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岩村透「巴里の美術学生」


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巴里の美術学生
大都の社会生活というものはどこも大概は同様であって、ロンドンもニューヨークも巴里《パリ》も羅馬《ロ マ》も大した相違はたい、何《いず》れの都にも 賛沢と無駄に日を消して居る貴族や金持ちがある、コツコツと朝から晩まで勉強して居る学者がある、有難い一方で日を暮らして居る宗旨家がある、デコデコと 着飾って大道狭しと練り廻る淫売婦がある、また日に夜を続けて働き抜く貧乏人がある、この都にあってあの都にないというものは先ずないといってよろしかろ う。
ところがここに巴里にのみ在ってほとんど他の都に見ることの出来ぬものが一つある。これが美術家の生活である。なるほどニューヨークにもボストンにも立派 な美術学校がある。ロンドン、ローマ、ミューニック唱アントウエルプにもりてれぞれ有名な美術学校があり、また立派に生活を立てて居る一本立ちの美術家が 大勢あり、学生の群があるが、しかしそれは学生が技術を研究し大家が家業大切に商売をして居るというまでであって、一種毛色の変った、特殊の美術社会を形 造って、他の社会と異った、一種固有の美術家の生活をやって居るのは巴里のほかにはない。この美術生活という奴は多数の美術学生、殊に多数の外国から来て 居る留学生の集まって居る所でなければ出来ない。ところが世界の美術教育の中心は時によって所を変えるから、今でこそ巴里に本陣を構えて居るが一時は羅馬 にも、ミユーニックにもまたヅセルドルフなぞにも華々しい美術生活が行われて居たのである。
しかし巴里は昔から美術生活の行われて居った所で、今日まで多少の盛衰はあったが全く廃れてしまったという事はない、引き続いて今日にまで伝わって、巴里 名物の一つとして数えられて居る。ベンヴェヌト・チェリ一…の伝を見ると、その時分に伊太利亜《イタリア》から出稼ぎに来て居った美術家連と土地の技術家 がいかに生活をして居ったという事がわかる、確かにその時代にすでに技芸家という一種の団体が他の商売人と異った生活をして居った。それから『巴里におけ る一英人』という書物があるが、この本なぞを見ると十八世紀々末から十九世紀の半頃ヘかけて、巴里の美術家連がどのような生涯を送って居たかがわかる。近 頃になってはこの美術家の生活という奴は一種の名物また随って一種の研究物となって居る。
七、八年前に西洋の読書社会を騒がしたデュモーリエーの書いたツリルビーまたその以前に出たスチーヴンソンのレッカーなぞはいずれもこの巴里の美術社会の生活を写して、興味を添えた。
さて美術の生活とは一体なんであるかを問えば、返答は別にむずかしくない。すなわち美術家が、他の人間社会と別に団体を結んで、他人の事には一切無頓肴 に、朝から晩まで美術の事ばかり見、聞き、話して一生涯を幕らせるというかような社会に生活して居るその有様をいうのである。ところでこれはロンドンでも ニューヨークでもどこでも出来そうなものであるが、実際のところ出来ぬ。巴里に五、六年も勉強して居った米国の美術家が本国へ帰って来ると、「米国は駄目 だ、美術の空気がない、金銭の空気ばかりで美術の空気がない、アー巴里アー仏蘭西《フランス》」という声を出すのが千人がほとんど千人であるというのは、 米国には美術家の団体生活がないという事を証拠立って居るのであって、つまり巴里のみが一種技芸家にとって心持ちの善い空気すなわち美術生活を持って居る という事になる。
これは無理たらぬという事は、第一巴里には別に美術社会という特殊の団体を形造るだけの人間の数がある。政府の美術学校だけでも学生が一千二百人もある。 これだけを見て巴里美術界の有様が想像されるであろう。このほかに各私立学校の学生、女学生、すでに修業の時代を終えて居る一本立ちの技術家、音楽は別に したとしても建築、諸工業、手芸に関係のあるいわゆる、小美術をやって居る職工の連中から外国より移住をして居る美術家を加えたならば、巴里の技芸社会は 少なく見ても万に近い数になるであろう。
この大勢の人間が巴里という比較的狭い一箇所に集まって居るのであるから自然とその集合が一種固有の生活をやるのは当然である。巴里では実に技術家が一生 専門の美術と首ッ曳きをして美術に関係ある事ばかりを見聞きし、他の事には一切心を奪われずに心持ち善く生涯を終えることが出来る。
ところが、亜米利加《アメリカ》や日本なぞではそうはいかん。縦《たと》い別に美術生活をやるだけの人数が揃って居るとしても人間がまるで駄目だ。美術生 活をやるには数も必要であるが、人間の根性がやはり一種芸術家の根性とならなければいかん。巴里には数百年の間一種の社会を形造って居って、それがために 出来て居る技術家の根性がある、習慣がある、これが肝要な点であってこの気風はなかなか一朝一夕に製造は出来ない。
一体西洋人という人間は大概は心おきのない気さくな一口にいってしまえば子供がそのまま大人になったような奴が多い、ところが西洋の技芸家という奴はこの 普通の人間に倍して淡泊な無邪気なのが常例である。いう事も、する事も日本人の眼から見ては話にならぬほど子供ッぽい人間が多い、もし日本人で西洋殊に巴 里に居る芸術家のような無邪気な真似をしたら馬鹿とか気狂いとほか思われはすまい、相応にやって居ても、親類中の厄介物、不評判になるのが今の通例であ る。
学生として、或いは商人として西洋に永く住んだことのある人から見ると日本の人はいかにも交際のしにくい、油断のならぬ、不活澄な、底の知れぬ、興味のな い人間に見えるだろうが、技芸家として住んで常に西洋の芸術家と交わって居った人から見たら日本の芸術家という連中はどう見えるだろうか。西洋人のいう交 際というようなものが日本に行われて居るであろうか。他人の相手になる事の嫌いな、大勢の前に出る事の厭《まびり》いな、人に口を開く事を暉り、人の話を 聞く事を好かん、自分の感情を人に打ち明げて語る事をせぬ、他人の前に威張りたがり、己れの実力をなるべく大袈裟《おおげさ》に見せたがる、という、かよ うな人間が、交際などいうものが出来るか知らん。
人間が互い互いに一時も永く他人の顔を見て居たい、一言も多く他人の詞を聞きたい、己れの考えもなるたけ多く知らせたい、人の考えも十分聞きたい、食うに も共に飲むにも同時という考えで、一人よりは二人、二人よりも三人という風に共同の楽しみを感じてこそ団体の生活というものが出来る。人を見れば、何か役 人のように威張りたがる。威張りたいから、人のいう事は聞きたくない、何事も自分一人という考えでは、すべて共同という精神から湧いて来る快楽は味わえな い。西洋風の倶楽部《クラブ》とか或いは仏蘭西のカッフェのようなものは真似たくも出来ない、やはり一体の根性が待合いの四畳半に合うように出来て居る。
これは少し話の外に出たようだが、僕のいおうというのは先ずかような根性では一つの団体生活というものは出来ない、随って巴里の美術生活というようなもの は、今の日本のような社会には湧いて来ない、羨ましく思っても駄目だ、これに必要の要素がない、という事を話すと、同時に巴里の技芸社会はこれとまるで 違った人間の集合所であるという事である。
さて、一体がかような風であるから、広い、不便な東京に五百や六百の技術家が居った所で、別に特殊の美術生活というものはない。美術家はあっても別段他の 人種と異った所がない、異って居ないどころではない、少しは腕もあり評判もある人問で自分の商売さえ碌々《ろくろく》せずにトンダ政治家の真似をしてヤレ 運動であるのヤレ会合であるのと技術家が政治屋の真似をして喜んで居る奴さえある。こんな連中に芸術家の生活なぞ一風変ったものが出来よう筈がない。
それからまた美術学校もある、しかしその学校といっても別に他の学校と異った所はない。他の高等学校や中学校と別に異った所はない、同じような規則で縛って、同じような教授法でやって居るのである。
学生といってもむろんの事で法学生や医学生と別段これという違った所は見えない、これが美術学生でございという特色がない。同じような事を考えて、同じような根性で居るのである。
巴里ではそうでない、美術家は他人に優れて根性が淡泊だ、他の商売人に勝れて活澄だ、実に勇壮だ。何となくカラットした気風がある。独立の精神が強い。他人でも外国人でも感服する技一云の前には他人も己れも皆無だ。威張らないし、また威張らせない。
一体の根性がそうである上に周囲がうまくいって居る。第一技芸家の活動する範囲が広い上に多数の専門家が同所に集合して居るのであるから、朝から晩まで、 年がら年中、美術の事をいい、聞きして他事には一切無頓着に生涯を過す事が出来る。常に二、三の展覧会がある。政府の美術館、図書館がある。
大家の仕事場を訪問する。美術家の倶楽部に集まる。カッフェに美術家の友人と語る。外国の技芸家に逢って見聞を拡げる。新聞雑誌を読んで技芸上の見識を養 う。というような具合に常に外部から刺戟を受けて、技術も進め、またその道の欲を増して行く事が出来る。これがいわゆる美術の空気であって、米国人なぞが 巴里にあって米国にないというものはこの境遇の事である。
この一種の社会を為《な》し、特殊の生活をやって居る美術生活の最も肝要な、また大部分を占めて居るのが美術学生である。この団体の生活はすでに一家を為して居る美術家の生活とはよほど異って居る。これが僕の本題である。
美術学生の事を話す第一にいいたいのは、西洋の美術学生という奴は体格屈強なゴチゴチした人間で、面《つら》の生白い、痩形《やせがた》の病人でないとい う事だ。それから奴らは自ら人間の屑を以て任じて居る不活澄なイクジのない、根気のない、青年でない、実に活撥な、自任の強い、独立の根性のある、あくま でも根気強い、ネッチリした剛情な奴らで、人に対しては遠慮会釈もない、代りには親切気のある、よく食い、よく飲み、よく喋り、またよく悪口をいう奴であ る。
特別にいいたいのは学生の活気のある事だ。これはほとんど乱暴といっても善い位である。しかしその乱暴も皆無邪気な乱暴であって、ちょっと猪や熊の暴れる ようなものでその中に少しも悪気はないし人間らしい意地の悪い所はない。がとにかく騒ぐ、活撥だ、四十歳前後を頭として二十二、三歳の小僧連まであるが三 十前後の奴らもまるで五つか六つのワンパク者のように騒ぐ。勉強することも勉強するが暴れる事も実によく暴れる。
僕が初めて巴里に行ったのは二十四年の夏であったが、美術修業という目的で行ったのであるからかねて評判に聞いて居ったアカデミー・ジュリアンという私立 美術学校に入学した。巴里の美術教育界の大体を話すと、先ず第一に政府の建てて居る美術学校がある、すなわち有名なエコール・ナショナル.工・スペシア ル・デ・ボーザールで、ちょっと前にいったとおり一千余の生徒がある。学校は例の書生窟カルチェー・ラタンの端の方でセイヌ川に沿うた所にある。
このほかには種々の私立学校があるが、その中に最も有名なのが、アカデミー・ジュリアン、それからコロラシーというのがある、白馬会の和田英作はこのコロラシーに入学して今勉強して居る。このほかにジュランという学校もある。
先ずこの三校が有名な学校で、今は大家として指を折らるる人物も元は大抵これらの学校の生徒であったのである。
しかしこれらの私立美術学校は、学校とはいうもののむしろ修技場とか今一層適切にいえば道場とでもいった方が当って居るのであって、決して素人の考えるよ うな美術学校ー学校然とした教育場ではない、ただ技術を練習するというだけの場所であって、技巧を鍛え上げるほかには学術の講義のようなものは一切ない。 これはなくても差し支えないので、政府の美術学校は万事開放主義でやって居るから遠近法とか、美学とか、歴史とかまた解剖の講義なぞは私立学校の生徒でも ボーザールの生徒同様傍聴する事が出来る、わざわざ各校に置いておく必要はない。
元来がかような組織であるから自然と校舎なぞも学校然とした構えはない。ただ光線の善い部屋で五、六十人の生徒が入る事の出来る所であれば差し支えない。万事実利主義でやって居るから、他国の美術的の美術学校から行くとその質素と、殺風景なのに驚く。
マァ大抵学校は二階か三階にある、平家で一軒別に構えて居る所でも裏のようなところに引っ込んだ実にムサクロしい場所が多い。外部もつまらないが内部は実 に殺風景極まる。壁は荒壁、天井は梁《はり》が現われて居る、床は荒板で菰《こも》一つ敷いてはない、部屋中装飾といっては競技優等の画を安っポイ額縁に 入れたのが壁に懸って居るばかりである。これと、時によると生徒が教師の肖像をポンチ絵風に描いたのが壁の一部にある。この位の物で後はドロンとした灰色 の壁ばかりで、美術学校なぞ想像して行くものには淡泊、無味極まる粗末な所だ、普通の大工の仕事場でも今|少《ち》っと興味がある。
僕の行った時にはジュリアンの学校がリュー・ジュ・フォブルグ・サン・ドニという町にあった。これはポルト・サン・ドニを這入ってまっ直ぐに五、六丁行っ た右側の所で番地は確か四十八番と思った、入口を過ぎるとガラ明きの中庭があって、そこから左にある槽子段を上ると狭い廊下がある、何でも一階は何かの問 屋であったと思う、時々銭勘定の音を聴いた事がある、学校はその二階にあった。この時には学校が三軒に別れて居った、一つがプラス・ヴアンドームの近辺で リュー・サントノレ、それからリュー・フオンタンヌと、次に我々のとほかに女学生のために設けてあったのが巴里中に三箇所、都合六箇所でやって居った。つ まりアカデミー・ジュリアンというのが五箇所に支店を出して生徒を教育して居ったのである。
僕の入学した時分は絵ではジュール・ルフェーブルとバンジャマン・コンスタン、ブグロー、ロベール・フレアリー、フラマン、フェリエーとヅーセーの連中、 それから彫刻の方ではシャピユーが受け持って居った。これはこの大勢の教師が大勢寄ってたかって一人の生徒を攻めつけるというわけじゃない、教師の受け持 ちの教場があってその教場に来る奴だけ自分が教える、生徒は入学の時に自分の好きな人を定めて、その教師の室に入るという次第である。
ちょうどこの時には学校に部屋が三つほかない。ブグ口ーとフェリエーの受け持ちの教場が一つと、バンジャマン・コンスタンの受け持ちの教場とその間に彫刻 生の研究場が一箇所と合せて三間、ほかには小さな事務室と小使い部屋位のもので、話に聞いては居ったが、世界に有名なジュリアンの学校もコンナ所かと大い に驚いた。
家も粗末であるが入校の手続きも実に無造作だ。別に入学試験というものはない。下手は下手、上手は上手なりにそのまま入校が出来る。技倆にも構わないが年 齢にも構わない、教場に入って驚いたのは十六、七の子供と五十位の白髪交りのお爺さんと平気に列《なら》んで描いて居る。段々慣れて見たら、このお爺さん 決して珍しくない。四十歳位の人は幾人も居った、しかも皆々立派な腕のある奴だ。これで大抵学校の程度がわかるだろう。家こそ穢《きたな》いがその中でや るものからいうと実に恐ろしい学校だ。これで思い出すが、巴里に居った時黒田、岡田の連中と一緒にカッフェに行って居った、ちょうどその時に乞食が、ヴァ イオリンを奏でてやって来た。「可哀ソーにもし奴が日本人であったなら音楽学校教授で従六位とか高等官とかいって威張れるのに、生れ所が間違った」と連中 の一人がいって笑った事がある。しかしこれは笑うどころではない、音楽の道ばかりでなく大概はその通りで絵画彫刻のいわゆる大家連も本場へ出して目方にか けたらやはり砂文字か焼判師位の程度に落第するのが多いだろう、幸いにして世界の隅に引っ込んでヘッポコなりに比べて喜んで居るから相応にニラそうな事を いって居れる。日本が楽園といわれて居るのは豊唯《あにただ》風景季候においてのみならんやだ。
さて、生徒は事務所について入学の手続きをする。手続きといって別段むずかしい事はない。ただ誰について学びたいと教師を極める。これと同時に一ヵ月なり三ヵ月なりまた一年なりの月謝を前金で払う。
このほかには入校願いも、在学証書も、保証人も、証明もなにも要らない。前金払いという奴がすべてこれらの代りをする。この法はジュリアンばかりでない、 米国あたりの学校でもその通りである。ソコでその時分の月謝が、終日の稽古であると一ヵ月分五十|法《フラン》、半日だと二十五法、終日で一年の謝金が三 百法、彫刻の方が四百法である。
学校入学の手続きはかようで実に簡単であるが、実際画室に行って生徒の仲間入りをするという奴はそう軽便には行かぬ。というのは教場の整理は一切自治制で あって教場の事は一切生徒が自分でやって居る。ところで、学校に入るのと教場に這入って生徒の仲間になるという事は自ら別のような具合になって居るので、 入校は屍《へ》でもないが入学は屍でもある。コイッ下手をやるととうてい学校に居溜《いたた》まれなくなるほど苦《いじ》められる。
先ず第一、新入生が初めて教場にやって来ると教場の連中が種々の事をいい立ててからかう。これは誰でもやられる。老人であろうが、女であろうが、外国人で あろうが、また自国人であろうが、一切誰という事に構わずにやる。大抵新入生がポート・フォリオを手にして戸を開けて顔を出すと、画室の連中が五、六十人 一同こちらの方を向いてアーというような声を出す。コイッ不意に来るから全く知らずに居るとメン食らう。
サアそれから悪口が初まる、ー悪口といっても一通りや二通りの悪口ではない、あまりうまく穿《うが》って居る批評で、いわれて居る御当人までがおかしくな ることがある。時によると身振りでサンザからかわれる、例えば新入生が丈の高い男で首でも長い奴なれば、生徒の一人が即座に画帖を携えて、麒麟《きりん》 の真似をして皆の前を歩き廻る、うまく新入生の癖を採った上に、妙な眼をされて、オマケに多年動物園で研究した鳴声でもやられたら、とうてい真面目に椅子 に坐ってはおられない、生徒もドッと吹き出す、モデルも笑い出す、暫時は稽古をせずにワッワといって騒ぐ。
英国人であるとか、独逸《ドイツ》人ででもあると一層烈しい。英吉利《イギリス》人の下手な仏語の真似をする。妙な声で英吉利語を唸《うな》る。ロース ト・ビーフ、プラム.ブッヂングなどいう辞が所々の隅から出る。端に居てヒヤヒヤするような毒言も、おかしくてとうてい真面目にたって描いて居れぬ奇言も 遠慮会釈なしに出る、実にその頓智とその滑稽にはジュリアンの生徒に敵う奴はないージュリアンは悪口、頓智滑稽の名所だ。
この悪口雑言も歯をくいしめて聞かぬふり、先ず無事に自分の座を定めると、その次に学生中の幹事というような奴がやって来て仲間入りの金を取りに来る。こ れが学生仲間の束脩《そくしゆう》のようなもので、定額は一人前確か五|法《フラン》であったかと思う。この金を払うというと幹事の触れ出しで出席者一同 近辺の酒屋に酒を飲みに行く。これはむろん修業時間中の事で、別に規則というものもない。一同賛成という事なれば修業時間でも勝手に稽古を止してしまう。
酒屋へ出かける時もなかなか面白い。一同二列位に行列を組んで人道を歩く。途中は歌を謡う、演説をする、楽隊の真似もすれば、物売りの仮色《こわいろ》を やる。衣物はむろん、稽古着そのままで、例の長い職人の上ヅパリを被《き》て居る。帽子を被る奴もあるし被らぬ奴もある。通行人の背中を後ろから叩いて知 らぬふりをする奴もある。通りかかる女に戯れる奴がある、中には自分の背中に「売物」なぞいう看板をブラ下げて平気で歩いて居る奴もある。活撥といおうか 無頓着といおうか、とにかく普通の人間の出来ぬ事を白昼平気でやって居る、少しも恥かしいなぞ思うては居らぬ。奴らの胸には技術家という別世界があってこ の社会の人間のする事は几俗の奴らの批評なぞには乗らぬものと心得ているから面白い。
不思議なのはこの行列の途巾誰独り肝腎《かんじん》の金主の新入生に気をつける者のない事だ。初めて来た奴ではあるししかもその人の御蔭で一杯やれるので あるから、少しは愛想もありそうなものだが、誰一人見向きもする奴がない。当主は後からスゴスゴ踵《つい》て行く。実に淡泊極まった話だ。
酒屋へ着くと歌はいよいよ烈しくなる、乱暴は募って来る。舞踏をする、驍《しやち》ほこ立ちをやる、大声に演説をする。その内に給仕人が注文を聞きにやって来る。万事メチャ苦茶である。吩咐《いいつけ》る酒も十人十種だ。
葡萄酒もやる、ビールもやる、コニャックもやる、リモナーデも好し各々勝手気ままに注文する。やがて二旦一百飲んで一座ようやく治まると、ソコで新入生にとって大変な事がオッ始まる。
これが仲間入りの芸当で、これは是非ともやらねばならん。幹事が起立してこれより新入生○○君の芸当始まり始まりと怒鳴ると、一同拍手で是非是非と所望する、少し躊曙すると気早い連中は傍へ来て無理矢理に引き連れて何かさせるまでは承知せん。
僕の入学の日にはちょうど、布畦《ハワイ》から来た米人と独逸人と僕と三人の新入生であったが、先ず布畦先生テーブルに飛び上って布畦名物カナカ土人の尻 振踊りをやった。尻を振り始めると一同テーブル、コップ、戸、障子、何でもかでも手当り次第のものを叩きたがら五、六十人一斉にラララーラーララララー ラーラと拍子をとる。その喧《やかま》しい事は何ともいえない。これが済むとこんどは僕の番だ。
ここでちょっと入れたい事がある。この芸当という奴をやらされたのはこの時が始めてでない、これ以前には幾十度となくやらされた、これには実に閉口するが しかし西洋ヘ行った以上はどこかで必ずやらされる。これは仕方がない、この覚悟は誰も西洋に足を踏み出す人は持たなければならん。今まで西洋へ行った連中 でこの一条で非常に苦しんだ先生方が多いだろう、また珍奇の話もあるであろう。とにかく、イザという場合には少しも閉ロせずに出す事の出来るだけの何か歌 なり詩なり踊りなりの芸をあらかじめ用意しておかねばならん。
これで思い出す事がある。二十三年の夏米国に居った時ムーデー氏の夏期学校に在留日本人の学生一同が招かれた事があった。ある時、何かの祝賀会の時であっ たと思う、米国各地の学校その他英国、仏、独を代表して居る学生連がそれぞれ自国の歌を謡うから日本も自国を代表して何かやれというので日本人連中集まっ て相談をした。相談はしては見たもののもと元何も知らぬのであるから話が纏《まと》まらない。なんでも文句は西洋人にわからぬからかなり皆のよく知って居 るものが善いというので「一ツトヤ」をやッつけろという事に一決して、それから一日稽古をした。しかしこの数え歌でさえなかなかうまく行かん。
が、トウトゥ稽古をして当日出たが、仏蘭西人のマルセー工ーズ、独逸人のラインの歌の後で、聴衆にはわからぬとはいいながら五、六百人の前で一同高座に 上って、髭《ひげ》の生えた立派な連中が「一ツトヤー」を歌うのだから耐《たま》らない。殊に「五ツトヤーいつも変らぬ、とし男くお歳をとらずに嫁をと る」の一段に来た時には自分ながら腋《わき》の下に汗をかいた。未だよく覚えて居る、この時の音頭とりが今の貴族院議員の三島弥太郎君だ、それから歌った 連中には大分今日の紳士連がある、名をいちいち挙げる必要もあるまいが、今の第一銀行の市原盛宏君なぞも確か合唱連の一人であったと思う、何でもみんなで 十五、六人一緒だった。
さて話が外《そ》れたが、順が僕の番に来た、仕方がないから詩を吟じて御免を蒙《こうむ》った。布畦先生も僕も非常な拍手|喝采《かつさい》で済んだ。二 人は無事にやってのけたが次の独逸先生はどうしてもやらない。この人はよほど柔和な人であったが、知らないか、知って居るのか、如何《どう》勧められても やらない。ところでなんとなく仲間外れというような風になって来て例のジュリアン得意の悪口が四方八方から降って来た。この先生幸いに仏蘭西語が通じな かったから悪口もさほどに感じなかったろうがもしわかったら穴にでも這入りたく思ったであろう。
この酒屋の会合が新入生の紹介見たようなものでその時の仕打ちで大概新入生の人物を鑑定してしまう。
活撥な奴か優柔の男か、話せる奴か話にならぬ奴か大概見当がつく。実に新学生にとっては大切な場合である。この時にヘマな事をすると在学中の愚弄物、嫌われ物になる。
現に今の独逸人なぞもその翌朝、坊主の衣を着けて、苦虫噛み潰したような面をして居る肖像を描かれて壁上高々と懸けられた。このポンチ画と悪口が学生の武器で、時によると竹槍で横ッ腹|刺《つつ》かれるようなポンチ画の似顔が壁に出る。
気の毒の事にこの独逸人は在校中皆の弄び物になって居った。ある時(これはジュリアンがルユー・ドラゴンという町に移ってからの事であった)稽古中にわか に四、五人の学生が隣室に引っ込んでしきりにゴトゴトやって居ると、その内やがて一人の男が二尺ばかりの焼鉄棒を持って来た。鉄は真赤に焼けて居る、そし て棒の元を濡れ手拭で巻いて握って居るが火気でポッポッと湯気が出て居る。
この棒で、例の独逸先生を攻撃するという趣向だから耐らない。先生早速椅子を離れて逃げ出したが、他の連中なかなか室外に出せばこそ。先生一生懸命蒼く なって逃げ廻った。僕は悪戯《いたずら》にもほどがある、これはあまり酷《ひど》いと思って居ると、その時にちょうど居合わした生徒の中にハッチソンとい う男があった。この人はカナダから留学して居った学生で至極着実なまた義攸に富んだ男で平素から学生の乱暴を嘆息して居った、少しジュリアンには不相応の 変り者であったが、この先生この悪戯を見てはもはや耐えられない、蒼くなって止めに往った。鉄棒を持って居る男と独逸人の間に這入って止めたがなかなか止 めばこそ、トゥトウ迫り迫って、ハッと思う間に焼鉄を横ざまに独逸先生の頬ッペタに押しつけ反《かえ》す刀でまた仲裁人の頬へも打ちつけた。
コレハと思って見ると面白い、独逸先生の面は朱だらけ、仲裁人の面も手も真赤、焼鉄は木の棒を写実的に絵具で塗り上げ熱湯につけたる手拭で元を握って居っ たという趣向。満室拍手喝采飛ぶやら跳ねるやらの大騷ぎ。仲裁人もあまりの馬鹿気さに果ては腹をかかえて笑い出した。こんな美術的の悪戯は時時やるがしか し新案の犠牲に供せらるる奴はいつも真面目な充分弄び甲斐のある男に限る。かようの悪戯は臨時でその度々の新案に任せて有志の連中がやるのであるが、この ほかにお定りの奴がある。これは大概の新入生はやられる。その中の一つが大鏡の狂言だ。これは雨天の時に光線が弱いので連中の一人が来て「事務室に大鏡が あるから行って持って来い、暗くて仕方がない」という。使われるのは新入生の役目であるから事務室に行って大鏡の話をすると、事務員はニコニコと笑って返 事しない。利口な奴なれば、この時にヤラレタナと気がつく、馬鹿な奴は真面目に報告すると、サー一同でそれからそれと善い慰みものにする。
中には性質《たち》の善くない悪戯がある、スコットランドから来て居た若い学生が居ったが、この先生少し軽卒な性質で、至極好人物だが、国自慢が病いで、ナンデも蘇格蘭土《スコツトランド》でなければ通らない、しまいにはみながグラスゴーという綽名《あだな》をつけた。
この先生、この位の男であるからなかなかの剛情者で、人の忠告や、教師のいう事などは聞き入れない。友人が自分の描いたものを批評する事でもあればなかな か承知すればこそ、何でも自分の作には問違いないと思って居た。コンナ男が一番慰み者になる。この男が学校中の憎まれ者になって居る最中の事であった、あ る男子のモデルを稽古して居る時ちょうど教師の廻って来る前にグラスゴーの小用に降りて居る間に誰がやったか先生の描き終って居た裸体画の陰部を真物大の 二倍位に延ばしておいた。グラスゴー用事を済まして昇って来たが訂されたとは少しも気がつかない。やがて教師が廻って来て、サテ、先生の作の批評に取り掛 かると教師驚いたの驚かないの、「コリャあまり太過ぎる」と直すとグラスゴー例の反し詞で、イヤといいながら見るとイッの間にやらステキに肥えて居るの で、この時にはさすが傲慢のグラスゴーも謹んで教師のいう事を容れた。
こんないたずらもやるがしかし勉強する時には実に真面目に勉強する。むろん教師は平日画室に居らない。教師どころか生徒のほかには事務員も居らん。監督者 というような人間は影も見えない。生徒自身が監督者で、画室の中の事は誰が何といおうが聞かぬ。また統御者のようなものが居った所でいずれも一騎当千の乱 暴者であるからソンナ人間のいう事は誰も聞くものはない。実に自由も自由、勝手気ままの人間の集りだ。しかしこの我儘の人間もモデルの形或いは色の善いの に逢うか、また佳境に入った時には一生懸命に勉強する。大概一週間の初めに新モデルが出て、その手本の大体を描き入れる時にはシーンとしてただ木炭の紙面 を擦《す》る音のみ聞えて息も迫るように一生懸命勉強する。遊ぶ時には犬ッコロのように遊ぶ、勉強する時は全力を尽して勉強する、コレが学生の風だ。
しかし少しでも飽いて来ると決して黙って居ない、第一が口笛でそれから誰か歌を謡い初める。それも仏蘭西《フランス》の歌ばかりではない。生徒は各国から 集まって居るのであるから、露西亜《ロシア》も出る、米国も出る、英国も出る、伊太利《イタリ 》も出る、葡萄牙《ポルトガル》も出る、瑞西《スイス》も 出る、希臘《ギリシア》も出れば波斯《ペルシア》も出る。各々自国の歌をやる、むろん自分の画は描きながら。時にうまくその国歌をやると一同その国の万歳 を唱える。ちょうど僕の居た頃は露仏同盟の風説が盛んな時であったが日々四、五十遍露西亜の国歌を教室で聞かなかった事はなかった。これが学校であるかと 思うと不思議なようであるが、論より証拠、この乱雑な学校で出来るものがしかつめらしい、規則立った学校で出来るものよりも十倍も百倍も善いというのが面 白い。
学生の退屈を醒《さ》ますは歌も一つの手段であるが、そのほかに未だ種々ある。仮色《こわいろ》ーその当時有名な役者の仮色もその一つだ。時々自慢にその 節評判の筋をやる、一座感服して謹聴する時もある。またしばしばやるのが動物の仮色で犬、猫、猿、豚、羊、雁、鴨、鶏を初めとしカンガルーでも象の仮色で も一同負けず劣らず一生懸命にやる。これは各々それぞれ得意の受け持ちがあって初めは一人一人やってるが後には一度に出すのでノアのアークが難船したらか ようであろうと想像することもあった。
一番僕の感服したのは西班牙《スペイン》とか葡萄牙《ポルトガル》とかから巴里に来て居る銀行の頭取りの子息であるとか評判のあった男の芸だった。この男 は当時乱暴者の首領であったがおよそ物真似と来たら、身振りでも、口真似でもこの男に叶う奴はなかった。この先生の最も得意なのが「ドーヴァー海峡」の一 段で旅客が乗船する時から途中船に苦しむ所まで眼前に見るように真似する。友人でこの話を聞いて胸を悪くした奴があった。一体奴ら、物の癖を取って、人に 感を与えるように表わす事においては非凡の技倆がある。ここが美術家だ。
一体がこういう風であるから、この道場に別段|喧《やかま》しい規則のようなものはない。学校とはいいながら、出るも出ぬも勝手次第で、競技はあっても試 験というものはない。ただ時の気の模様で休みたければ休む。勉強したければ勝手に勉強する、何事も当人の気ままに捨ておくという話だ。しかし誰でももし学 生一般の意向に反対な事をするか、或いはいうかすると例のワイワイでただちに打ち潰してしまう。つまり多数の自然制裁で万事やって行くのである。
ところが人間という奴は人種こそ異なれ欲には大した相違がない、希臘《ギリシア》人でも安南人でも十二時が近くなれば腹が減るといったようなもので望む所 に甚だしい違いがないから別段堅苦しい規則を製造しなくてもうまく行く……四、五月頃になって画室は少し暑くたって来る。ブールヴァールの並樹が芽を吹き 出して来る。馬車の音が何となく陽気に聞えて来る。サアそうなって来ると冬中四、五ヵ月の間日々むし暑い空気と煙草の煙に燻《いぶ》られた学生は飛び出し たくて耐《たま》らない。厭気ながらモデルと首ッ引きをして居ると、ちょうどその時に町の角で乞食が手風琴をやり始めるウォルツの調子に浮れ出す。もう辛 抱も我慢もして居られない。
突然学生の一人が起立して演舌する、「諸君、我々は馬鹿です、気狂いです。この美しい春の日に我々のごとく穴にもぐって馬鹿な真似をして居るものが広い世 界にまたとありましょうか我輩はこれより野外写生と出掛けます。諸君いかが」。賛成賛成の声が湧く、「実に我々は馬鹿老だ、気狂いだ」「しまえしまえ」と いうような声が聞える。急に画板を拭い出す。筆を洗う。ポート・フォリオをしまう、画架を片づける。モデルも台を飛び降りて衣裳を着けるというようなわけ で二十分後にはシーンとした空家になる。学生はサン・クルーの森に行くもある、マルンの河畔に新柳を写生に行くもある、なお一層奮発して遠征と出掛ける連 中は一夜泊りにバルビゾンにミレーの旧家を訪いがてらフォンテヌブローの森の写しと出かける学生もあるだろう。
前のような調子で学生は自由、自在、勝手気ままで己が意の通り馳せ廻る不規律極まった人間で技術のほかには天下に尊いと思う者もなければ、恐いと考える人 もないが、この乱暴者が青菜に塩、猫の前の鼠のように閉口《へいこう》してグーの音も出ないものが天下に一つある。これが教師である。実に教師の前では平 素の悪口はもちろんの事ろくろく声も出さない。巴里美術学生と教師の関係というものは敬仰、服従の点において神様と信徒のようだといって差し支えなかろ う。学生にとっては師匠の一言一句はむろんの事、御尊体を拝するのさえ有難い。実に美術の生仏様である。
教師は大概一週間に二度来る。教師の来る日は定まって居て、その朝になると生徒の様子で何となくわかる、描き残りのある老は一生懸命仕上げをして居る、仕上って居る者もなお一層調べて研究して居る。
皆忙しい。ドーゾ一言でも快い批評を先生から得たいというのが学生の心願だ、これよりほかには何の欲もない。
教師が校舎に這入って来るとすぐわかる。にわかに学生がシーンと静まってしまう、誰一人座を離れる者もない。先生は画室に入るとすぐさま入口に近い所から 当り次第に画架から画架と順次批評をして行く。ところが大勢の学生の事であるからたかなか長々しい事はいって居らぬ、大抵二言か三言位で「善し」「この調 子が間違ってる」「大して悪くもない」「姿勢がまるで狂って居る、駄目だ」なぞいう詞《ことば》が普通で、自ら筆を執って直してくれるなぞいう事は実に稀 だ。しかし「大して悪くもない」なぞいう詞を頂戴した時の嬉しさ、この嬉しさは実験した事のある者でなければわからない。ゾーッと身に染むように嬉しい。 その晩は考え出して眠られない。
ところが「大して悪くもない」なぞいう御言葉を頂戴する事はなかなか出来たい。褒《ほ》められるどころで
はない、大勢の中でビシビシと悪口をいわれて穴にでも這入りたい心地のする事がある。むろん教師も皆生徒の境遇はやって来て居るのであるから、悪口、皮肉の批評は上手だ、実に上手だ。気の毒で他人ながら手に汗を握る事がある。
「コリャなんだ、コレは何のつもりだい。これが手だと?御前|何歳《いくつ》、三十?絵具箱をしまってお帰り。田舎で芋を掘って居た方が善い」なぞいう批評が年に二、三度は必ず出る。
これは必ずしも生徒の作が悪いために出るのではない。時の先生の機嫌にもよるだろうが、しかし悪い機嫌も生徒の作の善いために直る事もある。画室にやって 来る時は渋々顔でも出る時はニコニコとメシュアーの前置きで愉快に挨拶をして帰る時もある。とにかく、一種の別世界で人間の全体が技芸というものに全く捧 げられてある、他心のない無邪気な、他から見れば不思議な社会だ。
ちょうど僕の入学してから三、四日経っての事であった、フェリエー先生がやって来て烈しいのを食らわした。この時の生徒は五十近い男であったが、他の事な れば命も捨てて撃ってかかるだろうが、技芸の評言ばかりは黙って聞いて居る。学生一同もその生徒の作を囲んで教師のいう小言は一言も聞き洩らさぬようにす る。これは悪口の時のみでない、平素でも教師が来て直す時には画架から画架と教師の後を生徒一同ゾロゾロとつき纏って一言半句の詞も聞き洩らさぬようにす る。殊に、その中でも学生中腕の善い奴の作の番に来るとあらかじめこの点を何というかという欠点を見つけ出しておいて、教師がどんな所に気をつけるかと注 意する、もし自分の考えて居った所と符合する事でもあれば、ちょっと嬉しい。
この時にやられた先生なぞも腕はなかなか善い男だった、日本でいう大家先生なぞはなかなか側へも寄りつけぬ腕であったが、しかしとにかく十年も十五年も引 き続いて勉強し、しかも世界各国から来て居る、生徒とはいいながら、いずれも七、八年の辛苦をしてその仕上げに来て居る連中の中であるから容易な事では満 足は与えられない。それに形も色も喧《やかま》しいから手は手、足は足らしく見てくれるようになるまでには容易な事ではなれぬ。実に芸術の教授法は酷だ。
この学校には卒業というものは全くない。だから生徒の中でも十年来て居るとか十五年来て居るなぞいう連中は珍しくない、腕も善くなるはずだ。しかしこのよ うな男でも時々教師から五つ六つの子供同様の取り扱いを受ける。とにかく教師の批評には遠慮というものがない、勝手次第、心に浮び任せの事をズンズンいっ て行く、僕が学校に入る少し前に死んだブーランジェーという名家があったが、この先生はまたエライ直言家であったそうな。或る時例の通り直しに学校に来 て、部屋の端から端へと次第に見て行ったが、一言もいわない。
スッカリ見終って、出口の所ヘ来て「此奴《こいつ》らに睾丸のクッついて居る男は一人もない」といい捨てたまま一言もいわずに行ってしまった。
教師はかような直言がドレほどの奮発心を生徒に起さすか、ドレだけの結果があるかをチャーンと知って居る。これを見ても生徒がドレだけ教師を信じて居る か、いかに敬服して居るかがわかるだろう。生徒は教師に何と悪口をいわれようが、恥を掻かされようが、少しも怨まない、怨むどころではない、一層奮発して ドーにかして一言でも嬉しい辞を貰いたいといよいよ勉強する。ここが技芸教育の面白い所で、仏蘭西《フランス》が近来他国に抜きんでてエライ美術家を続々 出し殊にテクニックでは世界の先導者となったのはこういう教育法で人間を鍛え上げたからである。馬鹿な人間も一人前の日傭取りに仕上げるという今日普通の 教育法で、この荒ッぽい教育法で鍛錬すると技芸家の根性が出来るようだ。技術家の根性というはほかでもないが、スラッとした、のびのびした、イジケない正 直な、活灌な人間が出来る。先の眼色や鼻息を窺ってこちらの考えを製造しようというような根性がなくなる。これに従って他人と自分という区別が判然として 独立という所が堅固になって来る。この独立という奴が技芸界にとっての最も肝要なもので、変化のない人間ばかり居る世の中になったなら技芸というものはな くなってしまう。オリジナリチー、独創という奴は人と同じような考えを持って居る者には出来ん。人が左といえば右、右といえば左というように常に反対の根 性がなくチャー起って来ない。コイッが真の美術家の根性で、独立という考えがなけりゃ、変化がなくなる。それからこの酷な教育法でやると出来上る学生に人 間の屑が少ない。完全《ちさ》という考えが強くなって来る。メジオクリチー、平凡、中途という奴と朷魔化《ごまか》し、善い加減という奴を嫌忌する一種の 根性が出て来る。こいつも技芸家にとっては最も必要である。仏蘭西の美術が彫刻でも絵画でも古来見た事のないしっかりしたテクニックを出したのは実に偶然 の事でない。
しかしこの教育法は善いだけに辛い。第一よほど良い無理に耐えられる体を持って居る者でなければとうてい辛抱が仕切れない、三ヵ月と辛抱が仕切れない。僅 か二十坪か三十坪位の部屋に閉じ籠って、空気もろくろく通わぬように閉じ切って五十人の生徒とモデルを裸体にしても差し支えないだけに夏冬の構いなくス トーブをカンカン燃《た》いて三、四十人のパクパク吹き出す煙草の煙に巻かれて、朝の八時頃から夕の四時頃までコツコッやるというはなかなか一通りや二通 りの体では永く続くものでない。世間では美術家とか何とかいってエライ呑気《のんき》なようなものと思って居るが実際技術の修業というものは決して小説家 の想像するような楽な呑気な色男のする仕事じゃない、頭を使う事においては木を読んでむずかしい問題を判断する学者と違わず、また労働と辛抱の点でいえば 土方と大した違いはない。
修業の辛い上に美術学生は学資という奴で他の学生より一層に困難をする。中には金満家の子息もある、また金満家とまで行かぬとも豊かに資金をもらって居る 者もあるがしかし美術学生といえば大概不充分の学資で支えて居るのが多いようだ。ここにおいては西洋も日本も変らない、「美術家貧乏」という事は昔から一 つの諺にまでなって居る位だから親にしても親戚にしてもその家から美術家なんていうものが出るのはあまり感心しない。感心しない位だから学資なぞは出そう はずがない。出ないから仕方がない乞食同様の姿で勉強しなければならぬ。昔から西洋の大美術家といわれた人の伝記を見るのに子が絵かき彫刻家になるという 申し出に対して双手を揚げて大賛成を表した親の話は聞いた事がない。ただターナーの親のみがその例外である。しかしターナーの老爺《ろうや》は理髪床の主 人だったという事を記憶しなければならぬ。もし役人とか代言人でもあったならむろん不賛成不承知であったに違いない。これは一通り無理でないというのはお よそ職業として美術の修業位前途の不確かなものは少たい、また出来損った美術家位|潰《つぷ》しのきかぬ厄介た者も少ない、可愛い子供を乞食にしたくない という親の考えはもっともだ。
理窟はさておき実際の所不充分な学資でコツコツ勉強して居る美術学生が多い。英吉利、独逸から来て居った学生にも貧乏で貧乏で実に可哀想なのがあった、部 屋は五階か六階の上でようよう小机一つに寝台を容れるだけの場所しかない薄暗い小便臭い所に城を構えて食事は自炊、洗濯も大概は自分、夜は油代倹約に運動 と出掛けるか、さもなくば比較的富有の友人を訪問して一夕を過すというような連中も居った。
だが、巴里の外国留学生は美術学生としては割に呑気に見える。これは巴里が他の市と異ってとうてい外国人として自分の技術を売って金を取る望みがないので 初めから相当の学資を用意して来るからであろう。実に巴里では一通りや二通りの腕で芸を金にする事は出来ぬ。外国人の巴里ヘ来る旅客で一番散財をするのは 米国人であるがその亜米利加の学生でさえ巴里在留の本国人から金を取ることはなかなか出来ないそうだ。亜米利加の女学生なぞは巴里見物にやって来る同国の 金持ちの通弁なぞをして学資の助けとして居るがなかなか暮しに困難な様子だ。
前にいう通り学校の修業もまた貧乏生活も随分困難ではあるが巴里はこの困難に対して美術学生に酬《むく》ゆるだけの愉快を備えて居る。教師の小言に落胆し た連中を奮発させる美術館がある。なお一層落胆のあまりもはや人間界が厭になった連中にはクロコダイルやアルッパカを友として一日を過すことの出来る動物 園がある。
六階の頂上に寒中火なしに震えている学生も美術家倶楽部に行けばドンドンと火が燃えて居る暖炉の傍で馬鹿ッ噺に面白おかしく一夜を過すことも出来る。平生 は節倹に節倹でただ腹を空にせぬだけに止めておく連中も少し奮発すれば僅かの散財でとうてい他では同類の腹に這入らぬ御馳走の食える安飯屋がある。一週六 日画室に閉じ込められた貧書生も日曜には僅かの費用でムードン、サン・クルー、スレスンの森に終日を暮らすことが出来る。古道具、古本の道楽者にはケイの 子店がある、ちょうど今頃だ、セイヌ河畔の並木が芽を出した時分にブラリブラリと古本屋を素見し、掘り出し物を目当てにムウッと徽《かび》臭い古本をこれ かあれかと掘り廻すその心持ちは何ともいえぬ、本道楽の極楽だ。
それから夜にたれば夜相応の場所がある。芝居好きには立見も出来る、助平連には三|法《フラン》の夜鷹も居る、カッフェに隣席の美人を己が手の者気取りに なって一夜を過すもよし、ブルヴァルの小間物店に一万|法《フラン》のダイヤモンドに眼を飽かせるもお安い事。万事コンナ調子で貧乏書生には貧乏書生だけ に他の市でちょっと得られぬ快楽と利益がある、他の富豪書生同様立派に美術の刺激を受けられる機関が備わって居る、ここが巴里の巴里たる所で美術教育地と して他市の真似の出来ぬところである。
これらの種々備わって居る快楽の中で美術学生生活の大半を占めて居る、いわば半公半私ともいう修業半分愉快半分の仕事が美術館への参詣《さんけい》だ。実 に美術館は学校についでの教育場で、学生は美術館と学校の間に修業して居るといって善い。この美術館にも種々ある。古代、中古、ルネサンス、近代の美術、 美術工芸の歴史的名作を研究する者はルーブルヘ行く。現代の絵画、彫刻を研究する者はルクサンブールヘ行く。建築の研究者はトロカデロの建築歴史参考館へ 行く。このほかに東洋の技芸に凝《こ》って居る濘中はギメー美術館、中古の芸術を調べる者にはクルニーの古寺がある。このほかに、ミューゼ・カルナヴァレ の歴史博物館がある、いずれもそれぞれ専門の方面に向って蒐集し、それぞれその美術館所属の学者が研究に研究を積んで、常に材料を増し、区分をこまかにし て居るから学生にとっては有難い場所である。
なおこのほかに学生の行くべき場所がある。これが中古以降の建築で、この点においては巴里自身が立派な美術館であるといっても差し支えない。寺院建築とし てはゴシック最良の建築の標本の一つとして数えられているノーッル・ダームがある、サン・ゼルマン・オーキセロワの寺院がある。なお溯《さかのぼ》って ローマネスク時代からゴシックヘの変遷時期の建築を調べたい者にはサン・ジェルマン・デ・プレの寺院、サン・ドニの寺がある。復與時代の建築ではルーブ ル、ルクサンブール、少し廓外に出づればヴェルサーユ、サン・ジェルマン、フォンテヌブロー、シャンチー、コンピエンヌの宮殿がある。近代の建築としては パンテオン、マドレーヌ。オぺラを始めとして大小美術館さては新美術《アさルヌヴオ 》を隅から隅まで施したニョロニョロ、デレデレした最近の建築に至る までとうてい算え切れぬほどたくさんある。それから建築装飾画の研究をしたい者にはソルボンの装飾、美術学校講義室の壁画を始めとして、パンテオン、オペ ラ、オペラ・コミック、ルーブル美術館の装飾、これもいちいち数え切れぬほどある。
このほかに年々五、六月の頃に開かれる両サロンの展覧会を始めとしてジョルジ・ピチー、ヅラン、ヅエルのような家に開かれる私設展覧会を算入すると学生に とってはなかなか三年や四年で頭の中に入れ切れぬほどの材料がある。日本を出る時には大抱負を持って巴里美術界征伐という勢いで出掛けた先生方が、さて 行って見るとその材料の多いとなかなか力の及ばないのに閉口して「とうてい駄目だ、おッつかない」なぞと泣言を出すのは無理でない。小ッポケな所から想像 しては西洋の美術界なぞいうものは何の事だか見当もつかない。しかしこれほどの所を現在目撃しても「ナアに巴里といったって知れたものだ」なぞとスマして 居る変り者がある。これらの人間は何を見ても少しも感のない無神経か、さもなくば質《たち》の一層悪い己が商売の側《がわ》から割り出した喝《おどか》し 策を振り廻して居る不埓《ふらち》な奴らでとうてい何を見せた所で正直な音《ね》を吐く生物じゃない。またもし正気でいって居る奴なれば話にならぬ気違い だ。感服すべきものは感服し驚くものには驚くが当り前、それを驚かぬ振りをしたところで少しもエライ所はない。こんな連中が国を危《あやま》るというもの で、こンナ奴らが庇理窟を並ベて煽立《おだて》たお蔭で日本の美術殊に美術工芸はどの位損をして居るか知れない。美術工芸なぞいうものについては善い所は 異人から皆採られて今日では「縁の下の骨を見ろ」といわれて居らぬばかりだ。中には実際「骨を見ろ」といって居る奴があるだろう。それでも自惚《うぬ  れ》というものは烈《ひど》いもので今だに日本の美術とか工芸とかいって独《ひと》りでエラがって居る連中がたくさんある。この塩梅《あんばい》で行くと ちょうど伊太利亜がルネサンス時代の美術に威張って安心してトゥトウ今では諾威《ノルウエ 》や瑞典《スウエヨデン》の尻に陥ちてしまったと同様日本の美 術もアルゼリヤ美術や布畦《ハワイ》美術の後に引き摺り落されるかも知れぬ。他人の力量を看破する明《めい》のないにつけて加えて自惚が強いとドンナ事に なるか先が知れない。馬鹿な奴ほど恐ろしいものはない。
学生は学校に行くかまた美術館に行くのが業務である。普通は学校に行くのであるが少し気持が悪くて学校では勉強が出来ぬとか、また何か考える所があって古 人の作を見たくなるか、或いは少し飽《いや》気が差して蒸気の欠乏を感じて来ると学校は止めにして美術館に出掛ける学生は美術館を学校同様の研究場と心得 て居る。中には学校よりもルーブルに一日を過した方が蓬かに利益があると考えている者もある。
少し思慮のある学生なれば美術館から出て来る時に遷這入った時と決して同じ心持ちでは出て来ぬ。何か新しい考えを起して来るか、一層の奮発心を持って出て 来るか、また悪くすると這入った時の勢いも挫《くじ》けて閉口の体で出て来るだろうが、とにかく同様の人間では出て来ぬ。たまたま学校の競技に勝って我こ そはと思う得意の先生も一度ルーブル、ルクサンブールの作を見ては大概の自惚は醒めてしまう。
これがどの位薬になるか知れない。落胆して居る奴も傑作を見ては奮発をしようし、少し位頭の足りぬ奴も大家の作を見ては自然と覚る所があるようになる。美術館は学生の病院のようなもので、この病院に節々行く必要があるし、また実際しきりに出入りをする。
学生は各々この美術館に自分の守神様と崇《あが》め奉って居る本尊がある、この本尊の前に行くのが楽しみである、楽しみどころではない有難い。時によると 崇拝のあまり嫉妬を起して来る。こうなって来るとその作者ばかりに熱中して他の人は一切構わなくなる。ヴェラスヶスを神様のように尊敬する奴もある。
ルーベンスを仏のごとく思う奴もある。ミレーを師と仰いで虹の図の前に眼を据える学生もあれば、ボッチチェリの聖母に願かける者もある。その他ピュヴィー スの壁画、モネーのアンプレッション、十人十種で学生の性質、修業の具合でそれぞれ考えは異うが古来数百の大家のうち誰か自分の理想を現表する人を選み出 してその人その制作を敬愛する。
この守本尊の自慢比べ堅苦しくいえば比較研究が学生間の生活のなかなか大部分を占めて居る。一日の業務が済むと大概は夕方から友人の所に出掛ける。または 親友を誘うて夕食をやりに出掛ける、いずれにしても話相手はある。かような場合に幸いにして同座の者が同じ流派同じ崇拝の本尊であると至極円滑に行くが不 幸にして旧教と新教、モルモンとクエーカーといったようにクラシック好きとロマンチック崇拝家という調子にとうてい根本から折り合いのつかぬ宗旨では大変 な議論が持ち上る。議論の果てには組み打ちになる事もある、親友の間でも十日も二十日も口を開かぬ事もある、時によってはそのまま絶交となる人もあるだろ う。ここが学生気風のちょっと気をつけべき所であると思う。外国の学生は各々自分の信ずるままに敬愛する大家を崇めて他人の本尊様と自分の本尊が異って居 るのを少しも意にしない。これは外国人であろうが三千年前の古人であろうが時と場合には少しも頓着しない。こういう気風だから巴里の真中に居っても他の俗 物がヤレ異教国のものヤレ未開国のものと攅斥するその間に北斎や歌麿をラファエル、ミケランジェ口同様に敬慕信仰する者も出来るのである。これを思うと西 洋の物といえば一概にこなしつける撰夷風の技術家とは同日の論でない。しかしその代り自分自身の感服しない奴なれば大家であろうが、古人であ

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