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森鴎外「人主策」

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人主策
 マキヤヱリイの人主策は一小冊子なりと雖、文章|紆曲《うきよく》にして|証例《しようれい》冗漫なり。読み易き書と称す可からず。
曾て|閲過《えつくわ》の際、要を|撮《と》りて鈔記す。|偶辷《たま/\》友人の|請《こひ》に従ひて、|繕写《ぜんしや》して与ふ。

     其一
 同文の国を奪ふものゝ|当《まさ》に出づべき所の策二あり。|前《さき》の人主の一族をして|復《ま》た|遺華《ゐけつ》なからしむる一なり。旧法旧制を存して敢て|更《あらた》むる所なき二なり。異文の国を奪ふに至りては、これを守ることの難き同日にして論ず可からず。|且《しばら》くこれを処する|所以《ゆゑん》の道二を挙げん。一は都を新領土に|遷《うつ》すこと、二は地を択みて移民すること是なり。若し移民すること能はざるときは宜く軍を|屯《とん》すべし。然れども|此《これつ》の|費《ひえ》多くして得ること無きは、|彼《かれ》の費無くして得ること多きに|若《し》かず。

     其二
 奪ひ難き国あり。然れども一たびこれを奪ふときは守り易きものなり。何ぞや。統御の権人主の手に在りて、此よりして|下《しも》、唯ゞ此権を借りて|政《まつりごと》を行ふ機関あるのみなるもの是なり。此の如き機関は|間《かん》を行ふに宜しからず。|縦令《たとひ》能く間を行はんも、民の従はざるを|奈何《いかん》せん。而れども一たび其国を奪ひて其王族を滅し尽すときは、|復《また》一|人《にん》の声望を負ひて新主に抗する無からん。又奪ひ易き国あり。然れどもこれを奪ふ後、守り難きものなり。|閥閲《ばつえつ》多き国是なり。閥閲多ければ間を行ひ易く、内外相応ずる策成る。而れども其国を奪ひたる後は、王族を滅し尽すと雖、猶|許多《あまた》の|世家《せいか》の反を|謀《はか》るに堪へたるありて、新主をして枕を高うして眠ること能はざらしむ。

     其三
 国若し共和の|政《まつりごと》、自由不覊の生活に慣れたるときは、これを略したるものの|当《まさ》に処すべき道三あり。一は政を少数の声望ある国人に委ねて、旧法に|遵《したが》ひて治せしめ、租税を徴して自ら甘ずるもの是なり。二は新主都を新領土に遷すなり。三は其国を壊滅せしめ其民を離散せしむるなり。三者中旧法を存するものは最も危し。是名を自由と旧憲とに|藉《か》りて兵を起すもの、久しきを|経《ふ》と雖も、全く絶ゆること無ければなり。遷都はこれに次ぐ。壊滅は|蓋《けだ》し上策なり。

     共四
 新に立ちて人主と為るものに、自力に依ると、他力に依るとの別あり。此は僥倖に待つことありと雖、彼は唯辷機会を|候《うかゞ》ふ。|蓋《けだ》し自力の智能と機会とは一種の関係あるものなり。智にして機を得ざるときは、智は一たびも発するに及ぱずして湮滅し、機にして智を得ざるときは、機あるも猶機なきがごとし。

     其五
 自力に依りて立つものは、其の始めて起ること難く、其の既に起りて守ること易し、何をか始めて起ることの難きと謂ふ。意を旧秩序に得たるものは皆己れに敵し、新に己れに|頼《よ》りて得る所あらんと欲するものは己れに結ぶと雖、猶己れの為めに全力を|竭《つく》すことを|肯《あへ》てせざればなり。後者の|超起《しそ》は一には成法を畏るゝが故にして、二には人情の|猜疑《せいぎ》の実に成就の形迹を見るに至るに|非《あら》では|輒《すなは》ち|消《せう》せざるが故なり。況や民をして新に一事を信ぜしむるは易く、これをして久しく其信を保持せしむるは難きをや。然らば則ち自立創業の主は何を以てか此難を排せん。曰く。唯守兵力あるのみ。
是れ改革者の兵を擁するものは成り、|否《しからざ》るものは敗るゝ|所以《ゆゑん》なり。

     其六
 他力に依りて立ちて人主と為るものは、或は他の人主の声援に由り、或は軍民を買収するに由る。皆是れ僥倖のみ。故にその起るや甚だ易し。而れども其守成の難極めて|大《おほい》なり。何ぞや。号令衆を御するは人皆能くするに非ず一なり。誠実に己れに服する士卒なき二なり。彼声援者の運命若くは買収せられし者の好意悪意は、新主を覊束する|所以《ゆゑん》にして、此運命此好意悪意は世上最も頼み難き者に属す、三なり。|暴《にはか》に起るものは猶|速《すみやか》に長ぜる木の根を|下《くだ》すこと深からざるがごとく、一朝風起れば忽ち能くこれを|僵《たほ》す、四なり。人主若し他力に依りて起り、猶能く其業を|〓《やぶ》らざらんと欲せぱ、其聡明の|資《し》は、左の諸件を遂行するに堪へざる可からず。党与を結び、|讐敵《しうてき》を防ぎ、勝を制するには権謀と暴力とを択まず、民庶をして己れを畏れ且愛せしめ、兵を養ふには順良を集め|悖悪《ぼつあく》を除き、以て士卒をして依附屈服せしめ、己れを|傷《そこな》ふに堪へたる者若くは境遇上己れを傷はざること能はざる者は悉く滅し尽し、旧秩序を破りて己れより出でたる新秩序を立て、|寛猛相済《くわんもうあひすく》ひ、大量にして|卑吝《ひりん》ならず、常に列国人主の歓心を失はざらんことを勉むる是なり。

     其七
 罪悪を以て人の家国を盗む者は、罪悪の|算画《さんくわく》極めて密にして、其遂行迅雷の耳を掩ふに|遑《いとま》あらざるが如く、これに|継《つ》ぐに善政を以てするに非では成就せず。之に反して若し小悪を以て始まり、次第に悪を以て悪に継ぎ、|手白刃《しゆはくじん》を|釈《お》かざるが如き者は必ず|敗欠《はいけつ》す。|蓋《けだ》し|恩蔭恵沢《おんいんけいたく》は反覆して人心に|浸漸《しんぜん》せしむるに宜しく、犯罪毒悪は一時に経過し去りて、人をして忽ち|駭《おどろ》き忽ち忘れしむるに宜しければなり。

     其八
 公民主とは国人に推戴せられて立てる所の人主を謂ふ。此の如き者は単に自力に依るに非ず、又単に僥倖に依るに非ず。寧ろ一種の機に乗ずる|巧慧《かうけい》ありてこれを致すなり。凡そ人主を擁立する所の国人に二あり。或は有力者にして、或は民庶なり。然る|所以《ゆゑん》のものは、何れの国なるを問はず、有力者は民庶を圧制せんと欲し、民庶は有力者に圧制せられざらんと欲し、此に自ら相反する二潮流を生ず。既にして有力者の個個分離して、以て民庶に当るに足らざるや、其党の欲を遂ぐるに宜しき一人物を推して君主となす。民庶の有力者に抗すること能はざるに至るや、一人物を戴きて、其庇蔭を|被《かうぶ》らんと欲すること亦同じ。

     其九
 有力者に擁せられて立ちし所の人主は、その国を保つことの難き、民庶に推されて立し所の人主の比に非ず。有力者は自ら居ること尊大にして、君主を視ること朋友の如く、民庶は甘んじて君主を奉じ、|首《かうべ》を垂れて命を聴くことを辞せざる一なり。有力者の民を抑圧せんと欲するや、君主は其欲を塞がんこと難く、又一有力者に|啗《くら》はしむるに利を以てするときは、他の有力者の意を|傷《そこな》ふべく、之に反して民庶の抑圧せられざらんと欲するや、其望を充たすこと易き二なり。民庶の其主に満たざることあるときは、唯辷離れ|乖《そむ》くのみなるに、有力者の其主に満たざることあるときは、取りてこれに代らんと欲する三なり。

     其十
 有力者若くは民庶に擁立せらるゝ所の人主は、既に位を|践《ふ》みて後、有力者を遇すること甚だ難し。然れども要は其の己れに服する者と|否《しから》ざる者とを選びて、これに処する|所以《ゆゑん》の道を殊にするに在り。有力者にして真に己れに服するときは、宜しく心を傾けてこれを遇し、授くるに名誉を以てすべし。|就中《なかんづく》己れに服して求むる所無きものを然りと為す。有力者の己れに服せざるや、或は|怯惰《きよだ》にして|果決《くわけつ》すること能はざるより出で、或は異志を|挾《さしはさ》みて為すこと有らんと欲するより出づ。彼は人主の勢盛なるときこれに屈従し、勢衰ふるとき敢て侵すこと|莫《な》きもの、此は隙を|覦《うかゴ》ひて人主の|虚《きよ》に乗ぜんと欲するものなり。彼は人主の器に応じて任用すべき所にして、此は人主の警戒を怠らざるべき所なり。

     其十一
 民庶に推されし所の人主は、民に親むことを忽《ゆるがせ》にすぺからず。本《も》と民は抑圧せられざらんことを欲するに過ぎざるが故に、これをして満足せしめて、以てこれに親なこと頗る易し。有力者に擁せられし所の人主も亦、宜しく民心を収攬せんことを勉むぺし。是れ亦頗る易し。所以者何《ゆゑいかに》といふに、民は単に保護《ほうご》を受くるを以て満足するものなればなり。且人の常情は期せざる所の恩に感ずること、曾て期する所の恩より深し。若し己れの推す所の主に非ざるものにして、却りて己を保護せば、民の感戴の情は愈く熾《さかん》なるべし。蓋《けだ》し人主の非常の時に臨みて、能く自ら全うすると否《しから》ざるとは、民の来附《らいふ》すると離去《りきよ》するとに在り。俚諺《りげん》に云く。民に依りて立つものは、屋を沙上《さじやう》に築くが如しと。是れ一公民の衆民を率《ひきゐ》て、国内の主権者若くは強国に抗することの危きを謂ふのみ、人主を謂ふに非ず。

     其十二
 国人に推戴せられたる人主は、容易《たやす》く憲政の約束を棄てゝ独裁の自由に遷《うつ》らんことを企つ可からず。人主は清平《せいへい》なる時に当りて、公民の喜んで命を聴き、敢て或は違《たが》ふことなきを見るならん。然れども是れ公民の秩序を欲する情に出つるものにして、生殺唯命のまゝなるにはあらず。且若し有力者を集めて行政機関を組織したるときは、此機関は人主の独裁の権を握らんと欲するを見るに及びて所動上《しよどうじやう》に命を聴かざることあり、甚だしきに至りては、能動上に抗争することあらん。要するに人主の此《かく》の如き試験は、一たびす可くして二たびす可からず、一歩を進めては復《ま》た踵《くびす》を旋《めぐら》すべからざるものなるが故に、最も危険なる試験と謂はざる可からず。

     其十三
 国家は、其新旧を問はず、法律と軍備とあるに非ざれば立たず、而して法律は軍備ありて始めて行はるゝものなり。軍備は、自国の兵と傭兵と外国の援兵との別ありと雖、その真に能く人主の用を為すは自国の兵のみ、独裁若くは憲政の国は、人主自ら将帥たらざる可からず、共和政の国は、其公民中の一人《にん》自ら将帥たらざる可からず。是故に人主の興るや、必ず軍事を好むに由りて興り、其の敗るゝや、必ず情欲を肆《ほしいまま》にするに由りて敗る。人主にして若し軍事を好まざるときは、国人これを侮蔑し、国人これを侮蔑するときは、人主国人を猜忌《せいき》す。国家は侮蔑と猜忌との間に存立すること能はざるものなり。

     其十四
 人主の軍事を好むに行動の方面と思想の方面とあり。行動は軍をして其紀綱を維持せしめ、演習を懈《おこた》らざらしむるに在り。而して人主自家は宜しく佃猟《でんれふ》を挙行し、山野を跋陟して、且は身体を錬固し、且は地形に|暢通《ちやうつう》すべし。思想は人主自ら書史を読み、古今英雄豪傑の行迹を知り、其中に就いて己れの模範と為すに堪へたる者を覓《もと》め出だすに在り。要するに人主平生の云為《うんゐ》は、始終勢力を蓄積して、以て他日否運に抗抵すべき備を為すに外ならず。

     其十五
 当《まさ》に是《かく》の如くなるべき国家と、実に是の如くなる国家とは大いに相殊なり。故に人主の行を論ずるものも、其|目中《もくちゆう》彼理想の国家あると、此実際の国家あると、相同じきこと能はず。古より彼に属する著作多しと雖も、此に属するものは少し。爰《こゝ》に行の必ず善ならんことを欲する一人ありて、許多《あまた》の善悪を顧みざる人の間に立たば、その滅亡は踵《くびす》を旋《めぐら》さずして至らん。乃ち知る、人主の国を保たんと欲する者は、機に臨みて敢て悪を為さざる可からず、而して是の如き悪行は、人主のその必要に応じて、自在に或は為し、或は已むべきものなることを。

     其十六
 曰《いはく》喜捨なるか卑吝《ひりん》なるか、曰寛厚なるか残忍なるか、曰言《こと》を|食《は》むか否《しから》ざるか等は、毀誉の由りて生ずる所にして、士庶《ししよ》猶誉に就き毀《そしり》を去らんと欲す。況や人主をや。然れども一切の行をして皆誉むるに堪へたらしめんは、人性の能くせざる所なり。故に人主は巧に悪声醜聞の位を危くするに堪へたる者を塞がざる可からず。其の過失の位を危くするに至らざる者は、若し避く可くば避くるに宜し、而れども或は自ら恣《ほしいまま》にして甚だしく検束すること無からんも、往々咎无《とがめな》きことを得ぺし。加旃《しかのみなら》ず徳に似て徳に非ざる者あり。これを行へば却りて位を危くす。不徳に似て不徳に非ざる者あり。位を保つものゝ避ること能はざる所に属す。

     其十七
 喜捨は好き名なり。吝嗇は悪しき名なり。然れども喜捨の名を博して亡ぶるもの多く吝嗇の名を蒙ぷりて興るもの多《おほき》は何ぞや。喜捨の沢《たく》に霑《うるほ》ふものは、君主に親近する少数の人にして、国民はこれが為に賦課に苦み、財源の一たび涸渇するや、民其主を侮る。是れ亡滅の道なり。吝薔は群小の其主の節倹に満たずして称ふる所にして、民庶は漸く租税の薄きを楽み、軍備は以て隣疆《りんきやう》を威するに足る。是れ興隆の道なり。人主の境界より言へば、喜捨ならざる可からざる者一あり。是を創業前の人主と為す。既に国を有《たも》つ者はこれに殊なり。財源の種類より言へば、又喜捨せざる可からざる者一あり。是を外に猟《え》たる財と為す。君主自家の財若くは国民の負担はこれに殊なり。人主の節倹して猶能く喜捨の名を博する者は捨つるに巧なるが故なり。

     其十八
 人主の慈愛の聞《きこえ》あるは善し。而れど慈愛は危険なる者にして、若し誤り用ゐるときは国を亡すに至る。之に反して残忍の聞ある人主は、能く統一駕御《がぎよ》の功を全うする者多し。民庶の慈愛に馴れて乱を起すや、其禍害は間接なりと雖大いなり。君主の刑罸を行ふや、其殺戮は直接なりと雖小なり。故に人主は民に愛せらるゝに宜しからずして、民に畏れらるゝに宜し。蓋《けだ》し愛せらるとは、其の之を愛すると否とは民に存す。畏れらるとは、其の畏れしむると否とは君に存す。君主は其民に存する者に依頼す可からず。若しこれに依頼するときは、民に売られざる者幾《ほとん》ど稀なり。民の大多数は怯《おそ》れて貪り詐多《いつはりおほ》く、操持なく、恩を知らざる者なり。故に事なければ服従し、事あれば離れ乖《そむ》く。人主の民に愛せらると以為《おも》へるは、民の恩を知らんことを期するなり。安《いづく》んぞ知らん、民の行動の恩を知るに似たるは、唯だ其の利慾と矛盾せざる限に於いて之を見《みる》べく、一旦恩と利との併せ得可からざるや、民は恩を棄てゝ利を取る者なることを。人主の畏れられざる可からざるや|此《かく》の如し。然れども畏れらるゝは、憎まるゝと殊なり。畏れらるゝは性命・を奪ふが為めにして、憎まるゝは財産若くは婦女を奪ふが為めなり。性命を奪ふ機会は少く、財産を奪ふ機会は多し。且人性は父を喪ひし恨を忘るゝこと早く、産を失ひし恨を忘るゝこと晩《おそ》し。是れ人主の畏れらる可くして憎まる可からざる|所以《ゆゑん》なり。人主の最も畏れらるゝに宜しき時、最も残忍の名を甘んずるに宜しき時二あり。曰《いはく》創業の時、曰軍に将たる時。

     其十九
 信を守り約を履《ふ》むは、人の美徳なり。故に人主は言《こと》の口を出つるごとに、必ず陽に信あるが如くならざる可からず。而れども若し実に言必ず信ならんと欲せば、是れ偶辷《たま/\》以て亡滅を招くに足るべきのみ。所以者何《ゆゑいかに》といふに、人主の上《かみ》に法廷なし。其性命と権利とは自らこれを護るに非ざるよりは、誰かこれが為めに屈を伸ペ冤《ゑん》を雪《そむ》がん。人主の行為は即ち其終極の目的にして、時ありては信に、時ありては信ならず、以て風潮に乗じ機運に投じ、己れの性命と権利との護持を致すなり。且民庶の無智なる、多くは君主の其不信の行を飾るに信なるが如き言を以てするを看破すること能はず。其の稀にこれを看破する者あるも、敢て衆人に抗して唱道せざるなり。凡そ生物自ら護る法に二あり。曰《いはく》法律、曰威力。彼は人の道、此は獣の道なり。而して能く人たり能く獣たるは人主の道なり。人主の獣たるや、或は獅《しゝ》たり或は狐たり。獅の|臉《かほ》は以て豺狼《さいらう》を逐ふ可く、狐の形は以て係蹄《けいてい》を免る可し。

     其二十
 人主の忌み避く可き所の者は怨恨と侮蔑とに|若《し》くは莫《な》し。怨恨を避くるには、民の財産と婦女とを侵害せずば可なり。侮蔑を避くるには、己れの行の偉大、胆勇、厳正、強硬を表現して、些《ちと》の猥瑣《わいさ》、怯惰《きよだ》、忽慢《こつまん》、柔弱の態なきことを得ぱ可なり。怨恨と侮蔑との忌み避く可きは、其の内訌外患の因たるを以ての故なり。外患の兵力に依りて斥《しりぞ》く可きは姑《しばら》く措く。人主の民に怨まれず侮られざる者の能く内訌を防遏《ばうあつ》する所以《ゆゑん》は、必ずしも一顧の価《あたひ》なからず。蓋《けだ》し叛逆は難事なり。人主は地位、法律、輔佐、甲兵あり。叛逆者は位に居らず法に|藉《よ》らず、党与を不平者の間に求めざる可からず。而して其の一たびこれに謀《はかりごと》を通ずるや、併せてこれに利を謀《はか》る機を授け、又己れを売る便を与ふ。故に人主は安逸の境に住し、叛逆者は疑懼猜忌《ぎくせいき》の地に居る。民の主を怨み主を侮るに乗ずるに非ざるよりは、叛逆豈《あに》能く成就せんや。彼国会の如きは内訌を防ぐ所以の機関のみ。人主は国の有力者を利することの民め怨を生じ、民を利することの有力者の怨を生ずるを知り、此を設けて以て有力者を纏縛《てんばく》す。

     其二十一
 人主の行は偉大にして世の視聴を聾動《しようどう》せざる可からず。賞も以て人を驚すに宜しく、罰も以て人を驚すに宜し。学術工藝に長ずる者は、之を擢《ぬきん》でて奨励の途を開ぎ、雑技賤業に至るまで、保護《ほうこ》到ぢざる所なく、弔祭遊戯《てうさいいうげ》と雖も其壮観を助長し、時々親《みつか》ら其揚に臨みて、和楽の間に自家威厳の大なるを示すは、人主民を馭する要道なり。外交の偉大は専ら臠背《かうはい》の明白に在り。二外国の相争ふや、其両交戦国の強くして、其一の勝たんことを憂ふ可きと、小にして此憂なきとを問はず、
必ず応に我旗幟《きし》を鮮明にして一に与《くみ》し一に敵すべし。強国の争を以て言はんに、我若し嚮背を明にせずば、勝者は中立の我を併呑《へいどん》することを憚らざる可く、敗者は友情なき我に来り投ぜざる可し。我若し一に与せぱ、其与国は縦《たと》ひ勝者たらんも、直ちに我を呑嗾《どんぜい》することを敢てせざる可し。是れ勝者の全く道義名分を抛《なげう》つこと能はざると、戦勝の結果必ずしも完全ならずして尚多少の顧慮を費すとに因る。又与国の敗者たるときは、我は共に敗ると雖、猶同病相憐む国ありて、再興の望を繋ぐに足る。小国の争を以て言はゞ、我の与する所の者、殆ど満分の勝算ありて、其勝者は猶我の掌中に在る可し。人主の此《かく》の如く戦に与《あつか》るや、唯ゞ一の忌むべきあり。与国の甚だ我より強くして、戦勝後必ず我に不利なる者是なり。人主は此戦に与るは、万已むことを得ざる時に限る。

     其二十二
 宰相其人を得ると否とは、以て人主の賢愚を徴するに足る。凡そ人主の頭脳に三級あり。万機自ら知るは上なり。能く人言を納るゝは中なり。自ら知らずして又人言を納るゝこと能はざるは下なり。而して良相を用ゐる者は必ず中以下に在らず。宰相を鑑《かん》するは、共の己れの為めにすると君の為めにするとを見るに若かず、政柄《せいへい》を執りて、事毎に君主の利害上より打算せざるときは国の不利言《こと》を須《ま》たざるが故なり。是《これ》を以て人主の宰相に於けるや、これに高位を授け、以て復た名を求むるに由なからしめ、これに厚禄を与へ、以て復た財を貪ぽるに途なからしめ、これに重権を借し、以て国家の変動の即ち自家の不利なることを思念せしめざる可からず。

    其二十三
 人主は直言を納るゝ量なかる可からず。然れども若し人々皆言《こと》を進むることを縦《ゆる》さば、或は諂諛《てんゆ》の士の似て非なる忠言を進むるありて、君主これに惑はされ、或は群臣争ひて策を出だし、君主の決心を感揺《かんえう》するに至らん。是れ威厳を傷《そこな》ひ、軽侮を招く所以《ゆゑん》の道なり。故に人主は宜しく己れの信任する所の士二三を選みて、事毎に問ひ、之をして言を尽すことを憚らざらしめ、外間の横議《わうぎ》を厳禁すべし。且人主の裁決は、諮詢《しじゆん》の後、必ず親《みづか》ら下さゞる可からず、其の一たび裁決を下すや、復た毫釐の退譲《たいじやう》を容《い》れざらんことを要す。是の如くならざれば、人主は其威信を全うすること能はざるなり。世の人主を評する者、往々其功を賢相に帰して、人主真に聡明なるに非ずと曰ふ。殊に知らず、聡明ならざる人主は決して善謀を用ゐること能はざるを。蓋《けだ》し人臣の言を進むるや、多く己れの為めに謀りて君の為め
に謀らず。故に一事に処するに、人々其策を異にす。聡明ならざる人主|争《いか》でか能く之を取捨せん。若し暗主|偶《たま/\》一人を信じて、其人偶々賢明なりと曰はん乎。此賢明の人は、必ずや久しからずして其君を逐ひ自ら取りて之に代るならん。

     其二十四
 人或は謂《おも》へらく。世事《せいじ》は運命若くは神力全くこれを左右すと。過現未の実蹟は、真にこれを証するに余ある者に似たり。然れども入間自由意志の存在、豈撥無《あにはつむ》す可けんや。運命は縦《たと》ひ能く世事の啅半を左右すとも、其一半若くは殆ど一半は、人の能く自ら左右する所に属す。運命は譬へば大河の水の如し。其汎濫するや、木を抜き屋《いへ》を漂はす。然れども能く水を治する者は、堤を築き渠《きよ》を穿《うが》ち、以て予め之に備ふ。人主の運命は時代の精神に在り。これに順《したが》ふ者は起り、これに逆《さか》ふ者は滅ぶ。勇往を以て興るは、時代の勇往に宜しきが為めにして、深沈を以て興るは、時代の深沈に宜しきが為めなり。知る可し、同一の材《さい》は必ずしも同一の功を成すこと能はずして、能く時と推し移る者、纔《わつか》に能く其功を全うすることを。若し強ひて成算何《いつれ》の処に多きかと問はゞ、果断なる者は巧遅なる者に優るべし。所以者何《ゆゑいかに》といふに、好運は婦女の如く、能く笞《むちう》つ者能く制すればなり。

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