう結婚したのですか。」
と、この同棲の新居へ訪《たず》ねて来て言った。
 「どうとも、あなたの御想像にまかせます。」
と答えただけで、並んで月を見た。泡鳴もそれを見ていた。あとで嫌味《いやみ》をいったが、十月の冬の月は、皎《しろじう》々と冴《さ》え渡っていた。
 お互の胸は、刀と我々との距離だけの隔りを持っていると、その時はっきりそう思った。その男への執着でなく、霊の恋の記念のものだけが焼きすてかねて、再び見まい、手にも触れまいと、一包にくくって、行李《こうり》の底に押籠《おしこ》んでしまった。
 ーだから、言って見れば、泡鳴に、霊の恋が芽生《めば》えさえすれば好《い》いのだー
 けれど、それは、半獣主義を標榜する人に無理はわかっている。といって、それがそうならないからこそ、もろともに悩み呻吟《うめ》くのではないかー
 彼女は、窓の外の、軒端《のきば》で笑っているような、雀《すずめ》の朝の声をきくまいとした。蒲団《ふとん》をひきかぶるようにして、外は、霜柱が鋭 いことであろうと思った。なにもかもが、きびしすぎると感じながら、自分の主張は曲げられないと、キッシリと眼を閉じていた。見かけだけは仲の好い、新婚 夫婦に見えて、霊肉合致の域にいたるまで、触れさせまいとする闘いに、互に心肉の鎬《しのぎ》を削っている、妙な生活!
 去年の今ごろ(明治四十一年)は、日本婦人の権利擁護のために、治安警察第五条解禁の運動に朝から晩まで駈け廻っていたものだが、今年は肉と霊との恋愛合戦に、血みどろの戦いだ!
 彼女は、首を縮《すく》めて、ふとんをかぶると、大丸髷《おおまるまげ》が枕にひっかかった。
       *
 許す許さぬの解決はつかないままだが、日が立つにつけ、この同棲生活の厳寒も、いくらかゆるんで来た。いらいらした霜柱も解けかけて来た。杉の木の二、 三本あった庭には、赤坂からもって来た、乙女椿《おとめつばき》や、紅梅や、海棠《かいどう》などが、咲いたり、蕾《つぼみ》が膨《ふくら》んだりした。 清子の大好きな草花のさまざまな種類が、植えられたり種を播《ま》かれたりした。
 「まあ、あなたが、そんな事して下さるようになったわね。」
と清子がいうように、泡鳴氏が土をいじっていることがある。文壇の交友たちの話をきくことも多くなって、清子も小説を書こうと思いたったりしはじめた。
 一ツ石鹸箱《シヤボンばこ》をもって、連立《つれだ》って洗湯《おゆ》にゆくことも、この二人にはめずらしくはなかった。男湯の方で、水野|葉舟《よう しゆう》や戸川|秋骨《しゆうこつ》氏と大声で話合っているのを、清子は女湯の浴槽《ゆぶね》につかってのどかにきいていることもあった。今日も、一足お くれて帰ってくると、家《うち》のなかで女の声がしていた。
 「いま現金がないから、そのうち金のある時に返すといっているのに。肯《き》かないのか。」
と、言っていたが、            .
 「さあ、これが証文だ。」
 何か書いて渡している様子だった。帰してしまうと、六畳の部屋へ顔を差入れて、化粧をしている清子の鏡のなかへ、自分の顔をうつしこんだ泡鳴は、
 「彼女《あれ》だよ、放浪(小説)のモデルの女は。缶詰事業のとき、彼女《あいつ》の着物も質に入れてしまったので、返してくれといって来たのだ。金がなければ、証文にしろといって、持っていった。」
 清子は、今帰っていった女のことなどは、あんまり気にならなかった。鏡にむかって、鬢《びん》を掻《か》きながら、思いだしていたのは、いつぞや、此処へ来て間もなく、やっぱりお湯から帰ってくると、主客の問答を、襖越《ふすまご》しにきいた。
 「まだか?」
 「まだだ。」
 その時の客は、正宗白鳥《まさむねはくちよう》氏だったのだ。泡鳴氏の友達の方には、もっと手厳しいのがあって、ハガキで、そんなことをしていて、清子 に男が出来たらどうするとか、彼女は生理的不具者なので、よんどころなくそうしているのだろうなぞといってきているのもあるのだった。
 清子には、そんなことはなんでもない非難だと思えた。それよりも辛抱のならない女客があることが厭《いや》だった。それは、泡鳴氏の先|妻幸子《さちこ》だ。三年前から別居しているという彼女は、冷やかな調子で、
 「私は、貰《もら》うものさえ貰えば好《い》いんですからね。どうせ、この夫《ひと》とは気が合わないんだから、この夫《ひと》はこの夫《ひと》で、勝手なことをなさるがいいんです。あなたとは、気があっているそうだから結構でさあね。」
 永遠性を誓えない邪恋を押退《おしの》け純一無二のものでなければならないと、賤《いや》しむべき肉の恋をごはんで、苦しむ身に投げつける言葉のそれ は、まだ忍耐《がまん》するとしても、名ばかりの夫妻とはいえ、夫が厳冬の夜《よ》も二時三時まで書いていることを、この女は知らないのだろうか、文学家 の朝夕《ちようせき》は、思ったより悲惨なものであるのに、その金を催促に来て、いう言葉がそれなのだ。
 ーあの、賤しい女に、何《なん》で、わたしは見下げられるのだーと、ふと、そのことを、いま、帰っていった、襖《ふすま》の向うの女の声から、連想を呼び出されていたところだったのだ。
 「なにをぼんやりしているのさ。」
 泡鳴氏は、はりあいなさそうにいった。
 「ふん、これね、なんだか冷たい恋のようで、わたしたちに似ているから。」
と、清子は心にもないことをいって、はぐらかして、生けてあった連翹《れんぎよう》の黄色い花を指さしたが、鏡の中に、陰気くさい、気むずかしい顔をして いる自分を見出すと、彼女は、またしても家のなかの空気を暗くしてしまう自分を、どうしようもなくなって、気をかえに散歩にでも一緒に行こうと、立上る と、八畳の部屋を覗《のぞ》いた。すると、泡鳴氏は後むきになって横になっていた。清子はその背中から、悶《もんもん》々としている憂愁を見てとった。
       *
 「僕はもう諦《あきら》める。僕にそういう心を起させるものを切りすてる。泣くには及ばない。」
 せせぐり泣く枕許《まくらもと》で泡鳴はそういった。そんな事をさせてはならないと、二十八歳の処女は泣いたのだ。とはいえ、ニッの思想が同棲している以上、この争闘《あらそい》はくりかえされなければならない。
 彼女は、どうかすると早起《はやおき》をして、台所に出たり、部屋の大掃除をしたり、菜漬《なづけ》をつけたりする。と思うと、戸山が原へ、銀のような 色の月光を浴びにいったりする。「別れたる妻に送る手紙」という小説を書いた、近松秋江《ちかまつしゆうこう》氏に同情して、この人のロストラブの哀史 を、同情をもって読んでみようと思うといったりしていた。
 立場の違う苦しみに、互に、弄《なぶ》り殺しのような日をおくりながら、二人の相愛の気持ちは日々に深まっていったのだった。日記をつけるのにも、岩野氏とか、泡鳴氏とか書いたのが、「君」となったが、三刀ばかりするうちに、・王人《あるじ》という字になった。
 「あの女《ひと》って、随分失礼な女《ひと》だ。不作法ったってなんだって、教養のある婦人《ひと》だというのに、いつだって案内もなしで、いきなり上りこんでくるなんて我慢が出来ない。」
 彼女は先妻の幸子が、いつもの癖で、ずかずか上り込んで来て、例《いつも》のくせで、朝、起きはぐれているところを、荒い足音で、わざと目をさまさせられたのを憤《いきどお》った。
 中学教師をしていた時代の泡鳴と、女学校教師だった幸子とは、泡鳴が樺太《からふと》へ蟹の事業をはじめる前に別れたのだが、清子は友人同棲をはじめて からも、幸子に同情して、泡鳴に復帰するようにさえ勧めたこともある。米や炭を送って、幸子の生活をたすけもした。それなのに、何|時《つ》も来ると、自 分が|退《の》いてやっているのだぞといわないばかりの仕打ちに、清子は腹を立てた。
 だが、そんな不愉快な日ばかりもなかったのは、若葉の道を|蛇《じや》の目傘《めがさ》をさしかけて、連れ立って|入湯《おゆ》にゆくような、気楽さも楽しんでいる。
 ー|主人《あるじ》の体量、万年湯ではかったら、十四貫三百五十|目《め》あったといって、よろこんでいら
つしやったと、日記につけたりしている。
 暑い晩に、泡鳴は半裸体で原稿を書き、彼女は|傍《かたわら》でルビを振っている。と、|青蛙《あおがえる》が飛び込んで来た。泡鳴は|団扇《うちわ》 で追いまわし、清子も手伝った。灯《ひ》によって来た馬追虫《うまおい》もいる、こおろぎもいる、おけらもいるという騒ぎに、|仔犬《こいぬ》もはしゐ、 いで玄関から上ってくれば、飼猫《かいねこ》も出て来た。虫のとりあいをして、猫がこおろぎを食べると、犬がくやしがってワンワン吠《ぼ》えたてた。
 「まるで動物園だ。」
と泡鳴が笑っているという図もあったりした。家庭生活にそこまで、犬も猫もきらいな泡鳴をひっぱりこみ、浸らせた清子の、一筋でない信念の強さがそれでも 知れるが、そればかりではなかった。泡鳴は、そうした|和《なご》やかな|団欒《だんらん》には、勧進帳をうたったりなんかして、来あわした妹に、こんな ことは兄さんはじめてだと、びっくりさせたりした。
 i進んでノラともなれず、退いて半獣主義に同化することも出来ない。恋と思想と一致しない。私たちは常に絶えざる苦悶《くもん》と懊悩《おうのう》とを免かれない。しかも君に対する恋の執着はどうすることも出来なくなっているー
 それは偽りのない彼女の告白だ。
 泡鳴は、金が出来たら広い場処に移って、鍵《かぎ》のかかる部屋をつくってあげようといい、結婚式は立派にしようと、優しくいった。
 けれど、けれど、清子の思想は主張は、強かった。四十三年の一年は、その相剋《そうこく》をつづけて、四十四年の一月、熱海《あたみ》への三泊旅行も、以前の関係のままで押通した。
 熱海の間歇《かんけつ》温泉ではないが、この、珍無類夫妻の間には、間歇的に例の無言の闘争が始まるのだった。そして、彼女は終日|唖《おし》になり、泡鳴はいろいろの所作をした。
 「泣いたり、怒鳴ったりするのは、まだ悲しみや怒りの極《きわ》みじゃない。悲痛の極《きよく》は沈黙だ。沈黙が最も深い悲痛だ。」
と、泡鳴は言った。
 飽満《ほうまん》の後《のち》にくるたるみならば、まだ忍べるが、根本の愛の要求に錯誤があるからだと、彼女は悩みになやみぬいた、その夜の夜明けに、いよいよ気分をかえて、新しく彼を愛してゆこうと決心した。
 「理智の判断を捨ててしまって、盲目に恋に身を投げだそう。そうしたら泡鳴も満足し、自分の淋しさも消えるかもしれない。」
 自分を没《な》くなすことは、もっと大きな自分をつくるために必要かもしれないと、彼女は自分に言いきかせた。そして、それをするならば、それは今日だ、この覚悟が崩《くず》れないうちにと思った。
 打明けるには、快《こころよ》い顔をしていたかった。気分を軽くするために、晴れた日の下に出た。お友達の家《うち》で闘球をして遊んで、夕ぐれになっ て帰るとき、これならば、心から笑って話せると思った。新しい恋人の心持ちで話しあおうと急いだ。はずみきって玄関から上りながら、旦那さまおうちときい たら、婆《ばあ》やは、お出かけですと答えた。
 清子の勢いこんだ覚悟は挫《くじ》けてしまった。
 泡鳴氏も苛《いらいら》々して酒ばかり飲んだ。そして、
 「私は不幸な男だ。あなたも不幸《ふしあわせ》だ。その上、貧乏はする。さぞ詰らないだろう。」
とつくづく言った。精神的にも、物質的にも、なんとか打破しなければいけない。それには、生活をすっかり改《か》えるのに、限ると思ったためかどうか、 『大阪新報』に入社することになった。後《あと》から清子も行くことになる前に、音楽家の北村氏夫妻が、新劇団体をつくるのに、女優にならないかと勧めら れて、清子の心は動いた。
 「僕は自分の妻を、公衆《ひと》に見せるのは嫌《いや》だな。」
と泡鳴は反対した。それには、うんといわなかった清子も、稽古《けいこ》を見にいってくると、すっかり厭《いや》になって断ってしまった。
       *
 いよいよ泡鳴が大阪へ出立《しゆつたつ》する二日前の、三月廿六日の日記には、
 ――-私の心は黒い夜の森のような、重い空気につつまれているー
と清子は書いている。二人で…饑《う》えても離れて心配するよりいいというような泡鳴からの手紙を読むと、想思の人が東西を離れるようになるとは、ほんと に憂世《㌃つきよ》ではあるといい、苦労をともにする人は、呼べど答えぬ百余里の彼方《かなた》の難波《なにわ》の宿にいるといい、すこしばかりの金を手 にすると、この金を旅費にして、大阪17一ゆこうかしら、会いたいのは私ばかりでもあるまいからと、一緒にいれば、争闘《あらそい》つづける泡鳴を恋い 慕った。蛙《かえる》の声が気のせいか、オオサヵオオサカときこえるともいうようになっていた。
  君帰り物語りすと見しは夢、ふとうたたねの春宵《しゆんしよう》の夢
  君住むは西方《せいほう》百里|飛鳥《とぶとり》の、翼うらやみ大空を見る
と、だらしがないほど彼女は恋しさを告白するようになった。
 とうとう、婆やを連れて、大阪へ、家財道具そっくり持ってゆく日が来た。
       *
 大阪郊外池田山の麓《ふもと》に家居《かきよ》した彼女は、汽車に乗っただけで、郊外から郊外へ移って来たほど気が軽かった。
 青菜に靄《もや》のかかる宵は、青葉の匂いのはげしいころだった。おなじような郊外の住家《すみか》というが、二階から六甲山も眺められる池田での生活 には、彼女はガラリと様子が一変してしまった。主人《あるじ》が、今朝《けさ》のお出かけには御機嫌がよかったのに、お帰りになってから悪い、私がお出む かえしなかったからだろうか、なんぞというようになった。だが、それは表面だけで、四十四年五月十一日の日記には、
   私は結婚生活に経験がない。始めて男性に心身を許してしまった今日《こんにち》、私の結婚生活に対する幻影は早くもさめてしまった。古人が結婚は恋 愛の墓だといっている。私は、恋人の努力によって、内外一致した恋愛生活が、真の結婚生活だと信じていた。結婚を葬るのは、当事者の努力が足りないためだ と思っていた。しかし、これは私一人のイリュージョンかもしれないー
と、何処《どこ》やらに絶望を噛《か》みながら、それでも、純一に夫を愛そうと、恋の自伝を書くために、行李《こうり》の底へ押込めておいた、五年間もつ づけたという霊の恋の、形見の書簡を、陶器《せともの》の火鉢をひっぱり出して燃してしまった。電燈が薄ぐらく曇る煙りのなかで、泡鳴を揺り起して見せる と、
 「妙なことをする人だ。急に何を思出したんだ、この夜更《よふ》けに。」
と、もうそんな事には興味ももたなかった彼は、ともすると、
 「なにも、いやいやいてもらいたくない。」
というようになった。
       *
 前号〔『婦人公論』一九三八年二月号〕に、荒木郁子さんに養われて、震災の時に死んだ男の子を、清子の実子でないように書いたが、それは、あんまり諸方 |訊《瀞さ》きあわせたための行きちがいであった。生田花世さんは、その頃、ペンネームを長曾部《ながそべ》菊子といわれたが、芸術まず生活の実行から と、水野葉舟氏の家に女中奉公をされていた。仲のよかった岩野、水野の両家の交わりは、紫紺の釣金《つりがね》マントを着て、大丸髷の清子女史を伴なった 泡鳴氏がお得意の面《おも》で、
 「清子も、とうとう僕の子を、ここへ入れている。」
と、細君のお腹《なか》をさして、満足気にいってたのを見て知っているということだった。
 釣鐘マントの流行は大正三、四年ごろだった。その時分に、この夫妻は大阪から帰って、東京|巣鴨宮仲《すがもみやなか》に住んでいた。四年の夏のころ、 清子の健康はすぐれていなかったことや、大正十二年に九歳位だというのにも合っている。しかも、泡鳴氏が清子さんに別れる時、
  「もう、あなたとも、永久のお別れですね。」
といったとき、泡鳴氏はこういっている。
  「おれはそうは思わない。いつ喧嘩《けんか》して帰って来るかも分らない。それに坊やは時々見にくるよ。」
 泡鳴氏は、そのころ、筆記者に雇った蒲原房枝《かんばらふさえ》(後《のち》の夫人)と、不義の交わりがつづいていたのだった。
  「蒲原とのことならば、もう一月も前から……が出来《でき》ていたのだが、私はあなたに対する尊敬は、今日でも持っている。」
とその関係を軽い調子で告白したのだった。
 それは、清子にとって、重大なことだった。同棲して七年間、泡鳴の品行に一点の汚点もなくなったことは、清子の誇りでもあり、泡鳴の誇りでもあったの だ。多年の放縦《ほうしよう》生活を改めたという、家庭の美事光明《びじこうみよう》が、一瞬にひっくりかえってしまったのだ。
 清子はその侮辱を、冷静に考え処理しなければならないと思ったが、昂奮《こうふん》した。謀反者《むほんしや》の問にいることがたまらなかった。
 蒲原房枝は彼女にこういった。
  「こんな関係になりましたからって、決して定まった月給よりほか頂こうとは思っていません。私は、お金をもらって囲われているようなことはしたくないのです。」
 それからの泡鳴は、いっそ知れてしまったのをよい事にして、夜ごとに公然と、蒲原のところへ出かけて行くようになった。
 千仭《ぜんじん》の底へつきおとされた気持ち-――清子にとって、それよりもたまらないのは、そうなっても夫婦関係をつづけようと.することだった。
 別居か離別か、そのニッに惑った彼女は、青鞘社《せいレごつしや》に平塚|明子《はるこ》さんをたずねた。
 別居する決心がついた。収入の三分の一一を渡してもらって、子供を養い、妻としての権利をもつのを条件に、私製証書は二通つくられた。
 あんまり事件《こと》が突然なので、誰も彼もびっくりしたが、岩野氏はあっさりと、荷物を積んだ車と一緒に、
 「さようなら。」
といって出ていってしまった。
 白々《しらじら》しい寂寞《せきばく》!
 彼女はこんなことをいったことがあ.る。
 「あたしは芝で生れて神田《かんだ》で育って、綾瀬《あやせ》(隅田川《ずみだがわ》上流~)の水郷《すいこう》に、父と住んでいたことがある。あたし の十二の時、桜のさかりに大火事に焼かれて、それで家《うち》は没落しはじめたのです。その時の、赤い赤い火事に、幼い心をうたれた紅さと、泡鳴氏が出て いった夏の日の  八刀でしたが、あの真昼の、まっ白な空虚さは、心からも、眼からもわすれられない。」
       *
 その後の清子さんは、切花《きりばな》や、鉢植の西洋花を売る店をひらいた。
 泡鳴氏からの物質は約束通り届けられなかったものと見えた。後には、店の面倒をよく見てくれたり、深切にしてくれた青年と結婚した。大正九年に、その人 との中に女の子が生れたので、夫の郷里京都へ、もろもろの問題を解決に旅立ったが、持病の胆石が悪化して、京都帝大病院で亡《なくな》った。
 暮の押迫った時分だった。『青鞜』はもうなくなったが、新婦人協会の仕事で、平塚さんは東京が離れられなかった。ありったけの手許の金を送ってやると、
 「まあ、あの人も、仕事のことで、いま、お金がなくって困っているだろうに、送ってくれるなんて、少しでも、これは実に尊いお金だ。」
と、悦んだが、その時分には死を充分覚悟していて、泡鳴氏との遺児を、友達に頼みたいということを、遺言の第一に書いた。
 悲しい結びつきであった。泡鳴氏にしても、大正四年四月、「新体詩作法」と、「新体詩史」を合したものを提出して、博士論文を要求していたのだが、審議 に上《のぼ》っていた時に、清子さんと蒲原房枝とをめぐる事件の、世評がやかましくなったので、殆《ほとん》ど通過する間際《まぎわ》になって否定された ということだ。
 廿入歳まで、霊肉一致の、恋愛至上主義に生きぬこうとした意志の強い女性の、ほんとにこれは、断片を語るにすぎないが、彼女が、泡鳴氏との同居に、頑固《かたくな》なほど身を守っていた明治四十三年は、幸徳《こうとく》事件があったりした時だった。

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