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小倉金之助「荷風文学と私」

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amizako

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 私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。
 私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ)、私が満二十四歳から二十七歳のころまでのことである。
 私は日本海に面した東北地方のある港町の廻漕問屋に生れ、幼にして父を失い、母は分家となったので、ただ一人の男児として祖父母のもとに成長した。当時の封建的な伝統的家風に従えば、当然家業見習に従事すべきところであったが、少年の頃から化学に興味を持った私は、中学四年のとき、祖父の許可をえずに東京に出て、無理をおしきって東京物理学校に学び、日露戦争の最中に卒業して、更に東京大学の化学選科に学んでいたのである。ところが当時六十四歳の祖父は病のために家業をみることも困難となり、私もまた著しく健康を害したので、やむをえず、明治三十九年の春、大学をやめて郷里に帰り、家業に従事しようと考えるようになった。こうして郷里において家業を見ながら、間もなく結婚したのが、それは二十一歳のときであった。しかしその頃は家業もすでに甚だしく不振に陥った時期であったし、殊に冬季には用事も少く、時間の余裕が十分にあったので、再び科学書を読みだした。そればかりか、それまで殆んど関心を持たなかった小説の類をも、日頃懇意にしていた書店に出掛けては、濫読しはじめたのである。
 ちょうどその頃広く読まれていたのは、漱石の『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、『草枕』や、二葉亭の『その面影』、『平凡』などであったが、そういった作品は私の要求を満足させるものではなかった。私の心の中は、家族制度・家業の引きつぎに対する懐疑やら、科学の研究に対する不満やらで一杯なので、何といっても、社会批判にわたるもの、反逆の精神を鼓吹するもの、少くとも何等かの意味での、人間の解放を志す作品が欲しかったのである。さればといって木下尚江の『良人の告白』などは、あまりにも文学的価値に乏しかったし、結局、私を捕えたものは、自然主義の文学でなければならなかった。ー独歩の『独歩集』、『運命』。藤村の『破戒』、『春』。花袋の『蒲団』……。なかでも独歩の『牛肉と馬鈴薯』や『正直者』や『女難』などは、私の最も愛読した作品であった。(ただ藤村の『破戒』には、当時は案外に打たれなかった。それはその頃の私にとっては、何等の見聞をも持たなかった特殊階級の問題を、主題としたものだからであろう。また『春』も楽屋落ちの気味があって、文学青年ならざる私には、最初はあまりぴったり来なかったのである。)
 私がはじめて荷風の小説ー後に『あめりか物語』と『ふらんす物語』に収められた諸短篇-に接したのは、ちょうどその頃で、その印象記風な新鮮味に捕えられたのであるが、本当に打ち込んだのは帰朝直後の作品からであった。当時は自然主義文学の全盛時代で、いくぶん単調の気味があったところに、香気のきわめて高い、新しい色彩にあふれた荷風の文学が出現したのであったから、青春時代の私が、そういった点に共鳴したのは当然であったろうが、しかし私に一層深い感銘を与えたのは、そのなかに漲る社会批判であった。
 そのころ家業に従事しつつあった私に、ようやく判然として来たのは、家業が自分にとって全然不向きなことであった。しかもそれは更に進んで、わが郷里における廻漕問屋の将来についての疑問となって来たのである。
 そこで、これまで興味を化学に集中してきた私は、今や方向を転じて、実験を要しないー家庭にあっても独学の出来るー数学を専攻することに決心した。その結果として、明治四十一年以来、東京数学物理学会において、少しずつ貧しい論文の発表をはじめたのであった。けれども、かような二重生活の状態で、果して数学の研究が出来るものだろうか。思えばこの両三年の間こそは、私にとって甚だしい不安の時期であり、それは正に一生の危機であった。四十二年の九月には、商用のために新潟に赴き、三月ばかりを同業者の宅に送ったが、これ以上家業をつづけるのは、到底耐え得ることはできなかった。私は断然家業を捨てて、職業的数学者たるべく、最後の決意を固めたのである。
 ちょうど私のこの危機に出現したのが、帰朝後の荷風の小説であった。荷風は、一方武士的で漢学に長ずると同時に、他方洋学の素質もある、知識人の家庭に生まれたのであったが、彼は年少にしてすでに、堅苦しい封建的武士的な家庭の雰囲気に対して、先ず反逆しはじめたのである。「私は乃ち父母親戚の目からは言語道断の無頼漢となった。……私は父母と争い教師に反抗し、猶且つ国家が要求せず、寧ろ暴圧せんとする詩人たるべく自ら望んで今日に至ったのである。」(『歓楽』)
 かくて「悪感」(四十二年)、「監獄署の裏」(四十二年)、「祝盃」(四十二年)、「歓楽」(四十二年)、「見果てぬ夢」(四十三年)、等々が続々と公にされ、日本の社会に対する烈しい批判が行われたのである。私は雑誌の出るのが待ち遠しく、書店に出掛けてはこれらの作品を読み、心の中に生気の蘇るのを感じた。反逆の精神1それは何物にも増して、私に勇気を与えてくれたのであった。(しかし「新帰朝者の日記」(四+ご年)や「冷笑」(四+三年)などは、全体と・しては、あまりぴったり来なかったが。)
 思えば明治四十二年九月、易風社版の『歓楽』が刊行されたとき、新潟の回漕問屋の二階で、いくたび繰返し繰返し読んだことだろう。
 「博徒にも劣る非国民、無頼の放浪者、これが永久に吾吾の甘受すべき名誉の称号である。……」
ーこの叫びを、私は一生忘れ得ないであろう。その年の七月『中央公論』誌上に発表された「牡丹の客」は、暑中休暇で帰郷中の友人たちと会食の折、批評の的となったが、過小評価する人たちが多かった。私は極力この作を弁護したので、「なるほど、『牡丹の客』は、細君を持った人でなければ、解らない味のものだね」などと、友達にからかわれたこともあった。
 女と一緒になりたいばかりに、学問を捨てて俳優になろうとする長吉と、家業を捨てて学問に就こうとする私とは、いろいろの意味で正反対の人間ではあったが、ただ一つ共通点を持っていた。私は「すみだ川」(四十二年)の結末を幾度か読み返したことであったろう。
 「自分(蘿月)はどうしても長吉の身方にならねばなら
 ぬ。長吉を役者にしてお糸と添わしてやらねば、親代々
 の家を潰してこれまでに浮世の苦労をしたかいがない。
 通人を以て自任する松風庵蘿月宗匠の名に恥ると思った。
 (中略)蘿月は色の白い眼のばっちりした面長の長吉と、
 円顔の口元に愛嬌のある眼尻の上ったお糸との、若い美
 しい二人の姿をば、人情本の戯作者が口絵の意匠でも考
 えるように、幾度か並べて心の中に描きだした。そして、
 どんな熱病に取付かれてもきっと死んでくれるな。長吉、
 安心しろ、乃公《おれ》がついているんだぞと心に叫んだ。」
 もちろん蘿月の実行力も甚だ怪しげなものではあるが、かような一人の同情者さえも持たなかった私は、どんなにかこの小説から、勇気を吹き込んでもらったことだろう。
 さきほども物置を探していると、古い『中央公論』明治四十三年一月号が出てきた。それを見ると、次のような作品が並んでいる。ー
  徳田秋声「昔馴染」  中村星湖「雪国から」
  森鴎外「杯」    正宗白鳥「俗医の家」
  島崎藤村「スケッチ」 小栗風葉「無為」
  永井荷風「見果てぬ夢」
 思えば今より四十年のむかし、明治四十二年の大晦日に、私は店の帳場に坐り、年末の金銭の支払をしながら、この雑誌を読んだことを、唯今でもありありと覚えているが、これらの小説中今もなお記憶しているのは、ただ荷風のものばかりである。
 やがて間もなく、明治四十三年の春、二十五歳になった私は、母校(東京物理学校)の講師となって上京し、その翌年には新設の東北大学の助手として、妻子と共に仙台に移住することになった。ところが、その翌年(大正元年)にはついに祖父を失うに至ったので、いよいよ家業の廃止に決定し、間もなく祖母もまた郷里を引きあげて、仙台の家に同居することになった。かようにして家業の引きつぎに関する多年来の問題は、ここで一応解決を告げることになったのである。
 ここに至るまでの間、封建的な家族制度や、家業の引きつぎと、学問の研究との間の矛盾のために、また家業を廃して学問を職業にしようとする不安のために、煩悶を重ねた苦闘の時代に、私の同情者となって、よく私を激励し、私を絶望から救ってくれたのは、何よりも荷風の文学であった。それは妥協をゆるさない、新しいモラルと力とを与えてくれ、実践の方針と方向とを私に暗示してくれたのである。
 さて創立当時の東北大学は、リベラリスト沢柳政太郎先生を総長とし、新興の意気が漲っていた。殊に数学教室では、多分に自由主義的な、そして或る程度まで反官僚的な林鶴一先生の主宰の下に、私たちはよく働いてはよく飲んだ。私にとっては、職業的数学者としての生活上の不安は、まだ十分に解除されなかったが、しかし一歩々々安定へと近づきつつあることが感じられて来た。
 一方に於て、荷風は明治四十三年に慶応義塾文学部の教授となり、『三田文学』の主幹となったが、彼の作風はしだいに、江戸町人的な官能と遊芸の世界に遊ぶような、「新橋夜話」(大正元年)、「妾宅」(元年)、「戯作者の死」(元年)、「恋衣花笠森」(二年)……へと移ったのである。何故に荷風はかような道を選んだのであろうか。それについては後に、幸徳秋水等のいわゆる「大逆事件」に関する感想を語った折に、彼は告白している。ー
 「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道
 すがら折々四谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比
 谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれま
 で見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われな
 い厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以
 上この思想問題について黙していてはならない。小説家
 ゾラはドレフユス事件について正義を叫んだ為め国外に
 亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何
 も言わなかった。わたしは何となく良心の苦痛に堪えら
 れぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事につい
 て甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位
 を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと
 思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集
 め三味線をひきはじめた。…・・」(『花火』大正八年)
 不幸にして当時の私は、かような荷風の真意を知るよしもなかった。それどころか、そのころの私は、ドレフユス事件も、否、社会主義のイロハさえも殆ど全く知らなかった、といってよいだろう。それに、年わかいそのころの私は、いわゆる純真な学生あがりではなく、多少なりとも、商人生活の一端を経験してきた人間であった。私はただ数学の研究と教室の事務以外には、飲んだり遊んだりすることに興味を持つようになって来た。しかもかような享楽主義のバイブルとしては、最も手近かな荷風文学が選ぼれたのであった。私はかような荷風文学の悪用に対して、三十七、八年後の今日でも、全く恥ずかしく思っている……。
 さて荷風文学が私に及ぼした影響を思うとき、作家の年齢と若い読者の年齢との関係が問題となる。古典は別として、現代の作家については、(若い)読者自身よりも少しばかり年長の作家のものが、一般的には最も親しみ易い、と私には思われる。青春時代の私にとっては、老作家の作品はあまりに縁遠かったし、また可なり年上の作家(たとえば独歩や藤村)などは、敬意を表しながらも、何か先生格で、心から親しむ気分にはなりえなかった。一方、自分と同年輩か(たとえば志賀、武者小路、谷崎)、自分より若い作家(菊池、芥川、…・.)のものは、何か人生の経験が足らないような気がして、はじめから批判的に読む傾向があった。ところが荷風は私よりも六歳上の、最も親しみやすい、いわぽ兄さん格にあたるのである。
 しかも少年時代における荷風の家庭と私の家庭とは、教養上、全く対蹠的なものを感じさせるばかりでなく、荷風と私の専門や興味の間にも、著しい相違があるにも拘わらず、明治の末期から大正のはじめにかけて、荷風の成長と私の成長の間には、明らかに平行的な類似性を見出すことができる。それは家庭における(何らかの意味での)封建性に対する反逆の精神の現われにほかならないと思う。荷風は自ら「博徒にも劣る非国民、無頼の放浪者」となることによって、真の詩人・文学者たろうと決心し、そこから出発を始めたのであった。人間としての私は、日本のいわゆる倫理や道徳によってではなく、荷風文学の反逆性によって救われたのである。実際荷風の作品こそ、私の一生中の最も決定的な日において、運命を支配する力を私に与えてくれたのである。
 第一次世界大戦のはじまる頃から、私はだんだん多忙となるにつれて、荷風文学からもようやく遠ざかりはじめたが、それでもなお荷風を読むために、大正五年頃まで『三田文学』を毎号購入したばかりか、荷風が三田を去ってからも、雑誌『丈明』の上で「腕くらべ」を読んだし、また
『花月』という雑誌をも、方々探しまわって何冊か手に入れた覚えがある。大戦の直後、大正九年からおよそ二年の間、パリに滞在する機会をえたときには、『断腸亭雑藁』を鞄に入れて出発したのであったが、私が見ることのできたパリは、『ふらんす物語』に描かれたパリとは、相当違った世界であった。
 昭和のはじめ、わが国における社会的風雲が、ようやく急になろうとすムころから、私は思想上に一転機を来たし、専攻とする数学の方向や方法や内容についても、著しい変化を遂げるようになり、その必要上から、古い数学文献の蒐集をはじめることになった。それにつれて他の読物の種類もだんだん変ってきて、小説の類はどうしても縁遠くならざるを得ないようになった。けれども昔なじみのものだけに、荷風文学は一つの例外をなしている。
 今日でも私の貧しい蔵書のなかには、初版の荷風物が十四点ばかりある。すでに老境に入った私は、終戦後とかく病気勝ちなので、病床で荷風を読む機会が多くなってきた。『腕くらべ』、『おかめ笹』、『雨瀟瀟』、『つゆのあとさき』、『潼東綺譚』などと共に、『歓楽』は、今でも愛読書の一つである。1ただ若い日に、あれだけ熟読した『歓楽』の易風社版を、蔵書の中に見出しえないのを憾みとするが::●・o
 今年もまた初春以来の永い病床生活から、ようやく起き上ったばかりの私は、荷風の日記や随筆を読むことを日々の楽しみにしている。1
 「わたくしは既に中年のころから子供のないことを一生涯の幸福と信じていたが、老後に及んでますます此感を深くしつ瓦ある。これは戯語でもなく諷刺でもない。竊に思うにわたくしの父と母とはわたくしを産んだことを後悔して居られたであろう。後悔しなければならない筈である。わたくしの如き子が居なかったら、父母の晩年は猶一層幸福であったのであろう。(中略)父は二十余年のむかしに世を去られた。そして、わたくしは今や将に父が逝かれた時の年齢に達せんとしている。わたくしは此時に当って、わたくしの身に猫のような陰忍な児のないことを思えば、父の生涯に比して遙に多幸であるとしか思えない。若しもわたくしに児があって、それが検事となり警官となって、人の罪をあばいて世に名を揚げるような事があったとしたら、わたくしはどんな心持になるであろう。……」(「西瓜」昭和十二年)
 不孝の児と自称するこの「無頼の放浪者」の内に、なにか哲人の面影を見るとおもうのは、果して私ばかりの錯覚なのであろうか。

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