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菊池寛「六宮姫君」


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六宮姫君
 今は昔、六の宮と云う処に、宮腹の子に兵部の大輔《たいふ》と云う人が住んでいた。
 宮腹の子というのは、皇族の女性を母に持っていると云うことである。それは内親王、もしくは皇族の姫君の子であると云うことを意味するが、然し時めいていると云うことにはならない。
 藤原氏の全盛時代だったから、皇族であると云うことが権勢を意味していなかったし、宮腹と云うことも系図の尊貴を示していても、栄華を示していなかった。この話の主人公のように、むしろ後世の貧乏公卿と云うような意味にさえとれるのである。
 兵部大輔と云っても、それは一度兵部大輔を勤めたと云うことで、現職ではない。兵部大輔の位は、正五位下である。殿上人《てんじようびと》には違いないが、最下位である。現職を離れていては、丘節《ぐせち》の式会《しきえ》などに、参内するだけである。
 現職に在る間は、衣食を賜うが、それを離れると、たゞ位田だけで生活する外はない。位田と云うのは位についている田地である。正五位は、わずかに十二町である。
 しかも遠国の越前に在ったから、途中の運送難で、年に五、六十俵の米しか届いて来ない。しかも、折々は途中で、盗賊に掠《さら》われて、一俵も届かない年さえもある。
 屋敷は、父祖似来住んでいるもので、宏大なものであったが、二十年来何の修繕もしないから、寝殿など破損してしまって、雨洩れが幾個所も出来て、使用に堪えなくなっている。
 泉殿《いずみどの》や、西の対《たい》も寝殿同様にあれている。東の対だけは、どうやら手を加えて、こゝに全家族が住んでいる。主人の兵部大輔と北の方と娘一人と、その外は乳母と女中が二人と下男が三人である。二、三年前までは、牛車《ぎつしや》もあったが、車が破損して以来は、牛飼の童《わらべ》だけが下男として仕えている。主人や、北の方が外出する時は近所に住んでいる親戚の家から、一時車を借用する始末である。主人は、こうした窮境を脱しようとして、四、五年前までは、年々|除目《じもく》の行われる前は、いろいろ運動していた。
 除目と云うのは、一年の初に行われる官吏の大更迭である。一度だけは、どんな遠国でもいゝから国司になりたいと思っていたが、はかばかしい友人もない彼を、推薦してくれる人は、誰もなかった。年々の除目にもれている裡には、到頭あきらめてしまった。
 こうなって来ると、希望は、たゞ娘一人にかゝっていた。北の方は、染殿《そめどのき》の后《さき》の孫娘に当っていた。染殿の后と云えば、関白良房の娘であったが、本朝一と云われるほどの美しい方であった。
 一年《ひととせ》、物の怪《け》に煩わせられて、あらゆる御祈り修法《ずほう》をとり行わせられたが、露の験《しるし》もないので、大和国葛城山の頂きに住んで居る貴き聖人を、宣旨を以て御前に召して、加持をさせたところ、その験著《しるしあらた》かにして、忽ち御悩《このう》が癒えた。が、その時后のお姿をかい間見た聖人が、道徳堅固の身でありながら、あまりに端正美麗のおん姿に、心が迷い気が砕けて、深く愛欲の心を起し、現世では思いのままにならないために、自ら食事を絶って死して、悪鬼となり、后を
悩まし奉ったと云う伝説がある后である。多分、これが歌舞でやる「鳴神上人」の原話であろう。
 こうした血筋を引いて居られたから、十五になられた春には、白木蓮の蕾のような、得ならぬ気高い美しさを持って居られた。父、兵部大輔も母、北の方も、掌の玉と鍾愛《しようあい》されて、起きては母君が片時も傍を離れず、夜は父母の問に寝せて、めでいつくしむ事、限りがなかった。
 殊に、母君は娘が女御更衣《にようここうい》に召されても、また関白や大臣《おとど》などの公達《きんだち》が通って来られても、恥ずかしくないようにと、女|一通《ひととおり》の学文や諸芸を、心をこめて教えていた。
 男の子を持たぬ兵部大輔夫妻の希望は、この娘が然るべき公達と、情縁を結ぶと云うことが、たゞ一つの希望であった。またどんな公達が通って来られても、この娘なら、おろそかに思われる筈はないと云う、心の誇りを持っていた。
 然し、何分にも貧乏なので、権門勢家の人々との交際など、思いも及ばなかったし、また姫自身として、四季折々の晴着などあるわけはない。物詣遊山などに、一度も出て行ったこともないから、然るべき公達の眼にふれる機会など、さらくあるわけはない。
 その上、姫についている乳母が、苦心して相手を探そうと云う熱意も才覚もなかったから、姫はまるで、深山の花、深海の底の白玉のように、人の眼にふれないで十五、十六、十七と、あたら花の盛りを過されてしまったのである。
 姫が、十八の春を迎えられた正月に、父、兵部大輔は、ふと風邪が因《もと》ではかなく世を去ってしまった。すると、まるで良人の跡を追うように、母、北の方が、その年の五月の初に、これもそれほど重い病気だと思われなかったのに、日にく哀えて行って、ついにはかなくなってしまった。
 世にたゞ一人、取り残された姫君の悲しみは、限りもないものであった。感情的にも致命的な痛手であったが、それに劣らない生活上の痛手が伴った。主人が死んで、男子の後継《あとつぎ》がないと、位田が半分になってしまうのであるつ。その上、女手では遠国への督促なども、はかばかしくは出来ないので、年々送って来る供米が、いよく心細くなってしまうのである。しばらくの間、数多くあった道具などを、売って暮していたが、それもだんだん残り少くなった。消極的であった乳母も、今はいろく知り人の問をかけ廻って、姫のために、頼みになるような相手を探す外はなかった。
 姫が十九になった秋の初である。漸く候補者が、一人見つかった。それは、乳母の兄弟である僧の仲介である。それは、越前の前《さき》の国司の長男である。廿二、三歳であるが、形も美しく、心ばえも直《ただ》しい方《かた》で、通って来られても、決して恥ずかしい方ではない。又、その父君が、今は非役であるが、元来参議の次男であるから、来年の除目に、必ず国司として相当の大国に赴任されるに違いないと云うのである。参議と云えば宰相とも云われる大納言中納言に即《つ》ぐ太政官の官吏で、位も三位以上で、いわゆる公卿もしくは上達《かんだち》と云われる。
 しかし、深窓に育って、慎《つつま》しい内気な姫は、こう云う話にも、乗気にはならなかった。男を持つことが、生活のためだと思うと、たゞ悲しいだけであった。乳母から、この話を持ち出されたときも、肩にかかる黒髪を乱して、さめみ丶と泣き伏してしまったのである。もちろん乳母に対して、はかぐしい返事などするわけはなかった.
 乳母が、どんな返事を先方へ与えたか分らないが、相手の男からは、その後いく度も玉章《たまずさ》や歌などが届けられた。乳母が、姫に見せても、返事など書こうともしないので、乳母は一人残っている召使の姫より二つ年上の女が、手など割合よく書くので、それに云いふくめて、代筆をさせた。・そうした手紙のやりとりも、男を動かしたと見え、男からの贈り物として、車|一輛《いちりよう》にいろくな財宝がとゞけられた。米も十俵ばかりあったし、絹も麻も十反|宛《ずつ》位あった。後世の結納である。
 乳母や召使達は、幾年目かに、春が廻《めぐ》って来たようによろこんだ。
 当時のこうした男女の交渉は、妻になるのか妾になるのか、甚《はなは》だハッキリしない。私通に近いものである。結婚式と云うようなものは、ないのである。男の家へ女を迎えるのでなくて、女の家へ男が、通い始めるのである。尤《もつと》も、その男が一家の主人になった場合は、北の方として女を迎えられるのである。かつて、アメリカでリンゼイと云う判事が提唱した友愛結婚試験結婚と云うものに似ている。だから、もちろん男の方で、倦きてしまって、だんく足が遠くなる場合もあるのである。だから、一人の男性で、幾人もの女に通っている場合もある。だから、日本武尊《やまとたけるのみこと》は、東征の途中尾張で、宮津姫を寵幸遊ばされたが、相模の海を渡るときは弟橘媛《おとたちばなひめ》を伴わせられたと云うことになっている。武将源義朝は、蒲には範頼の母が、尾張には頼朝の母がいたし、美濃では青墓の長者の娘がいたし、都には常盤御前がいた。どの女も、妻でもなければ妾でもない。又、妻でもあり妾でもあると云ってよい。その中で、家柄の血統正しい女が生んだ子が嫡子である。
 話は余事に亘《わた》ったが、とにかく車一輛の贈り物をしてから、通い始めると云うのは、当時にあっては、ちゃんとした手続を踏んだ方で、(春の夜の夢ばかりなる手枕《たまくら》)のような無責任な求愛ではないのである。
 が、姫は初めて、男に相|見《まみ》えることの恥ずかしさや、怖しさばかり先に立って、そうした贈り物を見て、たゞ、けうとげに、眉を曇らせているだけである。
 乳母は、一家の事情を説き、姫が婚期を過ぎて居り、もう二十《はたち》の声を聞いたら、いよいよ縁遠くなるだろうと嘆いて、どうにか姫の気持をあきらめさせた。
 その頃は、十二、三から十五、六までが、婚期だと思われていた。
 十月末の吉日、初めて男が姫の家に通って来た。白馬に跨《またが》り、狩衣《かりぎぬ》に白銀《しろがね》づくりの太刀を佩《は》いた青年の姿は立派であった。
 馬の口を取る童《わらべ》一人を従えていた。姫の室で、さし向いに杯を手にした二人の姿に、乳母や召し使いの女も、涙がさしぐまるほどよろこんでいた。いかなる、やんごとなき上達部《かんだちべ》の夫婦だと云ってもよいほど、二人とも上品で美しかった。
男は、ろうたけた姫の姿に、ほれぐとしているようであった.姫も凛々《りり》しい男の姿に、うつむきがちな瞳をときどき向けているようであった。
 男はそれ以来毎夜のように通って来た。姫も、たそがれ近くなる頃から、いそくと男の来るのを待っていた。綾《あや》、絹、鏡、燭台《しよくだい》、手箱、櫛《くし》、白粉《おしろい》など、いろ/\女の衣《きぬ》や調度など、男の心づくしの品々が、時折運ばれて来た。貧しさのために、寒々となっていた姫の室は、春が来たように、なまめかしくはなやかになっていた。
 二人の間は、水さえ洩れぬように、こまやかであった。
 が、二人の幸福は、長くはつゞかなかった。年が明けた翌年の正月の除目《じもく》で、男の父は陸奥の国司に任ぜられた。これは男の家にとっては、大変な盛事である。陸奥は、現在の会津、宮城、岩手などの総称であるから、大変な収入を意味して、源氏がその財力を貯えたのも、頼義、義家と、陸奥の国守に歴任したからと云われている。任地が、遠国であるのを償って余《あまり》あるのである。
 だから、男の一族は喜びさわいだ。が、男と姫とにとっては、容易ならぬ大事であった。それは、父の太郎(長男の事である)として、男は父と同伴して、任地へ行かねばならなかった。近国ならば、国司がその家族の女性を伴うても容易である。しかし、陸奥とか出羽、大隅薩摩などになると、婦女を同伴することは容易でない。尤も、伴われてゆく女性が、道中での艱難《かんなん》や任地での苦労を忍びさえすればいゝのである。しかし、今の場合、男はまだ父に姫のことを云っていなかった。父に云い出せないような、身分違いの相手ではなかったが、男は姫との話がある少し前に、伯父から話があり、父も希望していた縁談を断っていたのである。が、男は相手の姫を知っていた。背が低くて少し眇《すがめ》である。いくら、父が大納言で、金もあり権勢もあると云っても、処世上の目的だけで、そんな女の許に通う気はしなかったのである。
 父は、その時腹を立てないまでも、かなり不興であった。その事件があっただけに、いくら宮腹と云っても、兵部大輔つれの娘との話は出来なかったのである。
 だから、今になって、打ち開ける事は出来るにしても、その上に相手の娘を、奥州へまで連れて行こうと云うような許可を得ることは、絶望に近いのである。
 男が、こうした大事情を姫に話すのは、たいへんで心苦しいことだった。姫を納得させるのには、五日も六日もかゝった。
 国司の任期は、五年である。馴れ染めてまだ、いく程も経たない夫と、五年間別居することなどは、はかばかしい身寄もない姫にとっては、致命的な事であった。姫は、いく夜もいく夜も泣きつゞけた。
 が、結局、こう云う場合の最後の言葉通り、幾年でもお帰りを待っていますから、どうか私を忘れないでくれと云うより外はなかった。
二人の問が、もう少し薄情《うすなさけ》であったならば、男は(はるぐ奥州まで下るのであるから、到底再会は期しがたい。その間、貴女が、私を待っているのも、はかない事であるから、その間に頼もしい相手でも在ったら、世話になっても、決してわるくは思わない)と云うように云ったかも知れない。また、こう云うことを云っても、可笑《おか》しくない位、むかしの男女関係は、ボンヤリしていたのである。国司やその役人が、任国へ行けば、また其処で別の女の許へ通うなど云うことは、ありふれた事であったのである。
 が、二人の問は、そんな普通の交情ではなかったから、男はそんな事は、口にも出さなかったし、考えてもいなかった。
(五年などは、待たさない。きっと何かの機会を得て、二、三年で都へ帰って来る)その間の生活の料にと、男は米や絹やいろくな物資を、姫のところへ運んで来たのである。
 こうして、男は奥州へ下って行ったのである。
 奥州に下った男は、六の宮の姫の事を忘れはしなかった。年に一、二度は、消息や、物などもことづけたが、みんな片便りで、女からは何の返事もなかった。二年経ち、三年経った。男は、姫の消息が気になったが、父が男を国府の役人にしたので、都へ一人で上ることなど、到底出来なかった。たゞ国司の任が終るのを千秋の思いで待つばかりであった。もう、半年で任が終ると云う頃であったが、男は国府の用事で隣国である常陸の国司のところへ使いに行った。
 都人《みやこびと》と云えば、自分が召し具して来て年中顔を合わしている連中だけである。しかも、隣国の国司の太郎と云うのであるから、これは大変な珍客である。国司は、心をこめて歓待した。使命はほんの儀礼的なものだから、一日で終るのだが、国司は容易に還そうとしない。毎日のように、狩に案内したり、鹿島香取の両宮へ、自分が案内で詣でさせたり、心をつくしてのもてなし方である。その間、度々宴会も催され、そこで北の方にも姫にも紹介された。
 一の姫は、十六であった。国司の心では、もうこゝ一年の裡に婿を取りたいのである。それだのに、田舎では相手がない。実際、常陸へ赴任して来るとき、この一の姫を連れて行くかどうかについて、夫婦の間に、相当悩みがあったのである。片時も傍を離したくないほど、寵愛していたため、連れては行きたいが、連れて行くと婚期を失する怖《おそれ》があるから、然るべき親類に預けて、年頃になったら好もしい男を持たそうかとも考えたのである。
 が、本人の姫が、どうしても両親と離れたがらないので、はるばると伴って来たのである。それだけに国司も北の方も、隣国の国司の太郎を見た時に、忽《たちま》ち心が動いたのである。暫風采と云い器量と云い、大臣宰相にしても恥ずかしくないほど立派である。物言いも振舞いも、都人の典型である。あまさかる鄙《ひな》で見る故などでは、露さらないのである。
 娘に当って見ると、顔を赤めてさしうつむいたが乳母に訊いて見ると、娘も新しい物思いに沈んでいるとの事である。それならば、乳母にお前が取りもって見うと云ったが、二、三日して、乳母が云うには、あさか山の歌をお姫さまに短冊にかかせて、これはお姫様のお手だと云って、あの方に御覧に入れると、(美しいお手だ)と云っただけで、歌の心などは、全然気がつかないようだとの返事である。
 あさか山の歌と云うのは、当時今のいろは歌のように、習字用に使われていた歌で、
あさか山影さへ見える
    山の井の
あさくも我は
    君を思はなくに
と云う歌であり、誰でも知っている恋歌である。
 よほどの馬鹿でない限り、それが求愛の手段であることに気がつかないわけはない。気がついていて、何の反応も示さないとすると、好色心《すきこころ》などの少しもない青年である。そう思うと、常陸の国司は、自分の口から彼に娘の婿になってくれと頼んだ。その代り、今常陸|大掾《だいじよう》が病気で辞したがっているから、その後任になって貰う。そして、自分の任期は三年で終るから、それまで辛抱して貰う。三年経ったら、一緒に上京しよう。やがては、都近い国の国司になれるように、自分が尽力すると云うのである。
 この国司の父は、近衛中将をやつていた人である。今三十五だからこの人も中将までなるだろう。その一番上の伯父は、右大臣である。一門に、宰相も一人いる。国司の中でも金持だし、権勢もある人だし、そういう約束は、ハッキリした実現性があるのである。しかも、一の姫と云うのも、色白く愛嬌《あいきよう》のある娘である。
 もし、彼《か》の女がなかったら、こんな好ましい縁談はないのである。もっとも、京の女があると云うことは、婿になると云うことの邪魔にはならないのである。二、三人も女を持つと云うことは、この時代の男子の良心の負担にはならないのである。彼の場合も例外ではない。が、そのために、約束した五年よりも、更に三年都の女を待たせると云うことは、どうにも忍びない事であった。
 彼は、五年間を少し切り詰めることが出来なかった事でさえ、心を苦しめていた。まして、これ以上三年も帰京が遅れることは、どうにも忍び得ない事だった。
 客σ身として、そう露《あらわ》には答えられなかった。父に相談してとの口実で、ともかくも常陸の国司の館を出たのである。
 が、陸奥へ帰って十日と経たないのに常陸からの使者が来た。
 それは、彼の返事を督促するのではなく、父の国司に直接に、縁談を申込むためであった。
 その申込に接した父は、有頂天になって欣《よろこ》んだ。その縁談は、息子の一生に取ってパスポートのような気がした。むかしは、官吏以外に世に現われる道はなく、官吏たる以上は、役は一階でもいゝから上の方に、位は一級でもいゝから昇りたいとあせっているのであった。自分の父も国司が止りであったが、倅《せがれ》はもしかすると、三位以上になるかも知れないそと思った。
 陸奥へ来てから、女一人作らない倅だから、別に差し障りなどあるわけはないと思ったので、父は子に相談せず、承諾の旨を答えてしまったのである。
 後で子は驚いて反対したが、父の面目もあり、どうにもそれを取り消すことが出来なかった。男は、八年目に京都へ帰って来た。
 六の宮の姫君に対する思慕は少しも減じてはいなかった。女を思いの外に待たせたざんきと後悔で、心が痛んでいた。現在の妻を、気うとくは思っていなかったが、比べものにならなかった。粟田口《あわたぐち》に着くと、彼は妻や妻の父に口実をもうけ、たゞ一人一行を離れて、六条|西洞院《にしのとういん》に在る六の宮へ駆けつけて来た。
 が、その邸は変りはてていた。築地《ついじ》は、半ば崩れてしまっていた。四足門の柱は、たゞ一つしか残っていなかった。庭には、雑草が、人の背ほども生い茂っていた。泉水の水は乾れて、水草が水面一杯に生えていた。寝殿は、屋根がなくなったばかりか、床板までも剥《は》がれている。
 彼は、胸がつぶれるばかりの思いで、しばらく茫然として、駒《こま》の手綱を控えていた。ただ正面の政所屋《まんところや》のところだけ、屋根が少しくっついている。人が、住んでいるとすれば、それより外にはない。男は、駒を立木につなぐと、雑草をかきわけて、政所屋へ近づいていった。こゝも床板は、殆ど剥がれているが、屋根の残っているところに、小さく板囲いをして、外から見えないようにしてある。男は、そっと近づいて、中をのぞいて見た。何か、物のうごめくようである。(人やある?)と訊くと、返事はしないが、かすかに物音がしたので、板を一枚とりのけて、中を見た。年取った尼が、一人坐っている。
 お前はこゝに住んで居られた六の宮の姫のゆかりの者かと訊いた。女は返事をしない。何か、物怖《ものお》じしている容子である。男は、駒につけてある鞍袋の中に、砂金のあることを思い出して、それを取って引き返すとその一粒を、尼に与えた。それは、女を驚かせるに足りる贈物である。女はやっと心がとけたらしく、一体どなた様かと云って訊いた。男は、然《しかじか》々の者だと云って名乗った。すると、尼は、お噂《うわさ》はきいて居りましたと云うと、しばらくはむせびなくばかりであったが、殿ならば、何でも申し上げます。私は召し使われていた火炊き女である。殿が奥州へ下られてから、二、三年の間は、姫もこのお屋敷に居られた。が、殿が消息がなくなった上、遠国からの供米は、いつとはなく打ち絶えてしまった。位田は、何人かに横領されたという話である。乳母の良人がいろく面倒を見ていたが、それも三年ばかりで死んだ。召し使われていた人々も、一人減り二人減り散《ちりぢり》々になった。その上、ひととせ大風が吹いて御殿は、滅茶滅茶になってしまった。そうなると、道行く人々が、木の板などを剥がして持ってゆくし、屋敷に住むものも、それを焚き物にした。それでも、乳母と一人の下男とだけが、まめまめしく仕えていた。が、食べ物も着る物もだんく不自由になって来た。自分は、自分がいたのでは、却って御迷惑だと思って、口を減らすために、娘の良人に連れられて、四、五年前丹波へ下った。が、不幸にも、娘に死に別れて、去年の春京へ帰って来たが、ゆかりの者もないので、元のお屋敷に来て見ると、姫君のお姿はなかった。その後も、気にかけて探しているのだが、御行方は分らないのでと云う返事である。
 男は、それを聞いて、嘆き悲しむ外はなかった。父の家に帰って、旅装を解いたが、妻の家を訪ねようなどと云う気は起らなかった。いな、この人に逢わない裡は、この世の中に生きている甲斐はないように思った。彼は、土を掘り、草を別けても探す気になった。馬や車では、小路々々に入りにくいので、わら靴をはき、笠を被って、物詣《ものもうで》のような姿をして、毎日々々洛中を訪ね歩いた。
 一月探しても見当らなかった。二月探しても見当らなかった。乳母のゆかりを頼って、遠国へでも行ったのではないかと思った。しかし、男はあきらめなかった。
 捜索三カ月の半ばであった。今日は、西の京を探そうと、二条から西の方へ歩いて行くとき、丁度|申酉《さるとり》の頃に、空が急に掻《か》き曇って、タ立となったが、そのタ立にはひょうさえ交じっていた。男はあわてて朱雀《すざく》門の前の廊下の中へ飛込んだ。すると、その廊の一郭の連子《れんじ》の中に、人のうごめく気配がする。乞食だろうと思ったが、人を訊ねているだけに、そっと立ち寄ってのぞいて見た。
 すると、そこの石だたみの上に、汚いむしろを引き廻して、その上に女の人が二人寝ていた。一人は年とった尼である。一人は年は若いが、やせ枯れて、色も紙のように青い女である。
 敷いているむしろは、よれくのものだが、衣物はと云うとポロ/\になって、垢《あか》がついている。腰の上にも、敷いているのと同じようなふむしろを引きかけて、手枕《てまくら》にして寝ている。が、その枕元に置いてある手箱を見ると、漆は剥げてしまっているが、そこに描かれている花橘《はなたちばな》の模様を見ると、男は愕然《がくぜん》となった。
 彼は、連子を、はねのけると、いきなり飛び込んで、その女を掻き抱いた。女は驚いて、男の顔を見て、骨ばかりになった両手で、男の首にすがりついたが、その激情の発作には、その痛み疲れた身体が堪えなかったのであろう。喜びのすゝり泣きと思われた声が、だんく病苦のうめき声に変り、男が気がついて介抱し始めたときは、もう肩で呼吸をしていた。
 男は、天に叫び地に伏して、女の玉の緒をつなぎ止めようとしたが、及ばなかった。
 死後、その手箱から次ぎのような歌を書いた懐紙が出て来た。その懐紙は、うすよごれてしまっていた。
手枕の隙間の風も寒かりき
   身は慣はせの物にぞありける
 これは、姫が身にせまる烈しい貧苦を忍ぶための、心がまえとして作ったものであろう。この男は、その場で、髪を切り、愛宕山《あたごやま》へ上って出家したと云われている。
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