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島崎藤村「幸福」


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 「幸福」がいろいろな家へ訪ねて行きました。
 誰でも幸福の欲しくない人はありませんから、どこの家を訪ねましても、みんな大喜びで迎えてくれるにちがいありません。けれども、それでは人の心がよく分りません。そこで「幸福」は貧しい貧しい乞食のような服装をしました。誰か聞いたら、自分は「幸福」だと言わずに「貧乏」だと言うつもりでした。そんな貧しい服装をしていても、それでも自分をよく迎えてくれる人がありましたら、その人のところへ幸福を分けて置いて来るつもりでした。
 この「幸福」がいろいろな家へ訪ねて行きますと、犬の飼ってある家がありました。その家の前へ行って「幸福」が立ちました。
 そこの家の人は「幸福」が来たとは知りませんから、貧しい貧しい乞食のようなものが家の前にいるのを見て、
 「お前さんは誰ですか。」
 と尋ねました。
 「わたしは「貧乏」でございます。」
 「ああ、「貧乏」か。「貧乏」は吾家じゃお断りだ。」
 とそこの家の人は戸をぴしゃんとしめてしまいました。おまけに、そこの家に飼ってある犬がおそろしい声で追い立てるように鳴きました。
 「幸福」は早速ごめんを蒙りまして、今度は鶏の飼ってある家の前へ行って立ちました。
 そこの家の人も「幸福」が来たとは知らなかったと見えて、いやなものでも家の前に立ったように顔をしかめて、
 「お前さんは誰ですか。」
 と尋ねました。
 「わたしは「貧乏」でございます。」
 「ああ、「貧乏」か、「貧乏」は吾家じゃ沢山だ。」
 とそこの家の人は深い溜息をつきました。それから飼ってある鶏に気をつけました。貧しい貧しい乞食のようなものが来て鶏を盗んで行きはしないかと思ったのでしょう。
 「コッ、コッ、コッ、コッ。」
とそこの家の鶏は用心深い声を出して鳴きました。
 「幸福」はまたそこの家でもごめんを蒙りまして、今度は兎の飼ってある家の前へ行って立ちました。
 「お前さんは誰ですか。」
 「わたしは「貧乏」でございます。」
 「ああ、「貧乏」か。」
 と言いましたが、そこの家の人が出て見ると、貧しい貧しい乞食のようなものが表に立っていました。そこの家の人も「幸福」が来たとは知らないようでしたが、なさけというものがあると見えて、台所の方からおむすびを一つ握って来て、
 「さあ、これをおあがり。」
 と言ってくれました。そこの家の人は、黄色い沢庵のおこうこまでそのおむすびに添えてくれました。
 「グウ、グウ、グウ、グウ。」
 と兎は高いいびきをかいて、さも楽しそうに昼寝をしていました。
 「幸福」にはそこの家の人の心がよく分りました。おむすび一つ、沢庵一切にも、人の心の奥は知れるものです。それをうれしく思いまして、その兎の飼ってある家へ幸福を分けて置いて来ました。
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