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江戸川乱歩「空気男」


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「二人の探偵小説家」改題




 北村五郎《きたむらごろう》と柴野金十《しばのきんじゆう》とが、始めてお互《たがい》の顔を、というよりは、お互の声を聞き合ったのは、(もう出発点からして、この話は余程《よほど》変っているのだ)ある妙な商売のうちの、二階においてであった。

 それがあまり上等の場所ではないので、壁などもチャチなもので、一方の、赤茶けた畳《たたみ》の四畳半に寝ている北村五郎の耳に、その隣の、恐らく同じ構造の四畳半で、変な小うたを口吟《くちずさ》んでいる、柴野金十の声が聞えて来たのである。北村が想像するには、あの隣の男も、北村自身と同じ様に、相手の一夜妻はとっくに逃げ出してしまって、彼もまた退屈し切っているのであろう。そして、あんな変な、何の節《ふし》ともわからない、ヌエの様な小うたをうなっているのであろう。一つこっちから声をかけて見ようかな。北村は、そこで、そういう場合のことだ、平常《ふだん》の内気者にも似合わず、大胆にこんなことをいったものである。

「お隣のお方、何かお話でもしようじゃありませんか。僕も退屈して弱っているのですよ」

 すると、隣の部屋では、パッタリと歌声が止って、しばらくはこちらの様子をうかがっている鹽梅《あんばい》であったが、やがて、

「僕ですか」

 と、それがやっぱり、北村と同じ、青年らしい声なのである。

「エエ、君ですよ。こんな所から失敬ですが、何かこう、変った話でもありませんか」

「ハハハハハハ、君もさびしがっているんですね。だが、こいつは一寸《ちよつと》乙《おつ》な考えですね。壁を隔《へだ》てて、欄間《らんま》から、話をやりとりするというのは」

 そうして、二人は近づきになったのである。

「どうも、こういう家は駄目ですね、僕は始めてなんだが、僕の所は、今夜あたり臨検があり相《そう》だからとか、何とか、うまい口実で逃げられてしまいましたよ」と柴野金十がこぼすのである。

「僕もですよ。僕もですよ」北村はそれをうけて、「不愉快ですね。帰るには夜が更《ふ》けている、といって、妙に目がさえてしまって眠る訳《わけ》にも行かず。この気持はありませんね」

「どうです、僕の部屋へ来ませんか。それとも僕の方からそちらへ行きましょうか」

「そうですね、じゃこちらへいらっしゃい。お茶でも入れますよ。僕の部屋には、まだ火がありますから」

 そこで、ドテラ姿の柴野金十が、片手に敷島の袋を持って、北村の部屋へやって来たのである。見ると、二人は顔形から年《とし》かっ好《こう》まで、お互が「似ているなあ」と感じる程、そっくりなのだ。彼等はその相似《そうじ》を意識し合った丈《だ》けで、すっかり好意を感じてしまった。

 突然の邂逅《かいこう》にも拘《かかわ》らず、彼等の問にはスラスラと会話が進んだ。そして、鳥渡《ちよつと》の間に、お互がお互を理解し合うことが出来たのである。

 北村が、そして恐らく柴野も同様であったに相違ないが、何よりも愉快に思ったのは、相手が自分と同じ様に、エクセントリックなことであった。いや、エクセントリックよりは、むしろアブノルマルといった方が適当かも知れない。彼等はそろいもそろって、浅草《あさくさ》がすきであった。浅草の中でも、六区の江川一座の玉乗りがすきであった。場末の縁日に出るのぞきからくりがすきであった。地獄極楽の生人形《いきにんぎよう》がすきであった。「八幡のヤブ知らず」がすきであった。そして、彼等は声をそろえていうのである。

「何よりも活動写真ですよ。それもあたり前のじゃいけない。ジゴマ、ジゴマ、それから、ファントマ、プロテアー」

「君も随分《ずいぶん》変ってますね」やがて柴野金十が我が意を得たという調子で、「耽異者とでもいいますか、これは僕が勝手にこしらえた言葉ですが、異《い》に耽《ふけ》るですね、異常なことを探しまわって、そいつに耽るのですね。こんな家《うち》へ来るというのも、やっぱりそれですよ。この汚《けが》らわしい、殺風景な部屋で、ひがみきった商売女と遊ぶというのも。エ、そうではありませんか」

「なる程、なる程、耽異者とはいい言葉ですね。第一字面が気に入りました」北村五郎はしきりに首を振って、「じゃ、じゃ君はきっと、探偵小説がすきだと思いますが。どうです。当りませんか」

「当りました」柴野はもううれしさに相好《そうごう》をくずしながら、「そうですよ。僕は探偵小説気違いですよ。サア・アーサア・コーナン・ドイル、エドガア・アラン・ポオ、デュパン、ホームズ、ソーンダイク、そして、ルコック先生ですか。君も無論《むろん》あれがおすきでしょうね」

「すきどころですか、僕は自分が作って見たことさえありますよ」

「それは妙だ。僕も書いて見たことがあります。そして、君のは、どっかへ発表しましたか」

「それがね、送るには送って見たのですけれど、駄目ですね、日本の編輯者《へんしゆうしや》なんて、てんで探偵小説を知らないんですからね。音沙汰《おとさた》なしです。原稿も返してはくれません。彼等は、自動車、ピストル、覆面そんなものが出てこないと探偵小説でないと思っているのでしょう。まるで問題になりませんよ」

「僕はどこへも送りませんが、送った所で、無論採用しないでしょう。一度君のお作が見たいものですね」

 そして、彼等の間には探偵小説談の花がさいたのである。フランスやイギリスやアメリカの十数人の有名な作家達が、彼等のヤリ玉に上《のぼ》った。ルコックはあまりに鈍物であり、デュパンはあまりにペダンティックであり、彼等を非難したホームズ自身も、若しワトソンという白痴が側《そば》にいなかったら、どれ程見劣りがしたことであろうなどと、まるでそれ等《ら》の人々が、歴史上の実在の人物ででもある様に、彼等は口角《こうかく》あわを飛ばして論じたことである。




 その夜のことがあってから、二人は、十年の知己《ちき》の如《ごと》く、親しい間柄になってしまった。お互に、まだ独身者で、貧乏で、北村の方はこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロしているし、柴野は柴野で、夜間丈け働くこうもりの様な仕事を、それも怠《なま》け怠け勤めながら、ある場末の荒物屋の二階に間借《まがり》している身の上であったが、この境遇の類似が、甦に彼等を近づけたものに相違ない。

 ほとんど毎日の様に、どちらかが、相手の宿を訪問した。そして、ある時は、ドストエフスキーを論じ、アンドレープを批評し合っているかと思うと、アーア、金がほしいな。ここに百万円あったらなあ、「アルンハイムの地所」だとか、「ランドアの屋敷」だとか、あるいはまた、「金色の死」だとか、あれまでには行かずとも、せめてあの百分の一のぜい沢《たく》でも丗来るのだがなあ。いっそ思い切って、大泥棒になるか。ジゴマの様な、あるいはリュパンの様な。

「だれかが調べた所によると、警察沙汰になるものは、実際行われている犯罪の五パーセントに過ぎないというじゃないか。しかも、その警察沙汰になったものの内、幾割かは、うまく逃げて、永久に処刑を免れているのだからね。我々が考えに考えてやった犯罪なら、滅多に見つかるはずはないよ」

 それには、どうして、こうしてと、その詳細な計画まで立てて見るのである。だが、所詮《しよせん》彼等は善人である。あるいは臆病者といった方が当っているかも知れない。机の前に寝転んで、煎餅《せんべい》をかじりながら、恐ろしい計画を立てること丈けは、実際の泥棒以上なのだけれど、さて実行となると、無論出来っこないのは知れているのだ。(少くとも、当時はそうであった。なぜといって、この物語りの終りは、彼等の内の一人か、あるいは二人共、必ずしも善人でなかったことになっているのだから)そんな悪だくみにふけるかと思うと、彼等はまた、普通の人から見れば、まるで小学生の様な無邪気な遊戯に、夢中になっていることもあった。

 顔を見さえすれば、彼等は口ぐせの様にいうのだ。

「退屈だ退屈だ。何とまあ生甲斐《いきがい》のない人生だろう。何か変ったことはないのか。お前はそれでよくも生きていられたものだな。オイ柴野金十」

 すると柴野が、それと同じ文句の終りへ「北村五郎」とつけて、それを相手に返上するのである。

 そんなことをいいながらも、退屈な時間のありあまる彼等は、何かしないではいられなかった。そこで、選ばれた遊戯というのが、こんな風の物なのである。

 花合せも、トランプも、さしでは一向面白くない。碁将棋は、柴野の方が段違いに強くて、

二局は続かず、そうかといって、職業当て(一種の当《あて》もの遊戯)の遊びも、発見した当座は興《きよう》がったけれど、なれてはこれもつまらない。そこで、結局落ちて行ったのが、「ごみ隠し」と称する遊戯であった。北村はそれを、小学校の一二年の頃、学校の遊戯場の土の上で、よくやったものである。二人の子供がジャンケンをして、負《まけ》た方が鬼になり、目を隠してまっていると、もう一人の子供が、定められた区劃《くかく》の土の中へ、定められた小さな木切れなどを、隠すのである。そして「もういいよ」という合図と共に、鬼がそれをさがすのである。その地面は平たんなものではなくて、草などが生えているし、定められたごみ以外に色々類似のものが落《おち》ているので、さがすのになかなか骨が折れる。機智のある子供は、それをわざと土中に隠さないで、最も目につきやすい場所へほうり出しておいて、土の一部を掘返して、さもそこへ隠した抄の様な偽証を作っ、ゐりするので、益々《ますます》面白くなる。まあ一種の探偵ごっこなのだ、それを北村の地方では、「ごみ隠し」と呼んでいた。

 ある日、北村は、その子供の時分の遊びを、ふと思出《おもいだ》したのである。そして、少し方法を変えて、柴野と二人で、二十幾歳の彼等が、その子供の遊びをやって見ることにしたのである。地面の代りに机の上が隠し場所と定められた。隠す品は一枚の葉書《はがき》で、それを、机の上にある硯《すずり》だとか、筆立てだとか、インキつぼだとか、本だとか、時計だとか、敷島の箱だとか、煙草《たばこ》の灰皿だとかの間へ隠すのである。柴野が目を閉じていると、その間に北村は、葉書を丸めて、巻煙草の芯を抜いた跡へ隠して見たり、筆の穂先をもいで、竹の軸の中へ丸めた葉書を押込み、また先の様に穂先をさして置いたり、あるいは葉書に一面に墨をぬって、黒い机の表面に、見分けのつかぬ様に張つけて見たり、その他様々のトリックを弄《ろう》するのである。すると、柴野は、それぞれ、灰皿の中に新しい煙草の芯が落ち散っているのや、筆立ての筆の位置の少しばかり変っていることや、硯の中の筆がぬれていることなどを、手掛りにして、一度一度葉書の隠し場所をさがし出すのである。馬鹿馬鹿しいことなのである。

 だが、このやくざな遊びが、彼等を甚《はなは》だ喜ばせたものだ。そして、類似の室内探偵遊戯が、様々の変った方法によって続けられたのである。

 知らぬ人の持物を借《かり》て来て、その持主の性別、年齢、職業|等《とう》を当っこしたり、あるいはまた、後年ポール・モーランの有名な小説によって紹介せられた、「各自の長所と欠点の表に自分で自分の点数をつける」あの遊戯さえも、彼等は、已《すで》に試みていたものである。たとえば、柴野が北村の「変態」の項に、八○点を与える。すると北村は、そこへ一〇〇点と自分自身を評価するのである。「自惚《うぬぼれ》」の項に、相手が一〇〇点をつけると、北村は一寸恥し相《そう》な顔をして、自分では八○点を与えるのである。そして、この種の様々の項目について、北村だけでなく、柴野の評価もするのだ。彼等はこの遊戯から、自己暴露の快感と、互に評価し合う時の、いうべからざる戦慄とを、こよなきものに味《あじわ》うのであった。




 一方において、彼等は決して探偵小説を忘れなかった。病的にまで退屈し切っている彼等にとって、毎月幾十となく発表せられる小説などは、最早《もは》や何の刺戟《しげき》をももたらさなかった。あらゆる読み物の中で、探偵小説だけが彼等を虜《とりこ》にした。彼等はこの探偵小説によって、また色々な遊戯を行うことが出来た。たとえば柴野がドイルの「恐怖の谷」を朗読するのである。すると、北村は、作中のある人物の食慾が、甚だしく増したという所まで読むと、犯人がその人物の部屋に隠れていることを指摘するのである。そして、名探偵にでもなった気で、甚だしく得意がるのだ。ある時は一人が探偵小説を創作して、他の一人がその結末をいいあてる、即ち探偵会話ともいうべき遊戯を行うこともある。それが嵩《こう》じると、今度は、またしても探偵小説が書き度《た》くなるのだ。

 やがて、彼等両人の書きためた、探偵小説の反古《ほご》が、一篇二篇とその数《すう》を増して行った。彼等はいうまでもなく「空想的犯罪生活者」であった。一篇を書く毎《ごと》に、一つの罪悪を犯した様な気がした。あるいは美事《みごと》大犯罪を探偵した様な得意を感じた。

「どうだい君、こうして書きためるばかりが能でもなかろう。一つどっかへ送って見ては」ある時柴野が提議した。「それは最初の時は黙殺されたとしても、編輯者によっては、認めてくれないものでもなかろう。一度発表されたら、こうした『探偵趣味』は、一般の読書界にもきっとあるに相違ないんだ。そして存外|受《うけ》るかも知れないよ。是非《ぜひ》送って見ようじゃないか」

 北村とても、それをいい出そうと思っていた際だったので、早速この提議は成立した。

「そうだね。このすばらしい魅力を、我々丈けで独占しているのは勿体《もつたい》ないね。世間の退屈屋達にも、少しおすそ分けがしてやりたいね」

 そして、結局彼等は、夫々《それぞれ》、最も会心の作一篇ずつを、ある雑誌社へ送ったのである。

 ところが、結果は案外良好であった。彼等の作品は引続いて発表せられ、その上予期しなかった過大の賞讃すらを、博することが出来た。外国の探偵小説を読んでいた人々は、日本にもその真似事《まねごと》見た様なものが生れたのを喜び、そうでない人達も、いつの間にか彼等の作品にひきつけられていた。図に乗った二人は、書きためてあった古原稿を、矢つぎ早に発表した。そして、僅少なる探偵趣味家の間にではあったが、彼等は一作毎に、虚名を高めて行くことが出来たものである。

 だが、彼等はそろいもそろって、何とまあ並々ならぬ退屈屋であったことであろう。半年もたたない内に、もうその探偵小説稼業にあきはじめていたのである。といって、原稿料というボロイ金儲《かねもうけ》に味を占めた彼等は(彼等にとっては、探偵小説を書くことそれ自身が、この上もない快楽であった。それに対して報酬をもらうなんて確かにボロイ仕事に相違ない)今更《いまさら》、筆を捨てる気にはなれないのであった。

 そこで、彼等はどういう方法をとったか。それがお話なのである。一方では執筆の感興を増して、より以上面白い物語りを綴《つづ》る為《ため》に、また一方では、そろそろ頭をもたげて来た、底知れぬ退屈を慰《なぐさ》める為に、徐々に大それたいたずらを、そして、ついには恐ろしい犯罪をさえ行うに至った、そのいきさつを書記《かきしる》すのが、実はこの物語りの目的なのである。




 ある日のこと、北村五郎が妙な提議をした。

「ね、君、こういうことはどうだろう。僕が君の名前で探偵小説を書くんだ。君も同じ様に僕の名前で書くんだ。つまり、名前のとりかえっこだね。無論文章のくせから、筆蹟《ひつせき》から、お互に真似合って、どう見ても偽物《にせもの》とは分らない様にするのだ。それで編輯者や読者が気付《きつか》なかったら、こんな面白い遊戯はないね」

「成程《なるほど》、成程」

 柴野は早速《さつそく》合《あい》つちを打った。

「たとえば、たれかが君の作品に悪評を加えたとするね。その場合評者は、てもなく君をやっつけたと思い込んでいる。ところが、滑稽《こつけい》なことには、やっつけられたのは、君でなくておれなんだ。おれがいいものを書けば君の評判がよくなる。君がへまをやればおれが味噌《みそ》をつける。それを知っているのは、広い世界でおれ達二人っ切りなのだ、骨董屋《こつとうや》に頼まれて名画を贋造《がんぞう》する専門家がある。あれは無論金もうけの為にやっているのだろうが、自分の書いた偽物が、高価な名画として通用する。それをたれも疑わない。この魅力は又格別だと思うね。けちな詐欺取財《さぎしゆざい》なんかと違って、世間を相手の仕事だ。幾千幾万の人間をたばかる快感だ。君は多分、文学史上に名を残している、有名な芸術贋造者達の話を聞いているだろう。おれは彼等の心持がわかる様な気がする。ある人にとっては、自分自身の名前が現れることより、こっそり他人の贋作をやって、それをだれもが気づかないことの方が、どれ程愉快だか知れないと思う。これは犯罪|嗜好者《しこうしや》にだけ与えられた快楽だ。どうだい、このおれの考えは」

「成程、成程」

 この道にかけては、彼等両人の意見は不思議な程一致していた。北村の提議は立所《たちどころ》に成立し、その日から彼等は、お互の名前を取かえて、小説創作に着手した。

 間もなく彼等の贋作小説は、相前後して雑誌に発表せられたが、案《あん》の定《じよう》何人《なんぴと》も彼等の悪だくみを看破《かんぱ》することが出来なかった。そして北村のものにはやっぱり北村の味があり、柴野の作品には柴野一流のおもむきがあるといって、称賛《しようさん》しあるいは非難した。

「甘いもんだね」

 二人は顔を見合せて、くすくすと笑うのであった。そして、この最初の試みに味を占めた彼等は、引続き同じ様な色々な悪戯《いたずら》を初めたものである。たとえば贋《にせ》の飜訳がそれであった。彼等は勝手に外国作家の名前を創作して、×××作北村五郎訳などと記して、知合いの雑誌編輯者に送った。欧米に幾十となく探偵雑誌があり、そこには毎月毎月限りもなく新作家が現れているのだ。どんな編輯者だって、それに一々目を通している訳《わけ》ではない。しかつめらしい外国人の名前があって、文章が飜訳|臭《くさ》ければ、そして筋が一通り面白ければ、それは直《ただ》ちに採用されるのだ。何という皮肉だ。一方では真面目な飜訳者達が、お互に誤訳を指摘しあったり、地名人名の発音に至るまで眼に角《かど》立ててせんさくしているかと思うと、一方では一夜作りの創作が、立派にイタリー人何々氏原作として通用するのだ。

「この分では、浮世《うきよ》にはまだまだ面白いことが残っていそうだね」

 北村も柴野も、何という悪魔共であったか、そんなことをいいながら、性《しよう》こりもなくたちの悪いいたずらを続けて行くのであった。

 ある時は、彼等の作品の中へ出て来る人物の名前が、彼等の友人達のそれと寸分違わない様なこともあった。北村の同窓の友達が名探偵になれば、柴野の親友と同姓同名の殺人魔が出て来たりした。普通いう所のモデル問題とは、小説に出て来る人物の性格や所業が、作者の知人などと似ている所から起るのであるが、彼等の場合はその反対で、彼等の知人の名前が、探偵小説のことだから、多くの場合悪漢などに冠《かん》せられるのだ。名前を使われた人は馬鹿馬鹿しくて文句もいえない。といって決して気持がよくはない。それを想像して、彼等は私《ひそ》かに笑っているのだ。



 だが、そんな子供らしい悪戯がいつまでも彼等をひきつけることは出来なかった。彼等の間にはまたしても、不思議な智恵比べの遊戯が始められたのである。智恵比べといっても、もうそれは以前の様な、探偵問答やごみ隠しではなかった。もっともっと罪の深い遊戯なのだ。

 ある日のこと柴野金十が北村の下宿をおとずれて、こんなことをいい出した。それが事の起りであった。

「君とおれとで、一つ探偵ごっこをやろうじゃないか。おれはこういうことを考えついたのだよ。浅草のキネマクラブだね、あすこへおれが何かに変装して行ってるんだ。それを君が探偵になってさがすのだ。あの薄暗い活動小屋の何百人の見物の中からおれをさがし出すのだ。おれは決して見つからないという自信があるのだが……」

「つまらないね、そんなこと」北村が答えるのだ。「広いったって高の知れた活動小屋だ。丹念に捜しさえすれば、見つかるにきまっているじゃないか。馬鹿馬鹿しいよ」


「じゃ捜し出して見給《みたま》え」すると柴野は意気込んで、「大丈夫君には発見出来ないよ。ただ変装するだけじゃない。そこには心理的な一つのトリックがあるのだよ。めくら滅法に捜したって分るものじゃない」

「馬鹿に自信がありそうだね。じゃ活動見物かたがた君の腕前を発見するとしようか」

 そして彼等の間には、いつ何日《いくか》の何時という約束が成立ったのである。さて当日になると、北村は、柴野の事だから、どうせ女か何かに変装して、ひょっとしたら、本物の娘達を同伴して、男子の近寄れない婦人席にでも潜伏しているのであろうとたかをくくって、指定の活動小屋へ出掛けた。だが、いくらさがしても、柴野の姿は見えないのだ。男子席はもち論、婦人席の隅々までも歩きまわって検《しら》べたけれど、柴野らしい人物は影も形も見せないのだ。

「なる程、これはまんまと一杯食わされた。彼奴《あいつ》はてんでこの活動小屋へ来ていないのだ。それが彼のいわゆる心理的なトリックという奴《やつ》なんだろう。ナアンだ馬鹿馬鹿しい」

 そうきめてしまうと、北村は面白くない日本物の活動写真を一くさり見物して、サッサと宿へ帰ってしまった。そして、その次柴野にあった時にも、忘れた様な顔をしてその事はいい出さなかった。すると柴野は幾分《いくぶん》不満相に、

「どうだい、やっぱり君はおれを発見出来なかったじゃないか」

 と、彼の方から切り出すのであった。

「発見したよ、君が来ていないということを」

「そういうだろうと思った。だがおれはちゃんとあすこにいたんだよ、まあ聞きたまえ。君はあの『大地は輝く』という写真を見ただろうね。あれに浅草|仲見世《なかみせ》の雑踏を写した場面があったのを覚えているかい。その場面の最初の所で、カメラのすぐ前に大きく通行人の顔が入っているんだが、あの顔がこのおれだということを気づかなかったかい。おれの変装というのはね、.活動写真の画面に姿を隠していることだったのだよ。それがトリックさ。ハハハハハハ」

 柴野は仲見世を散歩していて、偶然カメラに入っていたのだ。ふとそれを発見してこのいたずらを思いついたのだ。だが、この落し話し見たいな柴野のいたずらが、計《はか》らずも彼等の大がかりな探偵ごっこの、導火線を為《な》したのであった。それ以来彼等は変装にうき身をやつし始《はじめ》た。おしろいだとか刷毛《はけ》だとか役者の使う様々の顔料だとか、つけ髭《ひげ》がつらの類が用意された。彼等の無気味な変装姿が町から町をさまよった。一人が犯人になると、一人が刑事のまねをしてそのあとを尾行した。犯人は自動車を乗り廻《まわ》して刑事をまこうとした。活動写真の様な追《おつ》かけくらが演じられた。劇場、百貨店、ホテルなどが、彼等の探偵ごっこの舞台になった。

 一方において彼等は探偵小説の筆を絶った訳ではなかった。むしろこれらの遊戯が彼等の創作慾を刺戟し、ある場合には材料をさえ提供した。そして創作と(時々名前を取かえるいたずらはまだ続けていた)探偵ごっこと、また探偵ごっこと彼等の生活そのものとが、段々こんぐらかって行った。どこまでが探偵小説で、あるいはどこまでが探偵ごっこであるのか、何とやらあいまいになって行った。彼等は小説の上で真剣に罪を犯そうとする様に、遊戯の上でも往々にして本気になった。ただ逃げたり追駈《おいかけ》たりしているのでは満足出来なかった。犯人の真似をしている方は、ほんとうに泥棒をし人殺しをしている様な気持になった。刑事の真似をしている方は、本物の極悪人を追跡する気でいた。そして、それが彼等の生活の全部であるかと見えた。





 ある時はこんな事もあった。

 丁度刑事の番に当った柴野は、その日指定されていたあるホテルへ出かけて行った。彼は先《ま》ず帳場に頼んで宿帳をくらせてもらった。だがそこには北村のらしい筆跡はなかった。相手は必ず泊客《とまりきやく》にばけているとはきまらない。コック場に忍んでいるかも知れない。臨時|雇《やとい》の小使《こづかい》に姿をやつしているかも知れない。それともまた泊客を訪問して、その部屋に隠れているかも知れない。柴野はさも本物の刑事らしく敏捷《びんしよう》に立まわって、ホテルの廊下から廊下へとさまよい歩いた。そしてどこの隅にも北村のいないことを確かめると、第二の指定場所のY公園へと自動車を駆った。公園をくまなくさがしたけれど、ここにも北村の影はなかった。不思議に思いながら彼はだんだん公園の奥へ入って行った。そして、いつの間にか公園をはずれて、ある共同墓地へさしかかっていた。

 ふと気がつくと、彼のうしろに人の足音が聞えた。もうたそがれ時であった。あたりには外《ほか》に人影もなかった。柴野は妙な気持になった。

「オイ、手を上げろ」

 突然うしろから声が聞えて来た。ハッとして振向くと、一人のおどけた身なりのサンドイッチマンが、ピストルの筒口をこちらに向けて立っていた。真赤な着物を着て、身体《からだ》の前とうしろに大きな広告看板を下げ、顔には道化役の面をつけ、長いだんだら染《ぞめ》の帽子をかむっていた。

 柴野があっけにとられて、思わず手を上げた隙に、相手のサンドイッチマンは、恐ろしい敏捷さで、彼をそこの立木に縛《しば》りつけてしまった。そして、いきなり仮面をとると、

「刑事さん、ざまはないね。まあごゆっくり、そうして景色でも眺めていらっしゃい」

 そんな悪態をつきながら、サッサと向うへ行ってしまった。いうまでもなく、それが当の北村であったのだ。思い出すと、柴野はホテルの玄関で、公園の入口で、有名な銅像の下で、あるいは噴水のそばで、絶えずそのサンドイッチマンを見ていた。ある時などは、その手から広告ビラをもらいさえした。サンドイッチマンなどというものは、ちょっと人間という感じがしないものだ。往来の郵便箱や電信柱と同じ様に、すぐ目の前にいても、ふと無視してしまうものだ。柴野はまんまと、北村のこの巧みなトリックにかかったのである。

 そのことがあって暫くすると、柴野は「サンドイッチマン」という探偵小説を発表して喝采《かつさい》を博した。無論彼等の探偵ごっこが材料となったのだ。

 またある時はこんなこともあった。

 それは柴野が犯人の役を勤め、非常に風変りな変装をこらして、あるさかり場で北村を待合わした時であった。変装は我ながら感心する程の出来栄えであったし、場所は肩摩轂撃《けんまこくげき》の雑踏の中だったので、これならてこずるだろうと安心しきっている所へ、相手は人波を押し分け近づいて、少しも変装しない柴野を見つけるよりも、もっと楽々と彼の仮面をはいでしまったのである。

 柴野はあまりのことにあきれ返って早速に言葉も出なかった。すると、北村は彼の顔を眺めて、ニヤニヤ笑いながら種明しをするのである。「驚いたかい。ナニ何でもないことだよ。実はおれはあらかじめ君の変装を知っていたのだ。この人中では、その妙な変装がかえって目印になったよ」

「じゃ、ひょっとしたら君は」柴野が何かに気付いた様にいうのだ。「家《うち》を出る時からおれを尾行していたのじゃないか」

「そうじゃない。そんな卑怯《ひきよう》なことはしないよ。それに君の方でもその点は充分注意をしているから、家の前から尾行するなんて、とても出来るものじゃない。家を出る以前だよ。君が変装しつつある所をすっかり見てしまったのだよ。おれは君が外出している隙に、君の宿の人をごまかして君の部屋へ上り込んだ。そして、押入れの天井板をはずして屋根裏へもぐり込んだのさ。天井板には節穴がある。そこからじっと君の部屋をのぞいていたのだ。君はどっかから汚い着物を持って帰って来たね。そして、手際《てぎわ》よく変装をやったね。おれはすっかり見ていたよ。それから、君が家を出るのを待って、しばらくしてからブラブラここへやって来た。しくじる気遣《きつか》いはないからね。途中でカフェによったりして、ゆっくりやって来たのだよ」

 そして北村はまた、こんなこともいった。

「その天井裏からのぞいている時にだね、おれは色々面白い空想をめぐらして見たよ。第一妙なのは、天井裏は隣の家と共通になっていることだ。下では雨戸だとか格子《こうし》だとか厳重に出来ているけれど、一歩天井裏に入って見ると、何の境界もない臑つぱなしだ。暮し隣の人が悪気《わるぎ》があって、君の部屋を窺《うかが》おうとすれば、天井裏に上りさえすればいいのだ。そこから君の部屋の押入れの中へおりて来て、盗みを働くことも出来る。日本の家屋なんて実際変なものだね」

 北村は更に言葉を続けていうのだ。

「ところでね。おれはそこで大変なことを空想したのだよ。というのは、今の節穴から見ていると、色々に体を動かして変装している君の顔が、時々上を向くのだ。そして、君の大きく開《あ》いた口が、丁度節穴の真下へ来るのだ。エ、これが何を意味すると思う。若しもおれが君を殺そうと思えば、その節穴から毒薬をたらせばいいのじゃないか。君の口の中へさ。どうだい、この考えは」

 そして、そのことがあってからしばらくして、北村は「天井裏の密計」という探偵小説を発表したのである。

 ところが、北村の意気込みにもかかわらず、その作品は一向賞讃をかち得なかった。彼の読者達はいうのである。

「あれは柴野氏の『サンドイッチマン』の模倣だ。若し前に『サンドイッチマン』という名作が出ていなかったら、面白いものには相違ないのだけれど、あれのあとで書かれたのでは、またかという気がする」

 つまり北村は柴野の作のまねをしたものに過ぎないというのであった。そういわれれば、成程材料の扱方《あつかいかた》に似通《にかよ》った所がないでもなかった。

 北村五郎と柴野金十はこの批評に接して、苦笑を禁じ得なかった。なぜといって「サンドイッチマン」を書いたのは柴野であったけれど、そのトリックを創作したのは北村なのだ。今北村の作品が「サンドイッチマン」の模倣だといって非難されるのは、とりも直さず北村が北村自身を模倣したといわれることなのだ。そればかりか、彼等はお互に名前を取り替えてさえいる。読者はそれも知らないで、とや角《かく》と彼等を批評しているのだ。

 それは兎《と》も角《かく》、彼等の探偵ごっこは、斯様《かよう》にして段々深刻になって行った。彼等は時として、お互がこわくなることがあった。相手は何時《いつ》どこで、どんな悪だくみをめぐらしているか分らないのだ。柴野は相手が天井の節穴から自分を眺めて、毒薬をたらすことまで考えたかと思うと、異様な気味悪さを感じないではいられなかった。北村の方でも、相手に同様の恐れをいだいた。

 そして、もう一つ悪いことには、彼等はまたしても、その探偵ごっこにあき始めていたのだ。あとには何がある。今度こそ、本当の泥棒本当の人殺しの外に、彼等の興味をつなぐものはなくなったのではあるまいか。

 彼等は銘々に、自分達が既《すで》に犯罪の真似事では満足出来なくなったことを感じていた。と同時に、相手の心持を察して一種の戦慄を禁じ得なかった。彼等は時として、じっと顔を見つめ合うことがあった。それはさも「お前もか」「お前もか」と何かをうなずき合う様に見えた。



 ある日のこと、北村五郎の下宿の部屋で(下宿といっても、その頃はもうけちな書生下宿を引はらって、何々ホテルと名のつく様な、いわば高等下宿におさまっていたのだが)主人公の北村と、柴野金十とが相対《あいたい》していた。

「おれは今度こういう筋の探偵小説を書くつもりだが、一つ聞いてくれないか。そしてこいつは君の名前で発表するか、それとも僕の名前にするか、きめようじゃないか」

 柴野金十がこう初めたものである。すると北村五郎、

「よかろう。話したまえ」

「例によって変態者が主人公だが、少し風変りで、桃色の洋封筒かなんかに女らしい文字を書いてだね、そいつを自分|宛《あて》にして送るのだ。わざわざ遠方のポストまで入れに行く訳だね。そして、自分自身でも、それをさも本当の、どこかのお嬢さんから来た恋文の様に、胸をワクワクさせて読むんだし、その上、友人|等《ら》にも、わざと机の上にその手紙を出しておいて、先方が好奇心を起す様に仕向け、大いにのろける訳だ。本人はそれで本当に恋をしている様な気持になれるのだ。つまり変態者だね」

 柴野は、どうだ名案だろうといわぬばかりに、鼻をうごめかしながら話しつづける。それを北村はどういう訳か、ウンウンと返事はしながらも、妙にそっぽを向いてニヤニヤ含み笑いをして聞いている。

「それが嵩じると、手紙で媾曳《あいびき》の場所を示し合せて(無論架空の人物とだよ)主人公はわざわざそこへやって行く。そしてたとえば公園のベンチなどで、ひとりぼっちで永い退屈な時間を費《ついや》して、帰って来ると、おれは今日どこそこで、例の女とあって来たなんて、ふれまわるのだ。どうだいこの気持は。それからまた、隣の部屋に友達のいる時を見はからつて(主人公は下宿をしていることにする方がいいかな)自分の部屋に女客がある様な声色《こわいろ》を使う。彼が自分の声と、架空の娘のやさしい声とを、代り代りに使い分けて、つまり独り芝居をやるのだ。それが真夜中の人の寝鎮《ねしず》まった時分なんかだと一層効果があるわけだね。ここで凄味《すごみ》を出すんだ。壁一重《かべひとえ》隣の部屋で、ふと目をさまして、二人のひそひそ話を聞く男の心持を予期しながら、真面目くさって寧《むし》ろ真剣になって、恋のひとり芝居に陶酔している主人公、一寸面白く書け相《そう》じゃないか」

「なる程、なる程」

 北村は今にもふき出し相になるのを、やっと堪《こら》えながら合槌《あいつち》を打つのである。柴野は(空想的犯罪生活者なんて多くお人好《ひとよし》なものであるが、いや本当の犯罪者だって、ひょっとしたら世間のレベルよりお人好なものかも知れないが、柴野と来てはそれが人一倍であった)相手の顔色には少しも気づかないで、得々と語りつづける。

「それだがね、主人公がただ虚栄心みたいなものだけでやっているのだったら、大したこともないが、彼は他人に見せること以上に、自分自身で喜んでいるのだ。そうして一人芝居をしている彼の目には、あるいは相手の娘が、まざまざと見えているかも知れない。それが彼の前で様々の嬌態《きようたい》を示し、痴語《ちご》を吐くが如くに、幻想しているのかも知れない。まあそういった事柄を、賑《にぎ》やかに長々と書く訳だね。で、結局一人の男が彼の所業とさとって、いたずらをやる。たとえば、彼が媾曳の手紙を出すと、彼の先まわりをしてその返事を架空の娘の名前で送るんだ。主人公は非常に驚く。架空の人から本当の手紙が来るんだからね。それからその男が様々のトリックを弄して、主人公を驚かせたり苦しめたりする。しまいには、女の友達を舞台に上《のぼ》せて、いよいよ主人公を有頂天《うちようてん》にさせる。それから犯罪だ。主人公がその男のトリックにかかって、罪を犯す様なことになる。どんな犯罪にするかまだ未定だがね。で、結論は、犯罪と思ったのが、やっぱりその男のトリックだったという、例の常套的《じようとうてき》オチだ。外に仕様がない」





「ヤレヤレ、またしてもうそだったで落《おち》か。我々もいい加減にそいつを卒業しなけれや駄目.だね」北村は聞き終っていうのだ。「ところで、その筋はなかなか面白い。オチが未定なのは残念だけれど、主人公の異常な心理は面白い。だが、君はその話をどっからか剽窃《ひようせつ》して来たのじゃないかい。たとえば古い読本だとか、又は他人の話だとか」

「馬鹿いうな。おれの創作だよ。そういう心理はいつ考え出したのかはっきりしないけれど、いよいよ書いて見ようと思って、筋をまとめる気になったのは、たった昨日の事だよ。剽窃なもんか」

 柴野はむきになっていうのである。すると北村は意地の悪い薄笑いをうかべて、

 「確かに間違いないね」

 「確かに間違いない」

 「じゃいうがね、その筋はおれが考えて、大分以前だが、やっぱりここで、君に話したのだよ。それはおれの創作なんだよ。ハハハハハ。とうとう、君の早発性痴呆の確証を上げることが出来たね。どうだ降参か」

 「君から聞いたのだって。これはおかしい。そういわれても、おれはまるで覚えがない。君はいつもそんなことをいう。おれも確かに忘れっぽいこどは忘れっぽいのだが、まさか君から聞いたことを、又君の前でのめのめとしゃべるなんて、そんな馬鹿な」

 「アレ、まだいっている。本当に君の健忘症は最早《もはや》膏肓《こうこう》に入《い》れるものだね。考えて見たまえ。たしか先月の第二の日曜だった。やっぱりこの部屋で話していて、そうそうそこへ同宿の木村《きむら》君も来ていたじゃないか。二人の前で話したんだよ。嘘だと思うなら、あの人に聞いて見るといい」

 「そうかなあ」柴野は少しこわくなって、真面目な表情をする。「多分君のいうことが本当だろう。いつでもそうだからね。すると、おれはいよいよ病気かな。きっと何かの天罰だね。

「何とかいったね、早発性痴呆か、それの徴候《ちようこう》をくわしく知っているかい」

 「知らない。君の様なのが果して早発性痴呆かどうかもはっきりしない。だが、何となくその名称が君にふさわしい様な気がするんだよ」

「オイオイ、ひどいことをいうな。でも、ちょっと怖い気がするなあ。おれは昔から記憶というものを軽《けい》べつしていた。記憶力が強い奴は判断力がにぶい、つまり馬鹿だという考えに影響されたんだね。一つはその罰かも知れない。君にいわれなくても、おれも多少気づいているが、この頃の様にひどくては、不便で仕様がない。時々約束をすっぽかして、知らん顔をしていることがあるからね」

「だろう。いよいよ脳をおかしはじめたんだよ、何かの毒が。実際君の忘れ方はひどいよ。健忘症なんていう、やさしいのじゃないよ。もうおしまいだね」

「しゃくだなあ。おれは確かに頭はいいのだがな。人から聞いた小説の筋を忘れる様じゃ、本当におしまいだ。これから絶対に書けないことになるからね。だが、君はうまくかついでいるんじゃないかい」

「そんなにいうなら、証拠を見せてやろうか。その時のおれの話にはちゃんとオチがついているんだよ。それを話せば君はきっと思い出すだろう」北村はなぜか友達が痴呆症であることを望むものの様に、意地悪く続けるのだ。「その主人公は、君はいうのを忘れた様だけれど、非常に醜い容貌の持主なんだよ。彼の変態遊戯はそこから来ているんだよ。で、最後に、友達になぶられたり、外《ほか》に境遇上の原因があったりして、とうとう死ぬ決心をするのだ。若い身空で恋もなく、生きているのが、つくづくいやになったのだ。ところで彼もまた、世間の恋愛至上主義者と同じく、恋の極致は情死の外にないと信じている男だった。どうせ死ぬ位なら、せめて、うそでもいいから情死の真似がして見たいと思った。どうだい、まだ思い出せないかい」

「ウン、何だか聞いた様な気もするけれど」

「そこで彼は、恋文を創作したり架空な恋人を作ったりしたのと同じ筆法で、今度は情死の相手を創作しようと決心した」

「アアそうか、やっと思い出した。男と女の連名の遺言状を用意して、よく轢死者《れきししや》のある踏み切りへ出掛けて行く、あれだろう」

「そうだよ。あて名は漠然と『皆々様』位にして、女の名前は『不孝なる娘より』とでも書いて置くんだね。そして、若い女の自殺者をまっているのだ。『魔の踏み切り』なんていう、非常に自殺者の多い場所があるもんだ。そういう所をさがしてまわるのだね。やがて、とうとう適当の相手を見つける。汽車が間近く迫って、女が線路へ飛び込むと、主人公も無断でそこへ一緒に飛び込む。そして二人はさも情死らしく、抱き合って死んでいるのだ。もっとも女が遺言状を書いてい。ては駄目だが、そこは何とか考えるさ。それとも女の遺言状で、折角《せつかく》の主人公の目論見《もくろみ》がオジャンになるというので幕にしてもいいがね」

「どうもそこが少し不自然だね。遺言状などはぶいてしまう方がいいかも知れないよ。あんまり小刀細工だからね」

「だが、僕達は今小説の筋を相談しているのではなかった。それも忘れてしまったのじゃあるまいね。君が忘れっぽいということを証明しつつあるのだよ」

「そうそう、それだね。なる程聞いて見れば、この筋は君が考え出したものらしいね」




 そのことがあってから、柴野は非常に彼の記憶力を気にし出したものである。尤《もつと》も彼は以前から忘れっぽい男で、「君と話していると馬鹿馬鹿しくなる。今いったことをもう忘れているんだからね」などと、しばしば北村に非難されてはいたのだけれど、まさかその健忘症が小説の筋にまで及ぼうとは思わなかった。「早発性痴呆」という言葉が、薄気味悪く彼の胸を打った。

 その後も似た様な事柄が度々《たびたび》起って、柴野は益々自分の記憶力を疑う様になって行った。彼は小説書きである丈けに、それが恐ろしかった。得々として発表しているものが、たれにも分る様な剽窃だったら、これ程はずかしい不様《ぶざま》なことはないのだ。

 ある時はまた、こんなこともあった。

 北村は以前写真道楽にふけったことがあって、その名ごりの写真機械が行李の底に残っていたが、ある日のこと、例によって柴野が彼の下宿をたずねると、突然彼はそれを持出して、君を写してやるのだといって、柴野の姿をレンズにおさめたものである。柴野は妙なことをすると思ったけれど別にとがめることもないので、そのまま話し込み、夜になって自分の宿に帰った。

 すると、その翌日、めずらしく北村の方から柴野をたずねて来た。

「昨日はなぜ君の写真を写したか知っているかい」

 北村はニヤニヤしながらいうのである。

「実はね、君の早発性痴呆を確実に思い知らせてやろうと考えたのだよ。さあいって見たまえ、昨日君はどんな服装をしていたか。洋服か和服か、和服ならどの着物だったか」

 柴野はそれを聞くと、幾分不快を感じないではいられなかった。この男は何ぜこんなに執拗《しつよう》に自分の弱点をいい立てるのであろうか。考えて見ると、柴野が彼の記憶力をこうまで信じなくなったのは、一つは北村の絶え間なき暗示のせいかも知れないのである。柴野はいくらか北村を畏敬《いけい》している点があるので、知らず知らず彼の暗示にかかっていたのかも知れないのである。

 だが昨日どんな着物を着ていたという質問は、あまりといえば人を馬鹿にしている。彼は外出着として一着の洋服と、二着の和服を用意している。そして、その日の気持によって、洋服を着たり和服を着たりするのだが、昨日は洋服を着ていたことをハッキリ覚えている。

「洋服だよ。いくらなんだって、まさかそれまで忘れる程|耄碌《もうろく》はしないよ」

「エ、洋服だって」すると北村はさもあきれた顔つきで、「じゃこれを見たまえ。君の痴呆症が、どれ程救い難きものだか」

 見るとそれは昨日写した写真であったが、意外にも、そこにはちゃんと和服姿の柴野が写っているのだ。

「おかしいな。たしかに洋服を着たはずなんだがね」

「だってまさか写真が間違っているともいえまい。これで君も、自分の病気がハッキリわかっただろう。君はいつも、おれが意地悪でいう様にとるけれど、決してこんなことで優越を示そうとするのじゃない。真面目に君の身体を心配しているのだよ。何とかしなきゃ、取返しのつかないことになるよ。どうだい、一度専門の医者に見てもらっては」

「ウン、そうだね」

 柴野は流石《さすが》に恐ろしくなって来たものである。で、その時には、是非《ぜひ》何とかするつもりになるのだが、根がその日暮らしの刹那《せつな》主義者である彼は、つい外の事に取まぎれ、医者に見てもらおうともしない。一つには、それが恐ろしくもあるのだ。

 やがて、彼のこの病気は、日にましひどくなって行った。話をしていても、どれが自分の意見で、どれが他人の意見だか、区別がつかなくなって来た。さも大発見の様に、一つの説を述べ立てていると、それが意外にも、以前に聞いたことのある、相手の意見だったりすることがしばしばあった。

 「しばらくあわなかったね」と挨拶《あいさつ》すると、「何をいっているのだ。昨日あったばかりじゃないか」といって笑われる様なこともあった。柴野は変な気持になって行った。現実と夢幻との境がだんだんハッキリしなくなって行った。

 「おれは一体起きているのか眠っているのか」

 そんな滑稽《こつけい》な疑いさえ起るのであった。

 「君はすべてのことを、形だとか数だとか時間だとかで、ハッキリ記憶するのでなくて、ボンヤリと空気で感じているらしいね。たとえば一つの説を吐いても、それを確実に、具体的に論証することは出来ない。記憶がないのだから、したがって論証の材料を持たないのだ。そういう場合に君は口ぐせの様にいうじゃないか。証拠はないサれど空気で感じているのだ。そしてその直覚は滅多に間違った事がないって。だから、君は空気男なんだよ」

 北村はからかう様に、そんなことをいうのであった。そして、いつの間にか、柴野は空気男というあだ名をつけられてしまった。

 ある時北村は「空気男」という表題で一篇の小説を発表した。そこには、その小説の主人公が(それはとりも直さず柴野のことなのだ)如何《いか》に記憶力に乏しいか、そしてそれがどんなに危険なものであるか、ということが条理をつくして記述されてあった。




 北村と柴野とが前述の様な状態にあった時、一方では、空気男の柴野の知合いである河口《かわぐち》という挿絵《さしえ》画家の身の上に、不思議な事件が起っていた。

 河口は最近妻を失って、情人のお琴《こと》というのと同棲しているのであったが、その変異の起りは、妻の芳子《よしこ》が死んでから一月ばかりたった、あるむし暑い夏の夜ふけのことであった。

 その夜河口は、あけ放した二階の六畳で、眠い目をこすりながら、さし迫った挿絵の仕事に夢中になっていた。

「よくもこんな下らない小説を書いたものだ」

 彼はきたない原稿を苦心して読んでしまうと、そんなことをブツブツつぶやきながら、でも商売の恐ろしさは、その下らない小説の挿絵をかかなければならなかった。

 彼は一枚一枚鉛筆で下書きをしては、その上を墨汁《ぼくじゆう》を含ませたペンでなすって行った。流石に慣れたもので、見る見る、物語にふさわしい夫々《それぞれ》の人物が紙上に現れて来る。何といってもすきな道のこととて、そうして仕上《しあげ》の筆を運ぶ内には、彼は段々愉快になって来て、はては鼻歌まじりに、いつしか時間のたつのも忘れて、仕事に没頭しているのであった。

 夜番《よばん》の拍子木《ひようしぎ》が度々彼の部屋の下を通り過ぎた。ふと算《かぞ》えて見ると、時計の音が少いのに驚いた。明かにもう十二時を過ぎているのだ。

 と、突然下の方から「ギャッ」という異様な叫び声が聞えて来た。うっかりしていた河口には、それがどこから来たものかよく分らなかったけれど、非常な恐怖を現す人間の声らしく思われた。

 何だか、ゾッと寒気のする様な、いやないやな感じのものだった。

「もしや」ふとある恐ろしい考えが彼の胸にひらめいた。彼は思わず、じっと身をすくめて、次に起る物音を聞こうとした。しかし、しばらくの間は何の気《け》はいもしなかった。机の上の置時計のセコンドを刻む音が、彼の心臓の皷動《こどう》と拍子を合せる様に、いやに大きく聞えるばかりだった。

「ハハハハ、何んだ馬鹿馬鹿しい」

 彼は青い顔をして、わざとらしく笑った。「きっと猫か何かが鳴いたのだろう。気のせいだ。気のせいだ」そう思って無理に落ちつこうとしても、一度おびやかされた神経は容易にしずまらぬ。彼はある理由の為に、近頃妙に臆病になっていた。ともすれば、怪しげな幻《まぼろし》が目先にちらついたり変な物音が聞えたりするのだ。

 やがて、ふと気がつくと、たれかが、ゆっくりゆっくり階段を上《あが》って来る様な気がする。たれかといって、階下にはお琴がいる切りなのだから、その他に黙って階段を上って来る者はないはずだが、ゆっくりゆっくり上って来る様子が、どうやらいつものお琴らしくないのだ。彼は思わず一種の身構えをして、じっと階段の方をみつめた。

「あなた」

 だが、階段の所に顔を出して、変にかすれた声でこう呼びかけたのは、やっぱりお琴だった。

「ナンダ、お前か」

 それを見ると、彼はやっと安心して、いくらかおこった様な調子で怒鳴《どな》った。ところが、それに対して、日頃多弁な彼女が、何とも応じないばかりか、見れば、階段を上った所にぐったりともたれかかって、まるで大病人ででもある様に肩で息をしているではないか。

「オイ、どうしたのだ」

 河口は思わず立って行って、彼女を抱えた。

「オイ、しっかりしろ、どっか悪いのか」

 すると、琴子《ことこ》は青ざめた、妙に引きつった様な表情で、キョロキョロあたりを見廻していたが、突然、彼にしっかり抱きつくと、

「怖いッ」

 と叫んで、わなわなと慄《ふる》い出すのだった。

「馬鹿ッ、いいかげんにしろ。子供じゃあるまいし」

 彼は、兎も角も、こう叱《しか》りつけて見たけれど、どうやら彼自身も、襟元《えりもと》がゾクゾクして来るのだ。そこで元気をつける様に、もう一度、

「馬鹿ッ、何がそんなに怖いのだ」

「だって、あなた、あの人が、あの人が……」

「あの人って、どの人だ」「……先《せん》の奥さんの……芳子さんの幽霊が……あなた、あなた、下を見て下さい、梯子段《はしごだん》の下に誰もいやしない?」

「たれがいるもんか。馬鹿だなあ、何かを見違えたんだよ、お前は」

 だが、そういう彼の声も、いくらか慄えていた。そして、そのまま、彼等は長い間だまって顔を見合せていた。彼女の方はうわずった気を沈める為に、彼の方は、急に湧上ったある恐怖をうち消す為に。

 夜ふけの町には少しの物音もなく、そうして相対している二人は、一|寸《すん》ずつ、一寸ずつ、地の底へ滅入《めい》り込んで行く様な気がするのだった。

「アア、恐《こわ》かった」やがて少し元気づいたお琴が初めた。「だってね、あなた。あなたがあんまり遅いものだから、あたし一人で、お先へやすんでたんでしょう。まだ戸がしめてなかったのよ。するとね、ホラ、あの縁側《えんがわ》の手水鉢《ちようずばち》の向うに八《や》つ手《で》の木があるでしょう。あすこの所へね、ポーッと白いものが見えるじゃありませんか」そういって彼女はそっとうしろを見た。「ハッと思って、よく見直すと、まあ、あなた、長いかみの毛をね、こう顔の前へたらして、その間から、こわい目であたしの方を、じいっと見つめているのよ。……あたし、もう今夜は、どうしたって、下へはおりられないわ。……アラ、見違いなもんですか。先の奥さんの証拠にはね、ちゃんと経《きよう》かたびらを着ていたんですもの。頭陀袋《ずだぶくろ》まで下げていたのが、ハッキリ見えてましたわ」

「だが、お前は芳子に逢ったこともないじゃないか。それに、別段|恨《うら》まれる理屈もなし……」

「あわなくたって、あたし写真を見てますわ。そりゃもう、あの写真そっくり……」

 よく考えて見れば、その突差《とつさ》の場合、幽霊の容貌まであらためる余裕など、あろうはずもないのだが、女というものは、兎角《とかく》断定的な物言いをする習いだ。河口は可也《かなり》躊躇《ちゆうちよ》を感じたけれど、でも女の手前じっとしている訳にも行かぬので、勇《ゆう》を皷《こ》して階下へおりて見ることにした。

 狭い借家のことで、階段を降りると、すぐにもう裏の板塀まで見通しなのだ。

「それごらん、何にもいやしないじゃないか。気の迷いだよ、気の迷いだよ」

 だが、そういいながらも、河口が少し不審に思ったことには、庭に通ずる板塀の木戸が、何かしら、今人が出て行ったばかりの様に、少し開《あ》いていて、それがかすかにゆれてさえいるのだった。

「お前、あの木戸は先《せん》から開いていたのかい」

「エエ、あたしうっかりしてましたけど、夕方締りをするのを忘れてた様よ」

 お琴は、彼の背中ヘピッタリくっつくようにして、小さくふるえながらささやき声で答えるのだ。

「そうだ。きっとそうだ」それを聞くと河口は妙に元気づいて来た。「だから、お前が悪いのだよ。だらしがないからだよ。あの木戸から泥棒か何《な》んかがはいって来たのさ。それをお前がいやなものに見違えたのさ。ただそれだけのことなんだよ。馬鹿だなあ、お前は」

 そこで、彼は念の為に庭へ下りて、足跡を見たり、木戸の外を調べたりしたけれど、地面の堅い為に足跡もなく、外の露地《ろじ》にも、別段怪しい人影はなかった。

 それから二人が、やっと落ちついて床《とこ》についた時分には、もう三時がまわっていた。お蔭で、仕事の方は、また雑誌社に済まぬ思いをしなければならぬのだ。でも、その代りには、彼の説得が効《こう》を奏《そう》して、床につく頃になると、あの様に恐れ戦《おのの》いていたお琴も、どうやら神経をしずめて、笑声《わらいこえ》さえ漏らす程になった。

「だって、あたし、しょっちう、先の奥さんに恨まれてやしないか、恨まれてやしないかと、もう気になってしようがないのですもの。まだ三十五日も済まない内から、こうしているんでしょう。あなたにしたって、あんまり寝ざめがよくはないはずだわ。ホホホホホホ」

 だが、こうして、お琴が日頃の多弁を取返して、その口調が滑《なめ》らかになればなる程、それとは反対に、河口の心は、刻々に深まって来る、ある恐怖の為に、重く沈んで行くのだった。お琴がいくらこわがりやでも、泥棒を幽霊に見違えるはずはなかった。かみの毛をふり乱して、経かたびらに頭陀袋まで下げている、そんな泥棒がいるだろうか。身に覚えがあるだけに、彼の方は、琴子の様に一時的の恐怖では済まなかった。彼はその夜一晩中、恐ろしい悪夢にうなされつづけた。大きな鼻の頭に、しっとりと、玉のような油汗《あぶらあせ》をうかべて。

十一


 河口の細君の芳子は、この話の一月ばかり前に、まだ二十三歳という若い身空で、ひょんな不時の災難から、この世を去ったのである。最初は河口の方から大騒ぎをして、多少の無理を通してまでもらった恋女房のこと故《ゆえ》、至極《しごく》夫婦仲もむつまじく、「河口の女房孝行」といえば、友達の間の評判にさえなっていた程だが、それが、結婚して二三年もすると、元来が派手《はで》ずきの河口は、京人形の様に、美しく、しとやかな丈けが取柄の芳子に、段々あき始《はじめ》て、ふとしたことから友達の家で知り合いになった、モデル女のお琴の、蓮葉《はすつば》な、なげやりな、それで恋の技巧などにはすばらしく長《た》けている、いわば近代的とでもいった所に、すっかり打込んでしまったのである。

 流石に始の間は、細君の前をとりつくろって、こっそりとやっていたので、芳子の方では、少しもそれと気付かないでいたけれど、二月三月とたつ内には、そんなことがかくしおおせるものではなく、いつしか芳子の知る所となり、日頃おとなしい彼女も、流石に辛抱《しんぼう》が出来なかったと見えて、夫婦の間にはげしいいさかいの起ったことも、二度や三度ではなかった。だが、そうして家庭が不愉快になればなる程、河口とお琴とのおう瀬《せ》は繁《しげ》くなり、したがって芳子の懊悩《おうのう》は、一日一日とその度を深めて行くのだった。

 それが高《こう》じると、いつの間にか、芳子は憂欝症《ゆううつしよう》とでもいうべきやまいに罹《かか》っていた。よっぴて眠られぬことが、幾晩も続く様になった。河口の身にとっては、それが陽性のヒステリーでない丈けに、却《かえ》ってつらかった。彼は友達の医者に相談をしたりして、色々と彼女の病気を治すことに骨折った。彼女の持薬として睡眠剤をもらって来てやったのも、そうした彼のせめてものわび心だった。無論百の睡眠剤よりも、お琴と切れることの方が、どれ丈け彼女の病気にきき目があるか分らないのだが、それ丈けは、彼にはどうしても出来なかったのだ。

 そんな状態が二一ニケ月も続いたであろうか。が、やがて、ついに恐ろしい破綻《はたん》の日が来たのである。それは過失であったか、故意であったか、それともまた、外の理由からであったか、兎に角も、芳子は睡眠剤の分量をあやまって、とうとう、それがむしろ彼女の希望であったろう所の、永久の眠りについてしまったのである。

 この芳子の不意の死にあった河口は、一時は非常に悲しんだ。いや、少くとも外見上はそう見えた。が、七日と過ぎ、十日半月と日がたつにつれて、彼はいつかその悲しみを忘れ、忘れたばかりか、間接には芳子の死の原因であった所の、情婦のお琴を、ひそかに我家へ引入れさえしたのである。

 こうした事情故、若しこの世に幽霊というものがあるとしたら、芳子がその幽霊になって、彼等両人の所へ恨みを述べに来るというのは至極当然のことであった。その当然である丈けに、彼等としては今度の幽霊沙汰が身にしみて恐ろしく思われるのだ。殊《こと》に河口の方は、当然以上にもっともっと恐れなければならぬ、ある秘密を持っていたのだから。

「写真報知」の廃刊と運命を共にした長篇小説の前半である。記憶力喪失者「空気男」の恐怖を取扱おうとしたものだ。いつか機会があったら、書きつぎ度いと思っている。
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