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伊波普猷「中学時代の思出」

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amizako

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だれでも歓迎! 編集
  -この一篇を恩師下国先生に捧くー-

 「沖縄を引上げる時、沖縄を第二の故郷だといつた人は可なりあるが、この第二の故郷に帰つて来た人は至つて少ない。」と仲吉朝助氏がいはれたのは事実に近い。よし、帰って来た人があるとしても、恩師下国先生位歓迎された人は少なからう。沖縄を去る可く余儀なくされた時、下国先生が沖縄を第二の故郷といはれたかどうかは覚えてゐないが、先生は数年来の私たちの希望を容れられて、旧臘三十年振りに、この第二の故郷に帰つて来られた。三十年といへば随分長い年月である。この間に私たちの環境は著しく変つた。けれども旧師弟間の精神的関係のみは少しも変らなかつた。先生が思出多き南国で旧門下生に取巻かれて、六十一の春を迎へられたのは、岸本賀昌氏がいはれた通り、社会的意義があるに相違ない。下国良之助の名は兎に角沖縄の教育史を編む人の忘れてはならない名であらう。この際、四年八ケ月の間親しく先生の薫陶を受けた私が中学時代の思出を語るのも、あながち無益なことではなからう。
 私は明治二十四年の四月、十六歳の時に、中学に這入つた。当時の中学はもとの国学のあとにあつたが、随分古風な建物であつた。一緒に這入つた連中には、漢那(少将)や照屋(工学士)や故当間(市長)や真境名(笑古)などがあつた。この時二年以上の生徒は大方断髪をしてゐたが、私たちはまだ結髪であつた。
 或日のこと、一時間目の授業が済むと、先生が急に教場の入口に立ちふさがつた。何だか形勢が不穏だと思つてゐると、教頭下国先生がつかくと教壇に上つて、一場の演説を試みられた。その内容は、能くは覚えてゐないが、「亜米利加印度人の学校の写真を見たが、生徒は何れも断髪をして洋服を着てゐる。ところが日本帝国の中学の中で、まだ結髪をして、だらしのない風をしてゐる所があるのは、実に歎かはしいことだ。今日皆さんは決心して断髪をしろ、さうでなければ退校しろ」といつたやうな意味の演説であつたと思ふ。全級の生徒は真青になつた。頑固党の子供らしい者が、一、二名叩頭して出ていつた。父兄に相談して来ます、といつて、出ていつたのもゐた。暫らくすると、数名の理髪師が入口に現はれた。この刹那に、先生方と上級生たちは手々に鋏を持つて教場に闇入し、手当り次第に片髪を切り落した。この混雑中に窓から飛んで逃げたのもゐた。宮古島から来た一学生は切るのを拒んだ。何とかいふ先生が無理矢理に切らうとしたら、この男は管を武器にして手ひどく抵抗した。あちこちで畷泣きの声も聞えた。一、二時間たつと、沖縄の中学には、もう一人の丁髭も見えなくなつた。あとで下国先生は国粋保存主義者なる丸岡知事のお眼玉を頂戴したといふ事だ。つひでにいつて置くが、当時は中学師範には専任の校長がなくて、学務課長の児玉喜八氏が両方の校長を兼ねてゐた。そして中学の方ではふだんは下国先生が校長事務を取扱つてゐて、三大節などには校長をお迎へして、勅語を奉読して貰ふのであつた。だからこの時の断髪一件の如きも校長は全く与り知らなかつたのだ。さて翌日は識名園で祝賀会が開かれた。この時戦"こつこをやつたが先生と生徒との組打もあつた。十年の役の勇者だと威張つた児玉校長が、芋虫が蟻群に引摺られるやうに、二、三十名の新入生に引摺られるのもをかしかつた。
 この時断髪した私たちの仲間中で、父兄の反対にあつて、学校を止めて髪を生やしたのも二、三名ゐた。世間の人は彼等のことをゲーイといつた。ゲーイとはやがて還俗のことだ。私の近所の者に阿波連といふ秀才がゐたが、之が為に煩悶して死んだ、彼は漢那君と同じ位に出来た末頼もしい青年であつたが。この頃まで県人は殆んど全部結髪で、東京遊学生の大多数、中学師範の生徒、官公吏の一部、官庁の小使、それから狂人が断髪をしてゐた。久米村人はこれらの連中を冷笑して、島断髪といつた。それから当時断髪した人に会ふと、 「君は何処に奉職してゐるか」と聞いたものだが、何処にも奉職してゐないと答へると、 「それではトランクワンニンだな」といつて|冷笑《ひやか》してゐた。トランクワンニンとはやがて月給を取らぬ官人の義である。当時は社会激変の時期だつたので、この外にも新熟語が沢山出来た。人が何かうまいことをやると、 「医者ドヤル」といつたが、それは、うまくやりやあがつたなといふことである。当時医者が幅を利かしはじめたことがこれで能くわかる。
 私たちは国学のあとには三ケ月しかゐなかつた。間もなく新校舎が落成したので、其処に引越して、新しい気分で勉強した。その翌年の四月には金城紀光君渡久地政瑚君饒平名紀膜君たちが這入つて来た。この時中学ではもう断髪しない者には入学を許可しないやうになつてゐた。地方の小学生は大方断髪をしてゐたが、首里那覇の小学生はまだ断髪をしてゐなかつたと覚えてゐる。
 はつきりは覚えてゐないが、この頃謝花昇氏が農科大学を卒業して帰へつた。沖縄で最初の学士だといふのでその名声が全県下を風靡した。そして|東風平謝花《こちんだじやはなあ》の名はやがて階級打破の|象徴《シンポル》になつた。婦人杜会では、彼を、ミーヌシンヌ二ツアン(重瞳)だなどいつて騒いだ。或時私の宅に中学生が四、五名集つて、さわいでゐると、年の頃二十六、七歳の紳士が二人連れで這入つて来た。能く見ると、その中の一人は、所謂重瞳の謝花農学士であつた。学士は私たちに東京の学校の話などをして聞かせた後で、大に一同を鼓舞して、たうとう私たちの仲間に這入つて、「君ベルリンを出づる時、駒に打乗り言ひけらく、成ると成らぬのふた道ぞ、そのひと道は死ぬるのみ云々」と福島少佐歓迎の歌をうたつた。あとで照屋宏君が「あなたはほんとの学士ですか」と質問して、学士をおこらせたのも一興だつた。其の後学士は中学の何かの時、来賓として来られたが生徒の機械体操を見て、自分も一つやつて見ようといふが早いか、すぐさま金棒に飛付いたが、中々見事にやつて、皆を驚かせた。学士は当時県庁に奉職してゐたが、数年後、山林払下げのことで奈良原知事と衝突し、野に下つて、沖縄民権論者の急先鋒となつた。彼は沖縄で参政権を要求した最初の人であつた。
 明治廿六年には私は十八歳で、三年生であつたが、この頃のことで最初に念頭に浮んで来るのは田島利三郎先生のことだ。田島先生は廿四年七月に国学院大学の前身たる皇典講究所を優等で卒業された新潟県の人で、身の丈六尺以上の大男だつた。先生がはじめて学校に見えた日、ある頭の古い先生は、彼が東京の書生の見本だといつて、顔をしかめてゐた。私は先生の『土佐日記』の講義を聴いて、すつかり感服して了つた。先生は忽ちにして全校生徒の気に入つた。先生の宅には各級の生徒が絶えず出入してゐた。そして先生が外出する時には、いつでも二、三人の生徒がついて歩いた。下国先生は、いつぞや私たちに「君等の気風が近来著しく田島風になつた」と言はれたことがあつた。私は真境名君外二、三の同級生と一緒に先生の宅にいつて、『枕草紙』の講義を聴いた。先生は尺八の名人だつた。その上旧劇には造詣が深かつた。直接先生から聞いた話だが、或時先生が歌舞伎を見にいつた時、団十郎の芸にまづいところを発見したので、何とかいつて野次つたら、団十郎も早速気がついて、あとであの書生に是非会ひたいといつてよこしたことがあつたさうだ。先生は「歌舞伎」を初号から揃へて、意読して居られた。その頃沖縄では役者は非常に軽蔑されてゐたが、先生はいつも芝居小屋に出入して、役者を教育して居られた。先生は沖縄に於ける新派劇の勃興にも関係がある。先生はその土地を研究するには、何よりも先きにその言語に精通しなければならないといふことに気がついて、到着早々から琉球語の研究に没頭されたが、一年も経たないうちに、沖繍人と同じ様にその方言をあやつることが出来た。それと同様に歌謡や組躍の研究にも腐心されたから、沖縄人以上にその古語に通じて居られた。のみならず、先生は琉球音楽の研究にも指を染めてゐた。驚いたことには琉歌まで作つた。先生は、沖縄人と同じ様に話し、また感ずることが出来たから琉球研究者としては、十二分に成功すべき資格を備へてゐた。かうして先生は沖縄人の内部生活に触れることが出来たから、生徒には勿論民間の人々にも愛されてゐた。けれどもかういふ事は児玉校長の最も喜ばないところのものであつた。
 この頃の中学師範の生徒は好んで先生方の宅に出入したものだ。当時は漢学が中々盛んであつた。私たちは放課後はいつも伊藤先生の所にいつて、四書や史記の講義を聴いてゐたが、師範学校の方から安村、久場、嵩原などの豪傑連もやつて来て一緒に聴いた。中学の生徒の中には漢文を綴つたり詩を作つたりしたものが可なりゐた。
 私の先輩には東京に遊学した者が二、三名ゐて、暑中休暇などに帰省する時には、いつでも世界の大勢だの琉球境趨だのと大風呂敷をひろげてゐたので、私もつひさういふことを口にするのが楽しみになつて、東京の本屋から稲垣満次郎の『東方策』を取寄せて読んだ。恐らく私の所に来た『東方策』は沖縄に来た最初の『東方策』であつたらう。この本を再読三四読したお蔭で、私は学校一の外交通になつた。そして私は卒業後は高等商業に這入つて、外交官か領事になる気でゐた。私の友だちは私のことを伊波の公使といつた。その頃漢那君は頻りに馬琴の小説や森鴎外の『水沫集』を耽読してゐた。生徒の控室の本箱の中には、先生方が読み古した雑誌が沢山あつたが、私はそれをあさつて題目の面白さうなのをよりノ\読んだ。私は『東洋学芸雑誌』に出てゐた井上哲次郎氏の『教育と宗教との衝突』や、それに対して高橋五郎氏が『国民之友』に出した「偽哲学者の大僻論」を見て、当時国家主義と基督教との衝突について、世論の沸然たることを知つた。
 当時は生徒までが酒を飲んだ。中学でも師範でも、三大節の時は学校から泡盛をおごつて、職員生徒が一緒に祝杯をあげたものだ。
 この頃までは、まだ他府県旅行といふものがなく、冬期休暇には大てい県内旅行があつた。生徒は初めの間は列を作つて歩いたが、少し疲れて来ると、御冠船の時の支那兵みたいに列をくづして、道々「伊集のガマクグワー」などを歌ひながら歩いたものだ。そして大概、番所(今の村役場)や小学校で宿つたが晩はいつも各級で小宴が張られた。時折先生と生徒との組打ち等も演ぜられた。この年の冬は例年とは風変りな旅行が試みられた。三年生以上の有志者三十余名は気を養ひ体を練り、傍ら博物を採集する目的で下国先生外四人の教員に率ひられ十二月の末に後慶良問の座間味に渡航して鹿狩りをやつた。島人三百人も私たちの一行に加はつて、山谷を駈廻り、突貫鼓喚して、鹿を追ひまくり、たうとう十一頭を生檎して、一頭を銃獲した。当時阿佐捷で、其後慶良間鰹業の鼻祖になつた故松田翁は、島人三百人の総指揮官であつたが中々能く働いた。私たちは年内に帰校する予定だつたが、天候不穏のため、余儀なく彼の島で新年を迎へることになつた。その間に米も蜴きて、甘藷を食ふ程になつた。その為に私は胃腸加答児を病んだが、お蔭で私一人だけは粥をすゝることを許された。かういふ旅行の時にはいつも自炊をしたものだが、先生方も生徒と同じ物を喰べて居られた。さて何日まで待つても順風がないので、下国先生は思ひきつてクリ舟に乗つて帰らうといひ出された。そこで一同は三人づ上組になつてクリ舟に乗組み、五日の朝九時頃十五艘のクリ舟が舶櫨相街んで、|安護《あご》の|浦《うら》を発し、午後の四時頃那覇港に着いた。十二里の荒海を一滴の水も呑まずに漕ぎ続けた水手の働きも感心だが、私たちも亦頗る元気で、中には水手の手伝ひをして那覇まで漕ぎ通した連中もゐた。こゝに一つの挿話がある。四年生の玉城螢君は首里の素封家の独息子だつたが、結婚の日が切迫してゐるといふので、家から迎へにやつて来た。そして私たちより二日ばかり前に、クリ舟で帰つていつたが、シケの為に前慶良間に避難してゐて、私たちと同じ日に那覇に着いた。家に帰つて見たら、式は前の日にすんでゐたといふことだ。県庁の方では一同の安否を気遣つて、特に球陽丸を雇つて、迎へによこしたが、私たちのクリ舟が見えたので、球陽丸は途中から引つかへしたといふことだ。兎に角、これは私たちに取つては生れて始めての大冒険だつた。今頃の人はかういふ無謀な事は決してやらないだらう。ところが当時沖縄人の柔弱な風を矯正するにはかういふ荒治療が必要であつた。この時下国先生は陽に謎責されて、陰に賞讃されたといふことだ。何月頃だつたか、下国先生は次の時代を引受く可き中学生が、将来の社会に対してどういふ希望を抱いてゐるかを試みようとして、全校生徒に向ひ、 「目下沖縄に於て風習改良を要する件三以上を選定して各自の意見を附記せよ」といふ問題を提出されたことがある。之に対して百三十名の生徒の中で答案呈出者は、九十余名(一年生が三十名、二年生が二十九名、三年生が十九名、四年生が十名、五年生が十名)で、その条項が三十六、七件に及んでゐた。 『沖縄県私立教育会雑誌』第二十号には、これらの項目の年級別の統計が載ってゐるが、今その重なるもの挙げて見よう。一番多いのが男子の結髪を廃して断髪となす事(七+四名)で、以下女子の手背の入墨を廃すること(六+八名)、婚姻に関し儀式及び早婚の弊を矯正すること(五+二名)、男子特に女子の就学を奨励すること(二十八名)、男逸女労の弊を矯正すること(二十名)、言語の改良を計ること(十五名)、青年の酒色に耽ける弊を矯正すること(十五名)、清潔を守らしむべきこと(十一名)、旧慣の政治を改め他県同様にすべきこと(十名)、守旧頑固の風を矯正すること(九名)、深夜まで鳴物を以て酒宴するを禁ずること(九名)、兵役の義務は本県人も負担すべきこと(八名)、他国其他に旅行するを嫌ふ弊を打破すること(六名)、柔弱の風を改め気象を養ふこと(五名)、実業思想を抱かしむること(四名)、娼妓を勝手に市街に遊行せしめざること(四名)等である。私はその時何と答へたか覚えてゐないが、私の答も右の統計中に這入つてゐるだらう。就中、真境名生の結髪に関する意見と漢那生の早婚に対する意見には見るべきものがあつたといふことだ。さて、三十年前の私たちの希望の過半が今日実現されてゐるのを見るのは嬉しいことであるが、今なほ実現されずに残ってゐるものゝ多きは歎ずべきことである。それは兎に角、下国先生が、絶えず杜会のことに注意を払ひつゝ、青年を薫陶されたのは多とすべきである。いさゝか自画自讃の嫌はあるが、下国先生は特別に私たちのクラスを愛して、何か物になりさうだといつて居られた。この頃だつたらう、今の江木文部大臣が県事局長時代に来県されたことがあつて、各級から数名づゝ集めて、試問をされたが、中々うまく答へて、讃辞を戴いたので、下国先生が少からず面目を施されたことを覚えてゐる。こゝでちよつと先生のことをいはせて貰ひたい。先生は秋田県の人だ。二十一歳の時に文検に及第して滋賀の学校に奉職し、当時の滋賀県知事中井桜洲散人の感化を受けた人で、熱のある教育家だつた。先達て先生の送別会の席上で、伊江男爵が、下国先生は吉田松陰のやうな人物であるといはれたが、正にその通りだ。その外当時中学師範の先生には国士の風を備へた人が頗る多かつた。そして彼等の片言隻句は今なほ私達の潜在意識裡で盛んに活動しつゝある。
 この年の九月には、いよく琉球新報が生れた。これは松山王子(今の尚順男)を中心として護得久朝惟、高嶺朝教等によつて経営されたもので、野間五造氏を主筆とし、太田朝敷、宮井悦之輔等を記者とする沖縄最初の言論機関である。野間宮井の二氏は奈良原知事の斡旋で聰されたが、体よき監視者と思つたら間違ひがない。新報社の方でも後では持てあましたやうであつた。この中心人物なる松山王子は当年二十二歳の青年で、金の轡をさした結髪すがたで、いつも大和馬に乗つて、首里那覇間を往来して居られた。護得久氏と高嶺氏とはいづれも二十六歳で、太田氏が一番の年長者で、二十九歳だつた。彼等は毎日握り飯を提げて通勤してゐたとのことだ。いづれも東都の新空気を吸つて帰つたばかりの革命家であつた。中にも太田氏は、当時沖縄きつての新思想家で沖縄改革の急先鋒であつた。数年の後彼等は尚家内の旧勢力を悉く駆逐して尚家を占領したので、所謂革新の一段落はついた。
 二十七年の三月に私たちは四年級に進級した。この頃那覇で九州沖縄八県聯合共進会が開かれた。こないだまで遺つてゐた南陽館は実に当時の記念物の一であつた。この時本県人は沖縄を他県に比較するの機会に遭遇した。そして種々酷評などを受けたので、漸く自家の短所を自覚し始めた。中学生をして親しく本土の文明に接せしめようといふ議もこの時に起つた。そして五月には、いよく二年生以上の京阪地方修学旅行が実現された。私たちは目の廻るほど多くの物質的文明を見せられた。ことに京阪地方には下国先生の知人が多かつた為に、学校でもその他の所でも非常な歓迎を受けた。京都の第三高等学校の歓迎会はすばらしいものであつた。同校では当時水野幸吉氏が牛耳を執ってゐたが、この人のおちついた巧みな歓迎の辞についで、笹川兄弟外数名の熱烈な演説があつた。中に『東方策』を受売りした人もあつた。こちらの方からは、久場景述君が一同を代表して答辞を述べたが、中々能く出来てゐた。それがすんで、剣舞、弓術、野球などの余興を見せられた。晩には大勢の三高生が私たちの宿屋におしかけて来て・愉快な座談会が開かれた。そして私たちは、リバイバルにかゝつたやつに高等教育熱にかゝつて了つた。この晩親しく語つた人々の中には東西大学の教授になつてゐる人もあれば、知事以上の位地に進んだ人もある。
 この旅行中に、帰つたら一つ学友会の機関雑誌を発行して見やうではないかとの議が起つた。学友会雑誌第一号は実にこの刺激を受けて生れたのである。当時渡久地所瑚君は三年だつたが、盛んに上級生の間を往復して、斡旋するところがあつた。彼はこの頃から事務家だといはれてゐた。その上彼は筆まめなので、雑誌には毎号論文を出してゐた。それは兎に角、帰校後例の高等教育熱はますく高まつた。
 その頃、先生方は頗りに普通語の励行をせまられたが、その甲斐がなかつた。地方から来た生徒は真面目に普通語を使つてゐたが、首里那覇の生徒は盛んに方言を使つてゐた。今でこそ普通語は、一般に普及してゐるものの、当時は之を使用するものが至つて少なかつた。誰某は大和口が出来るといふことは、今日で誰某は英語が話せるといふ位の所であつた。ところが、年取つた人たちや学校に行かない連中は、之を稽古する機会がないので酒宴の席上などで冗談半分に稽古する外仕方がなかつた。それ故に久米村人の間では、 「|大和口《やまとぐち》シーガ|行《い》ヵ」といふことは一杯飲みに行かうといふことのシノニムになつてゐた。私も、父が酔ぱらふと、盛んに|大和口《やまとぐち》をしかけられて、困まらされたものだ。いつだつたか、三大節の外は容易に顔を見せない児玉校長が気味の悪い笑ひ方をして、学校にやつて来られた。暫らくすると、校長の訓話があるからといつて講堂に這入れられたが、校長はおもむろに口を開いて、かういふ話をされた。私は皆さんに同情をよせる。皆さんは普通語さへ完全に使へないクセに英語まで学ばなければならないといふ気の毒な境遇にゐる。つまり一度に二つの外国語を修めると同じ訳だから、これは皆さんに取つては非常な重荷一に。私は今その重荷の一つをおろしてやらうと思つてゐる。これから英語科を廃さうと思ふから、その力を片一方に集中するやうにしろ、といつたやうな話だつたと思ふ。とんだ|同情だといつて、一同は激昂した。中にも高等教育熱におかされた連中の激昂は非常なものだつた。今にもストライキがおつぱじまりさうな形勢になつた。沖縄唯一の言論機関たる琉球新報がだまつてゐよう筈がない。新報杜で采配を揮つてゐた護得久朝惟氏は奮然として起つた。そして英語科を廃さうとするのは、とりもなほさず沖縄人に、高等教育を受けさせまいとするのだ、沖縄を植民地扱ひにするのだ、といつて、手ひどく児玉校長を叩かせた。この危期に臨んで、下国先生は校長に忠告してその計画を中止させようと力められたが、剛情な校長は一旦言ひ出したことを容易に取消すやうな人ではなかつた。たうとう双方の間に折衷案が出来て英語を随意科にするといふところで昆がついた。当時の卒業証書を見てみるがいゝ。「但英語科兼修」とか「但英語科ヲ除ク」といふ風に但書がついてゐる。当時の生徒中には、この随意科を修めなかつた為に、その前途をあやまつた者が可なりゐる。宮城鉄夫君は英語科を兼修しなかつた一人だが、上京して満二年間、英語ばかり研究してから|札幌《さつぽろ》農学校に這入つたのだ。それから、この校長に就いては今一ついふ可きことがある。それは沖縄県初代の県令上杉茂憲伯が沖縄を去られる時、奨学資金として県に寄附された千五百円がこの人の学務課長時代に他の方面に流用されて、すつかりなくなつたことである。そしてこの頃から県費留学生を出さなくなつたのはかへす/゛\も残念なことである。けれども私はこの人を悪人とは思はない。この人を私は一種の愛国者と思つてゐる。この人は兎に角沖縄を甚だしく誤解した人の一人である。が、この人をしてさうさせた罪の一半は当時の東京留学生が負はなければなるまい。当時は廃藩置県を去る事間も無い頃で、沖縄の留学生の中にも志士が多くて盛んに復藩論を唱へてゐたことは、彼等の機関雑誌「沖縄青年」を見たらわかるが、或時児玉氏が上京中青年会に臨んで、監督者のつもりで一場の訓話をやつて、其の場で留学生から手ひどく反駁されたことがあつた。それ以来彼は沖縄人に高等教育を受けさせるのは国家の為にならないといふ意見を抱くやうになつたといはれてゐる。彼が郷土研究者の田島先生を蛇蝸視し、生徒に同情の深い下国先生を敬遠したのは、むしろ当然なことである。彼がもし地下で、高等教育を受けた者の中から日琉同祖論を高調する者が出たり、三十年前の恩師を迎へて還暦の祝賀会を開いたりするのを聞いたら、その教育方針の全然誤つてゐたことを覚るであらう。
 修学旅行から帰つて以来、学校の空気はとにかく不穏であつた。八月には日清戦争が突発した。琉球新報は諸見里朝鴻氏を従軍記者として台湾に派遣した。沖縄の人心は非常に動揺した。下火になつてゐた開化党と頑固党との争は再燃した。首里|三平等《みひら》の頑固党の連中は、毎月、朔日と十五日とには、|百人御物参《もムそおものまいり》といつて、古琉球の大礼服をつけて、弁ケ嶽、円覚寺、弁才天、園比屋武御嶽、観音堂等に参詣し、旧藩王尚泰の健康と支那の勝利とを祈つた。首里小学校の児童が彼等の行列を見て嘲つたといふので、原国訓導が頑固党の勇士たちから散々郷られたのもこの頃のことである。この頃久米村で発行する暦に間違があつて、頑固党は旧暦の大晦日を二十九日とし、開化党は日本暦によつて、之を三十日としたが、これから頑固党のことを一名二十九日党と呼ぶやうになつた。琉球新報の二十九日党攻撃はだん/\激しくなつた。
 何月頃だつたか、戦争中、もとの首里区長の知花朝章氏が清国の事情視察の為に、山原船で脱走されたことがある。この時二艘の山原船は与那原からか、何処から出たか、途中で暴風に遭つて一艘は沈没し、知花氏を乗せた一艘は三日目に辛じて福州に着いた。そして一行は天津で日本の国事探偵と誤られて、獄に投ぜられたが、後琉球人だといふことがわかつて、許されたとのことだ。
 この頃は官庁と官庁との間に電話がかゝつてゐた許で、海底電信は未かゝつてゐなかつた。それ故に捷報なども一週間後でなければ知る事が出来ない有様だつた。捷報が至る毎に琉球新報に号外を出したが二十九日党は之を信じなかつたのみか、真赤な嘘だと言ひふらしてゐた。方々の家庭でも、このことに就いて父子兄弟の間に盛に議論が闘はされた。
 この頃中学師範の先生や僧侶の連中が組織した興仁会なるものがあつて、毎月一回真教寺で通俗講演会を開いてゐた。或時日野といふ禅僧が、仏教が日本文明に及ぼした感化について述べたら、後で下国先生が起って、仏教の日本に及ぽせる悪影響について極端と思はれるほど僧侶を攻撃された、田原法水師は、ぢつと聴いて居られたが、たうとう耐えられなくなつたと見えて、演壇の近くまで進んでいつて、何か一言二言注意されたやうだつたが、下国先生は中途にして、演壇を降られた。又或時先生は琉球新報が、たとひ戦時中であらうが、御祭騒ぎをするのはよせといつたのに対して、盛んに騒いで、敵嶺心を起させろと論じられたので、後で太田氏が衝立ち上つて長広舌を振nて、先生の議論に酬ゐられた。先生は沖縄の教育界きつての新思想家で、その上能弁家だつたので、当時沖縄の言論界は先生の独舞台のやうな観を呈してゐた。
 そ力からこゝに下国先生の為に特筆大書すべきことがある。それは先生が夙に体操中心主義を唱へて、校風の振興を計られたことだ。この時の沖縄分遣隊長は先生の郷里の人であつたが、先生の請ひに応じて、種子島出身の羽爪中尉と下士二名とをやつて、中学の体操を手伝はした。そして中隊教練の時はいつも下国先生が一分隊長となり、自岩先生が二分隊長となり、その他某々先生が三分隊長左翼士官となつて、活動されたので、何処でも見られない精神のこもつた体操を見ることが出来た。さういふところに、当局者の神経過敏の結果、支那の南洋艦隊が沖縄を襲撃するだらうとの風説が一般に拡つたので、中学師範の生徒はそれぞれ義勇団を組織して、いざ鎌倉といふ時、首里城の沖縄分遣隊の手伝ひをすることにした。私たちは剣を研ぎ弾丸を造つて、九十五、六度の炎天の下で、毎日射撃をしたり、練兵をしたりした。那覇にゐた官吏や寄留商人たちは同盟義会といふものを組織して、刀剣を購入し、妻子を郷里に還した。この時児玉校長も妻子を郷里にかへしたといはれてゐる。之を見て、那覇の市民中には、家具家財を田舎に持越して、避難するのもゐた。学校からの帰りに、私たちは毎日のやうに、この避難民に出会つた。幸にして支那の南洋艦隊はやつて来なかつた。
 二十八年の三月、私たちはいよく五年生になつた。戦争は、幸いに日本の勝利に帰して、お隣りの台湾まで日本の領土となり、御用船などが那覇を経由して行くやうになつたので、頑固党の連中も日本の勝利を信じないわけにはいかなくなつた。おまけに講和談判後、知花氏が支那から帰つて来られて支那の内状を詳しく説明されて以来、沖縄の人心は俄に一変して、開化党の数が激増した。ワてして児童の就学歩合も著しく殖えた。けれども義村党のみはその態度を改めなかつた。そこで世人は彼等のことを|石枕党《いしまくら》といつた。その領首の義村按司はたうとう脱走して、福州で客死した。李鴻章の密使だといつて、義村党から沢山の金額をせしめた鹿児島県人山城一の公判のあつたのもこの頃のことだ。下国先生はこの頃御用船に乗つて新領土の視察に出かけられた。支那にいつてゐた沖縄人は大方帰つて来た。中には辮髪して支那服を着けたものもゐた。これらの人たちは母国の土を踏むや否や、監獄に連れて行かれた。この間の消息は亀川里之子毛有慶の『竹蔭詩稿』を見たらよくわかる。
 そこで沖縄人は悉くその行くべき方向を知つた訳であるが、この上にも人心を統一するの必要があるといふので、琉球新報の人たちが中心となつて、公同会なるものを組織した。その趣意とする所は、人情風俗を参酌し一種の特別制度を設置し、精神の統帥者にして杜会の中心点なる尚泰を其の長司に任じ、先づ分離しかけた人心を統一せしめ、相率ゐて皇化に浴せしめるにあつた。この運動が一たび起るや、県内議論鴛々として起り、支那党は猛然として之に反対した。所謂開化党中にも陽に賛成して陰に反対するものが多かつた。東京の沖縄青年会でも高等師範在学中の者及び郡部出身の者は大方之に反対したといはれてゐる。この時国民新聞大阪毎日新聞及び鹿児島新聞等の通信員として沖縄に来てゐた佐々木笑受郎氏は、之を旧時の夢を繰返して、時勢に伴はざる封建復活の運動だといつて、右の各新聞に通信した。
 この夏頃、日本艦隊の旗艦であつた松島艦が突然那覇の沖に現はれた。この時私たち五年生は波止場で遊んでゐたが、早速学校のボートを用意して、名誉ある松島艦訪問に出かけた。十町位沖に漕出すと、波が荒くて、到底いけさうもないので、引き返さうとしたが、横波を喰つて沈没するより、ずんく漕出して軍艦に救はれた方がましだといつて、一生懸命に漕いだ。黄海の勇士たちは拍手喝采をして、私たちを迎へた。やつとのことでデツキに上ることが出来たが、佐野常羽といふ少尉がびしよ濡れになつた私たちを士官室につれていつて、私たちの勇気を賞讃したあとで、西洋料理の御馳走までしてくれた。私たちは数名の士官に取囲まれて、いろくの問答をした。この時佐野少尉に君等の中に他日海軍々人になりたい希望の人はゐないかと問はれて、漢那君が「自分がなります」と速答したのは面白かつた。私たちは軍艦を辞して、ボートに飛おりたが、再び危険を冒して、暮れ方やつと波止場にかへることが出来た。これで漢那君の目的だけは定つた。ずつとあとで屋比久孟昌君が陸軍士官学校にいく決心をした。
 暑中休暇がすんで二学期も半ば頃になつた。私も又卒業後のことが考へられるやうになつた。此頃の私にはもう高等商業にいく気は薄らいでゐた。先年、下国先生の運動の結果、沖縄の中学の卒業生は、造士館と五高とには無試験で這入れるやうになつてゐた。橋口諭吉君は無試験で造士館に這入つた。奥川鐘太郎、蒲原守一、玉城螢の三君も無試験で五高に這入つた。来年は自分も五高にいかうと、かう私はきめて置いた。それから私は漢那君などと一緒に一生懸命に英語を勉強した。
 けれども、私の希望は水泡に帰した。十月十五日の午後一時過ぎ、下国先生は突然休職を命ぜられ、田島先生は諭示免職になつた。そしてその翌日新教頭文学士和田規矩夫氏の新任挨拶があつた。日清戦争のために一時下火になつてゐた校長に対する私たちの不平は再び燃え出した。五年生で一番年取つたのは西銘五郎君で、一番若いのが漢那憲和君だつたが、当時この二人は全校生徒の牛耳を執つてゐた。或日の夕方、私の宅にやつて来て、自分たちは県のために犠牲になつて児玉校長を排斥しやうと思ふが、君も仲間に這入つて呉れないかといつた。私は心の中で、高等学校に入学する特権を失ふことを歎きつゝ、涙を呑んで二人の申出でに同意した。翌日から私は学校で皆の意向を探ぐることに力めた。一両日たつてから、私の宅に三年生以上の重なる連中(重に学友会の役員)を、十数名位集めて、徹宵協議をこらした結果、かういふ相談が纒まつた。先年英語科廃止問題でストライキが起りかけた時、下国先生は極力鎮圧されたこともあるから、今度御自分のことに関係してストライキを起されるのは、先生に取つてはさぞ御迷惑であらう。その上生徒でありながらかういふことをたくらむのは好ましくないから、一旦退校した上で、校長に辞職を勧告し、それで聞かなければ、輿論を喚起して、飽くまでも素志を貫徹しやうといふことになつた。そして園引で毎日二、三名宛退校願を出すことにした。翌日西銘五郎君と金城紀光君が退校願を出したら、学校の方では、早速許可してくれた。その翌日照屋、漢那、渡久地の三名が退校願を出した。この時学校でははじめて形勢が不穏だと見て取つて、刑事を使つて私たちの行動を探知させた。私たちはその晩参謀本部を渡久地政瑚君の二階に移して徹宵作戦計画をした。その晩十一時過、奈良原県知事のところから五年生を全部呼びに来たが、もう酒に酔つて居られるだらうから、今晩伺つては面倒だといふので、翌日未明にいくことにした。翌朝五時頃いつて見ると、知事は、決して軽挙暴動をしないやうにと、一同をなだめられた。その日はいよく三年生以上の退校願を一纏めにして登校し、漢那君が之を和田教頭につき出した。和田先生はこれは私が受取つてもいゝものでせうかといひながら、受取られたが、その手は少々震へてゐた。あとで誰かゞ先生の宅に伺つて、かうなるまでのいきさつを述べて、先生の了解を求めたら、先生はいくらか安心されたとのことだ。私たちは、一年生と二年生とが一時間目の授業がすんで、教場を出ようとするのをとつつかまへ、私たちは、これから大問題を解決しやうとしてゐるから、行動を共にしてくれ、といつたので、百余名の下級生はおとなしく私たちの後について来た。今の高等女学校の後の運動場につれていつて、上級生が二、三人立つて猛烈な演説をしたら、いづれも感奮興起して、行動を共にすることを誓つた。この時のことを琉球新報はかう論じてゐた。
  中学校三年生以上の生徒は、一昨日を以て大概退校願書を差し出し、残るものは僅に首里人の一部分十数名に過ぎず。右は教頭更任についての職員の挙動に不満を抱き、遂に退校願書を差出すに至りしといふ。修学旅行にては内地到るところに歓待せられ、中央政府よりの出張官吏をして殊に称讃の声を洩らしめたる中学校をして
  遂に斯の醜態を現ぜしむ。果して誰の罪ぞ。教頭更任に就きても余輩頗る説ありといへども、既に決行せられたる事にもあり、且は今後の青年の教養上多少の障碍を与へんことを慮りて絨黙したりき。況んや又今に至りて更に云々すべきの必要なし。唯切に当局者に望むは軽々しく此の事を処せず、慎みて県下有為の青年をして前途を誤らしむるが如き事なからんことを切に希望するものなり。琉球新報によつて、この日は十一月の十一日であつたことがわかる。その翌日一年生二年生も退校願を差し出した。あとで一同は瀬長島に遠足をしたが、東村の某氏から三円の寄附があつた。琉球新報の記事にもある通り、十二、三名のストライキに加らないものがゐたお蔭で、学校は閉鎖されないで、先生方は不相変教鞭を執ることが出来た。十三日には四年五年の重立つた連中が、いよく校長外二教諭のところに辞職勧告に出かけた。この場面は中々面白い場面であるが、長くなる恐れがあるから、省くことにする。翌十四日、漢那、照屋、真境名、屋比久、私の五名は今度の主動者だといふかどで、文部省令によつて退学を命ぜられた。十五日に、私たちは「退校願につきて」といふ一篇を琉球新報に出した。これは重に漢那君が立案して、真境名君が筆を執つたもので、いはゞ私たちの宣言書ともいふべきものである。それから同じ意味で、文部大臣に建白書を出した。学校で父兄を呼出して、子弟を登校させるやうな説諭を加へたが、誰一人応ずるものがなかつた。私たちはこの頃同志倶楽部を組織し、今の商業銀行の横町の民家を借りて、毎日集会することにした。そして門には、同志倶楽部と書いた大きな看板まで掛けた。これは当時の書家として有名な知事官房の横内氏に書いて貰ったのであつた。倶楽部員七、八十名が学校に推かけていつて、今に至るまで退校願を許可しないのはどういふ訳かと、催促をした。この時校長は半ば説諭的半ば籠絡的の演説をしたが、私たちは「再び退校願に就いて」といふ一篇を綴つて、新報に投じた。これは照屋宏君が書いた。そこで倶楽部に二学級を設けて上級生たちが一年生と二年生とを教授しはじめた。学科は英漢数の三ツだつたが、私は二年生の英語を受持たされた。いつだつたか、日は覚えてゐないが、三年生以下は六ケ月の停学を命ぜられ、一年生は、二ケ月の停学を命ぜられた。二十三日の新報を見ると、民間の有志家も漸くこの問題に注意を払ふやうになつて、善後策に就いて、寄りく協議しつゝあつたといふことがわかる。この頃田島先生は琉球新報の記者になつて居られたが、盛んに応援された。私の父は同志倶楽部の維持費にしろ、といつて金六円を寄附した。それから私と外二人の倶楽部員が渡嘉敷通睦翁を訪問して、拾五円の寄附を貰つて帰つた。二十九日に西村の有志者が金六円寄附したら、三十日には東村の有志者が同じく金六円を寄附した。十二月の二日には西村平民有志者が金五円を寄附した。それから四日には若狭町村の有志者から六円、泉崎村友会から六円七拾銭の寄附があつた。その後久茂地協心勤学社から弐円、泊村友会から参円の寄附があつた。その他父兄や匿名の人からも続々寄附が集つた。総計百円位にも上つたらう。これが私たちの軍資金なのだ。これを今日の相場にしたら、大したものになる。試みに当時の物価表を調べて見ると、内地上米三斗五升入一俵が三円、人力車は那覇市は一銭、二人乗が二銭、那覇から首里へいくには五銭、首里から那覇へ下るには三銭であつた。そして東京遊学生の一ケ月の学資が五、六円であつた。この頃競争の結果、牛肉一斤が五銭まで下落したことがある。私たちはこの寄附金で、家賃を払つたり、遊説に出かけたりして、おもむろに持久の策を講じた。
 この頃、師範学校の生徒も児玉校長に対して、ストライキを起しかけたが、やつとのことで鎮圧された。これは五日の新報に教育界の紛紙(師範学校生徒亦動く)といふ記事を見たら、能くわかる。
 それから中学校で新入生徒を募集するといふ企があつたが、首里小学校長が生徒の意向を尋ねた時、高等三年の某は直ちに立つて演説して、中学生になるのは望む所であるが、不熱心だ、不道徳だと生徒に排斥されて、弁明することが出来ない校長教員の下に行くのは、吾輩の最も恥づる所だ、と絶叫したので、一同拍手して之に賛成し、一人の志望者も無かつたといふことだ。これは当時の新報紙上にちやんと報道されてゐる事実なのだ。この某は今の尚家の家扶の百名朝敏君であつたといふことだ。
 六日に私たちは下国先生一家を招待して、送別会を開いた。午前中は三重城で種々の遊戯をなし、午後は那覇高等小学校構内で、一同記念の撮影をなし、後で真教寺で送別会を開いた。漢那君が開会の辞を述べ二、三氏の送別演説があつた後で、先生が答辞を述べられた。一同の中には、感極まつて泣き出したのもゐた。八目には県下の有志家が先生の送別会を南陽館で開いて、沖縄の将来について、懇談親話するところがあつた。十日には上級生の母姉が下国先生の奥様を私の宅に招待して、沖縄風の送別会を開いた。先生の一家族は十二月の二十日、いよいよ百五十名の生徒、生徒の父兄、及び県下知名の士に惜しまれつゝ、沖縄を見棄てられた。
 多事であつた明治二十八年はかういふやうにして暮れた。一寸いふことを忘れたが、私はこの事件が勃発して以来、その経過を細大漏らさず、在京の先輩の安元実得君に通信するのを怠らなかつたが、東京の沖縄青年会員はこれを材料として、意見書を作り手分けして文部当局及び教育雑誌記者等を訪問して、運動してくれた。けれども児玉校長は動きさうにも無かつた。おまけに、地方の小学校長等に生徒募集の勧誘をしてゐるとの噂が立つたので、新年早々私たち幹部のもの二、三名宛を一組にして、島尻、中頭、国頭の三郡に遊説に出かけることにした。そして西銘、渡久地、酒井の三人は島尻に、照屋、屋比久の二人は中頭に、漢那、金城、小禄の三人は国頭に、それ/゛\同日に出発した。真境名と私その他の連中は教育係りとして、留守役を勤めた。この間に刑事や官吏が二、三度威しに来たことがある。時恰も国頭教育家の集会が名護で開かれたが、漢那君は司会者の許可を得て、一場の演説を試み、聴衆を驚かしたといふことだ。
 三月の何日頃だつたか、児玉校長転任の吉報に接して、一同は狂喜した。和田教頭が校長を拝命して、主動者を除くの外、百五十名は復校を許された。事を挙げてから殆ど六ヶ月、私たちは漸く目的を貫徹することが出来たので、.一十六年の三月三十一日、同志倶楽部を解散した。今私は解散の前日撮影した総務員十三名(真境名君は当日不在)の写真を出して、ながめてゐるが、その中の六名が故人となつてゐるのを見て、一種言ふべからざる悲哀を感じつゝある。
 それから私は自分の前途のことを心配し出した。漢那君は海軍兵学校の受験準備に取りかゝつた。ところが肝腎な母堂がどうしても承知しないので、非常に手古摺つた。この時下国先生が商用で来られたのを幸、先生に篤と相談して貰つて、やつとのことで承諾させた。それから兵学校に入学するには年齢の制限がありその上中学卒業生でなければ受験を許さないといふ規定があつたが、奈良原知事が法規を無視して中学を卒業したことにして下さつたので、この青年反逆者は漸く兵学校の受験に応ずる資格を得た。七月頃彼は江田島へ出かけた。私はますく寂しくなつた。彼の不在中に私は西銘、照屋の二君と一緒に東都に遊学した。この時私は二十一歳だつた。私はもう官立学校に行く希望を全く放棄して、慶応義塾に這入る気になつてゐた。九月の初頃だつたらう。照屋が西銘と一緒に本郷に遊びにいつて来て、希望に満ちた顔付で、かういつた。
 「自分たちは赤門のあたりを角帽の大学生が潤歩するのを見て、心的革命を起した。自分たちはどんなことがあつても高等教育を受けなければならない」と。つひ一両日前築地の工手学校の規則書を貰って来た照屋が、而も家が有福でない大工の子の照屋が、大学にいくといふことを聞いて、びつくりした。この刹那私も亦心的革命が起つた。暫くたつて、和田校長が上京された。私たちは先生にどこかの中学の五年に入れて貰ふやうに運動して貰つた。先生は東京中のあらゆる中学を廻つて、交渉されたが、将があかなかつた。最後に麹町の明治義会中学に交渉して貰つて、やつとのことで這入ることが出来た。この頃私は、強度の|恋郷病《スノタルジヤ》に罹つてゐたが、真境名と屋比久が復校を許されたと聞いて、上京したのが少し早まつたと思つた。一時は国に帰って、中学に復校しようとも思つたが、そのうちに、東京の生活が面白くなつて来て、漸く落ちついて勉強することが出来るやうになつた。三十年の四月に三人は中学の卒業証書を貰って、第一高等学校の入学試験に応じたが、照屋君だけがパッスして、二人は見事にフエルした。その後西銘君は事志と違つて、渡米するやうになり、私は二、三度にがい経験を嘗めて、三十四年やつと京都の三高に這入ることが出来た。照屋君たちがあの時本郷に遊びにいかなければ、ごんなことにはならなかつたが、と思つたことも屡々あつた。あの日照屋君たちか本郷に遊びにいかなかつたら、私は兎に角慶応義塾に這入つて、今日は何処かの会社員にでもなつてゐたであらう。
 三十年は瞬く間に過ぎた。私は一個の郷土研究者として図書館の一隅にをさまりかへつてゐるが、いまだに人間としての私を発見することが出来ないで、もがいてゐる。
 かういふ時に、恩師下国先生はやつて来られた。三十年前に私たちを鼓舞し、奨励された時と少しも変らない若々しさをもつて。そして、この三十日間、私たちは再び青年時代に立ちかへつて、毎日のやうに、先生を取りまいて騒いだ。今舷に「君たちと君たちの先生との関係はどんなものだ」、ときく人があつたら、私はその人にワルト・ホイットマンの詩句をもつて答へやう。
  私と私の仲間とは、議論や小唄で、説明し合ふのではない。
  私たちは、私たち自身の存在で、説明し合ふのだ。
 先生はほんとに説教や法令の代りに、先生自身を私たちに与へられた。
 以上は私の記憶をもととし、琉球新報や教育会雑誌等を参照して、書き綴つたものだが、年代の錯誤や事実の相違もあるだらう。もしさういふ所があつたら、誰か記憶のいゝ人に訂正して貰はう。

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