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吉川英治・服部之総対談「「吉川文学」問答」


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服部 ヤア、忙しいんでしょう。
吉川 忙しいんだが、君の名前を聞いたら、急に会いたくなってね。
服部 さっき会うなり思ったのだが、あんたは若い。七、八年ぶりというのに……。
吉川 ハハハ……。そうかしらん。この方が黒いので(と頭髪を両手でかき乱しながら)よくそういわれるのだよ。
服部 それにむかしとちがって顔に疲れが見えないな。ぼくはどう?
吉川 だからさ、君を見た瞬間丈夫になったなと思った。前よりふとった位いじゃないか。
服部 ぼくがあなたに初めてお目にかかったときが三十一、二の頃だったと思う。「檜山兄弟」を書いていたときでしょう。
吉川 あんたは丑で、ぼくは辰。
服部  (同席の記者たちを顧みながら)そのころ吉川さんはすでにうつ然たる大家でね、ぼくは一介の歴史家さ。岩波の「資本主義発達史講座」を書き、肺病にかかっていて、家内の故郷に癒しかたがた行こうという直前だった。吉川さんが訪ねてみえて「中央公論」のぼくの書いた幕末物を読んだら「檜山兄弟」の構想を変えたくなったと―。
吉川 なんかそういうことがあったね。
服部 ぼくはこれで「鳴門秘帖」いらいの愛読者だからね。
吉川 ハハハ……。
服部 で歴史というものについて、これだけ真剣に考えられておられたというので、それがつきあいの始まりだ。近くだからね。
吉川 鼻っ先きでした。ぶらっと出て四、五分で芝公園時代だね。
服部 吉川さんの沢山の友人の中でマルクス学者といったら、わたし位いのものでしょう。
吉川 そうそう。
服部 そのときから今日まで幾変遷があったけれども、今じゃぼくも五十を越した。そして三十代の俊鋭雲のごとく今日の史学界に並んでいます。
吉川 しかしあんたは勉強していたよ、歴史の方じゃ一種の益友だったよ。
服部 ところで先の俊鋭雲のごとく並んでいる連中の中から吉川文学を屁のカッパのごとぐけなす人も出ているんだ。
吉川 木ッ葉だよ。 (笑)
服部 あんた、読んでいますか。
吉川 二、三は読んでいるね。「人民文学」にあるのを読んだがあの概観はちゃちだね。
服部 その高橋砿碩一君は「宮本武蔵」と「新・平家」との間にちっとも変化を認めない。いつでも吉川英治は今と昔の関係の見方について時局便乗的でありすぎる……。
吉川 よくぼくが時のあれを狙ってそれにアッピールしているオポチュニストだという見方をするものがあるが、これは偶然ですよ。そういう課題をもってたら小説なんか書けませんよ。それは実際にこういう仕事をしてみれば、この必然性が解るんですけれども。客観的にはそうみえるかもしれない。後からね。だがそう嵌まるものではないよ。例えば「宮本武蔵」を書き始めたでしょう。あのとき、宮本武蔵というものに課題をもったのは、あれを書き始める二、三年前に、読売の座談会で、直木、菊池の生きていた頃で、直木と菊池の間で、武蔵の優劣論が始まった。菊池が名人説、直木がアンチ名人説、その晩二人が諤々とやってぼくは傍観者だった。究極において直木がきみはどう思うといってきた、そのときぼくはどっちかしらんけれども、そうぼくは菊池の方に共鳴するところが多いといった。ところが翌月か翌翌月の「文芸春秋」で、直木があの筆法で都合のいいことを書いて、その後にもって来て、吉川英治出て来いという論法なんだよ。菊池に尾っぽを向けないで、俺に出てこいということなんだよ。それで論争さして俺の返事を載せ、また直木を載せ、それで御見物御喝采をやろうという編集者の考えだ。俺はその手に乗らない、と思うからそれを黙殺したんだよ。何かのとぎに小説で書くよ、といったのが動機なんだ。ウン、ところが直木が生きているうちは、ついぞ書けなかったんだよ。そういう課題をもって、二、三年経った。それで朝日に頼まれたから書いたんだ。
 何年か忘れちゃうんだけれども「宮本武蔵」で予告を出したら読者から今時分、宮本武蔵とは何んだという投書だが、それで三十回のとぎに、朝日の幹部会のときにも評判の悪い投書が多いというので、何とか他にあれはないでしょうか、といって一度返してきたよ。
服部 フン/\。
吉川 そんなときですからね。そんなときに、うまくその時局に合わせるとかどうとかいうものを持てれば、小説なんか書かないで、政治家になるよ。その見透しが利くなら。(笑)
服部 ところであれをみましたか、「中央公論」の新年号―。これは歴史家ではないが、杉浦明平君が吉川批判をやらかしているのを。とうてい高橋君の比でない。
吉川 あれは読んだ。
服部 なんかこういうのを見ると、ぼくなんか吉川さんと長年つきあっている点もあるから揚足取りみたいな点が感じられて、これは歴史家としてはやっちゃいけないので、気になるね。
吉川  「高山右近」のことも書いていたろう。ぼくら作家としてわかることは、書いている人が右近を調べていないということだよ、それを調べていないという批評家ならば、そんなこと引受けないでくれといいたい。「高山右近」はアメリカの占領になったからアメリカに迎合するために書くことになったのじゃないよ。最初は上智(大学)辺りで、大歓迎だった。ローマの友人に知らしてやれるということでね、併しぼくの持った宿題というのは、キリスト教の中には、女性、恋愛、性欲という問題が、非常に虚飾されている。それはきみも感じない?
服部 感じる。
吉川 あの教義の中のエアポケットみたいに、それは触れないという態度があれしている。ところがあの時分、ぼくのところにもクリスチャソの連中が話込みに来たけれども、談そのことになると、解決の方法を持っていない。終戦後、若い人の性欲の問題は、多少この頃は落着いたけれども、一時出鱈目だったでしょう。これに何かの形を持たせたいといったのが「高山右近」なんですよ。だから右近の二十代がらみのことしか書いてない。その年代記の事実のないところしか書いてない。つまりキリスト教の家庭に生れて後にああいう入信者となった右近が、若い頃、たまらなくそれを持ったときに、どう処理したろうか、、入信したらどういう持ち方をして行くか、ということが、ぼくの「高山右近」の全テーマといっていいのですよ。何もアメリカのあれにしたから「高山右近」を書くというのではない。上智のラウレスなんかやかましくいって抗議にくるんですよ。
服部 カトリックから抗議が来たということは聞いた。
吉川 ぼくも論争しましたがね。ところがデリケートなところになると、余程日本語が向うに通じてくれなければ話がつかんのだよ。
 それはラウレス自身がいうのでなく、その若い友人たちが非常に問題にしているから、それで俺に会ったら警告してもらいたいという。だからぼくも一度上智に行ったことがある。教授たちにあって「高山右近」を書く気持を話させてもらった。これにも皆来たんだけれども、宗教というものが、人間の全運命、全精神の上に臨むものが重大な性欲の問題、あるいは恋愛の問題について、何の示唆も導きも持てないのか、それを知りたい、教えられたい、そうしたら、私は右近を書くにもあなた方の意見を大いに考慮して書くが、併し自分の知人の中にも、カソリック教は性欲の問題についてはこうだ、と明快な答えをした人はないのたという講演をしたことがあります。
脹部 さきほどの史実の話、それを知らないで批評するのは全く迷惑なことでしょう。文学界のことは知らないが、私の知っている歴史の俊鋭たちね、史実を知ってるからこそみんな興味をもって「新・平家」を読んでいる。しかし「新・平冢」がどうしてこれほど大衆に面白がられるのか、その謎はよくわからない。その謎を「宮本武蔵」で解こうとした努力が一つ「思想の科学」(八月号)に載っている。これです。
吉川 これは見なかった。
服部 これは京都大学の桑原武夫、鶴見俊輔、ああいった連中の大変な研究です。芸者と職工さんと酒屋のおやじさんと、この三人について、何故吉川文学が面白がられるかを、「宮本武蔵」について調査している、その結論は―この人々は方法的に人物共感と観念共感、つまり人物に共感する要素と観念と共感する要素とにわけて分析している。人物に共感する要素は様々です。武蔵《たけぞう》やお通に反撥を感ずる人は、朱実や吉野太夫に共感する、またお通に共感を感ずる人は又八に反撥を感ずるといったふうにね。非常に人物にヴァラエティがある。その点「風と共に去りぬ」のように大衆性を持っている。これにたいして和であるとか、修養であるとか、三昧境であるとか、道だとかーいわゆる吉川文学のお説教と人々がいっているもの、これは観念共感。この観念共感の要素については読者に個人差がほとんど無い。つまり大衆は観念共感の上で「宮本武蔵」をひろく愛好する、という結論になる。
 この共感される観念は「宮本武蔵」を読む以前から「宮本武蔵」以外のものから、あらかじめ大衆が持っていた共通の観念であってそれを取り上げてそこに共感を起させるという点で「武蔵」を国民文学といってもいいが、そのような要素が民主主義的な観念の上からいったら、邪魔になるものだという点があるかもしれない。だが、単にそういう点だけで切り込んで行っても、吉川文学の文芸批評というものは成り立つまいーまずざっとそんな結論です。
吉川 ぼくのあの仕事で通有性が一つあるのですよ。それは青年期に誰もが持つあの逆境の処し方ね。でなけれぽ、つまり人生登攀期ともいっていいな。
服部 うん。
吉川 それはぼくのテーマというのでなく、趣味だな、自分の生れてからの必然な過去だ。その嶮路をとにかく生きようという、よじ登ろうという人生登攀期、あるいは青春危険期、これがぼくも六十になっているが、今もって何となくぼくという人間の生涯を成しているのだネ。始終何か登攀を要する、あるいは逆境を如何によりよく生きて行こうか、という生活が始終、ぼくのコースになるのですよ、だからぼく、引続いて「宮本武蔵」でしょう、「太閤記」でしょう。例えばあの右近にしてもね。同じように若き青年期にしかかかって来ない。「太閤記」も秀吉が成功していわゆる太閤様になるともう書く熱意が薄くなって来ちゃう、薄くなるから同時に気も進まなくなっちゃって尻切れとんぼになる。
服部 そういう点では私小説的なものね。あなたの特に青年時代についてのね。
吉川 ああ。それからもう一つ。吉川文学というのもおかしいが、吉川の秘密といってよいもので、平凡なことを見のがしていますよ。ぼくの作品の中に必ず織り込んであるのは、骨肉愛ですよ。そこではぼくはもう駄目なんだよ。暗愚みたいにそれに行くと論理も何もない奴なの。
服部 それもあなたの「私」だな。
吉川 それはそう。「私」から出発しますよ、つまり(材料の)ヴァラエティを自分の中にあるものを取って構成する訳なんだから「私」になる訳ね。必ずぼくの場合は兄弟とか、あるいは母性愛とか、あるいは形からいうと父性愛に立って見るとか、この骨肉愛というものをね、これが自らといっていい位入っている。一番初めに書いた小説から今日に至るまで、必ずある。それが文学者の文学的な客観性なんかを失わせ易いし、ぼくの書く甘さになるわけですが、どうにもならない。ところがこれを多くの人が多分に持っている。例えば兄弟喧嘩して別れていようと、親父の家を飛び出している息子であろうと、持っている訳なんだ必ず。  それでそこがさっきの観念の共感を受けるかもしれませんね。
服部 そういうものとして「宮本武蔵」が一番代表的なものでしょう。史実とか歴史に拘束されないで、せんさくしないで、舞台をそこにとつて、自由に書いて行ける。ところが、それが出たときが昭和十年から十二年、戦争へのコースに行きつつあるときだったから、便乗しておるといわれる訳です。
吉川 そう批評しているのか。
服部 しかし「太平洋戦争」のとき大いに感激したのはけっして吉川さんだけじゃない、多くのものがそういうコースをとったのだから。吉川さん自身によってそれが反省されていることは「宮本武蔵」の戦後版の序文で見えている。ぼくはあれを見て加筆しなければよかったと思うのだ。
吉川 あれは加筆はしていないんだよ。お伊勢さまなんかの処をとったんだ。
服部 ぼくは加筆しなければ出版できなかったかと思った。
吉川 いやあるところをとると加筆しないと繋がらないからね。
服部 ぼくはこう思うのですよ。吉川さんの歴史文学、大衆文学のコースのうえで、「新・平家」はこれまでにない一つの大きな飛躍になっていやしないかと。だいいち、天皇制のきびしい制約があったとき、後白河法皇なんか書けないね。
吉川 書けないよ、全然。
服部 たとえば武蔵みたいに、歴史家としてもわからないようなのは、小説としては書き易いやね。荒唐無稽な取材から、大衆文学を書きはじめた時代から歴史に行って、空想的なそれを正而切って歴史と取りくもうという意欲―「新・平家」はそうした意欲をもった最初のものじゃないかしら。
吉川 最初のもの、それは君が歴史をいじくつているから、わかってくれると思うけれども、従来は歴史の余白ぽかり狙って……。
服部 だから歴史家としては、「新・平家」に大きな興味をもつ。「檜山兄弟」のとき、あの時は歴史に関心を持ち過ぎたことから失敗したんですね。それからまた歴史を離れた―。
吉川 そばに君が住んでいたこともあるな。(笑)
服部  「宮本武蔵」や「高山右近」の私小説を経て、正面切って歴史と四つに組もうというのは、やはり天皇制に対していくら批判をしても自由という新憲法の時代。これが初めて四つ相撲を吉川さんに取らせたという、そういう気餽が見てとれる。同時にそこが史学界の面々の鋭い関心を呼んでいる点でもある。松本新八郎君は日本中世史に対する第一線を行っている専門家だが、この人なんか偶然、昨日会ったのだけれども、「新・平家」を"非常に面白い"といってた。無論高橋君の友だちですよ。それが"高橋君のようなああいう批評の仕方でされても、吉川文学は痛くも痒くもないだろう"ともいっていた。
吉川 しかし税金問題はひどいよ。(笑)別問題ですね。酒を呑んだときでもいってくれ。あれは嫌がらせでね。嫌な思いだ。
服部 税金問題をいったのは杉浦君、アレはちょっといじがわるいナ。
吉川 批評ならいい。税金をトップに出すのは嫌だよ。吉川の奴め、くさらしてやろうと……。
服部 くさっちゃいかん、それで松本新八郎君の話だがーそのまえにごんどの杉浦君の「三人の牛若丸」を読んで、ぼくも初めて、吉川さんがまだ弁慶を書いてないことを知ったんだ。そうしたら松本君の書いた義経(毎日ライブラリィ「人物日本史」所載)がある、それを読んでみたら、彼は中世の専門家の立場から、弁慶と義経との邂逅を、義経が奥州から戻って十六で行って十七で戻って、近江にひそんでゲリラ戦をやったときからだろうと「玉葉」(九条兼実の日記)から彼は想定しているのです。そうだとすれぽ「新・平家」の義経が、奥州へ行くまえに一度も弁慶に逢ってなくても、決しておかしくない。それにしても杉浦君の批評を読んで思ったのだが、あんた、弁慶を一生涯出さんとでも、どこかで発表したの?
吉川 いや出し処があると思う。いきなり鼻っ面には出せんというのだよ。
服部 それなら松本君の見解と期せずして一致している。
吉川 ぼくのはどんどんと小説の上で奥州指して出かけちゃっているでしょう。だから皆んなの考えは、吉川はもう弁慶は出さんのだな、というけれども。
服部 それで安心した。弁慶を出さんければ義経が何故弱くなったかというのが書けない。弁慶は強いけれども弁慶が代表する旧い勢力、それが義経を弱くしている訳だ。腰越の悲劇がある訳だ、と歴史家は大体考えています。
吉川 「玉葉」の二人は一人にちがいない。それにつけても、これなんかも今度訂正しようと思うのです。「玉葉」とか「愚管抄」をちらちら見ると、平治の合戦が終ってから四、五年目に源三位頼政が伊豆守になっているし、彼の分国が伊豆にあるのだ。そうすると頼朝が起つまで全然何にも知らんなんていうことも絶対にあり得ないことだ。それだのに「平家物語」は頼政のよの字も出てこない。その処に大きな謎があるんだ。従来頼政のよの字も伊豆に出て来ない処に、大変な宿題があるわけです。だから頼政が以仁王をかついで、向うで火の手を挙げたことは、従来の歴史家の手では理由がわからない。ところが平治の戦にあれだけの分別のある真似をした男だろう。行って見て河原に出てみると向う河岸にいるでしょう。六十になってそんな単純に都の近くから火の手を挙げやあしない。確かに機熟せりと見た処があったに違いない。だから私は頼政という人間は書き直すために大きい課題があると思っている。そして非常に面白い。
服部 これは歴史家が源平時代と四つに組んで何にも業績を挙げていないといっていい程にむつかしい処ですよ。
吉川 そうですよ。そしてちょっといじれば後白河法皇が出てきたり、皇室が出てくる。
服部 後白河で思い出したが、あの類いまれなる暗主といわれている後白河を叙するに当って、吉川さん。とうとう妥協しちゃったという批評にたいしては?
吉川 いや妥協なんてするものか。あれには病癖がある。そのためにいろいろ複雑化する始末の悪いものが、後白河法皇の性格の機構の中にある。だから後白河法皇こそ書くべきなんですよ。しかし従来の歴史家なんていうものは、はるかに法皇の威勢に縛られて手をつけていないでしょう。
服部 それは終戦前のね。
吉川 終戦前の。だからそれについて従来の研究家によって、あれされた手がかりを得ようと思うと、史料編纂所を一人でやってしまうようなものですよ。
服部 しかし直感で書ける処でしょう。これはこれからの話さ。これからの課題さ。
吉川 ああ。
服部 ぼくが気がついたことは、第一巻(新・平家)を読んで、都の状態は実によく書けている。感激するんだ。よくここまで調べ、直感で動かしていった。ところが義経が関東にくるでしょう。書きにくいだろうと思う。そのブリリアントな都市の書き方から較べると、非常にあすこは淋しいんだな。手簿いという気がする。
吉川 そうかな、手薄いかなあ。
服部 農村の場合もっと想像が出ていいのに。
吉川 草の根にかくれている人たちの生活は大きいテーマですからね。これはぼくも非常に思うのですが、あの読者をかついで、大衆に読ませる小説を書くというんだから、どうしても影響するのですよ。ぼくにね。たとえば鞍馬を出て以来の義経をもってくるでしょう。すると次には弁慶が出ないとか、清盛はどうしたとか、俺はあれを清盛で読んでいたのに、ちっとも出て来ない、と読者の待ちわびがひしひしとくるんですよ。ぼくはここ(吉野村)に身を置いているのだから興味を持ちますよ、土にね。ここいらの農村生活をそのまま書いたってわかるんですよ。だから大いに金子十郎をもって来るなりして書きたいテーマですよ。するとテーマになり過ぎちゃうんですよ。テーマになり過ぎちゃって読者がはぐれちゃうんですよ。読者を武蔵野にはぐれさしちゃうことになるんですよ。それから叡山の坊主を書いている時分いじくればいじくる程、あの時分の生活は複雑だよ。これこそはあの時分の社会生活と結び付いていたものでしょう。日本荘園制の経済状態、それに分布される人の姿や形を、読者に咀嚼さしておかなければならないのですよ。しかし経済事情くらい頭に入れ難いものはないのです。
服部 そうでしょう。しかし丁度現在の政治をいろいろ書くときに、財政や税金について書かなければ、吉田ワンマンがどうしてああなったのかということもわからんでしょう。吉田の政治を批判する場合は、吉田の財政、つまり自分たちの生活ということから、労働者も資本家もやっているのでしょう。
吉川 そうなんだ。
服部 「新・平家」の農村のあの頃の経済事情、それが具体的に書いてない。俺はその専門でないからわからないのだが、君は知ってるだろうと松本君に聞いたら、史学がまだ不充分なんだ。
吉川 あの時分の荘園制については、経済的に見ましても、ぼくらが読んでも複雑なんですよ。こういうものの中に入れても複雑でわからなくなってしまう。単純化さしてわからせなくちゃならんのですが、よく知っていなければ単純化ができない。よく知ろうと思えば思う程、複雑で具体的に書けないのですけれども、それは大ぎな欠如です。
服部 しかしこれは古川さんだけの欠如じゃないんだ。話を変えるけれども「親戀」ね、あれはあなたのごく初期の小説じゃなかったかしら。それとも終戦後書き変えたの?
吉川 書き変えたんじゃないけれども、ぼく東京毎夕にいたときに、いきなり「親鸞」書けといわれた。まああの時分、東京毎夕で初めて家庭部というのが出来た。ぼくは何にも知らん駈け出しの記者。当時親鸞ばやりだったのだ。一つは「出家とその弟子」が出たりした。ここで書けという。ぼくは何にも知らんのだからね。にわか仕込みでね。毎日二段ずっ、社員より早く行って。画なし。毎朝それを二時間も書くんだよ。
服部 しかもそれが小説の書きはじめか。
吉川 それをザラ紙に書くんだ。ぼくは原稿生活の味も知らん。それを工場の小僧が取りにくるんだよ。書き上げるのを待っていてね。そんなことをして書いているうちに、本願寺が近いから本願寺の坊さんが毎日来てはまくし立てる。相当編集局には学者がいたしね。"吉川さん、今日のところは変だねえ"とやられるのだ。そうしていじめられいじめられ、しようがなしに書いたものです。それで一年書いて本にしてくれたんですよ。そうしたら震災になって焼けちゃった。市場に出ないうちに。
服部 震災前の話か。
吉川 それから筆で飯を食うようになってから、五社連盟が何かの地方紙で、これは地方紙なんだから多少読めるようなものにしてくれ、というので書き直したのが「親鸞」なんだ。それっ放しなんですよ。しかしぼくは「親鸞」というのは、それを書き直した頃から、ぼくらのいじるものじゃないと思っている。しかしもう五十位になったら、もうちょっと人生経験をしたら書けるんじゃないかという気がした。だから序文にね、その時に五十になったら書き直すということを、つい書いたんだよ。うん。ところが書ぎ直さずにあるものだからね。
服部 若い連中は終戦後書いたと思っているんじゃないかしら。
吉川 「宮本武蔵」もそうですよ。批評する方は、今書いたものとしてその批評なり何なりの角度の取り方でね。ところが日華事変より二年後ですからね。今を去る十数年前のものだ。それを今書いたものとして、やっつけるのだよ。再版するのが悪いのだけれども。
服部 再版しなければ食えんしな。(笑)要するに吉川さん。今度の「新・平家」で歴史と四つに組んだといわれて、わしはもうそれでいいんだ。
吉川 そうか。
服部 大いに歴史家たちは期待しているから。一九五二年は弁慶も出るし、後白河法皇も描破されるだろう。刮目して待つわ。松本新八郎、高橋碩一君はじめ吉川文学に関心を持っている今の若い第一線の歴史家連中と、ぼくはあんたを招待しますから来て下さい。
吉川 会いましょう。是非会っていろいろ聞かしてもらいたい。「新・平家」をやり出してから、あらゆる時間を入れちゃって、何にもできなくなった。手紙書く時間まで入れちまっているような思いですよ。だから他の細かいものは、皆すっかり止めちゃって、唯一念、あれ一本で。
服部 「新・平家」に集中して下さい。
吉川 いや集中しつつあるんです。
服部 われわれも何かの参考になるようなことがあれば……
吉川 それは有難い。
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