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仲原善忠「私たちの小学時代」


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 「日清だんぱん破裂して」とか「けむりも見えず雲もなく」とか、そんなふうな軍歌がさかんにうたわれていた明治三十年代が私たちの小学時代です。
 「小学時代の思い出」というのが編集者の課題だが、一平凡人の私的な思い出よりも、私の記憶に残る当時の教育風情というようなことに焦点をむけるようにしよう。
 とはいうものの、往事は茫々として夢の如し、自分の記憶にあざやかな印象として残っているものは、すべて子供らしい、また自分中心のことでしかなかったことも、読者よ、許したまえと、お断りしておく。
 生れた家は久米島の真謝石垣の屋号でよばれていた。兄が二人、下には数人の弟妹が次々と生れつつあった。小学校は生れ村にあった。私は多分四つぐらいから学校に通ったらしい。一年で二回らくだいし、三度目にやっと二年に進級した。今度は大丈夫だろうと母もいっていたが、またらくだいで、泣きさけびながら家に帰って来た。つまり学齢に達しないためだったかと思う。初めの年は四つちがいの長兄の机にわりこんですわっていた。兄たちのまねをして、手をあげて「ハイハイ」とさけび、はては腰かけの上に突っ立って叫んだ。余りうるさいので、高志武先生──那覇の人──が高い教壇の上から指名することがあった。指名されると、もうそれだけで満足し、ニコニコしながら腰かけにすわるのである。勿論、先生に答える能力などなかった。
 らくだいの資格は十分そなえていたわけである。私らが正式の一年になった時、私と同年の女生徒が数人入った。この年、ダンパツになった。四年になってもダンパツしない人もいた。高等に行ってもまだそれがのこっていた。
 学校はもとの番所(村役場)で高い石垣と年をへた福木にかこまれ、ドッシリした瓦葺の家であった。今も小学校があるそうだが、昔の家かどうか。門は均斉のとれた美しい構造であった。物見台から展望せられる景観は素晴しかった。田圃の向うは海である。トナキ・ケラマがはるかにけぶり、粟国の島は波間によこたわっている。とよさかのぼる旭の荘厳、月の光のさやけさ。北風吹く時は黒石崎の波は怒り狂い、お拝崎には白波のすじが引かれる。朝夕、春夏秋冬、さまざまなおもむきを見せてくれる。運輸丸(火車小というた)の煙が見えると一尺ばかりの円筒を役場の人達がもって来て遠見していた。望遠鏡だ。時計と望遠鏡の外、キカイはなかったと思う。蓄音機をもつて巡回興行に来たので五銭(米一升)ずっ出してきいた。われわれはこれをツングワ(小人)というた。卒業(兼修業式)には兄たちもごほうびをもらって来る。うれしかったとも思っていない。母は鶏を料理したり、揚ものをあげたり忙がしく立ちはたらいていた。ほうびは一等が百田紙二帖であった。
 勅語もよまれた。机を片付けた教室に整列し城島校長先生(佐賀県人)が何か読み出すと一せいに頭をさげる。しばらくするとあちこちで、スー、スーと音がする。ずりおちる鼻汁を吸いあげる自動ポンプの音だ。ひじでつっつきあったり、押しやったりだんだんざわめきがひどくなったころに、校長先生は一だんと声をたかめて、 「ギヨメイ、ギヨジ」という。わけのわからぬそくばくの中から解放してくれるあの「ギョメイ、ギヨジ」という言葉は魅力的であった。その意味がわかったのは二十年もあとのこと、勅語をかいた実物を見たときであった。即ち睦仁(ムツヒト)という明治天皇の御名がかかれ、その下に天皇の印がペタリと捺してある。「ギョメイ、ギヨジ」の正体はこれである。
 軍歌は先生が教えたのではなく、高等に進んだ兄たちから私たちが習って、これを尋常にもちこんだ。そのため「風にひざ(ら)めく、ぜ(れ)んたいき(連隊旗)」とかわったり「ほまれは長くキサレマタ」となったりした。
 シルサレヌ(記サレヌ)をキサレと読んだので一音不足するから、ヌを漢字の又に昇格させたわけだ。例の「蝶々菜の葉にとまれ」をテフテフテフテフと教えたのは大島生れの助教師で、彼が那覇から仕入れて来たものである。誤読の責任を彼に帰すべきかどうか明らかでない。
 「蝶々」の歌は作詩作曲ともに伊沢修二氏(初代音楽学校長で、学校音楽-唱歌1の創造者)の作であることを昨夜初めて知った。丸ビル眼科の前院長、故内田考蔵博士(眼の整形ー美化手術1の創始者)が伊沢多喜男伝の中にその間の消息を語っている。内田博士の伝記へんさんに関し、同夫人と会談中多喜男伝(修二の末弟台湾総督、東京市長)をあけて見ると蝶々の話が出ていた。
 尋常の四年はきわめて平凡で学校には知識慾をしげきするようなこともなく、晴天には庭でスモウをとり、雨天には教室内で速算の練習する位のことしかなかった。学科はハト、ハナに初まる読本、算術、習字の外はおぼえていない。唱歌は自分たちで軍歌をうたった。教室でいたずらをすれば、黒板の前に大きなソロバンをかついで立たされた。この四年の平凡、停滞は大きなマイナスになったと思う。
 しかし高等は全くすばらしかった。第一に先生が立派であった。心の中にねむっていた何物かが俄然、がん首をもたげ、活動し出したように感じられた。



 高等の話の前に学校外のことを少し思いおこしてみよう。
 尋常一、二年のころか、祖母の弟、喜久村じいさんの家にほとんど毎晩通って三国志の話をきいた。三国志から漢楚軍談、呉越軍談とつづいた。
 おじいさんは関羽ひげをはやし、風格のある人で、話が佳境に入ると目を見張り胸をはり堂々たる講釈ぶりであった。
 おじいさんもその父も二代つづいて地頭代をつとめている。おじいさんの弟の子は論語を暗誦していた。
 意味はわかっていないから駄目だと大人たちが言っていた。こういう人達が久米島の奉公人階級であった。
 高等の生徒の間に演説、討論が流行していた。私たちは、日曜など度々それを見に行った。 「諸君よ諸君」とか何とかいって演説をはじめる。時々にぎりこぶしでポンと机をたたく。あちこちで「ヒヤヒヤ」とか「ノーノー」とか声をかける。終ると手をパチパチたたく。ヒヤヒヤとかノーノーの意味はもちろんわからない。しかし、これをうまくやらなければスマ1トな学生ではなかった。日本の国会開設とか、自由民権の破片がこんな所まで流れ込んで来ていたのである。
 子供は模倣の天才だ。われわれもしだいにこれをやるようになった。その時代、各村(字)に夜学があったので、ここでやった。
 私は「鯨の説」とか「山林は国の基」とか、えらくむずかしい演説をして得意になった。
 松本という叔父から「作文一万題」という本を、那覇の土産にもらい、これをタネ本にしたのだから内容も実はよくわかっていなかった。四六版三百頁ばかりの作文集で、私は毎日こればかりよんでいた。何度も何度もくり返していると少しずつわかって来た。
 あの時の演説会に私は一年下の比屋定という子にこのタネ本をかした。私の演題は「焼き酒の説」、彼もそれに近い題であった。 「酒は百楽の長なりと古人言えり」にはじまる頗る論理的で且つユーモラスな内容で、わりにわかりやすい文章であった。
 私は彼の演説をきいてびっくりしたが、もはや自分のを変更する時間もなく、冒頭句を省いたり、変改する才覚もつかなかった。
 しかし、二人共、題目さえ正しく読めない位だから内容も少しずつちがっていて誰一人文句をいわなかった。今から考えると、どうやら「焼酎の説」ではなかったかと思う。すべての人が一度は詩人になると言われる十六、七才頃、私は空想のつばさをひろげハワイにとぼうとして移民契約をした。父の反対で果さなかったが、比屋定君は村長などをつとめた後、ペルーに渡り今はあちらで成功的に事業経営をしている。敗戦後のわれわれの生活危機をきき知った彼と彼の弟は、心温まる援助の手を差しのべ私を感泣させた。
 ほむべきかな人生、たたう可きかな友情。いつの日か相見て昔日をかたらんかなである。演説と討論はまた大人たちの宴会の景物に利用された。出産とか生年祝とか、そういう公界があるとチビ討論家たちを招き演説をぶたせ、それから大人相手に討論をやらせた。
 「馬と牛といずれが有用なりや」 「男と女はいずれが尊きや」などが討論の題でことに「男と女は云々」の題は非常に人気があった。言うまでもなく子供は女に加担した。これがはじまるとお母さんたちまで声援した。子供にまけると大人たちは頭をかかえてわらいこけた。
 負けるためにわれわれをよぶので、大人が勝つことはなかった。 「御前風」の弦試しがはじまるころになるとわれわれは眠くなって油揚やあげ豆腐などのお土産をもらって帰った。


 高等(略称)は二里の道を往復するので雨の日などはすべったり、ころんだりつらかった。未明におきて、ほとんどかけつけて行くのだから。帰ってから馬の草、山羊の草をかり、それから夜学、十時ごろ帰って夕食。昼弁当は芋を二っ三つ袋に入れてさげて行った。だれが初めたのか、当番は芋の皮をザルにあつめて小使にわたす。それが毎日二銭ずつになった。それをもって床屋に行くと髪を苅ってくれる。女の生徒が「芋皮断髪」(ンムガーダンパチ)といってひやかした。高等に行った女の子は二、三人しかいなかった。
 高等の先生はすばらしかった。私らの先生は比嘉重徳先生であった。その時、秦なんとかいうチンチリリンの人が沖繩から来て演説(訓辞)をした。
 「自分の家の白飯より、となりの家のむぎめし!」とか「日本の国はホソホソながあく」とか、頭のてっぺんから出るようなキーキー声を出したいへん気取った演説であった。私は残念ながらここでも年少者で一番前の席なもんだから、笑をこらえるため涙をながした。
 「ミチの宮ヒロヒト親王ごたんじようあらせらある」とも言った。話の内容はわからなかった。(今から考えると、君らの先生の話は白飯だが私の話は麦飯だ、しかし時には麦飯も食べて見るものだということらしい))
 家に帰ってから早速、そのまねをして皆をわらわせた。父の話によると、県視学というエライ人だどいうことだったが、あの人よりか私の先生がはるかにエライと私は主張した。父は別に否定もしなかった。秦という人はあとに女学校長にもなったようだが、大きくなっていろいろなことを知るようになっても私の主張をかえようとは思わなかった。ただ比嘉先生がチンバであることが当時は悲しかった。
 高等で、筆算をはじめて習った時は全くゆかいだった。一六で一〇〇を割るソロバンが出来ると文子 (下級の村吏)になれると言っていた時代だ。今の子供が、計算尺の使用を知った時以上のおどろきだったと思う。ある日、私は高等を休んで尋常に行きそこの生徒に「ソロバンなしで割り算が何でも出来るぞ」と宣言した。下級生といっても、ほとんど全部年長の連中であったが、その連中がソロバンをもってあつまって来た。私はしゃがみこんで、竹切れで地べたに数字を書き、いろいろの問題によって魔法の威力を実証し彼等をおどろかした。といっても数学が得意だったわけでもない。ソロバンは苦手だったから筆算の便利さにおどろいたのであろう。
 ところが無断欠席はその日にばれて、兄に前額をゴツンとやられ、父からもにがにがしい眼でにらみつけられ、肩身がせまい思いをした。相当に虚栄心のつよい、自省力のかけた子供だったと見える。思い出して苦笑せざるを得ない。
 郡長さん(斎藤団之助)が私の家に来た。夜学にも来られて白河楽翁の話をされたが、松平定信と新井白石を混同していた。しかしこの人は当時の役人の中では誠に立派な人であったそうだ。 「鳥島移住報告書」を見るとそれは明治三十六年のことである。
 和田ケイブ長が来て私のうちの石段でカゴからころげおちた。デブデブと豚のようにふとっていた。 「何をめしあがるのかなあ」 「毎日ソーミンチャンプルーど、うさがゆる筈」とわれわれは感歎した。=一年あと私が中学に入ったら偶然、和田さんのむすこと同じ組であった。通学方向も同じだったのでいつのまにか友達になった。
 二人でダボハゼをつりに行った。こんなものを持って帰ったら平安名(寄宿先)のハンシーに叱られると思って、すてようとすると「捨てんなよ。うれえ、いいダシグァやしが」といって、彼がもって行ったので不思議に感じた。私たちはダボハゼなんか魚の中に入れないぐらいけいべつしていたからだ。農村と都会の子供の価値評価の差異がソーミンチヤンプルーとダボハゼにあらわれている。
 序につけ加えると、役場の小使はユカッチュだと大人たちはいっていた。私の家の作男もサンカ生れのユカッチュだというていた。あばたづらの好人物であったが、酒を試醸して失敗し夜逃げした。逃げないでもよいのにと、みんなで気の毒がっていた。ユカッチュが威張った家であることは那覇に行ってはじめてわかったのである。



 師範学校の全生徒が、鉄砲をかついで修学旅行に来た。小倉服、白キャハンの凛々しい姿で発火演習を行なった。その時の中隊長の一人、ナカユシー(とわれわれはよんだ)はわれわれの崇拝人物の一人であった。
 そのナカユシーが仲吉朝睦さんだったことを先日御本人から承った。面白いことである。彼氏の青春の姿は私の記憶のカメラに今もありありとうつるのである。
 道で巡査にあった時は立ちどまって敬礼した。洋服を着ているからだ。かつては金かんざしを拝み、銀かんざしを拝み、今は洋服と靴を拝む。つぎは何を拝むか。その時に新らしく郵便配達がはじまった。
 配達夫が(脚夫といった)饅頭笠、ハッピハ紺キャハンにワラジがけでかけって来た。敬礼すべきか、すべからざるべきか、ハムレットのように迷った。「するな」とだれかがどなった。その後、脚夫の弟やその友人たちが「上等兵だから敬礼すべきだ」と抗議して来た。 「靴をはいていないではないか」と私がやり返した。そしたら私が発頭人だと見られ、彼らにキビでなぐられた。翌年私は父につれられ見物のため那覇に行った。師範に入っていた兄にそそのかされて中学の試験をうけたら受かったので家に帰らなかった。那覇の車夫の服装がそっくりなのを見ておどろいた。
 高等では亜鈴体操、機械体操、木銃の教練、ベースボールなどもあった。学科の中で一ばんたのしかったのは間世田校長先生(鹿児島県人)の歴史であった。中の大兄の皇子がソガの入鹿をうちたおす劇的な場面を恍惚としてきき入った。
 ここではじめて時間という目に見えぬ次元の彼方に展開する歴史のパノラマを知ることが出来た。兄の友達からもらった里見八犬伝と平家物語が作文一万題にかわった私の愛読書となった。
 日露戦争がはじまった。われわれは一銭二銭ずつあつめて、四十五、六銭献金して間世田先生にほめられた。志賀重昂が来たのは尋常の時とばかり思いこんでいたら、同氏の年譜には三十七年とある。その年、私は中学に入っているから、その年の夏休だったかも知れない。
 天長節には学校でアンモチを三つずつもらった。これはまた素敵にうまかった。
 以上のことをまとめて見ると、勅語、軍歌、ヒロヒト親王の御誕生、教練、天長節、日清日露役。学齢、女生徒断髪。演説、討論、算術、歴史というようなものが骨格になっている。
 国家主義、近代的教育、自由民権の思想と、三つの概念に要約することが出来そうだ。
 これを更に別の方面から分析すると、ドイッ的国家権力主義とフランス的民主主義の二っの思潮となる。
 日本国内ではすでに保守化、むしろ反動化せる藩閥特権階級と、これと激突し前進せんとする地主、実業家階級との対立の上に絶対主義が定立しつつある時代である。
 そして、それらの思想・制度の断片が、それでも新鮮なものとして、この小島まで流れ込みつつあった時代に私たちは生い立ったのである。私たちは大きく口をあけて、この新鮮な空気を吸い込もうとした。それでも都会の子にくらべるとわれわれの知識の分量ははるかに少なかった。知らない者必らずしも不幸ではない、知るたのしみがあるからだ。
 さて私たちの小学時代までは私の家は経済的にも順調であった。父は役場の吏員をつとめ、田畑は二組の夫婦、あるいは夫婦と一人者の雇人が担当した。
 〔明治三十八年から九年にかけて、経済的の嵐が吹きまくり、私も中学校をさがって帰郷し草苅になった〕
 沖繩に新教育が実施されたのは明治十三年、久米島は十五年(一八八二)らしい。県令西村捨三(内務省土木局長の兼務)が十七年にこの島を巡視している。その時、真謝に久米島役所があり(所長勝屋属)診察所も十三年に出来(医員山中良純)ていた。学校は三つ、西銘(訓導塩屋義則、生徒二年以下五五人)、真謝(訓導神里常徳、生徒三年以下四二人)、儀間(訓導浦長吉郎、生徒三年以下二一二人)。
 西村県令は、 「わが国の教育は儒教を本とし民をして依らしむべく知らしむ可からずとし、人民を愚昧にし之を制圧する教育であった。今や万国開明、五州交通、儒教のような道学が何の役に立つか云々」と訓辞している(南航日誌)。生気はつらつたるものがある。
 それから十五、六年あとが私たちの小学時代である。
 さて、その後、時代は一歩前進、二歩後退、沖繩の教育界でも道学者の処方したねむりぐすりを煎じて飲んだり、制圧者の前に頌徳表を奉ったり、数々の道化を演じなかったといわれようか。ひっきようするに、これその社会の人々の「愚昧」の致すところ、と言われても致し方ないであろう。アメリカさんに活を入れられて二歩前進、甲は、これを「行きすぎ」と称し、そろそろ後退をはじめた。乙は、これを「逆コース」とよぶ。諸君の心証はどうか。
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