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小原一夫「水納の入墨」

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amizako

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 一九三一年八月九日、十日と私の滞在中の宮古島は、未曾有の暴風雨に襲われた。風速五十四米、人も獣も木も草もその猛威の前には皆生色はなかった。思出しても物凄い台風で、住家のほとんどが形もなく吹き飛ばされ、危く命を助かった私の北から南へ島伝いにと定めた旅程は、たちまち妨げられて変更せざるを得なくなった。
 あるかなきかの如き小さな多良間島、水納島に行く発動機船は皆難破してしまって、交通は絶え、入重山と宮古島とをつなぐこの島の入墨を見る機会が失われたように思わされた。私は、不本意にも先きに八重山に行かざるを得なくなった。多良間島の婦人で入墨をしている人が、宮古島にいないかと八方尋ねる内に親切な宿の主人は心掛けて、私に一人の婦人を紹介して呉れた。それは汽船が八重山に向う十三日の朝のことであった。まだ三十才そこそこに見える整った美しい容姿の人で、小さな男の子を傍に、あまり楽でない生活のように見えた。私は、採集用紙に写生を終えて、その出所を明かにするための姓名を尋ねたが、頑として教えて呉れなかった。優しげに見える婦人の意志の強さに驚いた私は、見ることを得まいと思った多良間の入墨を、わずか一例であったが得た喜びに満たされて、その夜八重山に向けて出帆した。変化に富むその入墨文様、吸引力に富んだ一枚の入墨文様を見るごとに、どうしても多良間島に行きたいと思う念は強くなってやみ難いものとなっていった。
 話のヒロインとなる人はこの人であった。
 八重山に二週間を過した私は、八月二十八日の夜、多良間島を経由して宮古島に行くという小さな発動機船のあることを知らされた。そこで、急いで残りの用事を済ませ、この船に便乗することにした。 「東京の先生」と慕ふ宿の子たちや知人に見送られての船出だった。
 満月は雲も無い空に冴えて、白く光る海を船は進みはじめた。帆の蔭に今宵の夢をと仰向になった。私は淡く注ぐ月の光の中に横たわり、機関の好調な響にこまかく上下にゆられとろとろとまどろんでしまったらしい。帆柱の左に右にと月が動くのを夢のように覚えていた。ふとすず風に目覚めると、まだ明けやらぬ海は大きくうねり、濃い紫色を呈していた。しばらくすると、そのうねりの明るさのはるか向うに低い一本の線を引いたような島が見えた。これが多良間島らしい。金色に輝く飛魚が紫紺の波の谷に吸い込まれるようにわたるころ、島は程近い。
 先日の暴風雨で、発動船が三菱海岸の林の中に打ち上げられ、船材があちこちに散り、寝不足の私の目を見張らした。
 小学校の先生方の親切な御案内で、多良間島の入墨をでき得るだけ採集したが、どうしたことか、宮古島で採集したものとは、少しも似ていない。不思議に思って聞いて見ると、この入墨は多良間島の入墨ではなく、北へ四浬ほどの浅い若い珊瑚礁でできた水納島の入墨であるという。
 私は許された一日をできるだけ利用しなければならぬ。明早朝は宮古島へと船が出るのだ。水納島に行くには刳舟に頼るより他に方法はない。私の雇った三間に満たぬ刳舟は昼過ぎに多良間島を出て三時半に水納島珊瑚礁の中に着いた。船頭さんを案内者兼通訳に頼んで上陸して行った。島の人たちは見馴れぬ若者を珍らし気に見守って、ぞろぞろと後からついてくる。白っぽい浴衣に帯をしめクバの葉のスゲ笠を冠り黒いカバンに写真機下駄履きといういで立ちでは、まことに見物に価いする姿だ。
 島の外縁部は高くなって囲り七八米の高さまであろうか、輪のごとく島を巡り、内部は荒れ果てた砂原で、夏だというのに草も粗らで、牛が二三匹やせた体を激しい日射しに照りつけられているのがみえた。
 家は三十軒位で、先日の暴風雨で同じく傷んでいる。船頭さんは、なかなか顔が広いらしく、あちの家にも、こちらの家へも呼びかけて挨拶している。そのうちに「アジロメ」に茅で編んだ囲に包まれた家に案内された。外には私を見物にきた裸の小供やたくましい若者、はだしの娘たちが一ぱい集って何かひそひそと話している。私はそこの六十一才になる老婆の入墨を写生して、水納島の入墨が私の期待していた文様を持っていることを確め得た。老婆は他の島の入墨は一体どんな文様かと非常な関心を持って私に聞くので、いままでに採集したうち、数十枚を出して見せてやると、嬉しげに一枚一枚見ていたが、俄に大声を挙げ、その一枚を取り上げて泣きはじめた。ただごとならぬ様子である。涙にぬれた目をその入墨から離さず、生ける人の手をさするが如くその文様をなで、あるいはその愛児を抱くがように私の採集用紙を胸にかき抱き、皺の多い顔を寄せては頬ずりするのであった。案内して呉れた船頭の話によるとこの入墨は「知念ウト」というこの老婆の娘の入墨で、その愛人と共に密かに島を出たのが十年余りも昔のことであったのだそうである。その間生死不明で、床の間に欠茶椀に砂を盛って娘が再び島に帰るようにと祈っているのもあわれに思えた。私は暗然とした気持で、目前に泣きながらその子を懐しむ老婆にその娘の元気相だったこと、男の子がいたことなどを話して慰めてあげた。集まっていた他の人たちももらい泣きしてうなづき合っていた。
 子の入墨を一見して直ちに、それを他の者のそれと見分けた老婆は、人の子の心を打つこよない訓しを教えて呉れたと同時に、親子の間に何かしら一種のつながりがその入墨文様にあるのではないか、ということを考えさせられたのである。
 暮れかけた夕方、船頭にうながされた私がいとまを告げると、人々はぞろぞろと海岸まで見送りにきて呉れた。線香を砂浜のもの蔭げに立った石の「オガン」に一束たてて旅路の無事を祈って呉れた老婆は、 「サザエ」を茅の茎に差し連らね遠火にくすべた二串を土産にと私に呉れて、片手を船ばたにかけ着物のまま船の進むにつれてザブザブと胸のあたりまで海中にはいってきて別れを惜しんだ。手を離すときに、懸命な声で「先生! アーッ」 「先生! アーッ」と幾度も言葉にならぬ別れを告げるのであった。娘とまたこの世で合わせて呉れた不思議な縁を持った男とも思い、或はまた娘の聟と会っているような気にでもなったのではあるまいか。他人事とは思われない感情でいることが私にもひしひしと感じられた。
 多良間に帰るというもう一隻の刳舟が並べてしっかりくくりつけられて、帆が上げられた。水納の島が、打振る島人たちの手が段々と遠のき夕暗の中に見えなくなった。見ても見えず、ただ波のひたひたと船の腹をうつ音のみだ。老婆にもらったさざえの一串を海の中で二振三振り洗って口に入れた。固いこの貝の肉《み》をゆっくりと噛みしめた。潮の香と潮水の味が、いぶした煙の味の中に混じってきた。
 この小半日の不思議な出来事を思出す私も、ここ数ケ月の旅を遙かな南の島々に過してきて、遠く両親を思い涙が頬を伝わって口に流れ込んだ。潮水とまたちがった味だ。帆がときどききしむ。船頭もまた無言だ。「知念ウト」という老婆が、この船ばたに手を掛けているような気がする。
 どの位時間がたったのか、そのうちに閉じたまぶたを通して、何んとなく明るくなったような気がしたので目を開いた。多良間の砂浜近くだった。十六日の黄色い月がちょうど水平線に出た所だったのだ。赤味を帯びた太くて円い月だった。ふとどういう訳かわからぬが、 一つ「生きているということは有難度いことだなあ。」ということが心に浮んだ。そうだ「生きているということは有難いことだ。」砂浜にサクリと降り立った私の長い影が、遠くまで黒々と落ちていた。
 その娘の名は「荷川取ハル」当時三十三才であった。


『南嶋入墨考』の一節

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