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江戸川乱歩「芋虫」

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amizako

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 時子は、おもやにいとまを告げて、もう薄暗くなった、雑草のしげるにまかせ、荒れはてた広い庭を、彼女たち夫婦の住み家である離れ座敷のほうへ歩きながら、いましがたも、おもやのあるじの予備少将からいわれた、いつものきまりきったほめことばを、まことにへんてこな気持ちで、彼女のいちばんきらいなナスのシギ焼きを、グニャリとかんだあとの味で、思い出していた。

「須永《すなが》中尉(予備少将は、今でも、あの人間だかなんだかわからないような癈兵《はいへい》を、こっけいにも、昔のいかめしい肩書きで呼ぶのである)須永中尉の忠烈は、いうまでもなく、わが陸軍の誇りじゃが、それはもう、世に知れ渡っておることだ。だが、おまえさんの貞節は、あの癈人《はいじん》を三年の年月《としつき》、少しだっていやな顔を見せるではなく、自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房としてあたりまえのことだといってしまえば、それまでじゃが、できないことだ。わしは、まったく感心していますよ。今の世の美談だと思っていますよ。だが、まだまだ先の長い話じゃ。どうか気を変えないで、めんどうを見てあげてくださいよ」

 鷲尾《わしお》老少将は、顔を合わせるたびごとに、それをちょっとでもいわないでは気が済まぬというように、きまりきって、かれの昔の部下であった、そして今ではかれのやっかい者であるところの、須永癈中尉とその妻をほめちぎるのであった。時子は、それを聞くのが、今いったナスのシギ焼きの味だものだから、なるべくあるじの老少将に会わぬよう、留守をうかがっては、それでも終日ものもいわぬ不具者と差し向かいでばかりいることもできぬので、奥さんや娘さんのところへ、話し込みに行き行きするのであった。

 もつとも、このほめことばも、最初のあいだは、彼女の犠牲的精神、彼女のまれなる貞節にふさわしく、いうにいわれぬ誇らしい快感をもって、時子の心臓をくすぐつたのであるが、このころでは、それを以前のようにすなおには受けいれかねた。というよりは、このほめことばが恐ろしくさえなっていた。それをいわれるたびに、彼女は「おまえは貞節の美名に隠れて、世にも恐ろしい罪悪を犯しているのだ」と、まっこうから、人さし指を突きつけて、責められてでもいるように、ゾッと恐ろしくなるのであった。

 考えてみると、われながら、こうも人間の気持ちが変わるものかと思うほど、ひどい変わりかたであった。初めのほどは、世間知らずで、内気者で、文字どおり貞節な妻でしかなかった彼女が、今では、外見はともあれ、心のうちには、身の毛もよだつ情欲の鬼が巣を食って、あわれなかたわ者(かたわ者ということばではふじゅうぶんなほどの無残なかたわ者であった)の亭主を、ーかつては忠勇なる国家の干城《かんじよう》であった人物を、なにか彼女の情欲を満たすだけのために、飼ってあるけだものででもあるように、あるいは一種の道具ででもあるように、思いなすほどに変わりはてているのだ。

 このみだらがましき鬼めは、ぜんたい、どこから来たものであろう。あの黄色い肉のかたまりの、不可思議な魅力がさせるわざか。(事実、彼女の夫の須永中尉は、ひとかたまりの黄色い肉塊《にくかい》でしかなかった。そして、それは奇形なコマのように、彼女の情欲をそそるものでしかなかった)それとも、三十歳の彼女の肉体に満ちあふれた、えたいのしれぬ力のさせるわざであったか。おそらくその両方であったのかもしれないのだが。

 鷲尾老人から何かいわれるたびに、時子は、このごろめっきりあぶらぎってきた彼女の肉体なり、他人にもおそらく感じられるであろう彼女の体臭なりを、はなはだうしろめたく思わないではいられなかった。

「わたしは、まあ、どうしてこうも、まるでバカかなんぞのようにデブデブと肥え太るのだろう」

 そのくせ、顔色なんかいやに青ざめているのだけれど。老少将は、かれの例のほめことばを並べながら、いつもややいぶかしげに、彼女のデブデブとあぶらぎったからだつきをながめるのを常としたが、もしかすると、時子が老少将をいとう最大の原因は、この点にあったのかもしれないのである。

 片いなかのことで、おもやと離れ座敷のあいだは、 ほとんど半丁も隔たっていた。そのあいだは、道もないひどい草原で、ともすればガサガサと音をたてて青大将がはい出して来たり、少し足を踏み違えると、草におおわれた古井戸があぶなかったりした。広い屋敷のまわりには、形ばかりのふぞろいないけがきがめぐらしてあって、その外は田や畑がうち続き、遠くの八幡神社の森を背にして、彼女らの住み家である二階建ての離れ家が、そこに、黒く、ぽつんと立っていた。

 空には一つ二つ星がまたたき始めていた。 もうへやの中は、 まっ暗になっていることであろう。彼女がつけてやらねば、彼女の夫にはランプをつける力もないのだから、かの肉塊《にくかい》は、やみの中で、座イスにもたれて、あるいはイスからずっこけて、畳の上にころがりながら、目ばかりパチパチまたたいていることであろう。かわいそうに、それを考えると、いまわしさ、みじめさ、悲しさが、しかしどこかにいくぶんセンシュアルな感情をまじえて、ゾッと彼女の背筋を襲うのであった。

 近づくにしたがって、二階の窓の障子が、何かを象徴しているふうで、ポッカリとまっ黒な口をあいているのが見え、そこから、トントントンと、例の畳をたたく鈍い音が聞こえてきた。「ああ、またやっている」と思うと、彼女はまぶたが熱くなるほど、かわいそうな気がした。それは、不自由な彼女の夫が、あおむきに寝ころがって、普通の人間が手をたたいて人を呼ぶしぐさのかわりに、頭でトントントンと畳をたたいて、かれの唯一の伴侶《はんりよ》である時子を、せっかちに呼びたてていたのである。

「今行きますよ。おなかがすいたでしょう」

 時子は、相手に聞こえぬことはわかっていても、いつもの癖で、そんなことをいいながら、あわてて台所口に駆け込み、すぐそこのはしごだんを上っていった。

 六畳ひと間の二階に、形ばかりの床の間がついていて、そこのすみに台ランプとマッチが置いてある。彼女はちょうど母親が乳飲み子にいう調子で、絶えず「待ち遠だったでしょうね。すまなかったわね」だとか「今よ、今よ、そんなにいっても、まっ暗で、どうすることもできやしないわ。今ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」だとか、いろいろなひとり言をいいながら(というのは、彼女の夫は少しも耳が聞こえなかったので)ランプをともして、それをへやの一方の机のそばへ運ぶのであった。

 その机の前には、メリンス友禪《ゆうぜん》のふとんをくくりつけた、新案特許なんとか式座イスというものが置いてあったが、その上はからっぽで、そこからずっと離れた畳の上に、 一種異様の物体がころがっていた。その物は、古びた大島銘仙《おおしまめいせん》の着物を着ているには相違ないのだが、それは着ているというよりも、包まれているといったほうが、あるいはそこに大島銘仙の大きなふろしき包みがほうり出してあるといったほうが、あたっているような、まことにへんてこな感じのものであった。そして、そのふろしき包みのすみから、ニュッと人間の首が突き出ていて、それが、米つきバッタみたいに、あるいは奇妙な自動器械のように、トントン、トントン畳をたたいているのだ。たたくにしたがって、大きなふろしき包みが、反動で、少しずつ位置を変えているのだ。

「そんなにかんしゃく起こすもんじゃないわ。なんですのよ、これ?」

 時子は、そういって、手でごはんをたぺるまねをして見せた。

「そうでもないの。じゃ、これ?」

 女はもう一つのある格好をして見せた。しかし、口のきけない彼女の夫は、いちいち首を横に振って、またしても、やけにトントントントンと畳に頭をぶっつけている。砲弾の破片のために、顔全体が見る影もなくそこなわれていた。左の耳たぶはまるでとれてしまって、小さい黒い穴が、わずかにその痕跡《こんせき》を残しているにすぎず、同じく左の口辺からほおの上を斜めに目の下のところまで、縫い合わせたような、大きなひっつりができている。右のこめかみから頭部にかけて、醜い傷あとがはい上がっている。のどのところがグイとえぐつたようにくぼんで、鼻も口も元の形をとどめてはいない。そのまるでお化けみたいな顔面のうちで、わずかに完全なのは、周囲の醜さにひきかえて、こればかりは無心の子どものそれのように、涼しくつぶらな両眼であったが、それが今、パチパチといらだたしくまたたいているのであった。

「じゃ、話があるのね。待ってらっしゃいね」

 彼女は机のひきだしから雑記帳と鉛筆・を取り出し、鉛筆をかたわ者のゆがんだ口にくわえさせ、そのそばへ開いた雑記帳を持っていった。彼女の夫は、口をきくこともできなければ、筆を持つ手足もなかったからである。

「オレガイヤニナッタカ」

 癈人は、ちょうど大道の因果者がするように、女房の差し出す雑記帳の上に、口で文字を書いた。長いあいだかかって、非常にわかりにくいかたかなを並べた。

「ホホホホホ、また、やいているのね。そうじゃない。そうじゃない」

 彼女は笑いながら、強く首を振って見せた。

 だが、癈人は、またせっかちに頭を畳にぶっつけ始めたので、時子はかれの意を察して、もう一度雑記帳を相手の口のところへ持っていった。すると、鉛筆がおぼつかなく動いて、

「ドコニイタ」

 と、しるされた。それを見るやいなや、時子はじゃけんに癈人の口から鉛筆をひったくって、帳面の余白へ「鷲尾サンノトコロ」と書いて、相手の目の先へ、押しつけるようにした。

「わかっているじゃないの。ほかに行くところがあるもんですか」

 癈人はさらに雑記帳を要求して、

「三ジカン」

 と書いた。

「三時間もひとりぼっちで待っていたというの。わるかったわね」

 彼女はそこで済まぬような表情になっておじぎをして見せ、

「もう行かない。もう行かない」といいながら、手を振って見せた。

 ふろしき包みのような須永癈中尉は、むろんまだいい足りぬ様子であったが、口書きの芸当がめんどうくさくなったとみえて、グッタリと頭を動かさなくなった。そのかわりに、大ぎな両眼に、あらゆる意味をこめて、まじまじと時子の顔を見つめているのだ。

 時子は、こういう場合夫のきげんをなおす唯一の方法をわきまえていた。ことばが通じないのだから、細かい言いわけをすることはできなかったし、ことばのほかでは、もつとも雄弁に心中を語っているはずの、微妙な目の色などは、いくらか頭の鈍くなった夫には通用しなかった。そこで、いつもこうした奇妙な痴話《ちわ》げんかの末には、お互いにもどかしくなってしまって、もつともてっとりばやい和解の手段をとることになっていた。

 彼女はいきなり夫の上にかがみ込んで、ゆがんだ口の、ヌメヌメとつやのある大きなひっつりの上に、せっぷんの雨をそそぐのであった。すると、癈人の目にやっと安堵《あんど》の色が現われ、ゆがんだ口辺に、泣いているかと思われる醜い笑いが浮かんだ。時子は、いつもの癖で、それを見ても、彼女の物狂わしいせっぷんをやめなかった。それは、 一つには相手の醜さを忘れて、彼女自身を無理から甘い興奮に誘うためでもあったけれど、また一つには、このまったく立ち居の自由を失ったあわれなかたわ者を、かって気ままにいじめつけてやりたいという、不思議な気持ちもてつだっていた。

 だが、癈人のほうでは、彼女の過分の好意にめんくらって、息もつけぬ苦しさに、身をもだえ、醜い顔を不思議にゆがめて、苦悶《くもん》している。それを見ると、時子は、いつものとおり、ある感情がうずうずと、身内《みうち》にわき起こってくるのを感じるのだった。

 彼女は、狂気のようになって、癈人にいどみかかっていき、大島銘仙のふろしき包みを、引きちぎるようにはぎとってしまった。すると、その中から、なんともえたいの知れぬ肉塊がころがり出してきた。

 このような姿になって、どうして命をとり止めることができたかと、当時医界を騒がせ、新聞が未曽有《みぞう》の奇談として書きたてたとおり、須永癈中尉のからだは、まるで手足のもげた人形みたいに、これ以上こわれようがないほど、無残に、無気味に蕩つけられていた。両手両足は、ほとんど根元から切断され、わずかにふくれ上がった肉塊となって、そのこんせきをとどめているにすぎないし、その胴体ばかりの化け物のような全身にも、顔面をはじめとして、大小無数の傷あとが光っているのだ。

 まことに無残なことであったが、かれのからだは、そんなになっても、不思議と栄養がよく、かたわなりに健康を保っていた。 (鷲尾老少将は、それを時子のしんみの介抱の功に帰《き》して、例のほめことばのうちにも、そのことを加えるのを忘れなかった)ほかに、楽しみとてはなく、食欲の激しいせいか、腹部がつやつやとはち切れそうにふくれ上がって、胴体ばかりの全身のうちでも、ことにその部分が目だっていた。

 それはまるで、大きな黄色のイモムシであった。あるいは時子がいつもの心の中で形容していたように、いともくしき、奇形な肉ゴマであった。それはある場合には、手足のなごりの四つの肉のかたまりを(それらの先端には、ちょうど手さげ袋の口のように、四方から表皮が引き締められて、深いしわを作り、その中心にぽっつりと、無気味な小さいくぼみができているのだが)その肉の突起物を、まるでイモムシの足のように、異様に震わせて、臀部を中心にして頭と肩とで、ほんとうにコマと同じに、畳の上をクルクルと回るのであったから。

 今、時子のために裸にむかれた癈人は、それには別段抵抗するではなく、何事かを予期しているもののように、じっとうわ目使いに、かれの頭のところにうずくまっている時子の、獲物をねらうけだもののような、異様に細められた目と、やや堅くなった、きめのこまかいふたえあごを、ながめていた。

 時子は、かたわ者の、その目つきの意昧を読むことができた。それは、今のような場合には、彼女がもう一歩進めばなくなってしまうものであったが、たとえば彼女がかれのそばで針仕事をしていると、かたわ者が所在なさに、じっと一つ空間を見つめているようなとぎ、この目色はいっそう深みを加えて、ある苦悶《くもん》を現わすのであった。

 視覚と触覚のほかの五官をことごとく失ってしまった癈人は、生来読書欲など持ち合わせなかったイノシシ武者であったが、それが衝撃のために頭が鈍くなってからは、いっそう文字と絶縁してしまって、今はただ、動物と同様に物質的な欲望のほかにはなんの慰むるところもない身の上であった。だが、そのまるで暗黒地獄のようなどろどろの生活のうちにも、ふと、常人であったころ教え込まれた軍隊式な倫理観が、かれの鈍い頭をもかすめ通ることがあって、それとかたわ者であるがゆえに、いっそう敏感になった情欲とが、かれの心中でたたかい、かれの目に不思議な苦悶《くもん》の影をやどすものに相違ない。時子はそんなふうに解釈していた。

 時子は、無力な者の目に浮かぶ、おどおどした苦悶の表情を見ることは、そんなにきらいではなかった。彼女は一方ではひどい泣きむしのくせに、妙に弱い者いじめの嗜好《しこう》を持っていたのだ。それに、この哀れなかたわ者の苦悶は、彼女の飽くことのない刺激物でさえあった。今も彼女は、相手の心持ちをいたわるどころではなく、反対に、のしかかるように、異常に敏感になっている不具者の情欲に迫っていくのであった。

        ×        X        ×

 えたいのしれぬ悪夢にうなされて、ひどい叫び声を立てたかと思うと、時子はびっしょり寝汗をかいて目をさました。

 まくらもとのランプのほやに妙な形の油煙がたまって、細めたしんがジジジジジと鳴いていた。へやの中が天井も壁も変にダイダイ色にかすんで見え、隣に寝ている夫の顔が、ひっつりのとこうが灯影《ほかげ》に反射して、やっぱりダイダイ色にテラテラと光っている。今のうなり声が聞こえたはずもないのだけれど、かれの両眼はパッチー2と開いて、じっと天井を見つめていた。机の上のまくらどけいを見ると、一時を少し過ぎていた。

 おそらく、それが悪夢の原因をなしたのであろうけれど、時子は目がさめるとすぐ、からだにある不快をおぼえたが、やや寝ぼけた形で、その不快をはっきり感じる前に、なんだか変だとは思いながら、ふと、別のことを、さいぜんの異様な遊戯のありさまを幻のように目に浮かべていた。そこには、キリキリと回る、生きたコマのような肉塊があった。そして、肥え太った、あぶらぎった三十女のぶざまなからだがあった。それがまるで地獄絵みたいに、もつれ合っているのだ。なんといういまわしさ、醜さであろう。だが、そのいまわしさ、醜さが、どんなほかの対象よりも、麻薬のように彼女の情欲をそそり、彼女の神経をしぴれさせるカをもっていようとは、三十年の半生を通じて、彼女のかつて想像だもしなかったところである。

「アアアアァ」

 時子はじっと彼女の胸を抱きしめながら、ためいきともうめきともつかぬ声をたてて、こわれかかった人形のような、夫の寝姿をながめるのであった。

 このとき、彼女ははじめて、目ざめてからの肉体的な不快の原因を悟った。そして「いつもとは少し早すぎるようだ」と思いながら、床を出て、はしごだんを降りていった。

 ふたたび床にはいって、夫の顔をながめると、かれは依然として、彼女のほうをふり向きもしないで、天井を見入っているのだ。

「また考えているのだわ」

 目のほかには、なんの意志を発表する器官をも持たないひとりの人間が、じっと一つところを見すえている様子は、こんな真夜中などには、ふと彼女に無気味な感じを与えた。どうせ鈍くなった頭だとは思いながらも、このような極端な不具者の頭の中には、彼女たちとは違った、もっと別の世界が開けてきているのかもしれない。かれは、今その別世界を、ああしてさまよっているのかもしれない。などと考えると、ゾッとした。

 彼女は目がさえて眠れなかった。頭のしんに、ドドドドドと音を立てて、炎がうずまいているような感じがしていた。そして、むやみと、いろいろな妄想《もうそう》が浮かんでは消えた。その中には、彼女の生活をこのように一変させてしまったところの三年以前のできごとが織りまぜられていた。

 夫が負傷して内地に送りかえされるという報知を受け取ったときには、まず戦死でなくてよかったと思った。そのころはまだつきあっていた同僚の奥様たちから、あなたはおしあわせだと、うらやまれさえした。間もなく新聞に、夫のはなぱなしい戦功が書きたてられた。同時に、かれの負傷の程度がかなりはなはだしいものであることを知ったけれど、むろんこれほどのこととは想像もしていなかった。


 彼女は衛戍《えいじゆ》病院へ、夫に会いに行ったときのことを、おそらく一生涯忘れないであろう。まっ白なシーツの中から、無残に傷ついた、夫の顔が、ぼんやりと彼女のほうをながめていた。医員にむずかしい術語のまじったことばで、負蕩のために、耳が聞こえなくなり、発声機能に妙な故障を生じて、口さえきけなくなっていると聞かされたとき、すでに彼女は目をまっかにして、しぎりに鼻をかんでいた。そのあとに、どんな恐ろしいものが待ちかまえていたかも知らないで。

 いかめしい医員であったが、さすがにきのどくそうな顔をして「驚いてはいけませんよ」といいながら、そっと白いシーツをまくって見せてくれた。そこには、悪夢の中のお化けみたいに、手のあるべきところに手が、足のあるべきところに足がまったく見えないで、包帯のために丸くなった胴体ばかりが無気味に横たわっていた。それはまるで生命のない石膏細工《せつこうざいく》の胸像をベッドに横たえた感じであった。

 彼女はクラクラッと、目まいのようなものを感じて、 ,ッドの足のところへうずくまってしまった。

 ほんとうに悲しくなって、人目もかまわず、声を上げて泣ぎだしたのは、医員や看護婦に別室へ連れて来られてからであった。彼女はそこの薄よごれたテーブルの上に、長いあいだ泣き伏していた。

「ほんとうに奇跡ですよ。両手両足を失った負傷者は須永中尉ばかりではありませんが、皆命を取りとめることはできなんだのです。実に奇跡です。これはまったく軍医正殿と北村博士の驚くべき技術の結果なのですよ、おそらく、どの国の衛戍病院にも、こんな実例はありますまいよ」

 医員は、泣き伏した時子の耳もとで、慰めるように、そんなことをいっていた。 「奇跡」という喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないことばが、…幾度も幾度も繰り返された。

 新聞紙が須永鬼中尉のかくかくたる武勲《ぶくん》はもちろん、この外科医術上の奇跡的事実について書き立てたことはいうまでもなかった。

 夢の問に半年ばかり過ぎ去ってしまった。上官や同僚の軍人たちがつき添って、須永の生きたむくろがうちに運ばれると、ほとんど同時ぐらいにかれの四肢《し》の代償として、功五級の金鵄《きんし》勲章が授けられた。時子が不具者の介抱に涙を流しているとぎ、世の中は凱旋《がいせん》祝いで大騒ぎをやっていた。彼女のところへも、しんせきや知人や町内の人女から、名誉、名誉ということばが、雨のように降り込んできた。

 まもなく、わずかの年金では暮らしのおほつかなかった彼女たちは、戦地での上長官であった鷲尾少将の好意にあまえて、その邸内の離れ座敷を無賃で貸してもらって住むことになった。いなかにひっ込んだせいもあったけれど、そのころから彼女たちの生活はガラリと寂しいものになってしまった。凱旋騒ぎの熱がさめて、世間も寂しくなっていた。もうだれも以前のようには彼女たちを見舞わなくなった。月日がたつにつれて、戦勝の興奮もしずまり、それにつれて、戦争の功労者たちへの感謝の情もうすらいでいった。須永中尉のことなど、もうだれも口にするものはなかった。

 夫のしんせきたちも、不具者を気味わるがってか、物質的な援助を恐れてか、ほとんど、彼女のうちに足踏みしなくなった。彼女の側にも、両親はなく、きょうだいたちは皆薄情者であった。あわれな不具者とその貞節な妻は、世間から切り離されたように、いなかの一軒家でポッツリと生存していた。そこの二階の六畳は、ふたりにとって唯一の世界であった。しかも、そのひとりは耳も聞こえず、口もきけず、立ち居もまったく不自由な土人形のような人間であったのだ。

 癈人は、別世界の人類が、突然この世にほうり出されたように、まるで違ってしまった生活様式にめんくらっているらしく、健康を回復してからでも、しばらくのあいだは、ボンヤリしたまま身動ぎもせず仰臥《ぎょうが》していた。そして、時をかまわず、ウトウトと眠っていた。

 時子の思いつきで、鉛筆の口書きによる会話を取りかわすようになったとき、まず第一に癈人が、そこに書いたことばは「シンブン」 「クンショウ」の二つであった。「シンブン」というのは、かれの武勲を大きく書き立てた戦争当時の新聞記事の切り抜ぎのことで、「クンショゥ」というのは、いうまでもなく例の金鵄《きんし》勲章のことであった。かれが意識を取りもどしたとき、鷲尾少将が第一番にかれの目の先につきつけたものはその二品であったが、癈人はそれを覚えていたのだ。

 癈人はそれからもたびたび同じことばを書いて、そのふた品を要求し、時子がそれらをかれの前で持っていてやると、いつまでもいつまでも、ながめつくしていた。かれが新聞記事を繰り返し読むときなどは、時子は手のしびれてくるのをがまんしながら、なんだかばかばかしいような気持ちで、夫のさも溝足そうな目つきをながめていた。

 だが、彼女が「名誉」をけいぺつし始めたよりはずいぶん遅れてではあったけれど、癈人もまた「名誉」に飽ぎ飽きしてしまったように見えた。かれはもう以前みたいに、かのふた品を要求しなくなった。そして、あとに残ったものは、不具者なるがゆえに、病的に激しい肉体上の欲望ばかりであった。かれは回復期の胃腸病患者みたいに、ガツガツと食べ物を要求し、時を選ばず彼女の肉体を要求した。時子がそれに応じないときには、かれは偉大なる肉ゴマとなって、気違いのように畳の上をはいまわった。

 時子は最初のあいだ、それがなんだかそら恐ろしく、いとわしかったが、やがて、月日がたつにしたがって、彼女もまた、徐々に肉欲のガキとなりはてていった。野中の一軒家にとじこめられ、行く末になんの望みも失った、ほとんど無知といってもよかったふたりの男女にとっては、それが生活のすべてであった。動物園のオリの中で一生を暮らす、二匹のけだもののように。

 そんなふうであったから、時子が彼女の夫を、思うがままに自由自在にもてあそぶことのできる一個の大きな玩具《がんぐ》と見なすにいたったのは、まことに当然であった。また、不具者の恥知らずな行為に感化された彼女が、常人に比べてさえじょうぶじょうぶしていた彼女が、今では不具者を困らせるほども、飽くなきものとなりはてたのも、しごくあたりまえのことであった。

 彼女はときどき気違いになるのではないかと思った。自分のどこに、こんないまわしい感情がひそんでいたのかと、あきれはてて身ぶるいすることがあった。

 物もいえないし、こちらのことばも聞こえない、自分では自由に動くことさえできない、このくしくあわれな一個の道具が、決して木や土でできたものではなく、喜怒哀楽《ぎどあいらく》を持った生きものであるという点が、かぎりなき魅力となった。そのうえ、たった一つの表情器官であるつぶらな両眼が、彼女の飽くなき要求に対して、あるときはさも悲しげに、あるときはさも腹だたしげに物をいう。しかも、いくら悲しくとも、涙を流すほかには、それをぬぐうすべもなく、いくら腹だたしくとも、彼女をいかくする腕力もなく、ついには彼女の圧倒的な誘惑に耐えかねて、かれもまた異常な病的興奮におちいってしまうのだが、このまったく無力な生きものを、相手の意にさからって責めさいなむことが、彼女にとっては、もうこのうえもない愉悦とさえなっていたのである。

        X        ×        ×

 時子のふさいだまぶたの中には、それらの三年間のできごとが、その激情的な場面だけが、釘れ切れに、次から次と二重にも三重にもなって、現われては消えていくのだった。この切れ切れの記憶が、非常なあざやかさで、まぶたの内がわに映画のように現われたり消えたりするのは、彼女のからだに異状があるごとに、必ず起こる現象であった。そして、この現象が起こるときには、きっと、彼女の野性がいっそうあらあらしくなり、きのどくな不具者を責めさいなむことがいっそう激しくなるのを常とした。彼女自身、それを意識さえしているのだけれど、身内にわき上がる凶暴な力は、彼女の意志をもってしては、どうすることもできないのである。

 ふと気がつくと、へやの中が、ちょうど彼女の幻と同じに、もやに包まれたように暗くなっていく感じがした。幻の外にもう一重《ひとえ》幻《まぼろし》があって、その外のほうの幻が今消えていこうとしているような気持ちであった。それが神経のたかぶった彼女をこわがらせ、ハッと胸の鼓動が激しくなった。だが、よく考えてみると、なんでもないことだった。彼女はふとんから乗り出して、まくらもとのランプのしんをひねった。それは細めておいたしんが尽きて、ともし火が消えかかっていたのである。

 へやの中がパッと明るくなった。だが、それがやっぱりダイダイ色にかすんでいるのが少しばかり、変な感じであった。時子はその光線で、思い出したように夫の寝顔をのぞいてみた。かれは依然として、少しも形を変えないで、天井の同じところを見つめている。

「まあ、いつまで考えごとをしているのだろう」

 彼女はいくらか、無気味でもあったが、それよりも、見る影もないかたわ者のくせに、ひとりで子細らしく物思いにふけっている様子が、ひどく憎女しく思われた。そして、またしても、ムズかゆく、例の残虐性が彼女の身内にわき起こってくるのだった。

 彼女は、非常に突然、夫のふとんの上に飛びかかっていった。そして、いきなり、相手の肩を抱いて、激しくゆすぶり始めた。

 あまりにそれがとうとつであったものだから、癈人はからだ全体で、ビクンと驚いた。そして、その次には、強い叱責《しつせき》のまなざしで、彼女をにらみつけるのであった。

「おこったの? なんだい、その目」

 時子はそんなことをどなりながら、夫にいどみかかっていった。わざと相手の目を見ないようにして、いつもの遊戯を求めて行った。

「おこったってダメよ。あんたは、わたしの思うままなんだもの」

 だが、彼女がどんな手段をつくしても、そのとぎにかぎって、癈人はいつものようにかれのほうから妥協してくる様子はなかった。さっきから、じっと天井を見つめて考えていたことがそれであったのか、または単に女房のえてがってなふるまいがカンにさわったのか、いつまでもいつまでも、大きな目を飛び出すばかりにいからして、刺すように時子の顔を見すえていた。

「なんだい、こんな目」

 彼女は叫びながら、両手を、相手の目に当てがった。そして、 「なんだい」 「なんだい」と気違いみたいに叫びつづけた。病的な興奮が、彼女を無感覚にした。両手の指にどれほどの暴力が加わったかさえ、ほとんど意識していなかった。

 ハッと夢からさめたように、気がつくと、彼女の下で、癈人がおどり狂っていた。胴体だけとはいえ、非常なカで、死にもの狂いにおどるものだから、重い彼女がはね飛ばされたほどであった。不思議なことには、癈人の両眼からまっかな血が吹き出して、ひっつりの顔全体が、ユデダコみたいに上気していた。

 時子はそのとき、すべてのことをハッキリ意識した。彼女は無残にも、彼女の夫のたった一つ残っていた、外界との窓を、夢中に傷つけてしまったのである。

 だが、それは決して夢中の過失とはいいきれなかった。彼女自身それを知っていた。いちばんハッキリしているのは、彼女は夫の物いう両眼を、かれらが安易なけものになりきるのに、はなはだしくじゃまっけだと感じていたことだ。ときたま、そこに浮かび上がってくる正義の観念ともいうべぎものを、憎々しく感じていたことだ。のみならず、その目のうちには、憎女しくじゃまっけであるばかりでなく、もっと別なもの、もっと無気味で恐ろしい何物かさえ感じられたのである。

 しかし、それはうそだ。彼女の心の奥の奥には、もっと違った、もっと恐ろしい考えが存在していなかったであろうか。彼女は、彼女の夫をほんとうの生きたしかばねにしてしまいたかったのではないか。完全な肉ゴマに化してしまいたかったのではないか。胴体だけの触覚のほかには、五官をまったく失った一個の生きものにしてしまいたかったのではないか。そして、彼女の飽くなき残虐性を、真底《しんそこ》から満足させたかったのではないか。不具者の全身のうちで、目だけがわずかに人間のおもかげをとどめていた。それが残っていては、なにかしら完全でないような気がしたのだ。ほんとうの彼女の肉ゴマではないような気がしたのだ。

 このような考えが、一秒間に、時子の頭の中を通り過ぎた。 「ギャッ」というような叫ぴ声をたてたかと思うと、おどり狂っている肉塊《にくかい》をそのままにして、ころがるように階段を駆けおり、はだしのままで暗やみの外へ走りだした。彼女は悪夢の中で恐ろしいものに追い駆けられてでもいる感じで、夢中に走りつづけた。裏門を出て、村道を右手へ、でも、行く先が三丁ほど隔たった医者の家であることは意識していた。

        ×        X        ×

 頼みに頼んで、やっと医者をひっぱって来たときには、肉塊《にくかい》はさっきと同じ激しさで狂っていた。村の医者は、うわさには聞いたけれど、まだ実物を見たことがなかったので、かたわ者の無気味さに、魂をつぶしてしまって、時子が物のはずみでこんな珍事をひき起こしたむねを、くどくど弁解するのも、よくは耳にはいらぬ様子であった。かれは痛み止めの注射と、蕩の手当をしてしまうと、大急ぎで帰って行った。

 負傷者がやっともがきやんだころ、しらじらと、夜があけた,

 時子は負傷者の胸をさすってやりながら、ボロボロと涙をこぼし、「すみませんし 「すみません」といいつづけていた。肉塊は負傷のために発熱したらしく、顔が赤くはれ上がって、胸は激しく鼓動していた。

 時子は終日病人のそばを離れなかった。食事さえしなかった。そして、病人の頭と胸に当てたぬれタオルを、ひっきりなしに絞り換えたり、気違いめいた長たらしいわびごとをつぶやいてみたり、病人の胸に指先で、「ユルシテ」と幾度も幾度も書いてみたり、悲しさと罪の意識に、時間のたつのを忘れてしまっていた。

        ×         ×         X

 夕方になって、病人はいくらか熱もひき、息づかいも楽になった。時子は、病人の意識がもう常態に復したに相違ないと思ったので、あらためて、かれの胸の皮膚の上に、一字一字ハッキリと「ユルシテ」と書いて、反応を見た。だが、肉塊は、なんの返事もしなかった。目を失ったとはいえ、首を振るとか、えがおを作るとか、何かの方法で彼女の文字に答えられぬはずはなかったのに、肉塊は身動きもせず、表情も変えないのだ。息づかいの様子では、眠っているとも考えられなかった。皮膚に書いた文字を理解する力さえ失ったのか、それとも、ふんぬのあまり、沈黙をつづけているのか、まるでわからない。それはいまや、一個のフワフワした、暖かい物質でしかなかったのだ。

 時子はそのなんとも形容のできぬ、静止の肉塊を見つめているうちに、生まれてかつて経験したことのない、真底からの恐ろしさに、ワナワナと震えださないではいられなかった。

 そこに横たわっているものは、一個の生きものに相違なかった。かれは肺臓も胃袋も持っているのだ。それだのに、かれは物を見ることができない。音を聞くことができない。ひとことも口がきけない。何かをつかむぺき手もなく、立ち上がるべき足もない。かれにとっては、この世界は永遠の静止であり、不断の沈黙であり、はてしなき暗やみである。かつてなんぴとがかかる恐怖の世界を想像しえたであろう。そこに住む者の心持ちは、何に比べることができるだろう。かれはさだめし「助けてくれエー」と声をかぎりに呼ばわりたいであろう。どんな薄あかりでもかまわぬ、物の姿を見たいであろう。どんなかすかな音でもかまわぬ、物の響きを聞きたいであろう。何物かにすがり、何物かを、ひしとつかみたいであろう。だが、かれにはそのどれもが、まったく不可能なのである。地獄だ。地獄だ。

 時子は、いぎなりワッと声をたてて泣きだした。そして、取り返しのつかぬ罪業と、救われぬ悲愁に、子どものようにすすり上げながら、ただ人が見たくて、世の常の姿を備えた人間が見たくて、あわれな夫を置き去りに、おもや.の鷲尾家へ駆けつけたのであった。

 激しい嗚咽《おえつ》のために聞ぎ取りにくい、長女しい彼女のざんげを、黙って聞き終わった鷲尾老少将は、あまりのことにしばらくはことばも出なかったが、

「ともかく、須永中尉をお見舞いしよう」

 やがてかれは、ぶぜんとしていった。

 もう夜にはいっていたので、老人のために、ちょうちんが用意された。ふたりは、暗やみの草原を、おのおのの物思いに沈みながら、黙り返って離れ座敷へたどった。

「だれもいないよ。どうしたのじゃ」

 先になってそこの二階に上がって行った老人が、びっくりしていった。

「いいえ、その床の中でございますの」

 時子は、老人を追い越して、さっきまで夫の横たわっていたふとんのところへ行ってみた。だが、実にへんてこなことが起こったのだ。そこはもぬけのからになっていた。

「まあ……」

 といったきり、彼女はぼうぜんと立ちつくしていた。

「あの不自由なからだで、まさか、このうちを出ることはできまい。うちの中を捜してみなくては」

 やっとしてから、老少将が促すようにいった。ふたりは階上階下をくまなく捜しまわった。だが、不具者の影はどこにも見えなかったばかりか、かえってそのかわりに、ある恐ろしいものが発見されたのだ。

「まあ。これ、なんでございましょう」

 時子は、さっぎまで不具者の寝ていたまくらもとのところの柱を見つめていった。

 そこには鉛筆で、よほど考えないでは読めぬような、子どものいたずら書きみたいなものが、おぼつかなげにしるされていた。

 「ユルス」

 時子はそれを「許す」と読みえたとき、ハッとすべての事情がわかってしまったように思った。不具者は、動かぬからだを引きずって、机の上の鉛筆を口で捜して、かれにしてはそれがどれほどの苦心であったか、わずかかたかな三字の書き置ぎを残すことができたのである。

 「自殺をしたのかもしれませんわ」

 彼女はオドオドと老人の顔をながめて、色を失ったくちびるを震わせながらいった。鷲尾家に急が報ぜられ、召使たちが手に手にちょうちんを持って、おもやと離れ座敷のあいだの雑草の庭に集まった。

 そして手分けをして、庭内のあちこちと、やみ夜の捜索が始められた。

 時子は、鷲尾老人のあとについて、かれの振りかざすちょうちんの、淡い光をたよりに、ひどい胸騒ぎを感じながら歩いていた。あの柱には「許す」と書いてあった。あれは彼女が先に不具者の胸に「ユルシテ」と書いたことばの返事に相違ない。かれは「わたしは死ぬ。けれど、おまえの行為に立腹してではないのだよ。安心をおし」といっているのだ。

 この寛大さが、いっそう彼女の胸を痛くした。彼女は、あの手足のない不具者が、まともに降りることはできないで、全身ではしごだんを一段一段ころがり落ちなければならなかったことを思うと、悲しさと恐ろしさに、総毛立つようであった。

 しばらく歩いているうちに、彼女は、ふとあることに思い当たった。そして、ソッと老人にさきやいた。

「この少し先に、古井戸がございましたわね」

「ウン」

 老将軍はただうなずいたばかりで、そのほうへ進んでいった。

 ちょうちんの光は、空漠たるやみの中を、方一間《ほう けん》ほど薄ほんやりと明るくするにすぎなかった。

「古井戸はこのへんにあったが」

 鷲尾老人はひとりごとをいいながら、ちょうちんを振りかざし、できるだけ遠くのほうを見きわめようとした。

 そのとき、時子はふと何かの予感に襲われて、立ち止まった。耳をすますと、どこやらで、ヘビが草を分けて走っているような、かすかな音がしていた。

 彼女も老人も、ほとんど同時にそれを見た。そして、彼女はもちろん、老将軍さえもが、あまりの恐ろしさに、くぎづけにされたように、そこに立ちすくんでしまった。

 ちょうちんの火のやっと届くか届かぬかの、薄くらがりに、おい茂る雑草のあいだを、まっ黒な一物が、ノロノロとうごめいていた。その物は、無気味な爬虫類《はちゆうるい》の格好で、かま首をもたげてじっと前方をうかがい、押し黙って、胴体を波のようにうねらせ、胴体の四すみについたコブみたいな突起物で、もがくように地面をかきながら、極度にあせっているのだけれど、気持ちばかりでからだがいうことを聞かぬといった感じで、ジリリジリリと前進していた。

 やがて、もたげていたかま首が、突然ガクンと下がって、眼界から消えた。いままでよりはやや激しい葉ずれの音がしたかと思うと、からだ全体が、さかとんぼを打って、ズルズルと地面の中へ、引ぎずられるように、見えなくなってしまった。そして、はるかの地の底から、トボンと、鈍い水音が聞こえてきた。

 そこに、草に隠れて、古井戸の口があいていたのである。ふたりはそれを見届けても、急にはそこへ駆け寄る元気もなく、放心したように、いつまでもいつまでも立ちつくしていた。

 まことに変なことだけれど、そのあわただしいせつなに、時子は、やみ夜に一匹のイモムシが、何かの木の枯れ枝をはっていて、枝の先端のところへ来ると、不自由なわが身の重みで、ポトリと、下のまっくろな空間へ、底しれず落ちて行く光景を、ふと幻に描いていた。
                             (『新青年』昭和四年一月号)

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