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江戸川乱歩「幽霊」


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「辻堂のやつ、とうとう死にましたよ」

 腹心《ふくしん》のものが、多少てがら顔にこう報告した時、平田氏は少なからず驚いたのである。もっとも、だいぶ.以前から、彼が病気で床《とこ》についたきりだということは聞いていたのだけれど、それにしても、あの自分をうるさくつけねらって、かたきを(あいつはかってにそうきめていたのだ)うつことを生涯の目的にしていた男が、「きゃつのどてっ腹へ、この短刀をぐっさりと突きさすまでは、死んでも死にきれない」と口癖《くちぐせ》のようにいっていたあの辻堂が、その目的を果たしもしないで死んでしまったとは、どうにも考えられなかった。

「ほんとうかね」

 平田氏は思わずその腹心の者にこう問い返したのである。

「ほんとうにもなんにも、わたしは今、あいつの葬式の出るところを見とどけて来たんです。念のために近所で聞いてみましたがね、やっぱりそうでした。親子二人暮らしのおやじが死んだのですから、むすこのやつ、かわいそうに、泣き顔で棺《かん》のそばへついて行きましたよ。おやじに似合わない、あいつはよわむしですね」

 それを聞くと、平田氏はがっかりしてしまった。屋敷のまわりに高いコンクリート塀をめぐらしたのも、その塀の上にガラスの破片を植えつけたのも、門長屋をほとんどただのような家賃《やちん》で巡査の一家に貸したのも、屈強《くつきよう》なふたりの書生を置いたのも、夜分はもちろん、昼間でも、やむをえない用事のほかはなるべく外出しないことにしていたのも、もし外出する場合には必ず書生をともなうようにしていたのも、それもこれも皆、ただひとりの辻堂がこわいからであった。平田氏は一代で今の薄歙榔を作り上げたほどの男だから・それは時にはずいぶん罪なことをやって来た。彼に深い恨みをいだいている者も、二人や三人ではなかった。といって、それを気にする平田氏ではないのだが、あの半狂乱の辻堂老人ばかりは、彼はほとほと持てあましていたのである。その相手が今死んでしまったと聞くと、彼はホッと安心のため息をつくと同時に、なんだか張り合いが抜けたような、寂しい気持ちもするのであった。

 その翌日《よくじつ》、平田氏は念のために、自身で辻堂の住まいの近所へ出かけて行って、それとなく様子を探ってみた。そして、腹心のものの報告がまちがっていなかったことを確《たし》かめることができた。そこで、いよいよだいじょうぶだと思った彼は、これまでの厳重な警戒をといて、久しぶりでゆったりした気分を味わったことである。

 くわしい事情を知らぬ家族の者は、日ごろ陰気な平田氏が、にわかに快活になって、彼の口からついぞや聞いたことのない笑い声がもれるのを、少なからずいぶかしがった。ところが、この彼の快活な様子は、あんまり長くは続かなかった。家族の者は、今度は、前よりもいっそうひどい主人公のゆううつに悩まされなければならなかった。

 辻堂の葬式があってから、三日のあいだは何事もなかったが、その次ぎの四日目の朝のことである。書斎の椅子にもたれて、何心なくその日とどいた郵便物を調べていた。平田氏は、たくさんの封書やはがきの中にまじって、一通の、かなりみだれてはいたが、確かに見覚えのある手蹟で書かれた手紙を発見して、青くなった。

 この手紙は、おれが死んでから、きさまのところへとどくだろう。きさまはさだめしおれの死んだことを小おど0して喜んでいるだろうな。そして、ヤレヤレこれで安心だと、さぞ、のうのうした気でいるだろうな。ところが、どっこい、そうはいかぬぞ。おれのからだは死んでも、おれの魂《たましい》はきさまをやっつけるまでは、決して死なないのだからな。なるほど、きさまのあのばかばかしい用心は、生きた人間にはききめがあるだろう。たしかにおれは、手も足も出なかった。だがな、どんな厳重なしまりでも、すうっと煙のように通りぬけることのできる魂《たましい》というやつには、いくらきさまが大金持ちでも、策のほどこしようがないだろう。おい、おれはな、身動きもできない大病にとっつかれて寝ている間に、こういうことを誓《ちか》ったのだよ。この世できさまをやっつけることができなければ、死んでから怨霊《おんりよう》になって、きっと、きさまをとり殺してやる、ということをな。何十日という間、おれは寝床の中で、そればっかり考えていたぞ。その思いが通らないでどうするものか。用心しろ。怨霊《おんりよう》というものはな、生きた人間の力よりも、よっぽど恐ろしいものだぞ。

 筆蹟がみだれている上に、漢字のほかは全部片カナで書かれていて、ずいぶん読みにくいものだったが、そこにはだいたい右のような文句がしるされていた。いうまでもなく、辻堂が病床で呷吟《しんぎん》しながら魂《たましい》をこめて書いたものに相違ない。そして、それを自分の死んだあとで、むすこに投函《とうかん》させたものに相違ない。

「なにをばかな、こんな子どもだましのおどし文句で、おれがビクビクするとでも思っているのか伊。いい年をして、さてはやつも病気のせいで、いくらかモウロクしていたんだな」

 平田氏は、その場ではこの死人の脅迫状を一笑に付してしまったことだが、さて、だんだん時がたつにつれて、なんともいえない不安が、そろそろと彼の心にわき上がって来るのを、どうすることもできなかった。どうにも防御の方法がないということが、相手がどんなふうに攻めて来るのだか、まるでわからないことが、少なからず彼をイライラさせた。彼は夜となく昼となく、気味のわるい妄想《もうそう》に苦しめられるようになった。不眠症がますますひどくなっていった。

 一方においては、辻堂のむすこの存在も気がかりであった。あのおやじとはちがって、気の弱そうな男に、まさかそんなこともあるまいが、もしやおやじの志をついで、やっぱりおれのあとを、つけねらっているのだったら大変である。そこへ気づくと、彼はさっそく、以前辻堂を見張らせるために雇ってあった男を呼びよせ、今度はむすこのほうの監視を命じるのであった。

 それから数カ月のあいだは、なにこともなく過ぎ去った。平田氏の神経過敏と不眠症は容易に回復しなかったけれど、心配したような怨霊《おんりよう》のたたりらしいものもなく、また辻堂のむすこのほうにも、なんら不穏《ふおん》の形勢は見えなかった。さすが用心深い平田氏も、だんだん無益なとりこし苦労を、ばかばかしく思うようになって来た。

 ところが、ある晩のことであった。

 平田氏は珍しく、たったひとりで書斎にとじこもって何か書きものをしていた。屋敷町のことで、まだ宵《よい》のうちであったにもかかわらず、あたりはいやにしんとしずまり返っていた。時々犬の遠吠《とおぼ》えnが、もの寂しく聞こえて来たりした。

「これがまいりました」

 突然書生がはいって来て、一封の郵便物を彼の机の端《はし》に置くと、黙って出て行った。それは一目見て写真だということがわかった。十日ばかり前に、ある会社の創立祝賀会が催された時、発起人たちが顔をそろえて写真をとったことがある。平田氏もそのひとりだったので、それを送って来たものに違いない。

 平田氏はそんなものにたいして興味もなかったけれど、ちょうど書きものに疲《つか》れて一服《ぶく》したい時だったので、すぐ包み紙を破って写真を取り出して見た。彼はちょっとの間それをながめていたが、ふと何かきたないものにでもさわった時のように、ポイと机の上にほうり出した。そして不安らしい目つきで、部屋の中をキョロキョロと見回すのであった。しばらくすると、彼の手がおじおレと、今ほうり出したばかりの写真のほうへ伸びて行った。しかし、ひろげてちょっと見ると、またポイとほうり出すのだ。二度三度、この不思議な動作《どうさ》をくりかえしたあとで、彼はやつと気を落ちつけて、写真を熟視することができた。

 それは決して幻影ではなかった。目をこすってみたり、写真の表をなでてみたりしても、そこにある恐ろしい影は、消え去りはしなかった。ゾーッと彼の背中を冷《つめ》たいものがはい上がった。彼はいきなりその写真をズダズタに引きさいてストーブの中に投げ込むと、フラフラと立ち上がつて書斎から逃げ出した。

  とうとう恐れていたものがやって来たのだ。辻堂の執念《しゆうねん》深い怨霊《おんりよう》が、その姿を現わしはじめたのだ。

 そこには、七人の発起人の明瞭な姿の奥に、もうろうとして、ほとんど写真の表面いっぱいにひろがって、辻堂の無気味《ぶきみ》な顔が、大きく大きく写っていたではないか。そして、そのもやのような顔の中に、まっ暗な二つの目が、平田氏のほうを恨めしげににらんでいたではないか。

 平田氏はあまりの恐ろしさに、ちょうど物におびえた子どものように、頭からフトンをひっかぶって、その晩はよっびて、ブルブルとふるえていたが、翌朝になると、太陽の力はえらいものだ.! 彼は少しばかり元気づいたのである。

「そんなばかなことがあろうはずはない。ゆうべはおれの目がどうかしていたのだ」

 しいてそう考えるようにして、彼は朝日のカンカン照り込んでいる書斎へはいっていった。見ると残念なことには、写真は焼けてしまって、跡形もなくなっていたけれど、それが夢でなかった点証拠には、写真の包み紙が机の上にチャンと残っていた。

 よく考えてみると、どちらにしても、恐ろしいことだった。もし、あの写真に、ほんとうに辻堂の顔が写っていたのだったら、それはもう例の脅迫状《きようはくじよう》もあることだし、こんな無気味な話はない。世の中には理外の理というものが、ないともかぎらないのだ。それともまた、実はなんでもない写真が、平田氏の目にだけあんなふうに見えたのだとしても、それではいよいよ辻堂ののろいにかかって、気が変になり始めたのではないかと、いっそう恐ろしく感ぜられるのだ。

 二、三日のあいだというもの、平田氏はほかのことは何も思わないで、ただあの写真のことばかり考えていた。

 もしや、どうかして同じ写真屋で、辻堂が写真をとったことがあって、その種板《たねいた》と今度の写真の種板とが、二重に焼きつけられたとでもいうことではないかしら。そんなぱかぱかしいことまで考えて、わざわざ写真屋へ使いをやって調べさせたが、むろんそのような手落ちのあろうはずもなく、それに、写真屋の台帳には、辻堂という名まえはひとりもないこともわかった。

 それから一週間ばかりのちのことである。関係している会社の支配人から電話だというので、平田氏が何心なく卓上電話の受話器を耳にあてると、そこから変な笑い声が聞こえて来た。

「ウフフフフフ」

 遠いところのようでもあり、そうかと思うと、すぐ耳のそばで非常な大きな声で笑っているようにも思われた。こちらからいくら声をかけても、先方は笑っているだけだった。

「モシモシ、きみは××君ではないのかね」

 平田氏はかんしゃくを起こしてこうどなりつけると、その声はだんだん小さくなって、ウ、ウ、ウ、……と、すうっと遠くのほうへ消えて行った。そして、「ナンバン、ナンバン、ナンバン」という交換手のかん高い声がそれに代わった。

 平田氏はいきなりガチャンと受話器をかけると、しばらくのあいだじっと一つところを見つめて身動きもしないでいた。そうしているうちに、何とも形容できない恐ろしさが、心の底からジリジリと込み上げて来た……あれは聞き覚えのある辻堂自身の笑い声ではなかったか……平田氏はその卓上電話器が何か恐ろしいものででもあるように、でも、それから目を離すことはできないで、あとじさりにそろそろと部屋を逃げ出すのであった。

 平田氏の不眠症《ふみんしよう》はだんだんひどくなっていった。やっと眠りついたかと思うと、突然気味わるい叫び声を立てて飛び起きるようなこともたびたびあった。家族の者は主人の妙なようすに、少なからず心配した。そして医者に見てもらうことを、くどく勧めた。平田氏は、もしできることなら、ちょうど幼《おさな》い子どもが「こわいよう」といって母親にすがりつくように、だれかにすがりつきたかった。そして、このごろのこわさ恐ろしさをすっかり打ち明けたかった。でも、さすがにそうもなりかねるので、「なあに、神経衰弱だろう」といって、家族の手前をとりつくろい、医者の診察を受けようともしなかった。

 そして、また数日が過ぎ去った。ある日のこと、平田氏の重役を勤めている会社の株主総会があって、彼は箔、の席で少しばかりおしゃぺりをしなければならなかった。その半年《はんとし》のあいだの営業状態は、これまでにない好成績を示していたし、ほかに別段心配するような問題もなかったので、ただ通りいっぺんの報告演説をすれば事はすむのであった。彼は百人近くも集まった株主たちの前に立って、もうそういうことには慣れきっているので、しごく板についた態度口調《たいどくちよう》で話を進めるのであった。

 ところが、しばらくおしゃべりを続けているうちに、むろんその間には、聴衆である株主たちの顔を、それからそれへとながめ回していたのだが、ふと変なものが目にはいった。彼はそれに気づくと、思わず演説をやめて、人々があやしむほども長い間、黙ったまま棒立ちになっていた。

 そこには、たくさんの株主たちのうしろから、あの死んだ辻堂と寸分《すんぷん》ちがわない顔が、じつとこちらを見つめているのだ。

「上述の事情でござりまして」

 平田氏は気を取りなおしたように、一段と声をはり上げて、演説を続けようとした。だが、どうしたものか、いくら元気を出しても、その気味のわるい顔から目をそらすことができないのである。彼はだんだんうろたえだした。話の筋《すじ》も、しどろもどろになって来た。すると、その辻堂と寸分ちがわない顔が、平田氏のろうばいをあざけりでもするように、いきなりニヤリと笑ったではないか。

 平田氏はどうして演説を終わったか、ほとんど無我夢中であった。彼はヒョイとおじぎをしてテーブルのそばを離れると、人々があやしむのもかまわず、部屋の出口のほうへ走って行って、彼をおびやかしたあの顔の持ち主を物色《ぷつしよく》した。しかし、いくら捜しても、そんな顔は見あたらないのだ。念のために一度|上座《じようざ》のほうへもどって、元の位置に近いところから、株主たちの顔を一人一人見直しても、もう辻堂に似た顔さえ見いだすことができなかった。

 その会場の大広間は、人の出入り自由なあるビルディングの中にあったのだが、考えようによつては、偶然聴衆の中に辻堂と似た人物がいて、それが平田氏の捜した時には、もう立ち去ったあとだったかもしれない。でも、世の中にあんなによく似た顔があるものだろうか。平田氏はどう考え直してみても、それが瀕死《ひんし》の辻堂のあの恐ろしい宣言に関係があるような気がしてしょうがなかった。

 それ以来、平田氏はしばしば辻堂の顔を見た。ある時は劇場の廊下で、ある時は公園の夕《ゆう》やみの中で、ある時は旅行先の都会のにぎやかな往来で、ある時は彼の屋敷の門前でさえ。この最後の場合などは、平田氏はあやうく卒倒《そつとう》するところであった。ある夜ふけに、よそから帰った彼の自動車が、今門をはいろうとした時だった。門の中から一つの人影がすうっと出て来て自動車とすれちがったが、すれちがう時に、実に瞬間のできごとだった。その顔が自動車の窓からヒョイとのぞいたのである。

 それがやっぱり辻堂の顔だった。しかし、玄関について、そこに出迎えていた書生や女中などの声で、やっと元気を回復した平田氏が、運転手に命じて捜させた時分には、人影はもうその辺には見えなかった。

「ひょっとしたら、辻堂のやつ、生きているのではないかな。そして、こんなお芝居《しばい》をやって、おれを苦しめようというのではないかな」


 平田氏はふとそんなふうに疑ってみた。しかし、絶えず辻堂のむすこを見張らせてある腹心《あくしん》の者からの報告では、少しもあやしむべきところはなかった。もし辻堂が生きているのだったら、長い間には一度ぐらいは、むすこのところへやって来そうなものだが、そんなけぶりも見えないのだ。それに第一おかしいのは、生きた人間に、あんなにこちらの行く先がわかるものだろうか。平田氏はふだんから秘密主義の男で、外出する場合にも召使《めしつか》いは、もちろん、家族の者にさえ、行く先を知らさないことが多かった。だから、例の顔が彼の行く先々へ現われるためには、たえず彼の屋敷の門前に張り込んでいて、自動車のあとをつけるほかはないのだが、その辺は寂しい場所で、 ほかの自動車が来れば、それに気のつかぬはずはなく、また自動車を雇《やと》うにも、近くにガレージはないのだ。といって、まさか徒歩であとをつけるわけにもゆくまい。どう考えてみても、やっぱりこれは怨霊《おんりよう》のたたりと思うほかはなかった。

「それともおれの気の迷いかしら」

 だが、たとい気の迷いであっても、恐ろしさに変りはなかった。彼ははてしもなく思いまどつた。

 ところが、そうしていろいろと頭を悩ましているうちに、ふと一つの妙案が浮かんで来た。

「これならもう確かなもんだ。なぜ早くそこへ気がつかなかったのだろう」

 平田氏はいそいそと書斎へはいって行って筆をとると、辻堂の郷里の役場へあてて、彼のむすこの名まえで、戸籍謄本下付願いを書いた。もし戸籍謄本の表に辻堂が生きて残っているようだったら、もうしめたものだ。どうかそうあってくれるようにと、平田氏は祈った。

 数日たつと、役場から戸籍謄本が届いた。しかし、平田氏のがっかりしたことには、そこには、辻堂の名まえの上に十文字に朱線が引かれて、上欄には死亡の年月日時間と届け書きを受けつけた日付けとが明瞭に記入されていた。もはや疑う余地はないのだ。

「近ごろどうかなすったのではありませんか。おからだのぐあいでも悪いんじゃないんですか」

 平田氏に会うと、だれもが心配そうな顔をして、こんなことを言った。平田氏自身でも、なんだかめっきり年をとったような気がした。頭のしらがも、一、二カ月以前にくらべると、ずっとふえたように思われた。

「いかがでしょう。どこかへ保養にでもいらしってみては」

 医者にみてもらうことは、いくら言ってもだめなので、家族の者は今度は彼に転地をすすめるのであった。平田氏とても、門前であの顔に出あってからというものは、もう屋敷にいても安心できないような気がして、旅行でもして気分をかえてみたらと思わないではなかったので、そこで、そのすすめをいれて、しばらくある暖かい海岸へ転地することにした。

 あらかじめ行きつけの旅館へ、部屋を取っておくようにはがきを出させたり、当座の入用の品を整えさせたり、お供《とも》の人選をしたり、そんなことが平田氏を久しぶりで明かるい気持ちにした。彼は、いくらかわざとではあったけれど、若い者が遊山《ゆさん》にでも行くようにはしゃいでいた。

 さて、海岸へ行ってみると、予期したとおりすっかり気分が軽くなった。海岸のはればれした景色も気に入った。醇朴《じゆんぼく》なあけっぱなしな町の人たちの気風も気に入った。旅館の部屋も居心地《いごこち》がよかつた。そこは海岸ではあったけれど、海水浴場というよりは、むしろ温泉町として名高いところだった。彼はその温泉へはいったり、暖かい海岸を散歩したりして日を暮らした。

 心配していた例の顔も、この陽気な場所へは現われそうにもなかった。平田氏は今では人のいない海岸を散歩する時にも、もうあまりぴくぴくしないようになった。

 ある日、彼はこれまでになく、少し遠くまで散歩したことがあった。うかうかと歩いているうちに、ふと気がつくと、いつのまにか夕やみが迫っていた。あたりには広い砂浜に人影もなく、ドドン……ザー、ドドン……ザーッと寄せては返す波の音ばかりが、思いなしか何か不吉なことを告げ知らせでもするように、気味わるく響いていた。

 彼は大急ぎで宿のほうへ引っ返した。かなりの道のりであった。悪くすると半分も行かぬうちに日が暮れきってしまうかもしれなかった。彼はテクテク、テクテク汗を流して急いだ。

 あとからだれかついて来るように聞こえる自分の足音《あしおと》に、彼は思わずハッとふり返ったりした。何かがひそんでいそうな松並木《まつなみき》のうすい暗い影も気になった。

 しばらく行くと、行く手の小高い砂丘《さきゆう》の向こう側に、チラと人影が見えた。それが平田氏をいくらか心じょうぶにした。早くあのそばまで行って話しかけでもしたら、この妙な気持ちが直るだろうと、彼はさらに足をはやめてその人影に近づいた。

 近づいてみると、それはひとりの男が、もうだいぶ年寄りらしかったが、向こうをむいてじつとうずくまっているのだった。そのようすは、何か一心不乱に考え込んでいるらしく見えた。

 それが、平田氏の足音に気づいたのか、びっくりしたように、いきなりヒョイとこちらをふり向いた。灰色の背景の中に、青白い顔がくっきりと浮き出して見えた。

「アッ」

 平田氏はそれを見ると、押しつぶされたような叫び声を発した。そして、やにわに走りだした。五十男の彼が、まるでかけっこをする小学生のように、めったむしょうに走った。

 ふりむいたのは、もうここではだいじょうぶだと安心しきっていた、あの辻堂の顔だったのである。

「あぶない」

 夢中になって走っていた平田氏が、何かにつまずいてばったり倒れたのを見ると、ひとりの青年がかけ寄って来た。

「どうなすったのです。ア、けがをしましたね」

 平田氏はなまづめをはがして、ウンウンうなっているのだ。青年はたもとから取り出した新しいハンケチで手ぎわよく傷所《きずしよ》に繃帯《ほうたい》をすると、極度の恐怖と傷の痛みとで、もう一歩も歩けぬほど弱っている平田氏を、ほとんど抱くようにしてその宿へつれ帰った。

 自分でも寝込んでしまうかと心配したのが、そんなこともなく、平田氏は翌日になると、わりあり元気に起き上がることができた。足の痛みで歩きまわるわけにはいかなかったけれど、食事など普通にとった。

 ちょうど朝飯をすませたところへ、きのう世話をしてくれた青年が、見舞いに来た。彼もやっばり同じ宿に泊まっていたのだ。見舞いのことばやお礼のあいさつが、だんだん世間話に移って行った。平田氏はそういう際で、話し相手がほしかったのと礼心《れいごころ》とで、いつになく快活に口をきいた。

 同席していた平田氏の召使いがいなくなると、それを待っていたように、青年は少し形を改めて、こんなことを言った。

「実は、ぼくはあなたがここへいらした最初から、ある興味をもって、あなたのご様子に注意していたのですよ……何かあるのでしょう。お話しくださるわけにはいきませんかしら」

 平田氏は少なからず驚いた。この初対面《しよたいめん》の青年が、いったい何を知っているというのだろケ。それにしても、あまりぶしつけな質問ではないか。彼はこれまで一度も辻堂の怨霊《おんりよう》について人に話したことがなかった。恥ずかしくって、そんなばかばかしいことは言えなかったのだ。だから、」今この青年の質問に対しても、彼はむろん、ほんとうのことを打ち明けようとはしなかった。

 だが、しばらく問答をくり返している間に、それはまあなんという不思議な話術《わじゆつ》であったか。青年はまるで魔法使いのように、さしもに堅い平田氏の口を、なんなく開かせてしまったのである。平田氏がちょっと口をすべらしたのがいとぐちだった。もし相手が普通の人間だったら、なんなくとりつくろうことができたであろうけれど、青年にはだめだった。彼は世にもすばらしい巧みさをもって、次ぎから次ぎへと話を引き出していった。一つは、ゆうべあの恐ろしいできごとのあったけさであったためもあろうが、平田氏はまるで自由を失った人のように、話をそらそうとすればするほど、だんだん深みへはまって行くのだった。そしてついには、辻堂の怨霊《おんりよう》に関するすべてのことが、余すところなく語りつくされてしまったのである。

 聞きたいだけ聞いてしまうと、今度は、青年は話を引き出した時にも劣《おと》らぬ巧みな話術をもつて、ほかの世間話に移っていった。そして、彼が長座《ちようざ》をわびて部屋を出て行った時には、平田氏は無理に打ち明け話をさせられたことを不快に感じていなかったばかりか、その青年がどうやらたのもしくさえ思われたのである。

 それから十日ほどは別段のこともなく過ぎ去った。平田氏はもうこの土地にもこりていたけれど、足の傷がまだ痛むのと、それを無理に帰京して寂しい屋敷へ帰るよりは、このにぎやかな宿屋住まいのほうがいくらか居心地がよかろうと思ったのとで、ずっと滞在を続けていた。一つは新しく知り合いになった青年がなかなかおもしろい話し相手だったことも、彼を引き止めるのにあずかって力があった。

 その青年が、きょうもまた彼の部屋をおとずれた。そして突然、変に笑いながら、こんなことを言うのだった。

「もうどこへいらっしゃってもだいじょうぶですよ。幽霊は出ませんよ」

 一瞬間、平田氏はそのことばの意味がわからなくて、まごついた。彼のあっけにとられたような表情のうちには、痛いところへさわられた人の不快がまじっていた。

「突然申し上げては、びっくりなさるのもごもっともですが、決して冗談《じようだん》ではありません。幽霊はもう、いけどってしまったのです。これをごらんなさい」

 青年は片手に握った一通の電報をひろげて、平田氏に示した。そこにはこんな文句がしるされていた。

『ゴメイサツノトオリ、イツサイジバクシタ、ホンニンノシヨチサシズコウ』

「これは東京のぼくの友人から来たのですが、このイツサイジバクシタというのは、辻堂の幽霊ではない、生きた辻堂が自白したことですよ」

 とっさの場合、判断を下《くだ》すいとまもなく、平田氏はただあっけにとられて、青年の顔とその電報とを見くらべるばかりであった。

「実は、ぼくはこんなことを捜して歩いている男なんですよ。この世の中のすみずみから、何か秘密なできごと、奇怪な事件を見つけ出しては、それを解いて行くのがぼくの道楽《どうらく》なんです」青年はニコニコしながら、さも無造作に説明するのだった。

「先日あなたからあの怪談ぱなしを承った時も、そのぼくの癖《くせ》で、これには何かからくりがありゃしないかと、考えてみたんです。お見受けするところ、あなたはご自分で幽霊を作り出すまうな、そんな弱い神経の持ち主でないように思われます。それに、ご当人にはお気づきがないかもしれませんが、幽霊の現われる場所が、どうやら制限されているではありませんか。なるほど、ご旅行先などへついて来るところを見ると、いかにもどこへでも自由自在に現われるように思われますが、よく考えてみますと、それがほとんど屋外に限られていることに気づきます。たとえ屋内の場合があっても、劇場の廊下だとか、ビルディングの中だとか、だれでも出入りできる場所にかぎられています。ほんとうの幽霊なら、何も不自由らしく外ばかりに姿を現わさないだって、あなたのお屋敷へ出たってよさそうなものではありませんか。ところが、お屋敷へはというと、例の写真と電話のほかは、これもだれでも出入りできる門のところで、ちょっと顔を見せたばかりです。そういうことは、少し幽霊の自然に反していやしないでしょうか。そこで、ぼくはいういろ考えてみたのですよ。ちょっとめんどうな点があって、時間をとりましたが、でも、とうとう幽霊をいけどってしまいました」

 平田氏はそう聞いても、どうも信じられなかった。彼も一度は、もしや辻堂が生きているのではないかと疑って、戸籍謄本までとり寄せたのだ。そして失望したのだ。いったいこの青年は、どういう方法で、こんなやすやすと幽霊の正体をつきとめることができたのであろう。

「なあに、実に簡単なからくりなんです。それがちょっとわからなかったのは、あまり手段が簡単すぎたためかもしれませんよ。でも内あのまことしやかな葬式には、あなたでなくともごまかされそうですね。翻訳物《ほんやくもの》の探偵小説ではあるまいし、まさか東京のまん中で、そんなお芝居が演じられようとは、ちょっと想像できませんからね。それから、辻堂がしんぼう強くむすことの往来を絶っていたこと、これが非常に重大な点です。ほかの犯罪の場合でもそうですが、相手をごまかす秘訣《ひけつ》は、自分の感情を押し殺して、世間普通の人情とはまるで反対のやり方をすることです。人間というやつは、とかくわが身に引き比べて人の心を押しはかるもので、その結果、一度誤まった判断を下すと、なかなかまちがいに気がつかぬものですよ。また、幽霊を現わす手順も、うまく行っていました。先日あなたもおっしゃったとおり、ああしてこちらの行く先、行く先へついて来られては、だれだって気味がわるぐなりますよ。そこへ持って来て戸籍謄本です。ちょっと道具立てがそろっていたじゃありませんか」

「それです。もし辻堂が生きているとすれば、どうしても腑に落ちないのは、第一はあの変な写真ですが、しかし、これはまあ、わたしの見誤りだったとしても、今おっしゃつた行く先を知っていること、それから、戸籍謄本です。まさか、戸籍謄本にまちがいがあろうとも考えられないではありませんか」

 いつのまにか青年の話につりこまれた平田氏は、思わずこうたずねるのであった。

「ぼくもおもに、その三つの点を考えたのですよ。これらの不合理らしく見える事実を、合理化する方法がないものかということをね。そして、結局、このまるでちがった三つの事柄《ことがら》に、ある共通点のあることを発見しました。なあに、くだらないことですがね。でも、事件を解決する上には、非常にたいせつなんです。それは、どれも皆郵便物に関係があるということでした。写真は郵送して来たのでしょう。戸籍謄本も同じことです。そして、あなたの外出なさる先は、これもやっぱり日々のご文通に関係があるではありませんか。ハハハハ、おわかりになったようですね。辻堂は、あなたのご近所の郵便局の、配達夫を勤めていたのですよ。むろん、変装はしていたでしょうが、よく今までわからないでいたものです。お屋敷へ来る郵便物も、お屋敷から出る郵便物も、すっかり彼は見ていたに相違ありません。わけはないのです。封じ目を蒸気に当てれば、少しもあとの残らないように開封できるのですから。写真や謄本は、こういうふうにして彼が細工《さいく》したものですよ。あなたの行く先とても、いろいろな手紙を見ていれば自然わかるわけですから、郵便局の非番の日なり、口実をかまえて欠勤してなり、あなたの行く先へ先回りして幽霊を勤めていたのでしょう」

「しかし、写真のほうは少し苦心をすれば、まあ、できぬこともありますまいが、戸籍謄本なんかが、そんなに急に偽造できるでしょうか」

「偽造ではないのです。ただちょっと、戸籍吏の筆蹟をまねて書き加えさえすればいいのですよ。謄本の紙では、書いてあるやつを消しとることはむずかしいでしょうけれど、書き加えるのは、わけはありません。万遺漏《ばんいろう》のないお役所の書類にも、ちょいちょい抜け目があるものですね。変な言い方ですが、戸籍謄本には人が生きていることを証明する力はないのです。戸主ではだめですが、そのほかの者だったら、ただ名まえの上に朱を引き、上欄に死亡届を受けつけたことを記入さえすれば、生きているものでも死んだことになるのですからね。だれにだって、お役所の書類といえぱ、もうめくらめっぽうに信用してしまう癖がついていますから、ちょっと気がつきませんよ。ぼくはあの日に、あなたから伺った辻堂の本籍地へ、もう一通戸籍謄本を送ってかすくれるように手紙を出しました。そして送って来たのを見ますと、ぼくの思ったとおりでした。これですよ」

 青年はけてういってふところから一通の戸籍謄本を取り出すと、平田氏の前にさし置いた。そこには。戸主の欄には、辻堂のむすこが、そして次ぎの欄には、当の辻堂の名まえがしるされていた。彼は死亡を装う前に、すでに隠居していたのだ。見ると、名まえの上に朱線も引かれていなければ、上欄には隠居届を受けつけたむね記載してあるばかりで、死亡の死の字も見えないのであった。

 実業家平田氏の交友録《こうゆうろく》に、しろうと探偵明智小五郎の名まえが書き加えられたのは、こうしたいきさつからであった。
                             (『新青年』大正十四年五月号)
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