|新しいページ|検索|ページ一覧|RSS|@ウィキご利用ガイド | 管理者にお問合せ
|ログイン|

佐藤春夫訳「徒然草」百九十四

 達人たるものが人を見る眼識はすこしも見当ちがいのあってならないものである。たとえば、ある人が世に対して虚言を構えて人を欺こうと計画する場合、それを正直に事実と信じて、その人の言うがままにだまされる人がある。また、あまりに深く虚言を信じ過ぎて、その上に輪をかけた虚言をつけ加える人もある。またなんとも思わないで気にもとめぬ人もある。また幾分か疑念を挾んで、本当にするでもなく、しないでもなく考えてみている人もある。また、本当とは受けつけないが、人のいうことだからそんなこともあるかも知れないくらいに思ってそのままにしておく人もある。またさまざまに推察して万事呑みこんだようなふうに賢者ぶってうなずいて、微笑してはいるが、その実、いっこう真相を知らないでいる人もある。また、推測して、成程そうかと気がついていながらまだ間違いがあるかも知れないと疑いを抱いている人もある。また、格別に大したことでもないさとばかり手をうって笑っている人もある。また虚言とよく知っていながらわかっているとは言わないで気のつかぬ人同然の態度で過す人がある。また、虚言と知り抜いて、虚言を構えた人と同じ心持からそれに力を合せ、それを助長する人もある。無智な人間どもが集ってする取るにも足りない虚言でさえ、種を知ってさえいれば、このように人さまざまの個性が言葉になり表情になり現われるのがわかるものなのである。まして明達の士が我我のように惑っている者を見抜くのはわけもないこと、あたかも手のひらの上のものを見るほどのことであろう。さればと言ってこんな推測をもって深遠な仏法の方便などにまで準じて論じおよぶことはよくない。

メニュー

更新履歴
取得中です。