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宇野浩二「枯野の夢」


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旅に病むで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉

 汽車が大阪の町をはなれて平野を走る頃から、空模様がしだいに怪しくなって来た。スティイムの温度と人いきれで車内はのぼせるほど暖かであったが、窓ガラスひとえ外は如何にも寒そうな冬枯れの景色であった。青い物の殆んど見られない茶褐色の野の果てには、雪をかぶった紀伊の山脈、その手前に黒褐色をした和泉《いずみ》の山脈、汽車の行く手には、右側に、二上山《ふたがみやま》、葛城山《かつらぎやま》、金剛山、左側に、信貴山《しぎさん》、百足山《むかでやま》、生駒山《いこまやま》などが墨絵の景色のように眺められ、目の下の野には、ときどき村落、ときどき森林、などが走り過ぎるだけで、人の子ひとり犬の子一ぴき見えない。と、見る見るうちに、まず紀伊の山脈が頂上の方から姿を消しはじめ、つぎに和泉の山脈が、それから、右手は、金剛山、葛城山、二上山の順に、左手は、生駒山、百足山、信貴山の順に、これも、おのおの頭の方から雲の中に姿をかくしはじめた。と、霧のような雨が降り出した。その雨は、今、降っているかと思うと、いつの間にかやみ、又、しぐれるかと見ると、いつかうす日がさすという風であったが、そのうちに、外の空気が冷えて来たらしく、窓ガラスが次第にくもり出したので、大阪の町をはずれる頃から殆んど窓の外の景色ばかり見ていた健三は、ときどき指の先きでガラスのくもりを拭いながら、外の景色を眺めつづけた。
 その時、健三は、七十七歳になる祖母を連れていたのであるが、出発前にちょっとした事で祖母といさかいをしたので、その時の気もちのこじれがまだ幾らか残っていたのであった。その時、彼は二十歳になったばかりであった、まだ一月の下旬であったから。
 そんな天気のわるい、寒さの厳しい日であったのに、三等車の中は満員で、祖母の方は乗りこんだ時にうまく割りこましてもらえたが、健三の方は天王寺《てんのうじ》駅に来た時ようやく明いた窓際の席を取ることができた程であったから、彼の席と祖母の席とは、筋むかいの、それも、人の首と首の間から、やっと顔を見合わせられるくらい離れていた。そうして、その位置は彼等の乗り換え場所である王寺駅につく時まで変らなかった。
 汽車が亀瀬峠(河内《かわち》と大和の境)にかかった頃、突然、車の中央へん――祖母の席にちかい方――で、「皆さん、しばらくの間、お目とお耳を拝借させていただきます、」と、言葉は標準語であるが、大阪なまり丸出しで、ロ上を述べる声がおこった。見ると、一人の口上商人が、左手でゴム紐《ひも》でつるした章魚《たこ》の玩具をあやつり、右手でそれを指さしながら、八本の足が、御覧のとおり、生ある物のごとく動く、とか、専売特許記念として、一と品ただの十銭は安い、とか、いう口上をならべてから、{しかし、皆さん、お土産としては一と品ではさびしい、」と物体《もつたい》をつけて、おなじ仕掛けの、猿、鳶《とび》、蝙蝠《こうもり》、蜻蛉《とんぼ》などの玩具を一つずつ取り出し、それを一つずつ五本の指につるして、前後左右の乗客たちに見せびらかしながら、最後に、佃すべて五品でただの十銭、……」という言葉だけを繰り返した。
 その時、ふと、健三は、同じように、その口上商人の口上としぐさに気を取られていたらしい祖母が彼の方を振り向いた顔と見合わした。と、祖母は子供のような表情でにッと微笑《ほほえ》んで見せた。その時はまだ出発前のこじれた気もちが幾らか残っていたので、彼は、本能的に目をそらしたが、すぐ思い直して優しい目を送ると、彼女は、さきよりも一そう嬉しそうな微笑をうかべ、何か物いうような恰好《かつこう》に唇をうこかし、そうして首を斜めにかたむけて前後に二三度ふって見せた。それは、これから訪ねて行く山目の子供の土産に、あれを買って行こうかと相談する意味であることをすぐ察したが、二十歳の彼は、大ぜいの人々の目の前でそんな下らぬ物を買うのは極《き》まりが悪るいように思ったので、渋面を作って首を小さく強く二三度ふって見せた。すると、祖母は泣く子供のような悲しそうな顔をして向こうを向いてしまったので、彼も反射的に悲しくなって顔をふせた。
 しばらくして、今度は彼の方から祖母の方を見ると、(彼女は七十七歳のその年まで小さい小さい丸髷《まるまげ》の附け髷を頭にのせていた、)祖母が、その小さい小さい附け髷をのせた頭をこちらに向けたまま、まだつづけている口上商人の口上としぐさに見入っていたので、彼は一そう悲しくなって目を窓の外に向けた。そうして、涙ぐんだ目を手でぬぐい、くもった窓ガラスを指のさきで拭うと、汽車は既に大和の山を走っているらしく、その山中には雨のかわりに粉雪が降りしきっていた。
 王寺駅につくと、案外乗客が多かったので、健三は、それらの人々が大方降りるのを待って、祖母と一しょにプラット・フォオムに降りた。が、困ったのは乗りかえる汽車のプラット・フォオムに行くのに、階段のある橋をわたらねばならぬ事であった。更に困ったのは、一月下旬の午後四時頃の、おまけに粉雪の吹きさらしのプラット・フォオムで、三四十分も待たねばならぬ事であった。健三は、柏原王寺間を往復するのを商売にしているあの口上商人が、今まで乗っていた汽車を乗り捨てると、それと三分ちがいで行き違いになる汽車に乗るために駈け出して行くのを見て、羨《うらや》ましく思った。それから、彼は、又、あの小さい丸髷の附け髷の後姿の印象以来、年よった祖母をいたわる孫の気もちが俄《にわか》に湧いて来たことを感じた。それには、こういう事もあったからである。
 やはり階段のある橋をこす時、あまり混雑したので、上がる時は彼の方が二三段下から、下りる時は彼の方が五六段も先きになったので、気がついたのであるが、平地を行く時はさほど目に立たないが、階段を上がる時の歩きつきは今にも腰がくだけそうに見える、それでものぼりの方はいくらか増しであったが、下りる時の恰好は更に危ッかしく見えた。それを下から見ていた健三は、彼女が一段ずつ足を踏みおろす毎に、今に腰がくだけて倒れはしないか、あるいは足がのめって転びはしないか、と心の底からはらはらして気をもんだ。それはふだん気丈な祖母が一段一段と墓穴に下りるように足を運びながら口の中で仏の名を称《とな》えるように思えたからである。
 高田町についた時は、午後五時をまわっていた。雪はやんでいたが、寒さはますます厳しかった。しかも、車が高田の町をはずれる時分から急に風が吹き出した。その風は、その辺で金剛|颪《おろし》という、氷のような冷たさと、嵐のような激しさを持っていた。その風が吹いている間は、車の前引きをする犬が尾を下げて立ちすくみ、車屋は立ち止まって頭をたれ、車の上の彼等も、幌《ほろ》が不完全なので、膝から下が凍える思いをした。車屋が気をきかして自分の著《き》ていた半纏《はんてん》を祖母の膝にかけてくれた程である。幌のすき間から見ていると、右手に遠く聳《そび》えているタ暮れの金剛山の姿が、見る見るうちに、竪縞《たてじま》の雲にかき消されたり、暫くすると雲の中に半身を見せたり、また忽《たちま》ち姿を消したり、した。やがて、その山の方から横なぎに吹いて来る風が吹雪となって、そこらの、小山も、丘も、村も、森も、ことごとく消してしまう。すると、地上は見る見るうちに真白になった。そういう時は、犬も車屋も出来るだけ速力を出して、もよりの村の家の軒かげに駈け込んで吹雪を避ける。そのうちに、ふと風と雪が止んで西の空の雲の透き間からタ日の縞が幾筋かの探照灯のようにさす。「そらッ、」と云って犬と車屋が走り出す。と、忽ち又、金剛山に竪縞の雲がさッと立つ。と、見る間に、俄に面《おもて》も向けられないような吹雪がやって来る。おまけに、二三日前に降った雨の跡が半分こおって、道がでこぼこになっている。犬と車屋の難渋は一と通りではなかった。
 こんなふうで、五十町の道を不断の三倍ほどの時間がかかったので、健三は、道道の考えで、自分の寓居《ぐうきよ》である山目の家に行く予定をかえて、一とまず祖母を中戸竹蔵の家につれて行くことにきめた。山目の家も中戸の家もおなじ高天《たかま》村にあったが、紺屋《こうや》(染物業)をしている山目の家より料理屋をしている中戸の家の方が、いろいろな点で便利であったからでもある。それに、去年の秋、健三が大阪から山目の家の離れに移住するまで、そこに住んでいた彼の母(祖母には一人娘)が、それ以来ずっと中戸の家の離れで暮らしているという便利もあったのである。猶《なお》、彼の母は、一ご二年前から、頼まれて、中戸の家にいる数人の仲居たちに三味線とその唄を教えていた。
 祖母には、中戸は馴染みのない家ではあったが、彼女は、通された離れの部屋が自分の娘の部屋であること、半日の旅(何と長い時間に思えたであろう、又よく無事にここまで来たとも思えた)の後で、暖い火燵《こたつ》にあたれたこと、商売柄とはいえ、坐ると直ぐに運ばれた酒肴(彼女は一合ほどの晩酌をたしなんだ)が寒さと餓《ひも》じさとの後で実にうまかったこと、殊に水入らずの祖母、娘、孫が久しぶりで火燵をかこんで話をすることなどを心から楽しんでいるように見えた。
 やがて、夜がふけたので、祖母はそのまま止《とど》まることにして、健三だけ山目の離れに帰ることになり、母は無論、祖母もそれに一応同意したが、いよいよ健三が一人で帰りかけるのを見ると、祖母は、急に盃をおいて、「わしも一しょに行きたい、」と云い出した。風も雪も止んではいたが、夜ふけと共に寒さと冷たさは一そう厳しくなっていたので、一あしたお迎いに来ます、」と彼は、祖母を宥なだめるように云って、母の部屋を出た、備わしも一しょに行きたい、」とまだ子供のように駄駄をこねている祖母の声を後に聞きながら。
 健三は、近道を行くために、中戸の家の裏木戸から出て半町ほど野道をあるいた。凄いような月夜であった。来た時は気がつかなかったが、金剛山の頂にも、葛城山の頂にも、盆景に見るような雪がつもっていた。それが金剛山の左の肩の上に昇っている月に照らされて氷のように光っていた。彼は立ち止まった。と、どこからか何かひどく物悲しげな音楽が聞こえて来た。その音の方をふりむくと、中戸の家の二階で鳴らしている三味線音楽とその唄であった。さきほど同じ三味線音楽と唄が中戸の離れの母の部屋で向こうの座敷から聞こえて来るのを聞いた時は、大へん騒がしく少しうるさく陽気に聞こえたことを思い出し、あれとこれとが余り感じがちがうので、いま聞こえる音楽は狐のせいかなどとまで思われたほど、その時の彼には異様に聞こえた。それは、彼が、去年の十二月の頃、三晩ほど本当の狐の鳴き声を聞いたことがあるからであろうか。ー
 その晩、  というより、その翌朝、
「もし、もしもし、」と何処からともなく呼ぶ声を、夢とも現《うつつ》ともなく健三は聞いて目をさました。寝ぼけ眼《まなこ》を見ひらくと、彼の枕元に、提灯《ちようちん》を持った車屋と顔見知りの女按摩《あんま》が立っていた。「もしもし、」と呼んだのはその女按摩で、彼女は健三が目をさましたのを見ると、「おばあさんの御様子が……」と云った。
 その後、「私がお揉《も》み申して居りましたら、」とつづける女按摩の言葉を半分聞いて、無我夢中で、彼は床の中から飛び出した。そうして、夜中であるか、夜明け前であるか、(月はもうとくに沈んでいた、)そんな事は、一さい夢中で、一さい無言で、真暗な村の道(今度は本街道)を走りに走った。車屋も、女按摩も、提灯を持っている責任を感じて、一所懸命に健三の先きを先きをと走りつづけた。その二人ともつれるように駈けている健三の目には、暗い道の上に提灯の明かりが飛んで行くのは分かったが、何のために提灯の明かりが、飛んでいるか、一さい夢中であった。中戸の家の入り口の大戸が開かれていて、明かるい電灯の光りが往来まで流れ出しているのを見ても、何故そんな夜中に中戸の大戸が明いているか、なぜ明かるい電灯の光りが往来まで流れているか、健三は一切そんな事を考えている余裕がなかった。入り口のところで、竹蔵の妻のお政が、
「あんた、昨夜《ゆんべ》泊まって行とくなはったらよかったのに……」という言葉を聞いた時、彼は初めて『そうだったのか」と思った。
 その『昨夜《ゆんべ》』の離れの方へあるいて行くと、その縁側の暗がりに立っていた母が、一健三、おばあさんが……」と云うのも聞き流して、彼はつかつかと部屋の中にはいった。
 中戸の主人の竹蔵、その子の丈太郎、竹蔵の弟の丈助、その妻のお楽、その子の雪江、その他の顔がおぼろに見え、最後に一番はっきり彼の目に映ったのは、もう顔に白い切れのかぶせてあった祖母の姿であった。
 その時、彼の後から、彼の母と竹蔵の妻がついて来たのに彼は気がつかなかったが、後から竹蔵の妻のお政が、「健三さん、一ぺん、おばあさアん、と耳の側で呼んでみなはれ、」
と云ったので、彼は静かに死者の枕元にすわった。
 その翌翌日の午後、大阪から健三の伯父(故人の長男)の来るのを待って、中戸の家から葬式を出すことになった。高天附近の習慣で、棺を納めた輿《こし》は、死者の近親が運ぶことになっていたが、死者の長男とその孫だけではそれを運びかねたので、竹蔵の弟の丈助と祖母の死を知らしに来てくれた車屋の阪田熊之丞(車屋ではあるが士族というのが自慢で、立派な八字髭《はちじひげ》をはやしていた、)とが、介添え役として輿を運んだ。
 墓地は街道から半町ばかり引っこんだ丘の上にある。そこは代代の高天村の人マの墓地ときまっているので、他国者である健三の祖母の亡骸《なきがら》を埋める余地(あるいは権利)がなかったが、竹蔵の斡旋《あつせん》でわりに好い場所を与えられた。つまり、墓地の東の端になっていたので、後年、彼女の墓石が出.来麦かってみると、街道を行く人々にもっとも目に立った。
 街道から眺めると、その墓はちょうど高天町を背景にしていた。その墓石の裏側に眠旅に病むで夢は枯野をかけめぐる」と刻まれた。ある時、健三がその墓石を建てた伯父に、「あの文句は誰が作ったんです、」と空とぼけて聞くと、「何でも昔の大学者が作ったんやということや、」と伯父は答えた。



 健三が初めてこの村の名を知ったのは、彼が中学校に入学した年の秋、彼の母が、それまで彼と祖母と一しょに同居していた彼の伯父(彼女には兄)の家にいづらくなって、突然、山目の家に身を寄せるようになってからであった。その山目も、もし彼女がその家に行かなかったら、その名を聞き知るぐらいで、一生交際も往き来もしなかったであろうと思われる程の遠縁の親類であったが、彼女がそこに寄食するようになってからは、彼は毎年の夏休みに出かける習慣になった。しかし、もともと都会そだちの彼は、出かけて見ると、高天村のような片田舎の生活、  殊に山目の家のような地味な生活にはすぐに飽きて、予定の日数より少なく(せいぜい三四日)いて切り上げるのが常であった。
 それから四五年たって、中学校を卒業した春、健三も、また、それまで世話になっていた伯父の家にいろいろな事情でいづらくなり、また彼の志望する学科が彼の学資を受け持つ筈の或る親戚《しんせき》の気に入らなかったり、して、東京の専門学校の入学期日におくれたり、そのうち彼自身が脚気《かつけ》病にかかって四月ほど寝こんだりした結果、その年の秋、彼の母が寄寓《きぐう》していた高天村の山目の離れに移住することになり、(それと一しょに彼の母が中戸の離れに越したことは前に述べたとおり、)そこで、彼は、十九歳の年をおくり、二十歳の春をむかえた。(これも前にちょっと述べたとおりである。)
 住んでみると、高天村は、自然人情ともわるいところではなかった。まず自然について述べると、葛城郡はかなり景色のいい所だ。おなじ大和でも、北の方の郡山や法隆寺あたりのような平凡な退屈な平野でもなく、南の方の吉野あたりのような狭くるしい山間でもなく、ちょうどその二つをつきまぜて造化が工夫を凝らした所と云ってよいくらいだ。例えば、高天村にもっとも近い高天山に登って四方を見わたすと、あたかも海の中にあまたの島嶼《とうしよ》が散在しているように、手頃な高さの山や丘が、箱庭の景色のようにならんでいる。その中で、もっとも大きくもっとも名高いのが、畝傍山《うねびやま》、天香久山《あまのかぐやま》、耳成山《みみなしやま》で、その間を万里の長城の模型のように見える葛城川の堤が縫うている。そうして、それらの小山や丘を保護するかのように、三輪山、高見山、三峰山、竜門岳、吉野の山山、金剛山、葛城山などの大きい高い山山が、遠く近く取り巻いている。それから林だ。林の木は、ほとんど櫟《くぬぎ》であったから、秋になると、ことごとく紅葉した。殊に、彼が高天村の生活にいくらか慣れて散歩をはじめた頃はそれがもっとも見事であった。彼が好んで登った高天山の頂上には他のどの山にも見られない広い草原があって、その草原の中央にかなり大きな池があり、その池の周囲には桜の木が植わっていた。いうまでもなく、秋になれば、その桜の木木も、みな紅葉した。
 この高天山の頂上の草原を土地の人々は高天原《たかまのはら》と呼び、そこが、昔昔、国の初めの神神が住んでいた所だと言い伝えていた。それをもっとも強く信じ且つ主張したのは中戸竹蔵であった。この話が出ると、彼はいつも、i何んしょ大和は国の始まりやと云うし、この辺を、「国中《くになか》」ちゅうのは大和の国のまん中やからと云う話やないか、現に天理《てんりん》さんのお経にかて『高天の原に神留《かんづま》ります」ちゅう文句があるやないか、」と附け加えるのが常であった。これは、健三も二三度聞かされたことがあった。もっとも、この高天原説は、竹蔵ばかりでなく、博学な歴史家たちの考証にも、大和国説、日向国《ひゆうがのくに》説、常陸国《ひたちのくに》説、伊勢国説、はなはだしいのは朝鮮説、南洋説、その他があるから、竹蔵が向きになるのも無理がないであろう。
 面白いのは、こういう尤《もつと》もらしい話(ばかりでなく色色な話)がかわされるのはいつも竹蔵の家(即ち、料理屋)の店の間《ま》にきまっていた。それは、『相手かわって主《ぬし》変らず、』つまり、竹蔵がいつも話の中心であったからでもある。その店の間には、冬は、真中に六七人ぐらいあたれる大きな瀬戸火鉢がすえられ、その他に小型の瀬戸火鉢が随所におかれ、正面に大きな帳場格子にかこわれた帳場があって、商売が忙しくなるか日が暮れるかすると、その帳場の簿記台に竹蔵がすわり、その竹蔵の側にこれまた大きな長火鉢がすえられてあって、その銅壺《どうこ》の中には燗徳利《かんどくり》が二本ならんで浸《つか》っていた。- -
 私がこの部屋の中の道具類にみな『大きな」という形容詞をかぶせたのは、決して実物以上に誇張したのではないが、その道具類の主人でありその道具類に君臨している竹蔵が人並はずれて小柄であることを表現したかったからである。それにちなんだ一つの挿話を紹介すると、彼は、若い頃、放蕩《ほうとう》に身を持ちくずし、はては専門の博徒の仲間にはいり、その仲間の中でも、小柄のくせに、その道にかけると、鋭い巧さがあったので、『ちんこ竹』とあだ名夕ろけられたほど幅をきかしたという事である。それで、五十歳の坂をこして一そう小さくなった竹蔵が、その大きな帳場格子のむこう側にちょこんと坐って、大きな長火鉢の側で燗番をしている恰好《かつこう》は、今はその唯一の昔を思い出させる凄味のある目も皺《しわ》のために恵比須三郎型になっていたので、そんな昔の挿話を聞き知っていても、健三が竹蔵からうけた印象はその容貌性格ともに徹頭徹尾|好好爺《こうこうや》の感じであった。竹蔵の方でも年齢も教養も性質も境遇もあらゆる点でまったく違う健三に他の人々が怪しむほど好意を持っていた。それはあらゆる点でまったく違っていたから双方とも好意を持ち合ったという事も一つの理由であろうが、それ以上に彼等を親しくした理由は、竹蔵の一人息子(実は甥にあたるが藁《わら》の上からもらった)の丈太郎と健三とが親しかった事であった。しかし、それは、健三が中学生時代に夏休み毎に高天村に来はじめた最初の時から知り合いになり、丈太郎の方でも大阪に行くとかならず健三を訪問したという程度の親しさであった。
 丈太郎は健三より四五歳下であったが、小学校を優等でとおした彼は、物心つく頃から周囲の人たちが無智な事を物たりなく思っていたので、中学生の健三に初めて逢った時から珍しさと尊敬と親しみとを感じたのであった。そういう関係があったので、健三が高天村にたとい半年程にせよ移住してからは、健三も話し相手がないので、双方から訪ねあうことになり、一日に一度か二日に一度ぐらいは必ず逢うようになった。これがまた竹蔵を喜ばした、というのは、竹蔵は竹蔵の見解から、自分の子が健三のような友だちを持つことを徳とし、彼自身も、こういう客商売の帳場にすわるようになってから却《かえ》って急に知識を欲する気もちが起こっていたところであったから、健三のような青年の話を聞くことに非常に興味をおぼえたからでもある。
 さて、この店の間は、そんなに、大きな火鉢だの、別の小型の火鉢だの、と多人数の用意はしてあったが、不断は、たいてい健三と丈太郎がその大火鉢を占領して、彼等だけに通用する話  つまり、戦争の話だの、外国の話だの、歴史の話だの、あるいは、社会主義の話だのをしていた。その中に自分に興味のある話があると、帳場から、竹蔵が、例えば社会主義について健三に質問する。それに健三が成るべく竹蔵に分かりよく説明すると、竹蔵が、「左様《さい》や、左様《さい》や。……ふむ、つまり、何やな、よう考えると、それもやっぱり国のためやろな、国のためなら、ちょっとぐらい警察にねらまれても、やり通そちゅうんやな、ふむ、」といった風に口をはさむ。すると、今度は、丈太郎が、真面目になって、社会主義についてもっとくわしい説明を健三に求める。そこで、健三がまた別の説明をする。と又、帳場から竹蔵が聞き耳を立てる。  と、ざっと、こういう有り様であった。
 その間に、奥座敷の方から絶えず長い廊下を踏み鳴らして受もち受もちの仲居たちが燗番の竹蔵のところへ燗徳利を取りに来る。時に新らしくつけた徳利の燗が間に合わなかったりすると、「ちょっと御免やす、ちょっと当たらしとくなはれんか、」と云って、安髪油の臭いをさせながら、仲居たちが、かんかん火のおこっている方の大きな火鉢に手をかざしに来る。すると、竹蔵の目が恵比須三郎型からたちまち博徒型にかわり、何かきたならしい者を追うように、「おいおい、お前ッちはあっちの火鉢へ当たれよ、」と叱り飛ばす。と、少年の丈太郎も、その尾について、咄そっちイ行ってえ、邪魔ンなるッ、」と怒鳴る。
 しかし、こういうのは、いわば竹蔵の家の店の間の日常茶飯事であるが、何といっても、そこは、田舎の料理屋の帳場部屋であったから、実にいろいろな人々が出入りした。例えば、上がり口に腰かけたまま用談だけすまして帰る者や、小型の火鉢を抱えて物まち顔の人や、つかつかと上がって来て長火鉢こしに竹蔵と一と口二た口話をして帰って行く者や、大火鉢の側にすわりこむ者や、その他であるが、  そういう人々は健三の印象にほとんど止まらなかったが、その中で表からでなしに、奥の住まいの方から出て来て大火鉢の側にすわる人たちは、竹蔵も丈太郎も改めて健三に紹介はしなかったが、健三は、その人たちと顔を見あわしたり、言葉をかわしたり、するうちに、いつとなく彼等の素姓を知った。
 一ばん先きに知ったのは、四十歳あまりの、青ぶくれした、むくんだような顔の、ひどくむっつりした女で、その人を、丈太郎が「叔母さん」と呼んでいたので、健三は、後で、竹蔵の弟の丈助の妻のお楽と知った。その次ぎは、生白い色の、どこといって顔立ちに欠点はなかったが、女らしい魅力の殆んどない、これもむっつりした、二十歳ぐらいの女であった。後で、健三は、この二人が親子と聞いて、初めて似ていることに気がついた。
 ある晩、健三と丈太郎が、例の通りの話をしていると、健三の母と丈太郎の母が大火鉢の側にやって来たので、話の腰を折られて、ちょっと口をつぐんだ時、一人の、見なれない、四十歳あまりの大きな恰幅《かつぶく》の男が、住居の方から出て来て、
「や、皆はん、今晩は、」と無骨な挨拶をしながら、火鉢の方へ歩いて来た。が、どういう訳か、その男は、二人の女たちが席をゆずったにもかかわらず、火鉢から少し離れた所にすわったまま、及び腰になって火鉢のふちに手をかけた。その時、めずらしく健三の母が彼にその男を紹介した。
「ここのおじさん(竹蔵)の弟さんの丈助さん。」
 これが健三と中戸丈助の初対面であった。しかし、この初対面の印象はあまりよくなかった。兄の竹蔵とくらべると、巌《いわお》のように頑丈な大男であるが、頬骨と頤《あご》の骨がとがっているので七厘のように真四角に見える顔は、笑うと大きな歯が見えるのが唯一つの愛嬌《あいきよう》であったが、目つきといい、鼻の恰好といい、殊にその分厚な唇はアフリカ辺の土人の唇を思わせるものがあった。その上、無口なせいか、いくらか吃るような癖があった。
「はア、わし……竹蔵の弟だす、どうぞ……」と丈助は健三の方をむいてお辞儀をした。健三もお辞儀をしかえして、
「どうぞ、」と丈助に火鉢の側に来るように手で会釈したが、丈助は、口の中で挨拶の言葉をかえしただけで、相変らず及び腰の恰好のままであった。しかし、その時の丈助の及び腰の恰好は、何故か、その後、いつまでも健三の頭に残った。
 その翌日、健三は、母がたずねて来た時、昨夜はじめて見た丈助の印象をありのままに話すと、彼女は、
「まア田舎の人というもんは、形振《なりふり》にかまわないもんやから、」と弁解するように、「しかし、人は実にええ人やデ、まアちょっとあんなええ人も珍しい、」とそこで声をひそめて、「あの人とくらべたら、竹蔵はんの方がずっと腹がわるい、」と云った。
 その後で、母は、丈助について、彼が、これまでずっと朝鮮の方へ行っていた事、朝鮮では何度も何度も万の金を儲《もう》けた事があったが、あまり人間が正直なために儲けた金を、人に貸してなくしたり、人にだまされて損をしたり、して、元のもくあみになって帰って来た、と話した。が、それは話だけのことであるから、まだ昨夜の印象が頭にのこっている健三には、半信半疑であると共に、あまり興味がなかったけれど、最後に、母が、「あの人もひょっとしたら東京へ行きたいように云うてはる、」と云った言葉が健三の心をひいた。彼自身、高天村に来てから、東京、学校、学問、という言葉を一日として忘れた事がなかったからである。健三は、今の先きまで軽蔑《けいべつ》  たしかに軽蔑していた丈助が、この人もまた志を立てて東京へ行く、と考えると、自分の事のように嬉しくなり、急に丈助が頼もしい見どころのある人間のように思われ出した。
 その日の暮れるのを健三は待ちかねた。彼が中戸の家に行くのをこんなに楽しみに思ったのは初めてであった。彼は急に丈助に逢いたくなったのである。中戸の家の店には、いつものとおり帳場格子のむこうに竹蔵が坐り、彼が来るのを丈太郎は待ちかねていた。竹蔵も丈太郎もいつものとおり上機嫌であった。が、その晩の健三は、何か、落ちつかなかった、落ちつかないように見えた口そのために、いつものように丈太郎との話がはずまなかった。年の若い丈太郎には気がつかなかったが、突然、帳場格子の中から、竹蔵が、
「健三はん、お前《ま》はん、今晩、気分わるおまへんか、」と聞いた。
「いいえ、」と彼はなるべく平気をよそおって答えたが、いざとなると恵比須三郎の目が博徒の目にかわるところの竹蔵の目を感じて、何か見すかされたような気がした。が、さすがの竹蔵もその晩の健三がおちつかなかった原因が丈助に逢えなかったという事までは見すかせなかった。
 健三は山目の離れへ帰る道すがら考えた。考えてみると、余りにおろかであった。何故というのに彼がこれまで中戸の家を訪問した何十日の間に丈助に逢ったのは唯の一度しかも昨日はじめて逢った、  唯それだけの事に思い及ばなかったことを道すがら考えたのであった。
 健三は、その翌日から、今までと方針をかえて、出来るだけ勉強をすることにした。そこで、中戸の家を訪問することもしだいにへらし、散歩に出ることもおいおいにへらす、ということにした。そうして、彼はそのとおり実行した。彼の寄寓《きぐう》している山目の離れは、母の寄寓している中戸の離れとちがって、実に静かで、勉強するのにまったく都合がよかった。その部屋は、東向きに一間の窓があって、窓をひらくと、三峰山《みつみねさん》、一名大和富士と呼ばれる山が真正面に見えた。その窓の下に机をすえてあるので、窓さえあけると、その秀麗な山の形は晴れた日ならばいつでも眺められた。その山は、彼の気をおちつけた。あがり口の縁側は、西むきになっていて、中庭に面していた。その中庭の右手に母家があり、その中庭のむこうは隣家の土塀と屋根にくぎられて、晴れた日はその上に蒲団《ふとん》をかぶせたような恰好《かつこう》で葛城山の姿が迫っていた。その美しい葛城山は彼の心をしずめた。その中庭にはところどころに紺を溜《た》める壺が埋めてあって、晴れた日はその上に染め物の切れが小学校の運動会の旗のように張りまわしてあった。その中庭の左手には納屋をなおした機織り小屋があって、そこから朝から晩まで筬《おさ》の音と機を織る二人の姉妹の娘の合唱が絶えず聞こえた。その音と唄とは彼に力をつけた。姉娘は二十三歳で、妹娘が彼と同い年の十九歳であった。  この地方では、男より女の方が働くと云われる、この機織り仕事のために娘たちの婚期がおくれるという。  健三はそういう部屋におちついて勉強する日の方がしだいに多くなった。
 翌年の二月中頃の或る晴れた日、健三は何日ぶりかで散歩に出た。そうして、まず祖母の墓にまいり、それから、久しぶりで高天山に登った。このとき、彼が、祖母の墓にまいり高天山に登ったのは、その前の日、或る本の中で、「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたりあめの香久山』の歌人、持統天皇の別の御名が、「高天原広野姫天皇《たかまのはらひろぬひめのすめらみこと》」と申し上げることを発見し、『よそにのみ見てややみなん葛城やたかまのやまの峰の白雪」『よそに見て神やぬれなん常陸なる高天の原の沖つ白浪」「かつらぎの峰の白雲かをるなり高天の山の花ざかりかも」という三首の古歌を発見した。  と、そんな幼稚な発見の嬉しさから、高天原に登りたくなり、天香久山を眺めたくなり  と、そんな幼稚な気もちで、山目の離れを出たのであった。
 ところが、祖母の草葉の陰からの祈りのためか、竹蔵のいわゆる『天理《てんりん》さん」の『高天原に神留《かんづま》ります皇《すめら》』のお蔭か、その高天原で、彼は、思わぬ拾い物をした。というのは、高天原の池の辺の腰かけで、そこに休息している中戸丈助と出合ったからである。初対面以来である。
「あなたも東京においでなさるそうですが、いつ頃……」と健三は丈助に聞いた。
「うむ、いつ頃ちゅうても当ておまへんね、」
と丈助は、ひどく恐縮の体で、吃り癖のある言葉で答えた。
「やっぱり何か御商売で……」
「うむ。……商売も商売だんが、元も子ものうしてしもうたさかい……」と丈助は元気のない調子で、「しかし、私ももう西の方は飽いたから、今度は東へ行きたいと思てまんね。」
「いつ頃おいでになるつもりです、」と健三は同じことを聞いてみた。
「さあ、いつ行けるやらまだ当てがつきまへんね。それに、私《わし》みたいに、こう、する事、なす事、失敗すると、もう商売の見当が皆目つかんネ。何ぞええ商売おまへんやろか。」
 健三自身がさきの当てがつかなくて迷っている時であったから、他人の商売など考える余裕がなかったので、彼は答える術《すべ》を知らなかった。それにしても、初対面の翌日、母から丈助に上京の志のあることを聞いた時と同じように、『ここにも東京に行こうという人がある』という発見だけで、彼は、気をよくし、丈助を、頼もしく思い、また、味方であるような気がして来た。
 その時、丈助が、突然、
「お前《ま》はんはこれから新らしゅうやり出す人やし、……私《わし》もこれから一等卒から出なおすつもりやけど、……そう考えると、私の方が古参かな…-」と云った。
 健三は、この丈助にしては珍しい言葉に、ちょっと目を見はった。
 やがて四月になった。あの学資を受け持つ筈の父方のある親戚《しんせき》との相談がまとまって、健三はいよいよ『花ざかり」の高天村から東京へ出発  移住することになった。木木は紅葉の代りに緑の新芽で装われた。高天原の池の周囲の桜の木木が赤い芽を含み出した。遠く北の方の奈良の山が紫色に霞んで見えた。
 健三が出発する朝、健三を、竹蔵は村はずれまで、丈助と丈太郎と健三の母は、高田の駅まで見おくった。汽車が出る時、丈助に、
「きっと東京へいらっしゃいませんか、」と健三が云うと、
「きっと、きっと行きます、何とか都合して……今年はあかんかも知れんけど……」と丈助はわりにはっきりした言葉で答えた。



 丈助が高天村を立ったのは、おくれおくれて、健三が東京に来てから三年ほど後のことであった。
 ある日、健三が、母から手紙が来て、『丈助さんがそちらに行かれたら、お前の下宿にたずねて行かれるだろう、丈助さんにお前にとどける物をお頼みしておいた。丈助さんの東京の所はすぐにきまらないだろうが、きまったらお前の方からも一度たずねてお上げ、あの人は本当にいい人だから、」という意味の文句を読んでいるところへ、下から小僧が上がって来て、丈助の来訪を告げた。小僧というのは当時健三が間借りをしていた子供靴屋の小僧で、彼はそこの二階で自炊生活をしていたのであった。彼の生活は初年期を通過した文科の学生の一般にもれず、大分みだれていた。その証拠に、学校が牛込にあったのに、その間借りしている家は浅草であった。そこへ、中戸丈助が、母からの手紙にあるとおり、彼女から頼まれた羊羹《ようかん》とネルの著物《きもの》のはいった風呂敷つつみを持って訪ねて来たのであった。彼は、まず丈助がいよいよ東京に出て来たことの喜びを述べて、
「お一人ですか、おすまいは、」と聞いてみた。
「い、いいや、足手まといを一と組つれて来ましてん、」と丈助は三年前と同じ著物をきているかと思われるような少しも変らない恰好をしていた。燗何しょ、そうそう、いつまでも兄貴のとこで厄介になってる訳に行かんさかいな。お前《ま》はん、知ってなはるやろ、家内と、娘と、孫を連れて来たんや。」(孫というのは、健三が上京した年の秋に生まれたということを、彼は後で聞いた、秀夫という名も。)丈助はつづけた。駲今はちょっと知り合いの家にとめてもろてんねけど、それも腰かけみたいなもんやさかいな。そのうちに越したいね。私もこんな二階があったら借りたいな:…二
「それで、御商売の方は、……」
「その商売やが……一丈助は、持ち前の吃るような調子でかんがえかんがえ、「商売いう商売は大方し尽したような気がするネ、私のようなもんにでける商売はナ。……私は日露戦争の後を追いかけて朝鮮に出かけたんやさかい、日本人のいるもんなら何んでもかンでも売ってみたよ、油でも、米でも、雑貨でも、道具でも、著物の切れでも、……何ちゅうことはない、手あたりばったりや。ここにある、」と丈助は健三が前の晩にたべのこした甘栗を指さして、「こ、この支那栗なんか、うんと仕入れたことがある、あんまり買い過ぎて、入れ場に困って、軍隊の蔵を借って、入れてもろオたところが、……それを二た月ほどして取りに行ったら、袋だけちゃんとあって、中あけて見たら、お前《ま》はん、みんなからっぽの殻だけになっとオるや……みな食いよってん、えらい目に遭《お》うたな、あン時は:・:・」
「それにしても、何かほかに商売の見当がないんですか。」
「皆目あれへんね、東京ちゅうとこが初めてやから、どだい、見当《けんと》がつけへん、」と丈助は真から困った顔をして、「私……今度、兄貴から二百五十円もろて来てん……まだ二百二十何円ぐらい残ってるけどナ、……ぐずぐずしてると、こんな金ぐらいじきのうなってしまうさかいナ、……朝鮮でさんざん経験した事がある。……」(健三は、丈助とその後、切れ切れに二十年あまり交際したが、二百二十何円持っている時も、五万七千円持っている時も、ありのままに打ち明ける丈助をめずらしい人だと思った、殊に商人でとおした丈助を。)
 その時、下からガラガラというミシンの音が聞こえて来たのを丈助は、聞きとがめて、州ここの下の家、なに商売してはんね、」と健三にたずねた。
「子供靴です、」健三は答えてから、初めてこの家に引っこすことになった時、こういう商売もあるものか、と不思議に思ったことを思い出して、ふと、こういう商売が今の丈助に向きはしないだろうか、これなら、二百円の元でもできるであろう、と思ったので、
「変な商売ですが、こういう商売を手はじめにやってみたらどうです、」と云ってみた。そうして、方方の洋服屋から羅紗《ラシヤ》の裁《た》ち屑《くず》の切れを買いあつめ、それを、子供靴の型にきり、ミシンで製造している下の家の商売を、自分の知るかぎりの知識で、できるだけ易しそうに、いかにも儲かりそうに、例えば切れを買いあつめる事は丈助がうけもち、それを子供靴の型にきったりミシンをつかったりする事は細君と娘にさせたらいいであろう、という風に健三がはなすと、丈助はすっかり乗り気になった。すると、健三も乗り気になって、
「そんなら、こうしましょう、実は僕の学校は牛込といって、ここから電車で三十分以上かかる所にあるんです、少し訳があって半年ほど前からこんな所に引っこしたんですが、やっぱり学校の近くの方がなにかにつけて便利ですし、それに、先月あたりから自炊に飽きましたので、近頃は毎日、近所の飯屋へ、三度三度、飯を食いに行ってるのです、それでは、時間と金の不経済ですから、近いうちに学校の側に越そうと思ってたところなんです、」と彼は、自分の境遇と或る友人の境遇とをまぜこぜにして、そこはお手の物の小説作法を応用して、後さきの考えを忘れ、有耶無耶のうちに、現在自分の借りている部屋を丈助に提供する事になってしまった。そうして、これは、云ってしまってから、ちょっと後悔したが、もう遅かった。何故なら、
「いや、それでは……それでは、あんまり気の毒や、それでは、私《わし》がすまん、……お前《ま》はんにもすまんし、お前はんの、……お前はんの・……お母はんにもすまん…・・」と、搬い稀《まれ》な遠慮家(読者はその例を高天村の竹蔵の店の間で健三と丈助が初対面のとき丈助が及び腰になって火鉢に当たったことを覚えているであろう)の丈助が後ずさりせんばかりに辞退したからである。いや、丈助は、本当に後ずさりして、いつの間にか梯子段《はしごだん》の下り口の近くまで後ずさりして、すきがあったら、逃げて帰りそうになったからである。
 そうなると、今度は健三の方があわて出した。彼は、手つきで丈助を止める恰好をしながら、その方が彼自身に都合がいいとか、現に牛込にいる友人からその友人のいる下宿に適当な部屋が明いているという知らせを今さき受取ったばかりだとか、突然ここを明けると借り手が見つかるまでの間代をはらわねばならぬ約束になっているからとか、いよいよお手の物の小説作法を応用して、嘘と誠とをまぜこぜにして、云い立てたので、さすがの遠慮家の丈助をもくどき落としてしまった。もっとも、それは、丈助の方でも、願ったり叶ったりであった。彼は、後になって、その時のことを回想して、「私はお前はんのあの時の恩は忘れへん、あん時はお前はんは私に藁《わら》をつかましてくれたようなもんや、」とまで云った。
 その後、健三が本当に牛込の友人の下宿に引っこしてから、丈助は彼を二一二度その下宿へ訪問したことがあったが、健三は、丈助が上京当時母がよこした手紙の頼みを忘れたのではなかったが、一度も丈助をたずねたことはなかった。それどころか、その頃の彼は、丈助のような風体の男にたずねて来られることは、青年らしい虚栄心があって、友だちや下宿の女中たちの手前、迷惑を感じたが、都合のいいことには、そんな場合にも、丈助が、持ち前の遠慮癖を発揮して、いつでも玄関まで来るだけで、決して部屋まで上がらなかったので、彼は、友だちや女中たちにたずねられると、郷里の親類の小作人か下男のように吹聴《ふいちよう》しておいた。
 しかし、彼の部屋の窓から帰って行く丈助の後姿をのぞくと、その頃の丈助はいつの時でも大きい鬱金色《うこんいろ》の風呂敷つつみを背負っていた。それを見ると、彼は、むしろ愚直といってもいい性質の丈助が、彼の忠告どおり、自分は、下の子供靴職の裁ち屑買い出し人兼子供靴行商人になり、妻と娘を子供靴の職人にしたことを思うと、心に云おうようない痛みを感じた。こういう丈助は、ある時、健三の留守ちゅうに、新聞紙につつんだラシャ製のスリッパを下宿の女中に托して行った。それには『娘雪江のこしらえた品に候」と書いた紙切れが張ってあった。こういう事も健三の心を打った。
 そのうちに、丈助のいわゆる新規まき直しの商売がおいおい忙しくなったのと、健三の境遇にもちょっと変化があったりしたので、二人の往来がしばらく絶えた(というより、丈助がたずねて来なくなったため)形になった。
 そうして、一年あまりの日が立った。
 ある日、一年に二三度しか便りのない高天村の母からの手紙に、近いうちに竹蔵が商売がえをする、そのために竹蔵の家が小さい家にこすことになったので、それを機会に上京したいと書いてあった。これは健三をかなり狼狽《ろうばい》させた。というのは、既に健三の学業も終りに近づいていた、従ってこれまで親戚《しんせき》から送られていた学資が来なくなる、といってまだ自分一人が自活する自信がない、そんな所へ、突然、母を迎えなければならぬ、と考えると、思案にくれない訳にいかないからである。が、彼のそういう心配には頓著《とんじやく》なく、(でもなかったであろうが、)それから半月ほど後の或る日、彼の母は、突然、牛込の彼の下宿の玄関に現われた。これは通さない訳に行かなかった。しかし、親子でいつまでも下宿住まいもしておられないので、無理をして本郷の或る町に小さな借家を見つけて引っこしたが、早速その月の末から生活難に遭遇して、健三は母の持って来た衣類を少しずつ金にかえはじめたりした。
 彼の母の話によると、中戸竹蔵が商売がえをしたのはこういう理由であった。
 その前に、竹蔵の容貌を簡単に紹介すると、(前の章ではその体と目だけであったから、)彼の鼻は、全体は小さく平ぺったい形であるが、先きの方が剃刀《かみそり》のように尖《とが》っているところに、その生まれつきの鷹のような目と好一対をなしていた。その点で、丈助がその性質をその容貌にあらわしているように、竹蔵もその性質をその容貌にあらわしていた。それは、一と口にいうと、目さきの利く、思いきりのいい性質であった。その証拠は、さきに述べたように、博徒時代には博徒として幅をきかしていたが、一たん改心して料理屋を開業すると一切の博奕《ばくち》を止めてしまった事でもわかるし、今度また可なり繁昌《はんじよう》していた料理屋を止めてその正反対の万屋《よろずや》(金物と瀬戸物を主とした)に改業したのは、跡とりの丈太郎の気質と虚弱な健康を考えての結果であることを見てもわかる。
 さて、健三の母は、上京してから半年ほど後、健三が以前間借りしていたのを居ぬきで譲られたのをそのまま、浅草の子供靴屋の二階に住んでいる丈助を訪問した。すると、義理がたい丈助は、すぐ、その翌日、健三の家を訪ねて来た。その時、彼は、あの青ぶくれしたむくんだような顔の妻のお楽と、生白い色の女らしい魅力の殆んどない娘の雪江と、雪江は背中に四歳になる秀夫をせおって、一家総出でやって来た。彼は、健三の家の小ちんまり片づいた表面だけ見て、潤おまはんたちは結構やな、私《わし》たちはこれからや、」と歎息《たんそく》しながら云った。その時も、彼の遠慮癖は相変らずで、彼の妻や娘が無作法に座蒲団《ざぶとん》の上に鳶足《とぴあし》ですわっているのに、彼だけは、幾らすすめても、「いや、いや、」と後ずさりして、とうとう帰るまで座蒲団をしかなかった。彼の妻のお楽も娘の雪江も共に丈助に似て無口であったが、おなじ無口で口下手でも、丈助のには巧まない自然の朴訥《ぼくとつ》さと愛嬌《あいきよう》のようなものがあった。唯、雪江の子の秀夫だけは変っていた。彼は、母親の背中から下ろされると、初めのうち暫くの問ははにかんでいたが、少し馴れると、皆がはらはらするようないたずらをはじめた。それを一ばん気にしたのは丈助で、彼はしじゅう、
「これ、秀夫、これ、」と窘《たしな》めていたが、秀夫は、変な子で、手足の運動は同じ年頃の子供なみに活潑《かつばつ》であるのに、言葉らしい言葉が一と言も発音できないらしかった,
「あの子は少しおかしいんだよ、」と、彼等が帰ってから、母が健三に云った。
「そういうと、雪江という人も、少し変じゃないですかね、」と健三も云った。黼それから、あの雪江という人のお母さん  丈助さんの細君だって、何だか変だな。」
「いや、お楽さんは、あれでなかなかしっかり者《もん》や、雪江さんはお前のいう通りちょっとおかしいけど、まあ、あの娘はんと孫の秀夫はんは丈助さんの一生の苦ウの種やろな。」
 その時、丈助が健三に云った。
「私たちはまだこれからが一と苦労やが、お前《ま》はんは大学まで出なはったんやから、お母はんももう安心やろ、……(そこで彼の母の方をむいて、)これからは出世するばかしやから楽しみだんな……そこへ行くと、何しろ私は東京は初めての土地やし、……まアこうしてやって来たもんの、商売ちゅうもんは馴染みのないとこはむつかしいもんやさかいな。……まアお前はんたちがいてくれはるよってン、心づよう思うとる、何分よろしゅう……」
 この丈助の謙虚な心から出る言葉の一つ一つは、大袈裟《おおげさ》にいうと、健三の心に一つ一つ針であった。この針の苦しみは、丈助夫婦はいうまでもなく、彼の母にもわからない苦しみであった。彼は、丈助が『まだこれからが一と苦労です』と云うのを聞くと、おなじ人が高天原で『これから一等卒から出なおすつもりや」と云ったことを思い出して、心から、羨《うらや》ましいと思った。彼は考えた。  今の自分には殆んど希望はないが、丈助には、一足でも多く子供靴を売り、妻や娘が少しずつでも子供靴の裁ち方やミシン使用法に上達すれば、という心に希望と張りがある。それにくらべると、自分が今かじりついている売文業者の下請け仕事など、いつも仕事がとだえ勝ちであるし、稀《まれ》にあっても、それをミシンの機械をまわすように幾ら精を出してやったところが、約束の金の半分三分の一はおろか、全くくれない事さえ珍しくない。  もっとも、彼の側に坐っている彼の母の思いも彼の思いと大差なかったにちがいない。
彼女は長年その成人を待っていた一人息子の側に来て見ると、何から何まで思いの外の事ばかりに、今に今にと辛抱はしているものの、こうして側に来て息子の様子を見ていると、どう贔屓目《ひいきめ》に見ても出世の方に向かっているものとは思えなかったから。  彼女も、また、丈助の言葉を聞いて、さぞうしろめたく思ったことであろう。
「いいえ、私のところもまだまだほんの書生ですから、なかなか思うようになりません、」と彼女は訴えるように云った。
「それでも、お前はんたちがこっちにいなはるさかい、私らの方もどんなに心づよいか知れまへん、お互いや。」
「あんた、急に年とりなはったなア、」と珍しく丈助の妻が側から口をはさんだ。
「ええ、もう台所の事から世帯の苦労から……高天の方で御厄介になっていた時分が一ばん気楽でしたわ……。」
 その時分から、健三の母はときどき浅草の丈助の家に出かけて行くようになった。それは、その時から間もなく、丈助が、これまで間借りをしていた家の近くに、下二た問二階一と問の家を借りて、その二階は職人に間貸しをしたが、とにかく、一軒の家の主人になったからである。いいかえると、この間まで職人として間借りをしていた丈助が、今度は職人に間貸しをする身分になった訳であった。
 健三も二三度その家を訪問したことがあるが、丈助の前に彼が二階借りをしていた子供靴屋とちがって、丈助の今度の家は、板の間にも、畳の上にも、どうかすると便所に通う廊下にも、無数の子供靴とその材料の切《き》れ屑《くず》が散乱していた。しかし、これは、商売が繁昌《はんじよう》している訳でなく、丈助の妻のお楽がだらしがない上に、おなじ気性の雪江が無頓著《むとんじやく》な性分である上に、だいぶ智慧のたりない孫の秀夫が引っかきまわすためであった。
 薄暗い奥の間にミシンが二台すえてあって、青ぶくれした浮腫《むく》んだ顔をしたお楽と生白い色の生気のない顔の雪江とが、ガラガラと機械の音を立てている。どちらかが鼻がわるいらしく、機械の音にまじって、しじゅう鼻をすする音が聞こえる。
 健三は、その家に二度目に行った時、雪江の生気のない顔は、そのぎょろりとした大きな出目とそれが近眼であることが原因であるのを発見した。ぎょろりとした大きな出目だけは前から気がついたのであるが、それが近眼であることを発見したのは、彼女が顔を怪我をしはせぬかと思うほど機械に目を近づけているのを見たからである。
 二階借りをしている二人の職人も同じ仕事をしているらしく、(丈助から請け仕事をしているのであろう、)二階の方からも絶えずミシンの音が聞こえて来た。そうして、ときどき一とかたまりの子供靴が惴ほい」という掛け声と共に梯子段《はしごだん》の上から鼠《ねずみ》の群が駈け降りるように転がり落ちて来た.それが梯子段の三段目ぐらいの高さになると、お楽か雪江かどちらかが掻きあつめて柳行李《やなぎこうり》の中に入れた。そうして、ときどき、お楽か雪江かが、ミシンの方を休んで、その柳行李を入り口の明るい方へ持ち出して、一つ一つの靴にリボンの飾りをつける役をしていた。
 それから半年ほど後の或る日、健三と母が買い物に出てめずらしく長い時間を留守にして帰って来ると、鍵のかかった戸口の前に浮かぬ顔をして立っている丈助を見出した。健三が先きに近づいて行って、
「ずいぶんお待ちになったでしょう、」と云うと、
「えゝ」と丈助は、首を横にふりながら、口の中で返事したが、本当は可なり長い間待っていたらしかった。
 さて、家の中にはいって、三人は改めて簡単な挨拶をかわしたが、それがすんでからも、丈助が、唯もじもじしていて、急に口をききそうにないので、(この時の『もじもじ』が平生《へいぜい》の『もじもじ」とちがっていたことは後で二人に気がついた、)健三が、水を向けるつもりで、商売の景気のことを聞くと、iだいぶん工合よう行ってたんやがな、」と丈助は鼻をすすりながら始めた、「近頃ゴム靴というんが出来《でけ》ましたやろ。……あの方が、ずっと丈夫で、安いもんやから、世間の人ちゅうもんは目工が高いなア、……こっちが何ぼ勉強して値段を下げても、だんだん売れんようになるばっかりや。」
 これには二人とも慰める言葉が見つからな
かったので、健三の母が、燗まあ、」と溜《た》め息《いき》
をつくように云った後、ちょっと間があい
た。すると、丈助は、二分間ほど口をもぐも
ぐさせてから、やっと思い切った口調で、
「…-実はナ、お楽が昨日《きんの》から病気で寝てまんね。……それがナ、医者の見たてに、ちょっと質《たち》がようないらしいね。……たった一日寝たきりやのに、昨夜《よんべ》、突然、あの気丈な奴が高天へ往にたい往にたいと云いよって、困った。……高天へ往んだかて、苦しいのンは同《おんな》しこっちゃけどな。……私にはあいつが国イ往にたいちゅう気持ちがわかるような気イはするけんど、あんなこと云やがると、私まで心細なるさかいな。……今、あいつが……もしかの事があると、……雪江と秀夫だけンなると、……」
 健三の母はちょっと涙ぐんだ。が、丈助は、まだ何か云い足りない事があるらしく、また二分間ほど口をもぐもぐさせてから、
「……こんなことは愚痴やが、……」と後もう少し言葉がつづいて、結局、丈助は五円の金を借りに来たのであった。
 その翌日の晩、健三の家に客があって、それに夕飯などを出したので、少し遅くなって、彼の母はお楽の病気を見舞いに行った。
 ふだんミシン台の据えてあるところが片づけられて、そこにお楽が寝ていた。狭い家であるから入り口の戸をあけると、すぐお楽の病床が見えた。その側に、丈助と雪江と秀夫のほかに二階の職人が二人すわっていた。健三の母と入れちがいに、職人の一人が、あわただしく表に出て行った。医者をいそがしに行くらしかった。
 健三の母は、丈助と雪江とに目で挨拶して、静かに病人の枕元に進んで行って、すわった。不断から青くむくんだ顔であったが、それが一そう浮腫《むくみ》を増し、目がひどく落ちこんで見えた。病人は、ちょっと目をあけたが、すぐまた閉じた。彼女は、数年前に、自分の母(健三の祖母)が死んだ時のことを思い出した。それから、つぎつぎと、嘗《かつ》て自分がその臨終にあった人々の顔を思い出した。彼女は、静かに目を閉じて溜め息をついた、そうして、静かに立ち上がった。
 彼女が病人の側をはなれて、つぎの間の中程まで来ると、打ち沈んだ顔をした丈助が立ち上がって、彼女を二階に誘った。そこで、彼は、病人が、今夜じゅう、というより、もう一時間も持たないらしい事を彼女に話してから、又、二分間ほど口をもぐもぐさせた。そうして、今度は、すぐ彼女はその意味を覚った。何故なら、彼女は、丈助から金を借りられたのは昨日が初めてで、又こんな風に長いあいだ口をもぐもぐさせる丈助を見たのも、昨日が初めてで、今日が二度目であったからである。そこで、彼女は、丈助が口をきかぬ先きに、刪これだっか、」と、素早く指で輪の形を作って見せてから、一枚の札を丈助の懐の口元にそっと挟んだ。
「すまん、すまん……これで葬礼《そうれん》が出せる、」と丈助は、後の半分は口の中で云って、目に涙をためた。
 その晩、お楽は死んだ。
 その翌日の朝の夜明け前に、まだ暗がりの中を、お楽の亡きがらを納めた棺をのせた黒塗りの輿《こし》は、黒装束をした二人の男に前後をかつがれ、おなじ黒装束の交替役に附きそわれて、健三の母と二階の二人の職人との三人に送られて、日暮里《につぼり》の火葬場にむかった。それを、門口で、丈助と、雪江と、母に呼ばれて駈けつけて来た健三との三人が見おくった。
 棺を見おくった後で、しばらくしてから、丈助が、健三に、ぽつりぽつりと切った言葉で、こういう意味の話をした。
「お前はんは私より古うから東京にいなはるんやから、何ぞええ考えおまへんか、私に出来る商売で、せっかく教えてもろた子供靴がこんな事になってしもて、まったく途方に暮れたよ。そこへ、お楽がこない急に死んでしまいよるし、雪江では何ぼの働きもでけへんさかいな。……それに、秀夫にだんだん手がかかるようになるし、……」
 丈助が愚痴をこぼしたのは、後にも先にも、昨日と今日だけであったから、商売などとはまったく反対の世界に住んでいる健三ではあるが、よくよくの事にちがいないと同情されて、ない智慧もしぼれるだけしぼる気になって、彼は、腕をくみ、目をつぶって、考える恰好《かつこう》だけをしてみたが、しばらくして、
「あなたは、ミシンの方は出来ないんですか、……これまでは買い出しの役をおもにしていた訳ですか、」と聞いてみた。
「そやそや、……しかし、はじめはラシャの切ればかしやったが、あの家でも、子供靴だけでは商売にならん云うて、玩具とか、座蒲団《ざぶとん》の皮とか、そんなもんを拵えるようになってからは、ラシャ屋ばかしやなく、洋服屋とか、呉服屋とか、何でもかんでも、切れに似たもんをあつかう家を、片っ端から廻らされたもんや。……そいで、ある時、私が、こんないろいろな切れで何をこしらえはるネと聞くと、それは秘密やから云うて教えてくれへなんだ……」と丈助は云った。
「ちょっと、ちょっと、……」と健三はさえぎった。「じゃあ、あの家では、子供靴のほかに、玩具や座蒲団《ざぶとん》の皮ばかりでなく、まだまだ、色んな物をこしらえてる訳ですね。だから、洋服屋の切れでも、呉服屋の切れでも、切れという名のつくものは片っ端からいる訳なんですね、」と聞きかえした。
「左様《さい》や、左様《さい》や。」
 それを聞くと、健三は、今度は、恰好《かつこう》だけでなく、本当に沈思黙考した。それに十分程かかってから、
「そんなら、ね、……あなたは一つその先《せん》をこして、あなたが廻らされたという、東京じゅうの、そういう、何でもかんでも、切れに似たものを扱っている家を、片っぱしから特約して、fつまり、買い占めるのです、
  そうして、あなたの店に行ったら、東京中のあらゆる種類の切れがある、  と、こういう商売をやって見たらどうです、」と健三はこれだけの言葉を一気|呵成《かせい》にしゃべった。
 この健三の新案の商売も、前の裁《た》ち屑《くず》買い出し人兼子供靴行商人を丈助にすすめた時のように、一気呵成に丈助も同感し、丈助は、仏は仏、人は人、という主義になって、お楽の遺骨を持って、すぐ高天村に帰り、兄の竹蔵から資本を借りて来て、早速それを始めることになった。そうして、丈助は、健三が思ったより、健三が喋《しやべ》ったより、もっと迅速に彼の新案の仕事を実行した。
 丈助は、亡妻の遺骨を持って、雪江と秀夫とをつれて、高天村にかえり、遺骨の処分一切を竹蔵に頼むと共に、ついでに、雪江と秀夫も、当分という名義で、竹蔵の家にあずけ、竹蔵から改めて借りた資金だけを持って、一人で上京した。
 その時、丈助は五十歳、健三は二十六歳であった。
 三年たった。
 その時、健三は、ある事情のために、母を青山の親類にあずけ、自分は九段中坂に下宿生活をしていた。或る事情というのは、健三は余りかんばしくない恋愛事件のために三年の月日を棒にふった。もっとも、それから三四年の問は、日本の文学界に、私小説と称して、恋愛事件でも生活苦でもそのままか或いは潤色したものが持てはやされていたので、彼も、その後、その余りかんばしからぬ恋愛事件を嘘と誠とを織りまぜて小説に作り、文学界の末席を占めたのであるから、丸きり棒に振ったとも云えないかもしれない,しかし、その時はまさかそんな事になるとは思わなかったので、彼は、その恋愛事件を当節の流行言葉で云うと、『清算」して、さア、これからは長年の望みであった小説を作る事に没頭しようと思い立った。
 当時、健三の何入かの友だちは、既に、新進小説家として、世に出、あるいは出つつあったので、彼は、世に出る出ないは二の次ぎとして、小説で生活できるようになったら、長年苦労させた母に楽をさせようと思った。というより、彼自身、三年棒にふったお蔭で、(その中には恋愛事件の外に貧困生活もはいっていた、)何というか、小説の思いで心が破裂しそうな気になっていた。そうして、その破裂しそうな心の思いに表現を与えたならば、友人たちが書いている小説より、上手下手は別として、自分だけの変ったものができるであろう。森鶴外がその子に云い聞かしている、「物を書くというには何でも其の人でなければ書けないというものでなければ価値がない、」と。その通り、と自信たっぷりの彼は考えたのであった。唯、ここまでの考えは空想でできることであるから、いくらでも彼の自由にはなったが、自由にならないのは下宿料滞納の問題であった。が、その頃、棒にふった筈の三年問に、余り実生活に執著《しゆうちやく》し苦しめられたので、その反動が来たのか、彼は空想が好きになっていたらしく、自由にならないと考えた下宿料滞納の問題になやんでいるかと思うと、どこかに寛大な下宿屋があって、自分の才能を見こみ、相場でもするつもりで、せめて半年ぐらい、催促しないで置いてくれるところの、この世ながらの地上楽園とか桃源とかいうものがないであろうか、などという事を真面目に考えたりした。
 しかし、いくら、彼が、空想をほしいままにし、一人合点を楽しんでいても、その頃、日に一度下宿のお上は催促をしないで催促する法  というのは一日に十分か十五分ほど彼の部屋に訪問する法  を考案して、彼をいわゆる真綿戦法で責めつづけた。しかし、幸いな事には、そのお上は、妾《めかけ》という別の職業を持っていた上に、更に幸いな事には、彼女の保護者が、自分の妾が若い男たちをあつかう商売をしている事が気になって、時間をきめずに妾宅《しようたく》を訪問して来る習慣を持っていたので、彼女は、いくら真綿戦法で、彼の部屋にやって来ても、いつ玄関に現れるかわからない、保護者の足音を気にしていたので、その巧みな催促が、殆んど効果がないと云ってもよかった。それで、健三が、もし小説を書くというような望みさえ持っていなかったら、そうして、度胸あるいは太い神経を持っていたら、この下宿は、彼の希望どおり、半年が一年でも、(保護者がかわらない限り、)この世の地上楽園あるいは桃源にもなったかも知れない。しかし、『天、二物を与えず、』とでもいうか、彼には小説を書きたいという神あるいは悪魔の心と細かい神経があり過ぎたので、彼の下宿は、地上楽園あるいは桃源の資格がありながら、彼には、その反対のものであった。ところが、一つの道楽がその頃の彼を救った。それはこういうのである。
 それは、彼の下宿(九段中坂)から東京一あるいは日本一の古本屋町が十分内外の時間で行かれるので、そこへ毎日かようことであった。そうして、珈琲《コーヒ》と菓子代さえあれば、疲れたら、それで休息することにして、この日本一の古本屋町を軒なみに出つ入りつして自分の好みの本を開き見するという道楽である。そうして、この道楽は金なしに何時間でも楽しむことが出来るのであるから、これこそ彼の地上楽園あるいは桃源であった。
 その頃の或る日、健三は、中坂の下宿を出て電車通りを、九段下、それから俎橋《まないたばし》、表裏神保町、駿河台下《するがだいした》、という、いつもの道を、例の道楽を楽しもうと思いながら、俎橋をわたった。ところが、そこで、三年ぶりで、懐しき中戸丈助に出あったのである。



 中戸丈助は大黒様の持っているような鬱金色《うこんいろ》の大きな風呂敷つつみを大黒様のような恰好にせおいながら進んで来た。丈助の方は、健三が実に見すぼらしい形《なり》をしていたので、四五歩の問に近づいた時、健三の方から笑いかけたので、やっと健三を見いだした。が、健三とわかると、彼は、たちまち、その風体どおり大黒様の笑顔になって、
「おお、」と健三が三年前にわかれた時とは別人のような朗かな声で叫んだ。そうして、健三が口をきかない先きに、(こんな事まで三年前と反対であった、)「お前はんたちはどうしなはってん、こないだ本郷へたずねて行たら……」と云いかけて、丈助は口をつぐんだ。反射的に健三も心の中で首をちぢめた。
 それは、その本郷の家を、健三は、母が大阪の伯父(祖母の死んだ時、輿《こし》を共に持った伯父)が死病にかかった時、その看護に行った留守の間に、例の恋愛事件の相手と夜逃げをしたからである。健三は、丈助に『本郷へ訪ねて行ったら」と云われた時、その事を思い出して、丈助もそれを知って知らぬ顔をしているのではないかと邪推されたので、てれ隠ししに、
「丈助さん、」と初めて彼の方から口をきいて、「いつか、僕の祖母が、高天村で死にました時、あなたと車屋の阪田さんとに助けてもらって、僕と一緒に祖母の輿《こし》をかついだ伯父を御存知でしょう。ちょうどあなたが本郷へお出で下すったという時分に、母はあの伯父の看護に大阪へ行っていたんです。その伯父は前から体がわるくて、堺に転地して養生していたんですが、その堺で母に死に水を取られて死にましたよ、」と云った。すると丈助は、驚いて、
「へえ、分からんもんやな。あんた(この頃から、丈助は、健三に、お前《ま》はんという代名詞とあんたという代名詞をまぜこぜに使うようになった)のお母はんと伯父さんは仲がわるかったんやないか、……喧嘩《けんか》をせんほど仲がわるかったいうやないか。……それが死に水を取って上げなはったんかいな、へえ::-。しかし、あんたのお母はんはほんまに仏性《ほとけしよう》やなア。私の知っているだけで、あんたのお祖母はんの、つまり、自分のお母はんに死に水を取って、その次ぎは、他人のお楽の死に水を取ってくれはって、その次ぎは、あんたの伯父さん、つまり、兄さんの死に水を取りはったやろ……ふむ。あんたのお母はんは、屹度《きつと》、ええ往生をしやはるやろな、……ふむ、」と丈助は終りの方を唸《うな》るように云った、
「それにしても、丈助さん、」と健三もだんだん慣れて話し出した。h考えて見ると、僕の祖母は、自分の家をはなれて、高天村で死に、あなたのお上さんは、故郷をはなれて、東京で死に、僕の伯父は、自分の家で死なずに、転地さきで死に、……」
 ふと、気がつくと、その時、今まで笑い顔をしていた丈助の顔が、ちょっと歪んだように見えた、というより、泣き顔に近い顔になったので、健三は、そこで口をつぐんだ。彼の妻のお楽が死ぬ時、『高天に往にたい、高天に往にたい、」と叫んだというのを母から聞いた事を思い出したからである。が、丈助は、すぐ元の顔つきになって、
「お母はん、今どこにいやはんね、」と聞いた。それで、健三が青山の親類の家にいることを答えると、丈助は、つづけて、
「お前はんは、」とたずねた。そこで、健三が、こうこういう下宿にいると答えると、
「それや、いかんな、」と丈助は、その時、はじめて健三の形《なり》を見て、その境遇を察したらしく、「あんた、これから何処へ行きなはんね、」と聞いてから、馳何なら私《わし》んとこへ来なはれんか、お前はんのお蔭であの商売を始めてるんやが、……お蔭で、工合よう行てる。……家も、あの近くやけど、変った。また、いろいろ相談にも乗れるかも知れへんし、遠慮はいらん、私の今の商売があんじょう行くにつけて、お前はんの事を思い出して、喜んでるんや。……人は持ちつ持たれつという事もある。……あんたは、私みたいに歩くのは否《いや》やろから、その辺から電車に乗ろ、」と云った。
 その日から健三は丈助の家の居候になった。  思えば、彼が下宿で空想したことがほぼ実現されたことになった。
 丈助の今度の家は前の家の二倍以上もあった。家族としては、丈助のほかに、ミシンエの十七八歳の流行唄《はやりうた》の好きな職人と、二十七八歳になる元俳優の馬の脚であったという番頭との三人ぐらしであった。下は、八畳ぐらいの店の問と六畳の茶の間と、その奥に三畳の部屋があったが、二階は、一と間で、長八畳で、目方が十二貫いくら程しかない健三が上がり下りしてもギイギイと気味のわるい物音を立てる絶壁のような急な梯子段《はしごだん》によって通じていた。しかも、その出入り口は、穴倉のように畳一枚分ほど切り取られて、そこに戸がついていた。それで、上がって行く時は下からその戸をあけ、下りる時は上からその戸を開かねばならなかった。その二階が健三の部屋ときめられた。
 それは、下町の古風な借家によくあるように、真中から端(表)の方へ行くにつれて天井が低くなっていたので、窓の所は三尺ぐらいしかなかった。その窓の下に、丈助の心づくしの、荷箱をこわして拵えた、机が置かれた。それは、普通の机のつもりで肘《ひじ》をつけば、すぐメリメリという唸りを発した。しかし、健三は、この机の作り手の丈助のためにも、親類に姥捨山《うばすてやま》のように預け放しになっている母のためにも、天から授けられたこの絶好の機会をつかんで、十二一二歳からの念願の小説を作らねばならぬと思い立った。
 翌日になると、丈助が、お手の物の小切れをつぎ合わした一枚の風呂敷大の切れを持って来て、喇これを机掛けにしなはれ、」と云った。すると、流行唄好きのミシンの職人が、
「それはあんまり見っともないから、」と云って、これも小切れをつぎ合わしたものであるが、ミシンの専門家だけに流行唄好みの意匠をこらした机掛けに直してくれた。
 丈助は、電車賃を倹約した金で、晩のおかずを買って帰る習慣になっていたが、それが牛肉のこま切れのときは、馬の脚番頭が葱《ねぎ》と豆腐を提供し、流行唄職人は糸蒟蒻《いとこんにやく》を寄附した。そうして、このミシン職人は不断の炊事一切を引き受けていた。
 健三が丈助の家の居候になってから二一二日後の或る雨の日、買い出しを休んだ丈助が、
「御免やす、」と突然梯子段の上がり口から顔を出して、彼の書斎兼寝室の屋根裏部屋にはいって来て、
「わし、一ぺん聞こ聞こ思てて、聞くひまがなかったんやが、……一体あんたのしよと思てる、……つまり、目的やな。それは、一体、どんな事やね、私に分かるように聞かしてもらえまへんか、」と云った。
 この不意の質問にはさすがの健三も、面くらって、咄嗟《とつさ》に返答が出来なかった。これが、相手が、多少でも、文学とか小説とかの知識を持っているか、中学校卒業程度の教養を持っているか、したら、訳のない事であったが、丈助のような人物にこの質問に満足させる答えを与えることは如何なる善知識でも、万人の心を持つと云われるシェエクスピアでも難儀なことであろう。が、今はそんな理窟を述べている時ではないから、と思って、健三は、これまではずいぶん無駄な事ばかりして来た、というのは、教科書の註釈とか、子供の読む童話と外国の小説の翻訳の下請けとか、- そんな事をして、その日その日を糊塗《こと》して来たが、ここで一つ、大決心をして、年来の志望である小説を書くつもりである、という意味のことを、出来るだけ丈助にわかり易い言葉で説明して見た。すると、丈助は、半分わかったような、というより、三分わかり七分わからないような、顔つきで、
「その、小説ちゅうもんをこしらえるには、一体どれくらいの日イがかかりまんね.そして、それが出来あがったら何ぼぐらい儲《もう》かりまんね、」と聞いた。
 この質問にも、健三は、少なからず、面くらったが、
「さあ、二月か三月ぐらいあったら、……」
と瞹昧《あいまい》に答えておいた。
 さいわい、丈助はその曖昧な答えを曖昧と見抜く力を持っていなかったので、その日の問答は『しっかりやっとくなはれ」という丈助の激励の言葉とともに終りを告げ、それからは月日は春のように穏かに過ぎて行った。
 毎朝、七時になると、新らたに加わった健三を入れて四人の者が、下の六畳の茶の間で、古道具屋から買ったらしい食卓をかこんで、朝飯を食った。この朝飯の問にかわされる会話は、世にも楽しいものであったが、割愛する。唯、この朝飯の問の会話は、健三のような者にも憂き世の苦労を忘れさせた事だけを書いておく。ただ、健三がときどき参ったのは、丈助が、「どうや、小説、ちっとは書けましたか、」と、突然、聞くことであった。これは、この楽しい春の団欒《だんらん》の中での、健三にとっては、青天の霹靂《へきれき》の感があった。彼の小説が、これまた春日のごとく遅々として進行しなかったからである。が、それは五日に一度か一週間に一度ぐらいであったから、まず健三が発案し丈助が実践した和漢洋諸種小切れ問屋の一家は、これを支那流に云うと呉越同舟、日本流に云えば乗り合い船、四人が四人とも、赤の他人ではあったけれど、真に、和気靄靄《わきあいあい》、共同一致、模範的な分業制度さえ行われていたと云っていい。何故なら、この楽しい朝飯がおわると、丈助は例の鬱金色《うこんいろ》の大風呂敷を八つにたたんだのを懐中して買い出しに出発し、流行唄《はやりうた》のミシン職人は、奥の三畳の間にこもって、彼の愛機であるミシン台につき、ガラガラという機械の音に合わして流行唄をうたいつつ八時間以上の労働をし、もと馬の脚の番頭(彼は馬の脚ではありません、女形《おやま》でしたと弁解した)は、朝から晩まで店頭に坐って、女形のように愛想よく客に接し、馬の脚のように活潑《かつばつ》に商売の駈け引きにつとめ、健三は例の踏む毎にギイギイ鳴る梯子段《はしごだん》を上がり、起きてから寝るまで、三度の食事と用足しに下りるほかは、その書斎兼寝室である屋根裏部屋に閉じこもって読み且つ書く事にいそしんだからである。
 ところが、突然、この男ばかりの一団が余儀なく解散しなければならぬ事件が持ち上がった。それは一人の女がこの一家に加入する事になったからであった。その女というのは丈助の後妻のお万である。お万は、高天村の生まれで、偶然にも嘗《かつ》て健三が高天村に寓居《ぐうきよ》していた時、その離れを借りていた山目の家の姉娘であった。このお万を丈助が後妻に迎えようとは、当の丈助も、又そのお万を満更見ず知らずでない健三や彼の母にも、まったく思いがけない事であったが、それにはこういう訳があった。
 高天村にいる丈助の兄の竹蔵は、既に六十二歳になっていたので、年頃になっている伜《せがれ》の丈太郎の行く先きが案じられ、また妻を失った弟の丈助の身の上も心配になり、丈助から託されている雪江と秀夫を、早く親であり祖父である丈助に引き取ってもらいたくなり、という考えから、丈太郎に嫁をもらう事、丈助に後妻を世話する事、雪江と秀夫を東京へ帰す事、という結論を得た。そうして、それには先ず丈助に後妻を世話すれば、しぜん、雪江と秀夫は東京に帰ることになる。雪江と秀夫がいなくなれば、丈太郎はすぐにも嫁がもらえる、ーーiこう考えた竹蔵は、一も二もなく、(それは丈助の先妻のお楽が死んだ時から考えていたことなので、)山目の姉娘のお万を丈助の後妻に世話しようと思った、それにはこういう理由があった。
 もともと、中戸の家と山目の家が、田舎には珍しく親戚《しんせき》関係が全くなかったのに、真の親戚以上に親しくしていたのは、竹蔵が博徒であった頃、山目の夭死《わかじに》した主人と義兄弟の関係があったからで、その夭死した義兄弟の娘(お万)を自分の弟(丈助)の後妻に迎えたら、両家が真のしたしい親戚になる、とこういう単純な考えからであった。が、この竹蔵の考えは成功した。というのは、彼は、首尾よく丈助に後妻を世話し、雪江と秀夫を東京にかえし、その翌年、一つ年上であったが、体が丈夫という理由で、丈太郎の嫁に適当なのがあったので、それを貰ったからである。
 竹蔵は、これでもう思い残すことはないと考えたのか、丈太郎に嫁をもらった翌年の秋、久しぶりで東京見物をかねて、自分が後妻を世話した丈助の家の有り様を見るために、上京した。竹蔵は、丈助の家が思ったより繁昌《はんじよう》していたのも嬉しく、自分の世話した後妻のお万が働き者で倹約家であったので、丈助も満足し、家の中も丸くおさまっているのを見とどけたので安心して、一週間ほど滞在した後、いよいよ明日は大和へ帰るという前の日、彼は健三の家をたずねようと思って丈助の家を出た。
 竹蔵は、道道、心の中で、丈助もええ按排《あんばい》になったし、丈助の話では、健三はんも出世して嫁はんをもらったということやから、お里はんもさぞ嬉しいことやろ、そのお里や、その健三や、まだ知らぬ健三の嫁にも逢いたい、と楽しみながら、丈助から聞いたとおり、上野公園前で電車を下り、公園を抜けて、無事に谷中の健三の家についた。
 竹蔵が健三の家の前に立ったとき、ちょうど家の中から健三の母のお里が買い物に行こうとして出て来たところであった。出あい頭に、お里は竹蔵がひどく疲れたような顔をしているのを見た。しかし、その時は、ただの疲れであろうと思って、彼女は、早速、下の座敷に竹蔵をとおし、久闊《きゆうかつ》の挨拶をかわしてから、もう一度彼の顔を見なおすと、さきにはただの疲れのように見えたけれど、今度は何か痛みを堪《こら》えている顔に見えたので、一竹蔵さん、顔色が大へんわるいようだすが、……」と彼女が聞くと、…、さあ……」竹蔵は、その時まで我慢していたらしい下腹を急に押さえながら、舳公園の中をぶらぶら抜けて来たんやがナ。……動物園の前かしら、何でもあの辺をあるいてる時分から、この辺……下腹が、こう、しくしくして痛み出してきてナ、……もう引っ返す訳にいかんさかい、やっと腹を押さえ押さえあるいて来たんや、……」という。
 そのうちにも、竹蔵の顔色がわるく青ざめてきたので、彼女は、ちょうどそこへ茶を運んで来た健三の妻に、挨拶するひまも与えず、寝床の用意を命じ、自分は竹蔵の側によって、悄お医者はんを呼びまよか、」と聞いた。それほど竹蔵の顔色がただならぬ色に変ってきたのであった。竹蔵は、それに返事をするのも大儀らしく、かえって、下女と一しょに床を敷いている健三の妻の方を見て、翩とにかく、ちょっとそこに横にならしてもらオか、」と苦しそうな声でいった。
 迎えにやった医者は、病気は腸加答児《ちようカタル》で、それも慢性であるといい、病人の年が六十六歳だと聞くと、医者は、首を傾《かし》げて、それでは長く持たないであろうと云った。お里は、それを聞くと、さっそく丈助の家に電話をかけた。
 タ方、丈助が来た頃は、竹蔵の病気が幾らか持ち直したように見えたのと、病人も帰りたいといい、相変らずの遠慮家の丈助も連れて帰るというので、病人は、丈助に連れられて、車で、丈助の家に帰った。
 それから、竹蔵は、一週間ほど、丈助の家で床についていた。その間に、さきの医者の言葉を聞いているので、健三は母と一しょに見舞いに行った。その帰りに、お里は持ち直すかも知れないと云ったが、健三はそれに何とも答えなかった。
 発病してから一週間目のタ方、竹蔵が、すこし気分がいい、それで、国へ帰るのに元気をつけておきたいから、起きて飯を食いたいと云い出したので、兄おもいの丈助は、特に近所の料理屋から二三品の料理を取り寄せた。それを、竹蔵は、「大和へ往んだらこんなうまい刺身は食われへん、」などと云いながら、上機嫌で食ったが、その刺身を三四きれたべた頃、突然、持っていた箸《はし》を落とし、
「何や急に気持ちがわるなって来た、……胸が……どきどき……」と云ったかと思うと、静かにお辞儀するような恰好《かつこう》をして、食台の横に俯伏《うつぶ》しになってしまった。丈助は、バネのように跳ねあがって、竹蔵の側に飛んで行き、後から抱きおこしながら、
「電話、……お万、……電話、……電話、……」と叫んだ。医者という言葉も、医者の名も、忘れてしまったらしい。ところが、お万が電話口の所でうろついているうちに、竹蔵は、丈助に抱き起こされた時、ちょっと体を持ち上げられたきり、急に、丈助の力に余るほどの重さで、のめるように俯伏してしまつた。そうして、それきり、竹蔵は物を云わなくなつた。



 七年が立った。
 三月下旬の或る晩、健三は、ふだん滅多に足を向けたことのない浅草へ出かけて、これも、滅多に足を入れたことのない活動写真館

駅にし、マノ.犬力 くま皀ナ〜しびマ 4・透マ

出た。そうして、暮れかけたばかりの広小路の通りをあるいていると、ふと、道の側に『大阪料理何某』とかいた看板を見出した。大阪料理という看板は方方に見かけるが、その店頭にならべてあった大阪風の陳列箱が本当の大阪の物であったので、彼は何か懐しい気がして中にはいった。はいった所は土間で、簡易食堂風のテエブルと腰かけがならんでいたが、彼が取っつきの席に腰をかけて、献立書を読んで見ると、それはことごとく純大阪料理ばかりであったから、急に懐しさと食慾を感じて二三品注文した。そうして、料理のできるのを持つ問も、彼は、滅多に他の客の方を見ない癖であったから、手近にあったタ刊を取り上げた。と、突然、むこう前から彼の名を呼ぶ声が聞こえた。それが余り近くであったので、びっくりして目を上げると、呼びかけたのは、思いがけなく、中戸丈助であった。
 健三は、彼の母は月に一二度くらい丈助の家を訪問するが、彼は、殆んど訪問したことがないのと、他の場所で逢ったのなら何でもないのであるが、場所が丈助の家の近くであったので、穴にはいりたい程、というと大袈裟《おおげさ》であるが、かなり極《き》まりがわるかったので、てれ隠しに、母がときどき邪魔に出ること、自分が無沙汰をしていること、などを云いかけると、
「そんな堅苦しい挨拶は抜きにしまヨ、」と丈助も大分空の徳利をならべているのが極まりがわるかったので、そう云ったのかも知れないが、彼は、飲んでいるだけで、不断の無口の反対に、健三が初めのうちは呆気《あつけ》にとられたほど雄弁になった。そればかりでなく、健三は、酒は一滴もいけない方であったから、その晩は、徹頭徹尾、丈助に圧倒された形になった。
「わし……ずっと先《せん》から、あんたに一ぺん逢いたいと思て、お母はんに逢うたんびに、頼んでおくんやが、……」そこで、一と口飲んで、「わしは知ってのとおり、こんな性分やさかい、あんたに逢《お》うても、云いたい事あっても、口がきけんもんやさかいな……それに、わし、……あんたとこ見たいな堅苦しい家は苦手やしな……」と、酒の勢で、丈助は本音を吐いた。
「いや、……僕の方も、……僕も、少しお酒が飲めると何ですが、……それに、忙しいものですから、つい……」
「わかった、わかった、」と丈助は手で健三の言葉を制して、「わし、……つい四五日前、大和から帰って来ましてん。」
「しじゅう、あちらの方へお出でになるんですか、」と健三は聞いてみた、しかし、これは間《あい》の手《て》で、彼は丈助がときどき大和へ行くことは母から聞いて知っていた。が、それだけでは何か心に咎《とが》めたのと、同時に、気がついて、「丈太郎さんはどうです。この頃しばらく便りがありませんが、お体の方は、……」と、これは本当に、聞いてみた。
「さあ、どうもはっきりせんので困ってる。あんた、聞いてるか知らんが、あの子のほんまの親父、ちゅうのンは、わしにも、死んだ兄貴にも、兄貴にあたるんやがね、その一上《いつちうえ》の兄貴がな、肺病で死んでるさかい、それで、わしは心配してるんヤ。それに、あの子の母親  あの、お政さんがあの子とは他人やろ。あの母親が欲ばりでナ、兄貴が死んでから、あそこの財産を自分の身内に運んで行きよるらしいね。わしでも側にいたら、そんなこと出来《でけ》へんねけど……。それに、丈太郎の嫁は、なかなかしっかりもんやけどな、何ちゅうても年が若いよってン、何にもなれへんし……」
 丈助の言葉はこの二倍も三倍もあったが、その後の方を簡単に述べると、三←歳になる病身の丈太郎が三十一歳の人並すぐれて達者な嫁と一しょにいる事、それは夫婦《めおと》やから仕様がないが、兎に角、あの若さに三人も子をこしらえるのンはようない、そらア、子オがたんとあるのは子福者いうて目出度いことにはなってるが、……
「あれでは、な、健三さん、」と丈助は云った。「丈太郎が死による。な、そやおまへんか。あんた等のような学者の目工からみても、私の心配は無理やない思うけど、……な、そやおまへんか、どうだす。」
 この言葉は、おそらく酔っている丈助(無論、この言葉は、酔ってはいても、丈助の本心である)より、酔っていない、そうして、こういう事件については丈助より確かな知識を持っている筈の健三の方を、より多く驚かせ、より多く心配させた。
 しかし、以上の事は、まだ健三の意表に出る程の事件ではなく、むしろ彼が既にほぼ知っていた事ではあるが、次ぎの二つの事件は、健三の、知らなかった事であり、思いも及ばなかった事であった。その一つはこういうのである。
 丈太郎の母(義母)のお政は、いわゆる商売人ではなかったが、竹蔵に片づく前にかなり不品行な女であった。(もっとも、大和の、殊に、葛城郡高市郡辺の機織りの盛んな土地の娘たちは、前にも述べたように、殆んどみな機織りをするので、男たちの何倍もの収入があるために、大抵の家の娘たちは、家計を助けるために晩婚である、そのために若い男女の風儀が想像以上にひどいが、)丈太郎の義母のお政(竹蔵の妻)はそのひどい中の最もひどい者で、
「体じゅう毒だらけと云うてもええくらいや、……よう今まで生きてよると思うくらいや、もっとも、年じゅうけったいな病気ばっかししていて、病気でない日イは一日もないくらいやろ。その証拠に、あの女子《おなご》は体じゅう灸《やいと》だらけや、」と云うのである。
 もう一つの健三の思いも及ばなかった事というのはこういう話である。
 丈助は熱心な天理教信者であるが、それで、丈助がいかに熱心な天理教信者であるかを知ってる人は殆んどなく、[これはわしと天理《てんりん》さん信者の外には誰も知らんことだす、」
と丈助が云う通りであるらしい。しかし、彼が天理教を信仰する理由は一般の信者とは大分かわっていた。彼はその事をこう云った。
「私には神さんなんてあってものうてもかめへんネ。わしは、天理さんが、信者から上げた金を、みな信者のために使うちゅう主義が好きやね。……ほんまの話や、その証拠に、天理さんへ行て、今日から信心するいうたら、信者でのうても、その日イからすぐ引き取って養うてくれよる。わしは、あの主義が好きやネ。わしらには学者のいう事はよう分からんから、社会主義なんちゅうもんもよう知らんけど、天理さんは、社会主義が理窟だけでいう事を、本真《ほんま》にしてるようにわしには思えるさかい、そこが私は好きやネ。そやから、私は大和へ帰るたんびに天理さんへ寄って銭を上げることにしてんネ。……健三はん、私は酔うてるようでも酔うてへんデ。だから、頼んどきまっけど、この天理さんの事と天理さんに銭あげる事だけは、あんたのお母はんにも、うちのお万にも、誰にも云うとくなはんなや。……わしはあんたには昔から惚《ほ》れてんね。そやさかい、あんたを見こんで、こんな秘密の話までしたんや。……」
 この丈助の何かに憑《つ》かれた人のような話は、ここで、一変した。
「そうそう、」と丈助は急に思い出したように云った。「この間、兄貴のお墓まいりしたついでに、あんたのお祖母さんのお墓にまいったら、あのお墓の台石がくずれて来て、ひどっこう傾いてたさかい、村の石屋に見さしたら、今のうちに手工入れたら、あのままで直るというとおったけど、私の考えでは、今のあんたの力で、すっかり墓石とも変えてしもた方がええと思うんや。あのまま直したかて、何年も持てへんと石屋も云うとおったさかい……。何なら、健三はん、近いうちに、わし、また彼方へ行くつもりやが、一しょに行きはったらどうだす。」
 しかし,その時の、健三が生まれて初めて聞く丈助の饒舌《じようぜつ》は、素面《しらふ》の丈助のいえない言葉の連続ではあるが、その中の大部分は酒の上でなければ吐けない丈助の本音のように彼に考えられたので、最後の高天行きを誘われた時、彼は一も二もなく行く気になった。
 その頃、健三も何処かへ旅に出ようと思っていたところで、いつも同業の友人と行くのが例であったが、急にこの丈助と旅してみたい気が勃然《ぼつぜん》として彼におこった。健三にも、丈助に天理教が憑《つ》いたように、何物かが憑いたのであろうか。
 おなじ頃、健三の母が丈助を訪問した時、こういう話がある。
 その頃の丈助の家は、健三が居候していた時と同じ家であったが、以前の各種和漢洋小切れ一切問屋を一そう発展さして、反物類まで置くようになっていたから、小切れ類はことごとく棚に載せ、反物類は店の随処に積み辷げることにしていたので、その反物の山の中にすわっている丈助の体が小さく見え、女ながらも丈助に劣らぬ体格のお万も、その反物の山の中では小ちんまりして見えた。そのために、品物が主人か、主人が品物か、区別が附かないところさえあった。言い換えると、家全体が品物の蔵で、人間はその品物の番人の観さえあった,
 丈助の店が発展したのはそればかりではない。丈助は、後妻と娘と孫をむかえることになった時、むかし艱難《かんなん》を共にした馬の脚番頭と流行唄《はやりうた》職工を首にしないで、彼等のために、自分の家の近所に借家を見つけ、無利子で資本金を貸し、自分とおなじ商売を開かせてやった。その代り、今は、彼の家には、二三人のミシンエが住みこんで働いていた。
「どうです、御商売の方は、」と健三の母がいうと、
「まあ、お蔭でどうかこうか忙しいけど……」と丈助はいった。
「もう随分お金が溜《た》まりましたやろ。」
「ああ。二三日前にちょっと勘定してみたら、銀行に入れたある金と、……それから、株券や田舎にある田地や、山を入れると、六万円ぐらいあったさかい、品物と貸しを入れて見つもると八万円ぐらいになっとるかもしれへん。」
「まあ、結構だんな。」
「ああ、お蔭でな、」と答えたが、丈助は、その金高の何万分の一程しかない不元気で、酬しかし、わしもうこれ以上金いらんと思うね。入《い》らんちゅうたかて、商売の方が儲《もう》けよるもんやから、嫌でも勝手に殖えていきよるさかい仕様《しよ》がないし、というて、ほかす訳に竜行かんけど、……お里はん、の一て苦労するのンも金やし、あって苦労するのんも金だんなア。」
「そんな入らんお金があったら私のとこへ貸してもらいまよか。」
「何いうてなはんね。あんたンとこなど、今はもう困る事あれへんやろ。……わしが、金があっても苦労するちゅうのンは、貸してやりたいとこがぎょうさんあるし、金が出来《でけ》ると、方方から当てにしよる者があるし、……しかし、金を送ってやるのンはわしはかまへんけど、前と違《ちこ》て、お万の目があるやろ。」一そんな事、あんたが儲けたお金やおまへんか。そのあんたがお金を何処イ送うと、あんたの勝手やおまへんか。」
「それがなア、……」と丈助は溜め息をついて、「あいつは、わしとは夫婦《めおと》でも、ほかのもんとは他人やさかい、わしが身内のもんに銭や物を送ると、ええ顔しよれへん。それで、内証で隠し隠し送ってやるようにしてんね、……ところが、その隠しどこをどういう訳や、じき嗅《か》ぎ出しよンね、袂《たもと》の中はしよがないとしても、額の後に隠したのンまで見つけよんねやからな。しかし、わしが達者なうちはええけど、わしが目工つぶった後を考えると……」
「そんな心配はまだ入らんことだっしゃうけど、そんなに心配やったら、遺言にしときなはったらどうだンね。」
「それをわしも考えてんね。その事で一ぺん健三はんに逢《お》うて頼んどきたいと先《せん》にから思てんねやがナ。あんたも知ってる通り、わしの一ばん心配なのは、丈太郎と、雪江と、秀夫や。……丈太郎は体が弱いし、雪江は、あの通り、少し足らんと来てる。そこへ、秀夫があれやろ。結局私は、ゆくゆくは、この商売を丈太郎に譲ったろ思て、前は楽しみにしてたんやが、あの体ではたよりにならんし……そう思うと、私は、食うて食うて、食いつぶすか、飲んで飲んで、飲みつぶすかしたろ思うことがあるけど、それがあかん、二三年前までは牛肉の百目ぐらい食うても何処イはいったか分からんほどやったが、この頃は五十目の肉を残す有り様やがな。……酒も、この頃は内では二合飲むと参ってしまう。その代り、外へ出るとまだ五合や一升やるけどなア。しかし、ちょっとやり過ぎると、心臓があかん。じき、どきんどきんしよンね。心臓がどきんどきんすると、兄貴の死んだ時のことを思い出すネ。そうすると、今にも、死にそうな気がするネ。けど、今、わしが死んだら……また死ぬ話をするけど、……今、わしが死んだら、たちまち大騒動や、お万の身内が一派あるやろ、丈太郎はがしんたれ(意気地なしの意)やけど、あの嫁はんが至ってしっかりもんときてるやろ。あの嫁はんの一族がある。それに、丈太郎の母親の身内が蟻のようにうようよいよる。  さあ、そいつ等が、わしが死んだら最後、寄《よ》って集《こ》って無茶苦茶にしよるやろ。  按排《あんばい》わけてくれさえしたらええけど、それが皆、欲の皮の突っばった連中ばっかりやからな……」
「そやさかい、遺言を……」
「左様《さい》や、左様《さい》や、その遺言を、……今いうた通り、あんたンとこの健三はんに頼もと思てるんやから、あんたからよろしゅう云うといとくなはれ。」



 さて、丈助と健三が浅草の大阪料理屋で逢ってから十日ほど後、四月上旬のある晩、彼等は二人二様の旅姿で東京駅の待合室に現れた。丈助は、茶縞の結城紬《ゆうきつむぎ》に既成品らしい綿ラクダのトンビ、それに、古風な鳥打ち帽をかぶり、手製の信玄袋をさげ、健三は、薄鼠色《うすねずいろ》の背広服に、おなじ色の外套《がいとう》、それに、おなじ色のソフト帽をかぶり、中形のスウツ・ケイスを持っていた。その時、丈助は五十九歳、健三は三十五歳であった。ーー彼等が汽車の時間を待っている問に、当時の彼等の身分を簡単に述べると、丈助は八万七千円の財産(丈助が自分の財産の額を多くも少なくも云わないという珍しい性質を持っていることは前に述べたとおり)を作り、健三もまた、八万七千円ぐらいの名声と地位を得た。(それを丈助が納得の行くように相撲の番附で表すと、丈助が彼の同業仲間の幕内ならば、健三も文筆仲間の幕内にはいったというべきか。)  さて、汽車の出る時間が来た。彼等は午後九時三十分発の神戸行きの急行に乗った、「大和高田ゆき(京都廻り)」という切符を持って。丈助が三等というのを健三が主張して二等車にした。
 彼等が汽車に乗ってからの会話の中から重要なものを適宜に述べると、まず健三から口を切って、一ときどき母から聞いていましたけれど、あなたの御遺言というのは一体……」と云いかけると、丈助は、返事の代りに、かねて用意していた四つ折りにした半紙を内懐から出して健三にわたした。それは、遺言書を兼ねた財産目録の覚え書きのようなもので、内訳は可なり詳細に書かれてあったけれど、(それは必要がないから省略し、)概略だけざっと拾い読みしてみると、一万円田畑、二万円  山、三万円  諸株券債券、その他、二万何千円  銀行預金商品貸金、という風に分けられ、その後に、秀夫、お万、雪江、丈太郎、天(天理教の略)、その他の名が記されている。
 一と通り目を通してから、「割り当ての方の委《くわ》しい書き附けはないんですか、」と健三が聞くと、「田畑と山は大方極まってるんやが、その外のンが一ばん困るんだす、狙《ねろ》てる奴が多すぎるさかいな。それに、もっと困るのンは、」と丈助が云った。それから、「割り当てを一ぺん極めといても、半年ぐらい立つと、また金が殖えて来よるので変えんならん事になる。変える時分になると、きっと歩合いを按排《あんばい》せんならん事がおこって来よる、つまり、丈太郎が入院するとか、雪江が……」そこから話が雪江の事に移って、「二年ほど前に、雪江が京都の謡の師匠のとこイ後妻に行たのを御存じだっしゃろ、それが今度急に戻される事になったんや。二年待ったけど子オが出来《でけ》んよってに、家風が合わんさかい戻すちゅう手紙が今朝きたんや、」と丈助はいった。健三はかえす言葉が見つからなかったので、
「雪江さんは、僕よりたしか一つ上の、三十六でしたね、」と聞いてみた。丈助は、それには答えないで、半分独り言のように、
「家風が合うも合わんも、婿《むこ》はんは、わしより三つ上やさかい、六十ニイやから、二十六ちがいヤ、……しかし、あっちも後妻なら、こっちも出戻りで、もともとや、しかし、どっちみち、無理な話や、……」と唄でも歌うようにつづけた。「……今、私の家は忙しゅうて、何ぼ人がいても足らんくらいやけど、女子手《おなごで》は入らんネ、……彼女《あいつ》が男やったらよかったんやが、今さら製造し変える訳にもいかんし、……」と彼は、そこで急に真顔になって、「そんな訳で、健三はん、今、雪江が東京へ帰って来よったら困るさかい、けさ手紙を見た時、すぐ電報うって、あしたの朝、何時何分に、京都の駅で待ってるように云うてやっておまんね。そいで、迷惑やけど、京都から丹波市まで辛抱しとくなはれんか、丹波市の天理《てんりん》さんの本部に彼女《あいつ》を預けるつもりだんね、」と云った。
 これを聞くと、健三は、この間の晩、浅草の料理屋で、丈助が酩酊《めいてい》しながら天理教について語った時のことを思い出した。すると、回想は、彼が初めて竹蔵の家で逢った時の丈助、高天原で逢った時の丈助、子供靴屋の二階にたずねて来た時の丈助、健、∴の貧乏生活の家に妻と娘と孫をつれて来た時の丈助、神田の途上で逢った時の丈助、おなじ釜の飯を食い合った時の丈助、母に金を借りに来た時の丈助、失業から立ちなおった時の丈助、浅草の料理屋の時の丈助、今、目の前にいる丈助、  この無数のさまざまの丈助等の姿が、えたいの知れない人生の絵巻物のように、健三の心の目に映った。
 健三がそんな感慨に耽《ふけ》っている事など知らぬ丈助は、雪江の話が一とまず終ると、ふたたび遺産の問題にもどり、いかに遺産(というより今は財産)のために、その分配のために、苦労し煩悶《はんもん》するかをくりかえし、撒いっそのこと、みんな西の海へほったうかと思いまんね、」などと歎息《たんそく》するかと思うと、また煩悩がおこるのか、すぐ遺産の割り当てのことに戻った。その割り当ての話の中で最も健三の意表に出たのは、あの財産目録の中に二万円の山というのが高天山であった事と、その高天山を天理教に寄附するという話とであった。
「え、あの高天山のことですか、」と健三は二度も聞きなおした後で、糊……それにしても、どうしてあの山が手にはいったんです、」
と聞くと、丈助はこう答えた。
「あの山はほんまはしよのない山だんね。ところが、あんたも知っての通り、死んだ兄貴があの山が好きで好きで、間がな隙がな、あの山の地面を、たとい一町でもええから買いたい買いたい云い暮らしてたもんやから、私も兄貴には恩があるさかい、金がまとまったら買《こ》うてやろとねうてたんや。……そのうちに、兄貴が死んでしもて、あの山が私の手にはいったんが兄貴が死んだ翌年の春や。半年おくれたんや。あんた知ってなはるやろ、……あの鐘堂《つりがねどう》のあるお寺の裏に新城《しんじよう》ちゅう大けな酒屋がおましたやろ、- 高天で一ばん古い家柄の家や。あの家があの山を持ってたんやが、あの家が急に身代かぎりしよってな、そのお蔭で、わりに安買いましてん。……あの天辺《てつぺん》の大けな野原も、あの池も、それから東側《ひがしべら》の墓地のある丘  あんたのお祖母はんのお墓のある  あの丘も、……あの辺、みんな突《つ》っ包《くる》みで買うたんやけど、今いうた通り、肝心の兄貴が死んでしもうたさかい……」と丈助はちょっと悲しそうな顔をした。
「それで、あの山を天理教に寄附するという訳ですか。」
「左様《さい》や、左様《さい》や。……考えてみなはれ、もしあの山の天辺に天理《てんりん》さんのお社が建ったら、あの大けな広場に一ぱいに、神主さんの家やら、信者の住む家から、宿屋やら、病院やら、食べ物屋やら、雑貨屋やら、数えたら限りあれへん。大小合わして千軒ぐらいの家が建つやろ。……そしたら、高天村は一遍に町になる。……そしたら、あそこら一体の地代が上がるに極まっている。二万円の元が、五倍にも、十倍にもなること受け合いや。五倍で十万円、十倍で二十万円や。」
 健三は心の中で唸《うな》った。
 浅草の料理屋で酩酊しながらも猶《なお》かつ天理教の功徳を説いた時は声をひそめて誰にも内証やと云った丈助、明かるい汽車の中で然も素面《しらふ》で天理教を利用して二万円を五倍にも十倍にもする魂胆を大平《おおびら》に打ち明ける丈助、この二人の丈助が一人の丈助であることの理由は健三にも分からなくはないが、僅か二週間ほどの間に余りにも裏腹の丈助を見たので、健三は呆気《あつけ》に取られた形でもあった。しかし、今まで丈助を、(丈助の人物は実に好きではあったが、)下目《しため》に見ていた健三は、あの浅草の料理屋で逢った時、(あの時はまだ相手が酩酊しているからという口実が考えられるが、)初めて丈助に圧迫を感じたが、この汽車の中の天理教と高天山の話の時ほど丈助に圧迫を感じた事は後にも先きにもないと云ってよかった。実際、健三は、この時ーーこんな大胆な事をいいながら、丈助の顔が、遺言の割り当てに困る愚痴をこぼしたり、雪江が離縁されて当惑したことを白状したり、する時の顔と、少しもその表情が違っていないことを発見した時ー1は、小説家などと、心の中で威張っている自分などは『甘えものだ匹と考え、まだまだ修業が足りないと考えた。ところが、まだその後があった。彼は、丈助が、『五倍で十万円、十倍で二十万円」と云ったのに対して、何か適当な受け答えをしなければならないと思って、明随分な信心ですね、」と云った。云ってから、ずいぶん問の抜けた返答だと思ってまごついた。そうして、ますますいけないと思った。
 すると、丈助は云った。
「いや、わしら信心も何もあれへん、初めは、丈太郎があんな若いのに、あんなもンを信心しよってな、それが、いつの問にやら私も誘いこまれたんや。……一体、あんなもん信心でけるもんかいナ。踊ったり、うとうたり、……それに、人をだますようにお祈りする時は、榊《さかき》を入れた瓶に鰌《どじよう》を入れといて、そっと酒を入れといて、榊を動かすいうこっちゃおまへんか。そんなもん何の信心でけるもんだっかい。あのために身代つぶした人何人あるや知れへん。その代りようしたもんで、食えんようになったら、引き取って養ってくれるとこは感心やから、わし、秀夫も、あんな奴やン、・かい、商売よう覚えなんだら、天理《てんりん》さんに入れてしもたうかと思てんね。ち.〜、ど雪江が側にいよるさかい、ええ按排《あんばい》や㌃うが、どうだすやろ。」
「さあ、…:」健三はますます答える言葉を知らなかった。
 一事が万事、この大和行きは、殆んど初めからしまいまで、健三は立ち後れの形になってしまった。
 丹波市《たんばいち》でも、健三は、有耶無耶《うやむや》のうちに丈助の供をさせられてしまった。丈助は、汽車の中でいった言葉が本当らしく、健三を外に待たしておいて、雪江を社務所の中に連れて行って、(その間、一時間近くかかった、)出て来ると、神社の方はろくに参らずに、ずんずん町の方へ行った。ところが、どういう訳か、社務所を出てから町で昼食をすます時分まで、めずらしく丈助の機嫌がわるかった。
 丹波市から高田までの汽車の中で、健三が、ふと思い出して、高天山の寄附の一件をたずねると、
「高天山の神さんと、天理さんの神さんとは、神が違ういうて受け取りよれへんね、そのくせ金は受け取りよったけど……」と丈助はまだ幾らか不機嫌の気味でいった。これには健三は思わず吹き出したが、丈助は笑わなかった。
 ).-.り、この大和旅行は、、一人にとって、㍉く時の期待の丸で反対の結果になった。まー最初に、丈助は、天理教会で折角もくろんで行った高天山寄附の一件(これが今度の彼の大和旅行の中でも重要な予定の一つであった)がまったく失敗に終った事、健三は、汽車中の問答以来まったく丈助に優越権を奪われた形になった事、次ぎに彼等を待っていたのは、せっかく訪ねて行った丈太郎が、彼等が到着した前の日に、細君同道で大阪の病院に入院した事、丈太郎の養母(丈助の兄嫁)のお政が、持病の胃拡張がいよいよひどくなり、その上、子宮癌《しきゆうがん》を併発して、最近大阪の専門の病院まで行ったが、快方に向かわないので、東京の丈助の家に厄介になり、そこから東京帝国大学病院に通い、事に依ったら入院するつもりで、近いうちに上京しようと思い、既にその仕度までしていた事、などであった。
 そうして、彼等がこの旅から得たところのものは、丈助は、彼が身内の中で唯一のたよりである丈太郎の病状がよくないという心配と、彼の身内のなかで最も馬の合わない、これも不治の病人である、兄嫁のお政を居候に連れて帰ったことであった。つまり、前のは心配だけですんだが、(固《もと》より入院費を送る事になっているが、)後のは、丈助自身が、「女、手は入らんが」と健三に漏らしたほど、そのために娘の雪江を天理教会に預けた程の邪魔者を居候させる困惑ばかりでなく、彼女の胃拡張は彼女がいう程ひどくなっていない証拠には、彼女は、丈助の家の三人のミシン職工が三回に食べる分(即ち九食分)を一度に食べる事であった。そのために、気と体が重くなるらしく、大学病院へ逓う外は、毎日、朝から晩まで芋虫のように、ごろごろしていることであった。それらは、丈助にとハ.ては、見る目のうたてさであったが、といって、心のうたてさでもないではなかった。その一つは、彼自身はお政とは馬が合わなかったが、何といっても彼女は彼の兄嫁であり、その兄は彼の恩人になるので、彼女の居候を断ることが出来ない事であった。もう一つは、そうして、もっと困ったのは、お政とお万が気が合わないために、丈助がその二人の女の板ばさみになる心のうたてさを感じた事であった。
 健三は、高天村滞在中、(実は一日いたきりであるが、)丈助と一しょに、石屋を連れて、祖母の墓にまいった。見ると、丈助のいったとおり、墓は思ったよりひどくなっていた。その墓を建てた彼の伯父が、至って倹約家であったから、大きな台石の代りに小石を交ぜたセメントで山の形をつくり、その上に芭蕉の『旅に病むで』の句を刻んだ墓石を立てたので、その墓は、他の墓等より幾らか背が高く、風変りには見えたが、安物の果かなさで、石入りのセメントの山は雨露のために崩れかかり、そのために墓石が可なり傾いていたので、健三が、それを修繕するよりも墓石を新らしく奮発した方が得であろうと極まったので、結局、得をしたのは石屋と墓ぐらいのもので、彼は三百円そっくりその墓に埋めたようになった事。次ぎは、丈助と一しょに大阪へ行って、丈太郎を病院に見舞った時、彼は丈太郎から大変な事を頼まれた、というのは、丈太郎から、叔父の丈助が食堂へ買い物に出かけた透き間に、健三に、紺という女に、あなたから手紙を出して、丈太郎を見舞いに行ってやれと書いてほしいと頼まれたのを果たさずに帰京した、それが、気になり一種の負担の感になった事。つまり、健三の大和行きの損害はその二つで、他は、高天山の桜を下からだけしか見なかった事と、大和名物の春霞を思う存分に見られなかったという程のものであった,しかし、この二つの中で、金の方の損はそれほどに応えなかったが、健三が帰京してからも一種の負担の感になったという方は可なり迷惑をした。それはこういう事情であった。
 紺というのは、丈太郎が、その時から半年ほど前に、おなじ病院に半月ほど入院していた時に知り合った女であった。いや、知り合ったどころか、州恋仲になったんです、「と、その当時、大阪のその病院から丈太郎が東京の健三に書いて来たことがある女であった。しかし、つまり、丈太郎としてはそういう報告の出来るのは健三より外になかったのであろう。が、そういう手紙にはいくら小説家の健三でも、返事のしようがないので、そのままにしておくと、また同じような手紙が来た。が、それもほうっておくと、終には、その紺が丈太郎にあてた手紙を封入して来た。健三は、その手紙を見て、予想以上に驚いた。そうして、肺病同志がこれでは……と、眉をひそめた。そこで、その時、健三は初めて返事を出して、円滑に、それは止した方がいいように思うという意味の言葉を書いた。ところが、それきり、丈太郎から手紙が来なくなった。それで、健三は、どちらかが退院してそのままに消えたのであろう、と思った。-…1丈太郎の紺というのはざっとこういう女である。
 お政は、その年の夏、東京帝国大学病院で、死に、丈太郎は、その年の秋、大阪赤十字病院で死んだ。そうして、雪江は、その年から三年目の秋、大和国丹波市町天理教病院で、死んだ。



 丈助が、ときどき、その大きな無骨な手を胸に当てて、一ここが、どきん、どきんして、息どしゅうて、息どしゅうて、仕様あれへん、」と云い出したのは、彼が六十歳の頃であった。しかし、それは月に一度か二度ぐらいおこる発作のようなもので、まだ「心臓病」と名がつく程ひどくはなかったし、その二三年前から、商売はますます順調に進んでいたし、男まさりといわれる後妻のお万はすっかり商売になれたし、彼の郷里から正直が取り得で呼びよせた番頭の頓吉も、買い出しとか売りさばきとかの外交の役をしていたのであるが、百姓上がりにはめずらしく、半年も立たぬうちに、商売の骨《こつ》を呑みこみ、品物の売り買いも、丈助が真似が出来ないほど、巧者になったので、しぜん、丈助も、乗り気になり、二合にきめた晩酌をすますと、他の二人と一しょに、寝る時まで働くようにした。もっとも、例の「心臓が、どきん、どきん」した日は、晩酌を終るとすぐ床についたが。
 こういう調子が二年程つづき、商売が面白いほど繁昌《はんじよう》したので、それにつれて、若いお万と頓吉が、最もよく働き、最もよく稼いだ。そのために、二年程の間に、丈助の財産は二年前の三倍ぐらいになった。もっとも、それは丈助には余り問題にならなかった。彼は、働く事と稼ぐ事は七分どおりお万と頓吉にまかし、自分は数年前から気にかかっていた財産(彼はそれを遺産とも云った)を割り当てる仕事にかかっていたので、(この事は彼が遺言にすることに極めていたから、彼以外の誰も知らなかった、)彼は財産がふえればふえるほど、その財産(あるいは遺産)の割り当てを思い切りよく変えていたので、彼には、財産が、三倍になろうが、五倍になろうが、ふえたともへったとも思う気がしなかった。それに、彼は、金を儲《もう》ける事(同時に損する事)ばかり考えつづけて、自分自身が金を使う方法を少しも考えた事がなかった点で、見方によれば、彼には金の価値が分からなかったとも云えるかも知れない。ーーそれに、強いて理窟をつける訳ではないが、丈助には人と変った道楽があった。それは、彼自身は、酒を除いた殆んど一切の贅沢品《ぜいたくひん》(例えば、歯磨、石鹸《せつけん》、電車賃の類《たぐい》まで)を倹約しながら、いかなる遠い親戚《しんせき》(例えば、後妻の弟の嫁の里)でも、親戚の片端にあたる家、あるいは貧困な人があると、大きいのは田畑を与え、小さいのは金銭を与え、時とすると、事情と人柄さえ納得できれば、家主や売り買いする商人にまで、無利息で金を貸す、というような仏性《ほとけしよう》を持っていることであった。しかし、この丈助の道楽は、お万は、もとより、頓吉にも好かれなかった。もっとも、それがお万の親戚に施される時は別であった。
 いずれにしても、この二年ほどの問は、丈助も、お万も、頓吉も、幸福であった。殊に、丈助には、一月に一二度ぐらい鄲心臓が、どきん、どきん」する日はあっても、お万に内証で、長年心にかけていた財産(あるいは遺産)の割り当ても、既に大方きめて、半紙の端に書き、外の者の目につかぬ所にしまったし、困っている親類どもにはそれぞれ田地や畑や金を分けてやったし、と思うと、彼は、この何年来、いや何十年来、覚えない安心を得た気がした。
 ところが、商売がとんとん拍子に成功するに連れて、年とった彼の精力が日に日に衰弱して行く反対に、四十四歳のお万は、ますます丈夫になり、二十八歳の元気ざかりの頓吉と一しょにますます精を出したので、店先きは目の廻るほど繁昌した。それを眺めると、丈助は楽しくなると共に寂しくなった。楽しいのは商売が繁昌する事で、寂しいのは彼自身の元気の衰えて行くのが感じられる事であった。その時、彼は六十二歳であった。
 そこで、丈助は、酒で元気をつけようと思った。「今まで二年も辛抱《しんぼ》して養生してなはったのに、……」とお万は、それを止めたけれど、丈助が、慟死んでもええ、もう一ぺん元気をつけて、働きたい、」と云うので、舳今でも働いてなはるやないか、」となだめたが、みな無駄であった。
 しかし、いざとなると、口ほどでもなかった。それを云い出してから、丈助は、三四日は無理にも飲んでいたが、四日目あたりから、かえって飲む量が少しずつへり出した。そうして、五日目の晩、晩酌をやっている時、突然、彼は、盃をがちゃりと、ちゃぶ台の上に置いて、久しぶり(半月ぶり)で、あの大きな無骨な手を胸に当てる恰好《かつこう》をしながら、この時は余程くるしかったと見えて、ただ「息どしい、息どしい、」と叫びながら、お万の進めるままにすぐ床についた。
 その翌日、いやがるのを無理に医者に見せると、医者は、子供をすかすように、好きな酒であるから急に止せないではあろうが、次第にへらして行った方がいい、と丈助に云い、帰りがけに、「一週間ほど静かな所へ転地させた方がいいでしょう、」とお万に耳打ちした。その時、医者は千葉県の或る鉱泉場の町の名をお万に教えた。それは秋の末頃のことであった。
 その翌日、お万は、丈助に、医者のいったことを、なるべく気にさわらないように伝えたが、丈助は、子供が駄駄をこねる時のように、何度も首を横にふり、
「今日はもうこない工合がええやないか、」と云って、いつものように床をはなれ、いつものように朝飯を食い、いつものように店番の位置に坐った。
 この時の彼の家は、(健三、流行唄《はやりうた》職人、馬の脚番頭などが同居していた家は震災で焼けてしまったので、)区劃《くかく》整理のために場所は横町に変ったが、大屋に金がなかったので、丈助が条件つきで金を出して、商店兼住宅向きに建てたので、店の間が十二畳ほど、奥が長四畳、その隣りに二畳、階段はやはり急であったが、二階は八畳、(往来に面す、)六畳、の二た間であったから、丈助夫婦、秀夫、(十八歳になっていた、)頓吉の四人ぐらしには十分過ぎるほどであった。
 その店の問には、三方(正確に云うと二方半)に設けられた棚に種種様様の反物が横に積みこまれ、棚に積み切らない反物が随処に山積みにされていたので、それらの商品がその十二畳ほどの間の八畳分ぐらいを占めていた。丈助は、この数年の間、その真中に置き物のように坐りつづけた。客のために、品物の出し入れをしたり、勘定をしたりする仕事を、彼に代って、お万が一切するようになったからである。
 間口が三問で、間中《まなか》(三尺)のガラス戸が六枚はまっていて、その真中の二枚が出入り口になっていた。二三人の客が入りかわり立ちかわり来るので、その出入り口のガラス戸は、店をあけている間は、間断なく明けたり締めたりされた。もっとも忙しい時はそれが開放されたままになっている事があった。丈助は、自分が一人で商売の切り盛りをしている時分は、そんな事は目にもはいらず気にもかけなかったが、こういう置き物のような閑地にいると、まず客の種類や恰好や身分などが気になりはじめた。その中で、最も数の多い場末の小売り商人や縁日商人や大道商人や口上商人などは前から顔馴染みの者が多いので気にならなかったけれど、子供を背負った寡婦たちと緞子《どんす》を買いに来る他国人たちが気になった。その理由は簡単であった。寡婦たちや他国人たちには油断がならなかったからである。
 しかし、丈助は、二三年前までは、他国人たちは横著《おうちやく》だというので憎んでいたが、寡婦たちは、貧に困っているからという訳で、わざと見のがしてやったり、品物を負けてやったり、したものであった。それが店番専門になってからは、商品を盗まれたり、金を胡魔化《ごまか》されたり、することが、しだいに丈助の神経にさわるようになり、終には、そのために、例の心臓が『どきん、どきん」の度数が多くなって来たので、今度は医者が直接に丈助に鉱泉場行きをすすめた。それで、秀夫を連れて行くという条件で、お万はやっと彼を納得さして、三人つれで出かけることになった。
 しかし、それも一と晩とまったきりで帰って来た。それは、自分とお万とが留守になった家の商売の心配と、高い金を出して、こんな味ない酒を飲まされ、こんな濁った風呂にはいるぐらいなら、東京に帰って、五銭の風呂へ行った方がずっと気持ちがええという理由であった。
 この一泊の鉱泉行きから帰った翌日、秋の末にはめずらしい寒い日が来たので、その晩、丈助は不断より少し晩酌の度をすごした。それでも、まだ寒いといって、晩酌をすますと、風呂に行く、といい出した。丈助が自分から風呂へ行くと云い出したのは何年ぶりか、お万にも記憶がない程であった。しかし、そのお万も、酒の後で、しかも度をすごした酒の後で、風呂に行くのは、と、心配になったので、幾度も止めたが、丈助は、怒って、彼女の言葉を聞きいれなかった。
 お万が心配しているところへ、太助は上機嫌で帰って来て、舳何とも云えんええ気持ちや、」と叫んだ。丈助の、そんな上機嫌な言葉や、そんな上機嫌な顔つきは何年にも聞きも見もしなかったので、お万は、一瞬、ちょっと嬉しい気がしたが、すぐ、何故か、心の底から嬉しい気がしなかった。というより、何か不安な気がした。が、丈助は、お万のそんな心もちを察しる筈もなく、すぐ寝てしまった。
 この晩から、丈助は、一日おきか毎日かに、晩酌をすますと、すぐ銭湯に出かける習慣になった。晩酌は、欠かさなかったけれど、銭湯がときどき一日おきになるのはお万の思惑が憚《はばか》られたからで、彼女の目がなかったら、銭湯ゆきも、毎晩やったかも知れない、と思われるほど、彼は風呂ずきになった。年とった丈助の生き甲斐は、いつか、商売繁昌《しようばいはんじよう》(金儲《かねもう》け)から寄り路して、晩酌と風呂に乗り換えたように思われた。終には、この「酒を飲むと風呂に行きたくなり、風呂に行きたくなると酒を飲みたくなる、」という習慣(道楽)を、いつ頃からか丈助は、『酒風呂」と命名し、お万が、「晩酌は止さんでもええけど、風呂の方は朝風呂にしなはったらどうだす、」と諌言《かんげん》すると、彼は、その『酒風呂』を持ち出して、「私は今この外に楽しみがないんやから、」と真に情けなそうな顔をして歎願《たんがん》した。それにはお万も負けた。
 この、お万が心底から不安に思い、丈助が何とも云えんええ気もちやといった『酒風呂」は彼の六十二歳の晩秋から、六十三歳の初夏にかけての約半年の問、彼を「何んとも云えんええ気もち」に酔わしておいて、突然、初鯉《はつがつお》の呼び声の聞こえる五月の或る日、彼の年とった心臓に飛行機のプロペラのように廻転する動悸《どうき》をおこさせ、彼の年とった目に、万太湯から彼の家までの下町情緒が溢《あふ》るるような平和な町に、忽《たちま》ち大地震がおこったかと思わせるような錯覚をおこさせ、やがて、その心臓の急速な運動が逆に緩慢になったかと思うと、急に今まで揺れていた天も地も町もすうッと真暗になってきたので、彼の年とった心に、これがこの世の見おさめかと諦めさせたほど苦しい思いをさせることになった。
 しかし、丈助は死ななかった。その代り、彼は、その時かぎり、銭湯はおろか、風呂と名のつくものさえはいれなくなった。そればかりでなく、その時から、彼は、寝床に、横臥《おうが》も、仰臥も出来なくなった。体を横にすると、今度は画心臓が、どきん、どきん」などという生やさしいものではなく、たちまちひ臓の動悸がはげしくなり、ムフにも息が絶えるかと思うほど苦しくなった。そんな状態になっていながら、彼は、まだ店番を止めなかった。商売が気になるというのであった。それを幾らお万が止めても彼は承知しなかった。
 その頃から、丈助は、体が不自由になればなるほど、頭の活動が妙に鋭くなって来た。しかも、その鋭い頭の活動は、肉体が衰えているだけ、心臓に与える刺戟《しげき》がひどかったので、前には、寡婦たちや中国人たちがわるい事をするところを見つけると、唯はッとして「心臓が、どきん、どきん」の程度であったが、今は、彼等が、わるい事をしたところだけでなく、わるい事をしようとする形を見ても、たちまち動悸の乱打がおこり、今にも息が止まるような気がした。そうして、その時は、彼自身もそう思い、側の者もそう思った。  そんな事が、半年近くの問に、何度あったか知れなかった。
 そのうちに、顔色はますますわるくなり、角ばった顔がとげとげし、猪のようであった首が幽霊のように細くなり、しじゅう俯向《うつむ》き勝ちでいるので、持ち前の分厚な唇が一そう分厚くなり、頑丈であった体が痩《や》せ細《ほそ》って小さく見え、顔だけがいやに大きく見えた。それと共に、しだいに心臓の苦痛に襲われる度数が多くなった。
 ある日、いつかの医者が、こんな繁忙な刺戟の多い中に、こんな病人を置くことは、ある命を縮めさせるようなものだ、と云ったので、お万は頓吉の力を借りて、丈助を二階に担ぎあげ、横になれない病人のために、火燵櫓《こたつやぐら》を前に置き、後に蒲団《ふとん》を積みかさね、その問に、丈助を置いた。
 ところが、二階に上げられた丈助は、殆んど十分か十五分おきぐらいといっていい程、手を叩いてお万を呼んだ。客を相手にしていたお万が大急ぎで上ってゆくと、一あの客には貸したらいかん、」とか、「あれは一ヤルニ十銭に負けといたれ、」とか、いう用事だけであった。こんな風に、二階に上がった丈助は絶えず下の事が気にかかるのであった。そのために何度となくお万が呼びあげられた。しかし、お万は、その当惑よりも、丈助の病状が次第にわるくなって行くらしい事が苦になった。それで、彼女が途方にくれた挙げ句、
「それでは、下の奥の間イ行きまよか、その方が気イが晴れるかも知れまへんさかい、」
というと、丈助はすぐ承知した。
 下の長四畳の部屋は丈助にわりに気に入った、手を叩いてお万を呼ばなくてもすむし、ガラス障子からは店の様子も見えたからである。しかし、これも一週間と持たなかった。店の様子を見ているうちに、彼のきらいな他国人が一日に何人かは来る。他国人が例の通りすきを見て無断で品物を持って行く。それを見つけて、ハッと思うと、たちまち心臓の運動が速度を増す。と、息が詰まりかける。こんな事が一日に二一二度おこると、また二階に上がりたいと云い出す。終には、今日は下、明日は二階、となり、午前は二階、午後は下、という風になった。それがたまらなくなって、最後に、お万がその事を医者に訴えると、一二階と下とでは大変だ。今度は思い切って入院させては、」と医者はいった。
 そこで、丈助は生まれて初めて入院することになり、お万が附きそいで行くことになった。しかし、これも唯の二日で帰ってきた。医者とお万が相談して、一わしを殺すつもりやろ、」などと云い出したからである。病院から帰ってからは、お万は帯を解く隙もなくなった。夜中にいつ起こされるか分からなかったからである。
 病院から帰ってからは、丈助は、ずっと二階に落ちつくことになった、というよりも、もう体が殆んど動かせなくなったのであった。
 それは十二月の上旬であった。火を入れた火燵と蒲団のあいだの丈助の病床は、彼の注文で、往来に面する窓際に設けられた。絶対的の不眠病にかかった丈助は、夜中でも、寒中でも、「陰気や、」といって、窓をあけ放すことを好んだ。窓をあけられて、もっとも困ったのは附きそいのお万であった。
 ある晩、丈助が用足しに行っている隙に、お万が彼の病床を掃除すると、火燵蒲団の下から菜切《なき》り庖丁《ぼうちよう》が出て来たことがあった。そのことを機嫌のいい時を見はからって病人に聞くと、7わしが死んだら、みんなが可哀そうやから、いっそのこと、みな殺してしもたらと思たんや、」と真面目にいった。それ以来、お万は、心にかけて、菜切り庖丁にかぎらず、一切の切れ物を上《あ》げ蓋《ぶた》の下に隠したが、いつの問に嗅《か》ぎ出《だ》すのか、隠しても、隠しても、病人の蒲団の下からそれが出て来るのを、一そう気味わるく思った。
 その頃、お万は思い切って下女を雇った。もっとも、お万は、その半年前頃からなるべく病人の神経を興奮させないように、と思って、商売をおいおいに切り詰めることにきめて、商品の仕入れなども、少しずつ控え目にし、しだいに客をへらすようにした。が、そんな風にしても、丈助の病気はわるくなる一方で、ある時などは、夜中に、窓から往来にむかって、畑近近にこの家に人殺しがあるかも知れまへん、」と叫んだり、お万が自分を厄介者あつかいにして毒を飲ますらしい、と云い出したり、して、一切の薬を止めたり、小さな半床にかけてある縁日物の大師の像に水を供え、それを有り難がって飲んだりした。
 その頃のある日、丈助の病気がかなり重いと聞いて、健三夫妻が見舞いにきた。丈助は、健三夫妻を見ると非常に喜んで、
「よく来てくれはった。今、西新井《にしあらい》のお大師さんを迎いに行てもらオと思てたところや、あんたたち、迎いに行て来てんか、」といった。健三が返答に困っていると、丈助は、つづけて、「いっそのこと、私も一しょに連れて行ってんか、」と云った。
「だって、おじさんはお体がわるいんですから……」と健三の妻が口をはさむと、
「そんな薄情な事いいなはんな。そんなら、自動車を呼んで、連れて行てくれたらええやないか。:…・それとも、これからすぐ、お前はんたちの家へ連れて行て、庭の隅でもかめへんさかい、止《と》めてんか、」と丈助は云った。健三夫婦がまた返答に困っていると、丈助は、又つづけて、「わしはもう助からん。:・…今度はどうでも助からんと思う……私が死んだら、後の奴らが困りよるさかい、……私は死にともないよ。……古泉はん、私を助ける思て、西新井のお大師さんを迎いに行とくんなはれんか、」と云った。
 健三は三たび返答に困った。その時、ふと、彼は、この前、見舞いに来た時、丈助が云った、こういう言葉を思い返した。
「健三はん、」と丈助は改まった言葉になって、「わしはとうから考えてるんやが、ずっと先《せん》に、あんたと一しょに大和イ行た時、天理さんで、あれを断られて、 -わし、口には云わなんだけど、あない口惜しかった事あれへん。……健三はん、わしは、天理はんはあんまり好きやなかったんやけどナ、彼処《あすこ》に  丹波市に  困った人をただで泊める、大けな、ハイカラに云うと……無料宿泊所みたいなんで、元が大けいだけに、ずいぶん大けな、ただで止める宿屋があるね。その宿屋の名前は忘れたが、何でも神さんらしい名アが附いたアった。そこは本所あたりのンとちこて、一と晩や二た晩だけ止めるんやのうて、一と月でも、二た月でも、止めてくれよんね、……そこに、わしは今まで誰にも云うた事ないけど、むかし、半月ほどいた事があんね……わしは、ナ、健三はん、体なおったら、あんな大けな無料宿泊所を建てたいと、先《せん》にから思てたんや。……」
 ざっとこういう話を、お万が側にいない時、健三は聞いたのである。
 しかし、この時の言葉には健三も心から当惑した。
 そういう丈助の顔を見ると、もう浮腫《むくみ》が来ているらしく、両方の目が落ちくぼみ、しじゆう俯向《うつむ》き勝ちであるのと、浮腫のために、元もと分厚な唇が一そう分厚になったので、全体の顔が、それは、健三が二十年前大和で初めて逢った時に、アフリカ辺の土人の顔を思わせたものであるが、今は、その顔に死病的な感じが加わっていたので、悲惨、というより、正視していられない或る醜悪さを持っていた。
 しかし、その正視できない顔に、よく見ると、二十年前の面影が残っているので、粕そんな薄情な事いいなはんな」とか、「庭の隅でもかめへんさかい」とか、いわれると、健三は、返答が出来ないというより、涙ぐましいというより、何か訳のわからない感情が胸の底からこみあげて来るような気がした。
 その時、表の方に自動車の止まる音がした。と、病人も、側にいたお万も、一様に聞き耳を立てたので、健三夫婦がそれをしおに立とうとすると、彼等より早く、お万が、立ち上がって、「大和の連中がついたかな、」と独り言をいいながら、飛ぶように梯子段《はしごだん》を下りて行った。
「ちょっと待っとくなはれ、」と丈助は、健三が立ちかかるのを止めて、騙今、下に来よったのンは、お万の弟夫婦と娘の三人つれや、こっちから電報打って呼んだんや。実はナ、」そこで、丈助は、声を低くした,
 健三は目を見はった。今の先きまであのようなたわいない事をいっていた丈助が、こんな重態にある丈助が、お万が側にいなくなってから、別人の丈助になったからである。容貌怪異の丈助は声を低くして語りつづけた。「その娘ちゅうのはお万の姪や、……その娘を急に嫁に貰うことになったんや。……私は、丈太郎の娘を貰いたかったんやけど、年がすくな過ぎんね、やっと今年十ニイや。……それに、あんたも知ってるとおり、秀夫は本真《ほんま》はわしの孫やから、甥の娘と秀夫と夫婦にしたもんなら、孫同志を夫婦にするンとおんなしやろ。……そんな訳で、お万の姪を秀夫の嫁に貰うことになったんやが、わし、今、それを後悔してんね。何しょ、その娘の両親《ふたおや》ちゅうのンが、今、下に来てよる奴や。それが、欲ぼけで、欲ぼけで、……わしがまだ丈夫な時分に、あんまり貧乏してよるさかい、金やといかん思て、大和イ行た時、丈太郎にやる田地を少し分けてやった事があるんや。……ところが、そいつは、わしには、お万から貰えへん、お万には、私から貰えへんいうて、両方から金と田地を取るような奴やよってン……」
 案外話が長くなりそうなので、外に用事を持っていた健三の妻は、丈助の話のとぎれた時を見はからって、いとまを告げて行った。それは、健三にも都合がよかったし、丈助には気が置けなかったからである。
 二人きりになると、ぽつんぽつんとではあるが、丈助は、健三が驚くほど、いろいろな話(健三にだけ云える愚痴)をつづけた。さいわい、お万は、病人を健三に預けておいて、下で、『大和の連中』と、人数が多いわりに、小声で何か頻《しき》りに話をしていた。
「古泉はん、ずっと前、あんたに相談した身代の割り当てのことも、いろいろ、あんたと相談したかったんやが、この二三年わしも老いぼれて、それに病気で頭がぼオとしてしもたさかい、あんたみたいな賢い人が恐い気がして、どうぞ、こうぞ、わしひとりであの方は極《き》めてしまいましたがな……」丈助のくぼんだ目に微かに涙が浮かんだ。一健三はん、わしは口惜しいよ。……考えてみると、六十年の問ちゅうもんは、わしは、訳わからずに、金、金、と思て、汗水たらして損したり、機けたり、……あんたに大和で初めて逢《お》うた時は……あんたにゃ分からへなんだやろけど、わしの一生の中で、あン時が一ばん底の時やった、……何度、あの、あの高天山の天辺の池で、身投げをしたろ思たか知れへん……それが、東京イ来て、あんたのお蔭で……」
 その時、秀夫が、健三に茶を、丈助に大師の『御水匹を運んできた。気がつくと、秀夫は先きから隣りの六畳の部屋にいたらしかったのである。秀夫も二十歳になっていた。そうして、不断の仕事著《しごとぎ》でなく普通の著物に著かえていた。彼は、茶と『御水』を置くと、すぐ隣りの部屋へ帰って行った。健三は彼を何年ぶりかで見たのであるが、その動作から幾らか前より増しになっているように察せられた。無口、というより、少年時代には一人前に物が云えなかったのであるが、それが簡単に人なみの挨拶の言葉が使える程になっている事も健三の新発見であった。秀夫の姿が隣りの部屋に消えると、丈助は、前より一そう低い声で、
「古泉はん……お蔭で、まア、……わしの病気だけはどうにもならんが……ほかに苦ウになる事はないけど、……あいつだけが、やっぱり一ばん苦ウになる、……しかし、わしも真の身内ちゅうのは、彼奴《あいつ》ひとりみたいなもんやさかいなア、……昨日《きんの》から、彼奴だけ商売休まして、わしの側にいさしておまんね、わしも、いつ死ぬか分からんさかい、……」
そこで、丈助は、疲れたのか、物を考えるためか、火燵櫓《こたつやぐら》の上に顔を伏せた。その間がちょっと長かったので、健三はちょっと心配になったが、やがて、丈助は顔をヒげて、剛古泉はん、……これはあんただけにする話やが、……考えてみると、わしが、汗水たらしてこしらえた金や、……その金で買《こ》うた、山や、田地や、畑で、一生楽に暮らすのンは、みな他人や。……今、下にいよるお万の弟夫婦も、その娘も、……明日あたり、また、大和から来よるお万の妹犬婦も、……それから、丈太郎の嫁も……あいつ等が、みんな、来よったら、……今ρるわが、三イ、四オ、五ツ、六ウ、と、六人、それに、お万と、頓吉と、秀夫と、お梅と、……十人も集まりよったら、この家の中にはいり切れへんがな。……そや、そや、まだあった。あんた、知ってなはるやろ、あの世田ヶ谷のわしの妹と甥の夫婦がいよった、……」そこで、また、丈助は、火燵櫓の上に顔を伏せた。……これらの丈助の話は、実に緩慢に、切れ切れに、そうして、息苦しそうに述べられた。……今度は前よりも時間が長かったが、肩が呼吸と共に揺れていたので、健三は安心した。……やがて、丈助は顔を上げたが、今度はその顔つきに何かいらだたしい様子が見えた。……そうして、しばらく、口をもぐもぐさせてから、「古泉はん、」と彼は口を切った。
「古泉はん、わし……いま、来よった大和の連中……逢わずに帰したうかと思うね。あいつらの顔を見ると、むかむかする……」
「だって、まだ逢わないんでしょう。」
「うむ。」
「こちらから電報で呼んだんでしょう。」
「うむ、そんなことかめへん。……あいつら一文も出しよるもんかい。どうせ、旅費をや

下へ行て、そう云うてんか……」
「だって、」と健三は低い声で、¶秀夫君の嫁になる人が来てるんじゃありませんか。」
「そんなこと、かめへん、あいつ等が一生食うに困らんくらいの、田地もやってあるんやさかい、……」
 そろそろ無茶な丈助が始ったなと思いながら、健三が、
「親たちは、大人だし、あんたの気質を知ってるから、かまわないとしても、その娘さんが:…・それに、そんな事いったら、お上《かみ》さんが困るでしょう、それは可哀そうだな、……」と云うと、
「可哀そうなんはわしや。あいつ等はまだ寿命があるんやから、……これから、わしのやった金で、何ぼでも贅沢《ぜいたく》でけるけど、……かん、肝心の金をやったわしは、……わしは堪《たま》らん、……わしは、もう使いとうても使えへんやないか。……あいつ等の顔を見るのも、わしは、胸糞《むなくそ》がわるい。  そ『思『'と、お万の奴も憎い、あいつ等、みな同腹や……あいつ等も、明日くる奴等もみな同腹や……」
 健三は下手な受け答えをすると、病人を興奮させるからいけないと思ったので、
「明日いらっしゃるのも大和の御連中ですか、」と当たらず触らずのことを聞いてみた。引なに、大和のこ連中……L丈助は、すぐには意味が通じなかったらしく、それを分かろうとして、ちょっと健三の顔を見つめてから、噸うむ、大和の連中か、……これも、やっぱりお万の兄妹や、……明日きよるンは妹夫婦や……妹の亭主は石屋の職人をしてよったんを、あの妹《こ》が行きよる時、石屋を始める元がないと云うんで、その金を私が持参金に持たしてやったんや。……それに、四五年前、私とお万の墓を建てる時に注文してやったのに、一番ええ石の代を取っときよって、一ばんわるい石を使いよってん。……わるい事は出来《でけ》んもんや、その翌年の秋、大嵐があった時、私の墓とお万の墓が、嵐のために転《こ》けた拍子に、二つとも割れてしもたんや。……外にも転けたんが四つ五つあったが、その方は、一つも、割れも、欠けも、してへなんだそうや。……わしが、それから一と月ほど立って行た時、外の石屋を連れて行て見せると、それが一ばんわるい石ちゅう事が分かってん。……その石屋に、一番ええ石で注文すると、おんなし大きさで、あいつの半分値工やった……」そこで、丈助を疲らせないために、
「それはひどいですね、」と、健三は思ったなりの言葉で相槌《あいつち》を打った。ところが、『それはひどいですね」という相槌の言葉がいけなかった。
「あんたかて、そう思うやろ、」と丈助が受けた。「あんな奴まで、……明日、……のこのこやって来よるンかと思うと、……彼奴といい、……いま、下にいる奴といい、……古泉はん、……あんな奴らに、……一生の半分かかって、……汗水たらして、こしらえた金や、……田地をやったと思うと、……あんな奴らが、……わしが汗水たらしてこしらえた金で……その金で買うた、山や、田地や、畑のお蔭で、……一生楽に暮らしよるかと思うと、……古泉はん、わしは……わしは……わしは……わしは……取り返しのつかん事したと思て、……彼奴と……彼奴と……みな、お万の身内や、……一《ひ》イ、二《ふ》ウ……三《み》イ……彼奴と、彼奴と、……あんな奴らに逢うもんか、……あんな奴等に、……」
 しまいには、話というより独り言の形になり、それが、次第に、躍起になって来た。これはいけない、と思って、健三は、できるだけ落ちついた低い声で、
「丈助さん……いつかの書き置きどうしました、あれから、書き直しましたか、」と聞いてみた。健三の落ちついた声と『書き置き」という言葉は躍起になっていた丈助の気もちを幾らか鎮める役をした。丈助は、ようやく落ちついて低い声で、云った。
「あれ、書き直しましたけど、……見つかるとうるさいさかい、……みんな……破ってしまいました。……」
「それじゃ、後でお困りでしょう。」
「大丈夫や、外のことは忘れても、……割り当ての勘定は……ちゃんと覚えてます。」
 この最後の言葉は、大袈裟《おおげさ》にいうと、健三に襟を正さした。そうして、ここでも躍起の丈助と落《お》ち著《つ》きの丈助が隣り合わせになっていることを発見して、健三は、一種の驚きと興味のほかに、一種の圧迫を感じた。



 それから三日後、丈助は、お万と秀夫を側に呼び、秀夫に紙と筆を持たせて、「わしのいう事をいちいち書いてくれ、」と云った。丈助の言葉は、瀕死《ひんし》の病人とは思えないほど、しっかりしていた。
 丈助は、いつか大和へ行くとき、健三に見せた財産目録(兼遺書)よりもっと詳細な目録を、実に、緩慢に、切れ切れに、そうして、息ぐるしそうではあったが、お万と秀夫が驚くほど、細かく述べた、そうして、もしそれを健三が側で聞いていたら、健三も驚くほど詳細な割り当てを次ぎ次ぎと秀夫に書き取らした。
 お万が顔に不満な色をあらわした。
 これが、今にも息を引取りそうな、しかも心臓病の病人かと思えるほど、しっかりした声で、その口述の時間も可なり長く、話した。それを俯《う》つ向《む》いて聞いている健康な二人の方が却《かえ》って苦しく思われるほどであった。
 やがて、それが終った。
 そうして、ちょっと間があった。
 それから、突然、
「秀夫、」と呼びかけるような声が聞こえた。
 秀夫が、少しおくれて、お万が、顔を上げて、声のした方を見ると、丈助は、火燵櫓の上に、首をはさむような恰好《かつこう》をして、顔を伏せていた。
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