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尾崎士郎「中村遊廓」


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「古き城下町にて」──、と私はノートのはしに走り書きをした。幻想のいとぐちが、そんなところからひらけて来そうな気がしたからである。彦根の宿で、その部屋は数年前、天皇陛下が行幸のとき、御寝所になったということを宿の女中が、もったいをつけた調子でいった。その言葉が耳にこびりついていた。
 何気なくいった女中の言葉が、あるいは、明治の末にうまれて、天皇という言葉の威厳にうたれる習慣のついている私の耳にそうひびいたのかも知れぬ。ほかの連中はまだ眠っているらしい。昨夜は、いよいよ旅の終りだというので気をゆるして度はずれに飲んだせいか、おそろしく長い廊下を雪洞を持った女中に案内されて、この部屋へ入ったことだけをおぼえている。あとの記憶は、もうごちゃごちゃに入りみだれていた。
 伊吹の周辺をめぐる、というB雑誌社の計画で、関ヶ原を中心に中山道を自動車でうろつき廻っているうちに、同じ場所を何度も行きつ戻りつしたせいか、史実と土地の印象はゴタゴタとして断続的にぼやけてしまっていた。
 スケジュールの立案者は名古屋に本社のあるC新聞社の文化部員で、岐阜の在に住んでいる林田君である。何度も土地の実地踏査を行った上で、しっかりと組み立てたスケジュールには一つの無駄もなければ狂いもなかった。戦争中は海軍の航空大尉で、彼の乗っている飛行機が撃ちおとされ、海上に二日間漂流してからやっとアメリカの駆逐艦に救助されたという異常な体験を持っている林田君は、名古屋から、もう十年ちかく同人雑誌を出しているS文学グループの同人だった。彼の身体はまるまるとふとって、見るからに精力にあふれている。私は、一切のことをキビキビした態度で割りきってゆく林田君の言葉つきや動作の中から生死の間をくぐりぬけてきた男にふさわしい面魂をかんじていた。
 彼の表情には文学青年らしい神経的な翳がなく、そうかといって軍人特有の押しのつよい、形式ばった太々しさもなかった。唯、社から命ぜられたとおりに自分の限界をまもって、責任を遺憾なく果すという事務的な感情だけで動いているように見える。同行者は、C新聞と関係のふかい上に、私と古い知合いで伊吹周辺の土地に精通している稲村君、それにB社から私に同行してやってきた河瀬君の三人であった。伊吹周辺の風景を中心にして一篇の紀行録をまとめあげようというのが今度の旅行の、先ず目的といえば目的であった。
 終戦以来、急に健康の衰えの目立ってきた私は、東京を立つときから持病の胃酸過多で、みぞおちのへんに疼痛をおぼえていたが、四日間、特に酒を警戒していたせいか彦根へ着くまで、何の発作も起らず、肉体的な苦痛はほとんどかんじなかった。
 天皇陛下の寝室であったという部屋は鍵なりになった廊下の角にあって、つぎの間とのあいだを襖一つで仕切られていた。うしろに小さい床の間と、ちがい棚があるだけで、ほかに何の装飾もなかった。ほそ長い部屋全体からうけるかんじは、私が学生時代に暮していた下宿屋の一室を思わせた。
 この数年来、深酒をした翌朝は四時をすぎると、もう眼のさめる癖がついている。夜あけちかくに眼がさめたせいでもあろう。床の間にかけてある茶掛けの軸も、何か由緒のあるものらしかったが私には何の興味もなかった。ぼうっと眼にうつった煤けた柱の色が、低い天井とぴったり調和している。古さの沁みついた壁にも何となく親しみがあった。
 行く先き先きで書いてきた私の覚え書きは、同じような土地の印象にうずまっているので、偶然ひらいたところにうかんでいる、「菜種の花」「竹林」「焼芋」「はるかに橋が見えてきた」「桃咲く村」「伊吹は夢のごとく」1と、走ってゆく自動車の窓から見た景観の心おぼえも、今となるとそれがどこであったかという記憶はあとかたもなく消えつくしていた。印象に附随する聯想作用なぞは起るべくもないのである。
 四日前、名古屋を出発したときから空が晴れていたので、木曾川を渡る頃から伊吹山は純白の雪に掩われた姿を雲の上にうかべていた。近づくにつれて何の屈托もなければ躊躇するところもなく、徐々に角度を変えながら空の行手に、冷然としてそびえていた。
 私が今まで関ヶ原へやってきたのは、季節がほとんど秋にかぎられていたので、ー雲がふかく、それに、気流のせいもあったが、伊吹の全容を見たということは一ぺんもなかった。大抵、尾根の線をうすくぼかして、往き来のはげしい雲の中に姿を没している。思わせぶりというよりも、むしろ、ふふんとせせら笑っているような冷酷無慙な逞しさであった。関ヶ原合戦なぞを眼中においていないそといったかんじで傲然とうそぶいているところに、私は心をひかれたのである。
 私の家の書斎には、友人の洋画家である向江俊吉の、関ヶ原を描いた画がかかっている。画面は北国街道の入口にある古い民家のゴテゴテとならんでいるところから正面に見える筈の伊吹をとりいれた構図であるが、小雨の降る十月の終り頃で、伊吹の見える場所は暗く、濁った雲にとざされている。右手には泥溝のような川が白いあぶ、くを立てて流れ、時代の沁みついた陰惨な影が画面全体を掩って、伊吹山麓の、ひそやかな寒駅がまざまざとうかびあがっている。向江俊吉もおそらく写生旅行に来て、伊吹を描くことを断念したにちがいない。しかし、その雲のうしろに伊吹のあることだけは、ハッキリわかった。四日前、関ヶ原に入って、日暮れがた、風のつよい岡山の家康陣地から見た伊吹は、憎々しいほど肩をそびやかしていた。私は二年前にも関ヶ原三百五十年祭に招かれて、町にあたらしくできた公民館で一席の講演を試みたことがあり、街道筋のほそ長い通りは、近在から出てきた農家の人たちがこったかえしていたが、道の両側にならんでいる屋台店にも、都会地の縁日で見るような豊かな色彩にあふれた商品はなかった。どの店もすき間だらけで、戸板の上にぽつんぽつんとおかれている駄菓子や玩具の類も、夜風にはためくカンテラの灯かげに、ひとしお佗しさをふかめるだけである。講演が終ってから、この町で醸造業をやっている有力者の家で夕食の御馳走になり、そこで、ひとやすみしてから、ふらりと外へ出ると、街道を行き交う人の影が路上にもつれていた。ざわざわと鳴る夜風をつたってジンタの楽隊の音がひびいてきたのである。町はずれの、大谷吉継戦歿の地とされている藤川台にちかい広場に「サーカス」がかかっているのであった。
 夜風が高原をわたるごとに、色褪せた囲いの幕が風にはためいていた。丸太を組み合せてつくった正面の櫓には、楽隊の一団が陣どっていた。周囲の暗いせいか、「私のすきな羊飼い、今日も必ず来るであろう」ーと、同じリズムをくりかえしながら吹きならすブリュートの音が、人の世の落魄のすがたを如実に示すような哀れさをこめて胸を締めつけられるようであった。その一団の中にほそ面の、どこかに気品のある、一見して芸妓あがりと思われる四十前後の女が櫓の片隅に立って、片手に扇子を持ちながら、じつと下を見おろしている姿が妙に心に残った。人生の幾変転をくりかえして、やっと、どんづまりまで来たというかんじでもあるし、生きるか、死ぬるかという境目まで追いつめられながら、まだ老いすがれた愛慾に身も心もささげつくしているという恰好でもある。それが、関ヶ原だけに、いかにもこの環境にふさわしかった。
 今度の旅行で、私は、関ヶ原を四日間に二度往復している。最初は関ヶ原から大垣へ、そのつぎの日は、岐阜から関ヶ原へと、同じ道を走りつづけた。史蹟に重点をおいたわけではなかったが、自然にそういう結果になったので、同じ場所を何べんとなく歩いたせいか一つとして新鮮な印象をよびおこすものはなかった。むしろ、二年前に見たサーカスの櫓の上に扇を持って立っていた四十女の姿だけが不思議に今でも私の頭にこびりついているのである。
 障子の桟にうつる陽ざしがぼうっとあかるくなってきた。私は廊下のぞとへ出た。雨戸があけ放したままになっているのでガラス戸の錠をはずすと雨気をふくんだ風が冷々と皮膚に迫るようである。
 酒に疲れた眼に近くに見える山の緑があざやかで、すぐ眼の前にある松林の上から、ぼやけたような陽ざしがキラキラと池の水に映っていた。松林の先きにある琵琶湖はうすい靄に掩われて、どろんと雲につながる空白を水平線の上に残している。
 私が硝子戸をあける音で眼をさました稲村君が眠そうな顔をして起きてきた。
「やっぱり家鴨ですよ、1ほら、そこにいるじゃありませんか?」
 そういえば、昨夜、C新聞の彦根支局長を加えてテーブルをかこんでいるとき、稲村君と、B社の河瀬君とが、窓の下の池で鳴いているのは家鴨か食用蛙かということについて長いあいだ論議をつづけていたことをおぼえている。
 その鳴き声が耳につくほど、気合いのかからぬ、ひっそりした夜だった。窓をあけてみても外が暗いので物のかたちをハッキリと見とどけることができなかった。
 稲村君のゆびさす池の一角には、竹で囲いがしてあって、その中には、たしかに家鴨らしいものが動いている。
「ちょうどこのへんが伊吹なんですが、今日はまるで曇っていますね」
 稲村君が私のうしろから背伸びをして、感情のこもった声でいった。五十をすぎた稲村君の顔も、無精ひげにうずまっているせいか、面やつれがして生気がなかった。
 伊吹山麓の寒駅をつぎつぎと歩いて、バタバタとすぎてしまった四日間の記憶がうすい靄の中に影をちらつかしている。彦根についたのは昨日の夕方であったが、私が、二十年前に来たときとくらべて、危うく戦災をまぬがれたこの城下街にはほとんど変化のあとも見られなかった。昨日は街の祭日で、私たちの乗った自動車が、昔の槻御殿のあとであるというこの旅亭の玄関に着いたとき、芸妓を満載した山車がわりのトラックが、行事の手踊りを終えて動き出そうとするところだった。宿の女将らしい老婦人が遠来の客に対する心づかいであろう、街の顔役らしい、黒い眼鏡をかけた、でっぷりとふとった男に何かささやくと、芸妓たちは、もう一度芝生に勢ぞろいして音頭の三味線に合せて踊ってくれた。
 彼女たちはいずれも行儀正しく、踊りがすむと軽く目礼してトラックの上にある座席へ落ちついたが、そこで、また、余興のかっぼれを踊った。二台にわかれたトラックは、そのまま、ゆるゆると門の方へ動きだした。
 しいんとした城下町にふさわしい質素な風景であった。芸妓が二十人しかいないというこの城下町では、格別けばけばしい身装をした女もいないせいか、温習会で舞台を見ているようなかんじで、旅に疲れた情感をゆすぶり動かすようなものはどこにもなかった。
 荒廃した中山道の宿場をつぎつぎ通りぬけてきた私の頭にはどの町も同じように古くくすんで、ひそやかな生活の中にじっと息をひそめていた。軒の低い家の前には必ず二重の格子戸があって、その上に埃が堆くつもっている。結局、素通りした慌しさだけが頭に沁みついているだけで、陰にこもった空気の重苦しさが行く先き先きの風景にしつとりとまつわりついていた。時代の外に置きざりにされたまま寂寥と孤独に堪えて、生きているというかんじである。
「今、思いだしたが、ゆうべ、夜中に三味線の音が聞えてきたよ、ー何だか妙な気持だった」
「そんな筈は」
 と、稲村君が、どきつとしたように顔をあげた。そういわれてみると私にも、特に自説を強調するほどハッキリした記憶はなかった。
「ゆうべは、狐の啼き声で眼がさめましたよ、それが、ちょうど私の寝ている部屋の
「そいつは気がつかなかったな、ー僕の耳には、たしかに遠くの方から三味線の音らしいものが聞えてきたが」
 池を境にして、昔の井伊家の下屋敷が、もう一軒、となりあって別の旅亭になっている。夜中に便所へ立つとき、たしかに灯かげが水にうつっているような気がしたが、しかし、早春とはいえ、古さびた庭園には時代の古さがぬきさしのならぬ翳をひそめている。池にうつる灯かげはなまめかしいというかんじではなかった。
「狐の啼き声というやつはどこで聞いても陰気ですね、私は山の中で何度もきいたことがあるんで、ーやっぱり、山つづきの庭ですから、どこかに狐の巣があるかも知れませんよ」
「そいつは惜しいことをしたな」
 いつのまにか空が曇ってきたらしい。「すると、何だな、この部屋に天皇陛下がお泊りになったとき、狐の声が天聴に達したというわけだな」
朝飯を喰べる頃から、とうとう本降りの雨になった。昨日まで、ひとりで気を張っていたせいか精力のかたまりのように見えた林田君の顔にも、さすがに疲労の色がうかんでいる。四日間、二百八十キロの行程で、若い運転手の中島君もげっそりと疲れていた。
 待っているうちに、雨が小やみになってきたので、私たちは自動車で佐和山の下まで行き、山麓にある龍潭護国禅寺の裏手から、落葉を踏んで佐和山にのぼった。晴れた日には琵琶湖は眼下にうかんでいる筈であるが、周囲の眺望はことごとく狭霧につつまれて、彦根の街も辛うじて一角だけを見せているに過ぎぬ。それから山を下って、清涼寺の前から街中の宗安寺にある木村長門守の墓に詣でた。これで、いよいよ伊吹周辺の旅は終ったことになるのである。
 街中のレストランで昼飯を喰べると、私は、河瀬君と稲村君のあいだにはさまって、自動車のクッションによりかかった。そのまま、うとうとと眠りはじめた。-自動車はいつの間にか彦根の街をはなれて、ひた走りに街道を走りつづける。
「伊勢をぬけて、名古屋まで九十三キロです、きつと夜になりますね」
 林田君が地図を手にして助手台から振りかえったが、私は、黙ってうなずいたままで、うっすらと眼を瞑じた。中山道の小駅を一つ一つ通りすぎて、一時間ちかく経ったと思われる頃、やっと眼をあけてみると、道はふかい渓谷にさしかかっている。
「老蘇の森ですよ」
 渓流の尽きたところで林田君がまた振りかえった。両側の山は灰色の雲にとざされて、眼に入るものは森と渓流だけであった。渓谷は坂に沿ってうねうねとつづき、桜の老木が河岸に幹をならべていた。まもなく雨に煙る街道のはずれに菜種の花の黄色がぼうっとうかびあがった。
「ほら、向うの山かげに塔が見えるでしょう、あれがたしか安土城のあとだと思うんだが」
 なるほどゆるやかな山の線が低く折り重って、襞のようになったところに古風な五重の塔らしいものがちらちらと見えた。
 道の曲り角まで来たところで、傘をさして歩いてゆく若い女の姿をみとめると、林田君は運転手に急停車を命じた。
「ちょっと伺いますが安土までは、よほど遠いですか?」
 だしぬけに声をかけられた女は、どぎまぎしたように、ぼうっと顔を赧らめながら、
「いえ、そこ、山のむご(向う)です」
 と、ほそい声で答えた。
「じゃあ、この道を曲るんですね?」
「こう、こっちへ」
 と、傘を持ったまま女は上体をくねらせた。「こっちへ、はいらはったらよろしいや」
 しかし、林田君も安土までゆく気持はないらしかった。私はほっとした思いで、またうしろのクッションによりかかった。水口をぬけて土山へ入り、関の町へさしかかる頃からあたりは次第にうす暗くなってきた。亀山から鈴鹿峠をのぼり、峠の茶屋でひとやすみして、渓谷に沿った坂を下ってくると、通りすぎる街道の宿駅には灯かげが点々とうかんでいる。どの町もがらんとして人通りはほとんどなかった。同じような低い軒がずらりとならんでいるが家の中には人の住んでいそうな気配もないほどしいんとしていた。四日市の街の灯が霧の中から、ちらちらと見えかかる頃から、あたりはすっかり夜になった。桑名を通りすぎて、伊勢大橋へさしかかったところで眠っていた稲村君が、どきつとしたように眼をさました。木曾川を渡ると、もう名古屋の街が右にあかるくひらけている。
「さア、いよいよ帰りましたよ」
 林田君が、肩を落して、にやにやと笑いかけた。「どうです、宿へ帰る前に中村遊廓をひと廻りして御覧になっちゃあ」
「いいですね」
 私が機みのついた声で答えた。四日間、伊吹の周辺をうろついてきた私の眼に、名古屋の街の灯が、急にいきいきと流れるように迫ってきた。
 その晩、街中の旗亭で、C新聞の文化部長である江上君に会い、夕食の卓をかこみながら私は、たった今通ってきたばかりの中村遊廓についての思い出を調子にまかせてしゃべりつづけていた。あの一廓だけが戦災をまぬがれたということも意外であったが、昔の店構えがそのまま形を残しているということはなつかしいかぎりであった。まだ支那事変の起る数年前であるから、時代の空気は平穏というよりも一種の無風状態というべきものであった。
 その頃、大阪に本社をもつM新聞が、東西社員の慰労の意味をもつ大宴会を、豊橋と名古屋の両市でひらいたことがある。豊橋の宴会は豪華絢爛を極めたものであったが、そのとき、まだ三十代だった私は、私と同年輩の新進作家で、人柄が良いのと、一種独特な、ゆとりのある文章技術とユーモラスな表現のために、誰からも親しまれていた高伏鱈二とふたり、名古屋で催される文芸講演会に出席するという名目で、慰安旅行に招待された。
 話は、その講演会と盛大な宴会が終ってからである。
「僕は高伏といっしょに、その晩東京へ帰る約束をしていたものだから、M新聞の設営係に頼んで無理矢理に寝台券を二枚とってもらったんだ、ところが高伏のやつ、いやにそわそわしている、1汽車が熱田でとまると、新聞記者らしい青年が僕等のいる食堂車へ入ってきた、すると高伏のやつ、じゃあ失敬、僕は此処で降りるからといって恐ろしい勢いでとびおりてしまったんだ、もつとも飛びおりなくっちゃ、熱田なんていう駅に急行列車が長く止っていやしないからね、むろん、僕も彼の気勢に誘われていっしょにとびおりてしまったよ」
 ぐつと一杯ひっかけてから、私は、もう一度自分の記憶を確かめるように言葉を途切らせた。そのとき、その若い新聞記者と高伏とのあいだには何か黙契があったのかも知れぬ。それを高伏から聴いたような気もするし聴かなかったような気もするが、とにかく二人とも熱田でとびおりたことだけは確かである。
「じゃあ寝台券は捨てちゃったんですね」
 江上君がきょとんとした顔を向けた。
「そうだよ、ーだから改札口ですっかり怒られちゃったよ、とにかく名古屋から熱田まで寝台車に乗ってくる馬鹿はいないからね、名古屋の駅じゃ寝台券がなくて困っているときに平気で捨ててゆくんだから無茶なはなしさ」
 そのとき、どういう順序をとおって行ったかということはまったくおぼえていないが、行った先きが中村遊廓で、「青海波」という家だった。その家が昔ながらの場所に、前よりも堂々たる構えになって残っている。結局それだけのはなしであるが、一夜にして終った記憶の中に影を残している高伏の姿も私の姿も若々しい精彩にあふれていた。その晩のことを私は今でもあざやかに思いうかべることができる。酔うにつれて私は昔ながらの、ひた向きな強引さをムキ出しにしてきた。
「さア、ゆこう、中村遊廓へ」
 江上君が私の主張をうけ入れて、腰をあげるまでには相当に時間がかかった模様であるが、私はどうしても葬式があって家へ帰らねばならんという林田君と途中でわかれ、ほかの三人をせきたてるようにして「青海波」の門をくぐった。前置きがおそろしく長くなったが、話は、私がひと騒ぎしたあとで、一人の女の部屋に、ぐったりと寝込んでしまい、眼がさめてからの出来事である。
 まだ時間は十二時を過ぎてはいなかった。大びけ、1という遊廓用語が今日もまだ残っているかどうかは知らぬが残っているとすれば、たしかに大びけ前である。
 夜中に眼がさめた私は、もう宿へ帰ろうという気力はなかった。所在なさにポケットに旅の覚え書きを書いたノートのあったことを思い出し、女の眠っている寝床から這いだして、壁にかかっている上衣の内ポケットから小さいノートをとりだし、蒲団の上へ腹這いになったままで頁をひろげていた。
 私が鉛筆で写生した伊吹山の画が二三頁をうずめている。「南宮山、=二七〇」「牧田川の瀬音つよし」「今や退くべき道なし、多良街道をゆくべきか、いよいよ絶体絶命、烏頭坂、死すべきときにあらず」「坂の曲りくねり」「町角の郵便局」1
 これは牧田路から、島津の脱出した道を逆に関ヶ原へ入っていった最初の日の記録である。
「石碑丘の上にあり、島津にあらず」と書いてあるところで、私が次第に頭によみがえってくる回想を整理していると、女がだしぬけに眼をさました。
「何してるの、あんた」
 丸顔の、齢は二十五六であろうか。肉づきのいい、善良そうな顔を私の方に向けた。しかし、そのあとで、彼女は急に親しそうな微笑をうかべたと思うと、横になったままで右手をぐつとのばして、私が枕元でひろげていたノートをとりあげてしまった。それからすぐ上向きになって、ひらいたままになっている頁から一字一字むさぼるようによみはじめた。
「駄目だよ、そんなものは、--読んだってわかりゃしないさ」
「いいんだよ」
 彼女は、崩した字の読みにくいところへくると眉をひそめたり、首を傾けたりしていた。が、その顔には次第に真剣な表情がうかんできた。
「終戦後遺物は残らず売り払い、売れるものは屑屋に売った。財産整理の後、僅かに残ったのは、小西の鞍-黒蒔絵に群鳥、と宇喜多の紫陽花の鞍、ついに夫婦わかれして女房は行方不明となれり」
 そこまでくると女は、ううん、とひとりでうなずきながら、もう一度覗き込むようにして私の顔を見た。これは、最初の日の夕方、関ヶ原の郷土史家であるF氏を訪ねたとき、関ヶ原の遺物を保存していた竹中丹後守の末裔が没落するときのことを聞いて、そのまま覚え書きにしたものである。
 彼女は、一枚一枚めくって、「伊吹は既に雪ふかく、石田、自殺の勇気なし」と書いてあるところへくると、口をすぼめるようにしてにやりと笑った。最後にちかづくにつれて覚え書きの文句は、だんだん簡単になってくる。
「ついに名古屋、九十三キロ、鈴鹿川、いつみ橋」
 彼女は、そこでぴたりとノートをとじた。それから、私の肩に軽く手をかけて、抱きよせるような恰好をしながら、
「あんた東京でしょう?」
「うん」
「会社員?」
 そのあとで、慌てて首を振ってみせた。「石田さんって、あんたのお友だち?」
 不意に枕から首を前に落すようにして、またにやりと笑った。
「人間なんて、みんな同じものなのね、あたしも日記を書いているのよ、見せようか?」
「うん、見せてくれよ」
 彼女は寝巻の裾を乱したまま、ひょいと立ちあがったと思うと箪笥の抽出の中から学生用の部厚いノートをとりだした。小さい字で縦にぎつしりと書きこんである。
「二月十四日。文ちゃん、昨日は約束どおり来てくれてどんなにうれしかったか知れないわ、志摩子、もうあれきりで会えないのかと思っていたの、今日の幸福が明日までつづくなんて、そんなこと考えたことは一ぺんもないのよ、いつかの晩も刑事がだしぬけにやってきたとき、私、ああ来たなと思っただけで、この前はいろんなことをいってほんとにすまなかったと思っているの、もし初ちゃんに会ったらくれぐれもよろしくね、」
 志摩子というのが彼女の名前であろう、彼女は私といっしょになって自分のノートを読んでいたらしい。そこまでくると、横からひったくるようにして私の手からノートをとりあげてしまった。
「何だ、お前のは手紙じゃないか?」
「出さない手紙なのよ、相手がどこにいるかわからないんだもの」
 遊廓の中はひっそりとしてレコードの音も聞えなかった。
「あんたも根をつめて考えるくせがあるのね、ああ、絶体絶命か」
 志摩子はわが意を得たというかんじで私の肘を小突いた。
「どう、ひと風呂浴びにゆかない?」
「どこへ」
「この突きあたりの階段をおりてすぐ下に、1さっぱりするだけでもいいじゃないの」
「じゃあ行こうか」
 彼女はすぐ蒲団をぬけだし、違い棚の上においてあるセルロイドの小さな洗い桶を抱えるようにして先きに立った。もはや、過去もなければ現在もない。唯、行きつくところへたどりついた人間の生態だけが一つの宿命の中に落ちついているのである。
この行きずりの一夜の出来事も、今や私にとっては単なる笑いばなしではない。これを生活力というような言葉で止めをさすことのできないほど切ないものが彼女の胸の底にかくされているのだ。私はふらつくような足どりで階段をおりながら女によびかけた。
「おい手拭はあるかい?」
「ええ」
 くるりとうしろを向いてから、だまって大きくうなずく志摩子の顔に、私は、ひとかどの標客らしい落ちつきをみせて、ニタリと笑ってみせた。
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