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江戸川乱歩「D坂の殺人事件」

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amizako

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事実

 それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。わたしは、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけのカフェーで、冷やしコーヒーをすすっていた。当時わたしは、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、あてどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェー回りをやるくらいが、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけであったが、わたしという男は悪い癖で、カフェーにはいると、どうも長っちりになる。それは、元来食欲の少ないほうなので、一つは嚢中《のうちゆう》の乏しいせいもあってだが、洋食一サラ注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もおかわりして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段、ウエイトレスにおぼしめしがあったり、からかったりするわけでもない。まあ、下宿よりなんとなくはでで、いごこちがいいのだろう。わたしはその晩も、例によって、一杯の冷やしコーヒーを十分もかかって飲みながら、いつもの往来に面したテーブルに陣取って、ボンヤリ窓の外をながめていた。

 さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り広げられ、何間道路とかいう大通りになってまもなくだから、まだ大通りの両側に、ところどころあき地などもあって、今よりはずっと寂しかった時分の話だ。大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、わたしは先ほどから、そこの店先をながめていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの景色でもないのだが、わたしにはちょっと特別の興昧があった。というのは、わたしが近ごろこの白梅軒で知り合いになったひとりの妙な男があって、名まえは明智小五郎《あけちこごろう》というのだが、話をしてみるといかにも変わり者で、それで頭がよさそうで、わたしのほれ込んだことには、探偵小説好きなのだが、その男の幼なじみの女が、今ではこの古本屋の女房になっているということを、この前、かれから聞いていたからだった。二、三度本を買って覚えているところによれば、この古本屋の細君というのが、なかなかの美人で、どこがどうというではないが、なんとなく官能的に男をひきつけるようなところがあるのだ。彼女は夜はいつでも店番をしているのだから、今晩もいるに違いないと、店じゅうを、といっても二間半|間口《まぐち》の手狭《てぜま》な店だけれど、捜してみたが、だれもいない。いずれそのうちに出て来るのだろうと、わたしはじっと目で待っていたものだ。

 だが、女房はなかなか出て来ない。で、いいかげんめんどうくさくなって、隣のとけい屋へと目を移そうとしているときであった。わたしはふと、店と奥の間との境にしめてある障子の格子《こうし》戸がピッシャリしまるのを見つけた。ーその障子は、専門家のほうでは無双と称するもので、普通、紙をはるべき中央の部分が、こまかい縦の二重の格子になっていて、それが開閉できるのだーハテ、変なこともあるものだ。古本屋などというものは、万引きされやすい商売だから、たとい店に番をしていなくても、奥に人がいて、障子のすきまなどから、じっと見張っているものなのに、そのすき見の個所をふさいでしまうとはおかしい。寒い時分ならともかく、九月になったばかりのこんな蒸し暑い晩だのに、だいいち、あの障子がしめきってあるのから変だ。そんなふうにいろいろ考えてみると、古本屋の奥の間になにごとかありそうで、わたしは目を移す気になれなかった。

 古本屋の細君といえば、あるとき、このカフェーのウエイトレスたちが、妙なうわさをしているのを聞いたことがある。なんでも、銭湯で出あうおかみさんや娘さんたちのたなおろしの続きらしかったが、

「古本屋のおかみさんは、あんなきれいな人だけれど、はだかになると、からだじゅう傷だらけだ。たたかれたり、つねられたりしたあとに違いないわ。別に夫婦仲が悪くもないようだのに、おかしいわねえ」

 すると、別の女がそれを受けてしゃべるのだ。

「あの並びのそば屋のあさひ屋のおかみさんだって、よく傷をしているわ。あれもどうも、たたかれた傷に違いないわ」

 ……で、このうわさ話が何を意味するか、わたしは深くも気に留めないで、ただ亭主が邪険なのだろうぐらいに考えたことだが、読者諸君、それはなかなかそうではなかったのだ。このちょっとした事柄が、この物語全体に大きな関係を持っていたことが、あとになってわかった。

 それはともかく、そうして三十分ほども同じところを見つめていた。虫が知らすとでもいうのか、なんだかこう、わき見をしているすきに何事か起こりそうで、どうもほかへ目が向けられなかったのだ。そのとき、先ほどちょっと名まえの出た明智小五郎が、いつもの荒い棒じまのゆかたを着て、変に肩を振る歩ぎ方で、窓の外を通りかかった。かれはわたしに気づくと、会釈《えしやく》をして中へはいって来たが、冷やしコーヒーを命じておいて、わたしと同じように窓のほうを向いて、わたしの隣に腰かけた。そして、わたしが一つところを見つめているのに気づくと、かれはそのわたしの視線をたどって、同じく向こうの古本屋をながめた。しかも、不思議なことには、かれもまた、いかにも興味ありげに、少しも目をそらさないで、そのほうを凝視しだしたのである。

 わたしたちは、そうして、申し合わせたように同じ場所をながめながら、いろいろムダ話を取りかわした。そのとぎ、わたしたちの間にどんな話題が話されたか、今ではもう忘れてもいるし、それに、この物語にはあまり関係のないことだから、略するけれど、それが、犯罪や探偵に関したものであったことは確かだ。試みに、見本を一つ取り出してみると、

 「絶対に発見されない犯罪というものは不可能でしょうか。ぼくはずいぶん可能性があると思うのですがね。たとえば、谷崎潤一郎の『途上』ですね。ああした犯罪は、まず発見されることはありませんよ。もっとも、あの小説では、探偵が発見したことになってますけれど、あれは作者のすばらしい想像力が作り出したことですからね」

 と、明智。

 「いや、ぼくはそうは思いませんよ。実際問題としてならともかく、理論的にいって、探偵のでぎない犯罪なんてありませんよ。ただ、現在の警察に『途上』に出て来るような偉い探偵がいないだけですよ」

 と、わたし。

 ざっと、こういったふうなのだ。だが、ある瞬間、ふたりはいい合わせたように、ふと黙り込んでしまった。さっきから、話しながら目をそらさないでいた向こうの古本屋に、あるおもしろい事件が発生していたのだ。

「きみも気づいているようですね」

 と、わたしがささやくと、かれは即座に答えた。

「本どろぼうでしょう。どうも変ですね。ぼくもここへはいって来たときから、見ていたんですよ。これで四人めですね」

「きみが来てからまだ三十分にもなりませんが、三十分に四人も。少しおかしいですね。ぼくはきみの来る前から、あすこを見ていたんですよ。一時間ほど前にね、あの障子があるでしょう。あれの格子のようになったところが、しまるのを見たんですが、それからずっと注意していたのです」

「うちの人が出て行ったのじゃないのですか」

「それが、あの障子は一度もあかないのですよ。出て行ったとすれば裏口からでしょうが、……三十分も人がいないなんて、確かに変ですよ。どうです、行ってみようじゃありませんか」

「そうですね。うちの中には別状ないとしても、外で何かあったのかもしれませんからね」

 わたしは、これが犯罪事件ででもあってくれればおもしろいが、と思いながらカフェーを出た。明智とても、同じ思いに違いなかった。かれも少なからず興奮しているのだ。

 古本屋は、よくある型で、店は全体土間になっていて、正面と左右に天井まで届くような本ダナを取り付け、その腰のところが本を並べるための台になっている。土間の中央には、島のように、これも本を並べたり積み上げたりするための、長方形の台がおいてある。そして、正面の本ダナの右のほうが三尺ばかりあいていて奥のへやとの通路になり、先にいった一枚の障子が立ててある。いつもは、この障子の前の半畳ほどの畳敷きのところに、主人か細君がチョコンとすわって番をしているのだ。

 明智とわたしとは、その畳敷きのところまで行って、大声に呼んでみたけれど、何の返事もない。はたして、だれもいないらしい。わたしは障子を少しあけて、奥の間をのぞいてみると、中は電灯が消えてまっ暗だが、どうやら人間らしいものが、へやのすみに倒れている様子だ。不審に思って、もう一度声をかけたが、返事をしない。

「かまわない、上がってみようじゃありませんか」

 そこで、ふたりはドカドカ奥の間へ上がり込んで行った。明智の手で電灯のスイッチがひねられた。そのとたん、わたしたちは同時に「アッ」と声を立てた。明るくなったへやの片すみには、女の死体が横たわっていたのだ。

「ここの細君ですね」やっとわたしがいった。

「首を絞められているようじゃありませんか」

 明智はそばへ寄って、死がいを調ぺていたが、

「とても蘇生《そせい》の見込みはありませんよ。早く警察へ知らせなきゃ。ぼく公衆電話まで行ってきましょう。ぎみ、番をしててください。近所へはまだ知らせないほうがいいでしょう、手がかりを消してしまってはいけないから」

 かれはこう命令的にいい残して、半丁ばかりのところにある公衆電話へ飛んで行った。

 平常から、犯罪だ探偵だと、議論だけはなかなか一人まえにやってのけるわたしだが、さて実際にぶっつかったのははじめてだ。手のつけようがない。わたしは、ただ、まじまじとへやの様子をながめるほかはなかった。

 へやはひと問きりの六畳で、奥のほうは、右一間《けん》は幅の狭い縁側をへだてて、二坪ばかりの庭と便所があり、庭の向こうは板塀《べい》になっている。ー夏のことで、あけっぱなしだから、すっかり、見通しなのだ。f左半間《げん》は開き戸で、その奥に二畳敷きほどの板の間があり、裏口に接して狭い流し場が見え、そこの腰高障子はしまっている。向かって右側は、四枚のふすまがしまっていて、中は二階への階段と物入れ場になっているらしい。ごくありふれた安長屋の間取りだ。死がいは、左側の壁寄りに、店の問のほうを頭にして倒れている。わたしは、なるべく凶行当時の模様を乱すまいとして、一つは気味もわるかったので、死がいのそばへ近寄らないようにした。でも、狭いへやのことであり、見まいとしても、自然そのほうに目が行くのだ。女は荒い中形模様のゆかたを着て、ほとんどあおむきに倒れている。しかし、着物がひざの上のほうまでまくれて、ももがむき出しになっているくらいで、別に抵抗した様子はない。首のところは、よくはわからぬが、どうやら、絞められたあとが紫色になっているらしい。

 表の大通りには往来が絶えない。声高《こわだか》に話し合って、カラカラとひよりゲタを引きずって行くのや、酒に酔って流行歌をどなって行くのや、しごく天下泰平なことだ。そして、障子ひと重の家の中には、ひとりの女が残殺されて横たわっている。なんという皮肉だ。わたしは妙にセンチメンタルになって、ぼうぜんとたたずんでいた。

「すぐ来るそうですよ」

 明智が息をきって帰ってきた。

「あ、そう」

 わたしはなんだか口をきくのもたいぎになっていた。ふたりは長い間、ひとこともいわないで、顔を見合わせた。

 まもなく、ひとりの制服の警官が、セビロの男と連れだってやって来た。制服のほうは、あとで知ったのだが、K警察署の司法主任で、もうひとりは、その顔つぎや持ち物でもわかるように、同じ署に属する警察医だった。わたしたちは司法主任に、最初からの事情を大略説明した。そして、わたしはこうつけ加えた。

「この明智君がカフェーへはいって来たとき、偶然とけいを見たのですが、ちょうど八時半でしたから、この障子の格子がしまったのは、おそらく八時ごろだったと思います。そのときは、たしか、中にも電灯がついてました。ですから、少なくとも八時ごろには、だれか生きた人間がこのへやにいたことは明らかです」

 司法主任がわたしたちの陳述を聞き取って、手帳に書き留めている間に、警察医は一応死体の検診を済ませていた。かれは、わたしたちのことばのとぎれるのを待って言った。

「絞殺ですね。手でやられたのです。これご覧なさい。この紫色になっているのが、指のあとですよ。それから、この出血しているのは、つめがあたった個所ですよ。おや指のあとが首の右側についているのを見ると、右手でやったものですね。そうですね、おそらく死後一時間以上はたっていないでしょう。しかし、むろん蘇生《そせい》の見込みはありません」

「上から押えつけられたのですね」司法主任が考え考えいった。

「しかし、それにしては、抵抗した様子がないが……おそらく非常に急激にやったのでしょうね。ひどいカで」

 それから、かれはわたしたちのほうを向いて、この家の主人はどうしたのだ、と尋ねた。だが、むろん、わたしたちが知っているはずはない。そこで、明智は気をぎかして、隣家のとけい屋の主人を呼んできた。

 司法主任ととけい屋の問答は、だいたい次のようなものだった。

「主人はどこへ行っているのかね」

「ここの主人は、毎晩古本の夜店を出しに参りますんで、いつも十二時ごろでなぎゃ帰ってまいりません」

「どこへ夜店を出すんだね」

「よく上野《うえの》の広小路《ひろこうじ》へ参りますようですが、今晩はどこへ出しましたか、どうもてまえにはわかりかねますんで」

「一時間ばかり前に、何か物音を聞かなかったかね」

「物音と申しますと」

「きまっているじゃないか。この女が殺されるときの叫び声とか、格闘の音とか・……
「別段これという物音を聞ぎませんようでございましたが」

 そうこうするうちに、近所の人たちが聞ぎ伝えて集まってきたのと、通りがかりのやじうまで、古本屋の表はいっぱいの人だかりになった。その中に、もう一方の隣家のタビ屋のおかみさんがいて、とけい屋に応援した。そして、彼女も、何も物音を聞かなかった、と陳述した。

 このあいだに、近所の人たちは、協議のうえ、古本屋の主人のところへ使いを走らせた様子だった。

 そこへ、表に自動車の止まる音がして、数人の人がドヤドヤとはいって来た。それは警察からの急報で駆けつけた裁判所の連中と、偶然同時に到着したK警察署長、および当時名探偵といううわさの高かった小林刑事などの一行だ。

 むろん、これは、あとになってわかったことだ。というのは、わたしの友だちにひとりの司法記者があって、それがこの事件の係りの小林刑事とごく懇意だったので、わたしは後日かれからいろいろと聞くことができたのだ。──着の司法主任は、この人たちの前で、今までの模様を説明した。わたしたちも先の陳述をもう一度繰り返さねばならなかった。

「表の戸をしめましょう」

突然、黒いアルパカの上着に白ズボンという、回りの会社員みたいな男が大声でどなって、さっさと戸をしめだした。これが小林刑事だった。かれはこうしてやじうまを撃退しておいて、さて探偵にとり一かかった。かれのやり方はいかにも傍若無人で、検事や署長などはまるで眼中にない様子だった。かれは、はじめから終わりまでひとりで活動した。ほかの人たちは、ただかれのびんしょうな行動を傍観するためにやって来た見物人にすぎないように見えた。かれは第一に死体をしらべた。首のまわりは、ことに念入りにいじり回していたが、

「この指のあとには、別に特徴がありません。つまり、普通の人間が、右手で押えつけたという以外に、何の手がかりもありません」

 と、検事のほうを見ていった。次にかれは、一度死体をはだかにしてみる、といいだした。そこで、議会の秘密会みたいに、傍観者のわたしたちは、店の間へ追い出されねばならなかった。だから、その間にどういう発見があったか、よくわからないが、察するところ、かれらは死人のからだにたくさんの生傷《なまぎず》のあることを注意したに相違ない。カフェーのウエイトレスのうわさしていたあれだ。

 やがて、この秘密会は解かれたけれど、わたしたちは奥の間へはいって行くのを遠慮して、例の店の間と奥との境の畳敷きのところから、奥のほうをのぞきこんでいた。さいわいなことには、わたしたちは事件の発見者だったし、それに、あとから明智の指紋をとらねばならぬことになったために、最後まで追い出されずに済んだ。というよりは、抑留されていた、というほうが正しいかもしれぬ。しかし、小林刑事の活動は奥の間だけに限られていたわけではなく、屋内屋外の広い範囲にわたっていたのだから、一つところにじっとしていたわたしたちに、その捜査の模様がわかろうはずがないのだが、うまいぐあいに、検事が奥の間に陣取っていて、しじゅうほとんど動かなかったので、刑事が出たりはいったりすることに、いちいち捜査の結果を報告するのを、もれなく聞きとることができた。検事はその報告にもとついて、調書の材料を書記に書ぎとめさせていた。

 まず、死体のあった奥の間の捜索が行なわれたが、遺留品も、足跡も、その他探偵の目に触れる何物もなかった様子だ、ただ一つのものを除いては。

「電灯のスイッチに指紋があります」黒いエボナイトのスイッチに何か白い粉をふりかけていた刑事がいった。

「前後の事情から考えて、電灯を消したのは犯人に相違ありません。しかし、これをつけたのは、あなたがたのうちどちらですか」

 明智は、自分だと答えた。

「そうですか。あとであなたの指紋をとらせてください。この電灯はさわらないようにして、このまま取りはずして持って行きましょう」

 それから、刑事は二階へ上がって行って、しばらく降りて来なかったが、降りて来るとすぐに裏口の路地を調べるのだといって、出て行ってしまった。それが十分もかかったろうか。やがて、かれはまだついたままの懐中電灯を片手に、ひとりの男を連れて帰って来た。それは、よごれたクレープ・シャツにカーキ色のズボンという服装で、四十ばかりのきたない男だ。

 「足跡はまるでだめです」刑事が報告した。

「この裏口のへんは、日当たりがわるいせいか、ひどいぬかるみで、ゲタの跡がめったむしょうについているんだから、とてもわかりっこありません。ところで、この男ですが」と、今連れて来た男を指さし、

「これは、この裏の路地を出たところのかどに店を出していたアイスクリーム屋ですが、もし犯人が裏口から逃げたとすれば、路地は一方口なんですから、かならずこの男の目についたはずです。きみ、もう一度わたしの尋ねることに答えてごらん」

 そこで、アイスクリーム屋と刑事の一問一答。

「今晩八時前後に、この路地を出はいりしたものはないかね」

「ひとりもありません。日が暮れてからこっち、ネコの子一匹通りません」アイスクリーム屋はなかなか要領よく答える。

「わたしは長らくここへ店を出させてもらってますが、あすごは、ここのおかみさんたちも、夜分はめったに通りませんので。なにぶん、あの足場のわるいところへもってぎて、まっ暗なんですから」

「きみの店のお客で、路地の中へはいったものはないかね」

「それもございません。皆さんわたしの目の前でアイスクリームを食べて、すぐもとのほうへお帰りになりました。それはもうまちがいはありません」

 さて、もしこのアイスクリーム屋の証言が信用すべきものだとすると、犯人はたといこの家の裏口から逃げたとしても、その裏口からの唯一の通路である路地は出なかったことになる。さればといって、表のほうから出なかったことも、わたしたちが白梅軒から見ていたのだから、まちがいはない。では、かれはいったい、どうしたのであろう。小林刑事の考えによれば、これは、犯人がこの路地を取りまいている裏表二側の長屋のどこかの家に潜伏しているか、それとも借家人のうちに犯人があるのか、どちらかであろう。もっとも、二階から屋根伝いに逃げる道はあるけれど、二階をしらべたところによると、表のほうの窓は取りつけの格子がはまっていて少しも動かした様子はないのだし、裏のほうの窓だって、この暑さで、どこの家も二階はあけっぱなしで、中には物干しで涼んでいる人もあるくらいだから、ここから逃げるのはちょっとむずかしいように思われる、というのだ。

 そこで臨検者たちの間に、ちょっと捜索方針についての協議が開かれたが、けっきょく、手分けをして近所を軒並みにしらべてみることになった。といっても、裏表の長屋を合わせて十一軒しかないのだから、たいしてめんどうではない。それと同時に、家の中も再度、縁の下から天井裏まで、残るくまなくしらべられた。ところが、その結果は、何の得るところもなかったばかりでなく、かえって事情を困難にしてしまったように見えた。というのは、古本屋の一軒おいて隣の菓子屋の主人が、日暮れ時分からつい今しがたまで、屋上の物干しへ出て尺八を吹いていたことがわかったが、かれははじめからしまいまで、ちょうど古本屋の二階の窓のできごとを見のがすはずのないような位置にすわっていたのだ。

 読者諸君、事件はなかなかおもしろくなってきた。犯人は、どこからはいって、どこから逃げたのか、裏口からでもない、二階の窓からでもない、そして表からではもちろんない。かれは最初から存在しなかったのか、それとも煙のように消えてしまったのか。不思議はそればかりではない。小林刑事が、検事の前に連れてきたふたりの学生が、実に妙なことを申し立てたのだ。それは近所に間借りしているある工業学校の生徒たちで、ふたりともでたらめをいうような男とも見えぬが、それにもかかわらず、かれらの陳述は、この事件をますます不可解にするような性質のものだったのである。

 検事の質問に対して、かれらはだいたい左のように答えた。

「ぼくは、ちょうど八時ごろに、この古本屋の前に立って、そこの台にある雑誌を開いて見ていたのです。すると、奥のほうで、なんだか物音がしたもんですから、ふと目を上げてこの障子のほうを見ますと、障子はしまっていましたけれど、この格子のようになったところが開いていましたので、そのすきまに、ひとりの男の立っているのが見えました。しかし、わたしが目を上げるのと、その男がこの格子をしめるのと、ほとんど同時でしたから、くわしいことはむろんわかりませんが、でも、帯のぐあいで、男だったことは確かです」

「で、男だったというほかに、何か気づいた点はありませんか。背格好とか、着物の柄とか」

「見えたのは腰から下ですから背格好はちょっとわかりませんが、着物は黒いものでした。ひょっとしたら、細いしまかカスリであったかもしれませんけれど、わたしの目には黒く見えました」

「ぼくもこの友だちといっしょに本を見ていたんです」と、もう一方の学生。

「そして、同じように物音に気づいて、同じように格子のしまるのを見ました。ですが、その男は確かに白い着物を着ていました。しまも模様もない、白っぽい着物です」

「それは変ではありませんか。きみたちのうち、どちらかが、まちがいでなけりゃ」

「決してまちがいではありません」

「ぼくもうそはいいません」

 このふたりの学生の不思議な陳述は何を意味するか、敏感な読者は、おそらく、あることに気づかれたであろう。実は、わたしもそれに気づいたのだ。しかし、裁判所や警察の人たちは、この点について、あまり深くは考えない様子だった。

 まもなく、死人の夫の古本屋が、知らせを聞いて帰ってきた。かれは古本屋らしくない、ぎゃしゃな、若い男だったが、細君の死がいを見ると、気の弱い性質とみえて、声こそ出さないけれど、涙をポロポロこぼしていた。小林刑事はかれが落ち着くのを待って、質問を始めた。検事も口を添えた。だが、かれらの失望したことには、主人は、全然犯人の心当たりがない、というのだ。かれは、

「これにかぎって、ひとさまに恨みを受けるようなものではございません」

 といって泣くのだ。それに、かれがいろいろ調べた結果、物とりのしわざでないことも確かめられた。そこで、主人の経歴、細君の身元、その他のさまざまの取り調べがあったけれど、それらは別段疑うべき点もなく、この話の筋にたいして関係もないので、略することにする。最後に、死人のからだにある多くの生傷《なまきず》について、刑事の質問があった。主人は非常にちゅうちょしていたが、やっと、自分がつけたのだ、と答えた。ところが、その理由については、くどく尋ねられたにもかかわらず、あまり明白な答えは与えなかった。しかし、かれはその夜ずっと夜店を出していたことがわかっているのだから、たといそれが虐待の傷あとだったとしても、殺害の疑いはかからぬはずだ。刑事もそう思ったのか、深くはせんさくしなかった。

 そうして、その夜の取り調べはひとまず終わった。わたしたちは住所氏名などを書き留められ、明智は指紋をとられて、帰途についたのは、もう一時を過ぎていた。

 もし警察の捜索に手ぬかりなく、また証人たちもうそをいわなかったとすれば、これは実に不可解な事件であった。しかも、あとでわかったところによると、翌日から引き続いて行なわれた小林刑事のあらゆる取り調べも何のかいもなくて、事件は発生の当夜のまま、少しだって発展しなかったのだ。証人たちはすべて信頼するに足る人々だった。十一軒の長屋の住人にも、疑うべぎところはなかった。被害者の国元も取り調べられたけれど、これまた何の変わったこともない。少なくとも、小林刑事-かれは先にもいったとおり、名探偵とうわさされている人だーが、全力をつくして捜索したかぎりでは、この事件は全然不可解と結論するほかはなかった。これもあとで聞いたのだが、小林刑事が唯一の証拠品として、頼みをかけて持ち帰った例の電灯のスイッチにも、明智の指紋のほか何物も発見することができなかった。明智はあの際であわてていたせいか、そこにはたくさんの指紋がしるされていたが、すべてかれ自身のものだった。おそらく、明智の指紋が犯人のそれを消してしまったのだろうと、刑事は判断した。

 読者諸君、諸君はこの話を読んで、ボーの『モルグ街の殺人』やドイルの『スペックルド・バンド』を連想されはしないだろうか。つまり、この殺人事件の犯人が、人間ではなくて、オランウータンだとか、インドの毒ヘビだとかいうような種類のものだと想像されはしないだろうか。わたしも実は、それを考えたのだ。しかし、東京のD坂あたりに、そんなものがいるとも思われぬし、だいい,ち、障子のすきまから、男の姿を見たという証人があるのみならず、猿類《えんるい》などだったら、足跡の残らぬはずはなく、また人目についたわけだ。そして、死人の首にあった指のあとも、まさに人間のそれだ。ヘビがまきついたとて、あんなあとは残らぬ。


 それはともかく、明智とわたしとは、その夜帰途につきながら、非常に興奮して、いろいろと話し合ったものだ。一例をあげると、まあ、こんなふうなことを。

「きみは、ボーの『ル・モルグ』や、ルルーの『黄色のへや』などの材料になった、あのパリの菊。Rose Delacourt事件を知っているでしょう。百年以上たった今日でも、まだなぞとして残っているあの不思議な殺人事件を。ぼくはあれを思い出したのですよ。今夜の事件も、犯人の立ち去った跡のないところは、どうやら、あれに似ているではありませんか」

 と、明智。

「そうですね。実に不思議ですね。よく、日本の建築では、外国の探偵小説にあるような深刻な犯罪は起こらないなんていいますが、ぼくは決してそうじゃないと思いますよ。現に、こうした事件もあるのですからね。ぼくはなんだか、でぎるかできないかわかりませんけど、ひとつこの事件を探偵してみたいような気がしますよ」

 と、わたし。

 そうして、わたしたちはある…横町で別れを告げた。そのときわたしは、横町を曲がってかれ一流の肩を振る歩き方で、さっさと帰って行く明智のうしろ姿が、そのはでな棒じまのゆかたによって、やみの申にくっきりと浮ぎ出して見えたのを覚えている。


   推理


 さて、殺人事件から十日ほどたったある日、わたしは明智小五郎の宿をたずねた。その十日の問に、明智とわたしとが、この事件に関して、何をなし、何を考え、そして何を結論したか。読者は、それらを、この日、かれとわたしとの間に取りかわされた会話によって、じゅうぶん察することができるであろう。

 それまで、明智とはカフェーで顔を合わしていたばかりで、宿をたずねるのは、そのときがはじめてだったけれど、かねて所を聞いていたので、捜すのにほねはおれなかった。わたしは、それらしいタバコ屋の店先に立って、おかみさんに明智がいるかどうかを尋ねた。

「ええ、いらっしゃいます。ちょっとお待ちください、今お呼びしますから」

 彼女はそういって、店先から見えている階段の上がり口まで行って、大声に明智を呼んだ。かれはこの家の二階を間借りしていたのだ。すると、

「オー」

 と、変な返事をして、明智はミシミシと階段を降りてぎたが、わたしを発見すると、驚いた顔をして、

「ヤー、お上がりなさい」

 といった。わたしはかれのあとに従って二階へ上がった。ところが、なにげなく、かれのへやへ一歩足を踏み込んだとぎ、わたしはアッとたまげてしまった。へやの様子が、あまりにも異様だったからだ。明智が変わり者だということは知らぬではなかったけれど、これはまた、変わりすぎていた。

 何のことはない、四畳半の座敷が書物でうずまっているのだ'。まん中のところに少し畳が見えるだけで、あとは本の山だ。四方の壁やふすまにそって、ドのほうはほとんどへやいっぱいに、上のほうほど幅が狭くなって天井の近くまで、四方から書物の土手がせまっているのだ。ほかの道具などは何もない。いったい、かれはこのへやでどうして寝るのだろう、と疑われるほどだ。だいいち、客とふたりのすわるところもない。うっかり身動きしようものなら、たちまち本の土手ぐずれで、おしつぶされてしまうかもしれない。

「どうも狭くっていけませんが、それに、座ぶとんがないのです。すみませんが、やわらかそうな本の上へでもすわってください」

 わたしは書物の山にわけ入って、やっとすわる場所を見つけたが、あまりのことに、しばらく、ぼんやりとそのへんを見回していた。

 わたしは、かくも風変わりなへやの主である明智小五郎の人物について、ここで一応説明しておかねばなるまい。しかし、かれとは昨今のつぎあいだから、かれがどういう経歴の男で、何によって衣食し、何を目的にこの人生を送っ.ているのか、というようなことは、いっさいわからぬけれど、かれがこれという職業を持たぬ一鍾の遊民であることは確かだ。しいていえば、学究であろうか。だが、学究にしても、よほど風変わりな学究だ。いつかかれが、

「ぼくは人間を研究しているんですよ」

 といったことがあるが、そのとき、わたしには、それが何を意味するのかよくわからなかった。ただ、わかっているのは、かれが犯罪や探偵について、なみなみならぬ興味と、おそるぺく豊富な知識を持っていることだ。

 年はわたしと同じくらいで、二十五歳を越してはいまい。どちらかといえばやせたほうで、先にもいったとおり、歩くときに変に肩を振る癖がある。といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引ぎ合いに出すが、あの片腕の不自由な講釈師の神田伯竜《かんだはくりゆう》を思い出させるような歩き方なのだ。伯竜といえば、明智は顔つぎから声音《こわね》まで、かれにそっくりだ──伯竜を見たことのない読者は、諸君の知っているところの、いわゆる好男子ではないが、どことなくあいぎょうのある、そして、もっとも天才的な顔を想像するがよいーただ、明智のほうは、髪の毛がもっと長く延ぴていて、モジャモジャともつれ合っている。そして、かれは人と話している問にも、指で、そのモジャモジャになっている髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように、ひっかき回すのが癖だ。服装などはいっこうかまわぬほうらしく、いつももめんの着物に、よれよれのヘコ帯を締めている。

「よくたずねてくれましたね。その後しばらく会いませんが、例のD坂の事件はどうです。警察のほうでは、まだ犯人の見込みがつかぬようではありませんか」

 明智は例の、頭をかき回しながら、ジロジロわたしの顔をながめる。

「実は、ぼく、ぎょうはそのことで少し話があって来たんですがね」そこでわたしは、どういうふうに切り出したものかと迷いながら始めた。

「ぼくはあれから、いろいろ考えてみたんですよ。考えたばかりでなく、探偵のように実地の取り調べもやったのですよ。そして、実は一つの結論に達したのです。それをぎみにご報告しようと思って……」

「ホウ。そいつはすてきですね。くわしく聞きたいものですね」

 わたしは、そういうかれの目つきに、何がわかるものかというような、けいべつと安心の色が浮かんでいるのを見のがさなかった。そして、それがわたしの逡巡《しゆんじゆん》している心を激励した。わたしは勢いこんで話し始めた。

 「ぼくの友だちにひとりの新聞記者がありましてね、それが、例の事件の係りの小林刑事というのと懇意なのです。で、ぼくはその新聞記者を通じて、警察の模様をくわしく知ることができましたが、警察ではどうも捜査方針が立たないらしいのです。むろん、いろいろやってはいるのですが、これはという見込みがつかぬのです。あの例の電灯のスイッチですね。あれもダメなんです。あそこには、ぎみの指紋だけしかついていないことがわかったのです。警察の考えでは、たぶん、きみの指絃が犯人の指紋を隠してしまったのだろう、というのですよ。そういうわけで、警察が困っていることを知ったものですから、ぼくはいっそう熱心に調べてみる気になりました。そこで、ぼくが到達した結論というのは、どんなものだと思います。そして、それを警察へ訴える前に、きみのところへ話しに来たのは、何のためだと思います。

「それはともかく、ぼくはあの事件のあった日から、あることを気づいていたのですよ。きみは覚えているでしょう。ふたりの学生が、犯人らしい男の着物の色については、まるで違った申し立てをしたことをね。ひとりは黒だといい、ひとりは白だというのです。いくら人間の目が不確かだといって、正反対の黒と白とをまちがえるのは変じゃないですか。警察ではあれをどんなふうに解釈したか知りませんが、ぼくは、ふたりの陳述は両方ともまちがいでない、と思うのですよ。きみ、わかりますか。あれはね、犯人が白と黒とのだんだらの着物を着ていたんですよ……。つまり、太い黒の棒じまのゆかたかなんかですね。よく宿屋の貸しゆかたにあるような……では、なぜそれがひとりにまっ白に見え、もうひとりにはまっ黒に見えたかといいますと、かれらは障子の格子のすきまから見たのですから、ちょうどその瞬間、ひとりの目が格子のすぎまと着物の白地の部分と一致して見える位置にあり、もうひとりの目が黒地の部分と一致して見える位置にあったんです。これは珍しい偶然かもしれませんが、決して不可能ではないのです。そして、この場合、こう考えるよりほかに方法がないのです。

 さて、犯人の着物のしまがらはわかりましたが、これでは単に捜査範囲が縮少されたというまでで、まだ確定のものではありません。第二の論拠は、あの電灯のスイッチの指紋なんです。ぼくはさっき話した新聞記者の友だちのつてで、小林刑事に頼んで、その指紋をーぎみの指紋ですよーよくしらべさせてもらったのです。その結果、いよいよぼくの考えていることがまちがっていないのを確かめました。ところで、きみ、すずりがあったら、ちょっと貸してくれませんか」

 そこで、わたしは一つの実験をやって見せた。まず、すずりを借りると、わたしは右手のおや指に薄く墨をつけて、ふところから取り出した半紙の上に一つ、の指紋をおした。それから、その指紋のかわくのを待って、もう一度同じ指に墨をつけ、前の指紋の上から、今度は指の方向をかえて念入りにおさえつけた。すると、そこには互いに交錯した二重の指紋がハッキリあらわれた。

「警察では、きみの指紋が犯人の指紋の上に重なってそれを消してしまったのだ、と解釈しているのですが、しかしそれは、今の実験でもわかるとおり、不可能なんですよ。いくら強く押したところで、指紋というものが線でできている以上、線と線との間に、前の指絃の跡が残るはずです。もし、前後の指紋がまったく同じもので、おし方まで寸分違わなかったとすれば、指紋の各線が一致しますから、あるいはあとの指紋が先の指紋を隠してしまうこともできるでしょうが、そういうことはまずありえませんし、たといそうだとしても、この場合、結論は変わらないのです。

「しかし、あの電灯を消したのが犯人だとすれば、スイッチにその指絃が残っていなければなりません。ぼくは、もしや警察では、きみの指紋の線と線との問に残っている先の指紋を見おとしているのではないかと思って、自分で調べてみたのですが、少しもそんな痕跡《こんせき》がないのでず。つまり、あのスイッチには、あとにも先にも、きみの指紋がおされているだけなのです。ーーどうして古本屋の人たちの指紋が残っていなかったのか、それはよくわかりませんが、たぶん、あのへやの電灯はつけっぱなしで、一度も消したことがないのでしょう。

「きみ、以上の事柄は、いったい何を語っているでしまう。ぼくは、こういうふうに考えるのですよ。ひとりの荒い棒じまの着物を着た男が──その男はたぶん死んだ女の幼なじみで、失恋という理由なんかも考えられますね──古本屋の主人が夜店を出すことを知っていて、その留守の間に女を襲ったのです。声をたてたり抵抗したりした形跡がないのですから、女はその男をよく知っていたに相違ありません。で、まんまと目的をはたした男は、死がいの発見をおくらすために、電灯を消して立ち去ったのです。しかし、この男の一期《いちご》の不覚は、障子の格子のあいているのを知らなかったこと、そして、驚いてそれをしめたときに、偶然店先にいたふたりの学生に姿を見られたことでした。それから、男はいったん外へ出ましたが、ふと気がついたのは、電灯を消したとき、スイッチに指絃が残ったに相違ないということです。これはどうしても消してしまわねばなりません。しかし、もう一度同じ方法でへやの中へ忍び込むのは危険です。そこで、男は一つの妙案を思いつぎました。それは、みずから殺人事件の発見者になることです。そうすれば、少しの不自然もなく、自分の手で電灯をつけて、以前の指紋に対する疑いをなくしてしまうことができるばかりでなく、まさか、発見者が犯人だろうとはだれしも考えませんからね。二重の利益があるのです。こうして、かれはなにくわぬ顔で、警察のやり方を見ていたのです。大胆にも、証言さえしました。しかも、その結果は、かれの思うつぼだったのですよ。五日たっても十日たっても、だれもかれをとらえに来るものはなかったのですからね」

 このわたしの話を、明智小五郎はどんな表惰で聞いていたか。わたしは、おそらく、話の中途で、何か変わった表情をするか、ことばをはさむだろう、と予期していた。ところが、驚いたことには、かれの顔には何の表情もあらわれぬのだ。いったい、平素から心を色にあらわさぬたちではあったけれど、あまり平気すぎる。かれはしじゅう、例の髪の毛をモジャモジャやりながら、黙り込んでいるのだ。わたしは、どこまでずうずうしい男だろうと思いながら、最後の点に話を進めた。

「きみはきっと、それじゃ、その犯人はどこからはいって、どこから逃げたかと反問するでしょう。確かにそれが明らかにならなければ、ほかのすべてのことがわかっても何のかいもないのですからね。だが、遺憾ながら、それもぼくが探り出したのですよ。あの晩の捜査の結果では、全然犯人の出て行った形跡がないように見えました。しかし、殺人があった以上、犯人が出入りしなかったはずはないのですから、刑事の捜索にどこか抜け目があったと考えるほかはありません。警察でもそれにはずいぶん苦心した様子ですが、不幸にして、かれらは、ほくというひとりの青年の推理に及ばなかったのですよ。

「なあに、実はくだらぬことですが、ぼくはこう思ったのです。これほど警察が取り調べているのだから、近所の人たちに疑うべき点はまずあるまい。もしそうだとすれば、犯人は何か、人の目にふれても、それが犯人だとは気づかれぬような方法で逃げたのじゃないだろうか。そして、それを目撃した人はあっても、まるで問題にしなかったのではなかろうか、とね。つまり、人間の注意力の盲点1われわれの目に盲点があると同じように、注意力にもそれがありますよ──を利用して、手品《てじな》使いが見物の目の前で、大ぎな品物をわけもなく隠すように、自分自身を隠したのかもしれませんからね。そこで、ぼくが目をつけたのは、あの古本屋の一軒おいて隣のあさひ屋というそば屋です」

 古本屋の右へとけい屋、菓子屋と並び、左ヘタビ屋、そば屋と並んでいるのだ。

「ぼくはあすこへ行って、事件の当夜八時ごろに、便所を借りに行った男はないかと聞いてみたのです。あのあさひ屋は、きみも知っているでしょうが、店から土間続きで、裏木戸まで行けるようになっていて、その裏木戸のすぐそばに便所があるのですから、便所を借りるように見せかけて、裏口から出て行って、またはいって来るのはわけはありませんからね。ー例のアイスクリーム屋は、路地を出たかどに店を出していたのですから、見つかるはずはありませんーそれに、相手がそば屋ですから、便所を借りるということがきわめて自然なんです。聞けば、あの晩はおかみさんは不在で、主人だけが店の間にいたのだそうですから、おあつらえ向きなんです。きみ、なんとすてきな思いつきではありませんか。

「そして、案の定、ちょうどその時分に便所を借りた客があったのです。ただ、残念なことには、あさひ屋の主人は、その男の顔とか着物のしま柄なぞを少しも覚えていないのですがね.1!ぽくはさっそく、このことを例の友だちを通じて、小林刑事に知らせてやりましたよ。刑事は自分でもそば屋を調べたようでしたが、それ以上何もわからなかったのです──」

 わたしは少しことばを切って、明智に発言の余裕を与えた。かれの立場は、この際なんとかひと言いわないではいられぬはずだ。ところが、かれは相変わらず頭をかき回しながら、すましこんでいるのだ。わたしはこれまで、敬意を表する意味で間接法を用いていたのを、直接法に改めねばならなかった。

「きみ、明智君、ぼくのいう意味がわかるでしょう。動かぬ証拠が、ぎみを指さしているのですよ。白状すると、ぼくはまだ心の底では、どうしてもきみを疑う気にはなれないのですが、こういうふうに証拠がそろっていては、どうもしかたがありません。……ぼくは、もしやあの長屋のうちに、太い棒じまのゆかたを持っている人がないかと思って、ずいぶんほねおって調ぺてみましたが、戯ひとりもありません。それももっともですよ。同じ棒じまのゆかたでも、あの格子に一致するようなはでなのを着る人は珍しいのですからね。それに、指紋のトリックにしても、便所を借りるというトリックにしても、実に巧妙で、きみのような犯罪学者ででもなければ、ちょっとまねのできない芸当ですよ。それから、だいいちおかしいのは、ぎみはあの死人の細君と幼なじみだといっていながら、あの晩、細君の身元調べなんかあったときに、そばで聞いていて、少しもそれを申し立てなかったではありませんか。

「さて、そうなると、唯一の頼みはアリバイの有無です。ところが、それもダメなんです。ぎみは覚えてますか。あの晩帰りみちで、白梅軒へ来るまでぎみがどこにいたかということを、ぼくが聞ぎましたね。ぎみは、一時間ほど、そのへんを散歩していた、と答えたでしょう。たといきみの散歩姿を見た人があったとしても、散歩の途中で、そば屋の便所を借りるなどは、ありがちのことですからね。明智君、ぼくのいうことが、まちがっていますか。どうです、もしできるなら、ぎみの弁明を聞こうじゃありませんか」

 読者諸君、わたしがこういって詰めよったとき、奇人明智小五郎は何をしたと思います。めんぼくなさに、うつぶしてしまったとでも思うのですか。どうしてどうして、かれはまるで意表外のやり方で、わたしの荒胆《あらぎも》をひしいだのです。というのは、かれはいきなりゲラゲラ笑いだしたのです。

「いや、失敬失敬、決して笑うつもりではなかったのですが、きみがあまりまじめだもんだから」明智は弁解するようにいった。

「きみの考えは、なかなかおもしろいですよ。ぼくはきみのような友だちを見つけたことをうれしく思いますよ。しかし、惜しいことには、ぎみの推理はあまりに外面的で、そして、物質的ですよ。たとえばですね、ぼくとあの女との関係についても、きみはぼくたちがどんなふうな幼なじみだったかということを、内面的に心理的に調べてみましたか。ぼくが以前あの女と恋愛関係があったかどうか。また、現に彼女を恨んでいるかどうか。きみにはそれくらいのことが推察できなかったのですか。あの晩、なぜ彼女を知っていることをいわなかったか、そのわけは簡単ですよ。ぼくは何も参考になるような事柄を知らなかったのです。ぼくはまだ小学校へもはいらぬ時分に、彼女と別れたぎりなのですからね」

「では、たとえば指紋のことは、どういうふうに考えたらいいのですか?」

「ぎみは、ぼくがあれから何もしないでいたと思うのですか。ぼくもこれで、なかなかやったのですよ。D坂は毎日のようにうろついていましたよ。ことに、古本屋へはよく行きました。そして、主人をつかまえて、いろいろ探ったのです。  細君を知っていたことは、そのとき打ち明けたのですが、それがかえって便宜になりましたよー!ぎみが新聞記者を通じて警察の模様を知ったように、ぼくはあの古本屋の主人から、それを聞ぎ出していたんです。今の指紋のことも、じきわかりましたから、ぼくも妙だと思って調べてみたのですが、ハハハハ、笑い話ですよ。電球の線が切れていたのです。だれも消しやしなかったのですよ。ぼくがスイッチをひねったために灯がついたと思ったのはまちがいで、あのとき、あわてて電灯を動かしたので、 一度切れたタングステンがつながったのですよ。スイッチにぼくの指紋しかなかったのは、あたりまえなのです。あの晩、きみは、障子のすぎまから電灯のついているのを見た、といいましたね。とすれば、電球の切れたのは、、その後ですよ。古い電球は、どうもしないでも、ひとりでに切れることがありますからね。それから、犯人の着物の色のことですが、これはぼくが説明するよりも……」 

 かれはそういって、かれの身辺の書物の山を、あちらこちら発掘していたが、やがて、一冊の古ぼけた洋書を掘りだしてきた。

「きみ、これを読んだことがありますか。ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本ですが、この『錯覚』という章の冒頭を十行ばかり読んでごらんなさい」

 わたしは、かれの自信ありげな議論を聞いているうちに、だんだんわたし自身の失敗を意識し始めていた。で、いわれるままにその書物を受け取って、読んでみた。そこにはだいたい次のようなことが書いてあった。

かつて一つの自動車犯罪事件があった。法庁において、真実を申し立てるむね宣誓した証人のひとりは、問題の道路は全然乾燥してほこり立っていたと主張し、今ひとりの証人は、雨降りあげくで、道路はぬかるんでいたと証言した。ひとヶは、問題の自動車は徐行していたといい、他のひとりは、あのように早く走っている自動車を見たことがないと述べた。また、前者は、その村道には人が二、三人しかいなかったといい、後者は、男や女や子どもの通行人がたくさんあったと陳述した。この両人の証人は、共に尊敬すべき紳士で、事実を曲弁したとて、何の利益があるはずもない人々だった。

 わたしがそれを読み終わるのを待って、明智はさらに本のページをくりながらいった。

「これは実際あったことですが、今度は、この『証人の記憶』という章があるでしょう。その中ほどのところに、あらかじめ計画して実験した話があるのですよ。ちょうど着物の色のことが出てますから、めんどうでしょうが、まあ、ちょっと読んでごらんなさい」

 それは左のような記事であった。

(前略)一例をあげるならば、一昨年(この書物の出版は一九一一年)ゲッティンゲンにおいて、法律家、心理学者および物理学者よりなる、ある学術上の集会が催されたことがある。したがって、そこに集まったのはみな綿密な観察に熟練した人たちばかりであった。その町には、あたかもカーニバルのお祭り騒ぎが演じられていたが、突然、この学究的な会合のさいちゅうに、戸が開かれて、けばけばしい衣装をつけたひとりの道化が、狂気のように飛び込んで来た。見ると、そのうしろから、ひとりの黒人が手にピストルを持って追っかけてくるのだ。ホールのまん中で、かれらはかたみがわりに、おそろしいことばをどなり合ったが、やがて、道化のほうがバッタリ床の上に倒れると、黒人はその上におどりかかった。そして、ポンとピストルの音がした。と、たちまち、かれらはふたりとも、かき消すように室を出て行ってしまった。全体のできごとが二十秒とはかからなかった。人々はむろん非常に驚かされた。座長のほかには、だれひとり、それらのことばや動作が、あらかじめ予習されていたこと、その光景が写真にとられたことなどを悟ったものはなかった。で、座長が、これはいずれ法廷に持ち出される問題だからというので、会員各自に正確な記録を書くことを頼んだのは、ごく自然に見えた。(中略、この間に、かれらの記録がいかにまちがいにみちていたかを、パーセンテージを示してしるしてある)黒人が頭に何もかぶっていなかったことをいいあてたのは、四十人のうちでたった四人きりで、ほかの人たちは、中折れ帽子をかぶっていたと書いたものもあれば、シルクハットだったと書くものもあるというありさまだった。着物についても、ある者は赤だといい、あるものは茶色だといい、あるものはしまだといい、あるものはコーヒー色だといい、その他さまざまの色合いがかれのために発明せられた。ところが、黒人は実際は、白ズボンに黒の上着を着て、大きな赤のネクタイを結んでいたのである。(後略)

「ミュンスターベルビが賢くも説破したとおり」と、明智は始めた。

「人間の観察や、人間の記憶なんて、・実にたよりないものですよ。この例にあるような学者たちでさえ、服の色の見分けがつかなかったのです。わたしが、あの晩の学生たちは、着物の色を思い違えた、と考えるのが無理でしょうか。かれらは何物かを見たかもしれません。しかし、その者は棒じまの着物なんか着ていなかったのです。むろん、ぼくではなかったのです。格子のすぎまから棒じまのゆかたを思いついたぎみの着眼は、なかなかおもしろいにはおもしろいですが、あまりおあつらえ向きすぎるじゃありませんか。すくなくとも、そんな偶然の符合を信ずるよりは、きみは、ぼくの潔白を信じてくれるわけにはいかぬでしょうか。さて、最後に、そば屋の便所を借りた男のことですがね。この点は、ぼくもきみと同じ考えだったのです。どうも、あのあさひ屋のほかに犯人の通路はないと思ったのです。で、ぼくもあすごへ行って調ぺてみましたが、その結果は、残念ながら、きみとは正反対の結論に達したのです。実際は、便所を借りた男なんてなかったのですよ」

 読者もすでに気づかれたであろうが、明智はこうして、証人の申し立てを否定し、犯人の指紋を否定し、犯人の通路をさえ否定して、自分の無罪を証拠だてようとしているが、しかし、それは同時に、犯罪そのものを否定することになりはしないか。わたしは、かれが何を考えているのか、少しもわからなかった。

「で、きみには犯人の見当がついているのですか」

「ついてますよ」かれは頭をモジャモジャやりながら答えた。

「ぼくのやり方は、ぎみとは少し違うのです。物質的な証拠なんてものは、解釈のしかたでどうでもなるものですよ。いちばんいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。だが、これは探偵自身の能力の問題ですがね。ともかく、ぼくは今度はそういう方面に重きをおいてやってみましたよ。

「最初ぼくの注意をひいたのは、古本屋の細君のからだじゅうに生傷《なまきず》のあったことです。それからまもなく、ぼくはそば屋の細君のからだにも同じような生傷があるということを聞き込みました。これはぎみも知っているでしょう。しかし、彼女らの夫は、そんな乱暴者でもなさそうです。古本屋にしても、そば屋にしても、おとなしそうな、ものわかりのいい男なんですからね。ぼくはなんとなく、そこにある秘密が伏在しているのではないか、と疑わないではいられなかったのです。で、ぼくはまず、古本屋の主人をとらえて、かれの口からその秘密を探り出そうとしました。ぼくが死んだ細君の知り合いだというので、かれもいくらか気を許していましたから、それは比較的楽にいぎました。そ.して、ある変な事実を聞ぎ出すことができたのです。ところが、今度はそば屋の主人ですが、かれはああ見えても、なかなかしっかりした男ですから、探り出すのにかなりほねがおれましたよ。でも、ぼくはある方法によって、うまく成功したのです。

「ぎみは、心理学上の連想診断法が、犯罪捜査の方面にも利用され始めたのを知っているでしょう。たくさんの簡単な刺激語を与えて、それに対する嫌疑者《けんぎしや》の観念連合の遅速《ちそく》をはかる、あの方法です。しかし、あれは心理学者のいうように、イヌだとか家だとか川だとか、簡単な刺激語にはかぎらないし、そしてまた、常にクロノスコープの助けを借りる必要もないと、ぼくは思いますよ。連想診断のコツを悟ったものにとっては、そのような形式はたいして必要ではないのです。それが証拠に、昔の名判官とか名探偵とかいわれる人は、心理学が今目のように発達しない以前から、ただかれらの天稟《てんびん》によって隔知らずしらずの間に、この心理学的方法を実行していたではありませんか。大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》なども、確かにそのひとりですよ。小説でいえぱ、ボーの『ル・モルグ』のはじめに、デュバンが友だちのからだの動き方一つによって、その心に思っていることをいい当てるところがありますね。ドイルもそれをまねて、 『レジデント.ぺーシェント』の中で、ホームズに同じような推理をやらせてますが、これらはみな、ある意味の連想診断ですからね。心理学者の種女の機械的方法は、ただこうして天稟《てんびん》の洞察力《どうさつりよく》を持たぬ凡人のために作られたものにすぎませんよ。話がわぎ道にはいりましたが。ぼくはかれにいろいろの話をしかけました。それも、ごくっまらない世間話をね。そして、かれの心理的反応を研究したのです。しかし、これは非常にデリケートな心持ちの問題で、それに、かなり複雑してますから、くわしいことはいずれゆっくり話すとして、ともかく、その結果、ぼくは一つの確信に到達しました。つまり、犯人を見つけたのです。

「しかし、物質的な証拠というものが一つもないのです。だから、警察に訴えるわけにもいきません。よし訴えても、おそらく取り上げてくれないでしょう。それに、ぼくが犯人を知りながら、手をつかねて見ているもう一つの理由は、この犯罪には少しも悪意がなかったという点です。変ないい方ですが、この殺人事件は、犯人と被害者と同意のうえで行なわれたのです。いや、ひょっとしたら、被害者自身の希望によって行なわれたのかもしれません」

 わたしはいろいろ想像をめぐらしてみたけれど、どうにもかれの考えていることがわかりかねた。わたしは自分の失敗を恥じることも忘れて、かれのこの奇怪な推理に耳を傾けた。

「で、ぼくの考えをいいますとね、殺人者はあさひ屋の主人なのです。かれは罪跡をくらますために、あんな便所を借りた男のことをいったのですよ。いや、しかし、それは何もかれの創案でも何でもない。われわれが悪いのです。ぎみにしろ、ぼくにしろ、そういう男がなかったかと、こちらから問いを構えて、かれを教唆《きようさ》したようなものですからね。それに、かれは、ぼくたちを刑事かなんかと思い違えていたのです。では、かれはなぜに殺人罪をおかしたか。……ぼくはこの事件によって、うわべはきわめてなにげなさそうなこの人生の裏面に、どんなに意外な陰惨な秘密が隠されているかということを、まざまざと見せつけられたような気がします。それは実にあの悪夢の世界でしか見いだすことのできないような種類のものだったのです。

 あさひ屋の主人というのは、マルキ・ド・サドの流れをくんだ、ひどい残虐色情者《ざんぎやくしぎじようしや》で、なんという運命のいたずらでしょう、一軒おいて隣に、女のマゾッホを発見したのです。古本屋の細君は、かれにおとらぬ被虐色情者《ひぎやくしぎじようしや》だったのです。そして、かれらは、そういう病者に特有
の巧みさをもって、だれにも見つけられずに姦通《かんつう》していたのです。……きみ、ぼくの合意の殺人だといった意味がわかるでしょう。……かれらは、最近まではおのおの、そういう趣味を解しない夫や妻によって、その病的な欲望を、かろうじてみたしていました。古本屋の細君にも、あさひ屋の細君にも、同じような生傷《なまきず》のあったのはその証拠です。しかし、かれらがそれに満足しなかったのは、いうまでもありません。ですから、目と鼻の近所に、お互いの捜し求めている人間を発見したとき、かれらの間に非常に敏速な了解の成立したことは、想像にかたくないではありませんか。ところが、その結果は、運命のいたずらが過ぎたのです。かれらの、パッシブとアクティブとの力の合成によって、狂態が漸次《ぜんじ》倍加されていきました。そして、ついにあの夜、この、かれらとても決して願わなかった事件をひぎ起こしてしまったわけなのです……」

 わたしは、明智のこの異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、なんという事件だ1

 そこへ、下のタバコ屋のおかみさんが、夕刊を持ってぎた。明智はそれを受け取って、社会面を見ていたが、やがて、そっとため息をついて言った。

「ああ、とうとう耐えきれなくなったとみえて、自首しましたよ。妙な偶然ですね.ちょうどそのことを話しているときに、こんな報道に接するとは」

 わたしはかれの指さすところを見た。そこには、小さい見出しで、十行ばかりそば屋の主人の自首したむねがしるされてあった。
        (『新青年』大正十四年一月)

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