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鷲尾雨工「元禄義挙の翌日」

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鷲尾雨工「元禄義挙の翌日」


 義声の拡がるのは、置郵伝令《ちゆうでんれい》して拡がるより速い、という言葉がある。
「やあい、吉良様が討たれたぞウ」
「討ったのは大石殿だ。赤穂の浪人衆だア!」
「浅野内匠頭様の御無念を、はらしたのだが、どえらい事を能くまあ仕遂《しと》げたものじゃあねえかよ。いま引揚げの行列が見えるッてんだ、そオれ走れ走れツ!」
 物見高いのは大都市の特徴だ。
「ひゃあ、豪えなあ、そら走れい!」
「ど、ど、どこへ向けて走るのだッ?」
「構うもんか、人の走る方へむけて衝《つ》ツぱしるんだツ!」
 わけても江戸ツ児は気が早い。それからそれへと伝わり伝えて、大石一党の引揚げの通路へと馳せあつまって、見るまに人垣を蜒々《えんえん》とつくる。
 本懐をとげた吉良邸をあとに、回向院前から本所一ツ目河岸を、深川の御船蔵《おふなぐら》後ろ通りへぬけてゆく一党の、その隊列の真先には、槍ひっさげ た義徒二名が前衛となり、讎《かたき》吉良少将の身に着けた白綾襯衣《しろあやしたぎ》の片袖に包んだその首級《くび》を、槍の柄に結びつけて、高々と是 れを差し掲げた義徒一名が、数人の阿輩に護られつつ続き、つぎには首領の大石内蔵助が只一人、泰然自若《たいぜんじじやく》として歩をはこび、それから一 党の面々が、負傷者および老人を中にして、これに続いている。そして最後にまた槍をかかげた義徒二名が、後衛をうけたまわって殿《しんがり》する。
 すでに隊列は永代橋を渡った。
 霊岸島《れいがんじま》から稲荷橋《いなりばし》。
 築地の鉄砲洲《てつぽうず》は、亡主家浅野の旧上屋敷。わざとその前を通って、
(これが今生《こんじよう》での見納めよ!)
 と、しばし佇む人々の心のうちこそ、推測《おしはか》られたが、やがて汐留橋《しおどめばし》を渡れば芝である。日比谷三丁目裏町は現今の愛宕《あた ご》町であろうが、そこには東北第一の雄藩、仙台伊達の邸《やしき》があった。 一党が、この邸前にさしかかったとき、同邸辻番所の足軽どもは、ぼらばら と走り出て、路をふさいだ。
 たちまち気色ばむ党員たちを制して大石は、故浅野内匠頭の家来が、亡君の意趣を達せんがため、吉良上野介殿の御首級《おしるし》を頂戴し、只今菩提院たる高輪泉岳寺まで引揚げ、そこにて公儀の御沙汰を待つ所存でござるによって、このままお通し下さる様に云わせた。
 むろん番足軽では判断の付け様がない。門内へ駆け入って報告におよぶと、しばらく経って然るべき武士が立ち現われ、
「御一挙の趣、承わり、御忠義|御奇特《ごきとく》の段、感じ入ってござる。公儀御法令にしたがい一応はお停め申したる次第、あしからず御了承あられよ。さらば疾《と》くお通りなされよ」
 そう挨拶した。
 それから会津松平邸の前でも誰何《すいか》されたが、これもまた仙台邸と同様な陳述で、事なく通過が出来、金杉橋《かなすぎばし》から将監橋《しようげんばし》をすぎて、高輪泉岳寺に着したのだった。
 じつに堂々たる引揚げ方であった。雪晴れの日の光、燦々《さんさん》たる真白昼《まつぴるま》、幕府の高家《こうけ》、少将吉良の首を槍棹《やりさお》に掲げて、大江戸の大道を行進する一党の意気たるや、熾烈《しれつ》そのものであっ
た。義徒の討入に際しての『心得覚書』によると、
「もし公儀から首を徴せられれば、これは万止むを得ぬ次第ゆえ、上命《じようめい》に服従しよう。だが上杉家の衆が奪還《とりかえ》しに来たならば、其時 こそ死力を竭《つく》して血戦し、讎の首は飽くまで渡すまい。万が一にもそれを失う時は、即ち一党全員が、一人残らず討死した時である。この覚悟で、首は 堂々と持って行ける処まで持ち行くこと」
 こういう決心の臍《ほぞ》を固めていたのである。
 これを、もう一つの心得に照らし合わせてみれぼ、いかに義士たちの心腸悲壮《しんちようひそう》であったかがわかる。
「もし吉良邸において、上野介を討ち洩らさば、一党は潔くそこで腹切って、残らず相果てること」
 これほどの覚悟、鉄石の堅さがあったればこそ、本望は達せられたのである。
 ところが是れを思わずに、いろいろな俗説に惑わされるのが、今日なお多いのは遺憾《いかん》だ。というのは、吉良の首を途中で奪われては大変だとあっ て、間《はざま》、武林、堀部、村松、岡島、奥田の六士が本所河岸から船で、一党より先に泉岳寺へ首を運んだという話が信じられたり、あるいはまた寺坂吉 右衛門が弟の定右衛門に言い含め、あらかじめ小舟を両国橋の下に繋いでおき、吉良の首を討取ると直ぐ片岡、武林がこれを護って、その舟で泉岳寺に送ったと いう説が本当だと思われたりしている。
 こうした俗説によると、槍の柄に結い着けて引揚げたのは、上野介の小姓の首であった、というのだ。
 大石の智謀を殊更誇張したための捏造《ねつそう》なのであるが、煌々《こうこう》たる義心の壮烈さを曇らせる。
       二
 亡君の墓前に、首が供えられた。
 大石以下の義徒は粛《しゆく》として環列《かんれつ》した。
 薫焼《くんちやう》の香烟《こうえん》は、縷々《るる》と、案頭《あんとう》の爐から立ちのぼる。
 碧瑠璃《へきるり》の大空から、まだ融けやらぬ白雪に陽《ひ》が灑《そそ》ぐ。一同はその雪の上にひざまずく。
 大石は身を起した。墓前に進んだ。
 香爐に注《ちゆう》して一拝。
 おもむろに懐から短刀をとり、その鞘を払い、鋩子尖《きつさき》を吉良の首にむけて、これを鮒石の上に、のせた。
 のせおわると大石は、退くこと数歩。
 うやうやしく額ずいた。
「亡君|尊霊《そんりょう》おんみずから、此の年月の御鬱憤をはらさせ給え!」
 はっと、一同は、胸が押し塞《ふさ》がった。
 滂沱《ぼうだ》として涙ほとばしり、きこゆる嗚咽《おえつ》、うち啜《すす》る洟《はな》。
 稍しばし後、大石は再び身を起して、鮒石の前にすすみより、短刀をとって其|刃《やいば》を、吉良の首へ、
「ええツ、ええツ、ええツ!」
 と、三たび加えた。これぞ亡君、内匠頭に代って、讎《かたき》に痛撃を与えたのである。
 かくて大石は初めて一個の遺臣《いしん》、内蔵助良雄にかえり、焼香をして退く。
 つぎは一番槍を讎につけた間十次郎|光興《みつおき》、そのつぎは二番太刀を讎に加えた武林唯七|隆重《たかしげ》、この両人の焼香を終わると、あと順次に四十余人は、それぞれ姓名を名乗って、焼香するのだった。



 吉田忠左衛門と富森助右衛門。この両人は引揚げの途中から、愛宕下の仙石伯耆守《せんごくほうきのかみ》の邸へ届出のためにおもむいて、門前に槍を立てかけ、つと入って案内を乞うた。
 復讎をとげて、公儀の御裁《おんさば》きを仰ぎ奉ると申入れたのだから、さあ大変、仙石邸は動揺したが、さすがは大目付の重任にある伯耆守は、
「予が直々《じきじき》に会うて訊《き》く。広間へ通せ」
 と、家臣らに指図をする。
 吉田、富森の両人は、両刀を脱して広間へ案内された。時を移さず立現われた伯耆守にむかって吉田は、言語明晰に、此挙の顛末を逐次申しのべ、討入りに際して用意した『浅野内匠頭家来口上書』を懐中から取出し、
「委細は是れにて、御賢察のほど願上げまする」
 と、連名の上書を差出したのであった。
 伯耆守は披見《ひけん》し終ると、
二人も離散せず、泉岳寺に控えておるか」
「御意にござりまする」
「それは神妙じゃ。予はこれより登城して、逐一言上におよぶ。よって両人は、自分|退下《たいげ》まで此所で御沙汰を待つように致せ」
 すぐ家来を呼んで、
「さぞ空腹であろうゆえ、湯漬《ゆづけ》を参れ」
 そう命じたのである。これは実に異数なことだ。公儀大目付に任ずる仙石伯耆守が、それ縄打てと、云ったにしても当然ではないか。亡君の讎討《あだう》ちにもせよ、義徒にもせよ、国法の上から見れば重大罪人である。しかるに優待かくの如くだった。
 一方、泉岳寺では焼香がすんで、一党は中堂に請じられ、白粥《しらかゆ》と般若湯《はんにやとう》が振舞われた。
「やあこれは何より忝《かたじけな》い御酒でござるな、満々《なみなみ》頂戴いたそう」
「いや拙者は下戸党、お粥の方を」
 などと、或いは椀を、或いは盃をとりあげて、舌鼓《したつづみ》をうつ。
 盃の数も重なった時、大石は筆墨を出して、一首の述懐を書きしるした。
  あら楽し思ひは霽《は》るゝ身は捨つる
    浮世《うきよ》の月にかゝる雲なし
 すると岡野金右衛門もまた、筆を把《と》った。
「羽林《うりん》の首級《しるし》を、亡君の御墓に供えて」
 と、題して、
    その匂ひ雪の浅茅《あさじ》の野梅哉
 すでに吉良邸裏門で大高源五は、素懐を遂げた悦ばしさを吟《ぎん》じていた。
    日の恩や忽ち摧《くだ》く厚氷
 それに和したのが富森助右衛門ー-げんに仙石邸へ行って泉岳寺にはまだ戻らぬが、吉良邸裏門での即吟《そくぎん》は、
    飛び込んで手にもたまらぬ霰哉《あられかな》
 というのであった。そこで子葉《しよう》の俳号を持つ大高が、再び、
    山を抜く力も折れて松の雪
|春帆《しゆんぱん》の俳名を有する富森もまた、
    寒鳥の身はむしらるゝ行衛《ゆくえ》かな
 生死の間に談笑すると能く曰《い》う。だが曰《い》うは易くして、行うは難《むずか》しい。
 義徒の胸襟、余裕|綽々《しやくしやく》たりしを示すものである。
「おおい、大高子葉の発句どおり、山を抜く力が折れて、飽気《あつけ》なさすぎるではないか」
「むむ上杉家から討手が寄せて来ればいいのに、目にもの見せてやるのだがな」
「しかし上杉勢が寄せた時、ここで斬っては第一お寺が迷惑なさる。その際は、往還にむかえ撃って、存分に働こうではござらぬか」
「よかろう。斬って斬って斬りまくり、我等の一命を、上杉殿へ進ぜよう」
「いかにも。もはや山門を開放して貰おう」
「どうぞ御門をお開き下さい」
 義士たちの意気は、全く昂《たか》らかだった。



 あわただしく一人の僧が、駆けこんできた。注進である。
「上杉家お屋敷より、御家中の衆こぞって押出したと申しますそっ」
それツと血気の面々は勇み立つ。
「覚悟の敵だツ!」
「怖れるものかッ」
「死人の山を築いて呉れる!」
 このとき大石の嫡男、主税《ちから》が制した。
「あいや方々、お騒ぎあるな。おそらくそれは流言|蜚語《ひご》の類でもござろう。上杉家の人々まこと押寄せるとせば、なにとて此の刻限まで躊躇《ためら》うべきや」
 身長五尺八寸。今年十五歳とは思われぬ魁偉《かいい》な体格である。
 そこへ出てきた内蔵助も、これを聞いて、
「自分もそれは浮説であろうと思う。さりながら万一の場合をも慮《おもんぱか》っておかねばならぬゆえ、各々用意されて然るべし」
 防ぐに備えざれば以て戦すべからず。この言葉を常に念頭におくことは、是れ武士たるものの嗜《たしな》みである。
 義士たちは、それぞれ刀の鞘《さや》を払って、寝刃《ねたば》を合わせる。
 主税もまた抜身を磨くのだった。
 その傍に数人の僧が眺めているのを、主税は顧みて、
「御坊らは、堺町で人形の斬合を見物されたであろう。いまにも上杉勢が寄せたら、真剣の斬合を御覧に入れようが、人形芝居の働きとは随分ちがいますそ」
 こんなことを云って、戯れるほど、その気持には、ゆとりがあった。これが十五歳の少年の言ったことだから驚かれる。
 英傑大石の子として、毫《すこし》も恥ずかしくない寧馨児《ねいけいじ》だったといえる。



 仙石伯耆守は急ぎ登城して此の重大事件を幕閣へ申達したので、俄かに柳営《りゆうえい》は愕然《がくぜん》となり、老中および若年寄へ奉書が飛んだ。
 阿部豊後守正武《あべぶんごのかみまさたけ》、土屋相模守正直《つちやさがみのかみまさなお》、稲葉丹後守正通《いなばたんごのかみまさみち》というよ うな閣老諸侯が、ぞくぞく登城し、若年寄の稲垣対馬守重富《いながきつしまのかみしげとみ》の如きは、馬を疾駆させて馳せつける。
 閣議の席に、仙石伯耆守は呼び出された。仙石が報告におよんだ。一党の口上書が回覧された。老中の一人、稲葉丹後守はおぼえず讃嘆の声をさえ洩らした。
 寺社奉行の阿部飛騨守《あべひだのかみ》が、泉岳寺住持からの届出によって登城した。吉良邸からも後ればせながら届けが出た。
 そこで吉良の屋敷へは目付の阿部式部、杉田五左衛門に、御徒歩《おかち》目付四人、御小人《おこびと》目付六人を付けて派遣される。
 吉良屋敷臨検によると、首のない上野介の死体には、左右の掌《て》に一箇所ずつと、左の腿《もも》に一箇所、右の膝頭《ひざがしら》に二箇所、さらに膊《かた》の所に一箇所、都合六箇所に創が見られた。
 掌の創は、間十次郎がつけた槍の穂を、双手で癆《こ》いた為にちがいなかった。腿の創は、十次郎の槍で突かれた創であったし、膊の創は武林唯七が、躍りかかって斬った太刀痕に相違なかった。
 死者は、小林平八郎、鳥井理右衛門、須藤与一右衛門、清水一角、大須賀次郎右衛門を始めとして、都合十六人。
 重傷者は、宮石、斎藤その他、都合十人。
 上野介の子、左兵衛義周《さひようえよしちか》は、このほかである。大袈裟に繃帯した額の創三寸、背中の創は長さ七寸という申し立てではあるが、それほどの重傷とも見えなかった。
 つぎに軽傷者は、吉良家家老の斎藤|宮内《くなも》ら十二人。
 遁走者が四人。
 無疵の者は、鵜谷平馬《うたにへいま》以下徒歩、足軽、中間、小者で都合、百四人。
 むろん此等は皆、逃げ匿《かく》れたのである。
 検案によって、吉良邸生残りの醜態が、明るみに出された。
 但し、婦女子を除いて、上下百四十八名の多人数を住まわせていた吉良屋敷の、警戒厳重さは頷かれた。上杉家の後援に頼ったものであるが、義徒に対して三 倍以上の衆を擁しながら、ただの一人も侵入者を仆《たお》し得ず、おめおめ主君上野介の首を獲《と》られたのは、武門にあるまじき恥辱だった。
 吉良邸の臨検についで、隣邸の取調べが行われた。
 それを済ますと、阿部式部らの一行は、帰城して閣老へ報告におよぶ。
 ここに於いて、老中は将軍の御前に伺候し、昨夜以来の巓末を言上してから、一切の書類を上覧に入れた。
 浅野内匠頭が昨年三月、殿中で刃傷《にんじよう》した折には、激しく怒った将軍ではあったが、いまは義徒の口上書を手にとって、親閲《しんえつ》したのだ。
「内匠の遺臣どもは、さぞかし辛苦したことであろう」
 五代将軍綱吉は、同情禁じ難いという面持を見せた。
 閣老は、ここぞと思ったので、
「世に珍らしき忠義の者どもにござりますれば、ともかく一時大名御預けの御沙汰を賜わり、篤《とく》と御詮議を遂げさせらるる御処分こそ、然るべしと存じ奉る」
 そう云うと、将軍は、
「好《よ》きに計らえよ」
 と、大名預けの件を裁可《さいか》した。



 月の十五日といえば、朔日《ついたち》と共に、登城御礼日だから、江戸に在府する大小名はのこらず殿中に聚《あつ》まっている。
 そこで老中の取計らいとして、一件書類をこれらの大小名に示された。諸侯は義徒の口上書を手から手に伝覧《でんらん》して、いずれもその忠節義心に感じ入るのであった。
 時は封建の完成期である。この時代に、将軍の御感に入り、閣老から称美され、諸大名を感服させたのであるから、義士たちは以って瞑《めい》すべしであろう。
 今日のわれわれの時代とは、時代が遙かに異《ちが》うのである。
 それは兎もあれ閣老は、ただちに大名四家を銓衡《せんこう》して、
 肥後《ひご》熊本の城主 細川越中守|綱利《つなとし》
 伊予《いよ》松山の城主 久松隠岐守定直《ひさまつおきのかみさだなお》
 長門《ながと》長府の城主 毛利|甲斐守綱元《かいのかみつなもと》
 三河《みかわ》岡崎の城主 水野|監物忠之《けんもつただゆき》
 当分のうち、これへ大石以下の者どもを、預けることになった。
 細川侯は、この沙汰に接して、武門の名誉とうち歓び、謹んで御受け仕る旨を答えた。だがこのとき、ふと上杉家の事が胸にうかんだ。
(もしか彼等を引取る途中で、襲撃を蒙り、万一の不覚でも取らば、公儀におん申訳なきのみならず、それこそ我が細川の武名が地におちる。いかに上杉家で も、此期におよび妄動《もうどう》は慎むであろうとは考えられるが、しかしそれは理窟でしかない。上杉侯にとって吉良は実の父なのである。どんな自暴自棄 《じぽうじき》の感情が湧き立って、自制の堰《せき》を破らぬとは限らない)
 こう思った細川侯は、老中にむかって、
「それに就き拙者自身、受取りのために出馬いたしとう存ずるが、此儀お聞済みを願いおきまする」
 と、申し出たので、おお鎮西《ちんぜい》の太守の心組こそは、天晴れなものと閣老も感服したが、しかし、評議の結果、
「御奉公の御心掛は至極と存ぜられます。されど、他の振合いもござるによって、御自身御出向きにも及びますまい。然るべき御家臣を御名代として、お遣わしに相成るが宜しかろう」
 というのが返辞《へんじ》だった。
(閣老の意見がそうとすれば、強いて自身出馬するのは穏当ならず)
 細川侯は思いとどまって、側近の者を自邸へ走らせ、
「三宅藤兵衛《みやけとうべえ》を差向けよ」
 と、言いつけた。
 三宅藤兵衛は、知行三千石を食《は》む堂々たる士《さむらい》である。肥後五十四万石の大大名の家中とはいえ、三千石の士といえば重臣の列である。しかも三宅は名流の後だ。天正の昔、湖水渡りで勇名を天下に称せられた明智左馬助光春の後裔なのである。
「畏まった」
 三宅藤兵衛は立ちどころに隊伍をととのえた。自ら隊長として出馬し、鎌田軍之助、平野九郎右衛門は副《そえ》となって続き、格式ある士《さむらい》は悉 《ごとごと》く騎馬でうたせ、迎えの駕《かご》十七挺、予備の駕五挺を舁《か》かせた上下百五十余人の一隊が、細川邸を発した。
 馳せ着ける先は、仙石伯耆守の役宅である。泉岳寺で受取るのが変更され、大石以下は泉岳寺から仙石邸までおもむき、そこで四家に引取られることになっていた。



 細川ほどの大大名ではないけれど、伊予において十五万石を領する久松家は、中諸侯としては屈指な藩である。しかも譜代大名である。
 それとばかりに、一邸の精鋭をすぐった。
 番頭奥平次郎太夫、佃《つくだ》九兵衛を、正副の隊長として、その勢三百余人、予備の分とも十三挺の駕を舁かせ、上士《じようし》は皆、騎乗の武者振り凜々しく、受取場所の変更が報ぜられる前に、泉岳寺へ駆着けた。
 だがすでに、水野家の隊士は二百余人先着していた。五万石の藩ではあるが、ここで立ち後《おく》れては、不面目と張り切ったわけだ。
「なアんだ水野勢が、あんないい場所にのさばっている」
「不都合だ。譲らせようではないか」
 久松勢は、しきりに犇《ひしめ》く。
 けれども形勝な場所を占めた水野隊は、山門の前から動こうともしない。
 隊長の山田大右衛門は馬上で、久松隊の動揺を、じいツと尻目にかけている。
 このとき、久松隊のなかから進み出た一人の士が、大音声《だいおんじよう》に、
「やあ水野家の方々に物申さん。御沙汰を蒙って、赤穂浪人衆をお預かり申すは、貴藩においても、我藩においても全く御同様でござるぞ。且つは貴藩とは日頃 より、格別御ねんごろな誼《よし》みもあり、只今この場所を半分だけお譲り下されても決して御用に御差支えは是れあるまじ。なにとぞ、此儀御許容下され い。かく申す拙者は、波賀清太夫朝栄《はがせいだゆうともひで》ーー」
 と、名乗る。
 言葉は丁寧でも、気合いの激しさ。
 たちまち物々しい空気が颯《さつ》と漲《みなぎ》る。
 冬の短い日は、早くも暮れかかっている。
 雪霽れの快晴の空が、あまりにも朝から輝きすぎたせいか、夕方になると次第に陽《ひ》が翳《かげ》ってきて、黄昏《たそがれ》には黒い厚雲が城北の方から現われて、それが大粒の雨を、ぽつり、ぽつりと落し始めた。
 水野隊の副長、山内九郎右衛門が馬を寄せて、隊長の山田に躡いた。
「ここで久松家と争うのは無益でばござらぬかな。山門広場前を我々が独占するのはどうかと存ずる」
 しかし山田は頭《かぶり》をふった。
 二三押問答しているうちに、沛然《はいぜん》と豪雨がおとずれた。
「うわーあ酷《ひど》い降りになってきたぞウ!」
 付近に蝟集《いしゆう》していた群集は、だが濡れ鼠になっても立ち去ろうとはしない。
 久松隊士波賀清太夫の、場所を譲れという交渉の気勢は、雨脚の激しさにつれて険しくなってくる。
 やがて豪雨のなかで日は全く暮れた。
 受取場所の変更が知れたのは、夜の七時頃であった。
 降りしきる雨の中を、久松、水野、両勢が愛宕《あたご》下の仙石邸役宅へと、押戻した時は、細川勢百五十余人と、毛利甲斐守家の田代要人《たしろかなめ》、原山将監《はらやましようげん》の率いる二百余人とが、門前狭しと詰めていた。
 四家それぞれの定紋づきの高張、また、騎馬提燈が、黒い闇のなかで動く。そして犇く人声が雨の音と混って、あるいは高く、あるいは低く。
 大石以下の義士たちは、終日泉岳寺で、公儀の御沙汰を待ち暮した。夜七時すぎ、御徒歩目付からの口達《こうたつ》として、
「一同、仙石殿御役宅に罷《まか》り出るように」



 一党の面々は、勿論昨夜討入りの儘の扮装《いぐたち》である。
 着込みの上帯しかと締め、頭巾《ずきん》の忍びの緒をも結わき直し、槍|薙刀《なぎなた》は、鞘を脱し、いつ何時でも、応戦出来る姿勢で、大雨のなかを高輪海岸、それから三田通り、西久保《にしのくぼ》から愛宕下へと行進するのだった。
 公儀の命令にだけは服従するが、その他は金輪際拒むという覚悟なのである。
 ついに仙石邸に到着すると、
「御沙汰に従い、一同只今|罷出《まかりい》でましてござる」
 と、告げる。
 仙石邸当門の士《さむらい》が、
「大石内蔵助良雄《おおいしくらのすけよしたか》」
 と、まず喚《よば》わる。
 声に応じて大石が、門内に入る。
 役宅玄関には、御徒歩目付が立ち並んでいて、内蔵助の差出す佩刀《はいとう》、懐中物、頭巾その他を受取って札をつける。
 以下の義徒、これに準じ、一同広間に導かれる。
 四家御預けの区別に由って座が定まる。
 正面上座には、大目付仙石伯耆守。
おごそかに申渡した言葉は、
「公儀におかせられて御詮議中、其方共はそれぞれ四家に御預けと相成るに就き、神妙に御沙汰を待ち奉るよう  」
 というのであった。
 こうして宣告は終ったのであるが、伯耆守は其座を立とうともせず、打寛《うちくつろ》いで大石に、いろいろ話しかけた。
「このたびの一挙に際して、 一同の沈着なる振舞、周到水も洩らさぬ用意 ー身共は全く感じ入ったそよ」
 大石が、挨拶した。
、まことに畏れ入った御辞《おことば》ーー一同の面目此上もござりませぬ」
 ああ徳川幕府三百年間にわたり、傑人義士の刑に問われた者いくばくぞ。
 しかも元禄の此の赤穂義士の如く、名誉の囚人として、格別の優待を受けたものは、他に絶無なのであった。

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