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岩野泡鳴「ぼんち」

『ほんまに、頼りない友人や、なア、人の苦しいのんもほツたらかしといて、女子《をなご》にばかり相手になって』と、定《さだ》さんは私かに溜らなくなった。
 づん/\痛むあたまを、組んで後ろへまわした両手でしツかり押さへて、大廣間の床の間《ま》を枕にしてゐるのは、ほんの、醉つた振りをよそほってゐるに過ぎないので。
 實は、あたまの心《しん》まで痛くツて溜らないのである。
 藝者も藝者だ。氣の利かない奴ばかりで、洒落《しゃれ》を云ったり、三味をじやん/\鳴らしたり、四人も來てゐた癖に、誰れ一人《ひとり》として世話をして呉れるものがない。
『ええツ、こツちやもほツたらかして往《い》んだろかい』とも心が激《げき》して來た。
 渠は實際何が爲めにこんなところへ來たのかを考へて見た。夕飯を喰べてから、近頃おぼえ出した玉突をやりに行くと、百點を突く長《ちやう》さんと八十點の繁《しげ》さんとが來てゐた。
 長さんはさすが上手で、繁さんの半分も行かないうちに勝ってしまった。
 定さんは上手な人に使《つか》ふて貰ふ方がいいと思って棒《キユウ》を持ちかけると、横合から繁さんが出て來て、
『わたいとやりまひよ――よんべはわたいが負けて敷島を散財《さんざい》したさかい、今晩はなか/\負けまへん。』
『わたいも負けまへん。』
『ほたら、ビールだツせ。』
『よろしゅおます。』
 定さんは持つた棒《キユウ》を置いて、翡翠の輪が付いた胸の紐をはっし、鉄色無地の絽羽織をぬぎ棄てた。そして白絹に墨色の形を染めた襦袢の両袖を折り返し、絹立万筋《きぬたてまんすぢ》の越後縮を紋紗の角帯で結んだ腰を後ろの方へ突き出し、生《き》真面目な顔を縁《コシン》のそばへ持って行った。目をぱちくり、ばちくりさせながら、ねらひを定めて、棒《キユウ》を二三度しごく度毎に顔が自分の手とさき玉とを往復するその様子が如何にもをかしいと云って皆が笑った。で、長さんが黙笑をつづけながら椅子を離れて来て、
『そないなこツちや明《あ》きまへん。』そして定さんの尻を押して右へ寄らせ、そのからだの据ゑかたとねらひの付け方とを教へた。
 兎に角、弱い方から突き初めるのが規則《きそく》だと云ふので、定さんから突き初めたが、最初の一突きも、そのやり直しも当らなかった。三回目にうんと突いた玉は当つたが、ただの一発《ばつ》だツた。
『ちよツ!』定さんはわれ知らず舌打《したう》ちをして、長さんを見た。
『占《し》め、占《し》め』と叫んで、繁さんはねらひ寄った。
『しツかりせんと負けまツせ。』長さんは親切らしく応援をした。
『負けたかて、よろしゅおまツさ。』かう云って、定さんは最初からの不成績を身《み》つから弁護してゐたが、それでも最初の勝負には勝つた。それから、然し、二回つづけて失敗した。そしてどちらからも、負けた度毎に朝日ビールを一本づつ明けた。
 二回つづけて勝つたものが満足《まんぞく》さうにコップを傾けてゐるのを見ると、残念で/\溜らないので、定さんから進んで今一回を要求して、また見事に負けた。渠はつひに往生して、一息しながら、四本目のビールが半分になるのを見てゐた頃、松さんが這入って来た。
『またけたいな奴《やつ》が来よつた』と思った。定さんから見ると、松さんは身なりが余りよくない上に、乱暴肌の男なのが気になった。
『さア、ぼんちの散財だツせ』と、繁さんは連勝を誇りがにコップを新来者《しんらいしゃ》にさし出した。
『ふン』と、松さんは不満足さうに手を出してコップを受けた。渠は既に一杯機嫌の顔をしてゐた。
『ビールやあきまへん、なア。』
『けど、なア、わたいが続けて三番勝ちましたのんや。』
『ほたら、ぼんち』と、松さんはあけたコップを下に置き、『わたいと一番七十で行きまひよか?』
『そりや無理《むり》だす。』長さんは定さんの肩を持って呉れるやうに、
『松さんも八十で行きなはれ。』
『ええツ、負《ま》けたろ! その代《かは》り、なア』と、棒尻《きゅうじり》を床《ゆか》にとんと突いて、――その響を今思ひ出すと、定さんのあたまへは一しほぴんと来るのである、『寳塚《たからづか》だツせ、宝塚。』
『そりや面白い。』繁さんも側《はた》から賛成した。
『ぼんち、しツかりやんなはれや。』長さんが云ひ添へたのに力を得て、定さんは一生懸命になった。
『そないに目の色まで変《か》へんかてええやないか』と云って、松さんは憎いほど落ち付いてゐた。二点、五点、七点、十点と身《み》つからの声で数へながら、渠は、定さんが三回もから棒《キユウ》を突き、二回二点と三点を取ったうちに、あがってしまった。
『さア、宝塚や、寳塚や!』松さんは小躍《こをど》りして喜んだ。渠は長さんと繁さんとに頻りに何か耳打ちをしてゐたが、やがてうち揃ってそこを出た。
『わたいも行けまへんか』と、ボーイが云ったが、定さんがそんなに大勢は迷惑だと云ふ顔をしたので、他のもの等が遠慮して引ツ張らなかった。
『あの時、いツそのこと、皆をことわってしもたらよかった』と定さんは考へて見ても、跡のまつりで仕方《しかた》がない。
 江戸橋から市中の電車に乗つたが、松さんは景気よく大きな声を出して、相生《あひおひ》にしようか、菱富《ひしとみ》にしようかと皆に相談してゐた。
 いつれ酒を飲む場所《ばしょ》のことだらうから、他の人々の手前、こツそり相談すればいいのにと、定さんには何だか晴れがましく思はれた。が、松さんは人前もかまはず嬉しさうににこ付きながら、つか/\と渠の腰かけてゐるところへやって来て、渠の意向《いかう》を聴いたのである。渠は自分のおごりだから結局自分のさし図《づ》を他のもの等が受けるのだと思って、少々得意になったと同時に、どこがいいのやら一向勝手が分らないのを恥辱《ちじよく》であると思った。そして、おど/\した。ビールも飲まなかったのに顔に少しほてりをおぼえながら、暗にどこがいいのだと尋ねる目附きを松さんに向けた。
 でも、松さんはそは/\してゐて、定さんの心持ちを判じて呉れなかった。脊は低いが、酒樽に弁慶縞の浴衣《ゆかた》を着せ、その腰に白縮緬の兵児帯をしたやうなからだを釣《つ》り革《がは》にぶらさがらせ、車台のゆれる通りにゆれながら、
『おい、どツちやにしヨう?』
『――』定さんはこの時ほど恥かしいことはなかった。溜りかねて坐席《ざぜき》から立ちあがり、人々に聴えないやうに松さんの耳もとへ口を持って行って、『どツちやがええ?』
『そりや菱富《ひしとみ》の方が――』と、松さんは自分のよく行く方の名を云った。
『ほたら、その方にしまひよ。』
『わたいの通《とほ》りだツせ』と、また大きな声をして松さんは他の友人を返り見た。
 定さんはどちらに決ったのかを不図《ふと》おぼえ落したが、その声で自分等の秘密を人の前であばかれたのをひやりと感じて腰を下ろした。すると、松さんはつづけて渠を見おろし、
『芸子《げいこ》は四人と決ったぜ。』
『芸子までも』と反問《はんもん》しようとしたが、口には出なかった。そんなものまで懸けたのちやアないと云ひたかったのだが、兼て一度は呼んで見たいと思ってゐたものが呼べると考へると、嬉しさと恥かしさとに先つからだがすくんでしまった。それに、行く人数だけ呼ぶのだとすれば、自分にも一名当るのだから、自分はその当つた女とどうずればいいのだらうと云ふことに考へ及んで、身ぶるひをした。

       二
 梅田から郊外の箕有《きいう》電車に乗り換へる前に、松さんはそのそばの郵便局から今行くからそのつもりでゐて呉れいと云ふ電話をかけた。
『さすが、松さんや、なア。』定さんは、かう心で感心《かんしん》しながら、遠距離二十五錢の電話料を出してやった。
 その頃には、もう、長さんや繁さんの顏にも酔ひが十分に出てゐた。
それでも、最も多く目に立つぼどはしゃいでみたのは松さんばかりで、どこかで飲んだ下地《したち》があったので腰がふら/\してゐるにも拘らず、電車の中を別々に離れた長さんのところや繁さんの前へ渡って行って、何か面白さうに度々耳打ちをしてゐた。そのあげくが定さんの隣りへ腰をおろして、その肩に痛いほど  實際、痛かったが――抱《だ》き付いた。そして、わざとだらうと思へたほど醉つた振りをして、
『おい こら、ぼんち』と、定さんをゆす振り、渠の鼻のさきへ熟柿《じゅくし》のやうになった圓顏を、ぬツと突き出した。『あんたにも、なア、ええ女子《をなご》を世話してあげまツせ。』
 定さんはそれが恥かしかった。目をそらして、きよろ/\と誰れとも知れない隣りの人や正面の人を見た。そして、さう云ふ人々が若しうちの人や出入りの男であったら、直ぐおやぢや姉《ねい》さんに知れてしまうだらうこと。
『おい、ぼんち、心配《しんぱい》するな、大丈夫や。』松さんはただ無性《むしゃう》にはしやいでゐて、長さんや繁さんが襦袢の肌ぬぎになったのを見て、
『おらもやったろ』と云って、同じやうに肌をぬいだが、襦袢を着てゐなかったので、直肌《ちかはだ》であった。
『肌《はだ》をお入れ下さい、規則ですから』と、車掌にやツつけられて、松さんがすご一肌を入れたのは、定さんには気味《きみ》がよかった。
 松さんはなほしつこく定さんの肩に取りすがって見たり、低い齒の向ふ附《づ》き利久《りきう》をはいた足さきで空《くう》を蹴ツて見たりしてゐたが、そこには落ち付けないで、定さんの向ふ側の席へもどった。その時、渠はどうした
拍子か、一見てゐた定さんが思ひ出してもおかしくなるのだが、自分の脱《ぬ》いで置いた麥藁帽子と隣席の人のとを取り違へ、隣席の人の被《かぶ》ってゐた帽子をその人のあたまから取って自分のあたまへ上せた。
『どうした?』東京口調で怒った隣りの人は、それを突差《とっさ》の問に奪ひ返した。
 松さんも自分の失敗《しつばい》に自分でびツくりしたのか、失敬しましたとも何とも云はず、腰をあげて、自分の帽子がその脇にころがってゐるのを探し取った。そして默って再びそこに腰をかけ、手なる帽子を  失敗の時と同じ手早さで一あたまに上せた。
 他の友達は二人ではツはと笑ひながら、何かしゃべり合ってゐたので、それに氣がつかなかった。が、多くの乘客は東京辯の怒り聲がした方へすべての注意を向けた。中には、その時の様子を見てゐたので、思はず吹き出したのもある。
 松さんは獨り興ざめた顏をして、席をまた定さんのそばに移し、
『暑い、なア』と云った切り、窓から外をのぞいた。
 同じ側の乗客でまたわざとらしく吹き出したものがあるが、定さんは
 をかしいとは思ひながらも1笑ふだけの餘裕《よいう》がなかった。
『四人の料理に四人の藝子や。なんぼかかるやろか? ふところには、そないに仰山《げうさん》錢《ぜに》持ってやへんのに。足らんだけは、電話でうちへ云ふて、助《すけ》さんに持《も》て來てもろたらええ。』こんなことを考へながら、何だか嬉
しいやうな、おそろしいやうな、賑かなやうな、悲しいやうな氣分に往來せられて、行くさきばかりが急がれた。で、松さんと一緒に無言で外《そと》を眺めてゐると、電車が切って進む涼しい風がほてった顏に當って、からだの汗臭《あせくさ》いのをも吹き拂って呉れる。
 新淀川《しんよどがは》の鐵橋を渡る時など、向ふに焚《た》い松《まつ》をともして漁《れふ》でもしてゐる光が水の上にきら一と映って、玉突屋などではとても見られない涼しさであった。
『もう、鮎が取れるのんや、なア。』
『さうだツしやろ。』
 こんなことを小さな聲で語ってるうちに、十三驛《じふそうえき》も過ぎてしまった。
 大阪の方の空がぼうツと赤くなってゐるのが見える。あの下《した》にうちの者や好きな女子《をなご》等が、殊に、隣家の靜江《しづえ》さんも住んでみるのだ、な、
――そして、その空が車の向きで隠れて行くのを追ふ爲めに、定さんは窓から首を出した。そのとたん、頑固なおやにでも太い棒《ぼう》を以って投《なぐ》られでもしたやうに、渠のあたまをいやと云ふほどがんとやつ付けて行ったものがある。
『あぶない!』松さんの手がいつのまにか定さんのあたまをさすってみ
た。
『何《なん》や、何《なん》や?』長さんも、繁さんも、松さんの聲に驚いてやって來た。
『あたまを柱で打ちやはツたのや。』
『怪我《けが》しやへんか?』
『したか知れへん。』松さんは定さんの無言で押さへてゐる手を無雑作に押し除《ど》けて、そのあたりを方々固く撫でて見た。
『てんこうすな』と、定さんは云ってやりたいほどであった。
『異状はありませんか?』車掌もやって來て、見舞ひを云った。
『えらいこともないやうだす。』松さんはこの場合、かう云って置かな
ければ、目的地へ行けないと思ったのだらうと、定さんは跡になって考
へられた。
『あの時直ぐ引ツ返して大阪病院にでも行《い》たらよかったのに――今では、もう、手後れか知れへん。』考へて見ると、今にも自分の死が近づいてゐるのではないかと思はれる。押さへてゐるあたまが段々張れぽツたくなって來るやうで、その張ればツたいのは、頭蓋骨《つがいこつ》の碎けた間から、腦味嚼が溢れ出たのではなからうかと。

       三

 兩手で押《お》さへてゐても、づん/\あたまが痛む。が、世話役の松さんは少しも思ひやって呉れない。おのればかりがえらさうな風《ふう》をして、長さんや繁さんを番頭ででもあるかのやうに取り扱ひ、來てゐる藝者を皆までわが物にして、
『おい、ぼんち、不景気に何《なん》ぢやい、しツかりしなはれ』もあきれてしまう。
『寳塚へ行《い》たら、醫者に見てもろたらええ』と云ったではないか? それを、終點で下りると全く忘れてしまって、直ぐ酒だ、嚢子だとさわぎ出した。
 玉突には負けたが、一體、これは誰れのおごりだ? 皆おれの財布《さいふ》を嘗て込んでみるのちやアないかと定さんは憤慨すると同時に、あの時、電車の窓から首《くび》を出さなかつたらよかったにと云ふことを祈祷のやうに繰り返してゐるのである。
 電柱と云ふものは、電車軌道《きだう》の兩側に立ってゐるものとばかり思ってゐた。ところが、さうでない場所もある。
『この邊《へん》と螢ゲ池とは、柱が眞中に立ツとりますから、お顏を出すとあぶないです』と車掌が説明した。
 定さんはそれを知らなかった。
 なぜまたこんなところへ來たのだ? 首を出さなければよかった。いや、電車に乘らなければよかった。いや、玉突で懸《か》けなければよかった。
と、かう云ふ風に考へを繰り返して見ても、柱に衝突した事實は取り返しの付けようがないので
 定さんはあの時驚きと痛さとをじツと辛抱《しんぱう》して、窓を背にして席にもたれたまま、
『何ともおまへん』と苦笑したが、膝の上に置いて見た兩手がおのつからあたまへ行った。すると、松さんは
『痛《いた》いか』と聽いた。
『そないに痛いことありゃへん』と云ふつもりで手を膝におろし、首を左右に振ったが、いつのまにか又手を上へやってゐる。
『痛いか』と、また同じことを松さんが聴いた。
『そないでもありゃへん』と答へた切《ぎ》り、うるさいので、手をおろしてみようと思っても、直ぐまたそれがあたまに行くのである。
 じツとしてゐると、その痛みに堪へ切れながつた。直ぐそばに立ってゐる眞鑄桂《しんちうばしら》にあたまをもたせかけ、ひイやりする氣持ちに痛みを忘れようとして見ても、自分の呼吸が迫って來る。からだをねぢつて顏を窓の枠《わく》に押し當てて見ても、いのちが縮《ちこ》こまって行くやうだ。が、今から歸りたいと云ふやうな弱音《よわね》も男として云ひ出せない氣がした。
『馬鹿だ、なア』と云ふ東京人の聲が車臺《しゃだい》の隅から聽えた。また、見える限りの乗客等は、すべて目を見張《みは》って、あざけりの顏をこちらに向けてゐる。
 定さんは内と外とから押し苦しめられて、水の中から息をしに出た時のやうに、耻ぢも構はず、すツくりと立ちあがって見たが、まだしも自分の家の隣りの靜江さんがここにゐないのを大丈夫だと思った。飛《と》んでもない、あの子にこんな失敗を見られたら、ここらの人と同じやうに冷遇し出して、楽しみにしてゐる云はず戀も全く物になるまい。
 が、自分の意中《いちう》をまだ云はず語らずのうちに、こんなことで死んでしまうのは詰らないとも思った。
 そのとたん、電車が不意に大ゆれがして、足をすくひかけられた。同時に、くら/\と目《め》まぴがして、あたりかまはずつツ伏《ぶ》してしまった。
 尋常に進行してゐる電車の響に背中《ぜなか》が痛いのを感じて、再び氣が付いた時は、定さんは松さんの太った膝の上につツ伏してゐるのであった。
その上に松さんは兩肱《りやうひぢ》で頬づゑを突いてゐたらしい、それが痛くて重苦しい感じを與へた。
『苦しい、置いて呉れ』と云ふやうに背中をゆすると、松さんはその固く重みのある両肱を離れさせて、兩《りやう》の夲手《ひらて》を載せた。が、なほ人臭いあツたか味が定さんの鼻のあたりに付いてゐた。
 渠は母の懷《ふとこ》ろを出て以來、人のにほひをかう近く嗅《か》いだことはなかつた。
『これが靜江はんの膝やったら、なア』と思ひ及ぶと、この刺戟があるだけでも松さんを懷かしい気持《きも》ちがした。男は男で、女でないにせよ、かうして、いつまでも抱《だ》かれてゐたいものだと。
 で、かうした姿勢のまま、定さんは両手をあまへたままに柔かにあたまへ持って行ったら、松さんもその手の行ったところを撫でて呉れながら、
『ソリヤキコエマセヌーデンベエサン』と語ってゐたが、やがて定さんの耳もとへ口を寄せて、
『しツかりしなはれ、な、行《い》たら、女子《をなご》を抱かせてやるさかい、なア。』
 低い聲ではあったが、定さんはそれが人に聴こえたらとあわてた。そして、その聲の下《した》から俄かにからだを起して見た。すると、松さんの隣りにゐる人が眞面目腐《まじめくさ》った顏をしてこちらを見つめてゐた。で、定さんの手がまたあたまへ行った。
 松さんは然しそんなことには頓著《とんちゃく》なく、その坐をつるりと抜けて、先刻から筋違ひの所へ移って腰かけてゐる長さんと繁さんとの間に行って、どツかり腰をおろし、窓の方に霏《もた》れたまま、先づ長さんを首に手をかけて引ツ張り寄せ、何か耳打ちをした。すると、長さんは松さんの手を振り切って、
  『知りまへん』と逃げ、目じりを下《さ》げて松さんを横目に見た。次ぎに又松さんは繁さんにも同じ耳打ちをして、だらしない笑ひを呈《てい》せしめた。
『ぼんち大明神やさかい、なア』と叫んで、松さんはべツたりと背《せ》を窓の方にもたれさせ、ただにご/\とそら嘯《うそぶ》いて、また利久下駄《りきうげた》の雨足で空《くう》をかたみ代《がは》りに蹴ツてゐた。
 いつれ、呼ぶ女の話だらうと定さんは推察して見ないふりをしてゐたが、渠も渠等のと同じ楽しみを心に畫《ゑ》がいてるればこそ、あたまの痛くて苦しいのをも辛抱して行くのであった。



『けど、お父《とつ》さんやお母《かあ》はんに知れたら、どないしヨう?』
 この疑問は、定さんには、おそろしいよりも耻かしいのであった。
『長はんとこで泊《と》めてもろた云《い》ふとこか』とも考へて見た。が、『行かん、行かん。往んでから醫者を呼んでもろたら、直ぐ白状せんならん。』
 最終電車に乗り後れて寳塚に泊ったと云ひ爲して置かうかとも思案して見たが、
『そや/\、電話をかけて、あの助さんに錢持《ぜにも》て來《こ》い云はんならんのや!』跡で調べられたら、『藝子遊び』したと云ふ化けの皮が剥《は》げてしまう。
『けど、あの時は、まだここまでせツぱ詰《つま》ってをらなんだ』と思ふと、定さんの心には、二度目に氣が遠くなりかけた時のことが浮んだ。
 じツと堪《こら》へて、自分の目をどこか一ケ所に据ゑてるようと思っても、その目から先きに動いて行って、からだを靜かに落ち付けて置くことが出來なくなった。右を向いて見た。左りを向いて見た。座わって見た。また腰かけて見た。孰れにしても、結局は、手があたまへ行って、行って一
『人がおだてたかて、かまへん』と決心して、自分の手の行くままにして見たが、それも亦その儘では續いてるなかった。
 まだしも電車が進行してゐて呉れれば、多少でも氣がまぎれてゐるが、あの石橋《いしばし》の分岐點で、さきの箕面《みのう》行き電車に故障が出來《でぎ》、自分等の車臺が二十分ばかり進行を停止した時は、自分の呼吸もそこに全くとまってしまうのではないかとまで思へた。
 やツと動き出したが、今度は、また、その動き出した電車その物までが自分の苦しい呼吸をしてゐるやうに思はれて、定さんは今夜おぼえようとする藝者買ひの天罰を、前以って、こゝに受けてゐるのだと感じて來た。
『石橋で下りたら、よかった。』かう思へば思ふほど、息が詰るやうで
 そのうち、池田停留所へとまった電車は發車《はっしや》した。と同時に、もう、辛抱がし切れなく、一時《とき》も早く下車したくなった。で、先づ立ちあがって、よろ/\しながら、松さんの前へ行って、皆を怒らせないやうに、先づ、渠に相談して見た。
『わたいだけ下りまひよか?』
『どこで?』松さんは、じツと、おどかすやうな怖ろしい目付きをして見せた。『こないな寂しいとこで下りたかて、どないしなはる?』
 定さんはこの反問にいぢけた。默って、睡《ねむ》い時のやうに重くなった上目蓋《うままぶた》をあげて、ちよツと松さんを見返したまゝ、またしぶ/\ともとの席へもどった。そして、てれ隠しに窓の外を見ると、池田の小蘭山《せうらんざん》と云はれる五月山の麓《ふもと》に、ちらほら涼しさうな光が見え、電車はがう/\響きを立てゝ、猪名川《ゐながは》の鐵橋を渡ってゐるのであった。
『こゝまで來たら、なア』と、繁さんも松さんに贊成するやうに、
『梅田へもどるよりや、先きへ行《い》た方《ほ》が近《ちこ》おまツせ。』
『そないし給へ、そないし給へ。』長さんも亦ぞんざいに口を添へて、ぐた/\したからだを窓へもたせかけた。
『人の苦しいのんも知らんと!』かう目に云はせて友を見た。あたまの痛いのは、もう、全く自分一個の問題だと分《わか》って來た。一番親切だと思へた長さんまでがこの場合の相手にもなって呉れなかった。まだ皆目は浅いが、玉突で知り合になった友人は友人だのに、揃ひも揃って、たツた三十點の初歩者をばかり喰ひ物にして、ただおのれ等の楽しみをしたらい」のかと云ふ、僻《ひが》みも出た。
『何をしなはる』と云ふ角《かど》立つた聲が聽えたので、定さんは注意をその方に向けた。
『濟《す》んまへん。』かう云って、松さんは自分の下駄の片あしが渠の正面にみる客の足もとにころがったのを拾ひに行った。
『阿呆かいな』と心で叫んで、定さんは松さんを初め、長さんや繁さんの至って冷淡なのを聯想《れんさう》し、『わたいは死にかけてんねやで』と云ってやりたかった。
 我慢《がまん》すればするほど、刻一刻に死が迫って來るやうな氣がして來た。で、花屋敷を通過して、段々目的地へ近づいたのを知りながら、待ちかまへた――やがてこの電車から救はれるが早いか、他のもの等はうツちやらかして置いて、自分は自分で、どんな醫者でもいゝ醫者と云ふ名の付くうちへころがり込まうと。

       五

 清荒神《きよしくわうじん》の梅林や竹藪の暗い蔭を出て、涼しく開らけた夜の空氣に、新温泉のイルミネシヨンが山と山との間を照らして、ぱツと皆の目を射初めた。
『さア、寶塚の終點《しうてん》や!』かう思ったら、然し、張り詰めてゐた精神が
忽ちゆるんだので、定さんは意識《いしき》がぼうツとなった。空氣の外、さえぎ
る物もないのに、温泉装飾の電光が見えなくなった。そして電車の中も、自分のからだも、殆ど全く眞ツ暗に暗い。
『腦味噌が早やわたいを死ぬ方へ引ツ込むのんやないか?』ふと・繙射に身ぶるひを感じた時、どんと電車のとまった反動が來て、定さんはあたまのづん/\するわれに返った。
『どなたも終點でございます。お忘れ物のないやうに。』
『來たぞ、來たぞ!』かう他の三名は爭って、立ちあがった。そして定さんをせき立てた。が、渠は立って渠等の手にがツくりと取りすがるより外《ほか》に力が出なかった。
『お醫者はん――呼んで――欲《ほ》しい!』
『醫者がおまツしやろか?』頼りなげに云って皆を見まわしたのは繁さんだ。
『おまツしやろ、こ丶でも仰山《ぎやうさん》人の來るとこだツさかいな』と云って、長さんは車臺の出口へ集った人のどれかに聴いて見ようとした。
『おまツさ』と、車掌は氣の毒さうに言葉を引き取って、醫者の家のありかを説明した。
『おましたかて、――先きへ行てから呼んだかてえゝやないか?』松さんは叱り付けるやうに促した。
 他の乗客等が憎々しさうに松さんの顏を見たり、冷笑《れいせう》するやうに定さんの樣子を熟観したりして出て行く跡から、定さんは重苦しいからだを松さんと長さんとの肩にもたせかけた。そして改札口を出てから、餅菓子屋の角《かど》を曲り、氷屋と食道楽との向ひ合った電燈が明るい道を殆ど夢中で歩いて、相生樓に突き當ると、
『あ、何でもこゝや』と安心しかけた。が、なほ左の方へ引ツ張られて、その隣りの門へ這入った。
『お出でやす』と云ふ男や女の揃って出したのが見える聲が、定さんにはどこかの遠い一斉射撃の音のやうに聽えた。そして背の低い樽男《たるをとこ》が眞ツさきにわざとらしく大股に足をあげて、式臺をあがって行くのが、定さんの目に朦朧と映った。その時、渠は長さんと繁さんとに助けられてあがって行った。
 にこ/\して出て来た女中に松さんは先づ聲をかけた。
『おい、お菊、また來たで。』
『ようお出《い》でやす!』お菊と呼ばれたのが笑って、わざと大きな聲を出した。町顏見たら、来たのんは分ってまツさ――なア、旦那』と、かの女《ちよ》は長さんにとも繁さんにとも付かず念を押した。
『何をぬかす』と云って、松さんは女の首に取りすがった。
『いやア』と大きく叫んで、女は渠の手をふりもぎって身をかはした。
そして渠がまたさし延べた手をぺたりとうち拂って、にらみ付けながら、
『いたづらツ兒! やんちゃはん!』
 媚《なまめ》かしい東京語や大阪言葉と奇麗《きれい》な姿とに、定さんは姉のことを思ひ出した。そして自分の、あの姉でも、男に冗談《じゃうだん》を云はれると、こんな眞似をするのであらう。自分の隱してゐる慾望も、して見ると、遠慮には及ばない。かまうものかと、目の光までが俄かに明るくなった。
『おい、ぼんち、大事《だじ》ないか?』松さんがふり向いたので、
『大事《だじ》ない』と笑って見せた。
『ちツとア勢ひようなったやうや、なア  おい、繁はん、大《おほ》いに飮まう。』
『飮まいでかい、な?』
『あんたもしツかりしなはれ。』長さんの肩をぐいと引ツ張って、
『玉突に勝つたんやないか? 今となっては、ぼんちがいや云ふても、
わたい等《ら》が承知しまへん。なア、繁はん。』
『もツとも、もツとも!』
『どうや、ぼんち、そやないか?』
『――』定さんはただ苦笑《にがわら》ひをしてゐる。
『大事《だじ》ない云ふたやないか? ぼんち』と、跡戻りをして來て、相手の肩をぽんと叩いた『しツかりしなはれ! わたいは酔うてるやうでも、酔うてやへん。これからまだ一飲みまツせ。』
『――』
『返事しなはれ――えゝか?』
『よろしゆおます。わたいも飲みます。』
『面《おも》んろい、面《おも》んろい!』松さんはまた皆のさきへ立って、わざと大股に歩いた。
 長さんも繁さんも、元氣つくと同時に、定さんから手を放してしまつたので、定さんは獨りで元氣《げんき》をふり起し、苦しまぎれににやにや笑って見せながら、皆の跡から廊下を進んだ。
 が、お菊は渠だけが樣子が違ってゐるのを見て、踏みとどまり、
『あんたはん、どないしなはった――そないに青い顏して?』
 定さんは何か云って人並みの相手《あひて》にならうと思ったが、矢ツ張り苦笑の間にただにやくしてゐる外《ほか》なかった。
『こいつは、なア』と、松さんが跡戻りして來て、『電車の柱であたまを打《う》ちやはったんや。』
『まア、あぶのおました、なア。』
『けど、案じたことやおまへんやうや』と長さんもふり返って、淨付《うはつ》いた調子だ。
『大事《だじ》おまへんか?』
『――』定さんは、うんと首をたてに振ったが、その首を振っただけでからだがふら/\した。
『先生《せんせ》呼んで來《き》まひようか?』
『そないなことせんかて』と、松さんはまた先きに立ちながら、『藝子《げいこ》はんが來たら、ようなりまツさ。』
『大事《だじ》ないのんなら、よろしゆおますけど、なア。』かう心配さうに云ひながら、女は定さんの脊中《せなか》に手を持って行って、渠の羽織の退《の》け衣紋《えもん》になって、而も左りの肩からはつれさうになってゐるのを直して昊れた。
 その時、定さんの鼻に、後ろの方から、女のしみ渡るやうなにほひがした。鬢附《びんつ》けのにほひもまじってゐるやうだから、あたまに結った髮のにほひだらうとは思へたが、それを渠には女その物の慣《な》れ慣《な》れしさと離れて考へることが出来なくなった。



眞ン中を大きな 菱形に張った天井の電燈の下へ來た時、定さんは直ぐころりと横になって、兩手であたまを押さへてゐた。
『しツかりしなはれ、ぼんち』と、定さんの上に馬乘りになって、両手で肩のところを押し付けた。
『痛い、痛い!』定さんはあたまから手を放して、その両手で疊に力を持たせながら、からだをひねって、上の重みから免れようと藻《も》がいた。
『弱い奴ちや、なア。』松さんは立ちあがった。そして他の二人の方に行った。二人は温泉道の松並木が風に少しゆられてゐるのが見える手摺《てす》りのそばにあぐらをかき、全く肌ぬぎになって、巻煙草に火をつけたり、扇子《せんす》を使ったりしてゐた。で、これも亦直肌《ちかはだ》ぬぎのあぐらになって、
『どうやろ、なア、ぼんちがあんまり悪いやうなら、ぼんちだけ、どこぞ靜かなとこへ寢《ね》さして置こか?』
『それもよろしゅおまん、なア。』繁さんはかう答へて、開らいた扇子をばた/\使った。
『けど、なア、まア、醫者に見てもろたらどうや――どもなってをらなんだらええが――』長さんは定さんの方を見て、早くさうせいと促す様子をした。
『そや/\、見てもろて行《い》かなんだら、ぼんちだけに嚢子はん見せたげへんのや。』かう云ひながら、松さんはまた定さんのそばへやって來た。
 定さんは聽かない振りをして聴いてゐたのだが、三人が三人ともなぜ自分をかう退《の》け物にしょうとするのか分らなかった。
 ここへ梅田《うめだ》から電話をかけた料金も、定さんの財布から出した。往復の電車賃も同じ財布からだ。それだのに、あたまが碎《くだ》けたかも知れないほどの目に會つた渠をそばに置いて、車中ででも渠等ばかり面白さうにさわいでみて、渠の苦しみを少しも思ひやって呉れる様子は見えなかつた。そしてここへ來ると、直ぐ、松さんを初め、おのれ等《ら》が身《み》つから出し合って散財するかの樣に幅を利《き》かせて、『藝子を見せたらん』とは何のことだ? 渠等は渠の金でおごって貰ふのだが、おごり主《ぬし》が不意の怪我《けが》をしたのを幸ひにして、その分《ぶん》迄も渠等だけで占領してしまはうとするのかとも、定さんは考へて見た。
『氣の小《ち》さい奴《やつ》等や、なアーーわたいかて、部屋住《へやず》みかて、大《おほ》けえあきんどの息子や。一旦《たん》はつむ云ふたら、ちツとのことは惜しみやへん。その代《かは》りわたいも一緒に仲間入りさして貰ふ。』かう憤慨した心を起したが、渠の分《ぶん》に當る藝者には、仲間の年順から云ってもきツと一番若いのが來るのにきまってゐる。と、渠はふいとほほえみの目を明けた。そして松さんがそばに坐ってこちらをにこ一見てゐるのに出會《でくわ》した。
 松さんは、定さんの様子を、痛いのを胡麻化《ごまくわ》して苦笑してゐるものと見た。
『こら、ぼんち』と、定さんの手を押しのけるやうにしてあたまを無雑作に撫でてやりながら、『どうや、痛いか?』
『――』定さんは、かう亂暴《らんばう》に取り扱はれても、そばに來て貰ふのを寧ろなつかしいやうな氣がして目に涙を湛《たゝ》へたが、返事にかぶりを振った切りだ。
『醫者を呼ばんかてええか?』
『――』矢ツ張り無言でうなついた。
『ほたら、置きまひよ。』松さんはこちらを見つめてゐた長さん等《ら》の方へ顏を向けて、その方が餘ほど面倒でないと云ふ風をした。
『ええかいな、見て貰《もら》はんかて』と、長さんが心配さうに立って來た。
『本人がええ云ふたら、ええやないか?』
『けど、なア、悪いやうなことやしたら、行《い》かんよって』と云ひながら、長さんも坐わって、定さんの額に手を置いて見たり、また、來ようとする藝者に關する想像が血管にまわって脈搏《みゃくはく》を強く打ってゐる、定さんの手頚《てくび》の胝を取って見たりした。
 定さんは却ってそれをうるさくまたわざとらしく感じた。そして松さんよりも長さん等の方がそんなことをして、わざとにも仲間を外《はつ》させようと強《し》いるのではないかと云ふまわり氣を持つた。
『痛《いと》おまツか、ぼんち』と、繁さんが椽端《えんぱな》から聲をかけたのには返事をしなかった。
 そこへお菊が茶を運《はこ》んで來た。先づ三人集ってるところへそれを分配
してから、繁さんの方へ持って行ったが、それから定さんが横にまるまってゐる背中のところに坐った。定さんのいら一してゐる神経には、やアわりと香ばしい風が當つたやうで、渠はおのつからからだが縮みあがった。
『悪《わる》おまん、なア、痛うては。』
『痛うない云ふてまツさ。』
『けど、なアー』
『痛《いと》うないことはないやうやけど』と、長さんは定さんのどこを見るともなく明けてゐる目を見詰めながら、醫者よりや藝子はん見たいのんやろかい?』
『そやない!』定さんは顏を赤らめて、淡泊《たんぽく》さうに、抗議した。そして
長さん等の方から寝返りしたとたん、今度はお菊と顏を向き合せたので、
急いで目をつぶって、あたまへまわしてゐた両手の肱で顏を蔽《おほ》つた。
『藝子はん見せたら、直りまツさ』と、松さんはわけもなく云って、椽《えん》の方へ離れて行ったのを、定さんは目で追って、呼ぶなら早く呼べと命令したかった。
 そして、
『どもないか、ほんまに』と、長さんがまだ心配さうに脊中《せなか》へ手をかけてゐたのをも、早く離れて呉れればいいと思った。どうせ若し病人として世話をして貰ふなら、渠等のやうな毒性《どくしゃう》のものでなく、この『ねえはん』にして貰ふ。さうしたら、藝子などは來なくてもいいのだが『ぼんち』と、手を肩に置いてお菊に呼ばれたのが、誰れにさう呼ばれたのよりも胸に滲《し》みた。『どうだす、先生《せんせ》呼んで來まひよか?』
『もう、ええ云ふてたら、ええやないか』と、松さんは叱るやうな聲だ。
そして團勗《うちは》を大きくあふぎながら、『早う酒を持て、酒を持て。』
『は、はアーー3殿の仰せに從ひまして』と、お菊はわざと畏《かしこ》まった様子をした。
『芝居だツか』と眞顏で云ひながら、別な女中が浴衣を持って來た。
『兎も角も、皆はん、お着かへやしたらどうだす』と、お菊が注意したので、椽がはのものが先づそのつもりになった。
『あんた、着かへまツか』と、長さんが定さんに云った。
『ほんまに、大事《だいじ》おまへんか?』また、お菊が聴いた。
『うん。』かう、定さんは答へなければならないやうな氣がしてしまった。が、その實、お菊と云はれるこの女だけになったら、醫者を呼んで貰ふやうに頼むつもりであったのである。
 さうもしたいが、また藝子《げいこ》も見たい。
『かまへん、かまへん、成るやうに成れ』と、私かに決心して、定さんも起きあがった。そして、長さんの後ろで、帶を解き初めた。おのづからしがんで行くその顏をお菊に見られないやうにして、横向きでかの女《ちよ》に衣物を脱がせて貰ひながら、『長はんも、繁はんも、羽織も着ず、見《み》ツとむない風をして來た、なア』と考へた。



 定さんはこの料理屋の浴衣に着かへるのが珍らしさ、嬉しさに、元氣をふり起した。そして皆が『藝子、藝子』ばかり云ってるさもしさに、自分ばかりはさうでないそと云ふことを見せて、さツき恥かしかった時の意趣返しでもしてやるつもりで、新温泉へ這入って來ようと云ひ出した。
『偉《えら》さうなこと云《い》やはる。』松さんはかう一言のもとにはね付けて、煙
草盆のそばに浴衣に改まったあぐらをかいた。
『およしゃす。新温泉など、當り前のお湯やおまへんか?』
『それにせい、いつでもまた行けまツさ。』かう云って、長さんや繁さんも進まないで、ただ立ってゐた。
 それではやめようと、直ぐ素直には云へなかった、何となく、自分の位《くらみ》をおとすやうな氣がして。で、少しむツとして、鐵色モスリンの帶をしめながら、
『ほたら、わたい濁り行《い》て來まひよ。』
『ぼんち』と、松さんは一層強く出て、『なんで、そないな無理云ひなはんのや? あんたが行たら、皆ついて行かんならん。そないな世話やかさんかてええやないか?』
『うちのお湯にしときなはれ』と、お菊も口を出した。そして笑ひながら、『うちのんも新温泉だツせ。』
『ほたら、置きまひよ。』かう云って、松さんの方をじツと見た、あたまのづきん一痛むのを辛抱《しんぼう》して、それでも、渠の云ひ分《ぶん》には、定さんも腑を落ちつけた。
 そして皆でざツと一あびしてから、膳に向つた。暑いからとて、皆わざと椽へ並んだ。松並木に最も近い隅の柱を境にして、その右の板の間に長さんから松さん、左のに繁さんから定さんだ。定さんの方の列は、丁度、誰れかの山水の三幅對を懸けて、大きな松の植木鉢をあしらった床の間に、疊をへだてて、さし向ってゐた。
『今晩は』と、入り口の襖《ふすま》の明きがら手をついたものは、誰れも誰れも、まどゐの遠いのに驚いた。裾を曳きながら、
『とうない遠方だす、なア』と云って來たものもあれば、
『威があって、なか一あんた方のねきへは寄れまへん』と、わざと坐敷の眞ン中につツ立ってゐたものもあった。定さんには、それが面白いことを云ふものだと思へた。來た中で、勘七と云って、薄藍の濃淡で龜甲形《きつかふがた》の出た紋壁透綾《もんかべすぎや》を着たのが、最も年若らしかったが、それが松さんのそばへ坐わって、渠にばかりべちゃくしやべくり出した。そして、
『旦那、こないだのお方《かた》どないしやはりました』とか、『裸か踊り、おもしろおました、なア』とか云った。
『おれも一つ今晩踊ったるぞ。』松さんは直肌《ちかはだ》の腕で腕まくりをする員
似をして、元気を附けてゐた。
『あんたはよう知ってなはる仲だツか?』かう、繁さんが聽いたのに答へて、
『そやとも、なア』と、松さんは勘七を兩手で引き寄せて、『なか/\わけのある仲《なか》やもん、なア。』
『よろしゅおました、なア』と、かの女《ちよ》は押さへられた肩をすくめて身をのがれ、笑ひながら、くつれた膝を整へ、元の通りに坐わり直した。
『わたい等《ら》もそないなりとおまん、なア』と云って、長さんはさがった目じりで自分のそばの藝者を見た。
『合《あ》ふたり、叶《かの》たりだツか?』それが氣まつい顏をしながらも答へた。
そして定さんにさへ珍《ちん》ころめいたと見える目鼻を動かして、『わたい〆子《しめこ》と云ひます、どうぞよろしう。』
『今から、もう、妥協《だけふ》しやはるんや困りまん、なア。』かう云って繁さんも話の相手を求めた。すると、渠のそばにるたのがまた涼しい聲で、
『旦那、妥協《だけふ》やおまへん、ラッキョウだツせ。』
『こりや、やられた。』繁さんは箸で摘んでロへ持って行きがけた薤《らっきやう》のやうな物を宙《ちう》にまごつかせた。
 松さんは相變らず勘七ばかりを相手にして、悪口を云ひ合ったり、叩き合ったりしてゐた。
 定さんのそばには、初めに坐わり後れた婆々《ばゞ》ア藝者で、顏も皺くちゃな『愛助ねえちゃん』と呼ばれるのが來てゐた。渠が何の洒落《しゃれ》も云へない上に、手をあたまへ持って行ったり、目をぱちくりさせたり、顏をしがめたりしてゐるので、かの女《ちよ》も渠にとツ付くすべがなく、ただ渠の猪口が一二度明いた時、その跡へお酌をしただけで、他のもの等の話に調子を合はせてゐた。
 渠はその藝者のふけた顏と、一番遠い場所にみる松さんのそばの子《こ》の膝に透いて見える桃色とを時々見比べながら、何だか勝手が違ふやうに思はれた。
『年から云ふたかて、松さんがあの子を取るわけがない――また、誰れを取ると云ふことかて、錢《ぜに》を出すわたいが決《き》めたらええやろ』と、私か
に不甼を起した。
 然し定さんの目的の勘七は、『わしが國さ』と今一つ渠の分《わか》らない物とを踊ってから、他のお坐敷へ貰はれて行った。それを渠は鳥渡《ちよつと》行ったので、また来るのだらうとも思ったが、出て行った時の挨拶振りでは、もう來ないのだらうかと失望し初めた。然し、あからさまにそれを誰れに尋ねて見ようと云ふ氣は、出《だ》さうと思っても出せなかった。
 折角張り詰めてゐた精神がその場にゆるんで来て、またあたまの痛みを盛り返し、それへ堪へられなくなった。そして醉つた振りをして立ちあがった。
『どこへ行きなはる、ぼんち?』松さんは皆と同時に定さんの方を見て、かう詰問した。
『どこへも行《い》きやへん』と答へて、床《とこ》の間の前へ行って、床に横たへた紫檀の散木《しきぎ》を枕にした。
                
 渠が『思ひ切って歸つたろかい』と激《げき》したのはこの時だ。

       八

『あんたはん、弱《よ》をおまん、なア』と云って、例の愛助が落ち付いた聲でくくり枕を持って來て呉れたが、それも直ぐ皆の方へ行ってしまった。そして、三味を鳴らして、
『さア、お歌ひやし、な』と云ってゐる。それに付いて、松さんが都々一を二つ三つ續けて歌った。すると、繁さんが二上りだと云って、『隅田《すみだ》のほとりに』とか、何とか云ふのをやった。
『ほたら、わたいもやりまひよか』と云って、長さんも何かやった。
 松さんがまたやり出した時、一方では繁さんとそのそばの藝者とが何とか云ふ拳《けん》を初めた。そして繁さんが二三度負けた。
『おい、京八、おれと來い、おれと。』松さんががさつな調子でちよいは、とん一などやってゐたが、俄かにやめて、鼻で物を嗅ぐ音をわざとらしく大きくさせて、『臭い、なア、何ぢや? ヨードホルムのかざや。あんた、瘡《ひえ》毒だツか?』
『あほらしい』と、京八と云はれたのが涼しい聲で怒ったやうに叫んだ。
『けど、なア、くさいやないか?』
『くさいかて、瘡《ひえ》毒と決ったわけやおまへんがな。』
『あツちやへ行《い》きなはれ。病人は病人の世話なとしなはれ。』
『看護婦だツかいな』と、愛助が口合《くちあ》ひを入れた。
『負けたさかい、そないな毒性《どくしゃう》云ふて――なアねえちゃん』と、京八は笑ひながら立ちあがって、『わたいかて、女子《をなご》一匹、へん、精神《せいしん》がありまツさ』
『えろおまん、なア』と、〆子がその方《はう》を見あげた。
『そないにおこんなはんな』と、松さんは猪口の酒を吸った。
『おこりやへんけど、なア …』
『ノウー、おこるべし、おこるべし』と、愛助がけしをかけた。
『ぼんちはどこぞ悪いのんだツか』と云ひながら、京八は定さんの方に足を運《はこ》んだ。
『うん』と、松さんが答へて、『どたまを電車の柱にぶつけたのんや。』
『ほんまに?』と松さんの方にふり返って、『どたまりこぶしもないし』
『洒落なはんな』と、松さんは云ったが、愛助にも聽かれて、定さんのことを残酷な言葉で説明し初めた。
 定さんは枕の上で、兩手であたまを押さへたまま、賑やかな方に向いてにや/\しながら、目を明けたり、つぶったりしてゐたが、
『なア、ぼんち』と云はれて苦笑の目を明けた時、赤い蹴出しがちらと見えたかと思ふ間もなく、太さうな膝が渠の肱さきに坐《す》わった。繁さんのそばで鈴のやうな聲を以ってラッキョウの洒落を云った女で、この女ばかりが裾も曳かず、廂髪《ひさしがみ》に結って、奥さん然と地味なお召を着てゐるのは、どうしたわけだらうと思はれた。それが皆に聽えるやうに言葉をりづけて、『すり傷にかてヨードは付けまツさ〜きのふ、家族温泉《かぞくをんせん》へ行て、手拭ひで腰んとこをすりむいたのんや。』
『あやしいもんや!!新温泉の家族風呂は、なア』と、松さんが追窮したのに、愛助が調子を合はせて、
『そりや、さま/゛\なすりむき方《かた》もおまツさかい、なア。』
『そや/\!』〆子もそれに贊成した。
『ええ人があんまり奇麗《きれい》にしてやらうとおもたんやろ』と、長さんも口を出した。
『よかった、なア』と、京八はわざと嬉しさうに手を叩いた。
『へ一え』と、入口の外で女中が返事をした。
『違ひまツせ、こツちゃのことやし』と、愛助が向ふへうち治して、こちらでわざとらしくふき出した。
 京八は首をすくめて、定さんににツと笑って見せた。定さんも苦《にが》さうにだが、にツこりした。そして、ぷんと鼻さきへにほって來る藥のにほぴを、却って香水か何ぞのやうにやさしいものと感じて、そのにほひの主《ぬし》となら、この痛みを分けて、 一緒に死んで貰ってもいいと云ふ氣になった。
『痛おまツか』と云って、やわらかい手を肩に置かれた時、渠の姉よりも別嬪と思へた顏を下《した》からじツと見詰めて、涙に目をしょぼっかせながら、それでもかぶりを振《ふ》った。

       九

 外《ほか》からも、二三ケ所三味や歌の聲が聽えてゐる。
 明け放つた廣間へは、さツといい風が這入って來た。
『おう、ええ風や、なア』と云って、京八が定さんのそばを立つた時は、再び皆のものの歌さわぎが初まってゐた。
 渠の好《す》きな子までが淨かれ出して、松さんの踊るかツぼれに合はせて、
『沖の暗いのに、サツサ』などとやってゐる。
 定さんも寂しい氣がまた一しほ引き立って來た。手をあたまから放して起きようとしたが、重い石で押さへられてゐるやうなので、再び枕の上に肱枕《ひぢまくら》をした。
『どないせい、死ぬのんや。死ぬのんなら、うちの者を呼んで叱《しか》られるよか、こツそり思ひ切り楽しんで、跡の勘定だけをうちの者にさせたかてええ。』
 かう考へては見たが、渠をそそる楽しみとは歌でもない。酒を飲みたいのでもない。
 松さん等のさわぎがどこか遠くの方で聽えるやうな氣持ちになって來た時、定さんには電燈で明るいが然しひツそりした小間《こま》で――而も呼べば直ぐ母も姉も來るやうな安全な、然しひツそりした小間《こま》で――好きな女の膝に抱《だ》かれて、自分の死んで行くそのありさまが浮んでみた。
 が、それも暫時のことで、渠が實際の痛みを堪《こら》へる爲めに目を堅くつぶってゐるのをおぼえると、
『おい、ぼんち』と云ふ松さんの聲が最も近くにして、『不景気に何《なん》ぢやい? ちよつとお出なはれ、相談がある。』
 定さんはふら/\するからだを踏みこたへて、松さんについて、廣間の人々の返り見る視線《しせん》の範圍を出た。そして便所への道の廊下に立つた。
『どないするのんや、寝てばツかりるよって?』
『――』青い顏に、ただ口びるのさきをとがらせて顫はせながら、松さんの酔ひの出切つた赤い顏を見詰めた。
『歸る云ふたかて、もう電車がありゃへんで。』
『わたいかて、歸る氣やない』と、不平《ふへい》たツぶりにまた口をとがらせた。
『それで占めたもんや』と云ふ風にほくそ笑みて、松さんは低い聲をつづけた。『ほて、女子《をなご》はどないしょう?』
『さう来てこそ順當や』と心に云はせて、定さんは全く得意《とくい》になった。
そして自分の女を撰べと云ふことだと合點した。でも、特に低い聲をして、云ひにくさうに答へた。
『あの-一さツきに  歸つた子がええ。』
『ひえー』と、松さんはあきれてわざと跡ずさりした。『まだそないなこと聽いてやへん。あの、なア、藝子を往なぞか? じゃこ寢さそか? それとも、來とるのなり、別なのなりを皆で別々に取うか? それを相談するのんや。』
『わたい、知りまへんが、な、そないなこと.』
『ぷツ』と、松さんは堪《こら》え兼て、押へてゐた笑ひを吹き出した。そして廣問の入り口へ行って首を突き出し、『おい、ぼんちゃ勘七さんに惚れてやはる!』
『うそや、うそや!』定さんはわれ知らず入り口から飛び込んだ、その
脊の高いからだをつツ立てた。そして酒の酔ひが加撚って一しほ痛むあたまを両手でかかへながら、胸に溢れる耻しさを眞顏《まがほ》になって胡魔化した。『そないなこと云やへん。』
 愛助は〆子と顏を見合はせて、冷笑し合った。
『まア、きなはれ。』松さんは春,度は定さんの手をぐツと引いて、つれ出した。
『人魚役者は矢張り違ひまん、なア。』定さん等二人に聽えるのを憚らず、〆子がここにるない朋輩を羨むやうにかう云ったのには答へないで、愛助は笑ひながら叫んだ。
『わたいではどうだす、お乳《ちゝ》をたんと飲ませてあげまツせ。』
『は、は』と、繁さんは笑った。
『ちぢ、ははだん、なア』と、
また京八の口合ひだ。そして首《くび》をすくめて、『わたいかて、どうだす?』
『みな、あのぼんちの散財《さんざい》だツか?』愛助は生眞面目になって長さんに聴いた。
『ぼんちが玉突きに負けたおごりや。』
『負けた上に、又散財だツかい、な一ええぼんちやのんに、なア。』
 こんな話が聽えるのをすべて冷かしだと見て、定さんは聽かないふりをしながらも、困ったことを云ってしまったと思った。そして大きな目を見ひらいて、相手をただ見つめてゐた。
『あの子は、なア』と、松さんも眞面目|腐《くさ》って、『わたいの聽いたところでは、毎晩旦那があって、あかんのやさうや。』
『ほたら、もう、ええ』と云ひ切った。そして今の失敗を回復したやうな氣がして、元の場所へ戻り、またどたりと身を横になげた。何だか松さん等が默って勘七を歸したのがうらめしい。かの女《ちよ》が行けなければ、京八をと云ふ下心があって、一刻も早く樂《らく》にこのからだを介抱して貰いたい外《ほか》、何も願ふところがない。が、この場合、何ごとでも云ひ出せばまた失敗《しっぽい》を重ねるかも知れないので、尋常にあたまが痛むから早く死の床へ入れて臭れいとさへ口に出せなくなった。そしてぶり返して來たやうに痛む痛みを堪《こら》へる薦めに、床の間の方へ寝返りして、胸の中では獨りあせって、
『やけ糞や、このままここで死んだれ』と云ふ無言の叫びをあげた。

一〇

『ほたら、もう、歸りまひよか?』長さんは先づ興ざめた聲を出した。
定さんが御機嫌《ごきげん》を失ったと見たやうすだ。
『電車がおまツかいな?』繁さんは進まなささうだ。
『もう、大阪《おさか》へはおまへんが、な』かう云って、愛助は落ち付きを失って來たのを隠して、細い銀煙管で煙草の火をつけてゐる。
『何のこツちやい、わたいにはわけが分《わか》らん。』松さんも皆の不興《ふきやう》に釣り込まれて、『ぼんちも男やないか、一旦はつむ云ふたら――』
『はつんでるやないか』と、定さんは後ろ向きのまま口をとがらかせた聲でこぼした。『けど、わたいは大怪我《おほけが》をしたのんや。』
『怪我したもんが、勘七でもないやないか? ぼんちはわが勝手ばかり云ふて、1-來《き》やへんもんは無理やないか?』
『無理やない』と云って、こちらへ勢ひよく向き直り、『ほたら、松さんに怪我人《けがにん》の世話がでけまツか?』
『わたい、看護婦やおまへん。』
 男も女も一度期《どき》にわツと笑った。定さんはまた反對に寝返りして、
『笑ひたい人はもツと笑ひなはれ!』
『ほたら』と、松さんは定さんの機嫌《きげん》を取るやうに優しくなった。
『どないしょ云ふのんや?』
『あんた等《ら》は勝手にしなはれ、わたい醫者を呼んで貰ひまひよ。』
『醫者!』松さんは今更らのやうに驚いたが、他の友人に氣の進まない
相談をかけた。『ほたら、醫者を呼んでもろて、――わたい等は皆でじゃこ寢しまひよか?』
『さア』と、長さんが確答しかねたのを見て、
『なんの、お錢《あし》の心配は入りやへん――どツちや道《みち》、ぼんちの持ちにしまツさ。』
『それもよろしゅおまツしやろが、なア』と、繁さんもどツち付《つ》かずの様子だ。
『君も、お錢《あし》の心配は入りやへんで。』
『けど、なア』と、長さんがそれを受けて、『ぼんちの工合が分《わか》らんと――?』
『そやさかい、醫者を呼んで貰う云ふてるやないか?』
『呼んで見てから、また相談したらどうや?』長さんはなほ心がもち付いてゐた。
『ほたら、この人達に済まんやないか?』かう云って松さんは藝者の方を返り見て、『あんた等《ら》の都合はどうや、な? たとへ十二時過ぎてからの線香代は、わたい等で受け持つことになっても、あんた等には割前はかけまへんで。』
『どうも恐れ入ります』と、愛助は松さんの冗談を受け流して、他の子どもの顏を見た。そして暫く目話しをしてゐたが、誰もどうと口に出すものがなかったので、かの女《ちよ》がまた代表者のやうになって答へた。『さしっかへない子だけは、なア。』
『そりや、さしつかへたら仕やうがおまへん1京八さんはどうや?』
『さアー1』
『さア』と、松さんもかの女《ちよ》の返事を眞似《まね》して、興ざめた座をつくろひながら、『〆子はんはどうや?』
『さア――』
『こりや、あかん。』松さんはてれ隠しにあたまを抱《かゝ》へた。すると、愛助が、
『ぼんちの眞似《まね》だツか?』
 男達はそれにつれて煮え切れない笑ひを擧げた。
 そこへお菊が出て來て、京八を貰って行くことになった。かの女《ちよ》は丁度よかったと云ふ風で身がまへを初め、他の皆に挨拶してから、定さんの脊中のところで腰を下げ、渠の顏をのぞくやうにして、
『ぼんち、さいなら。』
『――』
『さいなら  おこツてやはるのんや。』
『おこツてやへん、みてて欲《ほ》しいのんや』と答へたかったのだが、定さんは言葉に出しかねた。そしてこのまま死んだら、あれにもこれにも、
二度と再び逢ふことが出來ないのに  『をつて呉れたらええのんに、なア』と云ふ訴へが私かに胸一杯になった。
『今夜《こんや》死ぬ。きツと死ぬ。せめて死ぬまでみてて呉れ!』かう喉もとまでは來ても、聲に出せなかった。そして自分のからだが獨りぽツちの寂しい闇に壓拝せられて、その結果としての如く、目から自然に、とめ度《ど》なく、涙がほど走った。
 そして、心の奥まで浸み込んだヨードのにほひと涼しい聲の足音とを追って耳をこツそりそば立てながら、自分の家は何でも不自由のない大商人だと云ふことが、この場合、女どもに認められてみないのを絶望的に殘念がつた。
 松さん等が話して呉れたらいいではないか? 一言《こと》耳うちして英れた
らいいではないか? 金はいくらでも貰ってやるから、一晩だけとまれ。
一晩でこの男は死ぬのだから、と。
 思ひやりのない友人逹だ、なアー自分に容易く女を與へてやると約束
したのは初めからうそで、ただそんなことを出《だ》しにして、おのれ等の勝
手な飲み喰ひをしょうが爲めに、自分を怪我させてまでここまで引ッ張って來たのだらうと云ふ恨みと失望《しつぼう》とが、心のうちで段々太いあたまをもち上げて來た。
 同時に、またかう云う疑ひが起つた-一藝子と云ふ者は、皆の云ふ通り、慾でその身を賣るのではないか? 今晩に限り、さうした樣子が見えないのは、松さん等のやうな風體《ふうてい》の悪い人間と一緒に來たのでか知らん?
『何にせい、賑はしい夢のやうに一緒に來《き》とつたかて、順々に影のやうに消えて行くのんや――それも、美くしい方から』と考へると、もう默ってばかりゐられなくなった。
『さいなら』と、また例の涼しい聲が遠くの方で響くのが聽えた。すると、定さんの目の前には、はツきりと、先刻這入って來た時の、この家の門前門内の様子が見えた。さツさと歸って行く奥さん風の藝子一庭掃除や下駄番の男衆――多くの女中──その中から、最もいいにほひのしたお菊-最初に歸ってしまった薄桃色の嚢子-i赤い色ーヨード
ホルム  『さいなら、おこツてやはるのんや。』
 かう云ふ影《かげ》や言葉などが、その瞬間に一度期《どき》に定さんを襲って、渠の神経を高ぶらせた。渠の全身には、あたまの痛みと同志打ちをする、何だか知れない強い力が遠慮なく勃興《ぼっこう》した。そして、耻かしみの薄らいだ脇腹《わきばら》の間から、
『どないな女子《をなご》でもええ』と云ふ聲が出た。この時、愛助がわざとさり
け氣ないふりをして、
『もう、十二時だツせ一わたい等はどないしまひよ?』
『そや、なア』と、松さんが受けて、『どうや、ぼんち?』
『――』定さんは、それでも、暫く返事が出來なかった。が、これを最後に藝子どもがみな歸ってしまうのでは困る。胸がただどぎまぎした。渠はあたまから手を離し、思ひ切って皆の方へ寢返りした。そして、松さんが疊の上で愛助のそばにあぐらをかいて、こちらを見てゐるのに尋ねた、『じゃこ寢たら、何《なん》だす?』
『わツ、はツ、は』と、繁さんと長さんとは椽《えん》がはでまだ膳に向ってみ
ながら、一度に笑った。二人とも箸を持つたままで、こちらを見てゐた。
『何がをかしい――いやしい奴《やつ》ちや、なア』と、定さんは心で云ったが、おもてにはただいやな顏をした。
『あの、なア』と、松さんはほほゑみながら、小學校の先生を思ひ出させるやうな口調で、『皆と、なア、藝子はんも一緒に並んで寢るのんや、――但し、なア、手も足も出す、、へからずだツせ。』
『結《ゆ》はへときまほかい、なア。』愛助が無駄な口を出したのにつれて、
〆子も亦笑ぴながら、
『わたい等の方が結はへられたら往生や、なア。』
『そないな詰らんこと置きまひよ!』
『は、は、は、は』と、他の皆が揃って笑ひを擧げた。

一一

 定さんは皆が自分を馬鹿にしてゐるのだと見て、ぶり/\怒った。そしてそれを反省して見る餘裕もないほど、あたまの痛みが辛抱し切れなくなって来た。想像にせよ、うその影にせよ、それが目の前にちらついて、隱れた慾望をそそって呉れる間は、何となく痛みのもたせ柱《ばしら》があるやうであったが、その柱も亦渠のあたまにぶつかった柱であったのが溜らなく殘念だ。
『二重《ぢゆう》の衝突!』かう云ふ考へに思ひ及んだ時、定さんの女に對する情が全くあたまの痛みに變って、腹のどん底まで通《とほ》って、からだ中《ぢう》を煮えくり返す。そして、一坐が互ひに興ざめて默ってゐる廣間を、あたまをしツかり両手で抱《だ》いたまま、ころげ廻って泣き叫んだ。
『醫者を呼んで呉れ! 醫者を呼んで呉れ!』
 松さん等は渠を少しでも落ち付かせようと努めて、酒の醉ひは金くそこ退《の》けになってしまった。
 藝者どもはまた魂消《たまげ》てしまって、皆そこ/\に引きさがった。
 碁を打ちに行ってまだ歸らないと云ふ醫者を探し當てて、店のものが連れて來た。そしてそれに病人の云ふ通りあたまのいやに張ればツたい容態を云って、よく診察して貰ふと、
『もう、手後れやさかい』と獨り言のやうに云って、顏を青ざめて、病人の寝かされてゐる小部屋を出て行った。
 それでも、皆は醫者が何か取りに行ったのだらうと思った。で、定さんのまわりを取りまいてゐる友人や、店のかみさんや、お菊、その他の女中は、心配の餘り、別に言葉を出さないでるた。
『うん、うん』とばかり、定さんは呻《うな》ってゐる。
 やがて醫者が手に持って来たコップの物を定さんに飲ませた。が、定さんは半分ばかり飲んでからそれをつツ返し、苦しさうな聲で、
『水は  入らんーー藥を』と云った。
 醫者はこの言葉を聽いてをののき顫へた。が、それをまぎらせる爲めに、そのしがめ顏に苦い笑を帯びて、かみさんを見あげた。かみさんは、膝を突いてのしあがりながら、そこで窺《のぞ》いてゐたのである。かの女《ちよ》の心配さうな顏と渠の苦笑とがぶつかった時、渠は別に手當ての仕やうがないと辯解する口調で訴へた。
『あたまの鉢が碎けて、病人の云ふ通り、腦味噌が外に出《で》てるやうやさかい、なアー』
『えツ!』かみさんは、腰をぬかしたやうにべったりと坐わって、今更らの如く醫者の顏を見詰めた。
『矢張りそれか、なア』と、定さんには自分の想像してゐるところが事實らしくなった。そしてしツかり目をつぶったまま、初めて實際に自分を危篤だと考へた。そして、また、玉突のたツた三十點がいのち取りのゲームであったかも知れないことばかりを悔みに悔まないわけに行かなかった。『でも、人にただの水など飲ませて一こないなへぼ醫者の云ふことなどまだ分《わか》りやへん』と云ふ心頼みもあった。そして、
『よう、まア、その間辛抱でけた、なア』と、醫者がてれ隠しに感心して見せたのが幽かに聽えた。すると、お菊の聲もした、
『きついぼんちや、なア。』
『わたいかて、男や』と、定さんは訴へかけても口には出なかった。涙はほろ/\と枕の上にこぼれた。そして、それを隠す力もなく、  今しがたまでのあまい夢の、赤い色や親しいにほひの名殘りを思ひ浮べて見た。
『ぽんち』と、松さんが呼びかけて、『しツかりしてなはれや、大阪《おさか》へ電信も引いたんやし、ええ醫者もおこすやうに云ふたさかい、なア。』
 かう力づけられた時には、もう土地《とち》の無方針な醫者もゐなかった。多くの女中もゐなかった。そしてそこにゐるかみさんや友人等の顏も見えないほど、定さんは『死にとむない』ばかりの痛みと後悔とにもだえて、おのれの愚かであったことを責めた。
『馬鹿だ、なア』と電車の隅から、あの時聽えた東京辯が憎いほど思ひ出された。誰れに向っても助けを呼ぶことさへ、もう、手後れになったと云ふやうな心細さに押し詰まった。
 そして、はたからなだめ賺《すか》すものがあるのをかまはないで、ただ、頻りに、
  『早う、姉《ねえ》さんllおかアはん一お父《とつ》さん』とばかり待ち受けてゐた。
                      (明治四十五年七月)

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