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江戸川乱歩「兇器」

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amizako

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「アッ、助けてえ!」という金切り声がしたかと思うと、ガチャンと大きな音がきこえ、カリカリとガラスのわれるのがわかったって言います。主人がいきなり飛んで行って、細君の部屋の襖をあけてみると、細君の美弥子があけに染まって倒れていたのです。

 傷は左腕の肩に近いところで、傷口がパックリわれて、血がドクドク流れていたそうです。さいわい動脈をはずれたので、吹き出すほどでありませんが、ともかく非常な出血ですから、主人はすぐ近所の医者を呼んで手当てをした上、署へ電話をかけたというのです。捜査の木下君と私が出向いて、事情を聴きました。

 何者かが、窓をまたいで、部屋にはいり、うしろ向きになっていた美弥子を、短刀で刺して逃げ出したのですね。逃げるとき、窓のガラス戸にぶつかったので、その一枚がはずれてそとに落ち、ガラスがわれたのです。

 窓のぞとには一間幅ぐらいの狭い空き地があって、すぐコンクリートの万年塀なのです。コンクリートの板を横に並べた組み立て式の塀ですね。そのそとは住田町の淋しい通りです。私たちは万年塀のうちとそとを、懐中電灯で調べてみたのですが、ハッキリした足跡もなく、これという発見はありませんでした。

 それから、主人の佐藤寅雄……三十五歳のアプレ成金です。少し英語がしゃべれるので、アメリカ軍に親しくなって、いろいろな品を納入して儲けたらしいのですね。今はこれという商売もしないで遊んでいるのです。しかし、なかなか利口な男で、看板を出さない金融業のようなことをやって、財産をふやしているらしいのですがね……その佐藤寅雄とさし向かいで、聞いてみたのですが、細君の美弥子は二十七歳です。新潟生れの美しい女で、キャバレーなんかにも勤めたことがあり、まあ多情者なんですね。いろいろ男関係があって、佐藤と結婚するすぐ前の男が執念ぶかく美弥子につきまとっているし、もう一人あやしいのがある。犯人はそのどちらかにちがいないと、.佐藤が言うのです。

 私は警察にはいってから五年ですが、仕事の上では、あんな魅力のある女に出会ったことがありませんね。佐藤はひどく惚れこんで、それまで同棲していた男から奪うようにして結婚したらしいのです。その前の男というのは、関根五郎というコック……コックと言っても相当年季を入れた腕のあるフランス料理のコックですが、これと同棲していたのを、佐藤が金に物を言わせて手に入れたのですね。

 もう一人の容疑者は青木茂という不良青年です。美弥子はこの青年とも以前に関係があって、肖木の方が惚れているのですね。佐藤と結婚してからは、美弥子は逃げているのに、青木がつきまとって離れないのだそうです。不良のことですから、あつかましく佐藤のうらへ押しかけてきたり、脅迫がましいことを口走ったりして、うるさくて仕方がないというのです。

 この青木は見かけは貴族の坊ちゃんのような美青年ですが、相当なやつで、中川一家というグレン隊の仲間で、警察の厄介になったこともあるのです。これが、美弥子に愛想づかしをされたものだから、近頃では凄いおどし上乂句などを送ってよこすらしく、美弥子は「鎧されるかもしれないしといって怖がっていたと言います、

 主人の佐藤は、この二人のほかには心当たりはない。やつらのどちらかにきまっている。美弥チはうしろからやられて、相手の顔を見なかったし、ふりむいたときには、もう窓から飛び出して、暗やみに姿を消していたので、服装さえもハッキリわからなかったが、やっぱり、その二人のうちのどちらかだと言っている。それにちがいないと断言するのです。そこで、私はこの二人に当たってみました……いや、その前にちょっとお耳に入れておくことがあります。いつも先生は「その場にふさわしくないような変てこなことがあったら、たとえ事件に無関係に見えても、よく記憶しておくのだ」とおっしゃる、まあそういったことですがね。

 医者が来て美弥子の手当てがすみ、別室に寝させてから、主人の佐藤は事件のあった部屋を念入りに調べたのだそうです。刃物を探したのですよ。美弥了の刺された刃物は普通の短刀ではなくて、どうも両刃の風変わりな兇器らしいのですが、ずいぶん探したけれども、どこにもなかったというのです。

 私が、その辺にころがっていなければ、むろん犯人が持って逃げたにきまっているじゃないか、何もそんなに探さなくてもと言いますと、いやそうじゃない。これは、ひ.出っとしたら美弥子のお芝居かもしれない.一あいつは恐ろしく変わり者のヒステリー女だから、何をヤるか知れたものじゃない。だから念のために、刃物がどこかに隠してないか調べてみたのだというのです。

 しかし、美弥子のいた部屋の押入れやタンスを調べても、鋏一梃、針一本見つからなかった。庭には何も落ちていなかった。そこではじめて、これは何者かがそとから忍びこんだものだと確信したというのです、

 相手の話がおわると、アームチェアに埋まるようにして聞いていた明智小五郎が、モジャモジャ頭に指を突っ込んで、合槌を打った。

「面白いね。それには何か意味がありそうだね」

 この名探偵はもう五十を越していたけれど、昔といっこう変わらなかった。顔が少し長くなり、長くて痩せた手足と一そうよく調和してきたほかには、これという変化もなく、頭の毛もまだフサフサとしていた。


2

 明智小五郎はお洒落《しやれ》と見えないお洒落だった。顔はいつもきれいにあたっていたし、服も彼一流の好みで、凝った仕立てのものを、いかにも無造作に着こなしていた。頭の毛を昔に変わらずモジャモジャさせているのも、いわば彼のお洒落の一つであった。

 ここは明智が借りているフラットの客問である。麹町采女町に.東京唯一の西洋風な「麹町アパート」が建ったとき、明智はその二階の一区劃を借りて、事務所兼住宅にした。アパートは帝国ホテルに似た外観の建築で、三階建てであった。明智の借りた一区劃には広い客間と、書斎と、寝室とのほかに、浴槽のある化粧室と、小さな台所がついていた。食堂を書斎に変えてしまったので、客と食事するときは近くのレストランを使うことにしていた。

 明智夫人は胸を患らって、長いあいだ高原療養所にはいっているので、彼は独身同然であった。身のまわりのことや食事の世話は、少年助手の小林芳雄一人で取りしきっていた。手広いフラットに二人きりの暮らしであった。食事といっても、近くのレストランから運んできたのを並へたり、パンを焼いたり、お茶をいれたりするだけで、少年の手におえぬことではない。

 その客間で明智と対座しているのは、港区のS署の鑑識係りの巡査部長、庄司専太郎であった。一年ほど前から、署長の紹介で明智のところへ出入りするようになり、何か事件が起こると智恵を借りにきた。

「ところで佐藤がこの二人のうちどちらかにちがいないというコックの関根と、不良の青木に当たってみたのですが、どうも思わしくありません。両方ともアリバイははっきりしないのです。家にいなかったことは確かですが、といっブ丶現場付近をうろついたような聞き込みも、まだないのです。ちょっとおどかしてみましたが、二人とも、どうしてなかなかのしたたかもので、うかつなことは言いません」

「君の勘では、どちらなんだね」

「どうも青木がくさいですね。コックの関根は五十に近い年配で、細君はないけれども、婆さんを抱えていますからね。なかなか親孝行だって評判です。そこへ行くと青木ときたらまったく天下の風来坊です。それに仲聞がいけない。人殺しなんか朝めし前の連中ですからね。それとなく口裏を引いてみますとね、青木は確かに美弥子を恨んでいる。惚れこんでいただけに、こんな扱いを受けちゃあ、我慢ができないというのでしょうね。ほんとうに殺すつもりだったのですよ。それが手先が狂って、叫び声を立てられたので、つい怖くなって逃げ出したのでしょう。関根ならあんなヘマはやりませんよ」

「二人の住まいは?」

「ごく近いのです。両方ともアパート住まいですが、関.根は坂下町、青木は菊井町です。関根の方は佐藤のところへ三丁ぐらい。青木の方は五丁ぐらいでケ」

「兇器を探し出すこと、関根と青木のその夜の行動を、もう一歩突っ込んで調べること、これが常識的な線だね。しかし、そのほかに一っ、君にやってもらいたいことがある」

 明智の眼が笑っていた。いたずらっ子のように笑っていた。庄司巡査部長はこの眼色には馴染みがあった.)明智は彼だけが気づいている何か奇妙な着眼点に興じているのだ。

「犯人が逃げるとき、窓のガラス戸が庭に落ちて、.ガラスが割れたんだね。そのガラスのかけらはどうしたの?」

「佐藤のうちの婆やが拾い集めていたようです」

「もう捨ててしまったかもしれないが..もしそのガラスのかけらを全部集めることができたら、」例かの資料になる。一つやってみたまえ。ガラス戸の枠に裟っているかけらと合わせて、復原してみるんだね」

 明智の眼はやっぱり笑っていた。庄訓.も明智の顔を見てニヤリと笑い返した。明智のいう意味がわかっているっもりであった。しかし、ほんとうはわかっていなかったのである。

 それから十日目の午後、庄司巡査部長はまた明智を訪問していた。

「もう御承知でしょう。大変なことになりました。佐藤寅雄が殺されたのです。犯人はコックの関根でした。たしかな証拠があるので、すぐ引っ張りました。警視庁で調べています。私もそれに立ち会って、いま帰ソたところです」

「ちょっとラジオで聴いたが、詳しいことは何も知らない。要点を話してください」

「私はゆうべ、その殺人現場に居合わせたのです。もう夜の九時をすぎていましたが、署から私の自宅に連絡があって、佐藤が、ぜひ話したいことがあるから、すぐ来てくれという電話をかけてきたことがわかったのです。私は何か耳よりな話でも聞けるかと、急いで佐藤の家に駈けつけました。

 主人の佐藤と美弥子とが、奥の座敷に待っていました。美弥子は二、三口前に、傷口を縫った糸を抜いてもらったと言って、もう外出もしている様子でした。ふたりとも浴衣姿でした。佐藤は気色ばんだ顔で、『夕方配達された郵便物の中に、こんな手紙があったのを、つい今しがたまで気づかないでいたのです』といって、安物の封筒から、ザラ紙に書いた妙な手紙を出して見せました。

 それには、六月二十五日の夜(つまりゆうべですね)どえらいことがおこるから、気をつけるがいいという文句が、実に下手な鉛筆の字で書いてありました。どうも左手で書いたらしいのですね。封筒もやはり鉛筆で同じ筆蹟でした。差出人の名はないのです。

 心当たりはないのかと聞くと、主人の佐藤は、筆蹟は変えているけれども、差出人は関根か青木のどちらかにきまっていると断言しました。それからね、実にずうずうしいじゃありませんか、やつらは二人とも、美弥子のお見舞いにやってきたそうですよ。もしどちらかが犯人だとすれば、大した度胸です。一と筋繩で行くやつじゃありません」

3

「そんなことを話しているうちに三十分ほどもたって、十時を少しすぎた頃でした。美弥子が『書斎にウィスキーがありましたわね、あれ御馳走したら』と言い、佐藤が縁側の突き当たりにある洋室へ、それを取りに行きましたが、しばらく待っても帰ってこないので、美弥子は『きっと、どっかへしまい忘れたのですわ。ちょっと失礼』といって、主人のあとを追って、洋室へはいっていきましたー.

 私は部屋のはしの方に坐っていましたので、ちょっとからだを動かせば、縁側の突き当たりの洋室のドアが見えるのです。あいだに座敷が一つあって、その前を縁側が通っているので、私の坐っていたところから洋室のドアまCは五間も隔っていました。まさかあんなことになろうとは思いもよらないので、私はぼんやりと、そのドアの方を眺めていたのです。

 突然『アッ、だれか来て……』という悲鳴が、洋室の方から聞こえてきました。ドアがしまっているので、なんだかずっと遠方で叫んでいるような感じでした。私はそれを聞くと、ハッとして、いきなり洋室へ飛んで行ってドアをひらきましたが、中はまっ暗です。『スイッチはどこです』とどなっても、だれも答えません。私は壁のそれらしい場所を手さぐりして、やっとスイッチを探しあてて、それを押しました。

 電灯がつくと、すぐ眼にはいったのは、正面の窓際に倒れている佐藤の姿でした。浴衣の胸がまっ赤に染まっています。美弥子も血だらけになって、夫のからだにすがりついていましたが、私を見ると、片手で窓を指さして、侮かしきりと口を動かすのですが、恐ろしく昂奮していろので、何を言っているのかさっぱりわかりません。

 見ると、窓の押し上げ戸がひらいています。曲者はそこから逃げたにちがいありません。私はいきなり窓から飛び出して行きました。庭は大して広くありません。人の隠れるような大きな茂みもないのです。五、六閤向こうに例のコンクリートの万年塀が白く見えていました。曲者はそれを乗り越して、いち早く逃げ去ったのでしょう。いくら探しても、その辺に人の姿はありませんでした。

 元の窓から洋室に戻りますと、私が飛び出すとき、入れちがいに駈けつけた婆やと女中が、美弥子を介抱していました。美弥子には別状ありません。ただ佐藤のからだにすがりついたので、浴衣が血まみれになっていたばかりです。佐藤のからだを調べてみると、胸を深く刺されていて、もう脈がありません、私は電話室へ飛んで行って、署の宿直員に急報しました。

 しばらくすると、署長さんはじめ五、六人の署員が駈けつけてきました。それから、懐中電灯で庭を調べてみると、窓から塀にかけて、犯人の足跡が幾つも、はっきりと残っていたのです。実に明瞭な靴跡でした。

 けさ、署のものが関根、青木のアパートへ行って、二人の靴を借り出してきましたが、比べてみると、関根の靴とピッタリ一致したのです。関根はちょうど犯行の時聞に外出していて、アリバイがありません。それで、すぐに引っぱって、警視庁へつれて行ったのです'

「だが、関根は白状しないんだね」

「頑強に否定しています。佐藤や美弥子に恨みはある。幾晩も佐藤の屋敷のまわりを、うろついたこともある。しかしおれは何もしなかった。塀を乗りこえた覚えは決してない。犯人はほかにある。そいつがおれ一の靴を盗み出して、にせの足跡をつけたんだと言いはるのです」

「フン、にせの足跡ということも、むろん考えてみなければいけないね」

「しかし、関根には強い動機があります。そして、アリバイがないのです」

「青木の方のアリバイは?」

「それも一応当たってみました。青木もその時分外出していて、やっぱりアリバイはありません」

「すると、青木が関根の靴をはいて、力年塀をのり越したという仮定もなり立つわけかね」

「それは調べました。関根は靴を一足しか持っていません。その靴をはいて犯行の時間には外出していたのですから、その同じ時問に青木が関根の靴をはくことはできません」

「それじゃあ.真犯人が関根の靴を盗んで、にせの足跡をつけたという関根の主張は、なり立たないわけだねし

 明智の眼に例の異様な微笑が浮かんだ。そして、しばらく天井を見つめてタバコをふかしていたが、ふと別の事を言い出した。

「君は、美弥子が傷つけられた時に割れた窓ガラスのかけらを集めてみなかった?」

「すっかり集めました。婆やが残りなく拾いとって、新聞紙にくるんで、ゴミ箱のそばへ置いておいたのです。それで、私はガラス戸に残っているガラスを抜き取って、そのかけらと一緒に復原してみました。すると、妙なことがわかったのです。割れたガラスは三枚ですが、かけらをつぎ合わせてみると、三枚は完全に復原できたのに、まだ余分のかけらが残っているのです。婆やに、前から庭にガラスのかけらが落ちていて、それがまじったのではないかと聞いてみましたが、婆やは決してそんなことはない。庭は毎日掃いているというのです」

「その余分のガラスは、どんな形だったね」

「たくさんのかけらに割れていましたが、つぎ合わせてみると、長細い不規則な三角形になりましたし

「ガラスの質一は?」

「眼で見たところでは、ガラス戸のものと同じようです」

 明智はそこで又、しばらくだまっていた。しきりにタバコを吸う。その煙を強く吐き出さないので、モヤモヤと顔の前に、煙幕のような白い煙がゆらいでいる。

4

 明智小五郎と庄司巡査部長の会話がつづく。

「佐藤の傷口は美弥子のと似ていたんだね」

「そうです。やはり鋭い両刃の短刀らしいのです」

「その短刀はまだ発見されないだろうね」

「見つかりません。関根はどこへ隠したのか、あいつのアパートには、いくら探しても無いのです」

「君は殺人のあった洋室の中を調べてみたんだろうね「

「調べました。しかし洋室にも兇器は残っていなかったのです」

「その洋室の家具なんかは、どんな風だったの? =二つ思い出してごらん」

「大きな机、革張りの椅子が一つ、肘掛け椅子が二つ、西洋の土製の人形を飾った隅棚、大きな本箱、それから窓のそばに台があって、その上にでっかいガラスの金魚鉢がのっていました。佐藤は金魚が好きで、いつも書斎にそのガラス鉢を置いていたのです」

「金魚鉢の形は?」

「さし渡し一尺五寸ぐらいの四角なガラス鉢です。蓋はなくて、上はあけっぱなしです。よく見かける普通の金魚鉢のでっかいやつですね」

「その中を、君はよく見ただろうね」

「いいえ、べつに……すき通ったガラス鉢ですから、兇器を隠せるような場所ではありません」

 その時、明智は頭に右手をあげて、指を櫛のようにして、モジャモジャの髪の毛をかきまわしはじめた。庄司は明智のこの奇妙な癖が、どういう時に出るかを、よく知っていたので、びっくりして、彼の顔を見つめた。

「あの金魚鉢に何か意味があったのでしょうか」

「僕はときどき空想家になるんでね。いま妙なことを考えているのだよ……しかし、まったく根拠がないわけでもない」

 明智はそこでグッと上半身を前に乗り出して、内証話でもするような恰好になった。

「実はね、庄司君、このあいだ君の話を聞いたあとで、うちの小林に、少しばかり聞きこみと尾行をやらせたんだがね、佐藤寅雄には美弥子の前に細君があったが、これは病気でなくなっている。子供はない。そして、佐藤は非常な財産家だ。それから、君は今、青木が美弥子を見舞いにきたといったね。ちょうどそのとき、小林が青木を尾行していたんだよ。物蔭からのぞいていると、美弥子は青木を玄関に送り出して、そこで二人が何かヒソヒソ話をしていたというのだ。まるで恋人同士のようにね」

 庄司は話のつづきを待っていたが、明智がそのままだまってしまったので、いよいよいぶかしげな顔になった。「それと、金魚鉢とどういう関係があるのでしょうか」

「庄司君、もし僕の想像が当たっているとすると、これは実にふしぎな犯罪だよ。西洋の小説家がそういうことを空想したことはある。しかし、実際には博とんど前例のない殺人事件だよ」

「わかりません。もう少し具体的におっしゃってください」

「それじゃあ問題の足跡のことを考えてみたまえ。あれがもしにせの靴跡だとすれば、必らずしも事件の起こったときにつけなくても、前もってつけておくこともできたわけだね。それならば青木にだってやれたほずだ。すきを見て関根のアパートから靴を盗み出し、佐藤の庭に忍びこんで靴跡をつけ、また関根のところへ返しておくという手だよ。関根のアパートと佐藤の家とは三丁しか隔たっていないのだから、ごくわずかの時間でやれる。それに、たとえ見つかったとしても、靴泥棒だけなれば大した罪じゐ、ないからね。もう一っ突っ込んでいえば、にせの足跡をつけたのは、青木に限らない。もっとほかの人にもやれたわけだよ」

 庄司巡査部長は、まだ明智の真意を悟ることができなかった。困惑した表情で明智の顔を見つめている。

『君は盲点に引っかかっているんだよ」

 明智はニコニコ笑っていた。例の意昧ありげな眼だけの微笑が、顔じゅうにひろがったのだ。でして、右手に持っていた吸いさしのタバコを灰皿に入れると、そこにころがっていた鉛筆をとってメモの紙に何か書き出した。

「君に面白い謎の問題を出すよ。さあ、これだ」

「いいね。0は円の中心だ。OAはこの円の半径だね。OA上のB点から垂直線を下して円周にまじわった点がCだ。また、Oから垂直線を下してOBCDという直角四辺形を作る。この図形の中で長さのわかっているのはABが三インチ、BDの斜線が七インチという二つだけだ。そこで、この円の直径は何インチかという問題だ。三十秒で答えてくれたまえ」

 庄司巡査部長は面くらった。昔、中学校で幾何を習ったことはあるが、もうすっかり忘れている。直径は半径の二倍だから、まずOAという半径の長さを見出せばよい。OAのうちでABが三インチなんだから、残るOBは何インチかという問題になる。もう一つわかっているのはBDの七インチだ。このBDを底辺とする三角形が目につく、エート、底辺七インチのOBDという直角三角形の一辺は……。


A
B
3
0
7
C
D

「だめだね。もう三十秒はとっくにすぎてしまったよ。君はむずかしくして考えるからいけない。多分ABの三インチに引っかかったんだろう。それに引っかかったら、もうおしまいだ。いくら考えてもだめだよ。

 この問題を解くのはわけない。いいかね、この図の0からCに直線を引いてみるんだ。ほうらね、わかっただろう。直角四辺形の対角線は相等し……ハハハハハ。半径は七インチなんだよ。だから直径は十四インチさ」

「なるほど、こいつは面白い謎々ですね」

 庄司は感心して図形を眺めている。

「庄司君、君は今度の事件でも、このAB線にこだわっているんだよ。ずるい犯人はいつもAB線を用意している。そして、捜査官をそれに引っかけようとしている。さあ、今度の事件のAB線はなんだろうね。よく考えてみ囗たまえ」

5

 庄司巡査部長が三度目に明智のフラットを訪ねたのは、それからまた三日の後であった。

「先生、ご明察の通りでした。美弥子は自白しました.佐藤の財産が目的だったのです。そして、財産を相続したら、青木と一緒になるつもりだったというのです。美弥子の方が青木に惚れていたのですよ。それを青木に脅迫でれているように見せかけて、佐藤を安心させておいたのです」

 明智は沈んだ顔をしていた。いつもの笑顔も消えて.眼は憂鬱な色にとざされていた。

「先生のおっしゃったAB線は、美弥子が自分で自分の腕を傷つけ、さも被害者であるように見せかけたことです。まさか被害者が犯人だとは誰も考えなかったのです。

 兇器は先生のお考えの通りガラスでした。長っ細い一.一角形のガラスの破片でした。美弥子はそれで自分の腕を切って、よく血のりをふきとってから庭に投げすてたのです。そして、窓のガラスを割って庭へ落とし、そのガラスのかけらで、兇器のガラスをカムフラージュしてしまったのです。そのガラスのかけらをすっかり集めて、丹念に復原してみる警官があろうとは、さすがの彼女も思い及ばなかったのですね。

 佐藤もなかなか抜け目のない男ですから、美弥子がぼんとうに自分を愛してはいないことを見抜いていたのかもしれません。それで、あんなに兇器を探したのでしょうね。自分が殺されるとまでは考えなかったにしても、なんとなく疑わしく思っていたのですね。

 佐藤を殺した兇器もガラスでした。傷ロへ折れ込まない用心でしょう。それは少し厚手のガラスで、やはり短刀のような長い三角形のものでした。佐藤に油断をさせておいて、それで胸を突き、血のりをよくふきとってから、例の金魚鉢の底へ沈めたのです。その時間は充分ありました。『だれか来て……』と叫んだのは、すべての手順を終ってからです。佐藤が殺されたとき、唸り声ぐらいは立てたのでしょうが、私の坐っていた座敷からは遠いし、それに、厚いドアがしまっていたので私は気づかなかったのです。

 金魚鉢にガラスの兇器とは、なんとうまい思いつきでしょう。底に一枚ガラスが沈んでいたって、ちょっと見たのではわかりません。物を探す場合、誘明な金魚鉢なんか最初から問題にしませんし、それにガフスが短刀の代りに使われたなんて、誰も考えっこありませんからね.、先生がすぐにそこへお気づきになったのは、驚くほかありません。

 庭のにせの足跡も美弥子がつけたのです。傷口の糸を抜いた翌日、あまりとじこもっていても、-からだに悪いから、ちょっと散歩してくるといって、家を出たのだそうです。そして近くの関根のアパートへ行って、関根の靴を風呂敷に包んで持ち帰り、庭にあとをつけると、又アパートへ返しに行ったのです。美弥子は関根が朝寝坊なことを知っていて、寝ているひまに、これだけのことをやってのけたのです。前にも関根と同棲していたのですから、関根の生活はこまかいところまで知りぬいていたわけです。

 それから例の脅迫状も、美弥子が左手で書いて、自分でポストへ入れたのだと白状しました。この脅迫状は、一つは私を呼びよせて犯行の現場に立ち会わせるためだったのですね。ずいぶん舐められたものです.ガラスの兇器のトリックは、目撃者がなくては、その威刀を発揮しないのですからね。

 それから青木はむろん呼び出して調べましたが、共犯関係はないことがわかりました。美弥子は恋人の青木には何も知らせないで、自分一人で計画し、実行したのです。実に勝気な女です。美弥子は貧乏を呪っていました。自分は貧乏のためにどんなつらい思いをしてきたかわからない。いろいろな男をわたり歩かなければならなかったのも貧のためだ。どんなことをしても貧乏とは縁を切りたいと思っていた。そこへ佐藤という大金持ちが現われたので、金のために結婚を承諾した。関根には借金をしていたので、いやいやながら同棲したが、ずいぶんひどい目にあった。逃げ出したくても隙がなく、すぐ腕力をふるうので、どうすることもできなかった。佐藤がその借金を返してくれたので、やっと助かったが、関根にいじめられた復讐はいつかしてやろうと思っていたというのです。

 青木には佐藤と結婚する前から好意を持っていたが、結婚後、佐藤の目をかすめてだんだん深く一なって行ったのだそうです。そうなると佐藤とはもう一日も一緒にいたくない。といって、離婚したのではお金に困る。貧乏はもうこりごりだ、というわけで、佐藤の財産をそのまま自分のものにして、好きな青木と一緒になるという、虫のいいことを思いついたのですね。そして、ガラスの殺人という、実に奇抜な方法を考え出したのです。女というものは怖いですね」

「僕の想像が当たった。実に突飛な想像だったが、世間にはそういう突飛なことを考え出して、実行までするやつがあるんだね」

 明智は腕を組んで、陰気な顔をしていた。あれほど好きなタバコも手にとるのを忘れているように見えた。

「ですから、先生も不思議な人ですよ。不思議な犯罪は、不思議な探偵でなければ見破ることができないのですね」

「君はそう思っているだろうね。しかし、いくら僕が不思議な探偵でも、君の話を聞いただけでは、あんな結論は出なかっただろうよ。種あかしをするとね、僕は小林に美弥子の前歴をさぐらせたのだ。そして、美弥子と親しかったが今は仲たがいになっている二人の女に、別々にここへ来てもらって、よく話を聞いたのだ。それで美弥子という女の性格がわかったのだよ。僕が金魚鉢に気がついたのは、そういう手続きを経ていたからだ。だが、その時はもうおそかった。僕の力では事前にそこまで考えられなかった。あとになって、不思議な殺人手段に気づくだけがやっとだった」

 明智はそういって、ブツンとだまりこんでしまった。庄司巡査部長は明智のこんなにうち沈んだ姿を見るのは、はじめてであった。
(『サンケイ新聞』昭和二十九年六月連載)

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