|新しいページ|検索|ページ一覧|RSS|@ウィキご利用ガイド | 管理者にお問合せ
|ログイン|

江戸川乱歩「鬼」


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

     生腕
 探偵小説家の殿村昌一《とのむらしよう》は、その夏、郷里長野県のS村へ帰省していた。

 S村は西方を山にとざされ、ほとんど段畑ばかりで暮らしを立てているような、寂しい寒村であったが、そのいんうつな空気が、探偵小説家を喜ばせた。

 平地に比べて、日中が半分ほどしかなかった。朝のあいだは、朝霧が立ちこめていて、お昼ごろちょっと日光がさしたかと思うと、もう夕方であった。

 段畑がのこぎり型に食い込んだあいだあいだには、いかに勤勉なお百姓でも、どうにも切り開きようのない深い森が、千年の巨木が、ドス黒い触手みたいに、はい出していた。

 段畑と段畑が作っているみぞの中に、この太古の山村には似てもつかぬ、二本の鋼鉄の道が、奇怪なダイジャのように、ウネウネと横たわっていた。日に八度、その鉄路を、地震を起こして汽車が通り過ぎた。黒い機関車が勾配《こうばい》をあえいで、ボ、ボ、ボと恐ろしい煙を吐き出した。

 山家《やまが》の夏は早く過ぎて、その朝などはもう冷冷とした秋の気が感じられた。都へ帰らなくてはならない。このいんうつな山や森や段畑や鉄道線路とも、またしばらくお別れだ。青年探偵小説家は、ふた月あまり通りなれた村の細道を、一本の木、一茎《けい》の草にもなごりを惜しみながら歩いていた。

「また寂しくなるんだね。きみはいつ帰るの?」

 散歩の道連れの大宅《おおや》幸吉がうしろから話しかけた。幸吉はこの山村では第一の物持ちといわれる大宅村長の息子《むすこ》さんであった。

「あすか、あさってか、いずれにしてももう長くはいられない。待っててくれる人はないけれど、仕事のつごうもあるからね」

 殿村は女竹《めだけ》のステッキで朝露にしめった雑草を、無意味になぎはらいながら答えた。

 細道は鉄道線路の土手にそって、段畑のへりや薄暗い森をぬって、はるか村はずれのトンネルの番小屋まで続いていた。

 五マイルほど向こうの繁華な高原都市を出た汽車が、山地にさしかかって、第一番にぶっつかるトンネルだ。そこから山はだんだん深くなり、いくつもいくつもトンネルの口が待っているのだ。

 殿村と大宅は、いつものトンネルの入り口まで行って、番小屋の仁兵衛じいさんと話をしたり、暗いトンネルのほらあなの中へ五、六間踏み込んで、ウォーとどなってみたりして、またブラブラと村へ引き返すのが常であった。

 番小屋の仁兵衛じいさんは、二十何年同じ勤めを続けていて、いろいろ恐ろしい鉄道事故を見たり聞いたりしていた。機関車の大車輪に轢死人《れきしにん》の血みどろの肉片がねばりついて、洗っても洗ってもはなれなかった話、ひき殺されてバラバラになった五体が、手は手、足は足で、苦しさにヒョイヒョイおどり狂っていた話、長いトンネルの中で、轢死人の怨霊《おんりよう》に出会った話、そのほか数えきれないほどの、ものすごい鉄道|綺譚《きだん》をたくわえていた。

「きみ、ゆうべはNの町へ行ったんだってね。帰りはおそくなったの?」

 殿村がなぜか遠慮がちに尋ねた。道は薄暗い森の下にはいっていた。

「ウン、少し……」

 大宅は痛いところへさわられたように、ビクッとして、しかし、しいてなにげない体をよそおった。

「ぼくは十二時ごろまで、きみのおかあさんの話を聞いていた。おかあさんは心配していたぜ」「ウン、自動車がなくってね。テクテク歩いて来たものだから」

 大宅が弁解がましく答えた。

 N市とS村を連絡するたった一台のポロ乗合自動車は、夜十時を過ぎると、運転手が帰ってしまうし、N市といっても山国の小都会のことだから、営業自動車は四、五台しかなく、それが出払ってしまうと、ほかに交通機関とてもないのだ。

「道理で顔色がよくないよ。寝不足なんだろう」

「ウン、いや、それほどでもないよ」

 大宅は事実異様に青ざめたほおを手のひらでさすりながら、てれ隠しのように笑って見せた。

 殿村はおおかたの事情を知っていた。大宅はれっきとした同村の素封家《そほうか》のいいなずけの娘をきらって、N市に住む秘密の恋人とあいびきを続けているのだ。その恋人は大宅の母親のことばによると、「どこの馬の骨だかわからない、渡り者のあばずれ娘」であった。

「おかあさんを、安心させてあげたほうがいいよ」

 殿村は相手を恥ずかしがらせはしないかとビクビクしながら、置きみやげのつもりで忠告めいたことを口にした。

「ウン、わかっている。しかし、まあ、うっちゃっておいてくれたまえ。自分のことは自分で始末をつけるよ」

 大宅がピンとはねつけるように、不快らしい調子で答えたので、殿村は黙ってしまった。

 二人は黙々として、薄暗くしめっぽい森の中を歩いて行った。

 鉄道線路が、チラチラ見えているくらいだから、むろん深い森ではないけれど、線路の反対側は奥知れぬ山に続いていて、立ち並ぶ木立ちが、どれも一抱え二抱えの老樹なので、さながら大森林に踏み入った感じであった。

「オイ、待ちたまえ!」

 突然先に立っていた殿村が、ギョッとするような声で、大宅を押し止めた。

「いやなものがいる。もどろう。急いでもどろう」

 殿村はおびえきっていた。薄暗い森の中でも、彼の顔色が、まっさおに変わっているのがわかった。

「どうしたんだ。何がいるんだ」

 大宅も相手のただならぬ様子に引き入れられて、あわただしく聞き返した。

「あれ、あれを見たまえ」

 殿村は逃げ足になりながら、五、六間向こうの大樹の根本を指さした。

 ヒョイと見ると、その巨木の幹の陰から、なんともえたいの知れぬ怪物がのぞいていた。

 オオカミ! いや、なんぼ山家でも、こんなところヘオオカミが出るはずはない。山犬に違いない。だが、あの口はどうしたのだ。くちびるも、舌も、白い牙さえも、なまなましい血にぬれて、ピカピカ光っているではないか。茶色の毛の全身が、ドス黒い血の斑点だ。顔も血みどろのブチになって、その中から燐光《りんこう》を放っ丸い目が、ジッとこちらをにらんでいる。あごからは、まだポタポタと血のしずくがたれている。

「山犬だよ。モグラかなんかやっつけたんだよ。逃げないほうがいい、逃げるとかえってあぶないから」

 さすがに大宅は山犬に慣れていた。

「チョッ、チョッ、チョッ」

 彼は舌を鳴らしながら、怪物のほうへ近づいて行った。

「なあんだ。知ってるやつだよ。いつもこの辺をウロウロしている、おとなしいやつだよ」

 むこうでは大宅を知っていたのか、やがて血みどろの山犬は、ノソノソと木の陰を出て、二三度彼の足元をかいだかと思うと、森の奥へと駆け込んで行った。

「だがきみ、モグラやなんか食ったんで、あんな血みどろになるだろうか。変だぜ」

 殿村はまだ青ざめていた。

「ハハハハハ、きみも臆病《おくびよう》だね。まさかこんなところに人食いの猛獣はいやしないよ」

 大宅は何をばかばかしいと言わぬばかりに笑って見せたが、実は案外そうでなかったことが、.まもなくわかった。

 森を出はなれて、ぼうぼうと雑草の茂った細道を歩いて行くと、草むらの中から、ムクムクと、またしても血みどろの大犬が姿を現わし、人に驚いたのか、いちもくさんに逃げ去った。

「オイ、あいつはさっきのやつと毛色が違うぜ。そろいもそろって、この村の犬がモグラを食うなんて変だぜ」

 殿村は犬の出てきた草むらを分けて、その陰に何か大きな動物の死骸でも横たわっているのではないかとビクビクもので捜し回ったが、別段猛犬の餌食《えじき》らしいものは見当たらなかった。

「どうも気味がわるいね。引き返そうか」

「ウン。だが、ちょっとあれを見たまえ。またもう一匹やって来るぜ」

 一丁ばかり向こうから、線路の土手にそって、雑草の中を見え隠れに、なるほど、また毛色の違うやつが歩いて来る。チラチラと草に隠れて、全身を見ることができぬため、非常に大きな動物のようにも、また犬ではないもっと別な生き物のようにも感じられて、ひどく無気味である。

 道はとっくに部落を出はなれているので、あたりは人けもない山の中、狭い草原を鋏んで、両側から迫る黒い森、刃物のように光る二本の鉄路、はるかに見えるトンネルの口。薄暗くシーンと静まり返った、夢の中の景色だ。その草むらを、ゴソゴソと近づいて来る妖犬《ようけん》の姿。

「オイ、あいつなんだか、くわえているぜ。血まみれの白いものだ」

「ウン、くわえている。なんだろう」

 立ち止まって、ジッと見ていると、犬が近づくにしたがって、くわえているものの形が、少しずつハッキリして来た。

 大根のようなものだ。しかし、大根にしては色が変だ。鉛のように青白い、なんともいえぬ色合いだ。おやっ、先がいくつかに分かれている。五本指の大根なんてあるものか。手だ。人間の生腕《なまうで》だ。断末魔に空《くう》をつかんだ、鉛色の人間の片腕だ。ひじの関節から食いちぎられて、その端には、赤い綿のようなかたまりがくっついている。

「アッ、畜生め」

 大宅がわめきながら、石ころを拾って、いきなり投げつけた。

「ギャン、ギャン」という悲鳴を上げて、人食い犬は、矢のように逃げ去った。小石が命中したのだ。

顔のない死体

「やっぱりそうだ。人間の腕だ。指の様子ではまだ若い女のようだね」

 妖犬《ようけん》の捨てて行った一物に近より、こわごわのぞき込みながら、大宅が判断した。

「どっかの娘さんが食い殺されたのじゃあるまいか。それとも、飢えた山犬が墓をあばいたのか」

「いや、この村には若い女の新仏《にいぼとけ》はないはずだ。といって、山犬どもが生きている人間を食い殺すなんて、そんなばかなことは考えられないし、オイ、昌ちゃん、やっぱりきみの言ったとおり、こいつは少し変なぐあいだね」

 さすがの大宅も、目の色を変えていた。

「それ見たまえ、モグラやなんかで、あんな全身血まみれになるはずはないよ」

「ともかく調べてみよう。片腕があるからには、その腕についていたからだが、どっかになければならない。きみ、行ってみよう」

 二人は、ひどく緊張して、なにか探偵小説中の人物にでもなった気持ちで、さいぜんから狂犬のやって来た方角へと急いだ。

 ポッカリと黒い、怪物の口のようなトンネルの入り口が、だんだん形を大きくして近づいて来た。番小屋の中で手内職の編み物をしている仁兵衛じいさんの姿も見える。

 と見ると、その番小屋の小半丁手前、鉄道線路の土手のすぐそばのひときわ深い草むらの中から、三本の、あるいは黒く、あるいは白いゴボウのようなものがはえていて、それがピンピン動いていた。なんともえたいの知れぬ異様な光景であったが、やがて、草に隠れてからだは見えぬけれど、その三本のゴボウは、ごちそうに夢中になっている三匹の犬のしっぽであることがわかった。

「あすこだ。あすこに何かあるんだ」

 大宅は、先の例にならって、まず小石を二つ三つ投げつけると、三匹の犬は、草むらの中から、一斉にニョッと首をもたげて、血に狂った六つの目で、こちらをにらみつけた。キバをむき出したまっかな口から、ボトボトとしずくをたらしながら。

「畜生、畜生」

 その形相にこちらはギョッとして、またも小石を拾って投げつける。それには犬どもも敵しかねて、さも残り惜しそうに逃げ去って行った。

 そのあとへ、二人は大急ぎで駆けつけ、草を分けてのぞいてみると、草の根のジメジメした地面に、人間の形をしたまっかなものが、黒髪を振り乱し、はでな銘仙《めいせん》の着物の前をはだけてころがっていた。

 二人が見ただけでも、六匹の大犬に食い荒らされているのだ。まだなまなましい死骸のあばら骨が現われ、臓腑《ぞうふ》が飛び出し、顔面は跡かたもない赤はげになって、茶飲み茶わんほどもあるまんまるな目の玉が、虚空《こくう》をにらんでいたとて不思議はない。

 殿村も大宅も、生まれてから、こんなこっけいな、えたいの知れぬ、恐ろしいものを見たことがなかった。

 犬の歯に荒らされない部分の皮膚を見ると、よく太っていて病人らしくはない。さきほど犬のくわえて来た片腕をのぞいては、五体がチャンとそろっているところを見ると、轢死人《れきしにん》でもないらしい。すると、六匹の野犬が健康なひとりの女を食い殺してしまったのであろうか。いやいや、それは考えられないことだ。人間ひとり食い殺される騒ぎを、いくらなんでも、すぐ近くの番小屋の仁兵衛じいさんが気づかぬはずはない。悲鳴を聞きつけて助けに駆けつけぬはずはない。

「きみはどう思う。犬どもは、生きている女を食い殺したのでなくて、とっくに殺されている死骸を餌食《えじき》にしたのじゃないだろうか」

 大宅幸吉が、やっとしてから物をいった。

「むろんそうだね。ぼくも今それを言おうとしていたんだ」

 青年探偵作家が答えた。

「すると……」

「すると、これは恐るべき殺人事件だよ。だれかがこの女を殺害して、たとえば毒殺するなり、しめ殺すなりしてだね。それからこの寂しい場所へ運んで来て、ソッと草むらの中へ隠しておいたという考えかただ」

「ウン、どうもそうとしか考えられないね」

「服装がいなかめいているから、たぶんこの付近の女だろう。停車場もないこの村へ写旅人がさまよって来るわけはないからね。きみ、この女のどっかに見覚えはないか。たぶん、S村の住人だろうと思うが」

 殿村が尋ねる。

「見覚えがないかといって、見るものがないじゃないか。顔もなんにもない、赤いかたまりなんだもの」

 いかにも、頭部はあるけれど、顔と名づけるものは跡方もない赤坊主であった。

「いや、着物とか帯とか」

「ウン、それはどうも見覚えがないよ。ぼくはいったい女の服装なんか注意しないたちだからね」

「じゃ、ともかく、仁兵衛しいさんに尋ねてみよう。あいつ近くにいて、ちっとも気づかないらしいね」

 そこで二人は、トンネルの入り口の番小屋へ走って行って、旗振りの仁兵衛を呼び出し、現場へひっぱって来た。

「ワア、こりゃどうじゃ。なんてまあ、むごたらしい。……ナンマイダブ、ナンマイダブ」

 じいさんは赤いかたまりを一目見ると、たまげて、とんきょうな声を立てた。

「この女は、犬に食われる前に殺されていたんだよ。下手人がここへかついで来て捨てて行ったんだよ。きみ、何か思い当たるようなことはないかね」

 大宅が尋ねると、じいさんは小首をかしげて、

「わしゃなんにも知らなかったよ。知ってれば山犬なんぞに食わせるこっちゃないのだが。ハテネ、若旦那、こりゃてっきり、ゆうべのうちに起こったことだぞ。なぜといって、わしゃゆうべは何度もこの辺を歩いたし、夕方落とし物をして、そうだ、ちょうどここいらを捜しまわったくらいだから、こんな大きな死駭がありゃ、気のつかねえはずはねえ。てっきりこりゃ、ゆうべ真夜中に起こったことだぞ」

 と断定した。

「そりゃそうかもしれないね。いくら人通りがないといって、あんなに犬がたかっているのを、一日じゅう気づかないはずはないからね。ところで、じいさん、きみ、この着物に見覚えはないかね。村の娘だと思うのだが」

「こうっと、こんなやわらか物を着る娘といや、村でも四、五人しかないのだが、……ああ、そうだ、わしの家のお花に聞いてみましょう。あれは若いもんのこったから、同じ年ごろの娘の着物は、気をつけて見覚えてるに違えねえ。オーイ、お花やあ……」

 じいさんのどなり声に、やがて娘のお花が、

「なあに、おとっつあん」

 と番小屋を駆け出して来た。

 彼女は草むらの死骸を見ると、キャッと悲鳴を上げて、逃げ出しそうにしたが、父親に引き止められ、こわごわ着物のすそのほうを見て、たちまちその主を鑑定した。

「あらまあ、この柄は山北の鶴子さんのだわ。村じゅうでこの柄の着物持ってるのは、鶴子さんのほかにありゃしないわ」

 それを聞くと、大宅幸吉の顔色がサッと変わった。無理はない。山北鶴子といえば、大宅がきらい抜いている彼の幼時からのいいなずけの娘だ。その鶴子が時も時、結婚問題で悶着《もんちやく》の起こっている今、かくも無残な変死をとげたのだ。大宅が青くなったのは、別に不思議でない。

「まちがいはねえだろうな。よく考えて物を言うがええぞ」

 仁兵衛じいさんが注意すると、娘はだんだん大胆になって、死駭の全身を注意深くながめていたが、

「鶴子さんに違いないわ。帯だって見覚えがあるし、そこに落ちている石のはいったヘヤピンだって、鶴子さんのほかに持っているものありゃしないわ」

と断言した。

アリバイ

 お花の証言で、その惨死体が豪農山北家のお嬢さんとわかったので、すぐさま山北家へ急使が飛ぶ、駐在所へ自転車が走る、警察電話がけたたましく鳴り響く、家々からは、緊張した表情の人々が現場へ、現場へと駆けだす、しばらくして係り官を満載した警察自動車が本署から到着するという、ものものしい騒ぎとはなった。

 綿密な現場調査が終わり、解剖のために死体がN市の病院へ運び去られると、関係者の取り調べを行なうために、はなはだ変則ながら、臨機の処置として、村の小学校の応接室が借り入れられ、そこへ、鶴子の両親の山北夫婦、同家の雇い人、発見者の大宅、殿村、仁兵衛じいさん、娘のお花などが次々に呼び入れられた。

 取り調べには、かなりの時間をついやしたけれど、被害者鶴子の母親が提出した一通の封書のほかには、別段これという手がかりもなかった。

「娘の机の引出しの手紙の中に、こんなものがございました。今そこへ入れたばかりというふうに、手紙類のいちばん上にのっておりましたから、きっとあれが、うちを出ますすぐ前に受け取ったものに違いございません。男の呼び出し状でございます」

 母親はそんなふうに言って、切手のはってない一通の封書をさしだした。

「使いが持って来たのだね。だれがこの手紙を娘さんに渡したのか、雇い人たちを調べてみましたか」

 検事の国枝氏が、ものやさしく尋ねた。

「ハイ、それはもうじゅうぶん調べたのでございますが、妙なことに、だれも知らないと申すのでございます。ひょっとしたら、娘が門のところに出ていた時、直接手渡して行ったのかもしれませんでございます」

「フム、そんなことだろうね。ところで、あなたは、この手紙の主に心当たりでもありますか」

「いいえ、親の口から申すのもなんでございますが、あれにかぎって、そんなみだらなことは、これっばかりもございません。この手紙の男も決して前々から知っていたのではなく、じょうずな呼び出し文句に、ついのせられたのではないかと存じます」

 で、その呼び出し状というのは、左のようなしごく簡単なものであった。

今夜七時、お宮の石どうろうのそばで

待っています。きっと来てください。

だれにも言ってはいけません。非常に

非常にたいせつな用件です。

           Kより

「この筆蹟に見覚えはありませんか」

「いっこう心当たりがございません」


「鶴子さんは、大宅村長のむすこの幸吉君といいなずけになっていたそうですね」

 国枝検事はそれとなく気をひいてみた。手紙の差し出し人のKというのが、幸吉のかしら字に一致するし、いいなずけからの手紙なら、娘がすぐさまその呼び出しに応じたのも無理ではないと思われたからだ。

「ハイ、わたくしどもも、そうではないかと思いまして、さいぜん本人の幸ちゃんに尋ねてみましたのですが、ぼくがそんな呼び出しなぞかけるわけがない。その時間にはN市へ行っていたのだから。……それにだいいち、おばさんもご存じのとおり、ぼくはこんなへたな字は書きません。また、鶴子さんに会いたければ、不自由らしく手紙で呼び出したりなんかしないでも、ぼくがじかに誘いに行くはずじゃないかって申すのでございます。あの、これはもしやだれか悪者が、幸ちゃんからの手紙のように見せかけて、鶴子をおびき出したのではございますまいか」

 検事と被害者の母親との問答は、それ以上進展しなかった。そこで国枝氏は、まっさきに取り調べた大宅幸吉を、もう一度その調べ室に呼び入れる必要を感じた。同席の警察署長をはじめ同意見であった。

 大宅幸吉は問題の呼び出し手紙を見せられると、さっき鶴子の母親が申し述べたのと、だいたい同じような答えをした。

「きみはゆうべN市へ行っていたのだね。ハッキリした現場不在証明《アリパイ》だ。で、N市ではだれかを訪問したのでしょうね。別にきみを疑うわけではないが、重大事件のことだから、一応は先方へ聞き合わせる程度の手数はかけなければなりません」

 検事はなにげなく尋ねた。

「別にだれもたずねなかったのです。会って話した人もありません」

 幸吉は苦しそうに答えた。
「では、買い物にでも出かけたのですか。それなら、その店の番頭なり主人なりが、覚えているかもしれない」

「いいえ、そうでもなかったのです。ただ町へ出たくなって、Nの本町通りをブラブラ歩いて帰ったのです。買い物といえば、通りがかりのタバコ屋でピースを買ったくらいのものです」

「フム、そいつはまずいな」

 国枝氏はうさんらしく、相手の顔をジロジロながめながら、しばらく思案していたが、やがてヒョイと気づいたように元気な声を出した。

「いや、そんなことはどうだっていいのだ。きみはN市の往復に、乗合自動車に乗ったでしょう。むろん、運転手はきみの顔を見知っているはずだ。その運転手を調べさえすればいいのです」

 検事がホッとしたようにいうと、意外にも幸吉の顔にハッとろうばいの色が浮かんだ。青ざめて、急には口もきけないほどだ。

 検事はくちびるのすみに奇妙な微笑を浮かべて、しかし、目は相手の心を突き通すするどさで、ジッと幸吉の表情を見つめていた。

「偶然だ。恐ろしい偶然だ」

 幸吉は妙なことをつぶやきながら、救いを求めるように、国枝検事のうしろに立っている人物をながめた。

 そこには、幸吉の親友の探偵小説家殿村昌一が、きのどくそうな顔をしてたたずんでいた。彼がどうして、この調べの席に、しかも調べる人々の側に列していたかというに、昌一は国枝検事と高等学校時代の同級生で、現在も文通を続けている友だちであったからだ。作者は物語りの速度をにぶらせまいために、この両人の偶然の邂逅《かいこう》の場面を、わざと省略したのである。

 両人がそんな間柄であったから、検事は取り調べに際して、何かと好つこうであったし、また探偵作家の殿村にとっては、犯罪事件の実際を見学する好機会となった。彼は事件の証人として、友だちの検事から一応の取り調べを受けたが、それが済んでも退席せず、人々の暗黙の了解を得て、その場に居残っていたわけである。

 で、今大宅幸吉が、N市へ往復した自動車について質問を受け、顔色を変えて妙なことをつぶやいたのを聞くと、殿村はハヅとしないではいられなかった。彼は幸吉の苦しい立ち場を、おおかたは推察していた。昨夜はN市に住む恋人に会いに行ったのに違いない。幸吉はそれを隠すために、アリバイを犠牲にしようとさえしているのだ。

 「まさか、乗合自動車に乗らなかったわけはないでしょう」

 国枝氏は相手のちゅうちょをあやしんで、やや皮肉な口調で催促した。

 「ところが、乗らなかったのです」

 幸吉は苦しそうにいって、なぜかひどく赤面した。青ざめていた顔が突然パッと紅潮したのが、人々をギョッとさせた。

 「ぼくがうそをつ.いているように聞こえましょうね。しかし、ほんとうなんです。偶然にも、わたしはゆうべにかぎって、乗合自動車に乗らなかったのです。村の発着所へ行った時、ちょうどN市行きの最終の乗合が出たあとで、ほかに車もないものですから、わたしはテクテク歩いて行ったのです。汽車と違って、近道をすれば一里半のみちのりですから」

「きみはさっき、N市へはなんの目的もなく、ただにぎやかな町を散歩するために出かけたように言ってましたね。なんの目的もないのに、一里半にもせよ、わざわざ歩いてまで、N市へ行かなければならなかったのですか」

 検事の追及はますます急である。

「ええ。それは、いなか者には、一里や二里の道は、なんでもないのです。村の者はN市へ用事があっても、自動車賃を倹約して歩くくらいです」

 だが、幸吉は村長の若旦那だ。一里や二里が平気なほど、じょうぶそうにも見えぬ。

,「では、帰りはどうしました。まさか、往復とも歩いたわけではないでしょう」

「それが、歩いたのです。おそかったものですから、乗合はなく、ハイヤーを捜しましたが、おりあしく皆出払っていたので、思いきって歩きました」

 このことは、朝鶴子の死体を発見する前、幸吉と殿村との会話によって、すでに読者の知るところである。

「フム。すると、きみのアリバイは、まったく消えてしまったわけですね。犯罪の行なわれた当夜、きみがこのS村にいなかったという証拠は、一つもないわけですね」

 検事の態度は、だんだんひややかになって行くように見えた。

「ぼく自身でさえ、妙に思うほどです。せめて往復の道で、だれか知人に出会っているといいのですが、それもないのです」幸吉は不運をかこつように言った。「しかし、アリバイがないからといって、そのにせ手紙で、ぼくに嫌疑《けんぎ》がかかるわけではないでしょうね、まさか。ハハハハハ」

 彼は不安らしく、キョトキョトしながら、むりに笑って見せた。

「にせ手紙といっても、これがにせ物であるという証拠は何もないのです」

 検事は振り切るように、冷淡に言ってのけた。

「きみの筆蹟と似ていないからといって、故意に字体を変えて書くこともできるわけですからね」

「そんなばかな。なんの必要があって、字体を変えたでしょう、ぼくが」

「いや、変えたとはいいません。変えることもできるといったまでのことです。……よろしい、では引き取ってください。しかし、家へ帰ったら、なるべく外出しないようにしてください。また、お尋ねしたいことができるかもしれませんから」

 幸吉が引き下がると、国枝氏は警察署長と、何かヒソヒソささやいていたが、やがて一人の私服刑事が、署長の命令でどこかへ出かけて行った。

わら人形

「殿村君、これでひとまずおしまいだ。小説と違って、たいしておもしろいものではないだろう」

 手すきになった国枝検事が、昔の学友探偵小説家を廊下へ誘い出していった。

「おしまいだって? そんなこといって、ぼくを追っ払おうというのかい。おしまいどころか、これからじゃないか」

「ハハハハハ、いや、そういうわけじゃないが、きょうはもう調べることもあるまい。あす解剖の結果がわかるはずだから、何もかもそれからだよ。わたしはN市に宿を取っているから、二三日はそこから村へ通うつもりだよ」

「なかなか熱心だね。だれでもそんなふうにするのかい。署長に任せておいてもいいのだろう」

「ウン、だが、この事件はちょっとおもしろそうなのでね。少しおせっかいをしてみるつもりだ」

「きみは大宅君を疑っているようだが……」

 殿村は友だちのために、検事の気をひいてみた。

「いや、疑っているわけじゃない。そういうことをきめてかかるのは、きみがいつも小説に書いているとおり、非常に危険なんだ。疑うといえばすべての人を疑っている。きみだって疑っているかもしれない」

 検事は冗談のようにいって、殿村の肩をたたいた。

「きみ、今手がすいているのだったら、見せたいものがあるんだ。トンネルのそばの番小屋まで、いっしょに散歩しないか」
 殿村は相手の冗談を黙殺して、さいぜんから言おうとしていたことをいった。

「仁兵衛じいさんの番小屋かい。いったい、あすごに何があるの」

「わら人形があるんだ」

「エ、なんだって」

 国枝氏はびっくりして、殿村のきまじめな顔をながめた。

「現場をしらべている時、きみにそのことを言ったけれど、耳にも入れてくれなかった。わら人形なんぞあとでいい、といった」

「そうだったかい。ぼくはちっとも記憶しないが。で、そのわら人形がどうかしたのかい」

「まあ、なんでもいいから、一度見ておきたまえ。ひょっとしたら、今度の事件を解決するカギになるかもしれない」

 国枝氏はとっぴ千万なこの申しいでを、まじめに受け取る気にはならなかったけれど、殿村の熱心な勧めをしりぞける理由もなかった。彼は「小説家はこれだから困る」とつぶやきながら、殿村のあとについて小学校の門を出た。

 番小屋に着くと、今小学校へ呼ばれて帰ったばかりの仁兵衛親子は、また取り調べを受けるのかと、オドオドしながら二人を迎え入れた。

「おじさん、さっきの、ほら、わら人形を見せてほしいのだよ」

 殿村がいうと、仁兵衛じいさんは妙な顔をして「ああ、あれですかい」と、裏の物置き小屋へ案内してくれた。

 ガタピシと板戸をあけると、まきや炭を積んだ小暗い物置きのすみっこに、人間ほどの大きさのわら人形が、いかめしく突っ立っていた。

「なあんだ、カカシじゃないか」

 国枝氏があきれたようにいう。

「いや、カカシじゃない。こんなりっぱなカカシがあるもんか。なかなか重いのだよ。のろいの人型だよ」

 殿村はあくまできまじめだ。

「で、このわら人形が、今度の殺人事件にどんな関係があるというの?」

「どんな関係だか、ぼくにもわからない。しかし、無関係でないことは確かだよ。……おじさん、この人形を見つけた時のことを、もう一度この人に話してあげてくれないだろうか」

 すると仁兵衛じいさんは、国枝検事に小腰をかがめて、話し始めた。

「ちょうど五日前の朝でございました。村へ用たしがあって、あの大曲がり……ほら、鶴子さんの死骸が倒れていた線路のカーヴのところを、わしら『大曲がり』と申しますだが、そこを通レかかりますと、線路わきの原っぱに、このわら人形がころがっていましただ」

「ちょうど鶴子さんの倒れていた辺だね」

 殿村が口をはさむ。

「ヘエ、だが、鶴子さんの死骸は線路の土手のすぐ下でしたが、この人形は線路から十間も離れた、原っぱの中にころがっていました」

「胸を刺されてね」

「ヘエ、これでございますよ。わら人形の胸の辺に、こんな小刀が突きささっておりましただ」

 じいさんは、小屋へはいって、鹽わら人形をかかえ出して来た。見ると、なるほど、胸の辺のわらがズタズタに切りきざまれて、そこに小型の白鞘《しらさや》の短刀が、心臓をえぐった形で、突き立ててあった。

「のろいの人型だ。……しかもそれが、ちょうど殺人事件の四日前、殺人現場の付近に捨ててあったというのは、何か意味がありそうじゃないか」

「フーム、なるほど」

 国枝氏もこの二つの殺人事件の(人形と人間との)不思議な一致を無視するわけにはいかぬ。いや、それよりも、胸をえぐられたわら人形の死骸が、なんともいえぬ妙な、ゾーッと寒けのするような感じを与えたのだ。

「それで、きみはどうしたの」

「ヘエ、わしは、村の子どもたちがいたずらをしたのだろうと、別に気にもとめないで、たきつけにするつもりで、この小屋へほうり込んでおきましただ。短刀も抜くのを忘れて、ついそのままにしておきましただ」

「で、このわら人形のことは、だれにも話さなかったのだね」

「ヘエ、まさかこれが、今度の事件の前兆になろうとは思わなかったもんでね。ああ、そうそう、一人だけこれを見た人がありますよ。ほかでもねえ、山北の鶴子さんだ。あのかたが、ちょうどわら人形を拾ったあくる日、ひょっくり番小屋へ遊びにござらっしてね、わしの娘がそれを話したもんだから、じゃア見せてくれってね、この小屋をあけて中をのぞいて見なすったですよ。因縁ごとだね。お嬢さんも、まさかこの人形と同じ目にあおうとは、知らなかったでございますべえ」

「ホウ、鶴子さんがね、きみの家へ。…・:よく遊びに来たのかね」

「いいえ、めったにないことでございます。あの日は、娘のお花に何かくれるものがあるといって、それを持って、久しぶりでおいでなさったのですよ」

 さて、一応聞き取りをすませると、国枝氏は、わら人形はのちほど、警官に取りに来させるから、たいせつに保管してくれるように頼んでおいて、番小屋を引き上げることにした。

「偶然の一致だよ。おそらく、じいさんのいったように、村の子どもたちのいたずらに違いない。犯人が、実際の人殺しをやる前に、わら人形で試験をしたというのもおかしいし、また、その人形を同じ場所へ捨てておくなんて、実におろかなしわざだからね」

 実際家の国枝検事は、探偵小説家の神秘好みに同意できなかった。

「そんなふうに考えれば、犯罪事件とは無関係のように見えるかもしれない。しかし、もっと別な考え方がないとは言いきれまい。ぼくは何
---------------------[End of Page 34]---------------------

147
かしら、わかりかけて来たような気がする。ことに、鶴子さんがわら人形を見に来たという点が、非常におもしろい」

「見に来たわけじゃないだろう」

「いや、見に来たのかもしれない。じいさんの口ぶりから考えても、これという用事があったのではないらしいから、鶴子さんがお花をたずねたほんとうの目的は、案外わら人形を見るためだったかもしれない」

「何かとっぴな空想をやっているんだね。しかし、実際問題は、そんな手品みたいなもんじゃないよ」

 国枝検事は、殿村の妄想《もうそう》を一笑に付し去ったが、それがはたして妄想にすぎなかったかどうか、やがてわかる時が来るだろう。

     恐ろしき陥穽《かんせい》

その翌日も、国枝検事は、警察署長と連れ立って、小学校の臨時捜査本部へやって来たが、彼が例の調べ室へはいった時には、一夜のあいだに、刑事たちの奔走によって、実に重大な証拠物件が取りそろえられてあった。

 その証拠物件によって、事件は急転直下、あまりにもあっけなく終結したかに見えた。恐るべき殺人犯人は確定したのだ。のっぴきならぬ確証が上がったのだ。

 まもなく、調べ室のテーブルの前に 大宅幸吉が呼び出され、きのうと同じように国枝検事と対座していた。

「ほんとうのことを言ってください。あの日きみはN市へなぞ行かなかったのでしょう。たとい行ったとしても、七時までには村へ帰って、それからずっと、村内のどこかにいたのでしょう。きみがあの夜、帰宅したのは十二時ごろだというから、それまで、どこかお宮の境内とか、森の中とかで過ごしたのでしょう」

 国枝検事はきのうと違って、確信にみちた態度で、落ちつき払って取り調べを始めた。

 「何度お尋ねになっても同じことです。ぼくはN市からまっすぐに徒歩で帰宅したのです。お宮や森の中にいるはずがありません」

 幸吉は平然として答えたが、青ざめた顔色に、内心の苦悶《くもん》を隠すことはできなかった。彼はすでに検事の握っている証拠物件に気づいていたからだ。そののっぴきならぬ証拠を、いかに言い解くぺきかと、心をちぢに砕いていたからだ。

 「ああ、きみにお知らせしておくことがあったのです」検事はまったく別のいとぐちからはいって行った。「鶴子さんは細身の刃物で心臓をやられていたのです。たぶん短刀でしょう。ついさきほど、解剖の結果がわかったのです。で、つまりですね、この犯罪には血がある。被害者は血を流して倒れた。したがって、加害者の衣服などに、血痕《けつこん》が付着したかもしれないと考えるのは、きわめて自然なことですね」

 「そ、そうでしたか。やっぱり他殺でしたか」

 幸吉は絶望の表情でうめいた。

「ところで、加害者は、もし衣服などに血痕《けつこん》が付着したとすれば、それをどんなふうに処分するでしょう。きみだったら、どうしますか」

「よしてください」

 幸吉は気でも違ったのではないかと思われるような、突拍子《とつびようし》もない声で叫んだ。

「そんな問いかたは、よしてください。ぼくは知っているのです。刑事がぼくの部屋の縁の下から、はい出して行くのを見たのです。ぼくは少しも覚えがないけれど、縁の下に何かがあったのでしょう。それをいってください。それを見せてください」

「ハハハハハ、きみはお芝居がじょうずですね。きみの部屋の縁の下に隠してあった物を、きみは知らないというのですか。よろしい。見せてあげよう。これだ。これがきみの常用していたゆかたであることは、ちゃんと調べが届いているのだよ。さア、この血痕はなんだ。これが鶴子さんの血でないとでもいうのか」

 検事はいたけだかに言って、テーブルの下から、もみくちゃになった一枚のゆかたを取り出し、幸吉の前に差し出した。見ると、ゆかたのそでやすそに、点々として黒い血痕が付着している。

「ぼくにはまったく訳がわかりません。どうしてこんなものが、ぼくの部屋の縁の下にあったのか、ゆかたはぼくのもののようです。しかし、血痕はまったく覚えがありません」

 幸吉は追いつめられたけだもののように、目を血走らせ、やっきとなって叫んだ。

「覚えがないではすむまいよ」検事は落ちつき払って、「第一はKの署名ある呼び出し状、第二は実に不思議なアリバイの不成立、第三はこのゆかただ。きみはその一つをも言い解くべき反証を示しえないじゃないか。これほど証拠がそろってしかも弁解が成り立たないとしたら、もはや犯罪は確定したといってもいい。わたしはきみを山北鶴子殺害の容疑者として拘引するほかはないのだ」

 検事が言い終わると、署長の目くばせで、二人の警官が、ツカッカと幸吉のそばに近づき、左右からその手を取った。

「待ってください」

 幸吉はゾッとするように死にもの狂いの表情になって絶叫した。

「待ってください。きみたちの集めた証拠は、みんな偶然の暗号にすぎない。そんなもので罪におとされてたまるものか。だいいち、ぼくには動機がないのだ。ぼくが、なんの恨みもないいいなずけの少女を、なぜ殺さなければならないのか」

「動機だって? 生意気をいうな」署長がたまりかねて、どなった。「きみは情婦があるじゃないか。そいつと切れるのがいやさに、せき立てられる結婚を一日延ばしに延ばして来たんじゃないか。しかし、もうこれ以上は延期できないはめになっていた。きみの家と山北家との複雑な関係から、この結婚をもう一日も延ばしえない状態になっていた。もしこの結婚が不成立に終わったら、きみの一家は山北家はもちろん、村じゅうに対して、顔向けもできない事情があったのだ。きみは、せっぱ詰まった窮境に立った。そして、とうとう鶴子さんさえなきものにすればと、むちゃな考えを起こしたのだ。これでも動機がないというのか。こちらでは、なにもかも調べ上げてあるのだよ」

「ああ、陥穽《かんせい》だ。おれは恐ろしい陥穽にはめられたのだ」

 幸吉はとっさに返すことばもなく、半狂乱に身もだえするばかりであった。

「幸ちゃん、しっかりしたまえ。きみは忘れているんだ。もうこうなったら、ほんとうのことを言いたまえ。ほら、きみにはちゃんと、アリバイがあるじゃないか。N市に住んでいる女の人に、証言してもらえばいいじゃないか」

 人々のうしろから、殿村昌一がおどり出して叫んだ。彼は友だちの苦悶《くもん》を見るに見かねたのだ。

「そうだ。検事さん、N市×町×番地を調べてください。そこにぼくの恋人がいるんです。ぼくは事件の夜、ずっとそこにいました。散歩したなんて、うそです。その人の名は絹川雪子っていうんです。雪子に聞いてください」

 幸吉はついに、ひそかなる恋人の名を隠しておくことができなくなった。

「ハハハハハ、何をいっているんだ、きみの情婦の証言なんか当てになるか。その女は、きみの共謀者かもしれんじゃないか」

 署長が一笑に付した。

「いや、その女の証言をとるくらいの手数は、なんでもありません。あんなに言っているのだから、警察電話で、本署へ至急取り調べて返事をしてくれるよう、お命じになってはいかがです」

 国枝氏のとりなしで、ともかく雪子という女を取り調べさせることに決した。雪子はどうせ一度は調べなければならない人物なのだから。

 待ち遠しい一時間が経過して、駐在所から電話の返事を持って、一人の刑事が駆けつけて来た。

「絹川雪子は、一昨夜大宅は一度も来なかった、何かのまちがいでしょう、と答えたそうです。幾度尋ねても同じ返事だったそうです」

 刑事が報告した。

「それで、雪子は当夜ずっと在宅していたかどうかは?」

「それは雪子が二階借りをしているばあさんを取り調べた結果、確かに在宅していたことがわかったということです」

 もし雪子が当夜外出したとなると、彼女にも鶴子殺しの疑いがかかるわけだ。彼女もまた、幸吉と同じ動機を持っていたからである。しかし、外出した模様もなく、恋人の幸吉にとってはもっとも不利な証言をしたところを見ると、雪子は何も知らぬらしい。全然この事件の圈外においてさしつかえないわけだ。

 国枝氏はふたたび幸吉を面前に呼び出して、刑事からの報告を伝えた。

「さア、これできみのために、できるだけのことをしたわけだ。もう異存はあるまいね。きみの晴婦さえアリバイを申し立ててはくれなかったのだ。観念したほうがいいだろう」

「うそだ。雪子がそんなことを言うはずがない。会わせてください。ぼくを雪子に会わせてください。あれがそんなばかなことをいう道理がない。きみたちはいい加減のことをいって、ぼくをおとしいれようとしているのだ。さア、ぼくをN市へ連れて行ってください。そして、雪子と対決させてください」

 幸吉はじだんだを踏まんばかりにして、わめいた。

「よしよし、会わしてやる。会わせてやるからおとなしくするんだ」

 警察署長は、見えすいたねこなで声をしながら、ギロリとするどい目で部下に合図をした。

 二名の警官が、よろめく幸吉の手をつかんで、荒々しくドアの外へひきずり出してしまった。

 大宅村長の若旦那幸吉は、はたして恐ろしい殺人犯人であったか。もしや彼は、何者かのために、抜き差しならぬ陥穽《かんせい》におとしいれられたのではあるまいか。では、その真犯人は、いったい全体どこに隠れているのであろう。探偵小説家の殿村昌一は、この事件において、いかなる役割りを勤めるのか。彼があのように重大に考えていたわら人形には、そもそもどんな意味があったのか。

雪子の消失

 S村の村長のむすごである大宅幸吉が、そのいいなずけ山北鶴子惨殺犯人の容疑者として拘引せられた。

 幸吉はあくまで無実を主張したが、だいいち、のっぴきならぬ血染めのゆかたという証拠品があり、犯罪当夜の現場不在証明《アリバイ》が成り立たず、その上彼には、いいなずけを殺害しかねまじき動機さえあったのだ。

 幸吉は鶴子をきらいぬいていた。彼にはN市に絹川雪子というひそかなる恋人があって、その恋を続けるためには、結婚を迫るいいなずけは、何よりのじゃま者であった。しかも、幸吉一家には、鶴子の家に対して、このいいなずけを取り消しえない、苦しい浮世の義理があった。幸吉が結婚を承知しなければ、父大宅氏は村長の栄職をなげうって、S村を退散しなければならないほどの事情があった。

 一方、山北家では、その事情をふりかざして、矢のように婚礼の日限を迫って来る。したがって、大宅氏夫妻は、泣かんばかりに幸吉を責めくどく。恋に狂った若者が、こんなはめにおちいった時、そのいいなずけの女を憎み、のろい、はては殺意をさえいだくにいたるのは、しごくありそうなことではないか。というのが、検事や警察の人々の意見であったのだ。

 動機あり、証拠品あり、アリバイなし。もはや幸吉の有罪は何人《なんぴと》もくつがえすことができないように見えた。

 だが、ここに、幸吉の両親大宅氏夫妻のほかに、彼の有罪を信じない一人の人物があった。それは、幸吉の親友でS村に帰省中たまたまこの事件にぶっつかった探偵小説家殿村昌一だ。

 彼は幼年時代からの幸吉の友だちで、その気心を知悉《ちしつ》していたから、いかに恋に狂ったとはいえ、彼が罪もないいいなずけの鶴子を殺すなどとは、どう考えても信じられないのであった。

 彼は今度の事件については、一つの不可思議な考えをいだいていた。それは殺人の行なわれた五日前に、ほとんど同じ場所に、等身大のわら人形が、しかも短刀で胸を刺されて倒れていたことを出発点とする、まことにとっぴ千万な幻想であった。そんなことを国枝検事などに話せば、小説家の空想として、たちまち一笑に付し去られるは知れきっていたから、彼はそれについて、なにごとも口にしなかったけれど、親友の幸吉が無実を主張しながら拘引された上は、親友を助ける意味で、彼は彼の幻想にもとついて、一つこの事件を探偵してみようと決心した。

 では、どこから始めるか。経験のない殿村には、ちょっと見当がつきかねたが、何はさておき、まずN市の絹川雪子を訪問してみなければならないように感じられた。

 幸吉は犯罪当夜、雪子のところへ行っていたと主張し、雪子は警察に対して、ハッキリそれを否定している。この奇妙な矛盾は、いったい何から来ているか。まずそれを解くのが先決問題だ、と思った。

 そこで、幸吉が拘引された翌朝、彼はN市への乗合自動軍に乗った。むろん、雪子とは初対面である。この恋人のことは、幸吉がだれにもうちあけていなかったので、S村の人はもちろん、幸吉の両親さえも、雪子を知らず、検事の取り調べの際、幸吉が告白したので、はじめてその住所なり姓名なりを知ったほどであった。

 殿村はN市へ着くと、ただちに駅に近い雪子の住所を訪問した。ゴタゴタした小工場などに鋏まれた、くすぶったような二階建ての長屋の一軒がそれであった。

 案内を請うと、六十あまりのおばあさんが、目をしょぼしょぼさせて出て来た。

「絹川雪子さんにお目にかか紅たいのですが」と来意を告げると、

「え、どなたでございます」

 と顔をつき出す。目もわるく、耳も遠いらしい。

「あなたのところの二階に、絹川という娘さんがいらっしゃるでしょう。その人にお目にかかりたいのです。ぼくは殿村という者です」

 殿村は老婆の耳に口を寄せて、大声にどなった。

 すると、その声が二階に通じたのか、玄関から見えている階段の上に、白い顔がのぞいて、

「どうか、こちらへお上がりくださいませ」

 と答えた。その娘が絹川雪子に違いない。

 まっ黒にすすけた段梯子《だんばしご》を上がると、二階は六畳と四畳半の二間きりで、その六畳のほうが雪子の居間とみえ、女らしくきれいに飾ってある。

「突然おじゃまします。ぼくはS村の大宅幸吉の友だちで、殿村というものです」

 あいさつをすると、雪子は、丁寧におじぎをして、

「わたし絹川雪でございます」

 といったきり、恥ずかしそうにうつむいて、黙っている。

 見ると、雪子の様子が少し意外である。殿村は、幸吉があれほど思っていた娘さんだから、さだめし非常に美しい人であろうと想像して来たのに、今目の前に、ツクネンとすわっている雪子は、どうも美しいとはいえないばかりでなく、まるで淫売婦《いんばいふ》のような感じさえするのだ。

 髪は洋髪にしているが、それが実にへたな結い方で、額に波打たせた髪の毛が、まゆを隠さんばかりにたれ下がり、顔におしろいや紅をコテコテと塗って、その上虫歯でも痛いのか、右のほおに大きな膏薬をはりつけているという始末だ。

 殿村は、幸吉が何を物好きに、こんなへんてこな女を愛したのかと疑いながら、ともかくも、幸吉の拘引せられたてんまつを語りきかせ、犯罪の当日、彼はほんとうに雪子を訪問しなかったのかと、ただした。

 すると、なんという冷淡な女であろう、雪子は恋人の拘引をさして悲しむ様子もなく、ことば少なに、その日幸吉は一度も来なかった旨を答えた。

 殿村は話しているうちに、だんだん変な気持ちになって来た。雪子という女が、感情を少しも持たぬ、人造人間かなんかのようにさえ思われて、一種異様の無気味さを感じないではいられなかった。

「それで、あなたは、今度の事件をどう思います。大宅君が人殺しなぞできる男だと思いますか」

 少々しゃくにさわって、しかりつけるようにいうと、相手は相変わらずの無感動で、

「あの人が、そんな大それたことをなさるとは思われませんけれど……」

 と、実に煮えきらぬ返事だ。

 この女は恥ずかしがって感情を押し殺しているのか、真からの冷血動物なのか、それとも、もしかしたら、幸吉をそそのかして鶴子を殺害せしめた張本人であるために、その罪の恐怖におびえきって、こんな様子をしているのか、まったくえたいの知れぬ、不思議な感じであった。

 彼女が何かにひどくおびえていることは確かで、ちょうどその家の裏が駅の構内になっているものだから、絶えず機関車の行き来する音が聞こえ、時々はすぐ窓の外で、するどい汽笛が鳴り響くのだが、そんな物音にも雪子はビクッと身をふるわせて驚くのだ。

 雪子はこの家の二階を借りて、一人で暮らしているらしい。調度などが、なんとなく職業婦人を思わせる。

「どこかへお勤めなんですか」

 と尋ねてみると、

「ええ、少し前まで、あるかたの秘書を勤めていましたが、今はどこへも……」

 と口の中でモグモグいう。

 なんとかして本音を吐かせようと、なおいろいろ話しかけてみたが、雪子は黙りがちで、少しも要領を得ない。絶えずうつむいて、目をふせて、口をきく時も、殿村を正視せず、まるで畳と話をしているようなあんばいだ。

 結局、殿村は、この雪子のしつような沈黙をどうすることもできず、ひとまず、その家を辞去することにしたが、いとまを告げて、階段を降りかけても、雪子は座敷にすわって頭を下げているばかりで、下へ送って来ようともせぬ。

 玄関の土間に降りると、それでも、例のおばあさんが見送りに出て来たので、殿村は、念のために、その耳に口を寄せて、

「きょうから三日前、つまり、さきおとといですね。絹川さんのところへ、男のお客さんはなかったですか、ちょうどわたしくらいの年配の」

 と尋ねてみた。二階の雪子に気がねをしながら、二、三度繰り返すと、やっと、

「さア、どうでございましたかね」

 という返事だ。だんだん聞いてみると、この家はおばあさんひとり暮らしで、二階を雪子に貸しているのだが、からだが不自由なため、いちいち取り次ぎなどはせず、雪子のお客さまはかってに階段を上がって行くし、夜なども、客がおそく帰る時は、雪子が表の戸締まりをすることになっているらしい。つまり、二階と下とがまったく別々のアパートみたいなもので、たといあの日、幸吉が雪子をたずねたとしても、このおばあさんは、それを知らないでいたかもわからぬのだ。

 殿村はひどく失望し、その家を出た。そして考え込みながら、足元を見つめて歩いていると、

「やア、あなたもここでしたか」

 突然声をかけたものがある。

 びっくりして見上げると、S村の小学校の取り調べ室で知り合った、N警察の警官だ。まずいやつに出くわした、と思ったが、うそを言うわけにもいかぬので、雪子を訪問したことを告げると、

「じゃ、家にいるんですね。そいつはいいぐあいだ。実は、あの女を取り調べることになって、今呼び出しに行くところです。急ぎますから、失敬します」

 警官は言い捨てて、五、六間向こうに見えている雪子の下宿へ走って行った。

 殿村は、なぜかそのまま立ち去る気にはなれず、そこにたたずんで、警官の姿が格子戸《こうしど》の中へ消えるのを見送っていた。

 警官に引き連れられた雪子が、どんな顔をして出て来るかと、ちょっと好奇心を起こして待っていると、やがて、ふたたび格子戸のあく音がして、警官が出て来たが、雪子の姿は見えぬ。そればかりか、警官は殿村がまだそこに立っているのを見つけると、怒ったような声で、

「困りますね、でたらめをおっしゃっては。絹川雪子はいないじゃありませんか」

 といった。

「え、いないって?」殿村はめんくらって「そ、そんなはずはありませんよ。今ぼくが会って来たばかりですからね。ぼくがたった五、六間歩くあいだに、外出できっこはありませんよ。ほんとうにいないのですか」

 と、信じられぬ様子だ。

「ほんとうにいないのです。ばあさんに尋ねても不得要領なので、二階へ上がってみたんですが、ネコの子一匹いやしない。じゃ、裏口からでも外出したのかもしれませんね」

「さア、裏口といって、裏は駅の構内になっているのだが……ともかく、ぼくも引き返して調べてみましょう。いないはずはないのだがなあ」

 そこで、二人はもう一度その家の格子戸をあけて、ばあさんに尋ねたり、家捜しをしたりしたが、結局絹川雪子は、煙のように消えうせてしまったことが確かめられたばかりであった。

 さいぜん警官がはいって行った時、ばあさんは殿村を送り出して、まだ玄関の、しかも階段の降り口に立っていたのだから、いくら目や耳のうとい老人でも、雪子がその階段を降りて来るのを、気づかぬはずはなかった。

 なお念のために、履物《はきもの》を調べさせてみたけれど、雪子のはもちろん、ばあさんの履物も、一足もなくなっていないことがわかった。

 雪子が外出しなかったことは、もはや疑う余地がないのだ。では、もう一度二階を調べてみようと梯子段《はしごだん》を上がり、押入れの中や、天井裏までのぞいてみたが、やっぱり人の気配はない。

「この窓から、屋根伝いに逃げたんじゃないかな」

 警官が窓の外をながめながら口走った。

「逃げたって? 何かあの人が逃げ出す理由でもあるのですか」

 殿村がびっくりしたように聞き返した。

「もしあの女が、共犯者であったとすれば、ぼくの声を聞いて、逃げ出さぬともかぎりませんよ。しかし、それにしても……」

 警官はその辺の屋根をながめまわして、

「この屋根じゃ、どうも逃げられそうもないな。それに、すぐ下の線路に、大ぜい工夫がいるんだし」

 いかにも窓の下は、すぐ駅の構内になっていて、何本も汽車のレールが並び、その一本は、修繕中と見えて、四、五人の工夫がツルハシをそろえて仕事をしている。

「オーイ、今この窓から、線路へ飛び降りたものはないかあ」

 警官が大声に、工夫たちに尋ねた。

 工夫たちは驚いて窓を見上げたが、むろん雪子がそんな人目につく場所へ飛び降りるはずはなく、彼らは、何も見なかった、と答えた。また、雪子が屋根伝いに逃げたとすれば、工夫たちが気づかぬわけはないから、これも不可能なことだ。

 つまり、あのお化けのようにおしろいを塗った妖怪《ようかい》じみた娘は、気体となって蒸発したとでも考えるほかには、解釈のしようがないのであった。

 殿村はキツネにつままれたような、夢でも見ているような、なんともいえぬヘンテコな気持ちになって、うつろな目で窓の外をながめてた。

 頭の中に無数の微生物が、モヤモヤと入り乱れて、そのあいだを、胸に短刀を刺されたわら人形や、壁のように白い雪子の顔や、赤はげになった顔の中から、まんまるに飛び出していた鶴子の目の玉などが、スーッスーッと現われては消えて行った。

 そして、頭の中がやみ夜のように、あやめもわからぬ暗さになった。その暗い中から、徐々に、異様な物の影が浮き上がって来た。なんだろう。棒のようなものだ。にぶい光りを放っている棒のようなものだ。それが二本並行に並んでいる。

 殿村はその棒のようなものの正体をつかもうとして、もだえ苦しんだ。

 すると、突然、パッと、頭の中が真昼のように明るくなった。なぞが解けたのだ。まるで奇蹟みたいに、すべてのなぞが解けたのだ。

「高原療養所だ。ああ、わかったぞ。きみ、犯人のありかが、わかりましたよ。国枝君はまだこちらにいますか。警察ですか」

 殿村が気違いのように叫びだしたので、警官はめんくらいながらも、国枝検事がちょうど今、警察署に来ている旨を答えた。

「よろしい。じゃあ、きみはすぐ帰って、国枝君に、ぼくが行くまで待っているように伝えてください。殺人事件の犯人を引き渡すから、といってね」

「え、犯人ですって。犯人は大宅幸吉じゃありませんか。あなたは何をばかなことをおっしゃるのです」

 警官が仰天して叫んだ。

「いや、そうじゃないのです。犯人はほかにあることが、今やっとわかったのです。想像もできない邪悪です。ああ、恐ろしいことだ。ともかく、国枝君にそう伝えてください。ぼくがすぐあとから行って説明します」

 殿村が気違いのように、繰り返し繰り返し頼むので、事情はわからぬながら、煙にまかれてしまって、警官はアタフタと署に帰って行った。国枝検事の親友である殿村のことばを、むげにはねつけるわけにもいかなかったのだ。

 途中で警官に別れると、殿村はいきなり駅にかけつけ、駅員をとらえて、奇妙なことを尋ねた。

「きょう午前九時発の上り貨物列車には、材木を積んでいましたか」

 駅員は、びっくりして、ジロジロ殿村の顔をながめていたが、なんと思ったのか、親切に答えてくれた。

「積んでました。材木を積んだ無蓋貨車《むがいかしや》が、確か三台あったはずです」

「で、その貨物列車は、次のU駅には停車することになっているのですか」

 Uというのは、S村とは反対の方角にある、N市の次の停車場なのだ。

「ええ、停車します。Uではいくらか積みおろしがあったはずです」

 それだけ聞き取ると、殿村は駅を走り出して、駅前の自動電話に飛び込み、U町の郊外にある、有名な高原療養所を呼び出して、何か入院患者のことをしきりと尋ねていたが、これも満足な答えが得られたとみえ、通話が終わると、そのまま、勢い込んで警察署へと駆けつけた。

 国枝氏は署長室にただ一人、ぽつねんと腰かけていたが、突然殿村が取り次ぎもなく飛び込んで来たので、あっけにとられて立ち上がった。「殿村君、きみのすいきょうにも困るね。お上《かみ》のことはお上に任せておきたまえ。小説家のにわか刑事なんかが、成功するはずはないのだから」

 国枝氏はにがりきって、きめつけた。

「いや、にわか刑事であろうとなんであろうと、この歴然たる事実を知りながら、黙っているのは、むしろ罪悪だ。ぼくは真犯人を発見したのだ。大宅君は無罪だ」

 殿村は興奮のあまり、場所がらもわきまえず絶叫した。

「静かにしてくれたまえ。お互いは気心を知り合った友だちだからいいけれど、警察の連中にこんなところを見られては、少しぐあいがわるいのだから」

 国枝氏は困りきって、気違いのような殿村をながめながら、

「で、その真犯人というのは、いったい何者だね」

 と尋ねた。

「いや、それはきみ自身の目で見てくれたまえ.U町まで行けばいいのだ。犯人は高原療養所の入院患者なんだ」

 殿村の言いぐさは、ますますとっぴである。

「病人なのかい」

 国枝氏はびっくりして聞き返した。

「ウン、まあ病人なんだ。本人は仮病を使っているつもりだろうが、その実、救いがたい精神病者なのだ。気違いなのだ。そうでなくて、こんな恐ろしい殺人罪が考え出せるものか。探偵小説家のぼくが、これほど驚いているのでもわかるだろう」

「ぼくには何がなんだか、サッパリわからないが、……」

 国枝氏は、殿村こそ気が違ったのではないかと、心配になりだした。

「わからないはずだ。どこの国の警察記録にも前例のない事件だよ。いいかい。きみたちは、実にとんでもない思い違いをしているのだ。もしこのまま審理を続けて行ったら、きみは職務上、実に取り返しのつかぬ失策をしでかすのだよ。だまされたと思って、ぼくといっしょに高原療養所へ行ってみないか。信用できなかったら、検事としてでなく、一個人として行けばいい。たといぼくの推理がまちがっていたところで、ほんの二時間ほど浪費すれば済むのだ」

 押し問答を続けた末、結局、国枝氏は旧友の熱誠にほだされ、いわば気違いのおもりをする気で、療養所へ同行することになった。むろん警察の人々にはそれと言わず、ちょっと私用で出かける体にして、自動車の用意を頼んだ。

真犯人

 高原療養所へは、国道を飛ばして、四十分ほどの道のりだ。雪子の家を家捜しして一時間以上つぶしたのと、国枝検事を説きつけるために手間どったので、彼らが療養所へ着いたのは、もうお昼過ぎであった。

 療養所は駅の少し手前、美しい丘の中腹に、絵のようにひろがっている白堊《はくあ》の建て物だ。車を門内に入れて受付に来意をつげると、すぐさま院長室に通された。

 院長の児玉博士は、専門の医学のほかに、文学にも堪能《たんのう》で、殿村などとも知り合いであったから、さいぜん殿村からの電話を聞いて、彼らの来るのを待ち受けていたほどである。

「さっき電話でお尋ねの人相の婦人は、北川鳥子という名で入院してますよ。おことばによって、それとなく見張りをつけておきました」

 あいさつがすむと、院長がいった。

「あの女がここへやって来たのは、何時ごろでしょうか」

 殿村が尋ねる。

「そうです。けさ九時半ごろでしたか」

「で、病状はどんなふうなのですか」

「まあ、神経衰弱でしょうね。何かショックを受けて、ひどく興奮しているようです。別に入院しなければならないほどの症状ではありませんが、ご承知のとおり、ここは病院というよりは一種の温泉宿なんですから、本人の希望しだいで入院を許すことになっているのです。……あの人が何か悪いことでもしたのですか」

 院長はまだ何も知らぬのだ。

「殺人犯人なのです」

 殿村が声を低めて言い放った。

「え、殺人犯人ですって?」

「そうです。ご承知のS村の殺人事件の下手人です」

 院長は非常な驚きにうたれ、あわただしく医員を呼んで、北川鳥子の病室へ案内させてくれた。

 国枝氏も殿村も、その病室のドアを開く時には、さすがに心臓のただならぬ鼓動を感じないではいられなかった。

 思いきって、サッとドアを引くと、入り口の真正面に、絹川雪子がおびえた目を、はりさけんばかりに見開いて突っ立っていた。北川鳥子とは、ほかならぬ絹川雪子であった。いや、少なくとも、絹川雪子と称する女であった。

 彼女はけさ会ったばかりの殿村を忘れるはずはない。そのうしろに立っている国枝検事は知らなかったけれど、このあわただしい闖入《ちんにゆう》が好意の訪問であろうはずはない。彼女はとっさの間に、すべてを悟ってしまった。

「アッ、いけない」

 突然殿村が雪子のからだに飛びついて、その手から青い小さなガラスびんをもぎ取った。彼女はどこで手に入れたか、万一の場合に備えて、毒薬を用意していたのだ。

 毒薬を奪われた娘は、最後の力尽きて、くずれるように倒れ伏し、物狂わしく泣き入った。

「国枝君、けさ絹川雪子が、部屋の中で消えうせてしまったことを聞いているだろう。あの部屋から姿を消したこの女は、すばやくも、療養所の入院患者になりすましていたのだよ」

 殿村が説明した。

「だが、待ちたまえ。それは少しおかしいぜ」

 国枝氏は何か腔に落ちぬらしく、絶え入らんばかりに泣き入っている女を見おろしながら、

「絹川雪子は、犯罪の行なわれた日は、 一度も外出しなかったはずだ。それに、被害者の山北鶴子は、雪子にとって恋のかたきでもなんでもない。大宅は完全に雪子のものだったのだからね。その雪子が何を好んで、命がけの殺人罪などを企てたのだろう。どうもおかしいぜ。この女は神経衰弱のあまり、変な幻想を起こしているのではないかしら」

 と妙な顔をする。

「さア、そこだよ。そこに非常な錯誤があるのだ。犯人のずば抜けたトリックがあるのだ。きみは犯人を大宅幸吉ときめてかかっている。それがまちがいだ。きみは被害者を山北鶴子ときめてかかっている。そこに重大な錯誤があるのだ。被害者も犯人も、きみたちには少しもわかっていないのだ」

 殿村が奇怪千万なことを言いだした。

「え、え、なんだって?」

 国枝氏は、飛び上がらんばかりに驚いて叫んだ。

「被害者が山北鶴子ではないって? じゃ、いったい、だれが殺されたのだ」

「あの死骸は犬に食い荒らされる以前、おそらく顔面をめちゃめちゃに傷つけてあったに違いない。そうして人相をわからなくした死骸に、鶴子の着物や装身具をつけて、あすこへ捨てて
おいたのだ」

「だがきみ、それじゃ鶴子のゆくえ不明を、どう解釈すればいいのだ。いなか娘が、親に無断で、三日も四日も帰らないなんて、常識では考えられないことだ」

「鶴子さんは絶対に家に帰るわけにはゆかなかったのだ。ぼくはね、大宅君から聞いているのだが、鶴子さんは非常な探偵小説好きで、英米の犯罪学の書物まで集めていたそうだ。ぼくの小説なんかも、残らず読んでいたそうだ。あの人は、きみが考えているような、単純ないなか娘ではないのだよ」

 殿村は必要以上に高い声で物をいった。国枝氏ではない、だれかもっと別の人に話しかけてでもいるように。

 国枝氏はますますめんくらって、

「なんだか、きみは鶴子さんを非難しているように聞こえるが」

 と反問した。

「非難だって? 非…難どころか、あいつは人殺しなんだ。極悪非道の殺人鬼なんだ」

「え、え、すると……」

「そうだよ。山北鶴子は、きみが信じているように被害者ではなくて、加害者なんだ。殺されたのではなくて、殺したのだ」

「だれを、だれを」

 国枝検事は、殿村の興奮につり込まれて、あわただしく尋ねた。

「絹川雪子をさ」

「オイオイ、殿村君、きみは何を言っているのだ。絹川雪子は、現にぼくらの目の前に泣き伏しているじゃないか。だが、ああ、それとも、もしや、きみは……」

「ハハハハハ、わかったかい。ここにいるのは、絹川雪子の仮面をかぶった、山北鶴子その人なんだ。鶴子は大宅君を熱愛していた。両親を責めて結婚をせき立てたのも鶴子だ。この人が、大宅君の心を占めている絹川雪子の存在を、どんなにのろったか、全く自分からそむき去った大宅君を、どれほど恨んだか、想像にかたくはない。そこで、その二人に対して、恐ろしい復讐を思い立ったのだ。恋のかたきの雪子を殺しその死骸に自分の着物を着せて、大宅君に殺人の嫌疑がかかるように仕組んだのだ。一人は殺し、一人には殺人犯として、恐ろしい刑罰を与える。実に完全な復讐ではないか。しかも、その手段の複雑巧妙をきわめていたこと、さすがは探偵小説や犯罪学の研究家だよ」

 殿村はそこで、泣き伏している鶴子に近づき、その肩に手を当てて話しかけた。

「鶴子さん、聞いていたでしょうね。ぼくの言ったことに、何かまちがいがありますか。ありますまい。ぼくは探偵小説家です。きみのすばらしい思いつきがよくわかりますよ。けさ絹川雪子の部屋で会った時は、きみの巧みな変装にだまされて、つい気がつかなんだけれど、きみと別れてから、ぼくはハッと思い出したのです。S村でたった一度話をしたことのある山北鶴子のおもかげを、その無格好な洋髪や、厚化粧のおしろいの下から、ハッキリ思い浮かべることができたのです」

 鶴子はもはや観念したものか、泣きじゃくりをしながら、殿村のことばをじっと聞いている。その様子が、殿村の推察が少しもまちがっていないことを、肯定しているように見えた。「すると、鶴子は絹川雪子を殺しておいて、その殺した女に化けていたのだね」

 国枝氏が驚愕《きょうがく》の表情をおし殺すようにして口をはさんだ。

「そうだよ。そうする必要があったのだ」殿村がすぐ引き取って答える。「せっかく雪子の死骸の顔を傷つけて鶴子と見せかけても、当の雪子がゆくえ不明になったのでは、疑いを受ける元だ。そればかりではなく、鶴子が殺された体を装うためには、鶴子こそゆくえをくらまさなければならぬ。そこで、鶴子が一時雪子に化けてしまえば、この二つの難題を同時に解決することができるじゃないか。その上、雪子に化けて大宅君のアリバイを否定し、いや応なしに罪におとしてしまう必要もあったのだからね。実にすばらしい思いつきだよ」

 なるほど、なるほど。雪子が恋人である大宅のアリバイを否定するのは変だと思ったが、それでつじつまが合うわけだ。

「それにはね」殿村が説明をつづける。「あの雪子の下宿というものが、実におあつらえ向きにできていた。下には目も耳もうといおばあさんがたった一人だ。外出さえしなければ、化けの皮がはげる気づかいはない。また、たとい人違いを看破するものがあったところで、まさかそれが惨殺されたはずの山北鶴子だなどと、だれが思うものか。広いN市に鶴子を知っている人は、ほんの数えるほどしかないはずだもの。

「つまり、この女は、わが身を一生日陰者にし、親子の縁をきってまでも、恋の恨みをはらしたかったのだ。むろん、永久に絹川雪子に化けていることはできない。大宅君の罪が決定するのを見定めてから、どこか遠国へ身を隠すつもりであったに相違ない。ああ、なんという深い恨みだろう。恋は恐ろしいね。このうら若い娘を気違いにしたのだ。いや、鬼にしたのだ。しっとに燃える一匹の鬼にしたのだ。この犯罪は、決して人間のしわざではない。地獄の底からはい出して来た悪鬼の所業だ」

 なんとののしられても、哀れな鶴子は、うっぷしたまま、石のように動かなかった。あまりの打撃に思考力を失い、あらゆる神経がまひして、身動きをする力もないかと見えた。

 国枝氏は、小説家の妄想《もうそう》が、ピシピシと的中して行くのを、非常な驚きをもって、むしろそら恐ろしくさえ感じながら聞いていたが、しかし、まだまだ腑《ふ》に落ちぬ点がいろいろあった。

「殿村君、すると、大宅幸吉は別にうそをいう必要もなく、また、言ってもいなかったことになるが、思い出してみたまえ、大宅は犯罪の当夜おそくまで、絹川雪子のところにいたと主張している。つまり、雪子はその夜少なくとも十一時前後までは、N市にいたはずだね。ところが、その雪子が、同じ晩に遠く離れたS村で殺されていたというのは、少しつじつまが合わぬじゃないか。たとい自動車が雇えたとしても、そんなにおそく、若い女が一里半もある山奥へ出かけてゆくというのは、実に変だ。それに、いくらもうろくしたばあさんだといって、雪子がそんな夜ふけに外出するのだったら、一言くらい断わって行くだろうし、それを忘れてしまうはずもなかろうじゃないか。ところが、ばあさんは、あの夜雪子は決して外出しなかったと証言しているのだぜ」

 さすがに国枝氏は急所を突く。

「さア、そこだよ。ぼくがどこの国の警察記録にも前例がないというのは、その点だよ」

 殿村はこの質問を待ちかまえていたように、勢いこんでしゃべり始めた。

「実に奇想天外のトリックなんだ。殺人狂ででもなければ考え出せないような、驚くべき方法なんだ。このあいだぼくは、仁兵衛じいさんが拾っておいたわら人形に関して、きみの注意をうながしておいたはずだね。ほら、あの短刀で胸を刺されていたやつさ。あれはなんだと思う。犯人がね、そのとっぴ千万な思いつきを試験するために、使用したものだよ。つまり、あのわら人形をね、貨物列車にのせておいたなら、いったいどの辺で車上から振り落とされるものだかを、試験してみたのだよ」

「エ、なんだって? 貨物列車だって?」

 国枝氏は、またしても、めんくらわざるをえないのだ。

「てっとり早くいうとね、こういうわけなのだよ。探偵小説愛読者である犯人は、犯罪というものは、どんなに注意をしても、現場に何かしら手がかりが残ることをよく知っていたのだ。で、自分は少しも現場に近寄らず、ただ被害者の死駭だけがそこにころがっている、という、一見まったく不可能なことをなしとげようと企てた。

「鶴子がどうしてそんな変なことを考えついたかというとね、この女は、恋人の敏感で、いっの問にか絹川雪子の住所をかぎつけ、雪子のるすの問に、あの二階の部屋へ上がってさえいたのだ。ね、そうですね、鶴子さん。そして、実に驚くべき発見をしたのだ。というのは、ご承知のとおり、雪子の部屋はすぐ駅の構内に面していた。窓の真下に貨物列車専用のレールが走っている。で、そこを列車が通ると、レールの地盤が高くなっているものだから、貨物の箱が窓とスレスレに、一尺と隔たぬ近さで、雪子の部屋をかすめて行く。ぼくは、けさあの部屋をたずねて、この目でそれを見たのだ。しかも、構内のことだから、貨物列車は貨車のつけ替えのために、ちょうど雪子の部屋の窓の外あたりで停車することがある。鶴子さん、きみはあれを見たのですね。そして、今度の恐ろしい犯罪を決行する気になったのですね」

 殿村は時々、泣き伏している鶴子に話しかけながら、複雑な説明をつづけていった。

 「そこで、この人は、やっぱり雪子のるすをうかがい、例のわら人形を持ち込んで、ちょうど窓の下に停車している無蓋貨車《むがいかしや》の材木の上へ、

 (この辺を通る無蓋貨車は、ほとんど例外なく材木を積んでいるんだよ)屋根伝いにその人形をソッとのせたのだ。くくりもどうもしてないのだから、汽車の動揺で、人形はどっかへ振り落とされるにきまっている。それがどの辺だかだいたい見当をつけようとしたわけだ。

「長い貨物列車のことだから、それにS村のトンネルまでは道が上りになっているから、速力は非常にのろい。人形はなかなか落ちないのだ。そして、例のトンネルの近くまで進むと、勾配《こうばい》が終わって少しスピードが出る。ちょうどその時、俗に大曲がりと称する急力ーブにさしかかるのだ。列車がひどく動樗する。自然、人形はそこで振り落とされることになる。

「好つこうにも、人形の落ちたところが、S村のはずれの寂しい場所と知ると、犯人はいよいよ殺人の決心を固めた。そして、大宅君が雪子を訪問する日を待ちかまえていて、彼を尾行し、彼が雪子に別れて帰るのと入れ違いに、二階の部屋へ闖入《ちんにゆう》して、相手の油断を見すまし、なんなく雪子をくびり殺してしまう。それから顔をめちゃめちゃに傷つけて、着物を着替えさせ、ちゃんと時間を調べておいた夜の貨物列車が、窓の外に止まるのを待って、屋根伝いにそこへ抱きおろす、という順序なのだ。鶴子さん、そのとおりでしたね。

「死骸は目算どおり、トンネルのかたわらへ振り落とされた。その上なお好つこうにも、あの辺の山犬が、まったく見分けのつかぬように、皮膚を食い破ってしまった。一方、犯人の鶴子は、そのまま雪子の部屋に居残って、髪の形を変え、おしろいを塗り、ほおには膏薬《こうやく》をはり、雪子の着物を着、作り声をして、まんまと雪子になりすましていたのだ。

「国枝君、これは、きみたち実際家には、まったく考えも及ばぬ空想だ。しかし、若い探偵小説狂の娘さんには、決して空想ではなかった。この人は無謀千万にも、それを実行して見せたのだ。おとなにはできない芸当だよ。

「それから、きょうこの人が、あの二階で消えうせてしまった秘密も、きみには説明するまでもなかろう。やっぱり同じ方法で、今度はS村とは反対の方角へ、無蓋貨車のただ乗りをやったのだよ。さア、鶴子さん、もしぼくの推察にまちがった点があったら訂正をしてください。たぶん訂正する必要はないでしょうね」

 殿村は語り終わって、ふたたび鶴子に近づき、その肩に手をかけて引き起こそうとした。

 とその瞬間、うつぶしていた鶴子のからだが、電気にでも感じたように、大きくビクッと波打ったかと思うと、「ギャッ」というような身の毛もよだつ叫び声を発して、彼女はガバとはね起きた。はね起きて、いきなり、断末魔の気違い踊りを踊りだした。

 それをひと目見ると、殿村も国枝氏も、あまりの恐ろしさに、思わずアッと声を立てて、あとずさりをした。

 鶴子の顔は、涙のために、厚化粧のおしろいが、無気味なまだらにはげ落ちて、目は血走り、髪はさか立ちもつれ、しかも見よ、彼女の口は夜叉《やしや》のように耳までさけて、かみ鳴らす歯のあいだから、ドクドクとあふれ出るまっかな血のり、それがくちびるを毒々しくいうどり、網目になってあごを伝って、ポトポトとリノリウムの床へしたたり落ちているではないか。

 鶴子はついに舌をかみ切ったのだ。自殺せんとして、舌をかみ切ったのだ。

「オーイ、だれか来てください。大変です。舌をかみ切ったのです」

 意外の結果にろうばいした殿村は、廊下に飛び出して、声をかぎりに人を呼んだ。

     ×      ×      X

 かくして、S村の殺人事件は終わりをつげた。舌をかみ切った山北鶴子は、かわいそうに死にきれず、ながらく療養所のやっかいになっていたが、傷口は快癒《かいゆ》しても狂気はなおらず、ろれつの回らぬ口で、あらぬことをわめきながら、グラゲラと笑うほかには、なんの能もない気違い女となりはててしまった。

 だが、それは後のお話。その日、舌かみ切った鶴子を院長に託し、鶴子の実家へは長文の電報を打っておいて、ひとまずN市へ引き返す汽車の中で、国枝検事は、親友の殿村に、こんなことを尋ねたものだ。

 「それにしても、ぼくにはまだのみ込めない点があるんだがね。鶴子が無蓋貨車《むがいかしや》に隠れて、逃げ出したのはわかっているが、その行く先が高原療養所だということを、きみはどうして推察したんだね」

 鶴子の自殺騒ぎで、せっかく事件を解決した楽しさを、めちゃめちゃにされた殿村は、苦い顔をして、ぶっきらぼうに答えた。

「それは午前九時発の貨物列車が、ちょうど療養所の前で操車のつこう上、ちょっと停車することを知っていたからだよ。材木のあいだに隠れたままU駅まで行ったのでは、貨物積みおろしの人夫に発見されるおそれがある。鶴子さんはどうしても、U駅に着く前に貨車から飛び降りる必要があった。それには、療養所の前で停車したおりが、絶好の機会ではなかろうか。しかも、降りたところには、高原療養所が建っている。病院というものは、犯罪者にとって、実に屈強の隠れ家なんだよ。探偵小説狂の鶴子さんが、そこへ気のつかぬはずはない。ぼくはこんなふうに考えたんだ」

「なるぽど、聞いてみると、実になんでもないことだね。しかし、そのなんでもないことが、ぼくや警察の人たちにわからなかったのだ。エーと、それからもう一つ疑問がある。鶴子が自宅の机のひきだしに残しておいた、Kの署名のある呼び出し状は、むろん鶴子自身が偽造したものに違いないが、もう一つの証拠品、例の大宅君の居間の縁の下から発見された血染めのゆかたのほうは、ちょっと解釈がむずかしいと思うが」

「それもなんでもないことだよ。鶴子さんは大宅君の両親とは親しい間柄だから、大宅君のるす中にも、自由に遊びに来たに違いない。そして、遊びに来ているあいだに、機会を見て、大宅君の着古しのゆかたを盗み出すのは、造作もないことだ。そのゆかたに血を塗って、丸めて犯罪の前日あたりに、あの縁の下へほうり込んでおくというのも、少しもむずかしいことではない」

「なるほど、なるほど。犯罪のあとではなくて、その前にあらかじめ証拠品を作っておいたというわけだね。なるほど、なるほど。しかし、あのおびただしい血のりは、どこから取ったものだろう。ぼくは念のために、あれを分析してもらったが、確かに人間の血なんだよ」

「それはぼくも正確には答えられない。しかしあのくらいの血をとることは、さして困難ではないのだよ。たとえば、一本の注射器さえあれば、自分の腕の静脈からだって、茶飲み茶わんに一杯くらいの血は取れる。それをうまく塗りひろげたら、あのゆかたの血痕なぞ、造作なくこしらえられるよ。鶴子さんの腕をしらべてみれば、その注射針のあとが、まだ残っているかもしれない。まさか、他人の血を盗むわけにもいくまいから、おそらくそんなことだろうよ。この方法は、探偵小説なんかにもよく使われているんだからね」

 国枝氏は感じ入って、幾度もうなずいて見せた。

「ぼくはきみに、おわびしなければならない。小説家の妄想《もうそう》などと軽蔑《けいぺつ》していたのは、どうもぼくのまちがいらしい。今度のような空想的犯罪には、ぼくら実際家は、まったく手も足も出ないことがわかった。ぼくはこれから、実際問題についても、もっときみを尊敬することにしよう。そして、ぼくもきょうから、探偵小説の愛読者になろう」

 国枝検事はむじゃきにカブトを脱いだ。

「ハハハハハ、そいつはありがたい。これで探偵小説愛読者が一人ふえたというものだね」

 殿村も一倍のむじゃきさで、朗らかに笑った。

   (『キング』昭和六年十一月号および翌年二月号)
メニュー

更新履歴
取得中です。