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森鴎外「原田直次郎」


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原田直次郎
   (明治三十二年十二月於小倉)
○嗚呼原田直次郎君は逝いた。若し明治の油画が一の歴史をなすに足るものであるならば、原田の如きは、必ずや特筆して伝ふべきタイプであるだらう。
○今や東京の文壇は多士であるから、椽大の筆を揮つて一篇の 誄《ネクロロオグ》を草するものが無いことはあるまい。併し世人は原田の名を忘れてから最早十年になるだらうから、原田と親交ある人は、矢張世人に忘れられてしまつたものに多からう。私なども其一人である。
○私が原田と相識になつたのはBayern国Muenchen府での事であつた。原《も》と南独逸は文が勝つて居て、北独逸の武を以て国を建てゝ居るとは趣が違つて居る。況や当時は彼Richard Wagnerの為に劇部を立てた憐才のLudwig王がまだ位に在つた時である。原田はAkademieに入つて、一軒の業房を借りて熱心に画を学んで居た。
○原田の容貌は死に至るまで多く変易しなかつた。その頃の容貌を回想するに、最後に相見た時と大差はない。原田は小男であつた。顔は狭く長くて、太《はなは》だ黄に見えた。色は黒い方と自分で云つて居たが、傍《はた》から見ればさうでもない。それに就いて可笑《をか》しい話がある。近衛公(篤麿)がミユンヘンに来て翠山公(忠熈《たゞひろ》)の肖像を誂へられる時、粉本として古い写真を出された。原田はお色はどんな風でしたかと問うた。先づ穢《きたな》い黒い方であつた。それでは僕の顔位で好いでせうか。いや、もつと黒い。某君《それがしくん》の顔の色にして呉れ給へ。この某君といふは即ち私である。
○原田は其顔に鋭い目を持つて居た。唯だ鋭いと云ふと、人が或は例の巌下の電《でん》の如しなどを想起するだらうが、さうでない。一婦人が原田の容貌を評して云つたことがある。原田さんが物を御覧なさる処を見ますると、物の奥底まで見えさうでございますと云つた。原田の目の鋭いのは、藝術家の鋭さとでも謂つて好からう。
○原田の肖像には等身の大油画がある。慥《たし》か羽織袴で、手に烟草入を持つた図であつたと思ふ。筆者はExterといふものだ。エクステルは原田の同学生で、当時は同じ無名の士で、しかも常に債鬼に責められて居た。私はその敝《やぶ》れた褐色《かちいろ》の天鵞絨の衣《い》を着て、原田が旅寓のソフアの上に坐して、珈琲を喫《の》んで居た状《さま》が、あり/\くと目の前に見える。然るに今は此男は南独逸の新派画家中屈指の名士である。私は原田とエクステルとの顕晦が二人の伎倆のためのみより生じた差別でなくて、或は日本とバイエルンとその国を殊にして居るために生じたのではあるまいかと思ふが、これは贔屓目かも知れない。彼肖像はエクステルが一日本人と題して博覧会に出したが、後にはどうなつたやら。
○矢張肖像の話で、最一つ可笑しいことがある。これもエクステルの筆であつたかと思ふが、名刺の裏へ鉛筆でかいた原田の戯像《カリカチユウル》があつた。原田の顱頂には一叢の毛があつて、どう梳《くしけづ》つてもぴんと跳ね起きる。此図は頭丈で、わざとその毛が写してあつた。これは東京で原田の居室の壁頭に掛けてあつたから、今も遺族の手に残つて居るだらう。
○原田の性質を話す段になると、先づ原田は日本人であるといふ一句を下《くだ》したい。これもかの目の鋭さと同じで、直に現時に謂ふ日本主義などに取られては困る。私が日本人だと評するのは、原田が久しく洋行して居ながら、少しも欧羅巴《ヨオロツパ》の風に染まなかつたといふに在るのだ。それも世上許多の観光者流のやうに、言語の通ぜぬためなどではない。原田は仏蘭西語を巧に話した。それ故南独逸では、中流以上の人と語るには、些の不便もなかつた。然るに原田は彼の技術を取り、彼の形象を写して居ながら、その思想は欧羅巴臭昧を帯びて居なかつたのである。
○これは褒める意でもない、又|貶《おと》しめる意でもない。原田は彼国に居る時も、故郷に帰つてからも、その観察は自然の一面に対して、いつも極めて公平であつた。これに反して欧羅巴の一種の開化《キユルチユウル》の表現に対しては、原田は頗る冷淡であつた。欧羅巴の風俗の如きは、原田は只だ変な風俗だ、可笑しい風俗だと感じて居たのみであつた。
○原田はそれに拘らず、頗る師友に愛せられて居た。それは主に一の自然児として愛せられて居たのである。この性格の方面から見て、最も奇であつたのは、一少女の原田に対する愛である。
○当時画をミユンヘンに学んで居る女生の中に、Caecilie Fickといふものがあつた。随分著名なWuerzburg大学教授の女《むすめ》で、才貌兼備であつた。教授は著述家であるが、その書中には此少女の筆がはいつて居るといふ噂であつた。西洋の尺度で測《はか》れば、富んで居る方ではないが、日本に来たら上等の生計を営むに足るだらうと思はれた。此少女が原田を恋ひ慕つて、永の年月の間あらゆる誠を尽して居た。その一例を挙げて言へば、或時原田が一巻の独逸書を読まうとおもつて、その読み難《がた》いことを話したことがある。数週の後、チエチリイは全巻を仏蘭西訳にして贈つた。さういふ風に女はつきまとふ。原田は逃げまはる。女は何故原田が吾愛汝《われなんぢをあいす》の一語を惜むかを解せないのであつた。それは無理もない。傍《はた》から見て居る日本人も解せなかつたのであるから。
○女は何故つきまとつたか。原田の伎倆を愛した為めもあらう。原田が日本の一少将(一道)の子だといふことを知つて居た為めもあらう。併し主なる理由は自然児として原田を愛したのである。極端に言へば、原田はこのロオマンチツク趣味の少女の為めには、一の可憐なる蛮児《ソナワアジユ》であつて、乃翁《おとつさん》は一の大酋長であつたかも知れない。
○原田は何故逃げまはつたか。原田には故郷に妻がある。然らば原田は何故それを告げなかつたか。西洋の風俗に通じたものは、女が斯くまで深入せぬ内に、暗におのれの妻を持つて居ることを諷する筈である。若しそれをわざと隠して情を弄んで居たらば、それは名誉なき人物である。兎角日本人にはそんなのが多い。西洋で謂ふ指環を兜児《かくし》に隠すものが多い。原田は決してさうではなかつた。原田は妻のつの字を語るのも気はづかしいので、親しく交つた私にすら、妻の上を語つたことがなかつた。原田は只だ西洋女のはにかまない挙動に驚いて居たのである。チエチリイは其後どうしたやら。
○艶聞ついでだから話さう。原田のミユンヘンの旅寓は、アカデミイの向ひのCafe Minervaといふ珈琲店の二階であつた。此店の主人Huberといふものゝ女にMarieといふのがあつて、それも原田を慕つて居た。矢張金などに目をつける流義とは違つて、この無教育なるマリイも原田の他の放縦なる藝術家に殊なる処を識つて居たらしい。
○次に原田の性質として著きものは、恬澹無欲といふ一事であらう。原田が帰国して、東京本郷にアトリエエを立てた時、盛名一時に噪いで、従遊することを願ふものが頗る衆《おほ》かつた。そのアトリエエは一種の学校になつた。所謂鍾美舘がこれだ。然るに原田は一銭の謝金をだに受けなかつた。これは原田が富有であつたのではない。原田は名家の子であつて、甚しい窮乏に陥つたことはないが、さればとて暫くもゆたかな暮しをしたことはなかつた。原田は寒生涯を以て終つたものである。
○原田の遭遇といふことは、私は実に話すに忍びない。原田はモニユマンタルな大作を志して居たけれど、日本には其腕を揮ふ程の壁面がない。責めてはパノラマをと思つて、頻りに其意匠を凝して居たこともある。原田はパノラマに海をかきたい、その題目は潮干だといつて居た。このパノラマに海をかくといふ落想は、パノラマを真藝術の境に押し上げる工夫で、原田は書を読んでこれを得たのでなくて、自然にこれに思ひ到つたのだから、敬服せねばならぬのだ。併しパノラマといへば戦争をかいて、人民の尚武心を鼓舞するといふ位が世間向は好いのだから、汐干のパノラマをかゝせる人のなかつたも無理は無い。
○然らば画架を用ひる画はどうかといふに、今も其需要は少いが、原田の帰つた頃は、尤も決口《はけくち》が無かつた。騎竜の観音は徒《いたづ》らに外山正一氏の冷罵に逢つたのみで、後には寺院に寄附せられた。素盞鳴尊はどうなつたか知らぬが、売れた話は聞かぬ様だ。私は徳富猪一郎君や|賀古鶴所《かこつるど》君が質素な生活をする人でありながら、原田の小作を買つたのを多とするものである。肖像は近時の洋画家の主なる財源であるが、原田は他の同業者のやうに、台閣諸公に伝《つて》を求めて肖像をかゝせて貰つたり、豪商に勧めて其像を写したりしたことは無い。その上原田は肖像を作つても、自ら価を討《もと》めたことはないから、最も出来の好い某の肖像の如きは依頼者の不暁事《ふげうじ》のために、顔料《ゑのぐ》と布地《トアル》との代にだに足らぬ金を受けて巳んだ位である。
○原田も全く台閣諸公に値遇《ちぐう》したことがないではない。私の知つて居る所では、原田を愛して居た人が唯一人ある。そして其一人が品川弥二郎君であるといふことは、原田の性格に或光線を投射するものであらう。
○黒田清輝、久米桂一郎両君が仏蘭西から帰つてから、一派の批評家は新旧二派の目を立てゝ、在来の油画家を攻撃した。欧羅巴に新派の起つたのは、十五世紀以来の油画に許多の成功があつて、人心はこれに倦んで、一種の風潮を催し出したのである。日本にはまだ油画の成功はなかつた。油画でその局勢の稍《や》や大いなるものは、唯だ原田などの胸中に萌芽して居たに過ぎぬと謂つても大過なからう。彼批評家の攻撃は、実に此芽蘖を枯らす霜雪であつた。私は姑《しばら》くこの性急な交代が、日本の洋風藝術の為めに利益であつたか不利益であつたかを問ふまい。私は只だ当時在来の油画家の為めに気の毒でならなかつたといふこと丈を話して置かう。
○当時の所謂《いはゆる》旧派は皆久しく辛酸を嘗《な》めて居たのに、世間が少し油画に目を附けかゝつた頃になるや否や、早くも交代者が来て、後から推《お》し退《の》けに掛かつたやうなものである。旧派の中には、衣食のために藝術の品位を下すことを顧みるに遑なくて、卑しい請負しごとに手を出して居たものも少く無い。これ等は攻撃せられても、余り気の毒ではない。これに反して原田のやうに、いつも眼《まなこ》を高処に注いで、始終濫作に堕ちずに居たものは、実に憫むべきであつた。其上此打撃は丁度原田の健康を失つた時に来たのだ。
○原田の製作した日月は実に短いものであつた。一日散歩に誘ひに往くと、原田が足が痛いから廃めると云つた。その容体を問うて見たが、神経性の痛らしいから、まあそろ/\歩いて見給へと云つて、本郷から上野辺まで行つた。何ぞ図《はか》らん、これが他日の大患の初徴であらうとは。原田は次第に足が利かなくなつた。鍾美舘は病室となつた。既にして手が戦《ふる》うて来た、根《こん》が継《つゞ》かなくなつて来た。此間原田の心の持ち様はどうであつたか。原田は此に至つても、又その自然児たる性質を発露して居たのである。
○原田は累年病牀に在つて、種々の苦痛を受けながら、毫もその病の治不治の問題のために思を労する状をなさなかつた。原田は青山胤通君の治を受けて、静に我病の発落《なりゆき》を見て居た。余程病勢の進んでからであつたが、原田は私に向つて、若し足が立つやうになつたら、君の洋室の壁に画をかいてやる、鮮画《フレスコ》ではない、油顔料《あぶらゑのぐ》でかくと云つた。己は此|契《ちぎり》の徒《いたづら》なるを知りながら、深く其好意を謝して、心の中に原田が猶恢復の望を繋いで居るのを喜んだ。
○原田が神奈川県橘樹郡子安村の草廬に移つて病を養ふといふ事になつた時、私はその出発の前晩におとづれて、夜の更《ふ》けるまで別を惜んだ。間もなく私も九州に下ることゝなつて、久しく原田の消息を聞かずに居ると、この頃家人が原田の東京に出て入院したことを報じてくれた。そして数日の後に、私は忽ち其訃に接した。
○原田の藝術は私が批評するに及ぶまい。今の東京には批評家は沢山ある。その中には、最早所謂新旧二派の争も下火になつた事であるから、公平な目で視てくれるものもあらう。私は只だ最後に原田の未亡人の上を一言したい。
○私の友人にも女房持のものは少く無いが、その家庭を覗つて見て、実に温かに感じたのは、原田の家庭である。鍾美舘がまだ学校であつた時、原田は其奥の古家に住んで居た。その一室は煤《すゝ》に染まつて真黒になつて居て、天井には籠を被せた犬張子、水引を掛けた飯匙《しやくし》などが插してある。原田と細君《おくさん》と子供四人と、そこに睦じく暮して居て、私が往けば子供は左右から、をぢさんと呼んで取り附いた。細君はいつも晴々した顔色で居られて、原田が病気になつてからも、永の年月《としつき》の間|撓《たゆ》みなく看護せられた。殊に感じたのは、原田が神奈川に移る前に、細君が末の子を負つて、終日子安村附近の家を捜して歩かれたといふ一事である。想ふに原田は必ずしも不幸な人では無かつた。

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