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柳田国男「南島研究の現状」

大炎厄の機会に

 大地震の当時は私はロンドンに居た。殆と有り得べからざる母国大厄…難の報に接して、動巓しない者は一人も無いといふ有様であつた。丸二年前のたしか今日では無かつたかと思ふ。丁抹に開かれた万国議員会議に列席した数名の代議士が、林大使の宅に集まつて悲みと憂ひの会話を交へて居る中に、或一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を以て斯ういふことを謂つた。是は全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れて居たからだと謂つた。
 私は之を聴いて、斯ういふ大きな愁傷の中ではあつたが、尚強硬なる抗議を提出せざるを得なかつたのである。本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助からうとした者の大部分は、寧ろ平生から放縦な生活を為し得なかつた人々では無いか。彼等が他の碌でも無い市民に代つて、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこに在るかと詰問した。
 此議員のしたやうな断定は、勿論一種の激語、もしくは愚痴とも名つくべきものであつて、まじめに其論理の正しいか否かを討究するにも足らぬのは明かだが、往々にして此方法を以て何等かの教訓とあきらめを罹災民に与へようとするのが、ごく古代からの東洋風である為か、帰朝して後に人から聞いて見ると、東京に於てもより多くの尊敬を受けて居る老人たちの中に、やはり熱烈に右の天譴説《てんけんせつ》を唱へた人があつたさうである。誠に苦々しいことだと思ふ。
 昔は周公といふ人は、若き王様に過ちがある時に、我子の伯禽《はくきん》を鞭つたといふ話がある。又鶴千代君の身辺に警戒の必要があると、千松が飢ゑて且つ死んだといふ先例もあるが、君臣親子兄弟朋友の間ならばいざ知らず、又始めから其覚悟があるならば兎も角も、単に同時代の国民だといふのみで、平素は何等の連帯も無く、又は相互の干渉も指導も戒飭も力及ばぬ者が、代つて罪せられる理由は無い。例へば銀座通りで不良青年がたわけを尽した故に、本所で貧民の子女が焼け死なンければならぬといふ馬鹿げた道理は無く、それは又制裁でも何でも無いのである。
 殊に東京や横浜の市などは、殆と公共団体とも名づけ能はざる空漠たる無数家庭のかたまりである。幸福にも不幸にも、常からして何等の統一は無かつたのである。之に向つてソドム・ゴモラの旧式な説明を下すことは、因果説としても極度に不完全なものであつた。

沖繩問題の未解決

 自分たちは或は幼稚なる運命論者かも知れぬが、未だ上天の裁判と刑罰とに確かな成律のあることを解し得ない者である。しかも少なくとも人間の大小の不幸には人の誤つたる行為不行為が、原因を為す場合の多いことだけは認めて居る。但し之を指して自業自得と呼んでもいンのは、果してどの程度まで』あるかには疑問がある。例へば親が若い頃に道楽をして、我子に悪疾を遺伝した場合はどうか、自分の採用した運転手の乱酔の為に、自動車が谷に堕ちて大怪我をする。斯んな場合は自業自得の内かどうか。さう手短かには否とも然りとも、答へることは出来まいと思つて居る。
 然るに古来の歴史研究者が、所謂治乱興亡の跡を外部から批判する際に限り、往々にして右申す道楽な父、乃至は不注意なる運転手よりも、尚遙かに広汎なる区域に亘つて、国民の責任連帯を認めようとするのである。隣国支那などの史論には、古今を通じて幾らでも其例があるが、我日本に於ても近頃は折々、斯ういふ不正確な物の見やうをする者が出来て来たのである。現に今日の問題たる沖繩諸島の生活に於ても、我々はその最も悲しむべき実例を見るのである。
 沖繩最近の窮状の、主たる原因は社会経済上の失敗である。誤り又は故意に巧んだ人間の行為が、積り積つて此痼疾を為したことは事実である。しかも其誤りを敢てした者は、現に今最も多く苦み悩んで居る人で無いのみならず、彼等の親たちや友人ですらも無かつたのである。所謂張三が酒を飲んで李四が酔うて居るのである。誤つたる経済といふのは誤つた消費であつた。島には素より天然の制限が多い。島の天候と地味である。面積である。地理上の距離である。此等の諸因子は常に島の生産を拘束して、如何なる新しい智術を以てするも、彼等の生産は到底完全に自由であり得ぬに反して、一方その消費の様式と選択とは、時代一様の趣味と流行とに支配せられ、至つて自由且つ奔放であつた。少なくとも若干の富める個人には、それが権利の如く認められて居た。其為に島を一体として見るときは、到底其生産と釣合はざることの明かな消費を、何等かの方法を構へて久しい間続けて来たのであつた。
 日本の最近の国情も恰も之に該当する。自分の資力で自分が奢るのに何の不可があると謂つて居るうちに、国全体のカを以て生産する物が、始終国全体としてつぶしてしまふ物の分量に及ぼず、市価はいつも高く一度下つた為替は中々元に戻らず、さうして誰かゴ片隅に於て、いつでも難渋をして居るのである。たゞ日本一国としては、つい近頃漸く其弊が見えて来たに反して、沖繩では可なり永い前から之を続けて居た上に、島が小さいので其不権衡が早く現れて居ただけである。交通が始まれば色々と便利調宝な物品が入って来る。力ある者が之を買入れる為には、力弱き者を制して、そのいン加減不十分なる消費の割前を、尚一段と差控へさせる必要があつたので、古い時代にはそれが年貢運上の形を以て、この生活幸福の大差等を付けて居たのである。
 税は新しい時代になつて確かに軽減せられたが、尚之に代つて特殊なる商事機関が働き、個々の直接生産者の利益は其為に大に殺がれた。沖繩本島でいふならば鹿児島大阪から来た商人の店、又は之を援助して分前に与かつた那覇などの利口者である。彼等は常民よりも一段すぐれた才能と、大きな資本の力とを武器として、愚鈍なる同島人の生産に余分に食ひ込み、彼等を窮乏せしめずんば止まなかつたのである。官庁巨商其他の有力者は、之に伴うて許さるる限り自由なる消費をした。其消費の中には学校とか書籍とかの如き、新文化の生活に必要欠くべからざるものも勿論多かつたが、其以外にも食料飲料衣料などの、島の乏しい生産物と交易して輸入せられる品物が、いつでも輸出を超えて居たので、久しきを経てそれが集積し、終には以前の浪費階級までを引つくるめて、共々に没落の淵に沈めようとするのである。仕事ばかりうんと残つて金は無く、納税は義務ばかりで納め得るカは既に尽き、今や県市町村の如き公法人にも、破産といふことがあり得るか否かといふ、新しい法律上の問題をさへ生じたのである。
 此状態は勿論坐視すべきものでは無い。如何なる対策でも立てなければならぬ。一の救済手段が不十分だときまれば、必ず転じて第二の方法を試みなければならぬ。しかも我々の尚心苦しく感ずることは.此の如き場合に於ても、最も多く悩み悶える者は、早くから大に弱つて居た階級であるに拘らず、外部の援助に由つて先づ救はれる者は、通例は却つて最近始めて困り出した表層の少数だけだといふ点である。即ち沖繩県を一箇の生活体として見るならば、今度の如き困窮も或は因果応報かも知れぬが、一たび其中に入つて両者の関係を見れば、やはり此の如き連帯責任は不当であり、又苦痛の分担も明白に不公平なることを知るのである。

適用し難き経済調和説

 日本全体としても此道理は同じである。或階級又は或地域の住民が拙劣なる経済生活をした為に、当初から些しも之に参与せず、又之を制御するの力も無かつた同胞までが、共々に難儀をするといふことは不当であり、如何にも気の毒な話である。しかも日本は国柄として、天然の事情が地方毎に色々である。離れ島や山奥の村には、中央部の都市に近い平野と、丸で違つた経済上の条件があり、生産の制限がある。其中では東北地方のやうに、土地弘くして人が少なく、開けばまだ余力のあるといふ地方ならば、単に世間に引張られて余りに急激に、生産の行止まりに近づくのが困るといふだけであるが、海島の生産制限は之とは反対に、主として人口の過剰と資源の欠乏から来て居るのである。沖繩の如き近世百年間の新刺戟で人の数が倍三倍になり、しかも食料の増加は決して之と比例しなかつた故に、栄養の不足で子供も其親も、次第々々にかじけて小さくなつて行くやうな土地では、以前もてはやされた英国風の経済学のやうに、所謂自然の経済調和を楽観しては居られぬわけである。
 以上はたゞ比較的単簡なる経済問題のみに付て述べて見たのであるが、一般文化の諸問題、例へば精神生活の幸不幸に就ても、全然同一の事態を推究することが出来る。外国人が横浜神戸の埠頭や帝国ホテル四周の日本人を見て、此国の気風を論じ未来を判定しようとするのを恕し能はざる我々は、必ず先づ自ら日本人とはどんなものかを知らなければならぬ。然るに色々の偏した心持ちの所謂先覚者が、未だ曾て自分に似ない境遇の日本人を、考慮の中に置かうとしなかつたのは不親切であつた。
 そこで此意味に於て我々は、夙に日本の偏卑な土地の一様ならざる事情を闡明して、国の今後の政策の基礎と為すべきを主張した。たまく中央に遠い地に居を占めて居たばかりに、終始他方の利害に殉ぜしむべき理由の無いことを唱道した。さうしてその最も適切なる一例として、沖繩諸島の現在問題を選んだのである。

学問と希望

 就ては先づ承認を得なければならぬことは、自分は本日は南島談話会と称する小さい団体を代表して、最近までの南島研究の大略を申述べるのであるが、此会は主として所謂内地人、殊に都市居住者によつて組織せられて居るけれども、我々は一人として閑暇に苦しんで沖繩の学問に、参加を申込むやうな気楽な人間では無かつたといふことである。それに我々が覚えてからでも、沖繩の学問は非常に進んだ。殊に尊敬すべきは伊波普猷君の、二十年間の倦まざる勤労であつて、今や其感化は群島の内にも外にも弘く及んで居る。我々共の声援、乃至は競争の刺戟が無いならば、島の学問の完成が期し得られないかの如く、考へて居る者などは決して無いのである。
 た義々同志の徒が深く感じ、又自分嗇としては前年彼地に旅行した際にも、しみぐと島の諸君と話したことは、如何にしたならば沖繩今日の学問が、弘く日本全国民の幸福となり、否進んでは世界全体の、人の生活の改良となり得るであらうかといふことを、まだ諸君等が十分に考へてくれられぬといふ点であつた。此が為に文化の研究を目的とする学問にとつて、最も大切なる比較と思ひ遣りとが、まだ足らないといふことを遺憾としたのであつた。
 沖繩の有識階級に属する人々は、如何なる瞬間も中央の文化の恩恵が、孤島の端々に及ぶこと遍からずして、時運が彼等を後に取残して進みつゝあるのでは無いかを、気遣はざる時とてはないのである。しかも他の一方には、沖繩の中部日本に対する関係と、至つてよく似た外様関係を以て、沖繩自身に従属する更に小なる孤島あることを忘れんとし、又往々にして之を取残して独り進まうとしたのである。沖繩本島を取囲んで居る若干の小島だけは、或は小舟に乗つて朝晩に往来することも出来るが、所謂先島の二群島、即ち宮古八重山の二郡の島々に至つては、悠々たる五百年の間、今の沖繩県が中央集権制の下に統治せられるよりも、更に遙かに心細く且つ苦しい孤存状態に置かれたのであつた。その又先島の八重山の主島にも、更に税を納めるだけとも謂ふべき関係で、結び附けられて居た属島があつた。旧日本の南の端、西の端はどこかといふ地理の問題が出る場合だけに、僅かに人の記憶に上つた波照間島、与那国島などが即ちそれである。宮古群島の方にも遙かの海を隔て㌧多良間の島が従属し、多良間自身に対しては亦|水納《みんな》の島が隷して居た。島に大小がある以上は、棄てン置いても大は小を軽んずる傾きがあるのに、中央では更に統治を簡便にする為に、一方の優越を承認したのみならず、尚その個々の島内に於ても、従来はわざと其住民の中から、上に従順にして才智便巧なる少数者のみに権力を付与して、所謂統一を図らしめた。其為に同じ一つの島の住民の間に、辛苦と安逸との甚しき不均衡があつたことは、申す迄も無いのである。
 埃及や希臘の古い文明を見ても、国が盛んに開けたといふことは、思ひの外少数の、表面に立つ人だけの誇りであつた。貧困者と多数の奴隷とは、下に隠れて其労苦のみを負担せしめられたのである。併し彼等駆役に供せられた奴隷なり小民なりは、専ら異民族であり又捕虜であり買はれた者の末であつた。之に反して我々の社会に於て、蚕の如く又鵜の如く働かされた人々は、疑ひも無き同胞の血族である。言語を同じくし神を同じくした古来の日本民族の仲間同士であつたのである。それが境遇の差によつて、追使はれる百姓と追使ふ士とに分れて、著しい幸福の階段を生じたのである、島々の文化を興隆せしむる為には、他には是ぞといふ手段も別に無かつた故に、出来るだけ彼等を利用したのである。
 而うして此大小の島と島の関係は、更に眼を転ずれば同時に又、今の日本といふ国の世界の文明国団に対する、笑止千万なる関係ともよく似て居た。五大国の一などといふ空な語を以て物を知らぬ人をおだて峯、何等模倣以上の努力をせずして半世紀は既に過ぎてしまつた。しかも外交は誤解を以て終始し、言語は満足に通ぜず、頭数票数を以て其主張を貫かうとすれば、所謂特殊の利害はいつの世にも少数で無かつたことは無い。土地は懸離れて電報は遠く、運賃は莫大で時ばかり多くかかる。得る所のものは常に取残されはせぬかといふ不安と、邪推に傾かざるを得ぬ継子根性の淋しさである。そればかりか国に相応せぬ消費増加の為に、内に産する何物を以てしても支払に追付かず、結局は小弱なる生産者の取前を余分に殺いで、之に宛てるの他無き状態に陥つたことは、言はゴ稍ζ大規模なる世界の沖繩島であつたのである。
 故に今若し沖繩の学者たちが、一たびこの大小孤島の比較に徹底して、一方には目下自分たちの知友親族等の悩み患ふる所のものは、以前年久しく微小なる諸属島が、痛烈に味つて居た所の不幸と同じものであつたことを知り、更に他の一方にはそれが又、この日本といふ島帝国全体の、行くく将に陥らんとする所の惨状であるべきを覚つて、自ら憐むと共に同種国民の為にも悲しみ且っ患ひ、能く病源を探り治術の要点を見出すことに率先したならば、彼等の学問の光は一朝にして国の光と為り、終には人間界の最も大なる希望も、之に伴うて成長するにちがひない。是が私の沖繩人に向つて、力説した意見の大要であつた。
 しかも従来の沖繩の学問が、聊か偏つて居たことは事実であるが、是も亦日本全体の通弊といふべきものであつた。日本には近年の如き莫大の著述言論あるに拘らず、海の果や山の奥に住む平民たちの歴史の暗いことは、俗に暗黒時代と称する中世も同じである。是れ全く本といへば都府の産物で、本に基づく知識のみが学問の全部と看做されて居た結果であつて、所謂中央集権の文化の苦き果実である。是あるが為に今やカフェや百貨店の米国式生活を以て、一国の文化を推断せられんとして居るのである。此の如くんば普通選挙の如きも、単なる虚名に帰するの虞ありと言はねばならぬ。我々は国のこの大きな欠点を覚らんが為に、或は沖繩人に取つては迷惑な話かとも思ふが、地域に限あり変化が単純であつて、勢の忽ち窮まり易く従つて病症の診断せられ易い一例として之を選定し、細心に又深い同情を以て、既往の沖繩の生活を研究しようとしたのである。必ずしも独り此一地方の為に、尽さうといふ志からでは無いのであつた。

王国成立以前

 沖繩の文献は異常に豊富である。つい近頃まで伊波氏の管理して居られた県立図書館では、諸君の努力を以て島の文書の大部分が既に蒐集整理せられた。尚《しよう》侯爵家にも若干の系譜記録の類が保存せられ、他の若干は又内務省と東京大学とに在つてこのたびの大震災の為に灰燼に委したが、現存する材料の利用だけでもなほ多数の俊秀の生涯を要求するものがあるのである。併しながら文字が此島に行はれたのは、存外に後世のことであつた。沖繩が明と交通を始めたのは足利期の初頭であつたが、文字渡来はそれよりも余り遠くは遡り得ないやうである。殊に正史の編纂に至つては、それより降ること三百余年、我々がいふ江戸時代に入つてからのことであつた。それ故に修史に利用せられた古代史料なるものは、必然的に不完全であつて、且つ著しく王室と朝臣との周囲の事蹟に偏して居た。所謂三山併立時代の史実は、年月や人名の如き主要なる点までが不確実で、屡ζ支那の方の記録に由つて、之を補正する必要があつた。況んや三山以前の如きは、十の十迄が口碑の領分であつた。事蹟の埋没して居ることは大和の朝廷の安寧天皇以後、開化天皇以前よりも又一層甚しいものがあつたのである。
 王といふ称呼は恐らくは支那と正式の交通があつてからのことΣ思はれる。古語では之を「世の主」と謂つて居る。しかも世の主は浦々島々に大小無数に住んで居たので、固より其間には強弱はあつたであらうが、果して其中の最大なる者が、他の「世の主」等を統括して居たかどうかは不明である。按司若くはアジといふ名称は、アルジといふ語と元一つかとの説もあり、語原に就ては定まつた解釈も無いが、やはり亦世の主のことを意味して居たやうである。或は又カワラとも謂ひ、其音一転してチャラ若くはヂャナとも謂つた。ちやうど内地の大名小名が、割拠から追々併呑に移つて行ったやうに、沖繩も以前は可なり殺伐な島で、戦勝に因つて大を為した者が覇を唱へ、次に外に対して王を称したので、第一尚氏の三山統一なるものは即ちその最終の段階とも見られるのである。
 外国文明の偏頗なる恩恵は、既に此頃から著しかつたのである。三山の王都は何れも皆海港を擁し、その勢力ある世の主は之に由つて唐大和とも交通したのだから有形無形の国内征服の武器は、すべて外部から獲たと見てよいのである。此点は弾丸黒子の宮古島も、又八重山の石垣島も同じことで、与那国島さへも事情がよく似て居た。年代ばかりが少しつつおくれて、各小島でも何れも人が剰り利害が抵触し沢山のカワラたちが相争つて居るうちに、率先して款を沖繩の王廷に通じた者が其支援を得て、乃ち後世までの優勝階級であつた。此事実の決して或る二一二の島のみの偶然の一致で無かつたことは、弘く南北太平洋上の諸島の、土人盛衰の歴史を学ぶ者の大なる感興である。未開のブイジイやソロモンの島々でも、偶ζ海に近く住む部曲にして、先づ白人と接触し得たものは、戦にも平和にも常に内陸に居る會長等を威圧して、久しい間に出来て居た勢力のバランスが覆つた。それを宣教師などの歴史には大変に重く見たのみか、膝を白人に屈すると否とに由つて、主権の正閏を判別せんとした結果は、陰に潜んで抑制せられ、悩み且つ亡びた者の歴史は、所謂有史以前として永古に埋もれてしまつたのである。
 所謂群雄割拠の時代に於ては、舶来の文明は自衛の為にも亦必要であつた。人は自ら進んで之を利用しなければ、必ず他の之を利用する者の為に制馭せられる。此が為には外と親しみ内に闘はねばならぬやうな、情無い結果をさへ生じたのである。従つて文化模倣の民族心理にも、自分たちは今尚究め尽されざる深い原因があるやうに思つて居る。次の代の学者に完成してもらふべき学問の中でも、特に重要なるもの』一つである。
 我沖繩の如きも、本島の南三分一を除外例として、地勢上から申せば本来は割拠孤立に便なる島であつたが、天然の制限が忽ち現れ、個々の盆地に人口が浴れるといふ世の中になると、外との交通は刺戟せられて起り、又各自の小利害を防護する為には、血族でも相闘ふといふが如き、あらゆる不自然なる方法が案出せられたのである。其順序又法則は、時につれて形を更へつ》、たうとう現代まで続いて来た。さうして中央の政府に結ぶ者が必ず克っといふが如き、地方党情の今日の特色を作つたのである。故に政治に病があると謂はうよりも、寧ろ老子の言の如く、病あるが為に政治の必要を生じたと謂つた方が当つて居るのである。

文化普及の法則

 琉球といふ名称は薩摩人を始めとして、我々が最も多く用ゐる所であつて、現に本日の会の名も琉球講演会であるが、是は日本をジャパンといふと同様に、本来外部から付与したもので、多数の所謂琉球人は実は之を知らず、知る者も亦之を悦んでは居らぬ。そこで自分などは便宜上、之に代ふるに沖繩、沖繩人といふ語を以てするが、是とても前に申す南端の二群島は勿論、北に三百年前に薩藩に割取せられた奄美大島、喜界・沖永良部・徳・与論其他の島々を包含することを得ないものである。此等多数の離島に於て、悪鬼納とも字には書いて、ウチナアと謂って居たのは即ち王の住む主島を意味し、之を自分たちの居る島々の総称とは考へて居なかつた。海上に繩を延《は》えたるが如くなる故にとか、又は朽繩《くちなは》の蜒蜿として居る如く長く連なつて居るところから名づけたなどといふ説は、大なる出鱈目である。地図を開いて見るか又は飛行機に乗つて飛んででも見なければ、其様な形容の出来る筈は無かつた。何かもつと古い理由があるのである。
 しかも大昔から日本の国史にも此名が見え、彼地でも久しく之を用ゐて居る人があつた。自分の推測では恐らくもと交通の衝に在つた一小地域の地名で、例へば長野や栃木が県の名となつたやうに、今では弘い面積の総称の如く考へられるに至つたので、つまり文化や政権と共に地名までが次第に拡張したものであらう。ナハは与那覇・我那覇・下《おり》那覇などと謂つて諸処に在る。内地でも亦那波といふ地名は少なくない。多分はもと或特色ある平地に付与せられた固有名詞であつて、最初は今の沖繩本島の南部、首里から那覇あたりを包含した一帯の地域が沖繩であつたのが、我々のヤマトシマネなどと同じく、沖繩文明の普及した区域に、段々とそれが延長して行つたものであらうと思ふ。
 しかもその沖繩文明なるもの』中心に於ても、亦内外の刺戟に由つて、近世頻繁に其態様を改めなければならなかつたのである。例へば静かなる池の汀に、繰返して小石を投込んだ場合のやうに、段々の波紋の輪が、首里那覇の間を中心として逐次に四方に進んで行った跡を認める。又或は布などの面の焼焦げのやうに、それが遠くなるほど狐色から茶になつて行き、末は布地の元の色が追々に見えて来ると同じ趣がある。三十六島の全体に対して、この文化統一の事業は可なりの困難であり又甚しく複雑であつたにも拘らず、我々の大なる興味を感ずることは、この以前の布地の色なるものが、やはり亦南北略ζ一様であつて、海上数百里の間に粟散する島々は恰も五丈七丈の一続きの布を、拡げた如くであつたことである。邑に君あり村に長ありとも謂ふべき百按司(ムンヂャナ)の世の中が次第に進展して、其順序が我大ヤマトの戦国末と同じく、土佐は長曾我部に、越後は上杉に、薩摩大隅は島津にと云ふ風に地方地方で先づ一つに纒まり、それが又相率ゐて伏見城の秀吉公へ参覲したのと頗るよく似て居たことは、或は全世界の人類群に共通なる政治上の趨勢であつて、必ずしも我々の民族だけに、限つたことで無いと謂ひ得るかも知れぬが、それよりも更に一歩を進めて、其統一より以前の各部落の結合方法、一門一族の組織関係など迄も、詳しい調査をして見たならば、色々の点に於て海洋民族の特色が発揮せられ、以前久しい間外国の学者たちが、知らうとして力及ばなかつた微妙なる知識が、供与せられることにならうかと思つて居る。
 殊に政治上の大なる力と為り、社会制度の根柢を為して居たのは、所謂固有宗教の様式である。首里の王朝が近世式国家を打建てる為に、多大の努力を以て全島に亘つて信仰の統一を計画した時よりもずつと以前から、この南北端の遠く相隔てた離れ島の部落の問に、既に驚くべき信仰の一致はあつた。しかも其一致は啻に島と島との間のみならず、同時に又ヤマトの我々との間にも、何人にも気の付くほど顕著なるものがあつた。例へば神が一定の期日を以て、海と天との堺から一定の土地に御降りなされたことである。祭祀は必ず其地方に於ける一門の長者の家に属し、其家に在つては必ず女性の専業であつたことである。神と其家々との関係は、外部の何人も争ひ得ない程度に深いもので、其優越は同時に又俗界に於ける彼等の力であつたことである。女性は神と人との間に立つて神意を伝へ、殊に其指導を以て彼等が肉身の兄弟、父又は夫を援けたことである。此等は何れも皆、兼て我々が日本の固有宗教の元の様式として、それぐ論証して置いたところのものと、要点に於ては殆と里であつた。
 しかも南方の諸島では、仏教道教の影響は共に案外に微弱であつた。即ち古い信仰は大なる変更を受けずして、現に今日に伝はり且つ活きて居るのである。従つて神秘はなほ多く、婦人は又最も慎み深い故に、正面から問ひ尋ねて其理論を学ぶことは、島の男子にすらも許されては居らず、況んや外から来て見る者には一層困難で、誤解や一知半解の臆断もあり勝ちであり、ひどい人になると腰だめで鉄砲を打放すやうな者が近頃までも随分あつたが、その化けの皮だけはいと容易に引剥がし得たのみならず、尚積極的にも若干の苦労忍耐を以て、少しつつは真相を見出して行くことが出来るらしいのである。其為には島の平民の青年たちが、志を起して精確な学問をすることは、非常に大なる貢献であつた。最近我々の喪失した一会員、法学士佐喜真興英君の如きは、確かにその一人であつた。彼が僅かな二つ三つの研究だけを世に遺して若くして死んでしまひ、折角の天分を空しくしたことは、殆と我々をして慟哭せしめるものであるが、兎に角に斯ういふ人々の辛苦に由つて、南島古文化の研究は其端緒だけは開かれたのである。少なくとも方法と順序、前途の光明だけは既に見出されたのである。

信仰から文芸へ

 沖繩の政府に於ては、正史の編纂よりは又遙かおくれて、今から二百十余年前の康熙五十二年(一七一三)に、各島各|間切《まぎり》より書上《かきあげ》を徴して、琉球国諸事由来記と題する編述があつた。是が島民の信仰に関する最初の系統ある記録である。地方に由つて繁簡一様で無いが、二三の離島では御嶽の神々の御名と由来、祭日祭式と供物の品目、参列諸員の人数座位などの他に、古来用ゐられて居たオタカベ及びミセセリの詞までも録進して居る。オタカベは我神祭の祝詞に当り、ミセセリは則ち之に対する形式化したる神語であつた。此にも亦各地の間の著しい一致があり、且つ年々之を聴く者には、却つて耳馴れて注意も薄かつたか知れぬが、我々が始めて之に接すると、勿論其中から其詞の出来た時代の信仰が窺はれるのである。見遁がすべからざる一つの特色は、其祭の願が悉く公共のものであつて、一語として個人の私事には触れて居なかつたといふ点である。所謂天下太平五穀成就村内安全までの祈願であつて、私人家庭の福徳円満には及ばなかつたといふ点である。即ち世の為に神を祭り、世が好ければ民も「世の主」も共に栄えたので、別の語を以て言ふならば、所謂祭政一致を以て島特殊の経済組織を支持して居たのであつた。
 このオタカベとミセセリとは、今日も稍ζ破損して残って居る。此以外には祭に仕へる祝女《のろ》たちの素朴な音楽に合せて、歌ひ且つ舞つたらしいオモリといふものが、村々の旧家即ち巫女の出る家に伝はつて居る。それと伊波普猷氏の献身的なる労作に基づいて、我々が最近帝国学士院の援助の下に、校訂出板したオモロ草紙のオモロとが、根原に於て一つであることは明白になつた。
 オモロ草紙はつまり公認せられたるオモリ集である。其大部分は王府に属する巫女の元首、ヤマトの斎宮に該当する聞得大君《きこえおほぎみ》の祭事に、曾て用ゐられたものを存録したのであるが、其以外にも由緒ある地方々々のオモロは、之を尊重して半ば文学的の意味を以て保存したのが、巻々の中には交つて居るやうである。併し要するに元は悉く神の大前で歌はれたものであつて、最初の聴手は神様、然らざれば神と共に楽しんだ浦人島人たちであつた。必ずしも神の御徳をた』へたもので無く、風景を咏じ人事を敘べたものでも、之を作り設けた目的の神に奏上するに在つたこ乏は我々の村の氏神の御田遊に、男女の情を興じた歌があつたのと同じで、神様も亦そんな歌を、聴いて御悦びなさるものと信じたからである。故に之を名づけて人間の文芸と謂はうよりも、寧ろ文芸の原の形と謂つた方が正しいのである。
 現在普通の沖繩人には、オモロやオモリの解し…難いことは、我々が神楽催馬楽をもてあつかふよりも尚甚しいと謂はれて居る。オモロの意味を会得する為には、更に特殊の研究の入用であることは、伊波君のやうな年頃の言語学者すら之を認めて居る。しかも其草紙は左様に六つかしい為に、却つて秘伝口伝の書の如くに、人から見られるやうになつて敬して遠ざけられた。チェンバレン教授の如きも、名は知つて居るが手が着けられなかつたと言つて居る。研究して見ようと謂つて東京にも持つて還つた人はあつたが、それは只今度の震災で、其幾部かを焼いてしまふだけの事業であつた。
 併し我々に於ては、単なる保存の事業として之を刊行するのでは無い。之に由らざれば解し得ない前代の思想及び心理が、もう沢山にあつて沖繩の理解を妨げるからである。由来記に列記せられた神々の御名のやうな至つて簡単な言語でも、もう今日は不明に帰したものが多い。琉球国旧記といふ書物は、この由来記の大要を整理し且つ漢訳して体裁を為したもので、僅かに十八年後の雍正九年に成つたのであるが、その神の名の漢訳などは実に乱暴で、原本の仮字の書損は其書損の通りに漢字が宛てンある。即ち此当時既に外国の学問をした男子などには、意味が全く不可解になつて居たのである。
 爰に於てか我々は、沖繩人の古い思想と信仰と、之を体現する慣習とを明かにする為に、更に進んで第三の興味ある研究、即ち言語の調査に入つて行く必要があるので、南島談話会に於ても微力ながら、親切なる島の人々と協力して、此方面の事業を思ひ立つたのである。

言語変遷と世相

 沖繩の言語の近世の変化は、日本語よりも更に烈しいものがあつた。しかも前に譬喩に引いた文化波動の法則に由つて、今尚遠い島の隅々には古い形を遺して居るのであるが、首里に集合して住んだ貴族上流の人々が、国外からの影響に対して最も鋭敏であつたのみならず、彼等の文化は常に最も有力なる標準であつた為に、此等偏卑なる地方の保守分子が今までは代表せられ解説せられる機会を得なかつた。此点も亦最も適切に日本全体の言語変遷の歴史を縮図するものであると思ふ。
 伊波氏のP音考といふ論文は、此点に関しては至つて有力なる参考であつて、今や一般に其正当を承認せられて居る。即ち沖繩語に於ても内地語と同じやうに、バ行は今のハ行の元の音であつた。さうして我々の方と同じ法則で、中央部から率先してPがFに移り次で又Hに移つたのであつた。沖繩では例へば畠は首里近くではハタキであるが、入重山の方はFでファタキ、宮古群島と北の国頭郡とは、今尚P音のパタキである。花でも春でも又羽を意味するハニでも、右の波動圏の遠くなるにつれて、Fが現れ又Pが顕れて来る。其道筋は内地も亦多分同様で、現在P音を保存した例は知らぬが(語の中間には幾らも顕れる)、F音の方は九州の一部でも北部日本海岸でも又は他の山村にも方々に用ゐられて居る。前代に溯つて見る迄も無いのである。
 此類似は独りP音には限らず、MがNと変り、RがDと変り、又Kが英語の山などに移る等皆同じことで、母音では又0がUに、EがIになるなど、何れも今日内地の方言に於て、屡ζ類例を見出し得る習性であるが、たゞ沖繩の中央部に於ては其変化が論理的に周到であり且っ厳格であつて、一つ変つた以上は皆変るといふ風になつて居たのは、全く前に謂ふ所の標準文化の公認の結果に他ならぬと思ふ。
 ところが三山統一以後の五百余年間、沖繩は終始この最も進んだる一面のみを以て、外部との接触を保つて居たのである。所謂両属の時代に於ては、支那は支那、薩摩は薩摩と、特に応接の為に構へ設けた特別の一面さへあつた。さうして内外人民同士の直接の交通は、甚だ微々として振はなかつたらしいのである。其上に一方には島を連ね血と信仰とを共通にした日本の学者までが、斯ういふ特定の一箇の窓からばかり、南の島の社会を覗かうとして居たのみならず、所謂異国情趣(エキゾチック)、即ち何か奇事異聞の耳目を驚かすものあるべきを予期して、書物の上からの捜索を続けて居たのである。時勢の然らしむる所是非も無いこと」は言ひながら、其状態が殆と五百年も続いて、明治となり大正と為つたのである。例へばマ丶ゴトをする小児が我妹を隣の叔母さんにして遊ぶやうに、我々の方でも国が栄えて行くにつれて、実は唐土などの泰平現象に倣ひ、所謂九訳を重ねて来るといふ類の南方の異国が、一つ位は欲しかつたのかも知れぬが生憎やそれは暫く別れて居た肉身の兄弟であつた。しかも此通り雙方の政治の実状が、恰も其誤解を為すに適して居たことは、誠に島々の為に悲しむべき不幸であつた。
 沖繩中央の学者の中には、夙く源為朝渡航の伝説を信ぜんとした者があつた。東恩納文学士の先刻挙げられた文治二年云々の年代は、他に独立した傍証の無い限りは、単に舜天王を以て鎮西入郎の子なりとした結果と見るの他は無いのである。足利から徳川と源氏隆盛時代の日本と交際する為には、又此点を高唱するの必要もあつたかと思ふが、其様に迄細心な考証を事としつ」、しかも民族全体としての親族関係は、却つて之を忘れようとして居たのであつた。明治の初年まで存命であつた、和歌に高名なる宜湾親方朝保の如きも、沖繩の単語の中から四十か五十の例を拾ひ上げて、それが日本の古語と元一つであつたことを説き、恰も当節のバビロン学会の諸君の如くに、之に由つて日琉の同祖を証明しようとして居る。此人にして尚然り。実に歎息に堪へざる疎遠であり又忘却であつたと言はねばならぬ。
 我々は幸ひにして最近学風の変化に由つて、今やこの南北両端の島々の中から、骨を折つて日琉共通ならざる若干の単語、例へば太陽をテダと謂ひ銀をナムジャといふの類を、探しまはつて問題にせねばならぬ迄になつたが、是も極めて新しいことであつて、まだチェンバレン先生の頃までは、世間は決してさうは考へて居なかつたのである。先生は首里の士人桃原良得氏の助けによつてあの島の標準語を学び、之に由つて有名なる琉球語研究の一篇を著はされたのであるが、其結論としては二つの言語の、祖先の共同は之を認め、しかも其間柄は兄弟まで』は無く、従姉妹ぐらゐなものかと謂つて居られるのである。成程オ列が悉くウ列となり、マがナになり、キをチと発音するやうな変化は、京江戸周囲の方言には見られない。是と首里那覇の現在語と、二つの所謂標準語を比べて見たならば、再従姉妹と謂つても三従兄弟と謂つても差支が無いのである。但し其中間に橋を架けて居る国頭郡以北、殊には道の島の方言、それから一方には九州の多くの田舎の語音などには、まだ先生は手を着けて居られなかつた。況んやずつと懸離れた宮城岩手青森等の方言に、仮に気永に捜して見たら沢山の共通が見つかるにしても、当時之を外国の先生に向つて、注意をしてあげる者は有り得なかつたのである。
 この沖繩の中央低地部に於てすらも、数百年前に内地から平仮字を輸入して、金石文などを録して居た頃までは、尚発音は今日よりも内地に近かつたのである。其当時既に「ク・ス・ム」と発音して居たものなら、「こ・そ・も」の仮字を宛てる筈は無いと思ふのに、現在の「ク・ス・ム」等に対して、其「こ・そ・も」等の仮字を使つて居る。おもろ草紙の表音法なども、大体に於て此事実を示し、又他の古文書にも之に一致した証拠がある。例へば今帰仁と書いて現在はナチジンと訓む村の名を、三百年前の辞令書にはミヤキセンと仮字書きしてある類である。此通り音の転訛は僅かな年代の力であつたのみならず、又地方的の差でもあつた。此頃出板せられた国頭郡誌を見ると、相隣りする村々にして、互ひに同じ語の発音を異にする例が甚だ多いのに心付く。南端の島々の如きは勿論のことである。
 独り音韻の変化のみでは無い。語法句法の上にも時代の差と、又所謂都鄙雅俗の差があつた。沖繩語法の一つの特色として、ヂェンバレン教授の挙げて居るミシエンやイメンシエンの類の助動詞とても、手短かに言へば我々の古語の、メスとイマスの異常なる発達であつて、例へば今日のゴザリマスルやイラセラレマセ等の、鎌倉時代にはまだ無かつたものが、此通り盛んに使はれて来たのと同じである。敬語法は言ふ迄も無く宮廷や地方豪族の住処、其他大小の文化中心から進展し普及する。我々の持つて居た地方的敬語の多くは、明治に入つてから野卑又は気がきかぬものとして急速に消滅し、其跡へは是も至つて新らしい「御見せ致します」といふ類の、都会産の敬語法が入つて来たのだが、沖繩に於てはまだ此程度にすらも行はれなかつたので、その特殊なる一様式の中央上流人の間にのみ用ゐられるものが、今の日本の新語法と異なつて居るといふことは、意外でも何でも無い。五年以前に私は国頭郡の村々をあるいて見て、自身この類の日用語形の地方的差異の甚しいのに心付いたのであつた。例へば地人《ちんちゆ》寄合即ち区民総会は、村では今尚自治の必要なる機関として頻々に之を開いて居るが、其召集方法は多くは少年をして声高く部落内にふれあるかしめるのである。其言葉を何といふかと思ふと、郡役所所在地の名護の町方ではユラチモーレー、即ち「寄合ひたまはれ」と謂つて居た。次に西海岸を三四里北に進んで塩屋湊で聴いたのはスリーンソーレ、即ち「揃ひめされ」であつたが、山を越えて東の海岸の瀬嵩といふ処では、右の二つの中間であつて、ユレンショーレー即ち「寄合ひめされ」と変つて居た。内地のゴザイマスに相当するビン又はヤビンなどは、明かに「侍る」又は「有り侍る」から発達した敬語であつて、其流行の起原のさして早く無いことは、内地に於ける此語法の歴史からだけでも想像が出来る。
 従つて島によつては、勿論まだ此等の文句の用途を知らぬものがあり、それに該当する今一っ以前の古い敬語の形が色々と残って居る。例へば北は奄美大島、南は宮古の島で聴く所のアリオール又アリオーラヌは、多分「居る」といふ動詞から作られた敬語であらうが、内地でも紀州の南海岸の如き「居る」を敬語用として「三銭五厘でをります」などといふ方言の例は多く、軍隊などで今盛んに使はせるデアリマスの如きも、勿論之と系統を同じくする新敬語であります。八重山群島の石垣などで使つて居るアルユー又はアラヌユーといふ敬意のユーは、尚その今一つ前のものかと思ふ間投詞の形であつて、畢竟は物言ふ人の慎んだ心持ちを表はすもの、例へて見れば此節の仏蘭西人などの、会話の末によく附け加へる小さな引き息と最も近いものである。日本語の厄介な特色として、外国人たちの閉口する複雑極まる敬語法の如きも、原に復れば斯様にまで単純なもので、我々が経過して来た千年この方の政治沿革、それから生れた今までの社会組織は、国語の特性と結合してかういふ語詞の異常なる発達までを、促すに至つたといふことが考へられるのである。

学問上の未開拓地

 ところが日本の此節の国語研究は、もう大分久しい間、斯ういふ問題よりももつと高尚な段階に停頓して居つて、大学や学会の業績を注意して見ても、根つから言語の成長や之に参与した地方生活、社会心理の働き方などには、力を入れる様子の無いことは、ちつとも敬服しない慎重の態度である。今の有様で進んで行くならば、自然の作用として人なら一代か一代半ほどの間に混乱し尽し、今見るものン大部分を不明にしてしまふことは受合である。それを知りつゝも尚棄て』置くならば、我々は最早此学問を専門家に委任して置かぬ方がよいのである。さうして又素人には手の着けられぬ様な六つかしい仕事でも無いのである。
 而うして此点に関しては我々はこの啓明会の親切に感謝する如く、帝国学士院の好意に対しても深く負ふ所がある。金高は至つて僅かではあるが、既に昨年と今年と二年に亘つて、本日そこに来て居る宮良当壮君といふ篤学なる八重山人に補助をして、南方諸島の言語採集の旅行をさせてくれられた。併し残念ながら二回だけの旅行ではまだ不十分であつた。殊に今年は海が荒れ航海が不規則であつた為に、僅かに北に近い部分で三四ケ処、昨年はそれでもずつと南の方の島で十幾ケ所、就中八重山群島では六つの島を巡り、や㌧豊富なる採集をして来た。是で約四分の一くらゐの功程であらうと思ふ。沖繩県では山原地方、即ち前に申す国頭郡の山地の、村毎に少しつつ変つて居るといふ地方、次には本島を取囲む東西の小島、殊に伊江伊平屋や南は久米島の如き、沖繩の人たちも用が無いから余り行かぬのである。それから現今鹿児島県に編入せられた所謂道の島々、南は宮古群島から多良間水納等の島が、全然まだ調査の外に残つて居るのは遺憾の極みである。
 然るに少なくともこの先島方面に於ては、独り一つの島と他の島との間のみならず、尚同じ島内で殆と部落毎に著しい音韻語彙の差が認められる。是も我々の同志の一人たるニコライ・ネフスキー君は、前半既に自費を以て宮古諸島の言語歌謡の採集に出かけた。其実験談に依ると、宮古の主島ですら言語の変化が甚しく、一番小さな方言団ともいふべきものは、戸数が僅かに二十戸ばかりであつたといふ。故に完全を望めば此種の比較語彙なども、非常に厖大なものとなるであらうが、自分等としては兎に角或階段まで達した時に、一応打切つて調査の結果を、公表してもらひたいと思つて居る。さうでもしなければ学界の沈滞を救ふに足らぬからである。
 宮良氏の報告の片端を見せて貰つて、我々の受けた教訓が先づ三つある。第一には言語の自ら保存する力である。我々が至つて幼稚な社会生活以来、便益を受けて居た所謂第一次用語は、殆と其全部が孤島も内地の我々も共通であつて、只其中には此方では今はもう利用せず、書物や記録にばかり遺って居るものが少々ある。第二には音の変化の驚くべく烈しいことで、其為に一旦は別語の如き感を与へんとすることである。例へば南方の三十六島に於ては、衣服は如何なる場合にも大和と同じくキヌであるが、島によつてはそれがキンとなり、チンとなり、又シヌとなつて居る。其他ワ行がバ行に、ヤ行がダ行に、力行の一部がファ行に変つて居るのは最も多い例で、不意に之を聴けば勿論|南蛮鴃舌《なんぱんげきぜつ》であるが、通訳が入用だといふことは決して言語の差別では無いのであつた。私などは鹿児島県に知人が多く、大抵は話の癖は解るつもりで居たが、それでもあの地方に旅行して老いたる婦人などと話をするときには、始終通弁の必要を感じたことであつた。
 第三には又表現法の変化の多いことである。是は独り其元を為す語法の分立からでも無く、殊には生活事情と之に基づく物の見方の差が、久しきに亘つて影響して居るからであらう。即ち古い思想なり感覚なりに、此には失はれて彼に存するものがある為で、昔を解釈せんとする者にとつて、大切なる一つの鍵である。同じ一つの民族であつても、時代によつて物言ひの変化する如く、境遇の以前に近いものと大に改まつた者との間に、段々の約束の移動があるのは自然のことで、日本が此様な打散った群島の国である御蔭に、何等の仮定や演繹法を傭ふことなくして、一望の下に色々の生活条件に在る旧同胞の心持ちを実験することの出来るのは、多くの外国の学者に羨まれてよい便宜であつた。単なる原理の学問の為から申しても、今日南島研究の前途が斯くの如く開けたことは、眉に手をかざして欣喜してよいことであるが、自分等民間学徒の希望は尚其以上に、数段と切実且っ重要なるものが存するのである。
 記録と絶縁して居る普通の日本人の、久しい間の生活努力が、今日の実社会の嬉し悲しい種々相の根柢であることは、特に立証する迄も無いことである。然るに若し右申す如き標本的の保存が無かつたならば、我々には到底其片端をも窺ふことも出来ず、徒らに饒舌なる中央の一部人士と共に、貴族や僧侶の文学の中から、漠然たる国民性、国民信仰の状態を描き出して見るの他はなかつたのである。それを最も確実なる遺物、即ち人そのものと言語とに基づいて、改めて今より深く遠く考へて見ることが、今後の公共生存の上に、何等かの効果を及ぼさずに居る道理は無いといふこと、是が我々の南島談話会の確信であり又希望である。
 但し言語の穿鑿は道楽に流れ易いから、十分に警戒しなければならぬ。即ち少しく類似認定の範囲を拡げると・忽ち日本語は波斯語なりといふ説も成立ち、又原始人の赤ん坊すら口にすべき語、若くは最近に作成せられたる文明語までが、倒全部を挙げて広東土音、或はチャム・モンクメール語でも説明が付くことになるので、此研究を只暇潰しに終らせることも少しも困難ではないのである。我々の業務は現存する事実の採録である。解説では無いのである。此手此耳あの空あの星を、何と呼んで居るかを知らんとする企てゴある。而うして又統一教育の力に由り、久しからずして次第に埋没せんとする事実を保存せんとする辛労である。仮に第二段の収穫の全然無い場合に於ても、あ》いふ先生たちの物ずきと一つに看做されることは大なる不当である。
 況んや我々都市の住民をして、絶海の孤島に此の如き同胞あることを知らしむ以外に、更にその孤島に生死する人々をして、其生存の何れの部分までが、全国土に分散する日本人と共通のものなるかを、知らしめるだけでも既に大なる力である。而うして其力に基づいての社会事業なり政治運動なりでなければ、仮忙成功した場合の恩沢が、遠き彼等に及ばぬのは致し方無しとしても、それが失敗した場合の苦痛までを、彼等に分担せしめる理由は絶対に無いのであるが、現に沖繩の如きは気の毒千万にも、前代以来の拙劣なる政策が、主として其悪結果を此等無抵抗無力無邪気なる人々に押付けて居たのである。没道理の天譴論者などは、先づ以て此点に於て深く反省する所が無ければならなかつたのである。
 国家方年の大計の為に、民族結合の急務を説かうとする人々は、無識であつてはならぬ。且つ手前勝手であつてはならぬ。其過失を免がれたいばかりに、我々は新たに斯ういふ学問の興隆を切望して居るのである。

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