網迫の電子テキスト乞校正@Wiki

江戸川乱歩「恐ろしき錯誤」

最終更新:

amizako

- view
だれでも歓迎! 編集
「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」

 北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。

 かれは今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。だいいち、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。

 往来の人たちは妙な顔をして、かれのへんてこな歩きぶりをながめた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。

 ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモにかまれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念のとりことなっていた。-

 かれは今全身をもって復讐《ふくしゆう》の快感に酔っているのだった。

「勝った、勝った、勝った……」

 一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつまでも続いていた。うず巻き花火のような、目のくらむばかりの光り物が、かれの頭の中を縦横無尽に駆けまわっていた。

 あいつはきょうから、一日の休む暇もなく一生涯《いつしようがい》、長い長い一生涯、あの取り返しのつかぬ苦しみを苦しみ抜くんだ。あのどうにもしようのないもだえを、もだえ通すのだ。

 おれの気のせいだって? バカなッ! 確かに、確かに、おれは太鼓のような判だっておしてやる。きゃつはおれの話を聞いているうちに、とうとううつぶしてしまったじゃないか。まっさおな顔をして、うつぶしてしまったじゃないか。これが勝利でなくて何だ。

「勝った、勝った、勝った」

 という、単調な、没思考力のうず巻きの間々に、ちょうど映画の字幕のように、こんな断想がパッパッと浮かんでは消えていったゆ

 夏の空はソコヒの目のようにドンヨリと曇っていた。そよとの風もなく、家々ののれんや日よけは、彫刻のようにじっとしていた。往来の人たちは、何かえたいの知れぬ不幸を予感しているとでもいったふうに、抜き足差し足で歩いているかと見えた。音というものがなかった。死んだような静寂が、そのへん一帯をおおっていた。

 北川氏は、その中を、ひとりストレンジャーのように、狂気の歩行を続けていた。

 行っても行っても果てしのない、にぶ色に光った道路が、北川氏の行く手に続いていた。

 あてもなくさまよう人にとって、東京は永久に行きどまりのない迷路であった。

 狭い道、広い道、まっすぐな道、曲がりくねった道が、それからそれへと続いていた。

「だが、なんというデリケートな、そして深刻な復讐だったろう。あいつのもずいぶん頭のいい復讐だったに違いない。しかし、その復讐に対する、おれの返り討ちの手ぎわが、どんなにまああざやかなものだったろう。天才と天才の一騎討ちだ。天衣無縫の芸術だ。あいつがその前半を受け持ち、おれが後半を受け持ったところの一大芸術品だ。だが、なんといっても、勝利はおれのものだ。……おれは勝ったぞ、勝ったんだぞ、あいつをペチャンコにたたきつけてしまったんだぞ」

 北川氏は、鼻の頭にいっぱい。汗の玉をためて、炎天の下を飽きずまに歩き続けていた。かれにとっては、暑さなどは問題ではなかった。

 やがて、時がたつにしたがって、かれの有頂天な、没思考力な歓喜が、少しずつ、意識的になっていった。

 そして、かれの頭には、ようやく、回想の甘味を昧わうことができるほどの余裕が生じてきた。

 ──それは三月ぶりの訪問であった。あの事件が起きる少し前に会ったきり、ふたりはきょうまで顔を合わさなかった。

 野本氏のほうでは、事変の悔やみ状を出したぎり、北川氏の新居を尋ねもしなかったことが、わだかまりになっていた。

 北川氏は北川氏で、その野本氏の気まずさが反映して、かれの家の敷居をまたぐとから、もう吐きけを催すほどに不快を感じていた。

 ふたりは生まれながらのかたき同士だった。

 同じ学校の同じ科で、机を並べながら、北川氏はどうも野本氏がムシが好かなかった。たぶん、野本氏のほうでも、かれをゲジゲジのようにきらっていたに違いないと、北川氏は信じていた。

 ふたりがかつては恋の競争者だったことが、なおさらこの反感を高めた。北川氏はそのころから、野本氏のうしろ姿を一目見ただけでも、こう、からだがねじれてくるほど、なんともいえぬ不快を覚えるのだった。そこへ、今度の問題が起こった。そして、もう破れるか、もう破れるかと見えながら、やっとあやうく均衡を保っていたふたりの関係が、とうとう爆発してしまった。

 こうなっては、ふたりはどちらかが死んでしまうまで、命がけの果たし合いをするほかに逃げ道がないのだと、かれは信じていた。

 北川氏は、機の熟するまでは、なるべくきょうの訪問の真の目的を秘しておこうとしていた。

 しかし敏感な野本氏はとっくにそれを察したらしく、恐怖にたえぬ目で、チラリチラリと北川氏を盗み見るのであった。

 まず運ばれた冷やしビールのコップをはさんで、新しい皮ブトンの上に対座したふたりの間には、最初の瞬間から、息づまるような暗雲が低迷していた。

「きみがなぜあの事件に触れようとしないのか、ぼくはよく知っている。きみはあれ以来始めて会ったぼくに、悔やみのことば一つ述べられないほど、あの事件に触れることを恐れているんだ」

 しばらく心にもない世間話を続けているうちに、もうがまんができなくなって、北川氏はこう戦闘開始の火ぶたを切ったのだった。

 野本氏はハッとして目をそらした。

 あのとき、かれの顔が青ざめたのは、顔の向きを変、兄たために庭の青葉が映ってそう見えたばかりではないと、北川氏は堅く信じていた。

「おれの放った第一声は、みごとに、あいつの心臓をえぐったんだ」

 相変わらず、どことも知れぬ場末の町筋をテクテクと歩きながら、北川氏は甘い回想を続けていった。

 ちょうど反芻《はんすう》動物が、一度胃の腑《ふ》の中へおさまったものを、また吐き出してニチャリニチャリとかみしめては、楽しみをくり返すように、北川氏は、きょうの野本氏との会談の模様を、はじめから終わりまで、文句の細かい点まで注意しながら、ユックリユックリ思い出していった。事実そのものにもまして快い回想の魅力は、北川氏を夢中にさせないではおかなかった。

 ──「ぼくがそれに気づいたのは、ごく最近のことなんだ。その当座は、ただもう泣くにも泣かれぬ悲しみで、心がいっぱいだった。恥ずかしいことだが、正直をいうと、ぼくは妙子にほれていた。ほれていたればこそ、彼女のいる問は、あれほども、きみをはじめ友人たちが驚いていたほども、仕事に没頭できたんだ。どんなに仕事に夢中になっていたって、おれの女房は、あの片えくぼのかわいいえがおで、おれのうしろに、ちゃんとすわっているんだという安心が、ぼくをあんなふうにしていたんだ。

 忘れもしない彼女の初七日《しよなぬか》の朝だった。ふと新聞を見ると、文芸欄の片すみに、生田春月《しくたしゆんげつ》の訳詩がのっていた。  そのある日にはそれとも知らず、なくてぞ恋しき妻であるーという一句を読むと、子どもの時分からこのかた、ずっと忘れてしまっていた涙が、不思議なほど止めどもなく、ほろほろとこぼれたっけ。ぼくは、女房の死んだあとになって、ぼくがどれほど彼女を愛していたかということがわかった。……

 きみはこんな繰《く》り言《ごと》を聞きたくもないだろうね。ぼくもいいたくはない。ことに、きみの前ではいいたくない。しかし、どれほど女房の死がぼくを悲しませたか、それがどんなにぼくの一生をメチャメチャにしてしまったかということを、よくよくきみに察してもらいたいからこそ、いいたくもないのを、むりにもいっているんだ」

 北川氏は、いかにも殊勝げにこう語り出したのであった。

 しかし、このめめしい繰り言とも見えるものが、実は世にも恐ろしい復讐への第一歩だろうとは、だれが想像しえただろう。

「日がたつにしたがって、ほんの少しずつではあったが、悲しみが薄らいでいった。いや、悲しみそのものには変わりがなかったのだろうが、ただそればかりにかかずらって、めそめそと泣いていたぼくの心に、少しばかり余裕ができてきた。すると、今までは、悲しみにまぎれて、忘れるともなく忘れていたある疑いが、猛然として頭をもたげはじめたんだ。……きみも知っているように、妙子のあの不思議な死に方は、ぼくにとっては、どうしても解くことのできぬなぞだった」

 北川氏は、かれの細君の死については、最初から疑いをいだいていた。子どもさえ助かっているのに、なぜ妙子だけが、あの火事のために焼け死んだかということは、かれには考えても考えても解き難い一つのなぞだった。

 それは三ヵ月以前の、春もたけなわなころのできごとだった。

 そのころ、北川氏は二軒建てのちょっとした借家に住んでいたのだが、ある日、真夜中に、むねを同じうしている、壁ひとえ隣から失火して、かれの家も丸焼けになってしまった。

 類焼は五軒ばかりでやんだが、風のひどかつたせいか、火の燃え広がる速力は不思議なほど早かった。たいせつなものを持ち出したり、子どもにケガをさせまいとしたり、そういう場合でなければ経験のできない、一種異様な、追いつめられたような、せかせかした気持ちのために、かなりの時間をほとんど一瞬のように感じたせいもあろうけれど、あの、とほうもなく大きなダイジャの舌ででもあるような「火炎」という生き物が、人間の住み家をなめただらしてしまう速さというものは、ほんとうにびっくりするほどであった。

 北川氏は、第一に幼児-誕生を過ぎてまだ問もなかった幼児を抱いて、少し離れた友人の家へかけつけた。

 泣き叫ぶ子どもは、友人の細君に託し、友人にもてつだってもらって、できるだけの品物を持ち出そうと、かれは火事場へ取って返した。

 寝巻き姿の気違いめいた北川氏は、人間がまだことばというものを知らなかった原始時代にたち返って、意昧をなさぬよまいごとを口走りながら、息を切らして走るのだった。

 そうして、友人の家との二、三町の間を二回往復すると、もう火勢が強くなって、品物を持ち出すどころではなく、あやうくするど命にもかかわりそうになったので、かれはともかくも友人の家に落ち着いて、何よりもまず、痛みを感じるほどにカラカラにかわいたのどを、コップに何杯も何杯もおかわりをして、うるおしたのだった。

 が、ふと気がつくと、妙子の姿が見えない。

 たしかに一度は彼女の走っているのを見かけたのだが、そして、彼女は、北川氏がこの友人の家へ避難したことは当然知っているはずだが、どうしたものか、姿を見せなかった。

 でも、まさか、燃えさかる火の中へ飛び込もうなどとは、想像もしなかったので、しばらくは、彼女の取り乱した姿が、友人の門口に現われるのを、ぼんやりと待っていたのだった。

 コウリだとか、手文庫だとか、書類だとか、いろいろの品物が雑然と投げ出された友人の家の玄関に、友人夫婦と、北川氏と、子どもを抱いてふるえているまだ年のいかぬ女中とが、妙に黙り込んで顔を見合わせていた。

 外からは、火事場の騒擾《そうじよう》が手に取るように聞こえてきた。 「オーイ」とか「ワー」とか「ワッワッワッ、ワッワッワッ……」とかいう感じの騒音が、表通りを駆けて通るそうそうしい足音が、近所の軒先にたたずんだ人女のねむそうな、しかしおどおどした話し声にまじって、まるで、北川氏自身には何の関係もない音楽かなんぞのように響いてくるのだった。

 あちらでもこちらでも、あの妙に劇的な音色を持った半鐘の音が、人の心臓をドキドキさせないではおかぬ、すごいような、それでいてどこか快いような感じで打ち鳴らされていた。

 それに引き替えて、家の中のかれらの一団の静かさが、なんとまあ不思議なほどであったことよ。どれほどの時間だったか、よほど長い間、かれらは身動きさえしないで、シーンと静まり返っていた。

 いちじは火のつくように泣き叫んでいた幼児も、もうすっかり黙り込んでいた。

 ほどへてから、友人の細君が、まるで、つまらない世間話でもしているような、ゆったりした調子でこういった。

「奥さんはどうなすったのでしょうね、ねえ、あなた」

「そうだ、だいぶ時間もたったのに、おかしいな」

 友人は北川氏の顔をじろじろながめながら、考え深そうに答えた。

 そんなわけで、かれらが妙子を捜しに出かけたのは、さすがに激しかった火勢も、もう下火になったころであった。

 だが、捜しても捜しても、妙子の姿は見えなかった。知り合いの家を一軒ずつ尋ね回って、もうこれ以上手の尽くしようがないと思ったのは、はや夜の岨けるにまもないころであった。

 へとへとに疲れきった北川氏は、ひとまず友人の家へ引き上げて、ともかくも床についた。

 その翌日、焼け跡の取りかたづけをしていた仕事師の鳶口《とびぐち》によって、北川氏の家の跡から女の死がいが掘り出された。

 そして、はじめて、妙子が何のためだか、燃えさかる家の中へ飛びこんで、焼け死んだということがわかった。

 それは実際、不思議なことだった。

 何一つ彼女を猛火の中へ導くような理由というものがなかった。変事のために遠方から集まってきた親族の人たちの間には、これはきっと、あまり恐ろしいできごとのために逆上して、気が変になったせいだろう、という説が勝ちを占めた。

「わたしの知っているあるおばあさんは、そら火事だというのに、うろたえてしまって、いきなり米ビツの前へ行って、たんねんにお米をはかってはオケの中へ入れていたっていいますよ。ほんとうに、お米がいちばんたいせつだと思ったのでしょうね。こんなときには、よっぽどしっかりした者でも、うろたえてしまいますからね」

 妙子の母親は、ともすれば、むせびそうになるのをこらえこらえして、鼻の詰まった声で、こんなことをいったりした。

「かわいい女房が、若い身そらで、しかも子どもまで残して、死んでしまった。それだけで、もう男の心を打ちひしぐにはじゅうぶんすぎるほどじゅうぶんなんだ。そのうえに、見るも無残なあの死に方、……きみにあいつの死に顔をひと目見せてやりたかった。もし、あの死がいを前に置いて、きみにこの話ができるんだったら、まあ、どんなに深刻な、劇的な効果を収めえたことだろう。

 あいつの死がいは、まっ黒な一つのかたまりにすぎなかった。それは、むごたらしいなどというよりは、むしろ気味のわるいものだった。知らせによってその場へ駆けつけたぼくの目の前にころがっていたものは、生まれてからまだ一度も見たことのないような珍しいものだった。それが三年以来添ってきた女房だなどとは、どうしたって考えられなかった。それが人間の死がいだということさえも、ちょっと見ただけではわからなかった。目も鼻も、手足さえ判明しかねるような、ひとかたまりの黒いものだった。ところどころ、黒い表皮が破れて、まっかな肉がはみ出していた。

 きみは火星の望遠鏡写真を見たことがあるかね。火星の運河という、あの変な表現派じみた、網の目のようなものを知っているかね。ちょうどあの感じだった。まっ黒なかたまりの表面が、あんなふうにひび割れて、毒女しいまっかな筋が縦横についていた。人間という感じからは、まるでかけ離れた、えたいの知れぬものすごい物体だった。ぼくは、これがはたして妙子かしら、と疑った。ものなれた仕事師は、ぼくの疑わしげな様子に気づいたとみえて、その黒い物体のある個所をさし示してくれた。そこには、よく見ると、妙子がきのうまではめていた、細いプラチナの指輪が光っていた。もう疑ってみようもなかった。

 それに、妙子のほかには、その夜ゆくえ不明になったものは、ひとりもなかったことも、あとになってわかったのだ。

「だが、こんな死にざまも、世間にないことではない。それはずいぶんひどいことには相違なかったが、それよりも、そんな外面的なことよりも、もっと、もっと、ぼくの心を苦しめたのは、なぜ妙子が死んだか、という疑いだった。死なねばならぬような理由は、少しだってありはしなかった。物質的にも、精神的にも、彼女に死ぬほど深い悩みがあったろうとは、ぼくにはどうしたって考えられなかった。といって、彼女は、不意のできごとに気の狂うほど、気の弱い女でもなかった。彼女が見かけによらぬしっかり者だということは、きみもよく知っているとおりだからね。かりに一歩を譲って、彼女は気が狂ったのだとしても、何もわざわざ猛火の申へ飛び込んで行くわけがないじゃないか。

 そこには何か理由がなくてはならない。ひとりの女を、死の危険をおかしてまで、燃えさかる家の中へ飛び込ませるほど重大な理由というのは、それはいったい何だろう。夜となく、昼となく、この息苦しい疑いが、ぼくの頭にこびりついて離れなかった。たとえ死因がわかったところで、いまさらどうしてみようもないと知りながら、やっぱり考えないではいられなかった。ぼくは長い間かかって、あらゆるありそうな場合を考えてみた。

 たいせつな品物を家の中へ置き忘れて、それを取り出すために、ああした行動を取ったと解するのが、まずいちばんもっともらしい考えだった。

 しかし、どんなたいせつな品物を彼女が持っていたのだろう? ぼくは、妙子の身のまわりの細かい点などにはまるで注意を払っていなかったので、その持ち物なども、何があるのか、ちっとも知らなかった。しかし、あの女が命にも替えられぬようなたいせつな品物を持っていたとも考えられないじゃないか。そんなふうに、ほかのいろいろな理由を想像してみても、皆可能性に乏しいのだった。ぼくは、ついには、これは死人とともに永久によみがえることのない疑問として、あきらめるほかはないのかと思った。dead secletということばがあるが、妙子の死因は文字どおりのdead secletだった。

 きみは盲点というものを知っているだろう。

 ぼくは盲点の作用ほど恐ろしいものはないと思うよ、普通盲点といえば、視覚について用いられてることばだが、ぼくは、意識にも盲点があると思う。つまり、いわば、『脳髓の盲点』なんだね。なんでもないことをふと度忘れすることがある。最も親しい友だちの名まえが、どうしても思い出せないようなこともある。世の中に何が恐ろしいといって、こんな恐ろしいことはないと思うよ。ぼくはそれを考えると、じっとしていられないような気がする。たとえば、ぼくが一つの創見に富んだ学説を発表する。その場合、その巧みに組み立てられた学説のある一点に『脳髓の盲点』が作用していたとしたらどうだ。一度盲点にかかったら、何かの機会でそれをはずれるまでは、まちがいをまちがいだと意識しないのだからな。ぼくらのような仕事をしているものには、ことに、盲点の作用ほど恐ろしいものはない。

 ところが、どうだろう。あの妙子の死因が、どうやらぼくの『脳髓の盲点』にひっかかっているような気がしだしたのだ。どうも不思議だと思う反面には、これほどよくわかったことはないじゃないかと、何者かがささやいているんだ。ぼんやりした、何だかわからないものが、『わたしこそ奥さんの死因なんですよ』といわぬばかりに、そこにじっとしているんだ。しかし、もうちょっとで手が届くというところまで行っていて、それから先はどうにもこうにも考.え出せないのだ」

 北川氏は予定どおり、寸分もまちがえないで話を進めていった。あせる心をじっと押えて、結論までの距離をなるだけ長くしようとした。そして、ちょうど子どもがヘビをなぶり殺しにするときのような快感で、野本氏の苦悶《くもん》するありさまをながめようとした。一寸だめし五分だめしに、チクリチクリと急所をついていった。

 この愚痴っぽい、なんでもないような長談義が、野本氏にとっては、どんなに恐ろしい責め道具だかということを、かれはよく知っていた。

 野本氏は黙ってかれの話を聞いていた。

 初めのうちは「うん」とか「なるほど」とか受け答えのことばをはさんでいたが、だんだん物をいわなくなっていった。それは、たいくっな話に飽き飽きしたというふうにも見えた。

 しかし、北川氏は、野本氏は恐れのために口がきけなくなったのだ、と信じていた。うっかり口をきけば、それが恐怖の叫び声になりはしないかという恐れのために、黙っているのだ、と信じていた。

「ある日、越野が尋ねてくれた。越野は近所に住んでいたばかりに、火事のてつだいから避難場まで引き受けて、ずいぶんめんどうをみてくれたんだが、その日はその日で、妙子の死因について、非常に重大なサゼッションを与えてくれたのだった。越野の話によると、それはある目撃者から聞いたんだそうだが、妙子はあのとき何か大声にわめきながら、燃えさかる家の前を、右往左往に駆け回っていたっていうんだ。あたりの騒音のために、それが何をわめいているのか聞き取れなかったが、何か非常に重大なことだったに違いないって、その男がいったそうだ。そうしているうちに、どこからともなく、ひとりの男が現われて、妙子のそばへ近寄って行ったそうだ」

 北川氏はこういって、じっと相手の目に見入ったのだった。それがどんなに相手をこわがらせるかということを意識しながら、かれは、暗い洞穴《ほらあな》の中からじいっと獲物をねらっているヘビのような目つきで、野本氏を見つめたのだった。

「その男は、妙子のそばまで行ったかと思うと、フッと回れ右をして、もと来たほうへ走り去ってしまったそうだが、すると、どうしたことか、妙子は非常に驚いて、いっぱいに見開いた目で、救いを求めるようにあたりを見回した。が、それも瞬間で、アッと思う問に、一面の火になっていた家の中へ飛び込んでしまった、というのだ。……その男は、それからどうなったか、まさか、その不思議な女が焼け死のうとも思わなかったので、混雑にまぎれてその後の様子を見届けなかった、といったそうだ。そして、それが、翌日焼け跡から掘り出された越野の友だちの細君だったと聞くと、その男は、そんなことなら、あの時すぐお知らせするのだった。残念をした、といって悔やみを述べたそうだ。

 この話を聞いて、ぼくは、やっぱり妙子は気が狂ったのではなかった、と思った。確かに何か重大な理由があって、火中に飛び込んだのに相違ない、と思った。

『それにしても、妙子のそばまで行って、すぐにどっかへいなくなった男というのは、いったい何者だろう』

 とぼくがいうと、越野は声を落として、真剣な目つきで

『それについて思い当たることがある』

 というではないか。……越野はあのとき、ぼくの荷物を肩にかついで走りながら、ふとひとりの男にすれ違ったのだった。ハッと思ってふり返ると、もうその男は、たくさんのやじうまの中へまぎれ込んで、姿が見えなかったそうだ。越野はその男の名まえを知らせてくれたが、きみはそれがだれだったと思う。ぼくとも、越野とも、いたって親しい、古い友だちなんだが。……その男は、なぜ友だちの越野に会って、あいさつもしないで、逃げるように跡をくらましたのだろう。ぼくの家が焼けているというのに、見舞いにも来ないで行ってしまったのだろう。これについて、きみはいったいどんなふうに考えるね」

 北川氏の話は、だんだん中心に触れていくのだった。

 野本氏は、相変わらずひと言も口をきかないで、一種異様の表情をもって、北川氏の雄弁に動く口のあたりをじっと見つめていた。かれの顔色は、さいぜんから、手酌でかなリビールを飲んでおったにもかかわらず、はじめ対座したときから見ると、見違えるほどあおざめていた。

 勝ちほこった北川氏は、ますます雄弁に、まるで演説でもしているような口調で、いっしょうけんめいに話を進めていくのだった。

 かれは極度の緊張で、両ほおのカッカッとほてるのを感じた。わきの下が、冷たい汗でしとどぬれるのを感じた。「だが、それだけのなそのような事実を聞いたばかりでは、ぼくにはどうにも判断の下しようがなかった。事実の真髓によほど近づいたことは確かだった。しかし、真髓そのものは、やっぱり今にもわかりそうでいて、少しもわからなかった。それは無限小の距離には近づきえても、本体に触れることは絶対にできないような、もどかしさだった。もどかしいというより.は、むしろ恐ろしかった。ぼくは、これはてっきり『脳髓の盲点』だなと思うと、身震いするほど恐ろしかった。そうして二日、三日と日がたっていった。

 ところが、ついしたことから、その盲点がハッと破れた。そして、夢からさめたように、何もかもすっかりわかってしまった。ぼくはふんぬのあまり、おどり上がった。そいつこそ、越野が教えてくれたその男こそ、憎んでも憎んでも憎み足りないやつだった。ぼくはすぐさま、そいつの家へ飛んで行って、つかみ殺してやろうかと思ったくらいだ、・……や、ぼくは少し興奮しすぎた。もっと冷静に、ゆっくり話をするはずだった。……そのときぼくは、妙子の里からよこしてくれた新しいうばに抱かれている子どもを見ていた。子どもは、まだうばになつかないで、まわらぬ舌で『ママ、ママ』と、死んだ母親を求めていた。子どもはいじらしかった。

 だが、こんなかわいい子どもを残して死んでしまった、いや、殺されてしまった母親こそ、なおさらかわいそうだった。ぼくはそう思うと、 『坊や、坊や』と子どもを呼んでいる母親の声が、あの世から聞こえてくるような気がした。

 きみ、これはきっと、浮かばれぬ妙子の魂が、どっかから、ぼくの胸へささやいたんだね。『坊や坊や』という妙子の声を想像すると、突然ぼくは激しいショックに打たれた。そうだ。それに違いない。……妙子を猛火の中へ飛び込ませるほどの偉大なカは、この『坊や』のほかには持っていないのだ。……一度盲点が破れると、長い間せき止められていた考えが、つなみのようにほとばしり出た。

 あのとき、ぼくが第二に、子どもを連れて友だちの家に避難したことを、妙子は知らなかったかもしれない。あの場合、そうしたことは、ありえないことじゃない。ぼくは飛び起きると、すぐさま子どもをかかえて走りだしながら、床の上に起き上がって身つくろいしている妻に、 『早く逃げろ、子どもはおれが連れて行くそ』とどなったのだ。しかし、それがはたして、動転していた妙子の耳に通じたかどうか。何を考える暇もなく、本能的に飛び出したあとで、はじめて子どものことに気づいたというようなことではあるまいか。そして、 『坊や、坊や』と叫びながら、家の前をうろついていたのではあるまいか。ああいう異常な場合には、ふだんとはまるで違った心理作用が働くものだ。その証拠には、ぼく自身にしても、二度めに、荷物を運んで、越野の家へ走っている間に、 『はてな、子どもはどうしたかしら』という考えで、幾度となく心臓をドキドキさせたくらいだもの」

 北川氏は、ここで少しことばを切って、その効果を確かめるように、野本氏の様子をうかがった。

 そして、野本氏がいっそうあおざめて、歯をくいしばっているのを知ると、満足らしくうなずいて、話を最も肝要な点に進めていった。

「ここにあるひとりの執念深い男があって、ある女に深い恨みをいだいていたと仮定する。男はどゲかして、その恨みをはらそうと、執念深く機会をねらっている。すると、あるとき、その女の家が火事にあう。どうかしたつこうで、その場に居合わせた男が、女の一家が焼け出されるありさまを小気味のいいことに思ってながめている。ふと見ると、女が『坊や、坊や』と叫びながら家の前をうろついている。男の頭に、あるすばらしい機知が浮かぶ。このチャンスをはずしてなるものかと思う。

 男はやにわに女のそばに近寄って、催眠術の暗示でもかけるように、 『ぼっちゃんはね、奥座敷に寝ていますよ』と告げる。そして、すばやくその場を逃げてしまう。なんという驚くべき、インジニアスな復讐《ふくしゆう》だろう。ふだんなら、だれだって、こんな暗示にかかりはしないだろう。しかし、気も狂わんばかりに、子どもの身のうえを気づかって逆上しているあの際の母を殺すには、それはとびきりのトリックだった。ぼくはふんぬに燃えたちながらも、その男のすばらしいウイットに感心しないわけにはいかなかった。

 ぼくは今まで、絶対に証拠を残さないような犯罪というものが、ありえようとは思わなかった。だが、その男の場合はどうだ。どんな偉い裁判官だって、処罰のしようがないではないか。死人のほかにはだれも聞かなかったであろう。そのささやきが、何の証拠になるだろう。それは、その男の行動を怪しんで、記憶にとどめている幾人かの人はあるかもしれない。しかし、そんなことが何になるものか。友だちの細君の不幸を慰めるために、そのそばへよって口をきくということは、しごくあたりまえのことだからね。かりに一歩を譲って、そのささやきがだれかに漏れ聞かれたとしても、それはその男にとって、ちっとも恐ろしいことじゃない。 『わたしは真実そう信じていったまでのことです。そのために奥さんが火の中へ飛び込んで、自分で自分を焼き殺したって、それはわたしの知ったことじゃありません。あなたは、そんな気違いじみたことをわたしが予期しておったとでもおっしゃるのですか』そういえばりっぱに申しわけが立つではないか。なんという恐ろしいたくらみだ。その男は確かに人殺しの天才だ。エ、そうじゃないか、野本君」

 北川氏は、ここでもう一度ことばを切った。そして、これからいよいよおれの復讐を実行す、るのだぞ、といわぬばかりに、ペロペロとくちびるをなめまわした。

 かれは、半殺しのネズミを前にしたネコのように、いかにも楽しそうに、ものすごい目つきで野本氏の顔をジロジロながめるのだった。

 北川氏が野本氏と親しくなったのは、もちろん学校が同じだったという点もあるが、それよりも、ひとりの女性を渇仰する青年たちが、類をもって集まった、そのグループの中の一員として、お互いに嫉視《しつし》しながら近づき合ったということが、より重大な動機をなしていたのだった。

 そのグループの中には、北川氏、野本氏のほかにまだ二、三人の同じ青年たちがいた。あの火事の際に、北川氏一家の避難所を承った越野氏も、その中のひとりだった。それは七、八年も以前のことで、当時の青年たちは、もうそれぞれひとかどの威厳を備えたプティ・ブルジョワになりすましていたが、さすがに昔忘れずつきあっているのだった。

 では、そのグループの中心となった幸福な女性はというと、それがすなわち、のちの北川氏夫人妙子だったのである。

 妙子は山の手のある旧|御家人《ごけにん》の娘だった。何何小町と呼ばれたほどの器量よしで、そのうえ、教育こそじみな技芸学校を出たばかりだったが、女としてはかなり理解力にも富んでいたし、昔かたぎの母親のしつけにもよったのだろうが、当節の娘に似合わないしとやかなところもあって、申しぶんのない少女だった。

 当時北川氏は、遠いしんせきに当たるところから、妙子の家に寄寓して学校に通っていた。自然、妙子渇仰の青年たちは、北川氏の書斎に集まって来た。

 北川氏はそのころから、少し変人型のむっつりやで、学問にかけてはだれにもひけを取らなかったが、交際というようなことは、いたって不得手だった。それにもかかわらず、かれの書斎に客の絶えまがなかったというのは、かれを尋ねさえすれば、たとえいっしょになって談笑するとまではいかずとも、取り次ぎに出たり、お茶を運んで来たり、何かと妙子の顔を拝む機会があろうという、友人たちの敵本主義によるものだった。その中でも、最もしげしげかれの室に出入りしたのは、今いった野本氏、越野氏、その他二、三氏のグル」プだった。かれらの暗闘はなみなみならず激しいものだった。だが、それはあくまで暗闘だった。

 その中でも、野本氏は最も熱心だった。秀麗なようぼうの持ち主で、学校の成績もまず秀才の部に属してい、そのうえずいぶん調子のいい交際家でもあった野本氏が、われこそという自信を持っていたのは、しごく当然なことだった。かれ自身そう信じていたばかりでなく、'競争者たちも、残念ながら、かれの優越を否定するわけにはいかなかった。北川氏の書斎における談笑の中心は、いつもきまったように野本氏が引き受けていた。ときたま妙子が座にあるとき、もしそこに野本氏がいないと、座がしらけた。野本氏がいれば、彼女も快活に口を開いた。

 彼女が大声に笑ったりするのは、野本氏のいるときに限られた。そういう調子で、かれは苦もなく妙子に接近していったのだった。

 だれしも、野本氏こそ勝利者だと思った。

 いろいろな機会のいろいろな暗黙の了解によって、野本氏自身もそう信じていた。あとにはただプロポーズが残っているばかりだと信じていた。

 かれらの関係がちょうどそうした状態にあるとき、暑中休暇が来た。野本氏は優勝者の満悦をもって、いそいそと帰省の途についた。もうすっかり自分のものだという安心が、妙子とのしばしの別れを、かえって楽しいものに思わせた。

 遠方からの手紙のやり取りによって、ふたりの間がなおいっそう接近するであろうことを予想しながら、野本氏は東京をあとにした。

 ところが、野本氏の帰省中に、がぜん局面が}変した。野本氏があれほども自分のものだと信じきっていた妙子が、かれにはひと言の断わりもなく、一同が、まさかこの男がと、たかをくくっていた、あのむっつりやの北川氏に嫁してしまったのであった。

 北川氏の喜悦と反比例して、野本氏のふんぬは激しいものだった。それはふんぬというよりも、むしろ驚愕《きようがく》であった。信じきっていたものに裏切られた驚愕であった。これ見よがしにふるまっていたてまえ、かれは友だちに合わす顔がなかった。

 しかし、これといってハッキリした約束を取りかわしているわけではなかったので、どうにも抗議のしようがなかった。違約を責めようにも、たがえるべき約束をまだしていないのだった。漏らすすべのない憤りは、野本氏の人物を一変させてしまった。

 それ以来、かれはあまり物をいわなくなった。これまでのように、友だちの家を遊び回らなくなった。かれはただ、学問に没頭することによって、わずかにやるせない失恋の悲しみをまぎらそうとした。北川氏はそれらの事情を知りすぎるほどよく知っていた。野本氏がその後今日に至るまで妻帯しないことが、かれの失恋の悲しみがいかに激しいものだったかを証拠だてていると思っていた。それだけに、かれと野本氏との間柄は、表面は同窓の友としてつきあっていたけれども、実はかなり気まずいものになっていた。

 そうしたいきさつを考えると、野本氏があのような復讐をくわだてるというのも、ずいぶんもっともなことだったし、北川氏がそれを疑う心持ちも、決して無理ではなかった。

 さて、北川氏という男は、前にもちょっと言い及んだように、少し変わり者だった。

 社交的の会話、しゃれとか冗談とかいうものは、まるでだめだった。かれはユーモアというものをてんで解しないような男だった。 しかし、議論などになると、かなり雄弁にしゃべった。かれは何か一つの目的がきまらないことには、何もする気になれぬらしかった。そのかわり、これと思い込むと、わき目もふらずつき進むほうだった。そういうときは、目的以外のことにはまるで盲目になってしまった。この性質があればこそ、かれは学問にも成功した。不得手な恋にさえ成功した。かれは二つの事を同時に念頭におくことのできないたちだった。

 妙子を得るまでは、妙子のことのほかは何も考えなかった。妙子を得てしまうと、今度は学問に熱中した。あれほど執心だった妙子をひとりぼっちにほったらかして、学問の研究に没頭した。そして、今や妙子の死に会するに及んでは、 「かわいそうな妙子」のことのほかは何も考えられぬかれであった。野本氏に対する復讐についても、かれは狂的に熱中した。そして、その目的を果たすと狂的に歓喜した。

 すべてが極端から極端へと走った。

 かれは一つまちがうと気違いになりかねぬような素質をたぶんに持っていた。いや、現に、妙子の死因についてのあのとっぴな想像、野本氏に対するあの奇怪なる復讐、それらは北川氏の正気を信ずるにはあまりに気違いじみた思想ではなかったか。

 しかし、北川氏はかれの想像の的中を堅く信じていた。そして、その信念が今確証されたのであった。

 かたきとねらう野本氏は、みごと北川氏の術中に陥って、かれの目の前に、あさましい苦悶《くもん》の姿をさらしたのであった。

 北川氏の話は、やっと長々しい前提を終えて、復讐の眼目にはいるのだった。

「その男の恐ろしい復讐には、少しの手落ちもなかった。たとえそれを推量することはできても、それは推量の範囲を一歩だって越えることはできないのだ。おまえはこういう罪を犯したではないかと責めたところで、相手がそれに服しなければ、どうにもしようがないのだ。ぼくは光だその男の機知に感じ入って、じっとしているほかはなかった。相手はわかっている。しかも、それを責める方法がない。こんな苦しいへんてこな立場があるだろうか。だが、野本君、安心してくれたまえ。ぼくはとうとう、その男をとっちめる武器を発見したんだ。けれど、それはぼくにとって、なんという残酷な武器だったろう。

 ぼくが発見した事実というのは、その男を苦しめると同時にぼくを苦しめる、それを復讐の手段に用いるためには、まずぼく自身が相手.と同様の苦しみをなめたうえでなければ、役にたたないような種類のものだった。ぼくは、あの、敵に毒まんじゅうを食わせるために、まずみずからの命を的にその一片を毒見した昔の忠臣の話を思い出した。敵を倒せば自分も滅びる、自分がまず死なねば、相手を殺すことができない。なんという恐ろしい死にもの狂いな復讐だろう。

 だが、昔の忠臣の場合はまだいい。ぼくは復讐を思いとどまりさえすれば、身を殺す必要はなかったのだ。ところが、ぼくの場合は、復讐をしようがしまいが、そんなことに関係なく、その恐ろしい事実は、一刻一刻鮮明の度を加えて、ぼくに迫ってくるのだった。初めの間はボンヤリしたあるかなきかの疑いだったものが、徐々に、ほんとうに徐々に、事実らしくなっていった。そして、今ではそれが『らしく』などということばを許さぬ、火のように明らかな事実となつてしまった。今までは心の中の問題だったものが、あまりにめいりょうな証拠物の発見によって、もうどうにも動きのとれぬ事実となってしまった。どっちみち、ぼくはこの苦しみを味わわねばならぬのだ。どうせ苦しむのなら、たぶんぼくよりも幾層倍打撃をこうむるであろう敵にも、この事実を知らせてやろう。そして、そののたうち回るありさまをながめてやろう。ぼくはそう決心したのだ。

 その当座、ぼくは毎日毎日、その男のこのうえもなく巧妙な復讐のことよりほかは考えなかった。あるいは憤ったり、あるいは感心したりしながら、そればかりで頭の中がいっぱいになっていた。ところが、ある日、地平線のかなたにぽっつりと現われた一点の怪しげな黒雲のように、ふと妙な考えが浮かんだ。なるほど、あの男は完全無欠な手ぎわで復讐をなしとげた。しかし、もし妙子がかれの信じているように、かれをきらっていなかったとしたらどうだ。いや、かえって、かれを愛していたとしたらどうだ。……そんなことがあるはずはない。それはとりとめもない妄想だ。おれは頭がどうかしている。バカな、そんなことがあってたまるものか。だが、しかし、それははたしてありえないことだろうか。なぜ、こんなとほうもない妄想が、おれの頭の中へ浮かんできたのだろう。ぼくは恐ろしさに身震いした。もし……もし、妙子があれ以来その男を思いつづけていたとしたら。

 自然に、ぼくの考えは妙子との結婚当時の事情に移っていった。その男は結婚以前のぼくにとって、ひとりの恐るべき競争者だった。ぼくはひそかに信じているんだが、その男自身も、かれの周囲の人たちも、妙子がぼくと結婚しようなどとは、もうとう考えていなかったに相違ない。そして、その男こそ、妙子の未来の夫になるしあわせ者だと信じていたに相違ない。それほど、その男は妙子の心を奪っていた。もしそこに特別の事情がなかったなら、妙子は必ずかれのもとに走ったであろう。敵ながら、その男にはあらゆる条件が備わっていた。それに反して、ぼくはというと、何一つ女の心をひくような美点を持ち合わしていなかったではないか。だが、ぼくのほうには特別の武器があった。ぼくは妙子の家と遠い姻戚関係があったばかりでなく、昔にさかのぼれば、ぼくの一家は妙子の一家の主筋になるのだった。そうした関係から、結婚を申し込めば、妙子の両親が、あの昔かたぎな老人たちが、二つ返事でむしろありがたく承諾するのは当然のことだった。そんな義理ずくばかりでなく、物堅いぼくの性質が『あの人なら』というふうに、かれらの深い信用をかっていたのだもの。そのうえ幸か不幸か、妙子自身が、どんなことがあっても親の言いつけにはそむきえないような、昔風《むかしふう》の娘だった。心では、どれほど深く思いつめている男があっても、それを色に現わすようなはしたない女ではなかった。ぼくはそういう事情につけ込んで、無理にも我意を通そうとしたのではなかったか。たとい、これほどめいりょうには考えないでも、心の奥では、それを意識していはしなかったか。

 だが、だれでも持っているように、ぼくとても、人並みの、いや、おそらく人並み以上のうぬぼれを持っていた。意外にもすらすらと結婚の話が進捗して、さて、いっしょになってみると、いつとはなしに、そうした自責に似た心持ちも消え去ってしまった。妙子は、ぼくをたいせつなだんなさまとして、じゅうぶん貞節を尽くしてくれた。 『さては、あの男を恋していたと思ったのも、おれの疑心暗鬼であったか』お人よしのぼくは、一概にそう信じてしまったのだった。

 しかし、今にして思えば、妙子のほかに女というものを知らぬぼくには、、なんとも判断しかねるけれど、恋というのは、あんなものではないらしい。ぼくと妙子の関係は、恋人というよりも、むしろ主従のそれに近いものだったのではあるまいか。考えてみれば、ぼくもずいぶんぼっちゃんであ塵った。三年間もつれ添っていながら、女房の心持ちがハッキリわからないなんて、i実際、ぼくはこれまで、女房の心持ちについて考えてみょうなどと、思ったことすらないのだ。夫婦になりさえすれば、女房というものは、亭主を世界じゅうのただひとりとして愛するものだと単純にきめてしまって、もう何の疑うところもなく、専門の仕事に没頭していたのだった。

 だが、今度の事件がぼくの目を開いてくれた。

 あとになって考えると、妙子のそぶりに、ふにおちぬ点が多女あった。ああいうとき、ほんとうに夫を愛している女房だったら、あんなふうにはしなかったろうというような、ささいなできごとが、それからそれへと思い浮かぶのだった。確かに、妙子はぼくという夫に満足していなかったのだ。そして、心ならずも見すてたところの、昔の恋人の姿を、絶えず心に抱き締めていたのだ。いや、心のうえだけではない。悲しいことだが、彼女のあのふくよかな、暖かい胸には、真実その男の『姿』が抱きしめられていたのだった。

 ぼくはさっき、動きのとれぬ証拠物を発見したといった。

 その証拠物というのは、見たまえ、これなんだ。このメダルは、きみもよく知っているように、妙子が娘時代からたいせつにしていた品だ。

 これは、やっと火事場から持ち出した彼女の手文庫の底に、丁寧にビロードのサックに入れてしまってあったのを、つい数日前、ふとしたことから発見したんだが、この妙子の秘蔵のメダルの中には、いったい何がはいっていたと思う。この中には、野本君、その男の1越野が火事場で出会った男の1妙子を無残に焼き殺した男のーしかも、その妙子が以前からずっと愛しつづけていた男の1写真が守り本尊のようにはりつけてあったのだよ。しかし、もし、これが妙子が娘時代にその男の写真をはりつけておいたまま、うち亡心れていたとでもいうのならまだしも、現に、彼女はぼくと結婚した当座、確かにこの中へはぼくの写真をはりつけていたのだからな。それがいつの間にか、その男の写真と替わっていたというのは、これはいったい何を語るものだろう」

 北川氏は、内ぶところへ手を入れて、一つの金製のメダルを取り出した。そして、それを手のひらの上にのせて、ヌッと野本氏の鼻の先へつき出した。

 野本氏は、おそれに耐えぬように、うち震う手でそれを受け取った。そして、メダルの表面の浮き彫り模様をじっと見入っていた。

 北川氏は極度に緊張していた。皇国の興廃この一戦にあり、といった感じだった。あらゆる神経が両眼に集中した。そして、野本氏の表情を、どんな細かい点までも見のがすまいと努力した。死のような沈黙が続いた。

 野本氏は、かなり長い間メダルを見つめていた。

 かれは、そのふたを開いて、中の写真を確かめようともしなかった。それは、そんなことをして見るまでもなく、あまりに明白な事実として、野本氏の胸を打ったのに相違なかった。iかれの表情はだんだんうつろになっていった。ことに、かれの目は、視線だけはメダルにそそいでいたけれど、何かほかのことを深く深く思い込んででもいるように、まるでうつろに見えた。やがて、かれの頭は、そろりそうりと下がっていった。そして、ついには、かれはチャブ台の上にうつぶしてしまったのだった。その瞬間、北川氏はかれが泣きだしたのではないかと思って、ハッとした。だが、そうではなかった。

 野本氏は、あまりにひどい心の痛手に、もはや永久に起き上がることのできない人のように、うつぶしたまま動かなかった。

 北川氏は、もうこれでいいと思った。

 勝利の快感で、のどがふさがるように思われた。それ以上話を続ける必要はなかった。たとえあっても、北川氏にはもう口がきけなかった。かれはもがくようにして立ち上がった。

 そして、うつぶしたままの野本氏をしりめにかけて、すっと座敷から出た。何も知らぬばあやが、あわててかれのゲタを直しに出て来た。かれは踊るような足取りで玄関の式台へ降りたとたんに、ドサリという音がした。

 北川氏はばあやの上に重なって、ぶざまに倒れていた。かれは興奮のあまり、しびれがきれたことすら意識しなかったのだ。'

「かくして、おれは勝ったのだ」

 北川氏は満悦のていで、まだ歩きつづけていた。

「あいつは、あのメダルを永久に手離しえないのだ。捨てようとしても、どうにも捨てられないのだ。いや、メダルそのものはたとえ捨てることができても、あいつの頭の中には、いつまCも、いつまでも、おそらく墓場の中までも、持ち主の姿を代表するように、あのメダルがこびりついていることだろう。 『これほど自分を思ってくれた人を、おれはこのうえもない残酷な手段で焼き殺してしまったのだ』やつは取り返しのつかぬ失策に、毎日毎日嘆きもだえることだろう。こんな気味のいい復讐があるだろうか。なんという申しぶんのない手ぎわだろう。さすがは北川だ。おまえは偉い。おまえの頭は、日ごろおまえが信じているとおり、実にすばらしいものだなあ」

 北川氏の歓喜は、勝利の悲哀に転ずるいっせつな前のクライマックスに達していた。

 かれは今、歩きつづけながら、べースボールの応援者たちが「フレー、フレー、なんとかあしとわめいて踊り上がるときのように、踊り上がった。そして、気違いのようによだれをたらしながら、ゲラゲラと笑った。おびただしい汗が、シャツを通して、薩摩上布《さつまじようふ》の腰のあたりをベットリとぬらしていた。まっかに充血した顔からは、ボトリボトリと汗のしずくがたれていた。

「ワハハハハハハハハハハハハ、なんというばかばかしい、子どもだましなトリックだ。野本先生、まんまとしてやられたね。エ、野本先生」

 かれは大きな声でこうどなった。

 さて、北川氏が野本氏に話したことは、実は前の半分だけがほんとうで、あと半分は、かれの復讐のために考え出した一つのトリックにすぎないのだった。

 かれが妙子の死を悲しんだことは、実際野本氏に話した幾層倍か知れなかった。彼女が死んでから半月ばかりというものは、学校のほうも休んでしまってfそれがかれの職業だったiー夜の目も寝ずに泣き悲しんでいた。 「ママ、ママ」と母親の乳を尋ねる幼児といっしょになって泣いていた。

 越野氏──あの火事のときに親切にてつだってくれた越野氏が、かれの新居へやって来て、妙子の死因についてある暗示を与えたまでは、かれは彼女の死を疑う余裕さえないほど、ただわけもなく悲嘆に暮れていた。

 だが、ひとたび越野氏の話を聞くと、かれは例の一本調子になって、悲しみを打ち忘れて復讐に熱中しだした。夜となく昼となく、かれは相手の残酷な復讐に対する返り討ちの手段のみを考えた。

 それはかなり困難な仕事だった。だいいち、相手がだれであるか、それすらわからなかった、北川氏は越野氏が火事場で野本氏に会ったように話したけれど、あれも作りごとだった。なるほど、越野氏は見覚えのある男に会った、といった。そして、その男がいかにもかれの目をおそれるように、人込みの中へ隠れてしまったともいった。

 それがだれであったか、越野氏はよく見分ける暇がなかったのだった。

「なんでも、学校時代に親しく行き来した友だちのひとりなんだ。なにしろ、あの騒ぎで、気てんどうが顛動している際だったから、ハッキリしたことはいえないが、野本か、井上か、松村か、つまり、あの時分きみの書斎へよく集まった連中のひとりだと思うんだがね。野本のようでもあり、井上のようでもあり、そうかといって松村でなかったとも断言しかねるが……ともかく、その三人の申のだれかに相違ないのだけれど、どうしても思い出せない」

 越野氏はこんなふうにいった。

 まず相手から捜してかからねばならないのだった。もし、まちがった相手に復讐するようなことがあったら、取り返しのつかぬことになる。それに、たとえ相手がわかったとしても、あまりに巧妙なやり口に、どうにも手のつけようがないではないか。北川氏自身、野本氏に白状したとおり、それは絶対に証拠のない犯罪だった。純粋に心理的なものだった。つまり、そこには二重の困難が横たわっていたのだった。

 幾日となく、そればかりを考えているうちに、北川氏の頭に、ふとすばらしい名案が浮かんだ。それは法律に訴えることでは、むろんなかった。だといって、暴力をもって私刑を行なうのでもなかった。それは、復讐者は絶対に安全で、しかも、相手には、政府の牢獄《ろうごく》や、どんな私刑の苦痛にもまして、深い、強い打撃を与えうるような方法だった。そればかりでなく、もっといいことには、その方法によるときは、わざわざ真犯人を見いだすめんどうのないことだった。容疑者のすべてに、それを実行しさえすればよいのだった。

 真の犯罪者にはこのうえもない苦痛を与えるけれども、ほかの者はなんらの痛痒《つうよう》も感じないだった。妙子が残していった金メダルと、学生時代に、同じクラスの者が集まって写した四つ切りの写真とが、その材料だった。

 北川氏はまず、その金メダルと同じものを二つ作らせた。そして、つごう三つの寸分違わないメダルがそろうと、今度はその中へ、それぞれ、野本氏、井上氏、松村氏の写真を、顔のとだけ切り抜いてはりつけた。

 なんという簡単な準備だ。これであの重大なあだ討ちができようとは。

「しかし、相手のトリックは、もっと簡単で、しかも自然だったではないか。世の中には、きわめてささいな原因が、非常に重大な結果を招くことがあるもんだ。このつまらないメダルと、古ぼけた切り抜き写真が、ひとりの人間の一生の運命を左右する偉大なカを持っていないと、だれが断言できるだろう。

 野本にしろ、井上にしろ、松村にしろ、この金メダルを見忘れているはずはない。ことに、このふたの表面のヴィーナスの浮き彫りは、あのころおれの室へ来たほどの青年たちが皆熟知しているはずだ。かれらが妙子のうわさをし合うときには、いつもその本名を呼ぶかわりに、メダルの模様から思いついた「ヴィーナス」というあだ名を使っていたほどではないか。今もし、かれらのうちのだれかが、妙子の手丈庫の底深く秘めていた、このメダルの中に、自分の写真がはりつけてあったと知ったなら、どんなに狂喜することだろう。と同時に、もしそのだれかが、妙子を焼き殺した本人だったら、その男の悲痛は、まあ、どれほどだろう」

 実をいえば、越野氏の教えてくれた三人の中では、北川氏は野本氏を最も疑っていた。だが、ほかの三人とても妙子に無関心であったはずはないのだから、疑って疑えないことはなかった。そこで、最も嫌疑《けんぎ》の重い野本氏を最後に残して、まず、井上、松村の両氏に、北川氏みずから名案と信ずる、このメダルのトリックを試みることにしたのだった。

 しかし、両氏とも、メダルを取り出すまでもなく、その無実がめいりょうになった。

 かれらは申し合わせたように、北川氏のへんてこな話を聞くと、きのどくだ、という表情をした。そして、

「きみは細君に死なれて、少しとりのぼせているに相違ない。そんなバカバカしいことがあってたまるものか、きみはもっと気を落ち着けなくちゃいけない。まあまあ、そんなつまらない話はよしにして、さあ、一杯やりたまえ」

 というような調子で、他意もなく慰めてくれるのだった。かれらの表情には、犯罪者の疑懼《ぎく》などは、影さえもささなかった。

 北川氏は少なからず失望した。

「おれの考えは、そんなに気違いじみているのかしら。もしかすると、これはかれらがいうように、まるで根も葉もない妄想《もうそう》にすぎないのではあるまいか。

 だが、まだ野本が残っている、おれは最初から、あいつをこそ目ざしていたのではないか。ともかくも、最後までやってみなければ」

 こうして、かれはきょう野本氏をおとずれたのだった。そして、予期以上のみごとな効果を収めたのだった。かれが狂者のように歓喜したのは、決して無理ではなかった。

 北川氏は二時間あまりも、汗でベトベトになって歩き続けていた。ふと、とけいを見ると、夏の日はまだ暮れるに間があったけれど、時間はもう夕食時を過ぎていた。かれはようやくわれに返ったように、今度は方向を定めて歩きだした。

 一日の興奮で疲れきったからだを、郊外電車にゆられながら、家にたどりつくと、かれはもう何をする気にもなれなかった。すぐに床をとらせて、ぐったりと横になると、まもなく、快いいびきが、きょうの勝利に満足しきったかれののどから、ゆったりしたリズムをもって、漏れてくるのだった。

 翌日、北川氏が目をさましたのは、十時に近いころだった。熟睡ののちの怏い倦怠が、かれをことさらいい心持ちにした。かれは起き上がると、ねまきのまま書斎へはいっていった。そこには甘い回想の材料がかれを待っていた。野本氏の手に残してきたのと寸分違わない、二つの金メダルが、書き物机のひきだしの中に待っていた。

 かれはそれを取り出して、あいぶするようにながめるのだった。

 初めの計画では、野本氏のところばかりでなく、井上氏や、松村氏のところへも、それを残して来るつもりだった。もし三人のうち、だれが犯罪者だか判別しかねるような場合には、どうしても、ひとりに一つずつメダルを残して来る必要があった。そういうつもりで、かれはわざわざ高価な模造品を二つまで造らせたのだった。

 しかし、前にもいったように、野本氏のほかのふたりは、メダルを取り出すまでもなく、見分けがついた。北川氏はたいせつに札入れ中へ入れて行ったものを、二度ともそのまま持ち帰らねばならなかった。かれは今、その不用に帰した二つのメダルをながめているのだった。

「野本のやつ、こんなトリックがあろうとは、まるで想像もできないだろう。へへへ、どうです。なんとうまい手品でしょうがな。ところで、ひとつ種明かしをいたしましょうか。さあ、ご覧なされ。手品の種というのは、この二つの金メダルでござる。この中には、いったい何物がはいっているとおぼしめす。わかりますまい?では、申しますがね。この一つには松村先生の写真、も一つには井上先生の写真が、ちゃんとはいっているのですよ。野本先生の写真は、もうここには……」

 北川氏は、ふとせりふめいたひとり言をやめた。

 かれは心臓がスーッとのどのほうへ上がってくるような気がした。かれの顔が白紙のように白くなった。今にもメダルのふたを開こうとしていたかれの手は、突然、えたいの知れぬ恐れのために、バッタリその動作を中止した。

 そして、恐怖に耐えぬかれのひとみが、じつと空を見っめた。

「おれはどんな細かい点までも、注意に注意して事を運んだつもりだ。しかし、この不安はどうしたというのだろう。何か、とほうもないまちがいをしてやしないかしら。おまえは今、その肝心の点だけがどうしても思い出せないではないか。おまえは野本の家へ行くときに、はたして野本の写真のはいっているメダルを持っていったか。

 さあ、しっかりしろ。もしも、おまえが野本に渡したメダルに、松村か井上の写真がはいっていたとしたら、どんな結果になるかよく考えてみよ。おまえは恐ろしくはないか。そら、おまえは震えているではないか。では、おまえは、そのどうにも取り返しのつかぬ錯誤を、今思い出したとでもいうのか」

 かれはフラフラと立ち上がった。そして、じっとしていられないように、へやの入り口のほうへ歩きだした。ちょうどそのとき、出会いがしらに、女中が一通の封書を手にして、かれの書斎へはいって来た。

「だんなさま、野本さんからお使いでございます」

 しゃっくりのようなものが、北川氏の胸にこみ上げてきた。

 ある予感が、だだっ子のように、この手紙を読ませまいと、かれを引き止めた。しかし、いつまでもそうして女中とにらめっくらをし'ているわけにはいかなかった。

 かれはついに意を決したもののように、手紙を取って開封した。巻き紙に書かれた達筆な野本氏の文字が、焼きつくように北川氏の目を射た。

 読んでいるうちに、ものすごい笑いが北川氏の口べに浮かんできた。その笑いが、だんだん顔じゅうに広がっていった。

 かれは、巻き紙を持った両手をスーッと差し上げたかと思うと、クルリ、その巻き紙でほおかむりをした。そして爆発したように笑いだした。

「ハッハッハッハッ     ヘッヘッヘッヘッヘッ   フッフッフッフッ   」

 かれは身をもだえて笑いつづけた。ちょうど、朝顔日記の笑い薬の段に出てくる悪医者のように、とめどもなく笑いこけた。

 こうして、かわいそうな北川氏は発狂してしまった。かれの発狂の原因が何ものであったか、われわれは今にわかにそれを判断することはできない。

 しかし、妙子の変死がその最も重大なる遠因であって、野本氏の手紙がその最も重大なる近因であったと推定するのが、まず誤りのないところであろう。その野本氏の手紙には、左のような文句がつづられてあった。

前略

昨日は意外の失策ご無礼の段、幾重にもご容赦くだされたくそうろう。

実は、数日来極度の多忙にて、ろくろく夜の目も寝ず仕事に没頭いたしおり、連日の睡眠不足より、ついにあの不始末に及びたる次第にそうろう。貴君のお話もかすかに記憶いたしおりそうらえども、なんどきお立ち帰りになりたることやら、まるで前後忘却、貴君の前をもはばからず、いぎたなく睡眠に及びたる一埓《いちらつ》、なんとも申しわけのことばこれなくそうろう。おぼろげながら、昨日のお話によれば、令閨《れいけい》ご死去に関して、何か疑惑をいだかれおるよう拝察いたしそうらえども、常識より判断いたせば、お話のごとき儀は、よもこれあるまじきかと存じられそうろう。愛人を失われたるご悲嘆のほどは、千万ご同情申し上げそうらえども、あまりそのことのみ思いつめられては、ご健康にもよろしからず、この際転地でもなされ、じゅうぶんご静養あいなりそうろうよう、さしでがましき次第ながら、旧友の老婆心よりご忠告申し上げそうろう.

まずはとりあえず、昨日のおわびかたがた、かくのごとくにござそうろう。

 二伸 お忘れの金メダル同封いたしおきそうろう。確か、この中に張りつけある写真の主こそは恐るべき殺人者のよう承りそうらえども、さるにても、ご同様親しく往来いたしいるかの松村君が、仰せのごとき極悪人なりとは、断じて信じ難きところにござそうろう。

 封筒の中には、手紙のほかに、白紙で包んだ金メダルがはいっていた。どうしてまちがったのか、そのメダルには野本氏のでなくて、松村氏の写真がはさんであった。この手紙が野本氏の真意であったか、それともメダルのまちがいに乗じたかれの機知であったか、それは野本氏自身のほかはだれにもわからぬ永久の秘密だった。かくて、北川氏の発狂の直接の動機となったものは、なんと恐ろしい因縁ではないか。かれが平生口癖のようにしていた、いわゆる『脳髓の盲点』の作用だったのである。

      (『新青年』大正十二年十二月号)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

記事メニュー
目安箱バナー