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菊池寛「好色成道」

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好色成道
 今は昔、比叡山に若い学僧がいた。出家したのが、十四の年で、今年二十五になっていた。十年以上、山にいるのだから、本当なればよほど学問が進んで研究 会や討論会などにも出て、少しは人にも知られなければならぬのだが、元来が遊び好きであったから、ついうか/丶と月日を送っていた。法華経は、天台宗の根 本の教典だから、それだけは少しは、読んでいたが、それも深い研究をしているわけではなかった。しかし、そんなに怠けてはいるものの、それではいけないと 云う良心だけは残っていた。それで時々、気がついて、これから精進努力したいと思うことがあった。そう云う時には、嵯峨の法輪寺の虚空蔵菩薩《こくうぞう ぽさつ》にお参りするのであった。仏教の方で、学問を修業するためには、虚空蔵菩薩に祈念することになっていた。弘法大師なども、大日経を研究する初に は、虚空蔵菩薩の求聞持法《くもんじほう》を修《ず》したと云うことである。そうすると、物覚えがよくなり、学問の進みを護って下さると云うことになって いる。だから、この比叡山の学僧も、学問をしようと気がつく度に、法輪寺の虚空蔵菩薩にお参りするわけである。
 その年の九月にも、この僧は、自分の怠慢が気になり出した。出家しながら、仏法の奥義《おうぎ》も知らないばかりか、肝心な経文も意味の分らないところ が多いのである。本気に勉強しよう、それにはもう一度虚空蔵菩薩にお参りして、加護を祈ろうと云う気になって、嵯峨の法輪寺に行くことになった。比叡山か ら、嵯峨へ行くのに、何としても一日がかりである。よほど、朝早く出かけないと、帰りは夜になってしまうのである。夜になって、山路へかゝると難儀であ る。その日も、夜が白々あけになって出かけたが、法輪寺へ着いて、祈念を凝らしてさて帰りかけると、その寺にいる知合の僧と、バッタリ会った。久しぶりな ので、つい話がはずんで、半刻ばかり時が経ってしまった。
 これはしまったと思って帰途に着いたが、太秦《うずまさ》の広隆寺あたりまで来た頃には、口がかげり始めている。これでは、白川あたりへ着く頃には、日 がとっぷり暮れてしまうだろうと思うと、僧は中途で一泊しようと考えた。それで、西の京にいる知人の家を訪ねて見ると、主人夫婦は折あしく奈良へ行ったと の事で、下女がいるだけである。その下女も、新しく来た女で、その僧を見知っていないのである。それでもう]人の知人があるのを思い出しで、西の京極のあ たりを探したが、もうとっくに夜に入った上に一度来たばかりの家なので、どうしても見当らないのである。
 僧は、途方にくれてしまった。
 すると、灯のきわめて明るい家があったので、立ち寄って見ると、門構えの立派な家で、幸いにも門があいている。そして、門の所に、二人の若い身なりも清げなる女が立っている。
 僧は、近寄ってあいさつすると、自分は山から法輪寺べお参《まいり》に行ったのだが、手間どって途中で、日が暮れてしまった、知人の家を探しているのだが、道を忘れてどうしても見当らないのである、廊下のはずれでもいゝから、今夜一夜だけ泊らして頂けないかと云った。
 すると、その女の一人が、では御主人に伺って来るから、暫くお待ち下さいと云って、奥へはいった。やがて、出て来て云うのには一お安いことである。どう ぞおはいり下さいと云うのである。僧は、よろこんで礼を云って、女達に案内されて、家へ上った。立派な家である。僧が案内された部屋は、高麗べりの畳を中 央に敷いてあり、四尺の屏風《びようぶ》のきれいなのを立ててある。灯も明るく光っている。高坏《たかつき》に食物を入れて運んでくれた上、酒も添えて あった。先刻の女達が、給仕をしてくれて、このお屋敷の御主人は、姫君であるが、法輪寺へ時々お参りになるのなら、お帰りにはまたお寄りになって下さいと 云って居られると伝えた。僧は、よろこんで、くれぐれもお礼を云って下さいと云った。
 食事が終ると、手洗いの水を運んでくれた。そして、夜の物を運んで来て、女達は出て行った。
 僧は、横になってねようとしたが、久しぶりに若い女達の姿を見、言葉をきいたので、浮世的な感情がわいて来て、容易にねられない。ねたり起きたりしてい たが、少し廊下でも歩いて見る気になって、遣戸《やりど》を開けて、廊下へ出て見た。廊下を三、四間歩くと、そこの蔀《しとみ》(格子になった木の戸)か ら灯がもれている。ふと、そこからのぞいて見ると、この家の主人と思われる美しき女が寝ている。燈台を枕元に寄せて、何かの草紙を読んでいるのである。灯 に照し出されている顔《り》が、白々と美しき事限りない位である。紫《し》おん色の綾《あや》の衣を被《かつ》いでいるが、髪は長々と衣の裾に余っている 位である。
 その横に、几帳が置いてあり、几帳の陰に女中達が寝ているらしい。火鉢に香をくべてあると見え、ふくいくたる匂が鼻をうつのである。
 僧は、その寝姿を見ている内に、自分が出家の身であることすら忘れてしまった。何と云う|宿世《すくせ》の縁でこの家に宿り、そしてこんな美しい人を見 ることが出来たのだろう。人間と生れた甲斐には、一度でもいゝから、この女と契りをして見たい。それが出来ないようなら、生きていても仕方がないと思いつ めた。
 彼が、石のように堅くなって、見つめて居る裡に、女は草紙を読むのをよした。外の女中達も、皆ねてしまったらしい。そっと、遣戸に手をやって見ると、閉すのを忘れているのである。僧は、しめたと思って、そっと遣戸を開けて抜き足をして忍び込んで行った。
 傍へ寄ったが、よく寝入って気がつかない。近づいてみると、身体や髪から匂いがなまめかしくむせぶばかりである。被《かつ》いでいる衣をそっと開けて、懐にはいった途端に、女は眼をさました。驚きはしたが、たしなみのある女と見えて、大声は立てなかった。
「あなたは誰か。」
 と、静にきいた。今宵、お宿を願った僧である、あまり寝姿が美しいので、つい堪え切れなくなって、忍んで来た、どうか無礼をとがめないで、一夜のお情に あずかりたいと云うと、女はさて/\心得ぬ事をなさる方だ、山の貴き学僧だと思ったからお宿したのである、こんな事をなさるとは、さても口惜しいことであ ると云って、衣を身にしっかり引き、寄せつけないのである。僧は身をもだえたが、どうすることも出来ない。少しでも手荒な事をすれば、侍女達が眼をさまし てしまうのである。僧があまりに、やるせなげにしているので、女が云った。
 自分は、決して貴君《あなた》を嫌うわけではない。去年春、良人に別れてから、云い寄って来る人は、沢山いるが、いゝ加減な人に会うのも気が進まないの で、独《ひとり》でいるのである。良人が死んで以来、仏事にも心を入れているので、つい山の学僧だと云うので、お泊めしたのである。法華経を、空で暗誦す るのをきくのは、たいへん貴く覚えるものであるが、貴君にはそれがお出来になりますか。
 僧は、こう訊かれて、すっかりてれてしまった。法華経は、読み習っているが、空で読めるほどに至っていないのである。こんな場合に、もしすらく読めた ら、きっとこの女も、自分に心をゆるすに違いないと思うと、残念でたまらない。やっぱり勉強して置くのであったと思うと冷汗が出て、女を犯そうなどと云う 心がなくなってしまった。
 僧が、お恥ずかしいが、まだ空で読めないと云うと、女はそんなに難しいことですかと、きき返した。
 僧は、今は女とはなれて正坐していたが、頭をかきながら、いやたいていの学僧は、空で読めるのです、私はつい遊び戯れるのにまぎれて、今までお経の勉強 をしなかったのですと、ざんげした。すると女は、貴君も、見たところ殊勝な姿形をしていらっしゃるのに、朋輩の方々に劣っているとは、とても残念な事であ る、ぜひ、勉強して法華経を空で読めるようになって下さい、そうなれば、ぜひもう一度訪ねて来て下さい、いろ/丶お話もしたいと思いますからと、云って心 ありげに艶然《えんぜん》と笑った。法華経さえ暗誦出来れば、すべてを許すと云わぬばかりである。
 僧は、自分の部屋に帰ったが、自分の半生の弱点を見事に突かれた恥ずかしさと、法華経さえ暗誦出来れば、美しい女が、自分のものになるのだと云う興奮とで、到頭一睡も出来なかった。
 その中に夜明になった。朝の食事なども、ちゃんと支度をしてくれた。帰るときに、道を忘れぬように、いく度も振り返りながら歩いた。
 山に帰りついたが、この女の面影が、まぶたの裡《うち》を離れない。一日も早く経を覚えて、女に会おうという一心で、廿日ばかり夜も昼も法華経から眼をはなさなかった。
 法華経は、八巻二十八|品《ぼん》に別れているが、字数にすれば、六万九千三百八十四字である。怠け者の彼でも、第一巻の序品《じよぽん》とか方便品と かは、今までいく度も読んでいるから、暗誦するのは楽であったし、二十五品の普門品《ふもんぽん》は、いわゆる観音経と云われるものだから、彼もたいてい 暗《そら》んじていた。だから、二十日間も、一心不乱にやっている裡には、全八巻を空で読むことが出来るようになってしまった。
 それで、彼は女の許へ行くことにしたが、朝早く行くわけにもいかないので、やはり法輪寺の虚空蔵菩薩にお詣りして、タ暮頃に、女の家を訪うた。この前と 同じに、若い女が部屋に案内してくれて夕食を持って来てくれた。タ食をすませると、手を洗うてから、法華経を空でよみ始めた。その声が、静かな屋敷中に ひゞいて、いとも貴く聞えるのである。が、心の中は一刻も早く女に会いたい気持で、いらくするばかりである。そのうちに、夜が更けた。人は、皆寝静まった 容子である。僧は前夜の通り、廊下へ出て、主人の女の寝ている部屋の遣戸に手をかけて見ると、やはり閉されていないのである。そっと、抜き足で部屋の中へ はいると、今宵は傍に侍女達が、寝ていないのである。主人の女が、心して侍女達を遠ざけたのだと思うと、心が躍るようである。そっと、近づいて副《そ》い 臥《ふ》しすると、女はハッと眼を開けたが、前夜のように声は出さない。自分を待っていてくれたのだと思うと、うれしくなって、懐に入ろうとすると、女は 衣をひきまとうて、入れようとしないのである。
 僧は、いらって、
「お約束が違うではありませんか。」
 と云うと、女は微笑して、
「いや、違いはしませぬ。が、そうなる前に少しお話がしたいのです。」
 と、云った。
「どんなお話ですか。」
 と、きゝ返すと、女が云うのには、
「一度きりなどと云うのは、いかにも情ないことである。そうなったら、やはり時々通って来て貰いたい。そうなれば、私達の関係は、自然人に知られることに なるが、私も少しは人に知られた身分である。叡山の僧を男に持つとしても、少しは人に知られた学僧を男に持ちたいのである。貴君は法華経は空でお読みにな れるようになったが、学僧としてはどの位の位置の方であるのか。法華経の奥義《おうぎ》などは、どの程度に御存じか。それをお訊きしたいのである。」
 と、云った。僧は、また虚を突かれてしまった。彼は法華経の研究会である八講とか十講とか、卅講などに出たことがないのである。従って、法華経の経文の意味などについては、殆ど理解していないのである。
 僧が、自分の無学を恥じてだまっていると、女は、
「法華経は、前の十四品を迹門《しやくもん》と云い、後の十四品を本門と云うそうだが、迹門の三周の説法とはどう云うことでありますか。」
 と云って訊いた。
 そう云う質問は、彼の燃え上っている性欲に、水をかけるのと同じである。この前、法華経を空で読めるかと、いきなり云われたのと同じである。彼は、また自分の怠慢の生活を、ピシりと鞭《むち》打たれてしまったのである。
 三周の説法とは、法を直接に説いた法説周と、譬喩《ひゆ》に依って説いた譬喩周と、因縁に依って説いた因縁説周とを指すのであるが、僧は法華経学の初歩であるこんな智識さえ持っていなかった。
 僧が恐縮して、冷汗を流していると、女は美しく笑いながら、
「今、あなたに身体をゆるすことは、私としては、何でもないことであるが、貴君のためには、決していゝことではない。貴君は、私が法華経を空で覚えてくれ とお願いしたら、たった二十日で覚えてしまったではないか。どうか、もう決心して、法華経の奥義をすっかり研究していたゞきたい。それには、三年ばかり、 山を下らずに勉強して頂きたい。貴君は、二十日で法華経を暗んじてしまうのだから、頭がいゝことは分っている。三年勉強されたら、山でも人に知られた学僧 になられるに相違ない。それまで、私は必ず男を持たないで、貴方を待っている。そればかりでなく、時々山へお手紙を出し、貴君が不自由をなさらないよう に、食物も衣類も、お届けすることにしよう。私を愛してくださるなら、ぜひそうして頂きたい。私は、法華経の奥義を知りたいのだが、女の身で八講などへ は、なか/丶出られないので、貴き聖《ひじり》に連れそうて、寝物語にいろイ、教えて貰いたい希望もあるのである。」
 と云った。
 女の条理の立った物云いに、僧は一言も抗《あらが》うことが出来なかった。その上、女は法華経については、自分などよりは、遥かに通じているように思わ れた。このまゝ、この女と一しょになっては、男として始終、恥をかいていねばならぬ事だと思った。僧は、即座に勉強することを発心した.女に返すぐ誓言し て覇早く山へ帰って来たのである。僧の発奮は、火の出るようであった。心を尽くし、肝を砕いて学問をしたので、三年目に学生《がくしよう》になった。学生 とは、当時叡山に於ける一つの階級であった。それは同輩の目を驚かすに足る進歩である。内論議(研究会である)や卅講(法華経の講義である)に出る度に、 新しい解釈や新説を出して、皆を驚かすようになっ.た。天台座主の余慶権僧正の知遇を得て、山内にある観音院と云うお寺の別当に取り立てられた。
 精進さえ怠らなければ、将来律師にも僧都《ぞうず》にもなれる位置に達したのである。
 約束の三年は経った。僧は、今こそ天下晴れて、女に会えると思った。
 彼はその日も法輪寺へまずお詣りした。自分の出世はやはり虚空蔵菩薩の加護に依ると思ったからである。そして、タ暮に絶えて久しい女の家を訪ねたのであ る。が、三年間の修業のために、彼の胸の中に燃えていた情火は、だん/丶力が弱くなったのである。彼は、その美しい女の身体を得たいと云う気持よりも、三 年間月に一度か二度は、必ず食物や衣類を贈ってくれ、それにはやさしい手紙を添えてある女の愛情に感謝したい気持が強くなっていた。
 家についてみると出迎えの女中達が、甲斐々々しく案内して、今日は直接主人の部屋に通ってくれと云うのである。
 今迄はそっと忍んではいった主人の部屋へ、今日は公然と案内せられるのが、うれしかった。女は几帳の陰にいたが、たきこめている香の匂が、なまめかしく鼻をつくのである。几帳の外には、清らかな畳を敷いて、その上に円座を置いてある。
「学生におなりになった上に、別当におなりになったそうで、うれしゅうございます。」
 と、女が云った。愛敬ふかく、心から打ちとけている物云いである。
「おかげさまで、一人前の僧になることが出来ました。」
 と答えると、
「さぞかし、御修業も、お進み遊ばしたでしょう。」
 と云う。
「いや、はかばかしいこともありませんが、卅講の講師なども勤めることになりました。」
 と云うと女は、いたく喜んだ容子で、
「それでこそ、私が日頃、法華経について、不審に思っている点を、お訊ねすることが出来ます。早速でございますが……」
 と云って、女は日頃の不審をきゝ始めた。
 一番に、序品の中の十字訣と云うことを、訊いた。これは、於二無漏実相殉心已得一一通達一の十字で、序品の主意が、この十字に尽くされていると云う文句である。
 僧は、八講や卅講などで、いく度も講義した文句なので、滔《とじつとりつ》々として論じた。自分が愛して
いる女の前だと、彼はハリ切って、自分のウンチクを悉《ことこと》く傾けてしまったのである。
 すると、女はその次ぎに、「方便即真実」と云う事を訊いた。それについて、僧は半刻ばかり説いた。すると、最後に「諸法実相」と云うことをきいた。これは、法華の実体そのものであると云ってもよい。僧は、二刻ばかりも、めんくと説きつゞけた。
 その中に、夜が更けて、とっくに子《ね》の刻を過ぎていた。
 説き了って暫くすると、相手の女は、横になったと見え、物音がしなくなった。
 が、一生懸命に経をといている内に、相手の女を犯そうと思う気持が、だんノ丶消えてしまった。第一、そう云うことが、自分の説き来ったことと、あまりに縁が遠いので、自分で考えることさえ、恥ずかしくなって来たのである。
 僧は、几帳をかゝげてはいれば、女は快く自分を迎えるだろうと思いながらも、それほどの情熱が湧いて来ないのである。彼の三年の修業は、煩悩から起ったのであるがその修業の功は空しからず、今や法華経で説かれている無相寂然の境地に近づいていた。
 僧は、後に天台の座主になった覚慶僧正である。僧正は、後、この女のことを、(これは、きっと自分が祈念していた虚空蔵菩薩で、仮りに女の姿を成して、自分の学問を励ましてくれたのであろう)と云った。

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