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江戸川乱歩「お勢登場」


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1

 肺病やみの格太郎は、きょうもまた、細君においてけぼりを食って、ぼんやりと、るすを守っていなければならなかった。最初のほどは、いかなるお人よしの彼も激憤を感じ、それを種に離別をもくろんだことさえあったのだけれど、病《やまい》という弱味がだんだん彼をあきらめっぼくしてしまった。隼尢の短い自分のこと、かわいい子どものことなどを考えると、乱暴なまねはできなかった。その点.では、第三者であるだけ、弟の格二郎などのほうがテキパキした考えを持っていた。彼は兄の弱闘味を歯がゆがって、時々意見めいた口をきくこともあった。

「なぜ、にいさんはそうなんだろう。ぼくだったら、とっくに離縁にしているんだがなあ。あんな人に憐《あわ》れみをかけるところがあるんだろうか」

 だが、格太郎にとっては、単に憐れみというようなことばかりではなかった。なるほど、今おせいを離別すれば、文なしの書生っぽに相違ない彼女の相手とともに、たちまちその日にも困る身の上になることは知れていたけれど、その憐れみもさることながら、彼にはもっとほかの理由があつたのだ。子どもの行く末もむろん案じられたし、それに、恥ずかしくて弟などには打ち明けられもしないけれど、彼にはそんなにされても、まだおせいをあきらめかねるところがあった。それゆえ、彼女が彼から離れぎってしまうのを恐れて、彼女の不倫を責めることさえ、遠慮しているほどなのであった。

 おせいのほうでは、この格太郎の心持ちを、知りすぎるほど知っていた。大げさにいえば、そこには暗黙の妥協に似たものが成り立っていた。彼女は隠し男と遊戯の暇には、その余力をもって格太郎を愛撫《あいぶ》することを忘れないのだった。格太郎にしてみれば、この彼女のわずかばかりのおなさけに、ふがいなくも満足しているほかはない心持ちだった。

 「でも、子どものことを考えるとね、そう一概なことはできないよ。この先一年もつか二年もつか知れないが、おれの寿命はぎまっているのだし、そこへもってぎて、母親までなくしては、あんまり子どもがかわいそうだからね。まあ、もうちっとがまんしてみるつもりだ。なあに、そのうちにはおせいだって、きっと考えなおす時が来るだろうよ」

 格太郎はそう答えて、いっそう弟を歯がゆがちせるのを常とした。

 だが、格太郎の仏心に引きかえて、おせいは考えなおすどころか、一日一日と不倫の恋におぼhれていった。それには、窮迫して、長わずらいで寝たぎりの彼女の父親がだしに使われた。彼女口父親を見舞いに行くのだと称しては、三日にあけず家を外にした。はたして彼女が里へ帰っているかどうかをしらべるのは、むろんわけのないことだったけれど、格太郎はそれすらしなかっ九に。妙な心持ちである。彼は自分自身に対してさえ、おせいをかばうような態度を取った。

 きょうもおせいは、朝から念入りの身じまいをして、いそいそと出かけて行った。

「里へ帰るのに、おけしょうはいらないじゃないか」

 そんないやみが、口まで出かかるのを、格太郎はじっとこらえていた。このごろでは、そうして、言いたいことも言わないでいる自分自身のいじらしさに、一種の快感をさえおぼえるようになっていた。

 細君が"出て行ってしまうと、彼は所在なさに、趣味を持ちだした盆栽《ぼんさい》いじりを始めるのだった。はだしで庭へ降りて、土にまみれてみると、それでも、いくらか心持ちが楽になった。また一つに陣は、そうして趣味に夢中になっているさまをよそおうことが、他人に対しても自分に対しても、必要なのであった。おひる時分になると、女中がご飯を知らせに来た。

「あの、 おひるの用意ができましたのですが、もうちっとのちになさいますか」

 女中でさえ、遠慮がちにいたいたしそうな目で自分を見るのが、格太郎にはつらかった。

「ああ、もうそんな時分かい。じゃ、おひるとしようか。坊やを呼んで来るといい」

 彼は虚勢を張って、快活らしく答えるのであった。このごろでは、なんにつけても虚勢が彼の習慣になっていた。そういう日にかぎって、女中たちの心づくしか、食膳《しよくぜん》にはいつもよりごちそうが並ぶのであった。でも、格太郎はこのひと月ばかりというもの、おいしいご飯をたべたことがなかった。子どもの正一も家の冷たい空気に当たると、外のガキ大将が、にわかにしおしおしてしまうのだった。

「ママどこへ行ったの?」

 彼はある答えを予期しながら、でも聞いてみないでは安心しないのである。

「おじいさまのところへいらっしゃいましたの」

 女中が答えると、彼は七歳の子どもに似合わぬ冷笑のようなものを浮かぺて、「フン」といったきり、ご飯をかき込むのであった。子どもながら、それ以上質問を続けることは、父親に遠慮するらしく見えた。それに、彼にはまた、彼だけの虚勢があるのだ。

「パパ。お友だちを呼んで来てもいい?」

 ご飯がすんでしまうと、正一は甘えるように父親の顔をのぞき込んだ。格太郎は、それがいたいけな子どもの精いっぱいの追従《ついしよう》のような気がして、涙ぐましいいじらしさと、同時に、自分自身に対する不快とを感じないではいられなかった。でも、彼の口をついて出た返事は、いつもの虚勢以外のものではないのだった。

「ああ、呼んで来てもいいがね。おとなしく遊ぶんだよ」

 父親の許しを受けると、これもまた子どもの虚勢かもしれないのだが、正一は「うれしい、う.れしい」と叫びながら、さも快活に表のほうへ飛び出して行って、まもなく三、四人の遊び仲間をひっぱって来た。そして、格太郎がお膳《ぜん》の前で楊枝《ようじ》を使っているところへ、子ども部屋のほうから、もうドタンバタンという物音が聞こえはじめた。

2

 子どもたちは、いつまでも子ども部屋の中にじつとしていなかった。鬼ごっこか何かを始めたとみえて、部屋から部屋へと走りまわる物音や、女中がそれを制する声などが、格太郎の部屋まで聞こえてきた。中にはとまどいをして、彼のうしろのふすまをあける子どもさえあった。

「ア、おじさんがいらあ」

 彼らは格太郎の顔を見ると、きまりわるそうにそんなことを叫んで、向こうへ逃げて行った。しまいには正一までが彼の部屋へ闖入《ちんにゆう》した。そして、「ここへ隠れるんだ」などと言いながら、父親の机の下へ身をひそめたりした。

それらの光景を見ていると、格太郎はたのもしい感じで、心がいっぱいになった。そして、ふと、きようは植木いじりをよして、子どもらの仲間入りをして遊んでみようか、という気になった。

「坊や、そんなにあばれるのはよしにして、パパがおもしろいお話をしてあげるから、皆呼んどいで」

「やあ、うれしい」

 それを聞くと、正一はいきなり机の下から飛び出して、駆け出して行った。

「パパは、とてもお話がじょうずなんだよ」

やがて正一は、そんなこまっちゃくれた紹介をしながら、同勢を引きつれた格好で、格太郎の部屋へはいって来た。

「さア、お話しとくれ。こわいお話がいいんだよ」

子どもたちは、めじろ押しにそこへすわって、好奇の目を輝かしながら、あるものは恥ずかしそうに、おずおずして、格太郎の顔をながめるのであった。彼らは格太郎の病気のことなど知らなかったし、知っていても子どものことだから、おとなの訪問客のように、いやに用心深い態度など見せなかった。格太郎にはそれがうれしいのである。

 彼はそこで、このごろになく元気づいて、子どもたちの喜びそうなお話を思い出しながら、

「昔ある国に、欲の深い王様があったのだよ」と始めるのであった。一つのお話を終わっても、子どもたちは、「もっともっと」といってぎかなかった。彼は望まれるままに、二つ三つと、お話の数を重ねていった.そうして、子どもたちといっしょに、おとぎ話の世界をさまよっているうちに、彼はますます上きげんになって来るのだった。

 「じゃ、お話はよして、今度は隠れんぼうをして遊ぼうか。おじさんもはいるのだよ」

 しまいに、彼はそんなことを言いだした。

 「ウン、隠れんぼうがいいや」

 子どもたちはわが意を得たといわぬばかりに、立ちどころに替成した。

 「じゃね、ここの家じゅうで隠れるのだよ。いいかい。さあ、ジャンケン」

 ジャンケンポンと、彼は子どものようにはしゃぎはじめるのだった。それは病気のさせるわざであったかもしれない。それともまた、細君の不行跡に対する、それとなき虚勢であったかもしれない。いずれにしろ、彼の挙動に、 一種のやけ気味のまじっていたことは事実だった。

 最初二、三度は、彼はわざと鬼になって、子どもたちのむじゃきな隠れ場所を捜しまわった。それにあきると、隠れるがわになって、子どもたちといっしょに押入れの中だとか、机の下だとか、大さなからだを隠そうと骨折った。

「もういいか」「まあだだよ」という掛け声が、家じゅうに気ちがいめいて響き渡った。

 格太郎はたったひとりで、彼の部屋の暗い押入れの中に隠れていた。鬼になった子どもが「何何ちゃん、めっけた」と叫びながら、部屋から部屋を回っているのが、かすかに聞こえた。中には、「ワーッ」とどなって隠れ場所から飛び出す子などもあった。やがて、めいめい発見されて、あとは彼ひとりになったらしく、子どもたちはいっしょになって、部屋々々を捜して歩いている気配がした。

「おじさんどこへ隠れたんだろう」

「おじさん、もう出ておいでよ」

 など口々にしゃべるのが聞こえて、彼らはだんだん押入れの前へ近づいて来た。

「ウフフ、ババはきっと押入れの中にいるよ」

 正一の声で、すぐ戸の前でささやくのが聞こえた。格太郎は見つかりそうになると、もう少しじらしてやれという気で、押入れの中にあった古い長持ちのフタをそっと開いて、その中へ忍び、元のとおりフタをして、息をこらした。中にはフワフワした夜具かなんかがはいっていて、ちょうど寝台にでも寝たようで、居心地がわるくなかった。

 彼が長持ちのフタを閉めると引きちがいに、ガラッと重い板戸があく音がして、

 「おじさん、めっけた」

 という叫び声が聞こえた。

 「あらッ、いないよ」

 「だって、さっき音がしていたよ、ねえ、何々ちゃん」

 「あれは、きっとネズミだよ」

 子どもたちはひそひそ声でむじゃきな問答をくり返していたが、 (それが密閉された長持ちの中では、非常に遠くからのように聞こえた)いつまでたっても、薄暗い押入れの中は、ヒッソリして人の気配もないので、

 「おばけだあ」

 とだれかが叫ぶと、ワーッといって逃げ出してしまった。そして、遠くの部屋で、

 「おじさん、出ておいでよう」

 と口々に叫ぶ声がかすかに聞こえた。まだその辺の押入れなどをあけて、捜している様子だった。

        3

 まっ暗な、樟脳《しようのう》臭い長持ちの中は、妙に居心地がよかった。格太郎は少年時代のなつかしい思い出に、ふと涙ぐましくなっていた。この古い長持ちは、死んだ母親の嫁入り道具の一つだった。彼はそれを舟になぞらえて、よく中へはいって遊んだことを覚えていた。そうしていると、やさしかった母親の顔が、やみの中へ幻のように浮かんで来るような気がした。

 だが、気がついてみると、子どもたちのほうは、捜しあぐんでか、ヒッソリしてしまった様子だった。しばらく耳をすましていると、

「つまんないなあ、表へ行って遊ぱない?」

 どこの子どもだか、興ざめ顔に、そんなことをいうのが、ごくかすかに聞こえて来た。

「パパちやん」

 正一の声であった。それを最後に、彼も表へ出て行く気配だった。

 格太郎はそれを聞くと、やっと長持ちを出る気になった。飛び出して行って、じれきった子どもたちを、ウンと驚かせてやろうと思った。そこで勢い込んで長持ちのフタを持ち上げようとすると、どうしたことか、フタは密閉されたままビクとも動かないのだった。でも、最初は別段なんでもないことのつもりで、何度もそれを押し試みていたが、そのうちに恐ろしい事実がわかって来た。彼は偶然にも、長持ちの中へとじ込められてしまったのだ。

 長持のフタには穴のあいた蝶番《ちようつがい》の金具《かなぐ》がついていて、それが突き出した金具にはまる仕掛けなのだが、さっきフタをしめた時、上に上げてあったその金旦ハが、偶然おちて、錠前《じようまえ》をおろしたのと同じ形になってしまったのだ。昔物の長持ちは堅い板のすみずみに鉄板《てついた》をうちつけた、いやというほど岩丈なしろものだし、金具も同様に堅牢にできているのだから、病身の格太郎には、とても打ち破ることなどできそうもなかった。

 彼は大声をあげて正一の名を呼びながら、ガタガタとフタの裏をたたいてみた。だが、子どもたちは、あきらめて表へ遊びに出てしまったのか、なんの答えもない。そこで、彼は今度は女中たちの名まえを連呼して、できるだけの力をふりしぼって、長持ちの中であばれてみた。ところが、運のわるい時にはしかたのないもので、女中どもはまた井戸端で油を売っているのか、それとも女中部屋にいても聞こえぬのか、これも返事がないのだ。

 その押入れのある彼の部屋というのが、最も奥まった位置な上に、ギッシリ密閉された箱の中ぞ叫ぶのでは、ふた間三間向こうまで、声が通るかどうかも疑問だった。それに、女中部屋とな"るといちばん遠い台所のそばにあるのだから、ことさら耳でもすましていないかぎり、まず聞こえそうもないのだ。

 格太郎は、だんだんうわずった声を出しながら、このままだれも来ないで、長持ちの中で死んでしまうのではないかと考えた。ばかばかしい、そんなことがあるものかと、一方ではむしろふき出したいほどこっけいな感じもするのだけれど、それがあながちこっけいでないようにも思われる。気がつくと、空気に敏感な病気の彼には、なんだかそれが乏しくなったようで、もがいたためばかりでなく、一種の息苦しさが感じられる。昔できの丹念なこしらえなので、密閉された長持ちには、おそらく息の通うすきまもないのに相違なかった。

 彼はそれを思うと、さいぜんからの過激な運動に尽きてしまったかと見える力を、さらにふりしぼって、たたいたり、けったり、死にもの狂いにあばれてみた。彼がもし健全なからだの持ち主だったら、それほどもがけば、長持ちのどこかへ、一カ所ぐらいのすきまを作るのは訳のないことであったかもしれぬけれど、弱りきった心臓と、やせ細った手足では、とうていそのような力をふるうことはできない上に、空気の欠乏による息苦しさは刻々と迫って来る。疲労と恐怖のために、のどは呼吸をするのも痛いほど、カサカサに乾いて来る。彼のその時の気持ちを、なんと形容すればよいのであろうか。

 もしそれが、もう少しどうかした場所へとじ込められたのなら、病のためにおそかれ早かれ死なねばならぬ身の格太郎は、きっとあぎらめてしまったに相違ない。だが、自家の押入れの長持ちの中で窒息するなどは、どう考えてみても、ありそうにもない、こっけいしごくなことなので、もろくも、そのような喜劇じみた死に方をするのはいやだった。こうしているうちにも、女中がこちらへやって来ないものでもない。そうすれば、彼は夢のように助かることができるのだ。この苦しみを、一場の笑い話として済ましてしまうことができるのだ。助かる可能性が多いだけに、彼はあきらめかねた。そして、こわさ苦しさも、それに伴って大きかった。

 彼はもがぎながら、かすれた声で罪もない女中どもをのろった。息子の正一をさえのろった。距離にすれば、おそらく二十間と隔っていない彼らの悪意ない無関心が、悪意なきがゆえに、なおさらうらめしく思われた。
 やみの中で、息苦しさは刻一刻とつのっていった。もはや声も出なかった。引く息ばかり妙な音を立てて、陸《おか》に上がったサカナのように続いた。口が大きく開いていった。そして、骸骨のような上下の白歯が歯ぐきの根まで現われて来た。そんなことをしたところで、なんのかいもないと知りつつ、両手のつめは夢中にフタの裏を、 ガリガリとひっかいた。 つめのはがれることなど、彼はもう意識さえしていなかった。断末魔の苦しみであった。しかし、その際になっても、まだ救いの来ることを一縷《る》の望みに、死をあきらめかねていた彼の身の上は、言おうようもない残酷なものであった。それは、どのような業病《こうぴよう》に死んだ者も、あるいは死刑囚さえもが、味わったことのない大苦痛といわねばならなかった。

4

 不倫の妻おせいが、恋人との会う瀬から帰って来たのは、その日の午後三時ごろ、ちょうど格太郎が長持ちの中で、執念深くも最後の望みを捨てかねて、もはや虫の息で、断末魔の苦しみをもがいている時だった。

 家を出る時は、ほとんど夢中で、夫の心持ちなど顧みる暇もないのだけれど、彼女とても帰った時には、さすがにやましい気がしないではなかった。いつになくあけ放された玄関などの様子を見ると、日ごろビクビクもので気づかっていた破綻《はたん》が、ぎょうこそ来たのではないかと、もう心臓がおどりだすのだつた。

「ただいま」

 女中の答えを予期しながら、呼んでみたけれど、だれも出迎えなかった。あけ放された部屋部屋には人影もなかった。だいいち、あの出不精な夫の姿の見えないのが、いぶかしかった。

「だれもいないのかい?」

 茶の間へ来ると、かん高い声でもう一度呼んでみた。すると、女中部屋のほうから、

「ハイ、 ハイ」

と、とんきょうな返事がして、うたた寝でもしていたのか、ひとりの女中が、はれぼったい顔をして出て来た。

「おまえひとりなの?」

 おせいは癖の癇《かん》が起こって来るのを、じっとこらえながら聞いた.

「あの、お竹さんは裏で洗たくしているのでございます」

「で、だんなさまは?」

「お部屋でございましょう」

「だって、いらっしゃらないじゃないか」

「あら、そうでございますか」

「なんだね。おまえ、きっと昼寝をしていたんでしょう。困るじゃないか。そして坊やは」

「さあ、さいぜんまで、おうちで遊んでいらしったのですが、あの、だんなさまもごいっしょで、隠れんぼうをなすっていたのでございますよ」

「まあ、だんなさまが? しょうがないわね」

 それを聞くと彼女は、やっと日ごろの彼女を取り返しながら、

「じゃ、きっとだんなさまも表なのだよ。おまえ捜しといで。いらっしゃればそれでいいんだから、お呼びしないでもいいからね」

 とげとげしく命令を下しておいて、彼女は自分の居聞へはいると、ちょっと鏡の前に立ってみてから、さて、着替えを始めるのであった。

 そして、今帯を解きかかろうとした時であった。ふと耳をすますと、隣りの夫の部屋から、ガリガリという妙な物音が聞こえて来た。虫が知らせるのか、それがどうもネズミなどの音ではないように思われた。それに、よく聞くと、なんだかかすれた人の声さえするような気がした。

 彼女は帯を解くのをやあて、気味のわるいのをしんぼうしながら、間のふすまをあけてみた。すると、さっきは気づかなかった押入れの板戸の開いていることがわかった。物音は、どうやらその中から聞こえてくるらしく思われるのだ。

「助けてくれ、おれだ」

 かすかなかすかな、あるかなきかのふくみ声ではあったが、それが異様にハッキリとおせいの耳を打った。まぎれもない夫の声なのだ。

「まあ、あなた、そんな長持ちの中なんかに、いったいどうなすったんですの」

 彼女はさすがに驚いて長持ちのそばへ走り寄った。そして、掛け金をはずしながら、

「ああ、隠れんぼうをなすっていたのですね。ほんとうに、つまらないいたずらをなさるものだから……で」も、どうしてこれがかかってしまったのでしょうか」

 もしおせいが生まれつきの悪女であるとしたなら、その本質は、人妻の身で隠し男をこしらえることなことよりも、おそらくこうして悪事を思い立つことの、すざやさというようなところにあったのではあるまいか。彼女は掛け金をはずして、ちょっとフタを持ち上げようとしただけで、何を思ったのか、また元々どおりグッと押さえて、ふたたび掛け金をかけてしまった。その時、中から格太郎が、たぶんそれが精いっぱいであったのだろう、しかし、おせいの感じでは、ごく弱々しい力で、持ち上げる手ごたえがあった。それを押しつぶすように、彼女はフタを閉じてしまったのだ。後にいたって、無残な夫殺しのことを思い出すたぴごとに、最もおせいを悩ましたのは、ほかの何事よりも、この長持ちを閉じた時の、夫の弱々しい手ごたえの記憶だった。彼女にとっては、それが血みどろでもがぎまわる断末魔の光景などよりも、幾層倍も恐ろしいものに思われたことである。

 それはともかく、長持ちを元どおり。にすると、ビッシャリと板戸をしめて、彼女は大急ぎで自分の部屋に帰った。そして、さすがに着替えをするほどの大胆さはなく、まっさおになってタンスの前にすわると、隣りの部屋からの物音を消すためでもあるように、用もないタンスの引出しを、あけたり閉めたりするのだった。

「こんなことをして、はたして自分の身が安全かしら」

 それが物狂わしいまで気にかかった。でも、その際ゆっくり考えてみる余裕などあろうはずもなく、ある場合には物を思うことすら、どんなに不可能だかということを痛感しながら、立ったりすわったりするばかりであった。とはいうものの、あとになって考えたところによっても、彼女のそのとっさの場合の考えには、少しの粗漏《そろう》もあったわけではなかった。掛け金はひとりでにしまることはわかっているのだし、格太郎が子どもたちと隠れんぼうをしていて、誤って長持ちの中へとじ込められたであろうことも、子どもたちや女中どもがじゅうぶん証言してくれるに相違はなく、長持ちの中の物音や叫び声が聞こえなかったという点も、広い建て物のことで気づかなかったといえばそれまでなのだ。現に、女中どもでさえ何も知らずにいたほどではないか。

 そんなふうに深く考えたわけではなかったけれど、おせいの悪《あく》に鋭い直覚が、理由を考えるまでもなく「だいじょうぶだ、だいじょうぶだ」とささやいてくれるのだった。

 子どもを捜しにやった女中はまだもどらなかった。裏で洗たくをしている女中も、家の中へはいって来たけはいはない。今のうちに、夫のうなり声や物音が止まってくれればいい、そればかりが彼女の頭いっぱいの願いだった。だが、押入れの中の執念深い物音は、ほとんど聞き取れぬほどに衰えてはいたけれど、まるでいじのわるいゼンマイ仕掛けのように、絶えそうになって続いた。気のせいではないかと思って、押入れの板戸に耳をつけて(それを開くことは、どうしてもできなかった)聞いてみても、やっぱりものすごい摩擦音はやんでいなかった。そればかりか、おそらく乾ききってコチコチになっているのであろう舌で、ほとんど意味をなさぬ世迷言《よまいごと》をつぶやくけはいさえ感じられた.それがおせいに対する恐ろしいのろいであることは、疑うまでもなかった。彼女はあまりの恐ろしさに、あやうく決心をひるがえして長持ちを開こうとまで思ったが、しかし、そんなことをすれば、いっそう彼女の立ち場が取り返しのつかぬものになることは、わかりきっていた。いったん殺意を悟られてしまった今さら、どうして彼を助けることができよう。

 それにしても、長持ちの中の格太郎の心持ちはどのようであったろう。加害者の彼女すら決心をひるがえそうかと迷ったほどである。しかし、彼女の想像などは、当人の世にもまれなる大苦悶《だいくもん》に比して、千分の一、万分の一にも足らぬものであったに相違ない。いったんあぎらめかけたところへ、思いがけぬ、たとい奸婦《かんぶ》であるとはいえ、自分の女房が現われて、掛け金をはずしさえしたのである。その時の格太郎の大歓喜は、何に比べるものもなかったであろう。日ごろ恨んでいたおせいが、この上二重三重の不倫を犯したとしても、まだおつりが来るほどありがたく、かたじけなぐ思われたに相違ない。いかに病弱の身とはいえ、死のまぎわを味わった者にとって、命はそれぼど惜しいものだ。だが、そのつかのまの歓喜から、彼はさらに、絶望などということばでは言い尽せぬほどの、無間地獄《むげんじごく》へつきおとされてしまったのである。もし、救いの手が来ないで、あのまま死んでしまったとしても、その苦痛は決してこの世のものではなかったのに、さらにさらに、幾層倍、幾十層倍の、いうばかりなき大苦悶《だいくもん》は、奸婦《かんぷ》の手によって彼の上に加えられたのである。

 おせいは、それほどの苦悶を想像しようはずはなかったけれど、彼女の考え得た範囲だけでも、夫の悶死《もんし》をあわれみ、彼女の残虐を悔いないわけにはいかなかった。でも、悪女の運命的な不倫の心持ちは、悪女自身にもどうしようもなかった。彼女は、いつのまにか静まり返ってしまった押入れの前に立って犠牲者の死を弔う代りに、なつかしい恋人のおもかげを描いているのだった。一生遊んで暮らせる以上の夫の遺産、恋人とのだれはばからぬ楽しい生活、それを想像するだけで、死者に対する、さばかりのあわれみの情を忘れるのにはじゅうぶんなのだ。

 彼女はこうして取り返した、常人には想像することはできぬ平静をもって、次ぎの問に退くと、ぐちびるのすみに冷たい苦笑をさえ浮かべて、さて、帯を解ぎはじめるのであった。

5

 その夜八時ごろになると、おせいによって巧みにも仕組まれた、死体発見の場面が演じられ、北村家は上を下への大騒ぎとなった。親戚、出入りの者、医師、警察官、急を聞いてはせつけたかれらの人々で、広い屋敷がいっぱいになった。検死の形式を略するわけにはいかず、わざと長持ちの中にそのままにしてあった格太郎の死体のまわりには、やがて係り官たちが立ち並んだ。しんそこから嘆き悲しんでいる弟の格二郎、いつわりの涙に顔をよごしたおせい、係り官にまじってその席につらなったこのふたりが、局外者からは少しの甲乙もなく、どのように愁傷《しゆうしよう》らしく見えたことであろう。長持ち障は座のまん中に持ち出され、一警官の手によって、無造作にフタが開かれた。五十燭光の電灯が、醜くゆがんだ格太郎の苦悶《くもん》の姿を照らし出した。日ごろぎれいになでつけた頭髪が、さかだつばかりに乱れたさま、断末魔そのもののごとぎ手足のひっつり、飛び出した眼球、これ以上に開きようのないほど開いた口、もしおせいの身内に、悪魔そのものがひそんででもいないかぎり、ひと目この姿を見たならば、立ちどころに悔悟《かいご》自白すべきはずである。それにもかかわらず、彼女はさすがにそれを正視することができない様子であったが、なんの自白もしなかったばかりか、白々しいうそ八百を、涙にぬれて申し立てるのだった。彼女自身でさえ、どうしてこうも落ちつくことができたのか、たとい人ひとり殺した上のくそ度胸とはいえ、不思議に思うほどであった。数時間前、不義の外出がら帰って、玄開にさしかかった時、あのように胸騒がせた彼女とは(その時もすでにじゅうぶん悪女であったに相違ないのだが)われながら別人の観があった。これを見ると、彼女の身内には、生まれながらに、世にも恐るぺき悪魔が巣くっていて、今その正体を現わしはじめたものであろうか。これは、後ほど彼女が出会ったある危機における、想像を絶した冷静さに徴しても、ほかに判断の下し方はないように見えるのだ。

 やがて検死の手続きは、別段の故障もなく終わり、死体は親族の者の手によって、長持ちの中からほかの場所へ移された。そして、その時、少しばかりの余裕を取り返した彼らは、はじめて長持ちのフタの裏の掻《か》き傷に注意を向けることができたのである。

 もしなんの事情も知らず、格太郎の惨死体を目撃せぬ人が見たとしても、その掻き傷は異様にものすごいものに相違なかった。そこには死人の恐るべき妄執《もうしゆう》が、いかなる名画も及ばぬあざやかさをもって刻まれていたのだ。何人もひと目見て顔をそむけ、二度と目をそこへやろうとはしないほどであった。

 その中で、掻き傷の画面から、ある驚くべきものを発見したのは、当のおせいと格二郎のふたりだけであった。彼らは死体といっしょに別間に去った人々のあとに残って、長持ちの両端から、フタの裏に現われた影のようなものに異様な凝視をつづけていた。おお、そこにはいったい何があったのであるか。

 それは影のようにおぼろげに、狂者の筆のようにたどたどしいものであったけれど、よく見れば、無数の掻き傷の上をおおって、一字は大きく、一字は小さく、あるものは斜めに、あるものはやっと判読できるほどのゆがみ方で、まざまざと『オセイ』の三文字が現われているのであった。

「ねえさんのことですね」

 格二郎は凝視の目を、そのままおせいに向けて、低い声でいった。

「そうですわね」

 ああ、このような冷静なことばが、その際おせいの口をついて出たことは、なんと驚くぺき事実であったか。むろん、彼女がその文字の意味を知らぬはずはないのだ。瀕死の格太郎が、命の限りを尽して、やっと書くことのできた、おせいに対するのろいのことば、最後の『イ』に至って、その一線を画すると同時に悶死《もんし》をとげた彼の妄執《もうしゆう》、彼はそれに続けて、おせいこそ下手人であるむねを、いかほど書きたかったであろうに、不幸そσもののごとき格太郎は、それさえ得せずして、千秋の遺恨を抱いて、固まってしまったのである。

 しかし、格二郎にしては、彼自身善人であるだけに、そこまで疑念を抱くことはできなかった。単なる『オセイ』の三字が何を意味するか、それが下手人を差し示すものであろうとば、想像のほかであった。彼がそこから得た感じは、おせいに対するばく然たる疑惑と、兄が未練にも、死にぎわまで彼女のことを忘れず、苦悶《くもん》の指先にその名を書き止めた無残の気持ちばかりであった。

「まあ、それほどあたしのことを心配してくだすったのでしょうか」

 しばらくしてから、言外に相手がすでに感づいているであろう不倫を悔いた意味をこめて、おせいはしみじみと嘆いた。そして、いぎなりハンカチを顔にあてて、 (どんな名優だって、これほど、空涙をこぼしうるものはないであろう)さめざめと泣くのであった。

6

 格太郎の葬式を済ませると、第一におせいの演じた芝居《しばい》は、むろんうわべだけであるが、不義の恋人と切れることであった。そして、たぐいなぎ技巧をもって、格二郎の疑念をはらすことに専念した。しかも、それはある程度まで成功した。たとい一時だったとはいえ、格三郎はまんまと妖婦《ようふ》の欺瞞《ぎまん》におちいったのである。

 かくて、おせいは予期以上の分配金にあずかり、むすこの正一とともに、住みなれた屋敷を売って次ぎから次ぎと住所を変え、得意の芝居の助けをかりて、いつとも知れず、親類たちの監視から遠ざかって行くのだった。

 問題の長持ちは、おせいが、しいて貰い受けて、彼女からひそかに古道具屋に売り払われた。その長持ちは今|何人《なんぴと》の手に納められたことであろう。あの掻き傷と不気味なかな文字とが、新しい持ち主の好奇心を、刺激するようなことはなかったであろうか。彼は掻き傷にこもる恐ろしい妄執《もうしゆう》にふと心おののくことはなかったか。そしてまた、 『オセイ』という不思議なる三字に、彼ははたして、いかなる女性を想像したであろう。こもすれば、それは世の醜さを知りそめぬ、無垢《むく》のおとめの影像であったかもしれないのだ。          (『大衆文芸』大正十五年七月号)
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