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永井荷風「牡丹の客」


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 小れんと云ふ芸者と二人連、ふいとした其の場の機会で・本所の牡丹を見にと両国の橋だもとから早船《はやふね》に乗つた。
 五月も末だから牡丹はもう散つたかも知れない。実は昨日の晩、芝居で図らず出会つたま撫地の待合へ泊つて、今朝は早く帰るつもりの処を、雨に止められたなり、其の霽れるのをば昼過ぎまで待つてゐたのだ。一日小座敷に閉籠《とちこも》つていたゴけに、往来へ出ると覚えず胸が開けて、人家の問を河から吹き込む夕風が、何とも云へぬほど爽に酔後の面を吹くのに、二人とも自然と通りか」る柳橋の欄干にもたれた。
 雨霽《あまあが》りの故《せゐ》でもあるか、日は今日から突然永くなり出したやうに思はれた。丁度寺院の天井に渦巻く狩野派《かのうは》の雲を見るやうな雨後の村雲が空一面|幾重《いくへ》にも層をなして動いて居る。其の間々に光沢《つや》のある濃い青空の色と、次第に薄れて行く夕炎《ゆふばえ》の輝きが際立つて美しい。神田川を真直に上汐の濃い緑色の水の面は、遠い明神の森に沈んだ夕陽《ゆふひ》を受けて、今だに磨いた硝子板のやうに光つてゐたが、荷船や小舟の輻湊する川口から、正面に開ける大河《おほかは》の面は眺望《ながめ》の遠いだけに夕暮の水は猶更きらきらと目を射る。角度の正しい石垣の両側に痩せた柳の繁りが絶えず風にゆられて居ながら、如何にも懶《ものう》く静に見える。岸に近い芸者屋の稽古三味線も今は途絶えた。あたりは一刻一刻、雲の動くにつれて夕方ながらに却つて明くなり往来《ゆきき》の人の顔や衣服《きもの》の縞がはつきり見えるばかりか、雨に塵を洗はれた後の町全体が如何にも清らかに落ち付いて心持よく見える。湯帰りの女が化粧道具を手にして行交《ゆきちが》ひざまに話して行く。其の襟筋が驚くほど白く浮き上つてゐる。早くも蝙蝠の飛出したのを子供が素早く見付けて追掛けて居る。近くに絶えざる電車の響。遠くに汽船の笛の音《ね》が長く尾を引いて消えたが、すると川ロへ大きな屋根を突出した亀清《かめせい》の二階で幾梃の三絃が一度に調子を合して響き出した。雨に濡れたま丶まだ乾かない柳光亭の板塀の外には蹴込に紅い毛皮を敷いた漆塗の新しい人力車が二台ばかり置いてあつた。裾模様の褄《つま》を取つた芸者|一人《ひとり》と、目覚るばかりな友禅染の振袖を着た半玉が、足早に柳の垂れた門ロ《かどぐち》へ這入つて行く。其れをば通りがゝりのものが珍らしさうに振返つて見て居た。
「行きませう」
 小れんが云ふので自分は大通を両国の方へ歩き出した。
「すぐ家《うち》へ帰るかい。車をさう云はうか。」
 小れんは軽く首を振つたまゝずん♂\歩いて行く。
 自分は大通から大川の方へ広《ひろが》る夕方の空を仰げるだけ広く仰いだ。橋の手前は近所の飲食店から物煮る匂の立迷ふ中を、電車の行交《ゆきか》ひ、其を待つ人、橋を渡る荷車なぞで非常に混雑して居る。ふいと其の瞬間、自分は女をつれて待合から出て来た自分と此のやうに休まず活動して居る世間との問には、全く交通しない隔離《へだて》があつて、自分と世間とは別々の運命に支配されて別々の方向に動いて行くやうな心持を深く感じた。いつも日の暮れに感ずる心の沈静《しづまり》が重な原因であらうけれど、訳もなく力抜けがして心が落付いてしまつて、其れで何処にか言ひ得ない幽愁が蟠《わだかま》つて居る。別にわかれを惜しむと云ふでもない。一日の遊蕩を悔悟するでもない。水の流に感動するでもない。唯だ、都会といふものが、都会に生れた人にのみ与へる人工の歓楽を自分は今日まで覧尽した。其の夢のさま/゛\を一時《ひととき》に思返すやうな気がしたのだ・.・
「あぶないよ。」
 手を引いてやつて電車の線路を横切つたが、すると小れんが河端に立てた画札《ゑふだ》の文字を、
「早船、四ッ目の牡丹……大人四銭《おとなよんせん》。」と読んだ。
「行つて見やうか。」
 女はいつもにない若々しい元気な声を出して、
「え玉行きませう。まだ私一度も行つた事がないのよ。」
 自分等二人は其れなり石垣へ掛けた板の歩みを渡り、古い伝馬船《てんません》を伝《つたは》つて、薄べりを敷いた荷足舟《にたりぶね》へ乗つたのである。
 着古したメリヤスのシヤッの上に十文字に腹掛を締めた二十二一二の若い船頭が並んで繋いだ隣りの空船《あきぶね》の船頭と話をして居たが、自分達の乗つたのに元気を得て、背を円くして蹲踞《しやが》んで居たのを急に立上つて、まだ片手には吸ひかけの煙管《きせる》を持つたまゝ、
「さア出ますよ、本所の牡丹行、出ますよ、出ますよ。Lと大声で往来の人を呼びかけた。
 船の中から見上げると岸の石垣が高いので往来《ゆきき》の人の足ばかりしか見えない。自分は此分で待たせられたら折角向うへ付く時分には日が暮れてしまふだらうと思つたので、二人買切りにするからと云出すと船頭はすぐに艪を水に入れたばかりか、
「旦那、いゝ気候《やうき》になりました。」と云つて薄べりの上へ煙草盆まで持ち出してくれた。
 丁度夕潮の満渡る頃、河の流はゆるやかに小舟は船頭が若い腕の力で前後に艪を押す其の力につれて軽く揺れながら進んで行く。子供の時分乳母がよくギコ/\お船はどうこと云つて揺《ゆす》つて呉《くれ》たやうな何となく遠い懐しい、現代を離れた一種の軟い感情が浮んで来る。両国橋には通行の人がいくたりも欄干にもたれて橋下へ箱を浮した様な桟橋へ絶問なく着いては出て行く川蒸汽船、それから上《あが》り下《お》りする人の混雑を眺《ながめ》てゐる。浜町《はまちやう》の方の岸が次第に遠くなるに従ひ向岸の屋根の上に並んでゐる拙い広告の画看板がだんくはつきりと見えて来る。今だに夕日を遮りつつ黒い雲の動いてゐる大空は川下の方へと低く被ひ冠さつて居るあたり、水の上をば低く這ふやうな新大橋の彼方から製造場《せいざうば》の煤烟《けむり》が渦巻きながら立昇つてゐる。丁度河の中程まで来た時|一目《ひとつめ》へ渡る渡船《わたしぶね》と舷《ふなべり》をすれ合した。渡船には浅黄木綿《あさぎもめん》の大きな四角な包を背負つた商人体《しやうにんてい》の男と袷の胸を腹巻の見える程に引きあけて、帽子も冠らぬ遊人らしい若い好い男が乗つて居た。其の時通り過ぎる蒸汽船の横波で、自分達の早船も、底の平《ひらた》い渡船は猶更に烈しく左右に揺れる。横波は河面《かはづら》を滑つて行つて土塀の中に恐しく若葉の茂つた浜町の石垣から往来までも匐上りさうに白い泡を立てたのが能く見えた。早船は船首《へさき》の尖つた漁船の事で横波でゆられる最中に渡船より先になつて竪川《たてかは》の入口に近付く。川口の突出した空地に小料理屋らしい新しい二階立の家《いへ》が並んでゐて、蒲団を干した欄干に銀杏返《いてふがへし》の女が二人水の流れを見て居た。すると、船頭が突然大声で、
「今日《こんち》は。いゝお天気で。」と叫んだ。
 女は返事をするどころか怖るゝ如く引込《ひつこ》んでしまふ。
「何だい。」と自分がきくと船頭は嘲《あざけ》つた調子で、「旦那、三軒ともみんな淫売屋でさ。いゝところへ巣をくひましたよ。」
 小れんは厭な顔をして自分の膝をつき、「あなた煙草を頂戴。」
 ぐツと一ッカを入れた取梶で舟は石垣の下を廻つて掘割へ這入つたが、すぐに一ノ橋と木札を打つた橋をく碁。狭からぬ掘割には水のつご限りさまぐの荷を積んだ荷船が幾艘となく繋がれて居る。丁度仕事をしまひ終つた処と見えてどの船でも船頭は舷《ふなべり》へしやがんで煙草をふかしながら空を見て居る。川水で汗を拭いて居るのもある。女房は児を背負つたまゝ胴の問に置いた竈に火を焚き飯櫃を洗ひなぞしてゐる。重に石炭殻を焚くので煙の匂が強くあたりに立迷ひ、赤い焔がちらちら川水に映る。小れんは珍しさうに其れを眺めて、
「船の中に寝るんでせうか.、」
「さうさ。」
「おつだわねえ、浮世離れて。」と自分の顔に眼を移した。
「いけないぜ。又思ひ出しちや。出来ないものは仕様がないさ。」
 さう云つたけれど然し自分も妙に悲しかつた。自分は小れんと二人で一時|築地《つきぢ》へ家《うち》を持つた事もある。然し半年ほどで相談の上女は元の芸者になつた。
「あなた、もう一度私と家《うち》を持つて見ない事……いやですか。」
「いやな事はない。だけれども矢張《やは》り駄目だよ。先《せん》見たやうに直き飽きてしまふよ。」
「さうねえ、でも私、芸者して居てもつまらないから。」
「何をしても、もうつまらないんだよ。女房《にようぼ》になつて暮しの苦労なんかしたら猶つまらない。お前が三十僕が三十五六になるまで、もう三四年は矢張若い気で、浮いて暮した方がと云ふので、お前も承知の上で彼処《あすこ》の看板を借りて見たんぢやないか。」
「それアさうですけれど、どうかすると家《うち》を持つてる時より却つてあなたにも御厄介をかけるから、私|矢張《やつば》りもう内儀《おかみ》さんでくすぶつて仕舞はうかと思つたの。」
「其れも悪くはないがね、一度道楽したものには茶屋小屋の勘定は惜しくないが、生活の苦労と来たら実際馬鹿々々しくつて出来たもんぢやないよ。お前だつて、何々さんの総見《そうけん》だとか、何々さんのお弘《ひろ》めだとか、どこそこの付届《つけとゞけ》だなんて云ふと、随分よく気をつけるが、水道部の届書《とゞけしよ》だとか、何とか云ふと、ぢきに閉口しちまふちや無いか。」
「私達は何時まで経つたつて夫婦になれッこ無いわね。」
「さう云つたものでもないさ。つまり、もう少し年をとればいゝのさ。惚れやうとも惚れられやうとも思は無くなればい」のさ。世の中の楽しみに未練がなくなればいゝんだ。お互に浮気でもされやしないかと心配したり苦労したり厭味を云つたりする中が花さ。二人とも夫婦なんぞになつてもならないでも、何《ど》うでもよくなれば自然と沈着《おちつい》て一緒になって居られるよ。」
「つまらない世の中ね。」
「あ丶つまらないさ。」
 電車の通るニノ橋を越すと何処まで行つても真直な河筋には同じやうな木造の低い橋がいくつとなく掛かつてゐる。一ッの橋をくゴるか潜らぬ中に又|他《ほか》の橋が現はれて来る。何《いつ》れの橋の欄干にも子供が蟻のやうに集《たか》つて騒いで居る。橋の上のみならず物揚場のやうな空地にも悪戯盛《いたづらざか》りの子供が群集《むれあつま》り、其の中には男に劣らぬ女の子までが加つて両方の岸から負けず劣らず、

   向う河岸の
      金太郎
   頭が三寸
      長いな……

 と互に声のかぎり喚き合つてゐる。其の金切声は水を渡り岸に伝《つたは》つて後《うしろ》から追掛けて来て自分等が舟の進みを急《いそが》すやうに思はれた。風の絶えた夕暮は俄に沈み返つて、水に映る倉庫の白い壁の色が鮮かに澄み、荷船の物煮る焔の色が先刻よりも余程赤く見えるやうになつた。屋根の形に美しく薪を積上げた物陰はもう薄暗い。橋の袂の処々に竹屋の竹竿が幾束にもなつて立掛けてあるのが、夕方の空に対して如何にも高く黒く鋭く聳えて見える。然し何処まで行つても眺望《ながめ》は少しの変化をも示さないので、最初は珍らしかつた舟にゆられる心持も今では倦み疲れて薄べりの腰が痛くなつた。
「この川、何処まで続いてるんでせう。」
「亀井戸まで……。」
「牡丹までまだ余程《よつぼど》あつて……。」
「あれが三ノ橋だらう。もう大した事はあるまい。」
 自分も小れんと共に欠伸《あくび》を噛みしめた。
「どうだね。もう役者なんぞ買つて見る気はないか。」
「馬鹿々々しくつて、お金貰つても真平《まつびら》よ。先《せん》の中は人から冷笑《ひや》かされたり何《なん》かすると、内々嬉
しくッて堪らなかつたけれど、この頃ぢや時たま、あなたの事なんぞ云ひ出されたつて、へえさうですかとばかりでね、もう可笑《をか》しくも面白くも何ともないわ。」
「全くさ。人の噂なんぞもう珍しくないな。然し其れで居て、いざ一緒になつて見ると矢張《やつばり》駄目なんだ。」
「心中でもしちまひたいわね、寧《いつ》そ……。」
「出来たら其れもいゝね。」
「世間ぢや何て云ふでせう。」
「いろ/\に勝手な事を云ふだらう。然し三日たゝない中に忘れてしまふさ。」
「ぢやつまらないわ。」
「つまらないさ。」
 二人で又|欠伸《あくび》をした。
「だから、其様《そんな》事を考へるよりいつそ男も色も何《なん》にもなしで暮せるやうに量見をきめた方が、余程《よつぽど》利口かも知れない。」
「あなた見たやうに、道楽しぬいた人なら、女なしでも暮せるでせうね、考へ次第で。」
「お前はどうだ。役者も買ひ飽きたと云つたちやないか。」
「役者はいやさ。役者と亭主とは違つてよ。」
「ぢや、唯だ男として置かう。」
「皆《みんな》から捨てられちまつてさ。外に誰れも此れつて云ふ人が見当らなければ、却て気楽に独りで暮せるでせうよ。だけれども世間の人が面白相に泣いたり笑つたりしてるのを見るとほんたうに癪だわ。ねえ、あなた、田舎で暮して見なくつて、どこか遠い山ン中で世間離れて……。」
「それもほんの当分だ。箱根にだつて語週問と我慢が出来なかつたから……。」
「仕様がないねえ、ぢれッたい。」
 船頭が「旦那」と声をかけて、荷船の間に浮べた伝馬船《てんません》に早船を着けた。河岸《かし》は倉庫の問が少しばかり物揚場になつて居て、其の向うに人力車の溜り場が見えた。上《あが》ると狭い往来を隔てゝ直様、建仁寺垣の門口に牡丹園と書いた札がかけてある。
 唯さえ湿気の多い場末の事で往来は随分|泥濘《ぬか》つて居る。自分は女と二人で水溜りをよけながら門を這入り、大きな古木の鉢物を並べた庭石の問を伝《つたは》つて行くと、雨を防ぐ低い葭簀《よしず》の天井に夕暮の光を遮つた奥庭は一面にもう真暗であつた。丁度二一二人の女中が方々に釣したランプに火をつけ廻つて居るところで列をなして植付けた牡丹の花は折からの鈍く黄《きいろ》いランプの光に朦朧として僅に夕闇の中から浮出して来た。然し大方はもう散りかけてゐる。散らない花も既に情なく色限めて灘ばかりが黒く大きく開けて居る・強い日の光や爽かな風に晒して置いたなら艦繰く散つて了つたものを、人の力で無理やりに今日までの盛りを保たせた深い疲労と倦怠の情は、庭中の衰へた花の一輪づゝから湧出して、丁度其れに能く似た自分達二人の心に流れ通ふやうな気がした・蠶んで見て居ると風もなければ歩く人の足音もないのに、徽茄の花も喉茨の花も、云合したやうに重さうな花弁《はなびら》を絶え間なく落す。花弁は黒い葉の面に止まるのもあれば、ランプの光の選かない葉陰の土に滑り込んで了ふのもある。時間が遅いのと時節が過ぎたのとで、見物の人は一人も這入つて来ない。外の河岸通りでは依然として子供の囃す声が折々は夥だしく人数の増えるらしく高まつて聞える。
「本所の牡丹ッて、たつた此れだけの事なの。」
「名物に甘《うま》いものなしさ。」
「帰りませう。」
「あゝ。帰らう。」
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