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斬馬剣禅『東西両京の大学』1

斬馬剣禅『東西両京の大学』



凡例
一、本編はかつて読売新聞紙上において我読書界を震撼《しんかん》せられたる斬馬剣禅《ざんばけんぜん》氏の『東西両京の大学』およびこれに関連せる東西 両帝国大学教授諸君の公表せられたる弁明書《べんめいしよ》等を旁羅《ぽうら》一括して、転載輯録《てんさいしゆうろく》したるものなり。
一、本編転載の読売新聞は明治三十六年二月二十五日第九千二百二十八号より同三十六年八月七日第九千三百九十一号に連載せられたるものにして、その号数を明示すれば、実に左のごとし。
 九二二八、九二二九、九二三〇、九二三一、九二三二、九二三三、九二三五、九二三七、九二三八、九二三九、九二四〇、九二四一、九二四二、九二四三、九 二四五、九二四七、九二四八、九二四九、九二五〇、九二五一、九二石二、九二五三、九二五五、九二五七、九二五八、九二五九、九二六一、九二六二、九二六 三、九二六四、九二六六、九二六七、九二六八、九二六九、九二七二、九二七三、九二七五、九二七六、九二七七、九二七八、九二七九、九二八○、九二八一、 九二八三、九二八四、九二八五、九二八六、九二八七、九二九一、九二九二、九二九三、九二九四、九二九五、九二九六、九二九七、九二九八、九二九九、九三 〇〇、九三〇一、九三〇二、九三〇五、九三〇六、九三〇七、九三〇八、九三〇九、九三一〇、九三一一、九三=二、九三一四、九三一五、九三一六、九三一 八、九三一九、九三二〇、九三二一、九三二三、九三二五、九三二八、九三二九、九三三〇、九三三四、九三三五、九三三七、九三四一、九三四二、九三四三、 九三西五、九三四六、九三四七、九三四八、九三五〇、九三五一、九三五二、九三五四、九三五五、九三五六、九三五七、九三五八、九三五九、九三六〇、九三 六一、九三六二、九三六三、九三六四、九三六五、九三六六、九三六七、九三六八、九三七〇、九三七一、九三七二、九三七三、九三七五、九三八一、九三八 二、九三八八、九三八九、九三九〇、九三九一
明治三十六年十二月
                   編者謹識
凡例
緒言
山水と学風
本宅と別荘
ローマ法王と新教徒
大学らしき大学
出川、木下の両総長
法科大学比較観
穂積、梅対岡松
 穂積博士の弁明書         穂積東京帝国大学教授
小穂積、一木対織田
岡野、松波対高根
岡田対勝本
金井、松崎対田島  附和田垣対田尻
 『東西両京の大学』について     東京帝国法科大学学生
宮崎、土方対千賀
寺尾、戸水、高橋対岡村
 斬馬剣禅に与うる書        戸水東京帝国大学教授
山田対仁井田
 斬馬剣禅に与うるの書       岡村京都帝国大学教授
 斬馬剣禅に与うるの書        勝本京都帝国大学教授
 『東西両京の大学』について      谷本京都帝国大学教授
一法科大学結論・…

東西両京の大学-ー東京帝大と京都帝大
〔法科の部〕
緒 言
 古来|英雄豪傑《えいゆうこうけつ》の一代の風雲に際会して、その抜山倒海《ばつざんとうかい》の辣腕《らつわん》を振うに至りてや、必ずこれに対立し てその勢力に拮抗《きつこう》するところの一大|人傑《じんけつ》の輩出《はいしゆつ》を見ざるはなし。かの両雄併び立たざるの俚諺《りげん》は、すなわ ちその間の消息を説明するものにして、併び立たざるがゆえに彼等は相|搏掣《はくせい》し相|琢励《たくれい》して、ますます功業をして異彩を放たしめ、 ますます霊腕《れいわん》をして大成せしむるに至るなり。けだし豪傑《こうけつ》をして豪傑たらしむるものは、実にその好敵手にあり。信玄《しんげん》の 謙信《けんしん》における、秀吉《ひでよし》の光秀《みつひで》における、家康《いえやす》の三成《みつなり》における、ナポレオンのウェリントンにおけ る、曹操《そうそう》の劉備《りゆうび》における、ビスマルクのナポレオン三世における、沛公《はいこう》の項羽《こうう》における、ことごとくこれ然 《しか》らざるはなし。見よ相撲《すもう》道の天才|常陸山《ひたちやま》が、その山のことき威厳《いげん》、その獅子のごとき気魄《きはく》、その玉の ごとき皮肉をもってして、今日のごとき異彩を|土俵《どひよう》の上に放って、満都《まんと》の子女を狂喜せしむる所以《ゆえん》の者は、彼の好敵手たる 梅《うめ》ケ谷《たに》のその態容《たいよう》海のごとく、その精悍《せいかん》熊のごとく、その骨格|巌《いわお》のごときものあるありて、常に善 《よ》くその特色を発揮《はつき》せしむるに依《よ》らずんばあらず。吾人《ごじん》がここに東西両京の大学を比較し、その設備、その制度、その学凧.、 その人物を論評せんと欲するものも、また実にこれ東西の人気相撲を土俵に上《の》ぼし、肆《ほしいまま》にその技倆を角《かく》せしめ、もってますますそ の手腕を練磨《れんま》し、その特色を発揮せしめんと欲するの微衷《ぴちゆう》にほかならず。
 試《こころ》みにこれを外国の事例に考うるに、いやしくも文運の隆をもって世界に雄視《ゆうし》するところのもの、ことごとく二大大学の東西相雄視し て、その特別の学風をもって相|拮抗《きつこう》するの事実を発見せざるなし。かの英のオックスフォード、ケンブリッジ両大学のごとき、一の文学的修身的 にして、一の科学的探究的なる、前者の人物を作り、後者の学者を作る。末松博士のオックスフォードに出で、菊池博士のケンブリッジに出でたる、グラッドス トーン、ニューマンの前者に出で、ニュートンの後者に出でたる、寔《まこと》に善く両者の特色を表明するものなり。
 かの米のハーバード、エールの二大学のごとき、前者の非凡なる人物を輩出《はいしゆつ》せしむるに対して、後者の多く有用なる実務家を養成するをもって その特色とせる。かのエマーソン(論文家)、フィスク(歴史家)、ブライアン(政治家)のハーバードに出でしに対して、幾多の無名の官吏会社員の、常に エールより出でしの事実は、実にこれまた両大学の特色を発揮《はつき》せるものなり。その他フランスのパリ、リールの両大学、ドイツのベルリン、ミュンヘ ンの両大学、ロシアのペテルスブルク、モスコーの両大学、ベルギーのブルッセル、ブルージの両大学のごとき、おのおのその特別の学風をもって相|拮抗雄視 《きつこうゆうし》するの事例にあらざるはなし。
 翻《ひるがえつ》てわが東西両京の大学についてこれを見るに、その地の東西に分ると、人に老壮の別あると、制度に新旧の異なるあるとにより、おのおのそ の独得の長所を布《のべ》て、互いに相下らざるの勢いあり。その学風や同じからず、その教授の人物や同じからず、その学生の気風や同じからず。吾人《るご じん》は以下|逐一《ちくいち》これを比較論評せんとするものなり。
 しかれども編中その多くの部分が、教授連の人物論に費さるるは、大学という設備の良否の多くその制度にあらずして人にあるが故なり。ただ吾人はなるべく その筆の私行に及《およ》ばざらんことを勉めんと欲す。これ吾徒《わがと》がいたずらに他人の非行を発《あば》き、世の好奇心に投ぜんとするものと、自ら その撰を異にせんことを期するが故なり。しかれども大義は親を滅す。社会の公益の前には、私情私恩《しじようしおん》はこれを犠牲《ぎせい》に供せざるべ からず。もしその人物性行や大《おお》いに大学の紀綱《きこう》を紊《みだ》し、学風を汚漬《おとく》するの形跡あるにおいては、吾人は諸葛亮《しよかつ りよう》と共に、涙を揮《ふる》って馬謖《ばしよく》を斬らざるべからず。これ社会の耳目《じもく》たり、覚醒者《かくせいしや》たるべき新聞紙の執 《と》るべき当然の態度なりと信ずるが故なり。

山水と学風

 山紫水明《さんしすいめい》の旧帝都、これを紅塵万丈《こうじんばんじよう》の東京と比して、その相去ることいかに遠きぞ。吉田山《よしだやま》の麓、 黒谷のほとり、北に叡山《えいざん》を望み、西に鴨《かも》の清流に咽《むせ》ぶの所、幽邃閑雅《ゆうすいかんが》なる旧都の風色は、特にこの地において 寂静《じやくせい》の極致《きよくち》に達せるを見ん。もしそれ秋暮日はようやく愛宕山巓《あたごさんてん》に没して、暮靄《ぽあい》淡く東山《ひがしや ま》を鎖《とざ》し、知恩院《ちおんいん》裏しきりに晩鐘《ばんしよう》の遺響を伝えて、寒鴉《かんあ》まさに南禅寺《なんぜんじ》畔に帰るの時、仰いで 灯影の依稀《いき》たるを見、俯《ふ》しては虫声の喞々《しよくしよく》を聞かば、粛殺《しゆくさつ》の気|満身《まんしん》を領して、遊子《ゆうし》果 して望郷《ぼうきよう》の涙に双袖《そうしゆう》を湿《うる》おさざるもの幾何《いくばく》ぞ。もしそれ冬夜雪は満都を没して、天地白く寒風|樹梢《じゆ しよう》を亘《わた》って、時に落雪を聞くの時、遥かに狗吠《こうはい》の猪《ぎんぎん》々を伝えて、人声ようやく絶えなんどするの頃、顧《かえり》みれ ば明月|大文字《だいもんじ》山頭を離れて、黒谷の墓辺、しきりに野狐《やこ》の絶叫を聞く。停車場の気笛はここに達せず、電車の轢轆《れきろく》はここ に響かず、ただ鴨川《かもがわ》の水音|淙《そうそう》々として、終夜|枕頭《ちんとう》に通うを聞くのみ。嗚呼《ああ》何等の閑境ぞ、嗚呼《ああ》何等 の仙寰《せんかん》ぞ。かくのごときものこれ京都帝国大学の四辺を囲繞《いじよう》する山水なり、風景なり。彼等四百の健児は、この風光を望み、この山水 に薫化《くんか》せらるる特権を有す。この閑境において、眼を万巻の書籍に曝《さら》し、想いを深邃《しんすい》の域に致すにおいて、本《もと》より何物 《なにもの》も支障する所なし。
 もしそれこれを紅塵万丈《こうじんばんじよう》の帝国首府の中心に屹立《きっりっ》する東京帝国大学に比す、その相去ること啻《ただ》に月鼈霄壌《げつ べつしようじよう》のみにあらず。もとより東京大学といえども、春暁花《しゅんぎよう》雲の忍《しのぶ》ケ岡《おか》一帯を包んで、淡靄《たんあい》の間 に漂動するの美観を有し、夏夕|涼風《りようふう》を不忍池畔《しのばずのいけ》に追うて、白露《はくろ》蓮葉を亘《わた》るの閑境なきにあらずといえど も、暫《しばら》くにしてその花雲は紅塵《こうじん》の間に塗《まみ》れ、その白露は俗客《そつかぐ》のために汚されたり。時に朝暾《ちようとん》富岳の 秀容を碧空《へきくう》に点し、時に夕陽|筑波《つくば》の巒峯《らんほう》を北天に染めざるにあらずといえども、憾《うら》むらくは黄塵《こうじん》の ために掩《おお》われて、|英姿《えいし》暫くも遊子《ゆうし》苦吟の腸を洗うに足らず。日暮の里時に天王寺の晩鐘《ばんしよう》を伝え、弥生岡《やよい がおか》頭時に|老鶯《ろうおう》の綿蛮《めんばん》を聞かざるにあらざれども、擾《じようじよ》々たる日《う》鉄の汽笛、馬鉄の喇叭《らつば》、果 《は》ては列車の轢轆《れきろく》、人車の鱗《りんりん》々を交えて、誰かまた眼を青史《せいし》に曝《さら》して、思いを千古《せんこ》に致すの暇《い とま》あらんや。
 もし大学教育の目的が、学術研究にありとせば、大学所在地としての東京は、決して西京の敵にあらず。しかれども幸いにして、大学は必ずしも学者をのみ作 るの設備にあらざるなり。否、学者は百人の中一、二を出すをもって足れりとするものなり。すなわち大学の目的はある意味において国家実用の人物を作るもの なり。この目的に向かいては、活動的なる東京、世俗的なる東京は、むしろその便利を有するものにして、静止的出世間的なる西京は却《かえつ》てその目的に 添わざるやの感なきにあらず。
 かくの如《ごと》くにして、両者の山水と地形とは東西両京の大学の上に影響を及《およ》ぼし、東京大学をして実用的人物|輩出《はりしゆつ》をその特長 となさしむると同時に、西京大学をして学者的人物の養成に傾かしめんとするの勢いあり。ゆえに東京大学はむしろパリ大学の学風に類し、京都大学は大《お お》いにベルリン大学の面影《おもかげ》を写せり。もし前者をしてエール大学のそれならしめば、後者はたしかにハーバード大学の趣をとれるもの、かの東京 帝国大学の学生が、いたずらに教師の講義筆記をもって能事《のうじ》終れりとするに対して、西京大学の学生が大《おお》いに欧米の原書について研究を進む るの風ある、豈《あに》偶然ならんや。
 もしそれ他日、京都大学設備の完成を告げて、法文医工の四大学の設立を見るに至らば、そのうちもっとも異彩を放つものは文科大学なるべし。かの東山の巒 翠《らんすい》、嵯峨野《さがの》の秋色は豈《あに》大詩人大文士を生まずして止まんや。かの加茂《かも》の欝林《うつりん》、叡山《えいざん》の大|伽 藍《がらん》は豈《あに》大歴史家、大考古家を養わずして止まんや。かくの如《ごとロ》くにして東京大学は法科をもって鳴り、京都大学は文科をもって聞 《きこ》え、かくの如くにして前者はケンブリッジたり、後者はオックスフォードたるや、けだし火を観《み》るよりも明らかなりとす。これ実に自然が学風に 及ぼす影響なり。

本宅と別荘

 自然が学風におよぼす感化は、吾人ほぼこれを前回に叙せり。しかれどもその東京大学をして実用的活動的の人物を輩出《はいしゆつ》せしめ、京都大学をし て学者的探究的の人士を養成せしむるの傾あるもの、決してその山川の感化のみに帰すべからざるなり。その大学所在地としての東西両京、その新旧両都を嗔充 《てんじゆう》する所の社会と人類とは、両者|全《まつた》くその面目を異にするあるを発見せずんばあらす。
 かの東京人の西京人に異なる、豈啻《あにただ》に前者の皐月《さつき》の鯉《こい》の吹流《ふきなが》しにして、後者の上方贅六《かみがたぜいろく》の 典型たるが故のみならんや。また啻《ただ》に前者の武家の本営地として、旗本《はたもと》八万騎の練武場《れんぷじよう》なるに対し、後者の歴代の帝都と して月卿雲客《げつけいうんかく》の歌吹踏舞《かすいとうぶ》の巷《ちまた》たりしが故のみならんや。また実に前者の関東の平野に瀰漫《びまん》し、後者 の関西の山間に閑居《かんきよ》するが故のみならんや。豈啻《あにただ》に前者の剣光を閃《ひらめ》かし、鉄槌《てつつい》を振うに長じ、後者の梵鐘《ぼ んしよう》を鳴らし、管絃《かんげん》を弄《ろう》するに慣《な》れたるが故のみならんや。京都人士の東京人に異なるは、啻《ただ》に一個江戸っ子の性格 に異なるあるのみならず、実に日本国民のそれに異なれるなり。
 思うに日本国民は活動の国民なり、進取《しんしゆ》の国民なり、勤勉なる国民なり、放胆《ほうたん》の国民なり、勇《いさ》み肌《はだ》の国民なり、突 飛《こつぴ》の国民なり、軽佻《けいちよう》の国民なり。しかるに京都人士の優柔《ゆうじゅう》にして活気なき、保守的にして旧慣《きゆうかん》を墨守 《ぼくしゆ》せる、怠惰《たいだ》にして座食《ざしよく》を好める、小心にして引込思案《ひつこみじあん》なる、鄙吝《ひりん》にして散ずるを好まざる、 執拗《しつよう》にして容易に解けざる、これ日本国民の性格と全くその趣を異にする者なり。彼等は日本人の多く得て多く散ずるの寛闊肌《かんかつはだ》な るに反して、少く得て少く散ずるをもってその主義という。
 すでに多く得んことを欲せず、何をもって社会に活動なるものあらんや。すでに得てこれを散ぜんことを好まず、閑居《かんきよ》は素《もと》より必然の結 果なるのみ。聞説《きくならく》その昔、桓武帝《かんむてい》都を遷《うつ》されし以前において、この地は実に韓の帰化人の移住地たりしと。これあるか な、これあるかな。かくの如《ごと》くにして京都は実に日本の別天地なり、明治世界の新桃源《しんとうげん》なり。かくの如き社会に建設せられ、かくの如 き四囲の事情に薫化《くんか》せらるる京都大学に向かいて、その活動的|進取《しんしゆ》的の人物の輩出《はいしゆつ》を望む、けだし少しく木に縁《よ》 りて魚を求むるの憾《うらみ》なくんばあらず。彼等大学の学風が東京の実務的世俗的なるに対して、学者的探究的ならんとするの傾向ある、実に大《おお》い にこれにもとつくところな
くんばあらず。
 けだし車馬の来往と鉄槌《てつつい》の響きとが東京の名物なるがごとく、白粉《はくふん》の異臭と抹香《まつこう》の薫《かお》りとは京都の名物なり。 その四周を囲繞《いじよう》するところの名刹《めいさつ》古寺、その市内を嗔充《てんじゆう》するところの妓楼遊廓《ぎろうゆうかく》、けだし京都全市を 挙げて宛然《えんぜん》たる、これ浅草《あさくさ》公園なり。もし東京を業務繁多《ぎようむはんた》なる本宅に譬《たと》うべくんば、西京はこれ遊楽自由 なる別荘地ならん。これをもって人あるいは学生を遊惰《ゆうだ》に導くの誘惑の、西京に多くして東京に少きを疑うものなきにあらずといえども、これ未《い ま》だ事の真相を解せざるもの。然《しか》り妓楼《ぎろう》は西京に多きも、幸いにして彼等妓楼は学生の貴さを知らず。彼等は学生の「あてがい扶持《ぶ ち》」なるを知りて、その背後に無限の金穴あるを知らず。その風貌《ふうぽう》の貧乏たらしきを知りて、その淳朴欺《じゆんぼくあざむ》き易《やす》きを 知らず。彼等は従来軽薄にー-て鰲緻賀なる医学書生に尹ぎ櫛りて、温良にして富裕なる大学学生の価値を解せざるなり。この故《ゆえ》に京都の遊廓《ゆうか く》は学生を堕落《だらく》せしむる機関として、さまで恐るべき者にあらず。これを東京の把《ぽうぽう》グたる大都会、堕落学生に向かいてその非行を隠匿 《いんとく》し得るの便宜《べんぎ》を与うること、幾多の社会的事変は常に学生の名誉心を誘いて、在学中|蚤《はや》く種々の事業に手を染めしむるの危険 あるとに比し、却《かえつ》て大《おお》いに講学の便利を有せずんばあらず。いわんや京都大学の所在地たる吉田村は、第三高等学校、京都工芸学校、京都府 尋常中学校と共に一の学校街を成し、その学生二千名と教師|吏員《りいん》を併せて、宛然《えんぜん》たる東京人の専管居留地《せんかんきよりゆうち》を 成すあるにおいてをや。

ローマ法王と新教徒

 京都大学設立の議、まさに議会に納れられ、政府はその教授連を養成すべく、新学生の多数を欧州に派遣せり。時に法科大学教授として、まずその撰に当りし もの曰く岡松参太郎《おかまつさんたろう》、曰く高根義人《たかねよしと》、曰く織田万《おだよろず》、曰く井上密《いのうえみつ》。この四新進学士はベ ルリンにおいて、その攻学の歩を進むるの間、頻《しき》りに他日吉田山麓講壇に立つの日を夢み、時に一堂に会し相議して曰く、東京大学学界の巨擘《きよは の》を集めて教育界の一方に蟠踞《ばんきよ》し、その閥や堅く、その勢いや大なり。彼等はその曲学をもって世に阿《おもね》り、その官学をもって政府の歓 心を買えり。もし京都大学にして彼等の下風《かふう》に立たんと欲せば止む。その国家が東西両大学を興して、学風の刷新《さつしん》を期するの精神に悖 《もと》らざらんと欲せば、宜《よう》しくまず京都大学は学問の独立をもって陣頭の旗幟《きし》となさざるべからず。けだし大学は学芸の淵叢《えんそ う》、社会進歩の先駆者なり。この大任をもってして、その学説の常に多衆愚民の歓心を買うをもって能事《のうじ》これ了《おわ》れりとなし、啻《ただ》に 政府の干渉に屈することを大なる恥辱《ちじよく》となすの気慨《きがい》なくんば、国家は何をもって新大学設立の目的を達することを得んや。この故に我等 は学問の独立と共に立ち、学問の独立と共に斃《たお》るるの覚悟なかるべからず。願わくは相共に杯《さかずき》を挙げて桃園義を結ぶの故事に傚《なら》 い、もって大いに戮心《りくしん》協力の盟《ちか》いをなさざるべからずと。ここにおいて彼等は麦酒《ビ ル》の杯を挙げ、満引《まんいん》してもって快 と称せり。爾来《じらい》、彼等は旬日《じゆんじつ》にして一回の会合を催し、互いに肝胆《かんたん》を吐露《とろ》し、大《おお》いにその新設備の画策 に勉めたり。人これを称してベルリン党という。
 ベルリン党は本《もと》より少壮なる法科大学教授の一派に過ぎず。しかれども彼等の壮烈なる覚悟と決心とは、実に今日京都大学教授連が抱懐《ほうかい》 せる思想の全部を代表するものなり。この覚悟ありもって新学風を樹《た》つべく、この抱負ありもって学閥に拮抗《さつこう》し得べし。聞説《きくならく》 東京大学においては、その少壮教授連がことごとく老教授連の後進なるの故に、自らその間に師弟の関係を有し、従《したがつ》て階級の高下を生じ、その教授 会においても盛んに論議を闘わすものは常に老教授連に止り、その新進教授輩はただ口を噤《つぐ》んで席に陪するに過ぎずと。これに反して京都大学において は、教授会はことごとく同輩の集合にして、いわゆる天狗《てんぐ》の寄合《よりあい》なるをもって、もし一事の議に上るあれば、議論百出、甲賛乙駁《こう さんおつばく》、あるいは罵倒《ばとう》しあるいは痛論し、時に掴《つか》み合わんとするの気勢を示すことさえありといえども、議|一度纏《ひとたびまと ま》るに当りてや、すなわち渙然《かんぜん》として釈《と》け、また前時の論争を忘却したるもののごとしと。
 これを要するに東京大学は到底《とヒつてい》貴族的なり、京都大学はついに平民的なり。もし前者を階級主義にして保守的なるローマ法王に比すべくんば、 後者は確かに自由平等にして進歩的なるプロテスタント教徒に譬《たと》うべし。けだし前者は専制政治的にして、後者は共和政治的なり。もし前者を宮内省に 譬うべくんば、後者は実に外務省なり。もし前者が貴族院に類すとせば、後者は実に衆議院に似たり。かくの如《ごと》き両者の径庭《けいてい》、実にただこ れ前者の旧設にして、後者の新設なるに依らずんばあらず。前者の老舗《しにせ》にして、後者の新店たるにもとつかずんばあらず。
 けだし東京大学はすでに海内《かいだい》の碩儒《せきじゆ》を網羅《もうら》して、学界の声望を壟断《ろうだん》し、ここに朝野《ちようや》の視聴を集 めて、自ら思想界の重鎮《じゆうちん》たり。もし京都大学の諸教授がその新進の勢いをもって、これとその声誉を争わんと欲せば、彼等は旧大学諸教授の学説 の常に穏健平凡なるに乗じ、宜《よう》しく破天荒《はてんこう》の説を立てて社会を驚かすの挙に出でざるべからず。しからずんば彼等は世人に忘却せられ、 ただ乳児の囈語《げいこ》としてついに一笑に付せらるるに了《おわ》らんのみ。これ実に早くより彼等諸教授の着眼したる主点にして、期せずして各人の胸中 に来往せし所の黙契《もつけい》なり。ここにおいて彼等の学説や斬新《ざんしん》にして、時に奇矯《ききよう》に失するの嫌《きらい》なきにあらざるも、 また時に一世の惰眠《だみん》を攪破《かくは》するに足《た》るの卓見《たつけん》を聞かざるにあらず。啻《ただ》にその説の新奇なるのみならず、彼等の 行動もまた頗《すこぶ》る破天荒にして、奇人はますます奇に、快男児《かいだんじ》ますます快なるの現象を呈し、京都の天地時に百鬼《ひやつき》の夜行 《やぎよう》を見るの奇観《きかん》なきにあらず。けだし官学と貴族政治と平凡の学説と醜陋《しゆうろう》なる俗物とは東京大学の特産にして、学問の独立 と平民政治と斬新《ざんしん》の学説と奇矯《ききょう》なる人物とは、実に京都大学の名物なり。

大学らしき大学

 東西の二大学、その何《いず》れが果して大学らしき大学なるべき。これ吾人がここに評論せんと欲する問題なり。大学は云うまでもなく国家最高の教育機関 なり。これをもって大学は素《もと》より小学中学と大《おお》いにその趣きを異にす。而《しこう》してその小学と異なり、中学と径庭《けいてい》ある所以 《ゆえん》の者、その設備の大にしてかつ美なるにあるか、その教授に勅任官《ちよくにんかん》あるが故《ゆえ》なるか、その運動会に薦姦Vの蝋概あるによ るか・その卒業試験に銀時計の酵あるによるか、その学生が角帽を戴《いただ》くによるか、鼻下に美髯《びぜん》を蓄《たくわ》うるによるか。もしこれを もって大学の国家最高の学校たる特徴なりとなさば、吾人《こじん》はもとより、東京大学をもってそのもっとも大学らしき大学なりとなすに躊躇《ちゆうち よ》せざるものなり。何となれば新設の京都大学の設備は、未だ旧設の東京大学のそれに比して到底|遜色《そんしよく》あるを免《まぬか》れざればなり。そ の教授は多く新進にして、その勅任官の栄位に居るもの、東京に比してはなはだ少なければなり。その運動会に殿下の臨御《りんぎよ》あるなく、その角帽を着 るは相等しといえども、鼻下|美髯《びぜん》を蓄えて老成を気取《きど》るもの東に多くして、西に少ければなり。しかれども如何《いかん》せん、大学の大 学たる所以《ゆえん》は決してかかる末節に求むべきにあらずして、その制度が果《はた》して大学たるにふさわしきや、その学生を遇するの途、果して大学ら しきやによりて決せざるべからざるものなるを。
 けだし大学なる設備の中心を成《な》すものは素《もと》より教授と学生となり、かの大学()なる語原の実は「教授と学生との団体」()というラテン語に 出たるをもっても知るべきなり。しかれどもその教授と学生とを活動し奔躍《ほんやく》せしむるものは制度にして.これを老了し畏縮《いしゆく》せしむるも のもまた制度なり。けだし制度は大学なる機関を運転せしむるの動力なり。死物を生かすものも制度にして、活動を殺すものもまた制度なり。制度|善《よ》け れば駑馬《どば》もまた躍り、制度|悪《あ》しければ騏驥《きき》もまた槽櫪《そうれき》に老いんとす。
 想うに大学の学生はすでに多く丁年《ていねん》を超えたり。これ無智文盲《むちもんもう》の輩《やから》においてすら、すでに父母の監督を離るるの時期 にあらずや。いわんや高等普通学の素養ある彼等大学生においてをや。これをもって彼等を律するに小学生徒と同一の筆法をもってし、これを制縛《せいばく》 し、これを箝束《かんそく》す。吾人ついにその可なるを見ず。これをもってドイツ大学においては授業の自由(教授はいかなる科目にても、幾何《いくばく》 の科目にても、随意に講義を開き得)、学修の自由(学生は何人《なんぴと》の講義にてもその選択に従い、随意に聴講し得)、転学の自由(学生はその特長の 学科を求めて、随意に甲大学より乙大学に転学し得)をもって三大綱領となし、かつある特別なる志願者の外《ほか》はほとんど全く試験なるものを廃止せり。 自由討究と開発教育、これ実に大学らしき中にてももっとも大学らしき制度となす。
 しかるに見よ、我が東京大学のごときは、ある科においては日々学生の出席欠席を調査し、ある教師のごときは、遅刻者に向かいて減点をなすべしと威嚇《い かく》すというがごとき、これ果《はた》して大学学生を遇するの途なるか。そのいたずらに講座を増設し、授業時間を倍加して、彼等学生をして常に筆記の暗 誦《あんしよう》に寧日《ねいじつ》なからしむるがごとき、これをしも開発教育というを得べきか。口に聴講の自由を説くも、常に試験に次ぐに試験をもって し、いわゆる学生をしてその実力を養うを勉めずして、いたずらに試験に高点を得んことを求めしむるがごとき、これ果して自由討究を奨励《しようれい》する の途なるか。ある教授のごときは試験において自己の学説をもって答えざるものは、いかにその答案の理論に合するも、これに零点を与うるにおいて、寸毫《す んこう》も仮借《かしやく》する所なしという。これ果して真理探究を目的とする大学風の教育というを得べきや。
 これを要するに今の東京大学のその学生に対するや規則をもって束縛し、権力を用いて干渉し、徹頭徹尾《てつとうてつび》小学校流の方法をもって彼等を教 育せんと欲す。彼等は実にすべての学生を同模型に入れて陶冶《とうや》せんとするものなり。かくの如《ごと》くんば百千の侏儒《しゆじゆ》は能《よ》くそ の輩出を望むを得べし。身幹《しんかん》雲を抜く底《てい》の巨人の産出は、ついに一人だも希うべからざるなり。
 翻《ひるがえつ》てこれを京都大学に見るに、大《おお》いにこれと面目を異にするものあり。素《もと》よりその設立の始めに当り、東西両大学に通ずる帝 国大学令という鉄鎖のあるありて、この新進大学を牽束《けんそく》し、遺憾《いかん》なくその制度の完備を企画せしめ能《あた》わざりしの憾《うらみ》な きにあらざるも、これを東京大学の小学校的、監督的、圧制的、注入的、器械的なるに比すれば、さらに大学風にして、さらに放任自由の主義を採用し、さらに 開発的活用的の精神を加えて、真に大学らしき大学の創立を見たるの実蹟《じつせき》、歴々として指摘し得べきものあり。
 かの東京大学において、もっとも人物を殺すものは試験の制度なり。試験の学生を賊する阿片《あへん》の人体を麻痺《まひ》ピしむるよりはなはだし。殊に 小学校風の試験、暗誦的《あんしよう》の試験においてしかりとなす。けだし暗誦は注入的にして開発的にあらず、常に学生をして判断力、創見力を失わしめ、 ややもすれば書物の奴隷となり、教師の盲従者たる習慣を養わしむべければなり。
 ここにおいてか京都大学は大いにこの点に注目し、彼等学生をして肆《ほしいまま》にその自由討究をなし得るの余暇を与えんがために、東京大学の毎学年一 定の科目の聴講を強制的に賦課《ふか》するの制度を取らずして、学生をして各学年においてその所|好《このみ》に従いて、随意の科目を随意の数だけ選択せ しめ、これに向かいて聴講を許し試験を施すの制度を取れり。故にある分科大学のある科にては、その卒業までに講習すべき科目十ありとせんに、学生はこれが 研究を十ヵ年に分配して毎年一科目ずつ研究するも、あるいは三ヵ年に分布して毎年三科目ずつ研究するも、もとより学生の選ぶところに任す。最少年限の規定 はあり、殊にその科目講習の順序のごとき、また全く学生の随意にして、かの東京大学第一年においては某科と某科とを必修すべし、第二学年においては某科と 某科とを必修すべしというがごとき、圧制なる拘束あるにあらず。これ京都大学のもっとも大学らしき大学なる制度の一なり。
 京都大学の東京大学に異なる、豈啻《あにただ》に科目の分配の自由なると否とにのみおいてすと云わんや。かの東京大学の試験制度がいわゆる学年の試験な るに反して、京都大学のそれがいわゆる科目試験たるがごとき、また実にその重要なる差別の一なり。けだし学年の試験とは、一学年に強制的に必修を命ぜられ たる一定の科目中、その一科目にても不合格点あれば、他の科においていかに秀抜の得点あるも、なおついに進級する能《あた》わず、次の学年において全部の 科目について再び試験を受けざるべからざるをいう。これに反して科目試験においては、各科独立にその得点を験し、明らかに合格と不合格との科目を分かち、 次学年においては、ただその不合格なりしものについて再び試験を行うの外《ほか》、煩を合格科目にまで及《およ》ぼして、これが再試験を行うの愚をなさ ず、毎学年各科目について及落を定むるの制度をいう。これをもって前者は各科目の成績に向かいて連帯の責任を負わしめ、後者は各独立にその責任を定むるの 方針を取れり。その前者の特別の事情、又は偶然一、二科の失敗を来せしものに向かいて、他の優に及第点《きゆう いてん》を得たる課目までも再試験を行う て、学生をしていたずらに奔命《ほんめい》に疲れしめ、ますます彼等をして試験の奴隷たらしむるの結果に導くに比し、その後者の学生をして偶然の失敗を恐 れず、むしろ散漫《さんまん》に各科に力を致すよりは、ある特別の科目に向かいて全力を注《そそ》ぐの、却て利益なることを覚らしめ、彼等に向かいて充分 自由討究の余暇を与え、試験を恐れず、実力に依頼せしむるの精神を鼓舞《こぶ》せしむるにおいて、遥《はる》かにその利益多きを発見せずんばあらず。思う に各科連帯の制度は、学生を同一模型によって陶冶《とうや》せんとする小学教育に向かいては適当すべし。学生各個をして、なるべくその自由開発を期せしめ んとする大学教育に向かいて採用する、吾人ついにその可なるを見ず。これ実に京都大学の東京大学に異なる第二の点なり。
 京都大学の制度は、徹頭徹尾《てつとうてつぴ》なるべく試験の弊害《へいがい》を杜絶《とぜつ》せんことを目的として制定せられたり。この故《ゆえ》 に、及《およ》ぶ限り学生をして試験のために勉強するの風をなさしめざらんがために、試験の成績《せいせき》はこれを発表せざることをもってその原則とな したり。従って理、工、法、医の各科を通じて、ただ特待生と卒業優等者(すなわち銀時計下賜者)を発表するの外《ほか》、学生各自も自己の成績すら知り得 ざるの有様なり(法科にはやや特例あり)。これを東京大学が試験ごとに点数を掲示し、これに由《よ》りて社会上の地位までも決定するものに比すれば、大 《おお》いにその趣きを異にするものあるあり。その結果として来る所は、彼等学生が互いにその価値を品鷺《ひんしつ》するにおいて、試験点数をもつて標準 となさざるは勿論《もちろん》、学力をもってすることさえ稀《ま》れにして、多く人物をもって相上下せんとするの美風を生ずるに至れり。これもっとも吾人 の着目すべき点にして、吾人が東西両大学の第三の差点として、ここに特筆せんと欲するものなり。
 これを要するに東京大学は徹頭徹尾《てつとうてつび》小学校風なり、子供扱いたり。かくのごとき制度をもってして、真正の人物、真正の学者を作らんと欲 す。もとより木に縁《よ》りて魚を求むるの類のみ。吾人が曩《さき》に東京大学をもって実用的人物の輩出をもって、京都大学の学者的人物の産出に対比せし 所以《ゆえん》の者は、ただこれ小才子的実用的の人物を指《さ》したるものにして、真正の大人、傑士《けつし》輩出はむしろこれを京都大学に庶幾《しよ き》すべく、かの吾人が東京大学をエールに比し、京都大学をハーバードに譬《たと》えしもの、決して偶然にあらざるなり。

山川、木下の両総長

 山川《やまかわ》豪きか、木下《きのした》豪きか。大学総長として適任者は、前者たるか、将《は》た後者たるか。そもそもまた両者皆その任に適わざる か。もし果して然《しか》とせば、孰《いず》れをもって比較的の優者なりとすべきか。嗚呼《ああ》これ我輩のここに論評せんと欲するなり。およそこれらの 疑問を解決せんとせば、勢いまず、両総長の天性、経歴、学殖《がくしよく》、材幹、および操行《そうこう》等の如何《いかん》を観察せざるべからず。請 う、まず山川健次郎《やまかわけんじろう》について、その経歴を叙し、徐《おもむう》に両者対照の論評に移らん。
 時これ明治|戊辰《ぽしん》の秋、若松の城下、砲煙|漲《みなぎ》り弾雨|注《そそ》ぎ、喊声《かんせい》時に起り、剣戟《けんげき》しばしば交る。こ れより先、一藩の壮丁《そうてい》皆出でて国境に戦い、その止《ととま》って城市を守るものは、わずかに十五歳以下の垂髫児《すいちよう》と、六十歳以上 の頒白《はんぱく》翁のみ。玄武《げんぶ》、朱雀《すざく》の二軍は越後口《えちこぐち》を防ぎ、青竜隊《せいりようたい》は白河口《しらかわぐち》に、 白虎隊《びやつこたい》は猪苗代口《いなわしろぐち》に転戦せり。八月二十八日、猪苗代口まず破れ、十六橋の逆襲ついにその功を奏せず。全軍かつ戦いかつ 退き、将士多くは太田ヶ原の露と消えて、翌暁すでに錦旗《きんき》の滝沢山頭の朝嵐に翩《へんぺん》々たるを見たりき。ここにおいて、城主|松平容保孤 《まつだいらかたもり》城を死守するに決し、警鐘一《けいしよう》打、全市の子女をことごとく城内に納めて、廓門《かくもん》を閉ず。かの白虎の一隊が退 路《たいう》を絶たれて、滝沢山麓に屠腹《とふく》せしもの実にこの際にあり。かの重臣数名の後《おく》れて到り、門前敵を睨《にら》んで剣に伏せしもま た実にこの時に在り。今はただ塁《るい》を高《たこ》うし濠《ほり》を深くし上下力を協して籠城《ろうじよう》の準備に汲《きゆうきゆ》々たるのほか他 《う》事|無《な》かりしなり。
 会津城《あいつじよう》の包囲解けざる事すでに三旬。官軍の攻撃ますます盛んにして、日夜待つ所の越後口、白河口における外征の二軍は、未《いま》だ共 に帰り来らざるなり。時に城内食ようやく乏しく、将士また多く砲弾に斃《たお》る。ここにおいて、城内の食口を減ぜんがために、婦女の自尽《じじん》する もの日夜|相踵《あいつ》げり。しかも、なお敵に虚勢《きよせい》を示さんがために、老幼相率いて長槍《ながやり》を揮《ふる》い、幾度か逆襲を試みて、 屍《しかばね》を秋風粛索《しゆうふうしゆくさく》の野に横たえたるもの数うるに遑《いとま》あらざりき。真にこれ孤城|落日《らくじっ》の嘆、将士当年 の苦心|果《はた》して幾何《いくばく》なりしそ。
 今の東京大学総長山川健次郎は、実にこの城内の人なり。氏時に年|甫《はじめ》て十三、嫩腕《とんわん》ようやく銃を挙ぐるに足《た》るに過ぎざるも、 なお能《よ》く隊伍に加わり、日夜|砲煙《ほうえん》の間を奔走《ほんそう》せしが、氏の令姉サエ子(今の女子高等師範学校学監|山川二葉《やまかわふた ば》)また男装して戦に参し、次の令姉サヨ子(今の皇后宮権少侍山川操)およびサキ子(今の大山《おおやま》大将夫人|捨松《すてまつ》)を慰撫《いぶ》 しつつ、頻《しき》りに砲煙弾雨《ほうえんだんう》の間に往来したり。由来《ゆらい》山川家は会津の家老職《かろうしよく》たり。長子大蔵(山川総長の家 兄《かけい》、故《もと》の陸軍少将高等師範学校長|山川浩《やまかわひろし》)なお若冠《じやつかん》なりしといえども、すでに亡父に続《つ》ぎて重職 に在り、当時また一軍に将として躬《みずか》ら白河口の守備に任じたりき。
 籠城《ろうじよう》すでに三旬。家兄の消息|未《いま》だ城内に達せず、弟妹|危懼《きく》寝食を安ぜず。たまたま家嫂《かそう》トセ子(大蔵の妻)右 肩に砲弾を被《こうむ》り、鮮血|滴《したた》りて背を湿《うる》おす。弟妹に問うて曰く、君侯《くんこう》善く恙《つつが》なきか、敵軍|未《いま》だ 退かざるか、と言い了《おわ》って斃《たお》る。城中すでにこの惨事あり。弟妹四人|鶴首《かくしゆ》して日夜|阿兄《あけい》の帰り救わんことを待ちし もの偶然にあらず。時に相語って曰く、敵軍山野に充満《じゆうまん》し、日夜城中と砲弾を交《まじ》えて寧時《ねいじ》なし。阿兄《あけい》来るも、必ず や同志討《とうしうち》を恐れて能《よ》く城内に入るを得ざるべし、と。すなわち相|抱擁《ほうよう》して泣けり。
 九月二十六日、黎明《れロめい》、城外敵軍迫るの報あり。将士|皆《みな》銃を執《と》りて立ち、まさに砲火を開かんとす。俄然《がぜん》敵軍ー7冖| 劉喨《りゆうりよう》たる笛声《てきせい》起り、和するに堂々たる鼓声《こせい》をもってす。鉦音《しよう》またこれに交《まじ》わり歌唱またこれに伴 う。朝風これを送って一|揚《よう》また一|抑《よく》、絶えて兵馬《へいば》の倥偬《こうそう》を知らざるもののごとし。すでにして楽声ようやく近づき 律呂《りつりよ》また弁ずべし。耳を欹《そばだ》ててこれを聞けば、正しく会津《あいづ》名物の勇壮なる「獅子踊り」の曲なり(当時若松士族の最も好み歌 いしもの)。城内の将士相|顧《かえり》みて曰く、これ敵か味方《みかた》かと。衆また能《よ》く答うるものなし。一人|城櫓《じようろ》に登りこれを凝 視す。須臾《しあゆ》にして帰り報じて曰く、旗章|大《おお》いに我軍に類すと。すなわちわずかに城門を開いてこれを迎えば、果《はた》して待ちに待ちた るかの山川大蔵の一軍なりき。
 始め大蔵、白河口を守り勇戦はなはだ力《つと》む。すでにして飛報あり曰く、本城すでに敵軍に囲まれ城中食に乏《とぼ》しく運命|旦夕《たんせき》にあ りと。大蔵すなわち軍を収《おさ》めて退き、昼夜兼行《ちゆうやけんこう》二十六日|黎明《れいめい》城外に達す。しかも城兵の敵兵と誤認し却《かえつ》 て彼を防がんことを恐れ、百方苦《ひやつぼう》心の末《すえ》、すなわち陣中携《じんちゆう》うる所の笛鼓を出して「獅子踊り」の曲を奏せしめ、もってそ の敵兵ならざるを示したるなり。城中皆この少年士官の機智に感ぜり。嗚呼《ああ》当時弟妹|驚喜抱擁《きようきほうよう》の状、今|目《ま》のあたり観 《み》るがごとし。当年の健次郎、今の山川総長、今昔《こんじやく》の感|果《はた》していかなるものかある。
 かくの如《ごと》き境遇に人と成《な》りたる山川健次郎の、その果していかなる人物なるべきかは、決して揣摩《しま》するに難《むつかし》からず。東京 帝国大学総長としての彼が、極《きわ》めて謹厳率直真摯果断《きんげんそつちよくしんしかだん》の名誉ある、決して偶然にあらざるなり。これを木下広次 《きのしたひろじ》がその京都大学総長として機略縦横《きりゃくじゆうおう》、権謀湧《けんぽうわ》くがごとく円転滑脱《えんてんかつだつ》の妙、ほとん ど端倪《たんげい》すべからざるものあるに比し、けだし東西の異彩《いさい》たらずんばあらず。
 木下は実に熊本の人なり。熊本の地、由来《ゆらい》怪傑を産す。佐《さつさ》々友房《ともふさ》ここに出で、井上毅《いのうえこわし》ここに出で、徳富 蘇峰《とくとみそほう》また実にここに出でたり。西南の役起るや、佐々友房、池辺吉十郎《いけべさちじゆうろう》と共に遥かに西郷隆盛《さいこうたかも り》に応じ、一隊の兵を率いて両肥の野に転戦す。時に年わずかに二十有四、彼のなお家に在るや旦暮《たんぽ》国事の日に非なるを歎じ、慷慨激越頻《こうが いげきえつしき》りに廟堂《びようどう》の姦臣《かんしん》を斬らんことをもってその志となし、いわゆる燕趙悲歌《えんちようひか》の士《し》を連《つ ら》ねて幾度か劇孟の家に会せり。すでに隆盛に応じて陣中にあるや英気颯爽威風《えいきさつそういふう》四隣を掃い、壮士皆彼の下風に立たんことを希わざ るなし。彼もっとも兵略に富み、また操兵《そうへい》に長ず。彼の兵を行るや神速《じんそく》実に電《いなずま》のごとく、その戦略を画するや老将|村田 新八《むらたしんばち》の徒また時に舌を巻きて驚嘆することあり。人これを称して「今加藤」という。
 戦後友房は捕えられて獄に下り、後《のち》出でて済《せいせい》々黌《こう》を監す。かの書生に接するや謹厳自ら率い、義烈《ぎれつ》これ尚《たつと》 び、頻《しき》りに西洋|心酔《しんすい》の風潮を罵《ののし》って、自ら国風の刷新《さつしん》を期せり。諸生彼の堂々たる威風《いふう》を望み、その 踵属風発《たくれいふうはつ》の論議を聞き、|尊信措《そんしんお》かず、陰に擬するに古英雄の再来をもってせり。これをもって一朝彼が国権党を率いて天 下に呼号するや、四方風を望み立ち、一挙手にして実に一大政党の樹立を見たり。これすなわち前の国民協会、今の帝国党なり。彼の威望もまた盛んなりという べし。
 しかるに見よ、第十議会において、彼が自由進歩両党と共に伊藤内閣の秕政《ひせい》を数え、国権の萎縮《いしゆく》を慨して弾劾《だんがい》の決議案を 提出するや、彼は実にその首唱者にして、しかも躬《みずか》ら提出者として明に署名せしなりき。しかるに一朝|当路《とうろ》者のために買収せらるるや、 すなわち臆面《おくめん》もなくまたその議案の撤回を主張するに至りぬ。ここにおいてか、前の「今加藤」今|何処《いずこ》にありや、国風刷新《こくふう さつしん》今|何処《いずこ》にありや。特に彼の率ゆる帝国党なるものは、常に一貫の主義定見なく、いわゆる権勢|阿附《あふ》をもって能事了《のうじお わ》れりとする所の幇間《ほうかん》政党のみ、売女政党のみ、筒井順慶《つついじゆんけい》党のみ。ここにおいてか前の慷慨激越《こうがいげきえつ》今| 何処《いずこ》にありや、忠勇義烈《ちゆうゆうぎれつ》今|何処《いずこ》にありや。怪しむなかれこれ熊本男子の本色《ほんしよく》のみ、いわゆるこれ怪 傑の怪傑たる所以《ゆえん》のみ。
 かの井上毅《いのうえこわし》に至りてはまたさらに滑稽《こつけい》なるものあり。彼謹厳なる文部大臣として、忠君愛国主義の鼓吹者《こすいしや》とし て、世多く彼に許すに国士の典型をもってす。何ぞ知らん、彼|内行《ないこう》はなはだ修らず、閨閤《けいこう》の中|脂粉狼藉《しふんろうぜき》たらん とは。すなわち有らん限りの婢妾《ひしよう》ことごとく媚《こび》を主公に呈し、たまたま一枝の早梅氷雪の操を持する者あるも、旬日《じゆんじつ》を経ず して夜来風雨の歓を発するに至れり。中冓《ちゆうこう》の言は君子の口にせざる所。いわんや、死屍に鞭《むちう》つの酷をや。しかれども事実は事実として これを伝えざるを得ず。要するに彼もまた表裡相反する熊本一流の怪傑たるを失わず。
 もしそれかの徳富蘇峰《とくとみそほう》に至りては、前に『将来の日本』を著して大《おお》いに平和主義を鼓吹《こすい》し、後に軍備拡張を論じて大い に帝国主義を唱道《しようどう》す。前《さ》きにはすなわち平民主義を説いて大いに|藩閥打破《はんばつだは》を呼号し、今はすなわち国家主義を論じて大 いに元老の間に斡旋《あつせん》す。昨《さく》はすなわち垢面蓬頭《こうめんほうとう》、今はすなわち「香水コスメチック」。旧《もと》はすなわち短褐高 屐《たんかつこうげき》、今はすなわち錦衣温袍《きんいおんぽう》。その是非得失は暫《しばら》く措《お》き、天下の矛盾撞着《むじゆんどうちやく》を演 出して、而《しこう》してほとんど余蘊《ようん》なきなり。これ実に「肥後イズム」の本色《ほんしよく》、いわゆる怪傑のもっとも怪なるものにあらずや。 その他|金森通倫《かなもりつうりん》のごとき、宗像政《むなかたせい》のごとき、市原盛宏《いちはらせいこう》のごとき、ことごとく熊本の産にして、そ の出処進退《しゆつしよしんたい》ほとんどその軌を一にす。かの京都帝国大学総長|木下広次《きのしたひろじ》、彼またその郷国を等《ひとし》うして、而 《しこう》して真に「肥後イズム」を代表し得るの資格ありや否や。
 世に第=崗等学校寄宿舎事件なるものあり。もしその顛末《てんまつ》を叙述し来らば、恐らくは彼、木下広次の面目は自ら紙面に躍如《やくじよ》たるもの あらん。始め木下フランスに遊学し、留ること数年、帰朝するや盛んに自由民権、社会改良の意見を抱き、談論風発《だんうんふうはつ》、人隠に擬するに東洋 のルーソーをもってせり。しかるにその一度《ひとたび》第一高等中学校長の任に当るや、前の民権の説自由の論は深くこれを腹笥《ふくし》に蔵して出さず。 講壇常に説く所のものは、忠君愛国の思想と武士道となりき。人その意外に驚かざるはなし。
 その始め第一高等中学校の一ツ橋にあるや、その寄宿の制度は純然たる舎監《しやかん》の専制主義にして、圧抑《あつよく》に次《つ》ぐに圧抑をもって し、いわゆる一中の健児皆その横暴を切歯《せつし》せざるはなかりき。ここにおいて彼等学生の矯激《きようげき》なるものは、酒を被りて舎監室に乱入し、 事務員を乱打し、器物を破壊する等の珍事ただに一再に止まらざりしなり。ここにおいて彼、炯眼《けいがん》なる木下広次は、監督主義の到底《とうてい》学 生統治の良策にあらざるを察し、明治二十三年、第一高等中学校が、その一ツ橋より今の本郷|弥生町《やよいちよう》に移るに際して、全くその従来の専制主 義を全廃し、ここに新《あら》たに自治制度なるものを樹《た》てたり。当時彼はその自治寮の精神なるものを説いて曰く、我は決して諸君を目《もく》するに 車夫馬丁をもってせず、真に独立の君子人をもってするものなり。これをもって余は諸君を束縛《そくばく》するに法律をもってし、監督するに舎監を用いるこ とを欲せず、ここにこの四個の建物と百歩の運動場を挙げて、諸子の掌裡に委せんとす。これが経営と整理とは一に諸子の責任にあり、諸子それこれを勉めよ。 それ欧米文明の美は実にその社会上の整頓に如《し》くはなし。而《しこう》してその整頓は実に社会の制裁力に依《よ》って支持せらる。西人《せいじん》自 ら称してこれを耶蘇《ヤソ》教国の特有となす。それ果して耶蘇教国にあらずんば、かくの如《ごと》くなる能《あた》わざるか、これ実に未決の問題なり。し かれども我国封建の世武士道なるものあり、礼節《れいせつ》を尊び廉恥《れんち》を重んず。而《しこう》してそのこれをもって士人の風、実にこの社会の制 裁力にあり、これ実に諸子の大いに則《のつと》るべき所にあらずやと。ここにおいて千余の学生|紀《のり》を維持し得たりしものまた感憤興起《かんぷんこ うき》し、頑夫《がんぷ》も廉《すなお》に懦夫《だふ》もまた立ち、忽《たちまち》にして校風大いに興れり。
 ここにおいて彼|木下広次《きのしたひろじ》は自治寮の鼻祖《ぴそ》、校風の刷新者《さつしんしや》として、学生|瞻仰《せんぎよう》の中心たり。かの 一中の健児が明治学院の外国教師イムブリーを校庭に乱打せし時のごとき、かの倫理講堂において講師|内村鑑三《うちむらかんぞう》が、勅語《ちよくこ》の 礼拝を拒んで、学生の激昂《げつこう》を買いし際のごとき、彼は常にその対外硬と忠君愛国の権化《ごんげ》として樽俎折衝《そんそせつしよう》大いに学生 の歓呼を買えり。ここにおいて彼の威望は校の内外に振い、その井上毅の文部大臣たるに際しては、彼は選ばれて専門学務局長の栄職に擬せらるるに至りぬ。当 時学生その報道を新聞紙に読んで以為《おもえ》らく、木下校長は名利《めいり》の人にあらず、常に学生の薫陶《くんとう》をもって無上の快楽となすもの、 克《上》く将相の位をもってこれを招くも、決して現職を去るものにあらずと。しかるに何事ぞ、前の風説はすなわち事実として顕われ、ついに学生は彼の訣別 《けつぺつ》演説を聞くべく倫理講堂に召集せらるるに至りぬ。
 秋風蕭索《しゆうふうしようさく》、天地陰森《てんちいんしん》とはけだしその日の光景なり。木下校長はその物憂《ものう》げなる体躯を運んで講壇に上 りぬ。満堂|粛《しゅく》として声なし。彼はその森厳《しんげん》なる態度と沈痛なる語気とをもって、いわゆるその訣別の辞を述べたり。言その在職の年数 を数うるに及んで、彼はその携うる所の手巾《ハンカチ》を挙げて面を掩いぬ。歔欷《きよき》の声堂に満ち、また一人として仰ぎ見るものなし。嗚呼《ああ》 自治の創立者は去れり、校風刷新者は去れり。一中の天地時に落寞《らくばく》、ただ秋風の蕭索《しよもつさく》たるを聞くのみ。
 由来、第一高等学校の寄宿者は四棟をもって成る。東西の二寮は校の右側に屹立《きつりつ》し、南北の二寮は校の後方に在り。木下去って後幾許《のちいく ばく》もなく、文部省は令してその南寮北寮を撤去し、これを教員養成所に充《あ》てんとす。一中の健児|大《おお》いに驚き、自治寮の危機ここに在りとな し、百方|奔走《ほんそう》行いてこれを彼|木下広次《きのしたひろじ》に計る。何ぞ知らん、その南北寮|撤回《てつかい》の主唱者は、実に自治寮創立者 たる彼木下広次ならんとは。
 事の顛末《てんまつ》は実に載せて当時の読売新聞にあり。ここにおいて前の武士道今|何処《いずこ》にありや。前の流涕《りゆうてい》今|何処《いずこ》にありや。要するに彼もまた熊本特有の一大怪傑たるを失わざるなり。
 短髪黒面身幹《たんばつこくめんしんかん》衆を抜き、眼光《がんこう》人を射、その昂然《こうぜん》として頭を上げ、端然《たんぜん》として講堂に立つ や、宛然《えんぜん》たるこれ一基の羅漢像《らかんぞう》なり。その説く所を聞けば、蝋《ろう》を噛むがごとき分子の論、その論ずる所を聞けば、石に刻す る底《てい》の引力の説、これ実に理学博士山川健次郎がその理科大学教授として物理学を講ぜし風采《ふうさい》なり。彼の風貌やすでに枯淡文《こたんあ や》無く、彼の学問やすでに無味乾燥。加うるに彼の教職にありて、研鑽倦《けんさんう》まざること二十五年なるをもってす。人、彼をもって物理学の化石と なし、彼を評するに専門以外また他事を解せざる者となせしもの偶然にあらず。何ぞ知らん、この木強漢《ぽつきようかん》、仙骨漢《せんこつかん》の内面的 生活は、波瀾頗《はらんすこぶ》る重畳

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