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柳田国男「島々の話」



 昨年の夏、瑞西などで専ら人の噂になつて居たことは、南太平洋の東南端に、最も美しい離れ小島として又神秘の国として、世に聞えて居たイースターの島が沈んでしまつて見えなくなつたと言ふ話であつた。南島今日の造船技術では、とても通はれぬやうな遠い境に、歌と物語に富んだ静かな民が住んで居て、島には住民の全部が働いても、とても完成することの出来ぬ程の大きな石の色々の工作物があつた。其不思議の島が、或船長の報告に依ると、もと在つた海上に、どうしても見えぬと言ふことであつた。西洋人はローマンスを喜び、又或意味に於ては島の生活を愛借するが、それは只燈の光で花を見るやうな、遙かなる咏歎であつた。さうして後の智利《チリイ》からの電報で、島は依然として元の如しと伝へられると、なんの事だと舌を打つやうな人ばかり多かつた。
 大正八年の八月九月には怖しい流行感冒がタヒチ・サモァ其他の島々を非常に荒した。ゴーガンの画を賞し、スティブンソンの書翰集を読んで、多くの文明人が南の海の椰子の蔭をゆかしがつて居る間に、病に馴れぬ若い土人等が無数に死んだ。島を恵んだ神々と勇士との事業は、今は其若干を異国語の文書に伝へるだけで自ら其美しさと尊さを感じ得る者は、もう絶えざること縷の如くなつて居る。さうして島人たちも自ら之を知らず、保護者同情者を以て任ずる人々も、それ程迄には深く物を考へず、是非無きこと〜歎息して、唯力を記録の散佚を防ぐことに費して居る。ちやうど斯う言ふ時節に東洋の島国の、事件の誠に煩はしい世の中へ、我々は生れ合せて居るのである。



 自分は如何なる因縁が有つて、曾ては名を聞かなかつた遙かの島の住民の為に、此様に心を動かされることになつたのか、それを明瞭に考へて見ることが出来ぬ。日本は古くから大きな国であつた。此等の島々に住む土人とは、単に白人で無いといふ点より他に、何かの続き合ひが有らうとも思はれぬ。仮に民族の生活力には、素質から来た優劣は無いものとしても、少くとも我々の群は大きかつた。歴史を変化せしめる外部の偶然に対して、いつでも臨機の応接をするだけの力があつた。彼等と比べて見て運勢に相異のあるのも、其由来する所は夙に知られて居る。今更取立てゝ我身の幸福を喜ぶ必要すら無いやうな気がする。而もさう思ふ中にもどうしても感ぜずに居られぬことは、我々の同胞が西洋人との間に立てゝ居る精神上の国境が、いつになつても中々踏み越えにくいこと、之に反して碌に交通もしなかつた島々の住民が、仮に心置き無く其身の上を語ることが出来たとしたら、すぐにも打解けて互の心持ちを知り、十分な推察と諒解を与へ得られさうだと言ふことである。是は必しも忘れられたる血の親みでは無いかも知れぬ。島に住む者で無ければ味はへない孤独さと、そこで経験して来た特殊なる艱苦とが、久しく内陸の人になつた後も、猶我々の性情を支配して、斯うした人種以上の差別観を、暗々裡に作り上げたのかも知れぬ。



 曾て沖繩の青年の為にこんな話をしたことがある。諸君の所謂世界苦は、よく注意して見たまへ、半分は孤島苦だ。自分等ばかり大きな群から隔絶して、遠くから之を批判し、情感の共通が少ない為に何かと言ふと立場が対立する。而も衝突が起れば衆寡敵せぬ故に雌伏せんとする。其上に遠い為の誤解がある。政治でも文化でも、中心に近い者に遮られて、恩恵の均分を望み難い。此境遇に居る者の鬱屈は、多数の凡人を神経質にし皮肉にし、不平ずきにするには十分だ。以前渡海の船に磁石も無く…機関も無かつた時のやうに、問はず問はれず各ζの島を鎖して、寧ろ小さな天地に眠りをることを幸とすべきかも知れぬ。而も自ら指導して一箇の人を完成せんとする者には、おのつから又別箇の観方が有る。沖繩は決して最後の沖の小島では無い。宮古、入重山の島人等が、永い歳月の間中山の首都に対して感じて居る不便と不満とも同じものなれば、更に又宮古に在つては多良間の島、その多良間に対しては水納の島の青年が、やはり之を経験して居る筈である。八重山の主島に対する与那国の波照間も、事情は沖繩に均しくして尚一層の不幸は、彼等が最後であり又訴へても聴く人の無かつたことである。諸君の不平には限界が有つてはならぬ。飜つて又諸君の中央ど名づけて居るものも、こんな小さな地球に於てすら、決して真の中央では無いのだ。講和会議はヴェルサイユに開かれ、国際聯盟はジュネブに置かれる。二月も前から旅装を整へさせて、議論も十分には出来ぬ代表者を遙々と送り出さねばならぬ。高い通信料を払ひつン相互の誤解をくりかへさねばならぬ。外交論といへば蔭弁慶で、正論と身勝手の差別がわからぬ。是が我々の日本の今の悩みで、同時に沖繩人の孤島苦を只鏡餅の上下ぐらゐに差等づけたに過ぎぬものだ。論理が徹底しないと反抗にも価値が無い。もう国の戸は開けたのに、独りで自分を縦から看たり、横から看たり、徒らに憫れんで居ても仕方が無い。弘い共同の不満を攷究して見ようで無いかと論じて見たことがあつた。



 ところが歴史には国民的見方とも名つくべき一種の見方があつて、斯うした平面の比較をすることは容易で無い。公平なる裁判の機関が具はつて居る場合でも、雙方から所謂有力なる証拠が出て来る。我が便宜と汝の都合との差異は巨大であつて、此為にはつい近い頃迄、相隣する二つの部落でも、互に相許さなかつた。況や島と島との如きは真の別天地だ。乃ち別の歴史があつて、鬼が島の歴史は鬼の歴史であつた。言語も同じく神も同じいといふことは、ほんの此頃になつて漸と分つたが、悲しい哉其以前に、もう幾度かの征服と殺戮が行はれて居た。茫漠とした此世界に、同じ血を継ぎ同じ信仰言語を持つ者は、さう沢山には固まつて居らぬ。血が近ければこそ近くの島に住むのに、それを此の如くに隔離させて、又互に遠慮なく攻め合はしめたのも島である。鬼と異教徒との区別をすら知らぬ程の智識を提げて、西洋諸国の探険船がうかれて来た頃、多くの南の島では島の内でもなほ闘つて居た。棒で叩き合ふほどの存外に害の小さい戦ひではあつたが、而もなほ鋼鉄と火薬との大きな威力を以て之に臨むのを、恩恵と認めしむるに十分であつた。此の如くにして好意の征服は行はれ、耶蘇教と貿易とを中心にして、色々の新な文明が入つて来た。島の女は罪も無く笑ひ歌うて、盛に合ひの子を儲けた。其結果が今の南の島である。
 回帰線以北の琉球の諸島の、一番著しい歴史上の差異は、海が荒く風が烈しくて遠方の船を誘致するに足らなかつたことである。島の産物も必しも豊かでは無かつたので、乃ち幸にして免れたのである。島人等は只此が為に、今日のやうな時節を待って居ることが出来た。而も一通りならぬ忍耐を必要とした。島が小さければ小さいほど、早く艱難を嘗めなければならなかつた。.我々は今となつて幽かなる昔の歴史を学び、縁あつて再会したこの兄弟たちの、やつれた姿を見るに忍びぬのである。




 宮古は就中我が愛する島であるが、限られたる小天地に身を托して、愛着の情が強かつたばかりに、其島人たち.は数百年の久しい間、苦しい生存の闘ひを続けねばならなかつた。彼等は大倭の従兄弟とよく似た点は、その健気な思ひ揚つた性情に在つた。神を慕ひ武を好み、兼て又詩を善くした。さうして其詩に歌ひ伝へらるべき喜びと悲みの題目は、世を経て尽くる所を知らなかつたのである。島の名のミヤコは起原不明であるが、疑ひも無く我々の「都」と、もとの意味が一つである。此島の稗田阿礼が語り伝へて居る「あやこ」の章句にも、 「我が宮古の大宮古の」何々と云ふ対句が、屡ζ繰返されて居る所を見ると、彼等は近世に至る迄も、此地を王者の居るにふさはしい処と、信じ且つ誇りとして居たのである。
 島より外を知らぬ島人には、望も満足も共に小さかつた。珊瑚の砂に緑の草がかげり、日に映じ海の面に染め抜いて、見る目には如何にも美しいが、殖土の至つて薄い痩地ばかり多かつた。面積は僅かに九方里、附近の属島と合せても、内地の稍ζ大きい一村に過ぎぬ。現在の人口は五万であるが、何か特殊の工業の起らぬ限り、いつの世にも此だけの生活を支へることは難かつた。是をしもミヤコと命名して、安住して子孫の繁栄を楽しみ得た期間は、思ふに甚だ短かンつたであらう。
 唯これ程狭苦しい一群の小島でも、人間の幸福がなほ均等で無かつた為に、最も運の悪い部分がいち早く敗亡する間に、残りの人々は少しづンくつろぐことが出来た。島で怖しいのは高潮津浪の害である。椰子の繁茂する南太平洋の珊瑚礁では、人一代に一度は来るものときまつたやうである。八重山の石垣島では明和年間の大津浪に、南に面した村々の大半を空墟としたが、其後は幸にして久しく此災を免れて居る。宮古の方では年代は伝へぬが、海沿ひの栄えた村が一朝にして覆没した物語を、幾箇所とも無く伝へて居る。多分は記録に遺らぬ何度かの津波があつて、よく似た惨害を繰返したのであらう。島では之を四海波と呼んで居た。四海波に寄せられると、之を語り伝へる人迄が死に絶えて、村の跡が一旦は荒野になる。それを程無く拓きに出かけて、或家族が暫く栄える。其家々を取囲んで稍ζ有力なる政治の中心が出来かンるが、争ひ無しにはそれも久しくは続かなかつた。



 斯う言ふ事蹟は僅かに其片端が、島の記録に遺つて居るだけである。文字で昔の事を書き伝へたのは、何れの島でも二百年内外のことである。其以前には大和のやうに、神に仕へる女たちが、大切に之を記憶して次の代へ伝へた。支那では竹帛に垂れるなどと言ふことが、宮古では即ち「あやこ」に作ることであつた。あやこが無かつたら島には一冊の史書も無いのだ。而も此伝承を掌つた「つかさ」と言ふ巫女は、同時に又おもなる氏族に属する女性であつたが為に、滅びた旧家の記事に至つては、只滅びたと云ふことしか伝はらぬ。斯うして島の内にもう闘争が無用になる時代迄、烈しい人類の盛衰が続いたらしいのである。
「あやこ」の伝承にも、やはり限りがあつた。即ち最後に盛えて衰へなかつた家と、此に平和なる関係を持つ人々の歴史が、精確なる語りごとの殆と全部であつた。別の語で言へば宮古島の旧史は、今の郵便局長の仲宗根君の一家と此と同系の旧役人たち、其他一一一二の縁故ある家庭のみに、纒綿して成長したと言つてもよい。其他の花やかな勇士の生立ち、讎を討つたり討たれたりの物語も、よく見ると皆仲宗根の第一祖、たゝへ名を空広と呼ばれた豊見親に、遠い血筋を引く者で無ければ、此家の家々で尊崇した御嶽の神々の御威徳に帰してしまふ。而も何れの国の歴史にも見るやうに、大昔は神も人の如く人も亦神のやうで、二者の交感には神秘が多い。しかも人間的なる世中と言ふものが、若しも我々の歴史の初とすべきならば、宮古島の神代は大和のよりはずつと下へ垂れ下つて、仲宗根豊見親の時から只百年の前、西暦で算へるならば第十四世紀の終頃に、所謂与那覇勢頭《よなはせつ》豊見親が、初めて中山に朝貢した時にまで及んで居る。此から以後にも神はなほ現れ、島人の信仰も概ねうぶの儘ではあつたが、政治に計画があり、人がむだには死ぬまいとした努力と、外からふり返つて内を観ようとした心持ちが、もう此島を夢の国にはして置かなかつた。だから村や名家の由来を説く「あやこ」にも、昔神代にと言つて居るのは、必ず此以前のことを指して居るらしく思はれる。



 物語の興味は言ふ迄も無く「神代」の方に深い者がある。我々ヤマト人との埋もれたる脈絡も、此方からのみ辿り得られるが、それは又第二の折にしよう。宮古の歴史に忘るべからざる二人傑、現存の「あやこ」で讃歎して止まぬのは、やはり此島の運勢を変化させた、与那覇と仲宗根との両人の豊見親であつたから、この事だけを荒々と話してしまはう。豊見親の「親」は長老を意味し、トヨミは嘖々として喧伝せらるΣと言ふ尊称である。与那覇は島人の絶えざる争闘を憂ひ、大国の力を借りて平和を保たうと企て、其策に成功して自身が後援ある島の首領に為つた。神代の中にも海上に漂流して、未知の島人の手に陥つて不思議に命を助かり、祭の式や舞の曲を習つて還つて来た人の話があるのを見れば、島の北三十里に沖繩と言ふ島の有ることは、よもや知らずには居なかつたらうと思ふが、旧記の伝へでは彼は白川浜に砂の祭壇を築きて、五色の緒を取附けた竿を之に樹て、其緒の丑寅の方に靡くを見て、始めて大国の方位を知ったと称して居る。其大国と言ふのが、今や孤島の苦を味つて居る琉球国であつた。大王は英邁で征服を夢みて居る処へ、与那覇の申出は謙遜至極なものであつた。宮古の民風乱を欲し、屡ζ人命を栽害するのは、地方偏小にして上下の分あることを知らず、且つ勝つことを好んで法律を恐れぬ為もあるが、一つには衣食が過分に豊かで、身に余裕があるからである。此上は十分な年貢を御取上げあつて、島人が辛苦労働せねば生存の出来ぬやうにして下さるならば、空しく争闘に日を送ることも出来なくなるのであらう。そこで此から朝貢を致したいと言ふのであつた。沖繩の方の記録には、聖上其忠誠をめでて褒賞を賜ふとある。なる程与那覇が目的は正に貫徹して、其から此島には戦は絶えたが、住民は予定の通り死に至る迄辛苦した。島の粟は首里に運ばれて僅かの泡盛の原料であつた。実際穀物は沢山に持出すことが出来ぬので、主たる上納は女の手業の細布であつた。漸く眉の整ふ頃から老いて腰のかゴむ迄、手を藍に染めて片時も休まず、機絲の一筋づ}の長さを、足で歩んで繰つてゆくことが、あれから五百年の運命になつてしまひ、僅かに士分の者だけが労役を他に転嫁し得るので、寧ろ在番の役人に寵せられて、男の児を生む機会ばかりを祈つて居た。島の農夫には慢性の飢渇があつた。殺し合はぬ代りに長命の者が少なかつた。



 さうして居てもなほ人の剰る時代がやつて来た。特権ある階級が少し殖えると、忽ちに平民の分担が堪へがたくなる。強圧にも限が有つた。そこで一種の植民策を考へ出して、士族の一部に安住の地を得しめんとしたのが、仲宗根の豊見親の智謀であつた。
 八重山と宮古とにはもう古くからの交通があつた。与那覇豊見親は八重山人を勧めて、共々に中山に朝貢したと伝へられる。而も後者は土地が少し遠いのと、島の天然の資源が比較的豊かで、内部の争奪もさ程で無かつた為か、沖繩の力に頼らうとする態度が、宮古ほど熱心で無かつた。島では酋長をカハラと呼んで居たらしい。八重山のカハラの中には、服従の必要を感ぜぬ者も多かつた。それを宮古の方では入重山の謀叛と謂つて居る。今から見れば一種の外交策であつたが、仲宗根氏は率先して其征伐を奏請した。所謂赤蜂本瓦の乱なる者は、入重山に取つては大きな哀史であつたが、是も滅された方の記録は少しも伝はらず、而も恭順派の方の長田大主の一族は永く栄えて居る。
 八重山の石垣では、南海岸の宮良と言ふ邑が、ミヤコに該当する島文明の中心であつたらしい。明和五年の大津浪に、一戸も残らず遭難してしまつて、今居る村民は四近の島からの移民である。従つて一層古い事は伝はらぬが、要するに争は地方的のものだつたらしく、そこの士族の大部分は、此機会に宮古の方から入つて来た者の後らしい。士族と平民との差別が如何にも厳格で、一方はもう反抗も出来ぬ迄に屈して居る。沖繩本島などのやうに機会があつて士分に昇る折も無かつたらしく、後代までも征服の名残が著しかつた。四百五十年も前の島と島との関係では、斯ういふ無理な方法より以外に剰つた人を外に移す途は無かつたのである。
 同じ方法は与那国の島に対しても、二度三度迄適用された。鬼虎といふ會長は元は宮古の狩俣村の産であつた。それが繁昌して居る頃に又大きな島から渡つて征伐をした。一度は入重山西表島の祖納堂が征服した。その西表島でも慶田城の攻略があつた。外々の小さい島にも記伝こそ無いが、今居る島人が古くからの居住者かどうかは分らぬ。小さい島では人がすぐ余分になり、内で争ふまいとする為に外との交渉が繁くなる。それを又煩はしいと考へるときは、苦しい辛抱をしてはち切れる迄人をため、自然に天然の制限作用を待って居るやうな結果になる。食物の不足をひどく感じた後は、無理な産児制限をさへ黙許した世もあつた。此等の島にまつはる色々の不幸が、もう想像せられぬ新時代になると、我々の努力も亦新しい形を採らねばならぬ。小さい島ばかりの物語では無くなつた。島の歴史はどこ迄も比較をして見る必要がある。

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