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久生十蘭「呂宋の壷」

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amizako

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     一

 慶長のころ、鹿児島揖宿《いぶすき》郡、山川の津に、薩摩藩の御朱印船を預り、南蛮貿易の御用をつとめる大迫吉之丞という海商がいた。
慶長十六年の六月、隠居して惟新といっていた島津義弘の命令で、はるばる呂宋《ルソン》(フィリッピン)まで茶壺を探しに出かけた。そのとき惟新は、なにかと便宜があろうから、吉利支丹になれといった。吉之丞は長崎で洗礼を受けて心にもなき信者になり、呂宋から柬埔塞《カンポジヤ》の町々を七年がかりで探し歩いたが、その結末は面白いというようなものではなく、そのうえ、帰国後、宗門の取調べで、あやうく火焙りになるところだった。寛永十一年に上書した申状には、吉之丞のやるせない憤懣の情があらわれている。
 惟新様申され候には、呂宋へ罷越、如何様にしても清香か蓮華王の茶壼を手に入れるべし、呂宋とか申す国は吉利支丹の者どもにて候に付き、この節は吉利支丹に罷成り、あいさつといたし、御用等相達すべきよし仰せ聞けられ候故、拙者、申し候は、御意とは申しながら、好き申さざる宗旨に候へ共、何事も奉公の儀に御座候故、上意に任せ、此の節は吉利支丹に罷り成るべきよしお受け仕り候。云々。

 吉之丞の父の吉次は松永久秀の家臣で、主家断絶後、牢人していたのを島津貴久《たかひさ》に見出され、貴久の言付けで、長崎に船屋敷をおいて海外貿易をはじめるようになったのである。堺の木屋弥三郎、西類子九郎兵衛などとおなじように、武士から町人になった、いわゆる引込町人で、七十歳で死ぬその年の秋まで、舵場の櫓に突っ立ち、船頭や荷才領を叱陀しながら南方の広大な海を庭のうちを歩くような顔で乗りまわしていた。
 慶長二年に父の吉次が死んで吉之丞の代になると、二度目の朝鮮征伐に義弘について泗川《しせん》に行き、粮米荷頭と小荷駄才領を兼帯でやり、矢丸《やだま》の下を駆けまわった。五年秋の関ケ原には出なかったが、東軍と戦って大敗し、身をもって遁れてきた義弘を堺で待ち受け、際どいところで船に乗せて鹿児島へ落した。
 これも島津の御用をつとめる堺の薩摩屋祐仁は、いよいよ島津も滅亡かと、なにも手につかずにおろおろしていたが、吉之丞は、
「大阪城の屋根は、そぜとるけん、雨の洩《も》ったい」
 といい、大阪の薩摩屋敷にあった弓矢鉄砲、玉薬のはてまで、軍道具を残らず船に積んで帰った。吉之丞は、当然、大阪城に立籠り、東軍を迎えて花々しい一戦に及ぶのだろうと推量していたが、それらしいこともないので意外の感にうたれた。聞きあわせたところ、義弘公は秀頼公に、このうえは籠城のお覚悟を、と申しあげると、秀頼公は、籠城までして戦うことはない。島津も、早々に国表へ引きとるようにとつれないお返事だったということだった。
 これで秀頼公という方の底が知れた。たった一度の手合せで腰が砕けるようでは、なんのために徳川に戦争をしかけたのかわからない。君公が飛ぶようにして帰国されたのは、秀頼公に愛想をつかし、薩摩の領国で一と合戦するつもりなのだろうと、咄嗟の才覚で武具運送の手配をしたわけだが、それはとんだ見込みちがいで、君公は剃髪して隠居し、家康に誓詞を送って、ひたすら恭順の意をあらわしていられる。戦争の沙汰どころか、国中、湿りにしめって露もしとどのありさまだった。
 その後、恩赦の沙汰があって、三男、家久をもって本領安堵したが、家康公への遠慮から、諸事、控え目に、父の代からつづいた南蛮貿易の後援も、自然にとりやめになったので、吉之丞は郷里の山川の津に帰って、トカラ、琉球の物産回漕をやっていた。
慶長十六年五月、惟新公からだしぬけに御用召があった。吉之丞が玉里の隠居所へ罷り出ると、惟新公は、
「吉之丞、呂宋《ルソン》へ行って来い」
 と、いきなりいった。
吉之丞は南蛮貿易のおゆるしが出るのだと思い、勇みたってたずねた。
「御交易の作事をいたすのでござりましょうか」
「いや、壺をとりに行くのじゃ。それについて、なにかと便宜もあろうから、吉利支丹になるがええ……くわしいことは拙斎の入道に言うておいた。大口へ行って聞いてくれい。退ってもええぞ」
 入道して拙斎。鬼武蔵といわれた新納《にいろ》武蔵の城は、鹿児島の北十里、伊佐郡の大口村にある。隠居所から退ると、吉之丞はその足で大口村へ行った。城に上り、取次を通して挨拶をすると、すぐ奥の居間に通された。
「なんでん、くわしいことは、ああたさまに聞けという仰せですけん、伺いに罷りでました」
勇武の士だが、すぐれた歌人でもある拙斎は、つるりと禿げあがった法師頭を撫でながら、
「ご隠居は、ときどき難題を出されるで」
 というと、大きな声で笑った。
「よしよし、謎ときをしてつかわす。まあ、聞けえ、こういうわけじゃ」
 口切りの茶の湯に葉茶壷はなくてはならないものだが、なかでも呂宋焼の壼が名品ということになっている。
 秀吉は、千利休がこの壼一つ、一国二城に代わると極めをつけた清香という呂宋の葉茶壼を手に入れて自慢していたが、天正十九年の二月、利休は、道具の売買について曲事があったという叱責を受けて自裁した。
 利休が死んだので、秀吉は呂宋の壼を求める道が絶えたと落胆していたが、文禄三年の七月、思いがけなく、堺の納屋助左衛門が呂宋の壺の名品を五十個ばかり持ち帰って上覧に供した。秀吉は、
「お手柄、お手柄。おのしは五十国、二百城を呂宋から奪って帰った」
 と手を拍って喜んだという。
 秀吉はまず自分が三つとり、残りを大阪城の西ノ丸の大広間に陳列し、壷の重さ一匁について銀子一貫目の割で諸大名に頒けた。
 呂宋ではどういう向きに使っている壺なのか誰も知らない。千利休は茶器の新旧可否を鑑定して分限者になった男だが、親疎異同によって、贋物を真物、新を古と言い張って、よく人を欺いたということである。それはともかく、呂宋の壷にむやみな高値をつけてくれたおかげで、丈、八、九寸から一尺ほどの、あどけない陶物《すえもの》の壼が、一個、銀千貫目から二千貫目に売れたので、わずか四、五日のうちに、助左衛門は思わぬ大利を博した。
「それですめば、かような仕儀にならなんだろうが、あやつが呂宋へ欠落《かけおち》したので、むずかしい落着になった」
 呂宋と姓をあらためた助左衛門が、邸の襖や天井に狩野永徳に絵を描かせ、七宝をちりばめ、金銀を貼るという豪奢に耽ったことが秀吉の怒りにふれ、家財を没収された。助左衛門はおどろいたような顔もせず、それならばといって、邸を大安寺に寄進し、一族をひきつれて飄然と堺の浦から発って行った。それは吉之丞も聞いて知っていた。
「あれは太閤さまがお亡くなりになる前の年、慶長二年の夏のことでござりました。かれこれ十四、五年になりましょう」
「十四、五年にもなろうかな……南蛮のどの国のどこの涯にいるのか知れぬやつを、ぬしゃ、探しに行くのだが、思えば、可哀想なようでもある」
「私めが、助左衛門を……」
 この年、惟新公が駿府の城へ年賀に上ると、家康が、葉茶壺が払底して、只今のところ一つもない。口切りの茶の湯もできぬようでは、茶の湯の冥加も尽き果てた。お身どもは南蛮貿易をなさるゆえ、呂宋の壺など、水甕にするほど貯えてござるだろうが、と持ちかけるようなことをいった。
 つまりは、呂宋の壺を二つ三つ寄進しろということなのである。島津はどういう無理でも聞かなければならぬ危うい境界にいるのだから、あるものなら喜んで差しだそうが、生憎と、そんなものは持合せない。松浦にも、牧野にも、出雲の松平にも、およそ呂宋の壺を所蔵する向きへ礼をつくして頼んでみたが、こればかりはと、誰も話に乗ってくれない。
 助左衛門さえ堺にいたら、たやすく事が運ぶのだろうが、ならぬことをねがっても仕様がない。お前は、長年、南洋を渡り歩いて、国々の事情に通じているわけだから、ご苦労だが、呂宋まで壷をとりに行ってもらうことにした。
「それについて、ぬしに見せておくもんがある」
 拙斎は床の間の木箱の蓋をはらって茶壼のようなものを出し、書院窓のそばの机の上に据えた。丈は一尺ほどで、形はやや平目・辮緇げ薄い轍癒があり、アッサリとして軽い出来で、底がすこし凹んでいる。土師物と陶物の間を行ったような見馴れぬ壷であった。
「これは博多の神屋宗湛から借りた真壼だ。よく似せてあるが、呂宋ではない。真物の真壼は、もうすこし茶の色が深く、いちめんに鶉斑が出て、揚底になっている。呂宋壷の上物は蓮華王と清香真壷……蓮華王は、壺の肩の蓮華の花の中に王という字がある。清香真壼は、これも肩に清香という文字がある。真物の呂宋なら真壼でもよいが、ならば、蓮華王か清香を探しだしてくれい」
 呂宋へ行って壺をとってくることはわかったが、助左衛門の所在をつきとめるというのは、どういうことなのかとたずねると、利休も助左衛門も呂宋の壼だといっているが、それについては、両人の間になにか黙会があったので、自分の見るところでは、迦知安(広東)か暹羅《シヤム》あたりの物産だとしか思えない。呂宋に真壼があれば文句はないが、さもないと、助左衛門に逢って、どこの国で、どうして手に入れたか聞きだすほかはないからだといった。
「対馬の灰吹銀を千貫目、ペセダの銀銭を二十貫、ほかに錠銀と康煕銭《こうきせん》を用意しておいた。船のことじゃが、三浦按針のフラガタ船(フリゲート。砲備した商船)に朱印状を添えて売りに出たのを、アンドレア李旦《りたん》という支那の頭人が買って作事をし、来月の初旬に大波止から出る。吉利支丹しか乗せぬそうじゃけん、いっちょう吉利支丹にならな、いかんばな」
「いや、それでござりますが」
 吉之丞は、かたちだけの信徒になっても、吉利支丹の行儀も知らず、十の掟を保つことなどは思いもよらない。どんな苦労もいとわないが、吉利支丹になることだけはごめんねがいたいといったが、拙斎は呂宋へ行くのは李旦の船しかないからといって、なんとしてもきいてくれなかった。

     ニ

 アンドレア李旦の船は三梔二段帆のさよ船(和蘭《オランダ》造りの黒船)で、和船の前敷にあたるところに筒丈、八尺ばかりの真鍮の大筒を二挺据えつけてあった。
 船名はサンチャゴ……サンチャゴとはイスパニヤ語の八幡大菩薩にあたり、合戦で鬨の声をあげるとき、サンチャゴと叫ぶのだということである。
船の長さ十二間、幅四間、荷頭、ルイス新九郎、船頭デリコ庄兵衛のほか、乗組は福建人、スマトラ人、マラッカ人で総数は百人ほど。船の大きさも乗組の数も御朱印船の三分の一にも及ばない。船の名は勇しいが、どう考えても、頼母しいような船ではない。長崎から高砂(台湾)の湊口まで六百五十里、高砂から呂宋のマニラまで八百里、合せて千四百里の海を、こんな小船でおし渡るのかと思うと、情けなくてならない。
 吉之丞は舵場の櫓で、一波ごとに淡くなる琉球の島影を見送っているうちに、李旦がいっていた海賊船のことを思いだし、船室に置いてある灰吹銀の金箱が、急に重荷になってきた。
 李旦は、この節、和蘭とイスパニヤ、ポルトガルの折合いがつかず、双方の船が行き合うと、かならず、どちらかが射ちかけ、積荷を奪ったあげく船を沈めるという風儀で、平穏無事な航海はいたって少い。あなたはたくさん銀を持っていられるようだから、心得までに申しあげるのだが、フレガタ船に追いかけられて船を押えられたら、逆らっても無駄である。観念して、奪るだけのものを奪らせれば、命だけは失わずにすむ。.見受けるところ、剛気なご人体だが、力をたのむものは、とかく大怪我をするものだから、私の忠言をお忘れないように、というようなことをいった。
 呂宋の涯へ壼を探しに行く苦労だけでもたくさんなのに、そんな目にあうのではたまったものではない。それにしても、見栄のしない陶物の壺を買うのに、どうして千貫もの銀が要るのか、納得できない。銀六十匁一両換えとして、千貫といえば一万七千両……一二百九十人乗りの御朱印船を新造しても、十五貫とはかからない。長さ二十間、幅九間の大船一隻が二百五十両で、掌で支えられるような葉茶壺が一万七千両もするというのは、どこかにまちがいがあるのにちがいない。
「これでは、あまり空しいような気がする。大名方のなさることは、おいどもにはわからん」
 吉之丞は呟き、考えてもわからないことは考えないほうがいいと、邪念を払うように強く頭を振った。
 六月十日の夕方、吉利支丹の夕のお勤めをすませ、艫ノ間で夕食をしているところへ、荷頭の新九郎が駆けこんできて、
「いましがた、黒船が一隻、艫を横切って風下のほうへ行きよりました」
 と息巻くような調子で李旦に報告した。李旦は象牙の箸をとめて考えていたが、思いついたように、
「そいで、東沙島はもう過ぎたかい」
 とたずねかえした。
「へえ、いましがた呂宋の頭へ針を立てたところでござす」
「悪い船道にかかった。フレガタ船かもしれん。用心せな、あかんばな」
「そんこつです。明日は、夜明け前に見張りを出すようにしましょうたい」
 翌朝、まだ暗い海の上を、一隻の黒船が船首を横切って影のように風上のほうへ走って行った。
 夜があけると、四里ほど向うに、二梔三段帆の黒船がサンチャゴと並んで走っているのが見えた。
船頭の庄兵衛は、
「やいやい、まごまごするな」
 とマラッカ人の水主《かこ》を怒鳴りつけ、筒眼鏡を持たせて大帆柱の物見台に追いあげた。
「どんなあんばいだ。早う、ぬかせ」
物見台のマラッカ人は、
「たいへんだ」
 と叫び、それから、
「向うの物見台にも人が上って、筒眼鏡でこちらを見ている」
と報告した。
 李旦という博多生れの福建人は、こんなことには馴れきっているふうで、急ぎもせずにゆっくりと舵場へ上って行った。
「庄兵衛どん、向うの船足はどうあるかい。逃げきれるとじゃろうか」
 庄兵衛は、手庇をして向うの船足を計ってから、
「たいしたことはありますめえが、早駆けにしますか」
 そういうと、一番かんぬきの帆係に、総帆あげうと命令をくだした。
 サンチャゴが勢よく走りだすと、向うの黒船もにわかに船足を早め、海の上を電光形に間切りながら、サンチャゴのほうへ突っかけてくる。帆を撓《たわ》め、船足を隠していたとしか思えないような鮮かな追撃ぶりであった。
「えらく足が出だした。下手をすると追いつかるるたい」
 と李旦がいった。
「弾箱を出しておきましたけん、いッちょ射とうじゃにゃあですか」
新九郎が気負ったような顔でいうと、李旦は大きくうなずいてみせた。
「ぬしゃ、大筒ば射ちきるか。射てるなら射って見さっし」
新九郎はスマトラ人の水主を呼びあつめると、前敷の大筒のところへ走って行って弾丸込めにかかったが、生憎と、弾丸が筒口より大きくて、この急場には間にあわなかった。
「あぎゃん弾丸、どやつが積みこんだものか。弾丸が大きゅうして、筒口におさまらんとです」
 と頭を掻き李旦に報告した。
 李旦は笑いながら、
「これやもう、追いつめられるにきまったけん、羅針盤と象限儀をはずして、わからんところへ隠しておいちくれ」
 と言いつけた。
 そんなことをしているうちに、黒船は半里ほどのところまで迫ってきた。小早船《こばや》といっているポルトガルの飛脚船で、大筒を四挺すえているのが、ありありと見えた。
「小早船じゃ、かなわねえ」
 庄兵衛は音をあげたが、どうでも逃げ切るつもりらしく、うるさく帆形を変えて間切りだした。
 小早船の帆柱にポルトガルの国旗が揚ったと思うと、大筒が火を噴き、円弾が唸り声をあげてサンチャゴの舳をかすって行った。
 李旦が庄兵衛の肩を叩いた。
「もう、いかんばな。停めなし、停めなし」
 サンチャゴが帆をおろすと、待ちかねたように、帯に短筒と抜身の刀を挾んだ十人ばかりのポルトガル人が小舟でやってきた。サンチャゴの乗組を後敷のところへ呼び集めると、頭立ったのが、
「船主はどやつか。何を積んで、どこへ行く船か」
 と訊問した。
 吉之丞は怒りを発して、
「なんじらの問いに答える義務はない」
 という意味のことを叫びたてると、ポルトガル人が飛んできて、刀で吉之丞の腹を刺した。吉之丞は錠銀を腹巻に入れて腹に巻いていたので、いくどか刺されたが、いっこうにこたえなかった。
 争うことはなんの益もない。はじめから重荷にしていたが、千貫という銀は、隠そうとしても隠しきれるものではない。吉之丞は、これも天命とあきらめかけたが、あれだけの銀子をむざと持ち去られるのかと思うと、無念でならない。みなとはいわないが、隠せるだけ隠しこんでやろうと、さり気ないようすで胴ノ間へ降りて行った。
 吉之丞は渡海船を扱っていたので、さよ船の構造を知っている。和船ならいきなり棚板になるところに船梁が通っているため、舷の外板と内張の間に隙間があって、それが船底につづいている。舷の内張を一枚はずせば、船底へあるたけの銀子を落しこむことができる。咄嗟の仕事にしては骨が折れるが、やってやれないことはない。
 内張の腰板は欅の大割で、脇差でこじりつけるくらいではビクともしない。それでも根気よくやっているうちに、板の合せ目が持ちあがってきて、手が入るだけの口があいた。
 頭の上でいそがしく歩きまわる足音が聞える。どうやら賊どもが働きだしたらしい。グズグズしてはいられない。金箱から銀子をつかみだし、息づく暇を惜しんで、つぎつぎに船底へ落しこんだ。
 頭上の騒動はいよいよ爛熟し、ポルトガル人の叱陀する声にまじって、帆柱の倒れる音や重いものを曳きまわす音、大鋸で木を挽く音、手斧で打ち割る音、大破壊によってひき起されるすさまじい騒音が、ものの半刻ばかり休みもなくつづいていたが、そのうちに木の枝でも撥ぜるような乾いた音とともに、えがらっぽい煙が胴ノ間に流れこんできた。
「こりゃ、いかんばい」
 海賊どもは、船を壊して火を放けたらしい。これでポルトガル人の意図がはっきりした。海賊のくせに、金や積荷にかまけないのは、ふしぎだと思っていたが、サンチャゴに乗りこんできたのは、貨財が目あてなのでなくて、最初から船を焼くのが目的だったのだということがわかった。
 吉之丞は汗を流して働いていたが、船を焼かれるのでは、こんなところへ銀子を隠しても無駄なことだと思い、つまらなくなってやめてしまった。
 昨日の朝、東沙島の近くを通りすぎた。いまは、どちらへ向いても、島影も見えない大海のまっ只中にいるわけだが、こんなところで投げだされたら、助かる見込みはない。ポルトガル人に談判して、船を焼くことだけはやめさせなくてはならないと、艙口の梯子をあがって行ったが、上り口の戸が釘付けになって、出ようにも出られない。
艫ノ間の上り口はどうだろうと、艫ノ間へ駆けて行くと、乗組の百人、一人残らず後手に括られてころがっている。李旦はと見ると、十字架の前に跪いて一心に祈薦をしていた。
「あいつども、火ば放けよったけん、こぎゃんこつばしとると、焼け死んでしまうたい」
 李旦は、それはよく知っているが、いま、お勤めをしているところだから、そっとしておいてもらいたいといった。
 吉之丞も惘《あき》れて、なんということもなく庄兵衛のそばに坐りこむと、庄兵衛は慰め顔で、
「……むかしより、今に渡り来る黒船、縁が尽きれば、鱶の餌となる、サンタマーーヤ」
 と鼻唄をうたって聞かせた。
半刻ほどすると、風が落ちて海が凪いだように、急に上の騒ぎがおさまり、舷をうつ波の音が聞えてきた。
 吉之丞が立ちあがると、みなも立ちあがって一斉に上り口に殺到した。
 上に出てみると、小矢柱が突き転がされて舵場の上に倒れ、帆はズタズタに切られ、舵柄はもぎとられ、船を動かす道具という道具は残りなく壊してあるという目もあてられない狼藉ぶりであった。火を放けられたのは前敷の水主どもの炊場で、油でも撒いたのだとみえてどす黒い煙をたちあげながら、さかんに燃えている。
 小早船は、はるかむこうへ離れて行ったが、まだ帆影が見える。あまり早く消すと、また焼きにくるかもしれない。小早船の帆影が波の下に沈んだところで消し方にかかった。

     三

 六月十八日、サンチャゴはマニラの湊に入って、河口の南に船繋《がか》りした。
 吉之丞は陸使に金箱を担がせ、みなに送られて船から降りると、道路をひとつへだてた船着場の正面の客舎に宿をとった。マニラは親子二代にわたる旧縁の地で、旅亭のあるじとは知友の仲である。
 一夜寝て、翌日、朝早くから壼さがしにかかった。古陶器を扱う道具屋も土師物をひさぐ市の店も、どの辺にあるかだいたい見当がついている。永藤朝春が写した真壺の図を持っている。口数をきかなくとも、だまってそれを見せれば埓があくはずである。
 そうして、三日がかりでマニラ中の店を見てまわったが、鶉の斑文をつけた、あどけない葉茶壺にめぐりあうことができなかった。
 呂宋人は口細の壺を好んで使うが、トンドという村にその窯がある。翌日、そこへ行ってみた。真壺の絵を見せて、こんな壺を扱ったことはなかったかとたずねると、窯元のおやじは、古今を含めて、呂宋にあるかぎりの壷はみな知っているつもりだが、こんな壷は見たことも手にとったこともないと、立ち切ったようなことをいった。
 尤もらしい口上だが、そのまま鵜呑みにするわけにはいかない。陶物を出す窯はほかにもあるのだ。市外のパリアンに明人の窯があるというので、翌日、行ってみたが、安南あたりのものらしいというだけで、かくべつな意見もなかった。           
 詮じつめたところ、助左衛門が持ち帰ったのは、呂宋のものではなかったらしいことはわかったが、これは、どこの国の、なんという陶物と言ってくれる人間がいないのが、もどかしい。それに、呂宋焼でもないものを、なぜ呂宋だなどと言いたてたのか、その辺のところが理解できない。なぜという疑問を解くには、拙斎入道がいったように、助左衛門を探しあてて、話を聞くよりほかに方法がない。
 マニラの日本人町はカンデラリア天主堂の裏の一郭と、マニラの湊口、ディラオの郊外にある。
 助左衛門ほどの男が、日本人町などに逼塞していようとは思えない。いるならいるで、着いた日のうちに消息が知れるはずだ。噂らしいものも聞かないのは、いないからなのだろうが、万一ということもあるものだと思い、ディラオへ行って町年寄に聞いてみた。
 町年寄の浅井九郎右衛門は苦りきった顔で、
「あいつは慶長八年に、ミンダナオ島のカガヤンで海賊を働いたうえ、イスパニヤの兵隊の後押しをして、二万人からの明人を殺したことのあるやつだ。そういう始末だから、呂宋へなどやってくるわけはない。あいつのおかげで、われわれは迷惑をこうむっている。やってきたら、ただではおかぬ」
 と口をきわめて罵った。
 助左衛門が海賊を働いたとは意外だった。もし、それが事実なら、人別のはっきりしている日本町に住みつくわけはない。呂宋にいるとしても、名を変えて、人知れぬ里で暮しているにちがいない。理窟はそうだが、それでは探しだすあてがない。
 九月の末ごろ、南呂宋のサンミゲルという町に、日本人らしい男が住んでいるという噂を聞いた。
 サンミゲルは、呂宋島が東南に伸びだした半島の一角にあるささやかな漁村で、陸つづきになっているが、途中にモロという蛮族が住んでいるので、陸路の旅行はできない。マウバンというところまで行って、そこから土人の舟を雇う。夜は岸で野営をするので、半月がかりの辛い旅になる。
 吉之丞はマウバンを発ったのが、十月十二日で、十一月の二日にサンミゲルに着いた。なるほど日本人は住んでいたが、摂津の沖から吹き流されて漂着した漁師輩で、助左衛門とは縁もゆかりもない男たちであった。
 サンミゲルまで来たついでに、そこからまた南へ下ってミンダナオ島に行き、カガヤンの町で助左衛門の消息をたずねたが、なんの得るところもなかった。そんなことをしているうちに、その年も暮れた。
 翌年の五月ごろまで、なすこともなくマニラの宿で日を消していたが、助左衛門の捜索をあきらめたのでも、やめたのでもなかった。この旅亭は日本人の定宿のようになっているので、ここに居据っていれば、新入の日本人から、助左衛門の踪跡を聞きだす便宜があると思ったからである。
 六月の末、角倉の御朱印船が着いたが、沖鰡りしたまま、人も貨物もあげない。宿のあるじに聞くと、日本人の吉利支丹の癩者が百三十人も乗っているので、入港を許可するかしないかで、むずかしい掛合になっているということであった。
 角倉の船は入港を許可しないことになって、翌日の夕方、乗客が二人だけサンバンで送られてきた。
 いかにもよく似た姉弟で、姉のほうは十七八、弟のほうは十三ぐらいでもあろうか。どちらも気品のある凜々しいほどの面差で、たやすくは近づきかねるような、いかめしさがあった。姉のほうは紋綸子の大口の袴をつけ、弟のほうは堅苦しい野袴をはいているが、弟のほうは、どこかなよなよとしているので、姉弟というより、兄妹というほうが似つかわしいような感じだった。
 宿の主人の調べが行届くので、間もなく二人の素姓がわかった。癩で眼がつぶれ、関ケ原の戦では輿に乗って指揮をしたという大谷刑部少輔吉継の子で、姉はモニカ真弓、弟はジェリコ菊丸。モニカは誇りの高い気質らしく、サンパンで送られてくる途中で、われわれ姉弟も癩者の血統だが、どうして二人だけを特別に扱うのかと、お舟手役人に抗議したということだった。
 呂宋助左衛門の内儀は敦賀の大谷からきたひとだと聞いている。あの姉弟にたずねたら、助左衛門の所在がわかるのではなかろうかと、希望のようなものを感じだしたが、大谷の姉弟は、暑い盛りのマニラで、部屋からも出ずにひっそりと暮している。顔を見る機会もなかったが、ある日、宿の涼廊で行きあったのをひきとめて、助左衛門を探しまわっている苦心の段を披瀝すると、モニカは濡れ濡れした大きな眼で吉之丞の顔を見かえしながら、
「助左衛門は安南にいるはずです。さる方から書状を預っていますので、私も逢わなければならないひとですが、そうまでして、助左衛門を探しだそうとなさるあなたは、どういう方なのでしょう」
 吉之丞は呂宋へ壼を探しにきた由来から、今日までのことを残らず話した。
 モニカは、どうしたのか、急にうちとけたようすになって、
「ありがたい話を伺いました」
 と笑いながらいった。
「私にも仕遂げなければならない仕事があります。私のは壺でなくて天・王堂……私も弟も癩者の血統です。この病の不幸の素因をよく知っていますので、癩で滅びた人々の追福のために、安南フェイフォの日本人町へ、死ぬまでかかっても、天主堂を建てるつもりでいます」
 助左衛門が安南にいるとわかった以上、一日も早くそちらへ行きたい。モニカの都合をたずねると、角倉船で癩者といっしょに安南へ行きたかったのだが、こんなところで降ろされて当惑している。宿のあるじにも頼んでおいたが、早く交趾へ行けるように力をかしていただきたいといった。
 宿のあるじの奔走で交趾へ行く船が見つかった。古ぼけた潭州(シンガポール)の二櫓船で、故郷へ帰る安南人が百人ほど、広くもない胴ノ間に押せ押せに詰めあっている。海の荒れる悪い時季だったが、それを承知で、七月二日の朝、マニラを発った。
 思いのほか穏やかな航海だったが、十日の夜になると、東北の強風が吹きだし、船を揺りに揺すった。
 十一日の朝、まだ夜が明けないのに、マレー人の水主どもがあわただしく駆けまわっている。
 吉之丞が水主をつかまえて、なにがはじまったのかとたずねると、ひどく揺れたので舷の外板がゆるみ、そこからドンドン水が入りこんでいるのだといった。
 船を停めて修理をすべきだと思うのだが、暴風に逆ってむやみに船を走らせている。吉之丞が上にあがってみると、大帆も矢帆もいっぱいに張り、小矢帆まで出してある。漏水で船が水びたしになるのが早いか、安南のフェイフォに逃げこむのが早いか、競争するつもりらしい。
 走らせればそれだけ傷が大きくなる道理だから、これは大事になると、吉之丞は思わず吐息をついた。
 十三日の午前になると、案の定、帆は残らず吹き千切られてしまい、否応なく船を停め、波と風に運命を任せるほか、しようがなくなった。
 潭州船は暴風の後の長いうねりに押され、押し戻され、あてどもなく漂流していたが、そのうちに浸水の速度が速くなって、胴ノ間の天井まで水がつくようになった。
 吉之丞と大谷の姉弟は、昨夜のうちに胴ノ間を出、甲板の隅に寝所を移していたので騒がずにすんだが、なにも知らずに胴ノ間に寝ていたマレー人どもは浸水におどろき、あわてふためいて甲板へ駆けあがってきた。
 午後になると、水は甲板の上まであがってきて、誰の眼にも、遅かれ速かれ、船は沈没する運命にあるのだということがわかった。
 夜の八時ごろ、船体が微妙に震動し、ひとの心をしめつけるような無気味な唸りが、どこからともなくひひいてきた。
 水と甲板の間に圧し縮められた空気が、甲板を破って外に出ようとしている。
「こりゃ、ふっ飛ばされてしまうたい。さ、立たっし」
 吉之丞は大谷姉弟の手をとって、後帆柱の繩梯子に縋りつかせたその瞬間、落雷のような音をたてて、甲板のまんなかほどのところに大きな穴があいた。
「こんなところにいるわけにゃいかん。上の見張台へあがりましょう」
 三人が後帆柱の見張台にあがったのを見ると、甲板にいるだけの人間が一斉に繩梯子のほうへ突進してきた。われ先にとひとをおし退けて上ってくるので、一間四方ぐらいの見張台はたちまち満員になり、遅れた組は鈴生りに繩梯子にぶらさがった。二十歳ばかりの一人の安南人はすごい形相で見張台を見あげていたが、あきらめて、はるか向うの前帆柱の見張台に上って行った。
 船はいぜんとしてすこしずつ沈下していたが、帆柱下、十尺ほどのところまで沈むと、どうしたのか、それでもう沈まなくなった。
 白波をたてて荒れ狂う海の上、蠅取紙にとられた蠅のように、びっしりと人間が貼りついた帆柱が二本、あわれなようすで突き出ている。汐の流れでもあるのか、水の中に沈んだ船体の讎癰につれて、帆柱が大きく傾く。そのたひに何人かが海にこぼれ落ち、二、三度、藻掻《もが》いただけで、あっけなく波に嚥《の》まれてしまう。
 月影がさしかけたが、それも束の間のなぐさめで、最夜中近くになると、風が吹きつのり、十尺もあるような大波が寄せてきては、ものすごい勢いで帆柱にうちあたった。
 十五日の朝がきた。
 すくなくとも六十人以上の人間が繩梯子に縋りついていたはずだが、朝になってみると、何人というほども残っていなかった。
 船体は波の下に沈んだまま、汐に引かれるように西のほうへ流れている。波と風の中でその日も終った。
 十六日の午後、だしぬけに風がやんで、雲切れした雲の間から、灼くように太陽が照りつけ、誰も彼れも咽喉の乾きに悩まされた。

     四

 モニカは見張台にあがるとすぐ、弟の菊丸を抱いてやり、ずっとその恰好を保っていた。吉之丞は、もうすこし楽にしているようにいったが、微笑するだけで、姿勢を崩そうとはしなかった。
 菊丸は荒々しい環境に脅、えて、ぐったりと弱りこんでしまったが、七日目ぐらいから、果敢《はか》ないようすになり、手足をひきつらせたり、うわごとを言ったりするようになった。吉之丞は大谷姉弟のそばに坐って、一日ごと菊丸が弱って行くのを見ているのだが、見ているだけで、どうすることもできなかった。
 十九日の朝、吉之丞が菊丸の顔をのぞいてみると、菊丸は死んでいた。いつ息をひきとったのか、抱かれたままの恰好で固くなっている。モニカは菊丸が死んだことも知らずに、腕の中に抱きしめているのである。
 そういう吉之丞自身、ただもう物憂いばかりで、眼玉をうこかす元気もない。窮屈なところにあおのけに寝て、うつらうつらしていると、頭の中に霞がかかったようになって、生きているのか死んでいるのか、わからなくなる時がある。すぐそばにいながら、モニカも吉之丞も、よほど前から口をきかなくなっていた。朝々、まだ生きていることを知らせるために、眼でうなずきあうのが精一杯のところである。
 二十日の午後、俄雨があった。
 難船してから、はじめての雨だった。吉之丞はあおのけに寝て、掌で受けをこしらえ、鼻のわきを流れるのも、顎から飛沫《しぶ》くのもいっしょくたに飲みこんだ。死んだとばかし思っていた、まわりのマレー入や安南人が、狂人のようにはね起き、空を仰いで飽くほど雨を飲んでいる。 モニカは雨水を帛《きれ》に浸ませて菊丸の口の中へ絞りこみ、どこかに生きているしるしがないかと、じっと顔をながめていたが、もう生きかえる宛がないことがわかると、急にキッパリとした顔つきになり、菊丸の死体をひきずって行って、なんの未練もなく海へ捨てた。
 雨は一時間ほどで降りやみ、眼眩くような天気になった。ふと見ると、帆柱の蔭になるところで、マレー人が片肱を立てて壺から水を飲んでいる。
「ほう」
 雨があがれば、つぎの雨を待つしかないが、壺があれば、溢れるほど雨水をためて、好きなときに飲むことができる。それにしても、あの混雑のなかで、壺を抱えだすというのは抜目のないやつだと、マレー人のすることをながめているうちに、なんともつかぬ感動に身のうちを貫かれ、われともなくマレー人のそばへ這い寄った。
「その壷、ちょっと見せてくれ」
 ひったくるようにして壺をとりあげた。
 なんどりとした茶釉の下から、火花が散ったようにいちめんに浮きだしている鶉斑……。肩下のあたりに、蓮華の花びらが透しになって、その中に、あるかなしかというように「王」という字が見える。底を見ると、話に聞いたとおり高い揚底で、底に曲《くせ》の凹みがある。まさしくこれだ。
「これが『蓮華王』だ」
 吉之丞は腹巻から錠銀をつかみだしてマレー人の手におしつけると、壺を抱いておのれの座に這い戻った。
「夢のようだ」
 蓮華王の葉茶壺を膝の前に据え、吉之丞は途方に暮れて呆然と空を見あげた。
 長くてあと二、三日の命。それはもうまぎれもないことだ。こんな詰りきったときに、夢にまで見た蓮華王の葉茶壺にめぐりあうというのは、どういうことなのか。
 本意をつらぬいたのだから、死んでも満足とすべきなのだろうが、そんな気持にはなれない。壼を抱いて死んだら、この世に思いが残るだろう。生も死もどうでもいいと、さらりと思いあきらめていたが、壼が手に入ったら、急に死ぬのがいやになった。……そうはいっても、助かるあてはないのだ。
 吉之丞はぐったりとなり、あおのけに寝て胸の上で手を組んだ。いつもの楽な姿勢をとると、ひょっとすると、明日は眼がさめないのかも知れないと思いながら、うつらうつらしだした。
 三十日の夕方、どこかで、
「陸《おか》だ」
 と呟く声がした。
 遭難してから二十日目のことで、見張台の上の人間どもは、かすかに息が通っているというだ
けの、死の一歩手前の状態にあったので、「陸《おか》」という言葉がなにを意味するのか、思いだすことができなかった。しばらくして、また誰かが、
「陸だ」
 と叫んだが、これも、なんの反応もおこさず、完全に無視された。
 三度目に誰かが呟いたとき、吉之丞は、
「うん?」
 といって首をあげた。
 吉之丞は、自分がいまどこにいるのかよくわからなかったが、・さらしに包んだ枕元の葉茶壼を見ると、それで、いっぺんに記憶が甦った。
 いま、たしかに陸といった。
 助かるかも知れないと思うと、その期待で急に元気が出て来た。
 吉之丞は起きあがって、陸のあるほうをながめた。
 十町ほどむこうに、鉛色の泥湿地が、水面とおなじくらいの高さでひろがり、その涯は、ひょろりと伸びあがった生気のない樹林で区切られている。浅瀬の海にはところどころに泥堆が顔をだし、岸波がとどろくような音をたて巻きかえしている。
 助かるどころの騒ぎではなかった。吉之丞は海岸のようすを見るなり、最悪の状態になっていることを一と眼で読みとった。水の中にある船体は、汐路に乗って岸へ曳かれているらしいが、泥堆にでも乗りあげたら、一挙にバラバラになり、誰も彼れもみな海に投げだされてしまう。二十日も飲み食いしない弱りきった身体では、高波にひとつ叩かれたらそれで最後だ。
 普通の身体なら、こんな海は片手でも泳げる。せっかく壷を手に入れたのに、つい鼻の先に陸を見ながら、果敢ない最期を遂げるのかと思うと、無念でならない。
 モニカのそばへ行くと、モニカは助かったのだと思いこんでいるらしく、痩せ細って眼だけになったような顔で、ほんのりと笑ってみせた。
 吉之丞は笑いかえして、
「おいが連って泳いであげますけん、元気を出さんといきまっせんばい。今夜はしっかり休んでおきなさい」
 モニカはうなずくと、眠るつもりになったふうで、うっすらと眼を閉じた。
 翌日、朝の五時ごろ、突きあげられるような衝動を感じて眼をさました。吉之丞は、
「やった」
 と叫びながら跳ね起きた。
 つづいて二度、大きな震動があって、物見台がグラリと傾いだ。吉之丞はころげだそうとする壺を、やっとのことでおさえつけた。
 船体はうまいぐあいに泥堆に乗ったらしくて、意外に堅固なようすをみせ、吉之丞が案じていたようなことにはならずにすんだ。
 干潮の時間なのだとみえ、すこしずつ水位が下って、二十日ぶりに甲板があらわれだした。風も無く、岸波もおさまり、こういう凪が二日もつづいたら、なんとか助かるかもしれないという希望を感じさせた。
 吉之丞は安南人やマレー人の水主のすることを見ていたが、むかし御朱印船で水主どもを追いまわした経験から推して、グッタリと長くなっている連中も、案外、弱っていないことを観破した。
 モニカを無事に岸まで送り届けるには、どのみち、できるだけ大勢助人があるほうがいい。使えそうなのが六人いる。六人が手を揃えて庇ってやったら、泳ぎつかせることができるだろう。
 吉之丞はマレー人のいるところへ行って、あの娘を陸へ渡すのだが、力を貸してくれないか、骨折賃に錠銀を一つずつやるが、と相談を持ちかけると、マレー人たちは異議なく承知した。

     五

 四時すぎに満潮になった。
 モニカは襦袢と踏込《ふんごみ》だけの軽装になって甲板へ降り、吉之丞が行くのを待っていた。吉之丞はモニカのそばへ行って、
「こやつどもがお世話しますけん、ご心配なく……おいもすぐあとから行きますたい」
繩の垂繩をつけた十尺ばかりの角材を海におろし、両端をマレー人に支えさせておいてモニカを水に入れた。垂繩につかまらせると、四人のマレi人が前衛後衛になって、岸をめがけて泳ぎだした。
 吉之丞が物見台にあがって見ていると、泥堆にうちあたる返波に揉まれながら、それでもすこしずつ陸岸のほうへ泳ぎ寄っている。船と岸のちょうど真中ぐらいのところに、白波が立騒いでいる潮路のようなものがある。どうなることかと思っていると、そこもどうやら無事に泳ぎ切った。
 無理もないことだが、モニカは疲れてきたらしくて、ときどき頭が水の下に沈む。それでも垂繩から手を放さずにどうにかついて行く。とうとう六町たらずの海を泳ぎ渡って岸にあがった。
 枯れた磯草を集めて焚火をしているのを見届けてから、吉之丞は仕度にかかった。錠銀がこぼれださないように腹巻をしめなおし、壼は風呂敷に包んで首に括りつけ、繩梯子をつたって甲板へ降りて行った。
 死ぬ、ときめていた間は、なんとも思わなかったが、この船の中に千貫目の銀子が沈んでいるのかと思うと、妙な気がしないでもない。いささか思いが残るが、壼を千貫目で買ったと思えばあきらめがつく。
 六尺ばかりの丸太を海へ落し、そうしておいて、太繩をつたって水に入った。
 丸太に手を載せ、おしだすようにしながら泳ぎだしたが、手脚に力がなくて、思うようにやれない。しばらくやっているうちに関節が伸びて、いくらか調子がでてきた。
 十間ぐらい泳いでは、ゆっくりと身体を休め、それからまた十間ぐらい泳ぐ。そんなことをくりかえしているうちに、泥堆の返波がさわいでいるところへさしかかった。波に巻かれて、丸太が際限もなくまわりだしてとまらない。丸太をとめようとあせっていると、大波がおしよせてきて頭のうえを越して行った。首に括りつけてあった壺が胸のほうヘグルリと下ってきて、その重みでグングン海の底へ引きこま淑て行く。吉之丞は、もうだめだと思い、無我夢中で壼をかいぐりとり、水を蹴って浮きあがると、鞴《ふいご》のような音をたてて息を吸った。
 すぐそばに丸太が浮いている。丸太につかまってひと休みしているうちに、口惜しさがこみあげてきて思わず涙を流した。天下の珍宝を手に入れながら、波に脅えて捨ててしまった。この馬鹿さ加減は、なにに譬えようもなかった。
 それからまた微々と泳ぎだしたが、陸に向いて泳いでいるのか、船のほうへ帰っているのか方角もつかず、ただもう藻掻きにもがいているうちに、自然と岸辺に流れつき、疲労困憊の極、砂浜に倒れて気を失ってしまった。
 しばらくして気がつくと、焚火のそばに運ばれて、土人どもに介抱されていた。
 土人の言うところでは、そこは安南のタム・キイという村から三日の行程のところにある無人の海岸の一地点で、狩猟にでも来るほか、ほとんど用のないところだということであった。
 そんなことをしているところへ、船からつぎつぎに泳ぎついて来、二十日の間、苦楽をともにした見張台の上の人間の顔が洩れなく揃った。土人どもは吉之丞の腹巻に触って、分限を見極めているため非常に親切で、一同を猟小屋へ連れて行って水を飲ませ、飯を炊いたり鹿の肉を焙ぶったりし、そのたびに錠銀を一つずつ請求した。
 揺れも動きもしない大地の上で五日ほど休養し、元気を恢復したところで、うち連れてタム・キイという村へ行った。吉之丞とモニカはそこで一同と別れ、日本人町のあるフェイフォに向った。フェイフォには二百五十人の日本人が住みつき、店舗が六十軒もあって、角屋七郎兵衛が差配していた。大谷刑部少輔の遺臣というのが何人か居て、モニカの無事な姿を見、菊丸の不遇な最期の話を聞いて、感動したふうであった。
 町年寄の話では、呂宋助左衛門は慶長二年の秋、手持の船に一家眷族を乗せてツーランに入津し、フェイフォに落着きたい意嚮らしかったが、海賊の嫌疑があるので、大年寄がいい返事をしなかったら、腹を立てて暹羅《シヤム》のアユチャに行き、オロンという高位についているというようなことだった。
 苦労してはるばるやってきたが、ここでも助左衛門にめぐりあうことができなかった。暹羅にいると聞いたうえは、暹羅まで行くしかないがそうだとすれば、破船の中にある千貫目の銀が必要になってくる。角屋七郎兵衛の北の方は安南王族|阮《げん》氏の出で、安南では権勢を持っているということなので、破船の取得を願いあげた。さっそくに許可がおりたので、金箱引揚の事務を監督するため、翌、慶長十八年の春までフェイフォに滞在した。
 五月七日、フェイフォを発ち、二十三日に暹羅のバンコックに着いた。アユチャの日本人町には二千人の日本人が住みついていて、城井久左衛門が差配していた。助左衛門の所在をたずねると、柬埔塞《カンポジヤ》にいるはずだということで、アユチャにその年の冬まで滞在して、翌、慶長十九年の二月十八日、暹羅船でバンコックを発ち、同、二十七日、柬埔塞に行った。ピニャルーの日本人町には五百人の日本人が居付いていて森嘉兵衛が差配していた。
 助左衛門のことをたずねると、つい先月、みまかったということであった。結局のところ、吉之丞はこの世では助左衛門にめぐりあうことができなかったのである。
 墓参の帰り道、ピニャルーの市場をのぞくと、差掛の陶物屋で「蓮華王」と「清香真壺」を見つけた。手品の種明しを見るようなもので、今となっては、たいして興味はなかったが、錠銀二個を投じて壼を二つ買って帰った。
 翌朝のことであった。
 吉之丞が宿をとった旅亭の前の広場で、大勢の人声がするので、窓をあけてみると、何百人とも知れぬ男女が「蓮華王」か「清香真壺」を一つずつ抱え、列をつくって旅亭の木戸が開くのを待っている。ここに集った真壼の数はおびただしいもので、広場に入りきれぬ組が、つづきの横町に蜿蜒とつづいている。この騒ぎのもとはなにかというと鐚銭十文ですむところを、錠銀二個を投じたためであった。
 元和元年、大阪、夏の陣をもって豊臣氏が滅亡したその五月一日、柬埔塞船でカンポチャを発ち、二十日、安南に着いた。元和三年五月までフェイフォに滞在し、同年七月、安南を発って、同、十月九日、七年ぶりで鹿児島に帰着した。
 さっそく御隠居所に上り、真壷の上品二個、惟新公に差上げたが、真壺をおねだりになった家康公は、すでに元和二年におかくれになり、新納拙斎殿も慶長十七年に長逝し、せっかくの苦労も甲斐ないものになった。

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