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伊藤銀月「日本警語史」4


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その三 血に塗れたる武人の鉄腕によって料理せらるる日本史

鴨川の水、双六の采、山法師1-ー武士道の経典における最上無二の鉄律たる警語-叔
父児ー代表的武人の純真なる面目を発揮する警語ー平氏にあらざる者は人にあらず
li水禽の羽音に驚く平氏i驕る平家は久しからずー1二十矢を放って二十人を倒す
者にあらざれば儀衛の任に適せずー天子御謀叛-今日なお悪童を慴伏せしむる権威
を留むる警語-美女の裸体を薄羅に包みたる無礼講ー1-舞動すれば上下四旁ことごと
く白うしてその人を見ず
 いよいよ、生白《なまじろ》く肉|軟《やわら》かなる文人《ぶんじん》の手に弄《もてあそ》ばれたる我《わ》が国史《こくし》は、後《ご》三|条天《じよう》皇の一
|喝《かつ》藤原氏を気死《きし》せしめ給いしと共に巻を閉じられて、血に塗《まみ》れたる武人《ぷじん》の鉄腕《てつわん》によっ
て料理せらるる日本史の頁《ぺ ジ》は始まれり。かくて、予《よ》の警語史《けいこし》もまた旧《ふる》き一段を終結し
て新《あら》たなる一段を開始せざるべからざるなり。
 桓武《かんむ》天皇時代において、すでに、「額《ひたい》に立《た》つ矢《や》はありとも、背《そびら》に立《た》つ矢《や》は無《な》し」の警
語の表現せる如く、特殊《とくしゆ》の発達を認められし坂東武人《ばんどうぶじん》はその後|将門《まさかど》の乱《らん》を経《へ》、忠常の
変を経《へ》、前《ぜん》九年、後《こ》三年の役《えき》を経《へ》、満仲《みつなか》、頼信《よりのぶ》、頼義《よりよし》、義家《よしいえ》等の名将の気呵《きか》を受け、
訓練に訓練を重ねられて、その発達の勢いの盛んなるこど、優《ゆう》に国家の一大勢力とな
りたるが、藤原氏|失権《しつけん》して、宮室《きゆうしつ》時代の絵巻物《えまきもの》過去に捲《ま》き去らるるや、ついに、その
|実力《じつりよく》をもって天下を支配するに到らんとせり。しかのみならず、盗賊《とうそく》の猩獗《しようけつ》、僧侶《そうりよ》の
|横暴《おうぽう》は、時《とき》を追い代《だい》を逐《お》うていよいよはなはだしく、しかして、これを抑《おさ》うべくただ
|武人《ぶじん》の力に依頼するのみなるをもって、力《ちから》これ権《けん》なるの事実ますます顕著《けんちよ》となり、何
時《いつ》しか、牢乎《ろうこ》として抜くべからざるの根柢《こんてい》を築き成《な》すに及《およ》びたり。盗賊《とうそく》問題は必ずし
も云わず、当時、僧侶の横暴の如何《しカ》にはなはだしくして、かつ、如何《レカ》に実力のこれに
伴うものありしかは、第七十二代|白河《しらかわ》天皇が、天下に意の如くならざるものの三を挙《あ》
げたる語《こ》によりて窺《うかが》い得《う》べしと做《な》す。
 自河は後三条天皇の皇太子にして、父皇《ふおう》に位を譲られて立ち給えるもの、父皇が身
をもって天下を率い給いし克己心《こつきしん》を欠如《けつじよ》して、ただその物に屈《くつ》せずして所思《しよし》を断行す
るの気力を伝承《でんしよう》し給い、藤原氏のすでに衰頽《すいたい》して為《な》す無《な》きに乗《じよう》じ、久しく藤原氏に抑《よく》
|圧《あっ》せられし皇室の鬱屈《うっくっ》を代表して、藤原氏の足跡《そくせき》を躡《ふ》みつつ、さらにほとんど藤原氏
の到《いた》らざるところに進み、あたかも、道長《みちなが》が、
  この世《よ》をば我《わ》が世《よ》とそ思ふ望月《もちつき》の欠《か》けたることもなしと思《おも》へば
を歌いしが如く、浮誇豪奢《ふこごうしや》二世を空《むな》しうして、天下|意《い》の如くならざるものなきを自認《じにん》
し給うに及《およ》びたりと雖《いえど》も、しかもなお、自《みずか》ら逞《たくま》しうすることに能《あた》わざるの歎声《たんせい》を発し
給わざるを得《え》ず。「天下|朕《ちん》の意《い》の如くならざるものただ三あり。鴨川《かもがわ》の水、双六《すごろく》の采《さい》、
および山法師《やまほうし》!」の一|警語《けいこ》すなわちこれなり。
 南流《なんりゆう》する鴨川の水を倒《さかし》まに北流《ほくりゆう》せしむること能《あた》わざるは、言《げん》を俟《ま》たざるところにし
て、その大雨《だいう》ごとに氾濫《はんらん》するに臨《のぞ》み、急に水量を減《げん》ぜしむるも、また人力《じんりよく》の能《よ》くする
ところにあらず。さらに双六《すごろく》の采《さい》をして、あるいは一を出《い》だし、あるいは六を出《い》だす
こと人意《じんい》の如くならしむるも、全然《ぜんぜん》不可能の事に属せり。されば元来|意《い》の如くならざ
る性質の物を挙《あ》ぐること一にして止《とど》まらざるも、未《いま》だもって奇《き》とするに足《た》らずして、
しかも、これ等を挙《あ》げたること敢《あえ》てこの語《こ》の主眼《しゆがん》にあらず。
 ただ第三の山法師《やまほうし》ーiすなわち比叡山延暦寺《ひえいざんえんりやくじ》の僧侶を挙《あ》げて、これ等の根本的《こんぽんてき》に意
の如くならざる物と同一視し、重くその権能《けんのう》を認《みと》むるに到り、始めてこの語《こ》の大《おお》いに
|振《ふる》えるを見るなり。僧侶の跋扈《ばつこ》は元来|聖武《しようむ》の玄肪《げんぽう》に始まりて称徳《しようとく》の道鏡《どうきよう》に成《な》れるもの、
ただし、俗界の趨勢《すうせい》が、最初|文権《ぶんけん》を握《にぎ》れる宮室的貴族《きゆうしつてききぞく》の有せし勢力をば、漸次《ぜんじ》に武権《ぷけん》
を擁《よう》せる地方的貴族《ちほうてききぞく》の手に移したると儔《ひと》しく、最初|君側《くんそく》に在《あ》りて恩寵《おんちよう》を荷《にな》える僧侶の
特有なりし専姿横暴《せんしおうぽう》の態が、何時《いつ》しか転じて、地方山野の間に団結して兵刃《へいじん》を蓄えた
るそれ等のものとなりたるなり。
 しかして、何故《なにゆえ》に僧侶が多数|集《あつ》まりて兵刃を蓄うるに至りたるかと云うに、盗賊《とうそく》横
行の極《きよく》、これを討《とう》ずるに軍隊《ぐんたい》を用いざるべからざる事《こと》ほど、爾《しか》くその数の多くその勢
いの大なるを致《いた》せるをもって、比較的|富有《ふゆう》にして防禦力《ぽうぎよりよく》を欠《か》ける山中野外の寺院の如
き、匪徒《ひと》の争うて着目するところとならざるを得ずして、ために、頻《しき》りにその酷烈《こくれつ》な
る劫掠《ごうりやく》を蒙《こうむ》りたる末《すえ》は、彼等もまた、自衛上己《じえいじようや》むを得《え》ずして、相応の口実の下《もと》に兵刃《へいじん》
を蓄え武力を養うことを敢《あえ》てし、豪猾不逞《こうかつふてい》の徒の僧侶化したる者、すなわち世俗に云
うところの狼《おおかみ》に法衣《ころも》を着せたる者を集めて、盗賊《とうそく》の憂《うれ》いに備うるに至りたるが、すで
にして、元来|防禦《ぽうぎよ》の目的より起されたる消極的軍備も、その蓄積せられ訓練せられて、
防禦にあまりあること十二分なるに及《およ》ぶや、ほとんど軍備そのものの特質なるが如く、
|自《みずか》ら発して他に加えずんば己《や》むこと能《あた》わず。
 ここにおいて、南都《なんと》の興福寺《こうふくじ》、江州《こうしゆう》の園城寺《おんじようじ》(三井寺《みいでら》)、比叡山《ひえいざん》の延暦寺《えんりやくじ》等、寺院の
巨大にして武力に富めるものは、朝命《ちようめい》を軽《かろ》んずること芥《あくた》の如くして、好んで他と兵刃《へいじん》
 まじ             えんりやくじ               ぜんぜん               な     がんちゆう
                                  眼中また皇
を交え、なかんずく延暦寺最も優勢にして、全然一強独立国の観を為し、
室あるなく・霧の支配をも受けずして・独り意の璽所を.掛,ずんとす。翳無
躍・命,む少しく意に満たざるあれば・ただちに墅の柑興を捌ぎ丗だして、認を横
行し、鸞剛に乱入するを懺びず。ついには、淨謝にして豪放なる白河天皇を
       てこわ          し                            やま
して、なおその手剛さ恐ろしさ身に浸みて、根本的に意の如くならざる性質の物と山
譯とを里視せざる鯲わざらしめ、すなわち、轍鵬の水、藻煮の彩山法師」とい
う、是非《ぜひ》もなき警語《けいご》の拈出《ねんしゆつ》せらるるを見るに至りたり。
 かかる山法師の恐怖より天皇を保護し奉《たてまつ》る者、ただ武人《ぶじん》あるのみにして、永保《えいほ》元年
     いわし みず  ぎようこう        みなもとのよしいえ              よしつな           ひき
                                   兵を率い
                          その弟義綱をして、
十月、天皇石清水に行幸し給うや、源義家、および、
て叢を驀せしめ・もって山法師の襲撃に備えたるを、豊なる事実と漸し、その他
この類の例が多き、挙げて数うべからざるなり。外敵を征する事の外《ほか》、蝦夷《えぞ》を服《ふく》する
事の鵬、瓣都を討ずる事の螺、盗驟を諞ずる事の姆、これ等の堀朔以上、最も多く武
人をして、勢力を得《え》せしむるの動機《どうき》を作りたるは僧侶《そうりよ》の横暴にして、なかんずく、山
法師が切実に皇室の信頼を武人を与うるの媒介《ばいかい》を為《な》したるものと云うことを得《う》べし。
武人と皇室との緊密《きんみつ》なる接近、これやがて政権を武門《ぶもん》に帰せしむる機運の進展を意味
するものならずんばあらざるなり。
 此《かく》の如くして、武人《ぷじん》の実力は着《ちやくちやく》々訓練せられ、一種の武人的趣味《ぷじんてきしゆみ》はますます発達
し、文人《ぶんじん》および時代の風習《ふうしゆう》と異《こと》なれる武人気質《ぷじんかたぎ》なるもの、いよいよその特色を発揮し
て、軍人として世界に特殊なる長所を有せる日本民族は、ようやくその要素を中《、つち》に蓄
え来《きた》れるが、白河天皇、位を皇太子|善仁親王《よしひとしんのう》(第七十三代|堀河《ほりかわ》天皇)に譲って、退隠《たいいん》
し給い、しかも院中に天皇の実権を保留して、さらに在位中に過ぎたる濫政《らんせい》を行い給
うや、かつては、源頼義父子《みなもとのよりよしふし》を悩《なや》ますこと九年に及《およ》びし東北武頑《とうほくぷがん》の徒《と》は、再《ふたた》び、こ
の威無《いな》く信無《しんな》く道無《みちな》く法無《ほうな》きの時代を好期《こうき》と為《な》して頭《かしら》を抬《もた》げ、ために武人の訓練をし
てさらに一段ならしむべき、多くの機会を作りたり。
 今その次第《しだい》を記《しる》さんに、前《ぜん》九年の役《えき》、頼義父子を援《たす》けて功ありしをもって、鎮守府《ちんじゆふ》
将軍に任ぜられたる清原武則《きよはらのたけのり》は、すでに死し、義家《よしいえ》代ってその任に当るべく奥州《おうしゆう》に下《くだ》
りたるに、たまたま、武則《たけのり》の子|武貞《たけさだ》が二子なる、貞衡《さだひら》、家衡《いえひら》相争い、武貞《たけさだ》の弟|武衡《たけひら》が、
灘に党して灘を扉むるあり・藁は藻と親戚なるをもって、すなわちこれを撚
け・堀鵬天皇の蹴浴四年より七年に灘びて、燐鞣三年に嵐なり、ついに、武衡および
家衡を出羽仙北郡金沢《でわせんぼくこおりかねざわ》の棚《さく》に亡《ほろ》ぼせり。これを後《こ》三年の役《えき》と云う。
 この役《えき》、義家が麾下《きか》の士《し》に、平景政《たいらのかげまさ》なる者あり、鎌倉権五郎《かまくらごんごろう》と称す。敵士|鳥海《とりのうみ》な
                                しかして後《まなこいこうくつやていしんのち》、
る者にその眼を射られしも、毫も屈せず、箭を折って挺身鳥海を殺し、
|かぶと《ぬぎようがみうらのためつぐためやぬやじり》
帰って陣に入り、兜を脱いで仰臥す。三浦為次なる者、彼が為に箭抜かんとし、鏃深
く刃《、》りて力を要するをもって、足をもってその面《おもて》に加う。景政怒《かげまさいか》って為次《ためつぐ》を斬《き》らんと
す。曰く、「戦って死するは武士の本望《ほんもう》なり。生きて人に面《おもて》を踏まるるこそ恥辱《ちじよく》なれ!」
と・灘すなわち驚いて謝し・摂.ピく響いて攣抜けば、眼球鑽ど共に出でぬ。景
政|時《とき》に齢《とし》わずか十六、その雄烈《ゆうれつ》実に人の胆《たん》を寒うするに足《た》れり。
                       後世《むべしせいしごうしこうけいここうせい》武士道の経典《きようてん》における最上無
 宜なり、この死生を一貫せる至剛至硬の警語は、
二の鉄律《てつりつ》となり、権五郎景政《ごんごろうかげまさ》は、これがために神に祀《まつ》られて千歳《せんざい》に廟食《びようしよく》するに到《いた》れる
ことや。当時、武人が相|砥礪《しれい》してその理想とする所に近
つかんとするの状《じよう》、もって想《おも》うべく、武人気質《ぶじんかたぎ》の発達、もって見るべしと做《な》す。
 かくて、武人の発達すでにある度を超えて、その色彩|著《いちじる》しく鮮明なるを致すや、桓《かん》
武《む》大皇より出《い》でし平氏《へいし》と、清和《せいわ》天皇より出《い》でし源氏《げんじ》との二大別の、顕然《けんぜん》として混同《こんどう》す
ること能《あた》わざる系統《けいとう》を作れるを見るなり。しかも、これより後《のち》源氏の統一に到るまで
の間に拈出《ねんしゆつ》せらるる警語《けいこ》の多くは  むしろそのほとんど全部は、源平《げんぺい》二氏の衝突《しようとつ》よ
り発《はつ》する火花《ひばな》の如き性質のものなれば、まずここに源平二氏の由来《ゆらい》の大要《たいよう》を記《しる》し来《きた》ら
んに、平氏は、将門《まさかど》亡び貞盛《さだもり》起りて、同族間《どうぞくかん》の消長《しようちよう》を閲《けみ》して以来、貞盛《さだもり》の子|維衡《これひら》、そ
の子|正度《まさのり》、正度《まさのり》の子|正衡《まさひら》に到《いた》るまでは、未だ大《おお》いに顕《あら》われざりしが、正衡《まさひら》の子|正盛《まさもり》が、
|鎮西《ちんぜい》に雄視《ゆうし》して眼中《がんちゆう》朝廷なかりし源義親《みなもとよしちか》(義家《よしいえ》の子)を、鳥羽《とば》天皇の嘉承《かしよう》二年十二
月に討滅《とうめつ》せしより、平氏|始《はじ》めて頭《あたま》を抬《もた》げ、正盛《まさもり》の子|忠盛《ただもり》が白河法皇に寵遇《ちようぐう》せらるるに
到りて、平氏の基礎《きそ》ようやく成《な》りぬ。
 しかして、正盛、忠盛の平氏は、伊賀《いが》、伊勢《いせ》の間に住みて、皇室の手足《しゆそく》たりしかば、
その境遇と居《お》る所の地の位置とは、自然に彼等を支配して宮室的気風《さゆうしつてききふう》の感化《かんか》を受けざ
るを得《え》ざらしめ、その采邑《さいゆう》もまた、播磨《はりま》、淡路《あわじ》、因播《いなば》、備前《びぜん》、安芸《あき》等、近畿《きんき》
および西南《せいなん》の温暖なる地に布《し》かれ、中央部との交通の利便《りぺん》に富めるをもって、彼等は
|何時《いつ》しか坂東《ばんどう》に拠《よ》りて帝位を窺《うかが》いし将門《まさかど》が粗擴《そこう》の態《たい》を留めざるに到り、武頑《ぶがん》に配する
に貴族的都雅《きぞくてきとが》の風《ふう》をもってして、武人中《ヒぶじんちゆう》やや藤原氏に近き者たるその一派の特色を作
り成《な》したるが、これに反して、源氏は飽《あく》までも純然《じゆんぜん》たる武頑種族《ぶがんしゆぞく》の面目《めんもく》を保持しつつ、
「額《ひたい》に立《た》つ矢《や》はありとも、背《そびら》に立《た》つ矢《や》はあらず」という気風の東国《とうごく》に基礎を築き来りし
をもって、皇室より分派せし時代は、平氏に比して数世《すうせい》の後《あと》なりと雖《いえど》も、蚤《はや》くもその
血と共にその気《き》を変じて、全然|粗擴《そこう》なる者となり了《おわ》れり。
 すでにして義家《よしいえ》の子|義親対馬守《よしちかつしまのかみ》となり、肥前《ひぜん》の土豪|高木文貞《たかぎふみさだ》と婚《こん》を通《つう》じたるにより
て、源氏《げんじ》の勢力はまた九州にも扶殖《ふしよく》せられ、東隅西端相応《とうぐうさいたんあいおう》じて、ますます京畿柔媚《けいきじゆうび》の
|俗《ぞく》に遠ざかりたるが、義親|対馬《つしま》の掌大天地《しようだいてんち》に跼蹐《きよせき》するを屑《いさぎよ》しとせずして、擅《ほしい》ままに鎮西《ちんぜい》を経略《けいりやく》するに及《およ》び、朝廷その罪を責め、勅使《ちよくし》
を下《くだ》してこれを召すや、義親《よしちか》勅使を殺して憚《はばか》らざるの横暴を敢《あえ》てしたるも、ついに兵
を発して捉《とら》えられ、隠岐《おき》に流《なが》さるるに到りたり。されど、暴勇野猪《ぽうゆうやちよ》の如き義親《よしちか》は、た
ちまち隠岐を脱して出雲《いずも》に入り、目代《もくだい》を殺し、官物《かんぷつ》を奪いて、勢いはなはだ猖獗《しようけつ》なり
しかば、 平正盛《たいらのまさもり》勅を奉じてこれを討滅《とうめつ》し、ために、平氏独り盛んにして、源氏|再《ふたた》び
|振《ふる》うこと能《あた》わざらんとするの観ありしを、義親《よしちか》の子|為義《ためよし》、第七十四代|鳥羽《とば》天皇の天仁《てんにん》
二年、白河法皇の院宣《いんぜん》を奉じて、その叔父義綱《おじよしつな》の叛《はん》せるを討ち、これを佐渡《さと》に流して
より、たちまち朝廷に擢用《てきよう》せられて、正盛《まさもり》と肩を駢《なら》ぶるに至り、もって源平《げんぺい》二氏が相《あい》
対《たい》して相譲《あいゆず》らざるの勢いを成《な》すと共に、また長く忘《わす》るべからざる怨恨《えんこん》のその間《かん》に横《よこ》た

  わるありて、互いに反目《はんもく》し排擠《はいせい》するの素地《そじ》を造《っく》りたり。
   ここにおいて、半《なか》ば時代化せる武人と、全然《ぜんぜん》時代の風《ふう》に染《そ》まざる武人とが、時勢《じせい》の
  ために導かれて相|接触《せつしよく》したるを見る。形勢|何《なん》ぞ不穏《ふおん》ならざるを得《え》んや。しかのみなら
  ず、為義《ためよし》の八男|為朝《ためとも》が、驍勇絶倫《ぎようゆうぜつりん》の資《し》をもって九州に下り、祖父|義親《よしちか》に十倍せる勢威《せいい》
  を揮《ふる》って功略を縦《ほしい》ままにするあり。後《のち》招かれて京師《けいし》に還りたりと雖《いえど》も、源氏の勢力は
  確《たしか》に筑紫《つくし》の土壌《どじよう》に浸潤《しんじゆん》して、後年《こうねん》平氏を両端《りようたん》より圧搾《あつさく》するに到る準備は、すでにこの
  時に成《な》りぬ。鳥羽《とば》天皇の時、しばしば制符《せいふ》を下《くだ》して、諸国の武人の源平二氏に属する
  事を禁じたるもの、もって二氏が互いにその派《は》を大にせんとする暗中《あんちゆう》の競争のはなは
  だしかりしを見るべしと做《な》す。かかる形勢に加えて、さらに、二氏の衝突《しようとつ》を激成《げきせい》すべ
  き動機が、宮室の間に醸《かも》し来《きた》られたるを窺《うかが》うは、また警語《けいこ》の歴史が発展するの順序を
  見るにおいての重要事ならざるべからず。
   鳥羽《とば》天皇の元永《がんえい》元年、天皇十六歳にして、大納言|藤原公実《ふじわらみちざね》の女璋子《むすめあきこ》を納《い》れて中宮《ちゆうぐう》
  と為《な》し給う。しかも、璋子は天皇の祖父白河法皇がその妙齢《みようれい》の頃より狎《な》れ給いし愛人
  にして、中宮となるの後《のち》も、天皇の年少なるを侮《あなど》りて、なおその乱倫《らんりん》を改めざれば、
天皇これを含《ふく》み給いて、同二年璋子|顕仁親王《あきひとしんのう》を生むも、これを皇子《おうじ》と認め給わず、祖
父《そふ》の子なるをもって、却って己《おの》れの叔父《おじ》なりとし、すなわち、「叔父児《しゆくふじ》」と綽号《あだな》してこ
れを嘲《あざけ》り給えり。惨酷無比《ざんこくむひ》なる禍乱《からん》の機《き》は、実《げ》に、この「叔父児《しゆくふじ》」なる冷絶痛絶《れいぜつつうぜつ》の一
|警語《けいこ》によりて曝露《ばくろ》せられし事実の中《うち》に胚胎《はいたい》しつつあるなり。
 顕仁《あきひと》親王立ちて第七十五代|崇徳《すとく》天皇となり給うや、白河《しらかわ》法皇を本院《ほんいん》と号し、鳥羽《とば》上
皇を新院《しんいん》と称して、政令《せいれい》三|途《と》に出《い》で、その弊《へい》ほとんど言語に絶《ぜつ》せり。すでにして、法
皇が近代の天皇に稀有《けう》なる七十七の高齢《こうれい》をもって崩《ほう》じ給うに到り、上皇まったく院中《いんちゆう》
の政《まつりごと》を専《もつばら》にし給い、しかも、かの叔父児《しゆくふじ》一条の悪感《あつかん》によりて、その皇子たる天皇と
|相反目《あいはんもく》し給う。果然《かぜん》、禍乱《からん》の機《き》はようやく熟《じゆく》し来《きた》れり。鳥羽《とば》は白河《しらかわ》の放縦《ほうじゆう》を襲うて、
その気力を欠《か》き給い、奢侈淫蕩《しやしいんとう》、宮室を妓閣《ぎかく》にし、侍臣侍女《じしんじじよ》を幇間娼婦《ほうかんしようふ》と為《な》さざれば
|歇《や》まず。 平忠盛《たいらのただもり》を従《したが》えて、寵姫《ちようき》を祗園祠畔《ぎおんしはん》に訪い給いし事実は、長く後世《こうせい》の話柄《わへい》と
なり、藤原氏さえ敢《あえ》てせざりし、堂《どうどう》々たる鬚眉男児《しゆびだんじ》が公然|面《おもて》に粉黛《ふんたい》を粧《よそお》うの風《ふう》も、こ
の時代より起れり。鉄漿黒《かねくろぐろ》々と薄化粧《うすげしよう》の平家の公達《きんだち》が、一《いち》の谷《たに》、壇《だん》の浦《うら》に悲惨なる末
路《まつろ》を示すに及《およ》びたるも、またこの風《ふう》に化《か》せられし結果のみ。
 鳥羽《とば》の女御《にようご》に得子《とくこ》あり。中納言|藤原長実《ふじわらのながざね》の女《むすめ》にして、美福門院《びふくもんいん》と号《こう》せらるる者すな
わちこれなるが、崇徳《すとく》の保延《ほえん》五年五月、得子|体仁親王《やすひとしんのう》を生む。すなわち天皇の異母弟《いぼてい》
にして、実に禍乱《からん》の卵たらざれば已《や》まざるものなり。されば、これより後《のち》の事は知る
べきのみ。体仁《やすひと》三歳にして、鳥羽《とば》法皇、強いて天皇に迫《せま》ってこれに譲《ゆず》らしむ。かくて、
|体仁《やすひと》立ちて、第七十六代|近衛《このえ》天皇となり給いたりと雖《いえど》も、年少わずかに十七歳にして
|崩《ほう》じ、しかも儲弐《ちよじ》なきをもって崇徳《すとく》上皇|窃《ひそか》に喜びを作《な》して思い給わ
く、もし己《おの》れをして重祚《ちようそ》せしむるにあらずんば、
必ず己《おの》れの子|重仁《しげひと》を立てんと、中外《ちゆうがい》また望みを重仁《しげひと》親王に属する者多し。然《しか》れども、
|崇徳《すとく》を廃《はい》しし謀主美福門院《ぼうしゆびふくもんいん》はなお存《そん》せり。彼女は、その愛子《あいし》の早世《そうせい》を悲しむことはな
はだしきと共に、これ必ず崇徳《すとく》の呪咀《じゆそ》に出でたるものなるべしとなせり。
 すなわちますます崇徳《すとく》を排斥《はいせき》して、崇徳の同母弟|雅仁《まさひと》親王を立つ。第七十七代|後白
河《こしらかわ》天皇これなり。しかも、法皇と美福門院とは、同年ただちに天皇の御子|守仁《もりひと》親王を
立てて皇太子と為《な》し、極力|崇徳《すとく》の系統《けいとう》を拒《こば》むの意を示して、噴火《ふんか》の気すでに地皮《ちひ》に及《およ》
び、人をして足蹠《そくしよ》の熱《あつ》きを感ぜしむるに至りたるが、同年十月二日鳥羽法皇|崩《ほう》じ給い
て、勃発《ぼつばつ》の機《き》まったく熟せり。崇徳《すとく》上皇その報を聞きて宮に到り給えば、美福門院《びふくもんいん》、
|右衛門権介藤原惟方《うえもんごんのすけふじわらのこれかた》に旨《むね》を伝え、法皇の遺詔《いしよう》と称して、拒《こば》んで入れしめず。ここに
      せきふん        は れつ      あた           ふじわらのよりなが  ひ     ぼうしゆ  な
おいて、上皇の積憤はついに破裂せざる能わず、左大臣藤原頼長を延いて謀主と為し、
兵を白河殿《しらかわでん》に集む。これ、法皇|崩《ほう》じて後《のち》わずかに七日にして、実力《じつりよく》すでに充《み》ちつつ、
|変《へん》に乗《じよう》じて志《こころざし》を伸《の》べんとするの武門武人《ぶもんぶじん》は、これを聞いて皆手を拍《う》って喜べり。歴
史はまさに斬新《ざんしん》なる警語《けいこ》の作用すべきある焦点《しようてん》を作らんとして、箭《や》を射《い》る如くに進展
しつつあるなり。
 次には当然に、上皇と天皇とが、武人を招引《しよういん》する競争となり、互いに極力《きよくりよく》運動し
たる結果は、源氏《げんじ》の棟梁為義《とうりようためよし》がその六子を率いて上皇に応じたる代りに、為義《ためよし》の長子《ちようし》
にして武名《ぶめい》を負《お》える義朝《よしとも》が天皇に趨《おもむ》き、父子兄弟相対《ふしけいていあいたい》して干戈《かんか》を交《まじ》えざる
を得《え》ざるに到れるあり。また、平氏《へいし》の首脳|清盛《きよもり》(忠盛《ただもり》の子)、天皇に来《きた》りて、その叔父
|忠正《ただまさ》は上皇に到りたり。
 この時、為義《ためよし》の八男|為朝《ためとも》が時宜《じぎ》に叶《かな》える夜襲《やしゆう》の献策《けんさく》も空《むな》しく、頼長《よりなが》が「両帝|堂《どうどう》々の
対陣に夜襲を用うべからず」という、藤原式|腐儒《ふじゆ》論の拒《こば》むところとなりて、兵気《へいき》いさ
さか銷沈《しようちん》に傾けるを、却って、義朝に軽兵《けいへい》を率《ひき》いて来襲《らいしゆう》せられ、頼長が頼《たの》むところの
|南都興福寺《なんとこうふくじ》の僧兵《そうへい》も未《いま》だ到らずして、戦わざるにすでに敗兆《はいちよう》を現わせり。頼長《よりなが》すなわ
ち手足《しゆそく》を張って狼狽《ろうばい》し、敵を見て急に諸将《しよしよう》の官職を進め、その歓心《かんしん》を買わんことを勉
む、果然、警語《けいこ》はこの間《かん》に作用せり。驍勇絶倫《ぎようゆうぜつりん》の為朝|独《ひと》り冷笑して、己《おの》れに宛《あ》てられ
たる蔵人《くらんど》の職を屏《しりぞ》けて曰く、「敵に臨んですなわち戦うべし、何ぞ官職を要せんや。我
は鎮西八郎《ちんぜいはちろう》にて足《た》れり!」と。「両帝堂々の陣」の論者、ここにおいて顔色無《がんしよくな》きなり。
「我は鎮西八郎にて足れり!」の一語、特殊の歴史によりて訓練せられたる代表的武人
の、純真なる面目《めんぼく》を発揮して、精采《せいさい》実に今古《こんこ》を照破《しようは》するに足れり。
 戦いは果して崇徳《すとく》上皇の零敗《れいはい》に帰したりと雖《いえど》も、為朝《ためとも》がこの役《えき》における悪戦苦闘振《あくせんくとうぶ》
りの目覚《めざま》しさは、ただに時人《じじん》の胆《たん》を破りたるに止まらずして、長く後代《こうだい》に標準的|武勇
談《ぶゆうだん》を残しぬ。上皇|讃岐《さぬき》に流《なが》され、頼長《よりなが》走って道に死し、為義《ためよし》、忠正《ただまさ》、および為義《ためよし》の諸
子《しよし》、皆|降《くだ》って斬られたりと雖《いえど》も、独《ひと》り為朝が筋《すじ》を絶《た》って大島《おおしま》に流されたるは、その勇
武時代《ゆうぷじだい》の珍《ちん》とすべきものありて、敵にもまた惜《おし》まれたる結果ならずとせざるなり。た
だこの「鎮西八郎にて足れり」の一語ありて、血をもって血《ち》を洗う溷濁厭《こんだくいと》うべき保元《ほげん》
の乱《らん》の中《うち》に、清烈《せいれつ》なる噴泉《ふんせん》の箭《や》の如く奔注《ほんちゆう》するを見る。快男児《かいだんじ》の壮語《そうご》、何ぞそれ奇警《きけい》
なる!
 一の変乱《へんらん》はさらに他の変乱《へんらん》を誘発《ゆうはつ》し来《きた》りぬ。 源義朝《みなもとのよしとも》、保元《ほげん》の乱に当《あた》りて最も功労《こうろう》
あり。しかも、肉親の父および諸弟《しよてい》と戦《たたか》ってこれを破《やぶ》り、なお、父および諸弟《しよてい》の己《おのれ》に
よりて降《くだ》れる者を保護つること能《あた》わず。朝廷の迫《せま》るところとなりて、自《みずか》らそれ等を斬
首《ざんしゆ》するの己《や》むなきに到り、尽《ことこと》く骨肉《こつにく》を削《けず》りて孤立するの悲惨を閲《けみ》するに及《およ》びたれば、
まさに、十分なる報酬《ほうしゆう》を得て自《みずか》ら慰《なぐさ》めざるべからざるに、事《こと》すでに過ぐるや、宮室的
気風《きゆうしつてききふう》を帯びて公卿《くげ》と結托《けつたく》する便宜《べんぎ》を有せる平氏は、功労《こうろう》少なくして却って重賞《じゆうしよう》を受
け、敵の弱きを撰《えら》びつつ、しかも逡巡能《しゆんじゆんよ》く戦わざりし清盛《きよもり》にして、なお、播磨守《はりまのかみ》に任
ぜられて昇殿《しようでん》を聴《ゆる》されたるに、義朝《よしとも》は僅《わず》かに右馬権頭《うまごんのかみ》を得《え》たるに過ぎず。嗷訴《こうそ》してよ
うやく左馬頭《さまのかみ》となることを得たりと雖《いえど》も、未だ昇殿《しようでん》を聴《ゆる》さるるに到らざるなり。
 ここにおいて、後白河天皇在位三年にして位を退《しりそ》き、年少の第七十八代二条天皇代
って立ち給い、平治《へいじ》と改元《かいげん》せらるるや、義朝、後白河の寵臣《ちようしん》中納言|藤原信頼《ふじわらののぶより》なる者(道
長の兄|道隆《みちたか》の後《のち》)と相結託《あいけつたく》して、信頼および義朝を排斥《はいせき》すところの、清盛《きよもり》と少納言|藤
原通憲入道信西《ふじわらのみちのりにゆうどうしんぜい》との一党に当り、元年十二月、清盛が熊野《くまの》に詣《いた》りし虚《きよ》に乗《じよう》じて兵を
挙げ、夜三条殿を囲みて上皇と天皇とを擁《よう》するに到る。信西《しんぜい》走って途《みち》に斬《き》らる。しか
も、天皇が脱して清盛の陣に投じ給いしと、源氏の一党|頼政《よりまさ》が反覆《はんぷく》して清盛に与《くみ》せし
とは、まず源氏の士気《しき》をして沮喪《そそう》せしむるに足れるに、これに加うるに、信頼《のぶより》の怯懦《きようだ》
にして、未だ戦わざるに守りを棄てて走れるあり。ために、義朝《よしとも》
独り善《よ》く戦うと雖《いえど》も、この頽勢《たいせい》を輓回《ばんかい》するに足らずして、ついに大《おお》いに平氏に敗《やぶ》られ、
|逃《のが》れて尾張《おわり》の内海《うつみ》に到り、旧臣長田忠致《きゆうしんおさだただむね》に投じて、却ってこれに殺さる。
 されば、武門《ぶもん》の二大派のその一なる源氏の幹部は、保元平治《ほげんへいじ》の二変乱を経過してほ
とんど尽滅《じんめつ》するの悲運に余儀《よぎ》なくせられ、平氏独り盛んにして、勢威当《せいいあた》る者なく、二
条天皇在位六年にして崩《ほう》じ給い、わずかに三歳の第七十九代六条天皇代って立ち給う
に到り、後白河上皇|政《まつりごと》を院中に聴《き》くこと、白河、鳥羽の例により給うと雖《いえど》も、平氏
の光彩《こうさい》すでに皇室を蔽《おお》うて、院宣《いんぜん》何の効力あるなく、六条の仁安二年、清盛|太政大臣《だじようだいじん》
に昇りて、武人にして大臣となるの嚆矢《こうし》を為《な》し、ついには、六条天皇を五歳にして位
を退《 りぞ》かせ奉《たてまつ》り、後白河の皇子にして清盛が妻の妹|滋子《しげこ》の出《しゆつ》なる八歳の第八十代|高倉《たかくら》天
皇を代って立たせ奉《たてまつ》り、同時に、後白河上皇は落飾《らくしよく》して法皇となり、さらに、承安《しようあん》
元年清盛の女徳子《むすめとくこ》(建礼門院《けんれいもんいん》)入って中宮となりて、十一歳の天皇に十五歳の中宮《ちゆうぐう》
を配《はい》するの不自然《ふしぜん》を敢《あえ》てするや、平氏の権勢日月《けんせいじつげつ》の如く、一族にして朝臣たる者実に
六十余人、族党《ぞくとう》の領有三十余国(当時の日本は六十余州)に連《つらな》りて日本の半部を占め、
長子|重盛《しげもり》内大臣にして左近衛大将《さこんえのたいしよう》を兼ね、次子|宗盛《むねもり》中納言にして右大臣を兼ぬるに至
りぬ。しかもこれ、藤原氏の如き実力によらざる浮萍《ふひよう》と一|様《よう》の権勢《けんせい》にあ
らずして、累代蓄積《るいだいちくせき》し来れる武力の上の効果の現実したるものに外《ほか》ならず。
 ただし平氏の成功は幾分《いくぷん》か僥倖《ぎようこう》を伴《ともな》えるの傾《かたむ》き無《な》きを得《え》ずして、これと反対に失落《しつらく》
したる源氏は、やや運命の虐《しいた》ぐるところとなりたる観あるが如しと雖《いえど》も、これ国家が
必然に、血に塗《まみ》れたる武人の鉄腕  すなわち実力ある者によって料理せらるるに至
るべくして、まずその道行《みちゆ》きの順序上、新時代の子なる武人の中《うち》比較的旧時代の臭味《しゆうみ》
を帯《お》べる平氏に御鉢《おはち》が廻りたるものに過ぎざれば、平氏が果して幸運なるか、源氏が
果して薄命《はくめい》なるかは、未《いま》だ短日月《たんじつげつ》の現象によりて軽《けいけい》々に定むること能《あた》わざるなり。
 されど、兎《と》に角《かく》に平氏は全盛時代に入りたり。清盛の驕慢専横《きようまんせんおう》は、藤原基経《ふじわらのもとつね》および
|道長《みちなが》にも過ぎ、その一門の実質的栄華は、遥かに藤原氏のそれに超《こ》え、清盛が妻の兄
|大納言平時忠《だいなごんたいらのときただ》をして、敢《あえ》て広言《こうげん》して、「方今天下《ほうこんてんか》平氏にあらざる者は人にあらず!」と
云わしむるに至れり。鳴呼《ああ》、「平氏にあらざる者は人にあらず!」。誇耀《ごよう》の中《うち》自然に天
来《てんらい》の規箴《きしん》あり、道破《どうは》し得てこれ時代の真相に徹するものにあらずや。ま
た当時の一|警語《けいこ》たるを失わずと做《な》す。
 されど、鳴呼《ああ》されど、「平氏にあらざる者は人にあらず」の誇言《こげん》が、果して平氏の全
盛を祝するものなるか、あるいはこれを呪うものなるかも、また未《いま》だ容易に定むべか
らざるを如何《いかん》せん。この語の反響《はんきよう》が、何《いず》れの辺《へん》より如何《いか》なる声をもって来るべきかは、
¶⊥           い か     けいこ          、                     よ はい      そばだ
  むしろ、如何なる警語によって現実せらるるべきかは、予輩が耳を側てて聞かざるを
  得ざるところならずとせざるなり。これより後《のち》、すでに失権《しつけん》せし藤原氏が、再《ふたた》び昔日《せきじつ》
  の夢を繰返《くりかえ》さんとして平氏を謀《はか》り、未《いま》だ発せずして党中《とうちゆう》に密告者を生ぜるあり。また、
  源氏の一|頭頼政《とうよりまさ》が、後白河の皇子|以仁王《もちひとおう》を奉じて、兵を起し、敗れて宇治に死せるあ
  り。これ等の事実は、たまたま却《かえ》って平氏の威力《いりよく》を加え、その専権《せんけん》の勢いを助長する
  に過ぎざるものなるが如しと雖《いえど》も、しかも、為義《ためよし》、義朝《よしとも》が失落以後、諸国に潜伏《せんぷく》して
  平氏の注目を免れんことを勗《つと》めつつありし、源氏の遺肇《いげつ》等は、これによって平氏の鼎《かなえ》
  のすでに軽きを認め、平氏の暮景《ぼけい》すでに催して、自族の曙光《しよつこう》まさに到らんとするもの
  なりとなし、頼政《よりまさ》を陳呉《ちんこ》と為《な》して、所在《しよざい》争うて興起《こうき》し来れり。
   なかんずく其《そ》の大なる者は、伊豆《いず》に起れる義朝《よしとも》の子|頼朝《よりとも》と、信濃《しなの》に起れる義朝《よしとも》の弟
  義賢《よしかた》の子|義仲《よしなか》となり。義仲《よしなか》は項羽《こうう》の如く、頼朝《よりとも》は劉邦《りゆうほう》に似《に》たり。共にこれ、累代《るいだい》その
  父祖が勢力を扶植《ふしよく》せし東国武頑《とうごくぷがん》の地に起りて、「額《ひたい》に立つ矢はありとも、背《そびら》に立つ矢は
  無《な》し」という信条《しんじよう》を有せる東人《とんじん》を率《ひきい》る者なり。
   ここにおいて、景初《けいしよ》よりすでに、宮室的臭味《きゆうしつてきしゆうみ》を帯《お》びて、しかも、政権を占めて後、
|全然《ぜんぜん》宮室的貴族化するに到りたる平氏は、嫋《なよなよ》々と女性《によしよう》を男装《だんそう》せしめたるが如き、鉄漿《かね》
黒々と薄化粧《うすげしよう》のその弟子《ていし》を駆《か》りて、人は皆|虎《とら》の如く馬は皆|竜《りゆう》に似たる源氏《げんじ》の軍《ぐん》と戦わ
しめざるべからず。何等《なんら》の悲惨《ひさん》そや。しかして、何等《なんら》の滑稽《こつけい》そや。将門《まさかと》を屠《ほふ》りし貞盛《さだもり》
の子、義親《よしちか》を誅《ちゆう》せし正盛《まさもり》の孫、今|何処《いずこ》にか在《あ》る。勝敗の数は戦わずしてすでに明らか
なるなり。
 果然、高倉《たかくら》天皇の治承《じしよう》四年十月、貴公子なる清盛が嫡孫平維盛《ちやくそんたいらのこれもり》を大将軍と為《な》して、
|風流人《ふうりゆうじん》なる平忠度《たいらのただのり》、同じく知教《とものり》これが副《ふく》となり、五万の兵を発して頼朝《よりとも》を討ち、源
氏と富士川《ふじがわ》を隔《へだ》てて対陣したるが、近畿中国《きんきちゆうごく》の産にして比較的|都雅《とが》なる平氏の軍兵は、
|遥《はる》かに東軍《とうぐん》の人|剛《こう》に馬|健《けん》なるを望んで、まず戦いを難《かた》んずるの色《いう》あり。一夜|水禽《みずどり》の大《おお》
いに起《おこ》るを聞いて、敵の俄《にわか》に到るとなし、周章狼狽《しゆうしようろうばい》、人馬相踏藉《じんばあいとうぜき》して、死傷|算無《さんな》く、相追《あいお》うて陣を棄《す》てて潰走《かいそう》し、ことごとく西に向って還りぬ。いわゆる風声
鶴唳《ふうせいかくれい》に胆《きも》を破るものにして、「水禽《みずどり》の羽音《はおと》に驚く平氏」という、怯懦《きようだ》なる者を刺戟して
|奮起《ふんき》せしむる力ある警語《けいこ》が、独《ひと》り戦争におけるのみならず、後世《こうせい》広く日常の人事に応
用せらるるに至りたるもの、その起源実《きげんじつ》にここに在るなり。武人平氏が文人藤原氏の
|弊《へい》を学びて、さらに藤原氏だも至らざるの所に達せる、ほとんど奇蹟《きせき》と云うべきに価
せずや。平氏の亡兆《ぽうちよう》すでにこの不祥事《ふしようじ》によりて暗示《あんじ》せらる。この現実《げんじつ》をもって、彼《か》の
|時忠《ときただ》が、「平氏にあらざる者は人にあらず」の誇言《こげん》と対照し来るに、その変化の倏忽《しゆつこつ》
なる、人をして転《うた》た如露亦如電《にようやくによでん》の感に堪えざらしめんとす。
 乞《こ》う、予をして平家物語の作者に倣《なろ》うて、再《ふたた》び「祗園精舎《ぎおんしようじや》の鐘《かね》の音《ね》」と「沙羅双樹《しやらそうじゆ》
の花の色」とを挙《あ》げ来《きた》らしめよ。すでに、東海《とうかい》において水禽《みずどり》に驚きし平氏は、また北
陸において火牛《かぎゆう》に愕《おどろ》かさるる平氏たらざるを得ずして、これより後《のち》三年を経て、第八
十一代|安徳《あんとく》天皇の寿永《じゆえい》二年五月、全力を傾け尽したる十万の大兵をもって、義仲《よしなか》の五
万と越中《えつちゆう》の礪並山《となみやま》に戦い、義仲に火牛を放《はな》たれて大敗したり。しかも平氏の首脳《しゆのう》清盛
は、自家《じか》の女《むすめ》の腹に出《い》でし二歳の安徳《あんとく》天皇を立てたる年なる、養和《ようわ》元年|閏二《うるう》月、熱病
のために薨《こう》じて、平氏はすでに頭《かしら》を失いたる蛇の如く、その進前《しんぜん》の方向に迷いつつあ
る際《さい》なりしかば、最後の運命を賭《と》したるこの一|挙《きよ》の失敗は、これをして、京洛《けいらく》の間に
留まるに堪《た》えざらしめ、同月、玉の如き公子《こうし》と花の如き姫嬪《きひん》と蹄《ひずめ》と轍《わだち》とを雑《まじ》えて、錦
様《きんよう》の皇都《こうと》を後に、幼冲《ようちゆう》の天子を護《まも》り、飲泣《いんきゆう》と号泣《こうきゆう》と相和《あいわ》しつつ、紅
紫燎乱《こうしりようらん》、倉皇《そうこう》として西に向い、しかも、本州《ほんしゆう》に居《きよ》を安んずること能《あた》わずして、海を越
えて讃岐《さぬき》に走りたる、いわゆる「平家の都落《みやこおち》」なるものにして、その光景の詩的かつ
画的なるだけ、悲惨《ひさん》の度は一入《ひとしお》深かりき。
 かくて後《のち》、高倉《たかくら》天皇の第四子立ちて、第八十二代|後鳥羽《ごとば》天皇となり給い、その元暦《げんりやく》
元年正月、平氏を都《みやこ》より追いし義仲《よしなか》は、頼朝《よりとも》の弟にして頼朝《よりとも》に代って兵を率いたる範
頼《のりより》、義経《よしつね》に攻《せ》められて、近江《おうみ》の粟津《あわづ》に敗死《はいし》し、この間に捲土重来《けんどちようらい》して摂津《せつつ》の一の谷《たに》に
|拠《よ》りたる平氏も、また範頼《のりより》、義経《よしつね》の陥《おとしい》るるところとなりて、讃岐《さぬき》の屋島《やしま》に退《しりぞ》き、翌|文
治《ぶんじ》元年二月、屋島もまた義経に破られ、同三月岸には桜咲いて海には霞棚引《かすみたなび》くの時、
|長門壇《ながとだん》の浦《うら》の最後の戦いにおいて、八歳の安徳《あんとく》天皇を始め奉《たてまつ》り、平氏の一族の残存せ
る者ことごとく水に投じ、天皇の生母|建礼門院《けんれいもんいん》、平氏の頭領宗盛《とうりようむねもり》父子等は、源氏の擒《とりこ》
にするところとなりて、二代の栄華一朝の夢に帰しつつ、ただ落花の繽紛《ひんぷん》たるを留め、
その末路《まつろ》の凄惨悲涼《せいさんひりよう》なる、後世の豊臣氏《とよとみし》の滅亡と共に、史《し》を読む者をして、ここに到
りて暗然として巻を掩《おお》わしめずんば已《や》まざらんとす。
 祗園精舎《ぎおんしようじや》の鐘《かね》の音《ね》ー3一|諸行無常《しよぎようむじよう》の響《ひびき》あり、沙羅双樹《しやらそうじゆ》の花の色は盛者必衰《せいじやひつすい》の相を現せり。
平氏の末路の爾《しか》く悲惨《ひさん》を極めたるは、元来|武強《ぶきよう》なる者が、変じて文弱《ぶんじやく》となりたるが故
なり。文弱となりたる後《のち》においても、武強なりし時代の事を行わざるを得ざりしをも
ってなり。かくて、驕奢《きようしや》なる者の速《すみ》やかに亡《ほろ》びたる例を求めて、独り我が国史に顕著《けんちよ》
なるのみならず、東西《とうざい》の史乗中《しじようちゆう》、平氏興亡《へいしこうぼう》の顛末《てんまつ》の如く、爾《しか》く明白適切なるものなけ
れば、「驕《おご》る平家は久しからず!」の警語《けいご》が、長くその権威《けんい》を失わずして、後世《こうせい》に到る
まで好個《こうこ》の引例《いんれい》に供《きよう》せられつつあるも、また十分の理由ありと云うべきなり。
 源頼朝《みなもとのよりとも》武力を用いて平氏を亡ぼすや、深く注意して平氏の轍《てつ》に陥《おちい》ることを避《さ》け、
武力の淵叢《えんそう》たる東国《とうごく》に根拠《こんきよ》を置いて、覇府《はふ》を相模《さがみ》の鎌倉《かまくら》に定め、質実簡素《しつじつかんそ》にして毫《ごう》も
|従前《じゆうぜん》の宮室的臭味を帯ばざる、純武人的政治を創始したり。彼の要するところ、偏《ひと》え
に実《じつ》に在《あ》りて名《な》にあらず。彼は、諸国に守護《しゆこ》を置き、荘園《しようえん》に地頭《じとう》を置き、これ等をし
て国土を管理せしむると共に、州郡不逞《しゆうぐんふそん》の徒《と》を追捕《ついほ》せしめて、もって禍乱《からん》の根《ね》を絶た
んことを建議し、しかして己《おの》れ自《みずか》ら六十六ヵ国の総地頭《そうじとう》、総追捕使《そうついぶし》として、これを統
轄《とうかつ》せんことを奏請《そうせい》し、朝廷をして、むしろ、その求むるところの低くかつ小なるに驚
かしめ、容易にこれを容《い》れらるるに到りたり。何《なん》ぞ測《はか》らん、これ頼朝《よりとも》が大臣関白|乃至《ないし》
摂政を求むるよりも、遥《はる》かに遥かに大なる物を朝廷より得たるにて、地頭《じとう》、追捕使《ついぶし》な
んど云う極めて卑《いや》しき名の下《もと》に手脚《しゆきやく》を蔵しつつ、その実《じつ》天皇の権力も職任《しよくにん》も、根本よ
り自家《じか》の手裡《しゆり》に奪却《だつきやく》したるなり。
 藤原氏かつて皇権《こうけん》を侵犯《しんぱん》したりと雖《いえど》も、ただ天皇の幼弱《ようじやく》あるいは狂疾《きようしつ》に乗じて一時
を私《わたくし》せしのみ、もとより、全日本をその有《ゆう》に帰せしめしにあらず。平氏の荘園六《しようえん》十
六ヵ国の半《なかば》を占めたりと雖《いえど》も、これまた、弄《そ》を従前《じゆうぜん》の法式に随って受領せしと云うに
過ぎずして、未《いま》だ国家の組織のこれがために変更せられしにあらざるなり。
 然《しか》るに、今や頼朝《よりとも》根本的に組織を改変して、天皇の有し給いし権力を盗《ぬす》むが如き屑《せつせつ》々
たる手段を取らず、全然《ぜんぜん》天皇の地位を変じて、単に尊崇《そんすう》の主体《しゆたい》と為《な》し奉《たてまつ》ることを敢《あえ》て
せり。これ、表面はなはだ小なるが如くにして、その実《じつ》、大化革新《たいかかくしん》を逆に行きたる空
前《くうぜん》の大変革ならずんばあらざるなり。政権まったく武門に帰し了《おわ》りて、これより明治
維新《めいじいしん》に到《いた》るまで、また皇室に回《かえ》らず。中間《ちゆうかん》ただ後醍醐《ごだいご》天皇において一時の変《へん》を見しの
み。頼朝《よりとも》の謀《はか》るところ、何《なん》ぞそれ陰《いん》にして深《しん》なる。されば、この大変革を断行して、
しかもその結果の持続し得《、つ》べきを確信せる、頼朝をして深く依頼してもって安心せし
むるものなくんばあらず。然《しか》り、頼朝の依頼《いらい》するところは自家《じか》の実力に在り。しかも
彼の実力は、その養成《ようせい》したる武人《ぶじん》の武力《ぷりよく》を最低根拠《さいていこんきよ》と為《な》しつつあるなり。
 乞《こ》う、深沈《しんちん》にして大度《たいど》ある頼朝の口より発したるものとして、特
にその異常に緊縮《きんしゆく》せるを覚《おぼ》えしむる、切実なる警語あるを聞け。曰く、「二十|矢《し》を放《はな》っ
て二十人を倒す者にあらざれば、儀衛《ぎえい》の任に適《てき》せず」と。この語のはなはだ奇警《きけい》なる
は、普通に「三|矢《し》を放って三人を倒《たお》す者《もの》」と云《い》うべく、もし「十|矢《し》を放《はな》って十人を倒
す者」と云《い》わば、人をしてその選択《せんたく》の過酷《かこく》なるを想《おも》わしむるに足《た》るべきに、さらにこ
れより抽《ぬき》んずること十段にして、絶対に意味を強めつつ、必ず特に、「二十|矢《し》を放《はな》って
二十人を倒す者」と云わずんば已《や》まざるに在《あ》り。
 かくして、自己に親近する儀衛《ぎえい》の士《し》を選《えら》びつつ、自家の武力の基礎を固め、しかし
て、これを周囲に及《およ》ぼして、一般武人を激励《げされい》しつつ、さらに、激励を受けて鍛練《たんれん》の功《こう》
を積みたる、すなわち、二十|矢《し》を放って二十人を倒すの域《いき》に入ることを得たる武人を
して、争うて自己に親近《しんきん》することを求めしむるの風《ふう》を起し、それ等のすべての結果よ
りして、自家の周囲は常に鏘《そうそう》々|鏗《こうこう》々たる武力の精髄《せいずい》によって、擁護《ようご》せらるることを得
るなり。「八州天下に敵し、鎌倉《かまくら》八州に敵《てき》す!」の警語《けいこ》もまた、この頼朝《よりとも》の一語が反響
を酬《むく》われたる結果《けつか》としての、事実《じじつ》を意味《いみ》するものに他《ほか》ならず、この一語によりて、頼
朝《よりとも》が天火《てんか》を威服《いふく》したる所以《ゆえん》の根柢《こんてい》を窺《うかが》うべしと做《な》す。
 平氏の滅亡と共に捲《ま》き了《おわ》られたる極彩色《ごくさいしき》の絵巻物《えまきもの》は、再《ふたた》び開展《かいてん》せらるるの機会を得
ずして、実力の上に布《し》かれたる質実簡素《しつじつかんそ》なる純武人的政治の、儼《げん》として長《とこし》えに存《そん》する
を見る。源氏三代にして滅亡《めつぼう》せりと雖《いえど》も、その政体《せいたい》は毫《こう》も変革《ヘメロかく》せらるることなく、源
氏の長臣《ちようしん》にして源氏を継承したる北条氏《ほうじようし》の手により、さらに一段|丈《たけ》低く根張《ねば》り深きも
のとならしめられたり。
 後鳥羽《ごとば》、および、第八十三代|土御門《つちみかど》、第八十四代|順徳《じゆんとく》の三|朝《ちよう》を経て、第八十五代|仲
恭《ちゆうきよう》天皇の治世《ちせい》に到り、後鳥羽上皇|多能《たのう》にして自《みずか》ら用うるの質をもってし、白河法皇が
|驕慢専恣《きようまんせんし》の跡《あと》を踏《ふ》みて鎌倉を討滅《とうめつ》し政権を回収せんことを夢み給い、白河に始まりし
|院《いん》の北面《ほくめん》の外《ほか》、さらに西面《さいめん》の武士を置き、天下事を好むの徒を集めて、窃《ひそか》に機を待ち
つつありしが、順徳《じゆんとく》天皇の承久《しようきゆう》元年正月、鎌倉の主人|実朝《さねとも》が、二代の主人|頼家《よりいえ》の子
なる公暁《くざよう》に殺されたるを見て、これ天下の人心《じんしん》鎌倉を離れたる徴《ちよう》なりと速断《そくだん》し給い、
|仲恭《ちゆうきよう》天皇に即《つ》き給いて未《いま》だ前代の年号を改むる暇《いとま》なき承久《しようきゆう》三年の事、雷霆《らいてい》一|震《しん》鎌倉の執権《しつけん》という名義《めいぎ》において実際は天下の主《しゆ》なる北条義時《ほうじようよしとき》の官職を褫《は》
ぎ、遍《あまね》く全日本の武人に詔《みことのり》を下《くだ》して鎌倉を討たしむ。真にこれ非常の英断《えいだん》、絶大《ぜつだい》の
クーデター、天破《てんやぶ》れ石驚《い おどろ》くの概《がい》あるもの。天下まさに震動《しんどう》すべく、義時《よしとき》まさに胆《きも》落ち
|魂《こん》飛ばざるべからざるなり。
 然《しか》れども、事実の予期《よき》に反せるを如何《いかん》せん。鎌倉の風色冷《ふうしよくれいれい》々として水の如く、天下
|未《いま》だそよ吹く風をも起さず。すでにして、義時《よしとき》は坐《ざ》したるままに一|喝《かつ》せり。曰く、「天《てん》
|子御謀叛《しごむほん》!」と。海内《かいだい》の武人《ぶじん》すなわち声に応じて雲の如くに起り来《きた》る。義時が発声《はつせい》の
反響としての「天子御謀叛!」の叫びは、激浪怒濤《げきろうどとう》の如く全日本を震撼《しんかん》して、取《と》る物《もの》
も取《と》り敢《あえ》ず鎌倉に馳《は》せ参《さん》ずる諸国の軍勢は、実に二十万の多きに上《のぼ》りぬ。「天子御謀
叛《てんしごむほん》!」。何《なん》ぞその語の主客《しゆかく》を顛倒《てんとう》せるのはなはだしき。然《しか》れども、武家政治の下《もと》に処《ところ》を
|得《え》つつ、実力をもってすべての階級の上に立てる当時の武人は、眼中《がんちゆう》ただ武家ありて
天子あるを知らざるなり。名分《めいぶん》は彼等の知らざるところ、彼等はただ事実を解するの
み。故《ゆえ》に、武家に敵対するところの行為は、彼等より見てすバ、て叛逆《はんぎやく》なり。その叛逆
者《はんぎやくしや》の天子なるをもって、特に警語《けいこ》を用いて御謀叛《ごむほん》と云う。もって、源氏が如何《いか》に根本
的に皇権《こうけん》を奪却《だつきやく》し、北条氏が如何《いか》に源氏を継承《けいしよう》してさらに一歩を進めつつ、天下の人
心《じんしん》を一変したるを窺《うかが》うべきにあらずや。
「天子御謀叛!」。この語実に不臣《ふしん》の極《きよく》なり。乱臣賊子《らんしんぞくし》の言《げん》なり。奇怪至極《きかいしごく》なり。不都
合千万《ふつこうせんばん》なり。忠愛なる日本人をして、これを聞いて牙《きば》を咬《か》み眥《まなじり》を裂《さ》かしむるに足《た》れり。
これを発したる者の肉を瞰《くしり》わんことを思わしむるに価せり。されど、当時においては
これ剴切《がいせつ》なる一警語たりしことを認めざる能《あた》わざるを如何《いかん》せん。見よ、「天子御謀叛!」
の一|喝《かつ》に応じて起ちたる武人はその数《すう》ただちに二十万に上《のぼ》りて、しかも、訓練あり節《せつ》
|制《せい》ある軍隊ならざるなきに、後鳥羽上皇の霹靂手段《へきれきしゆだん》によって京師《けいし》に集められたる者は、
ついに一万七千五百の少数に過ぎずして、しかのみならず、半《なか》ば盗賊浮浪《とうそくふろう》の徒《と》を雑《まじ》え
ざる能《あた》わざりしことを。義時《よしとき》、その子|泰時《やすとき》および弟|時房《ときふさ》を将と為《な》して、進んで京都を
攻めしむるに、形勢すでに明らかなりと雖《いえど》も、なお慎重《しんちよう》の用意を欠《か》かず、その将士《しょうし》た
る者、必ず、親を遣《つか》わせば子を残し、兄を出《い》だせば弟を留めて、半途《はんと》に心を変じて鎌
倉に背《そむ》かんとするの虞《ぐ》に備《そな》う。されば、計画に寸毫《すんこう》の遺算《いさん》なくして、幕軍《ばくぐん》の京師《けいし》に対
すること、磐石《ばんじやく》 をもって累卵《るいらん》を圧するが如く、上皇|事《こと》
急にして叡山《えいざん》の僧兵を招くと雖《いえど》も、かつては、鴨川の水、双六《すごろく》の采《さい》と共に、不可抗力《ふかこうりよく》
を有せる者と目《もく》せられし山法師も、当時の武人の勢いに敵すること能《あた》わず、力|足《た》らず
と称して山門《さんもん》を出《い》でざれば、京師《けいし》はたちまち鎌倉に粉砕《ふんさい》せられ、義時が辣腕《らつわん》の加わる
みつち《ごんだいなごんふじわらのただのぶみなもとのありただ》|か
ところ、権大納言藤原忠信、権中納言源有惟、参議藤原範義《さんぎふじわらののりよし》むよび藤原光親、藤
原|宗行《むねゆき》、藤原|信能《のぶよし》等の諸卿《しよけい》は、その首謀《しゆぽう》としてただちに斬《ざん》に処《しよ》せられ、後鳥羽上皇は
|隠岐《さぬき》に、順徳《じゆんとく》上皇は佐渡《さど》に流されて、仲恭《ちゆうきよう》天皇もまた位を廃《はい》せられ、代りに、第八
十六代|後堀河《ごほりかわ》天皇は鎌倉の手によって立てられ給えり。
 さらに、京軍《けいぐん》の食邑《しよくゆう》三千戸を奪って、これを鎌倉の将士《しようし》に分与し、しかも義時《よしとき》は寸《すん》
|毫《こう》も取らず。人心《じんしん》いよいよ北条氏に服《ふく》して、鎌倉の権勢《けんせい》ますます盛《さか》んに、その威令《いれい》山
よりも重し。「天子御謀叛《てんしごむほん》!」の一|喝《かつ》、長《とこし》えに雷《らい》の如き余響《よきよう》を留めて、北条氏九代の久
しきに到るまで、これに対する悪反響を喚《よ》び起《おこ》さざりしもの、偏《ひとえ》に純武人的政治の、
|在来《ざいらい》の何《いず》れの政治にも優《まさ》りて多数人を心服せしむるに足れるものありしが故なり。
 しかして、北条氏を亡《ほろ》ぼしたるものもまた、純武人的政治より出でたる弊害《へいがい》のため
にあらずして、八代の貞時《さだとき》が年少にして自《みずか》ら恣《ほしいままま》にし、九代の高時《たかとき》が狗《いぬ》を尊《たつと》び人を賤《いや》
しみ宴《えん》を重んじて政《まつりごと》を軽《かろ》んじ、この二代の暴虐《ぽうぎやく》をもって七代の事業を破壊し尽した
るが故なるのみ。語を換《かえ》て云えば、北条氏が北条氏より退歩《たいほ》して、源氏《げんじ》をも後様《うしろざま》に飛《と》
び越《こ》え、端的《たんてき》に平氏となり藤原氏となりたるが故なるのみ。
 今日《こんにち》東北の僻陬《へきすう》に到り見よ。諸君は、婦人が腕白《わんぱく》なる小児を嚇《おど》し
|賺《すか》す目的のために、「モウコが来た! モウコが来た!」と云うを聞くことを得べし。
ひとたび、「そらモウコが来たぞ!」と呼べば、如何《いか》に拗《す》ねつむずかりつの態《たい》を尽しつ
つある悪童《あくどう》と雖《いえと》も、たちまち頭《かしら》を抱《かか》えて屏息《へいそく》せざるはなきなり。然《しか》らば、「モウコ」と
は果して如何《いか》なる性質の畏怖《いふ》すべきものを意味するかと問えば、彼等は唖然《あぜん》として答
辞《とうじ》に窮《きゆう》せざるを得ず。曰く、ただ因習《いんしゆう》によってこの語を発するのみにして、未《いま》だその
何なるかを考えしことなしと雖《いえど》も、恐らくは、妖魔《ようま》の人を食《くら》うものを意味するならん
と。
 されど、「モウコ」の意味決して解し難《がた》きにあらず。これ必ず鎌倉時代の中世に起り
て、一時は全日本を風靡《ふうぴ》したる警語《けいこ》なるべく、しかも、これに含《ふく》まれたる至強至烈《しきようしれつ》の
|権威《けんい》が、時代を経《ふ》るに随《したが》って、銷磨《しようま》すると共に、その語《こ》もまた多く国人《こくじん》の口に上《のぼ》らざ
るに到り、比較的|旧習旧慣《きゆうしゆうきゆうかん》を保存なしつつある東北|僻陬《へきすう》の地《ち》においてのみ、今日《こんにち》な
お消《き》えなんとしてわずかに痕跡《こんせき》を留むるを認むるものなるべし。「モウコ」はすなわち
「蒙古《もうこ》」にして、鎌倉時代における蒙古の来寇《らいこう》の、如何《いか》に我《われ》に対して恐慌《きようこう》を与えしかは、
今日なおこの語が人を威嚇《いかく》する権威《けんい》のまったく失われざるによりて、想像し得べから
ずや。実に、蒙古の来寇こそは我が国有史《くにゆうし》以来の恐怖なりしなれ。
 これより先《さき》、我が土御門《つちみかど》天皇の時代、支那《しな》においては宋《そう》の寧宗《ねいそう》の治世《ちせい》に当りて、蒙
古の酋長《しゆうちよう》に鉄木真《テムジン》なる者あり。不世出《ふせいしゆつ》の英資《えいし》をもってして四方を攻略し、ついには、
|諸酋長《しよしゆうちよう》を外蒙古《そともうこ》の北部オノン河の上《ほとリ》に会して、絶大なる皇帝を意味する成吉思汗《ジンギスカン》の尊
号《そんこう》を受く。これより世界を統《コ》一するの策《さく》を定め、まず進んで燕京《えんきよう》(今の北京《ペキン》)に都《みやこ》し、
|西向《さいこう》して印度《インド》を席捲《せつけん》し、波斯《ペルシヤ》、シリヤを蹂躙《じゆうりん》し、南は黒海よ
り北はバルチック海に到るまでの間を横行《おうこう》して、ついに匈牙利《ハンガリ 》に及《およ》びし、成吉思汗《ジンギスカン》が
|馬蹄《ばてい》の過《す》ぐる所、草再《くさふたた》び生《しよう》ぜずと云わしめ、その侵略《しんりやく》を被《こうむ》りたる欧亜《おうあ》数千里の区域は、
|成吉思汗《ジンギスカン》が五年間の劫掠殺戮《きようりやくさつりく》のために、爾後《じこ》五百年の間|故態《こたい》に復《ふく》すること能《あた》わざり
しだけそれだけ、残虐《ざんぎやく》の限《かぎ》りを尽《つく》し、世界において、最も広き範囲に最も大なる恐怖
を与えたる者の、空前絶後《くうぜんぜつこ》と称《しよう》せらるるに到《いた》りたり。
 その孫|忽必烈《クブライ》また雄烈《ゆうれつ》祖父に譲らず。我が第八十九代|後深草《ごふかくさ》天皇の正嘉《しようか》二年には、
すでに高麗《こま》を併呑《へいどん》して、半島より来《きた》るの腥風《せいふう》、我が辺
境《へんきよう》の草木《そうもく》をして色を変ぜしめんとす。支那《しな》もまた頻《しき》りにその大挙侵寇《たいきよしんこう》を受《う》けて、宋《そう》朝
の運命《うんめい》まさに破竹《はちく》の中《うち》に在《あ》り。されば、我《われ》に豪傑僧日蓮《こうけつそうにちれん》ありて、活眼蚤《かつがんはや》くも、全日本
の民に先だちて形勢の趨《おもむ》くところを看破《かんぱ》し、その佐渡《さど》に流さるるの前、すでに国難《こくなん》を
|絶叫《ぜつきよう》したりと雖《いえど》も、時人《じじん》夢なお濃《こまや》かにして、夜|未《いま》だ半《なか》ばならざるに鶏鳴《けいめい》を聞きたるも
のとなし、却って悪声《あくせい》としてこれを屏《しりぞ》けたるが、すでにして、第九十代|亀山《かめやま》天皇の文
永《ぶんえい》五年、稀有《けう》の英霊漢《えいれいかん》、無双《むそう》の豪快児《ごうかいじ》たる北条時宗《ほうじようときむね》が、十八歳の年少をもって起《た》って
鎌倉の執権《しつけん》となるや、果然眼中《かぜんがんちゆう》に東海の一小島国なき忽必烈《クプライ》は、一|恫喝《とうかつ》の下《もと》に我《われ》を威
服《いふく》せんことを試み、その臣黒的《しんこくてき》なる者をして図書を持せしめ、高麗《こま》を先導《せんどう》と為《な》して、
|傲然《こうぜん》として我に臨《のぞ》ましめぬ。京師震駭《けいししんがい》、人心恟《じんしんきようきよ》々たり《う》|。
 然《しか》れども、乞《こ》う憂《うれ》うることを休《や》めよ、我に相模太郎《さがみたろう》の胆甕《たんかめ》の如きあり矣《い》。時宗《ときむね》彼が
|書辞《しよじ》の無礼なるを憤《いきどお》り、我が朝廷の返牒《へんちよう》の体《たい》を失《しつ》して自《みずか》ら屈するを非なりとなし、使
者を責罵《せきば》してこれを追う。これよりして、蒙古《もうこ》は極力《きよくロノよく》我を屈せんとし、あるいは使
者を送りて威嚇《いかく》を重ね、あるいは軍兵を発して我が辺境《へんきよう》に残刻無比《ざんこくむひ》なる侵寇《しんこう》を試む。
ために、壱岐《いき》、対馬《つしま》二島の生民《せいみん》はまったく屠《ほふ》り尽され、その婦女は、ことごとく犯さ
れて後、その掌《てのひら》に縄を貫《つらぬ》きて縛《ばくア》され、我が武人の戦死したる者は、皆|腹《はら》を割《さ》いて、腸《はらわた》
を食《くら》わる。国人《こくじん》これを聞いて戦慄《せんりつ》せざるはなく、あるいはもって日本滅亡の期到ると
|做《な》せり。
 ただ時宗《ときむね》の儼《げん》として動かざるあり、第九十一代|後宇多《こうだ》天皇の建治《けんじ》元年九月、彼の使
杜世忠《つかいとせいちゆう》等を竜《たつ》の口《くち》に斬るの勇断《ゆうだん》を敢《あえ》てす。かくて弘安《こうあん》二年、忽必烈南宋《クプライなんそう》を亡《ほろ》ぼして支
那《しな》を統一《とういつ》し、国号《こくこう》を元《げん》と改むるや、その使再《つかい》び我《われ》に到りたるをもって、時宗|断《だん》一|層《そう》、重
ねて日本刀を揮《ふる》って虜使《りよし》の頭足《とうそく》を分《わか》ちぬ。
 弘安《こうあん》四年五月二十一日、元軍の先鋒《せんぽう》十余万|艨艟《もうどう》海を蔽《おお》うて来《きた》
れるは、すなわちこの結果なり。しかも日本男児善《にほんだんじよ》く戦い、なかんずく、文永《ぶんえい》年間|蒙《もう》古《こ》我が辺境《へんきよう》を劫掠《きようりやく》し、風濤《ふうとう》の漂《ただよ》わすところとなりて俄《にわか》に去りし時、「蒙古《もうこ》もし十年の
間に再《ふたた》び来《きた》らずんば、我自《われみずか》ら進んで必ず蒙古を討たん」との、痛快|無比《むひ》なる警語《けいこ》を吐
いて神に誓い、誓紙《せいし》を焼いてその灰を呑《の》みし奇矯《ききよう》の一男児、伊予国《いよのくに》の住人|河野通有《こうのみちあり》が、
|勇敢《ゆうかん》の士《し》十余人と共に決死隊《けつしたい》を組織し、軽舸《けいか》を飛ばして敵の艦隊の中間を突破し、檣《ほばしら》
を倒して一|大艦《だいかん》に上《のぼ》り、ことごとく艦上《かんじよう》の敵人を斬殺《ざんさつ》して、その将を擒《とりこ》にし、凱歌《がいか》を
|唱《とな》えて還《かえ》りたる、また、草野次郎《くさのじろう》、大友貞親《おおともさだちか》等が、選兵《せんべい》を率いて敵艦《てきかん》に夜襲《やしゆう》を試み、
しばしば奇功《きこう》を奏し如き、独り当時の敵胆《てきたん》を破り得たるに止まらずして、また長く日
本流|海戦術《かいせんじゆつ》のために模範《もはん》を垂《た》れたり。
 これによって、敵軍|軽《かるがる》々しく上陸すること能《あた》わず、まず退《しりぞ》いて肥前《ひぜん》の鷹《たか》の島《しま》に拠《よ》り
つつある間に、六月三十一日の夜半《やはん》、颶風《ぐふう》にわかに起りて、波濤《はとう》山を為《な》し、蛟竜魚鼈《こうりようぎよべつ》
皆|飛騰《ひとう》して天に昇り、蒙古の戦艦《せんかん》大半|覆没《ふくぼつ》して、溺死《できし》する者無数、敵将|范文虎《はんぶんこ》、忻都《きんと》、
|洪荼丘《こうときゆう》の徒《と》、辛《かろ》うじて堅艦《けんかん》を撰《えら》んで高麗《こま》に逃《のが》る。少弐景資《しようにかげすけ》等、機《き》に乗《じよう》じ風を犯して進
撃《しんげき》し、殺戮《さつりく》はなはだ多く降《こう》を乞《こ》う者一千余人もまた殺され、多《たた》々|良浜《らはま》i玄界洋《げんかいなだ》の底
の藻屑《もくず》となりたる者、実に蒙古軍《もうこぐん》十万余人に加うるに高麗軍《こまぐん》七千余人をもってし、海
面|為《ため》に陸に変じ、紅波溢《こうはあふ》れて陸を呑《の》むに至る。命を全《まつと》うせる余衆《よしゆう》三万三千人に過ぎず、
皆|高麗《こま》に向って去りぬ。
 しかして、この外《ほか》なお、鷹《たか》の島《しま》に在《あ》りて進退《しんたい》を失《うしな》いたる敵《てき》数千あり。張《ちよう》百|戸《こ》なる者
これが将《しよう》として、木を伐《き》り、船を修《しゆう》しつつ帰計《きけい》を講《こう》じ、糧《りよう》を絶《た》つことすでに三日に及《およ》
ぶ。七月四日、我が軍|諜《ちよう》してこれを知り、急に襲《おそ》うてこれを鏖《みなごろし》にし、わずかに、于
閭《うりよ》、莫青《ばくせい》、呉万五《ごまんご》の三人を赦《ゆる》して元《げん》に還らしめ、もって我が威武《いぶ》を告《つ》げしめたり。さ
しも国民をして、日本滅亡の期到れりと悲観せしめし元寇《げんこう》も、かくて案外《あんがい》容易に退散《たいさん》
し、彼をして再び我に加うること能《あた》わざらしめしもの、これ単に人力《じんりよく》のみにあらずと
|雖《いえど》も、また単に天力《てんりよく》のみにあらず。人力《じんりよく》と天力《てんりよく》と相俟《あいま》ち、日本男児の勇武《ゆうぶ》と颶風《ぐふう》と相
合期《あいがつき》したる結果なるのみ。一歩を進めて云えば、これ文人政治の賜《たまもの》にあらずして、武
人政治の賜《たまもの》なり。最も武人政治の神髄《しんずい》を会得《えとく》したる北条氏の全盛時代にして、その中
心人物に時宗《ときむね》の如き英霊漢《えいれいかん》ありしが故《ゆえ》に、能《よ》く此《かく》の如くなるを得たるなり。実にこれ、
|末代《まつだい》に至るまでの日本人の誇りなり。
 されど、元寇《げんこう》の日本に与えたる損害《そんがい》もまた非常にして、表面の計数《けいすう》以上|幾《いく》十倍なる
を知るべからざるを如何《いかん》せん。時宗《ときむね》十八歳以来、蒙古《もうこ》に対するに全力を尽《つく》して、三十
一歳にして彼《かれ》の大軍を鏖殺《おうさつ》し、始《はじ》めて、夢寐《むび》だにも忘れざ
りし深憂《しんゆう》を脱《だつ》し得《え》たりと雖《いえど》も、これがために精《せい》を尽し髄《ずい》を枯《か》らし報酬《ほうしゆう》として、稀有《けう》の
|英霊漢《えいれいかん》もその内部の損傷《そんしよう》に打ち勝つこと能《あた》わず、弘安《こうあん》七年四月、空《むな》しく三十四歳の壮
齢《そうれい》をもって、その青年的人物としての伝記《でんき》を閉じ、北条氏滅亡の機を早《はや》むべく天《てん》より
|下《くだ》されたるかの如き怪少年|貞時《さだとき》が、父に代って執権《しつけん》となりたる。これ元寇《げんこう》のための損
害のはなはだ大なるものと認《みと》めざるを得《え》ず。
 しかのみならず、十四年の長きに連《つらな》りたる頻《ひんびん》々の警報は、闔国《こうこく》の生民《せいみん》をし
てその業に安《やす》んずること能《あた》わざらしめ、殊《こと》に文永《ぷんえい》十一年と弘安《こうあん》四年とには、遑《こうこう》々とし
てほとんどまったく業を廃し、生産機関《せいさんきかん》の運転《うんてん》一時休止の状態なりしに、外患《がいかん》に備《そな》う
るために国民の負担《ふたん》せしところもまた莫大《ぱくだい》にして、人民の疲弊疾苦《ひへいしつく》は、むしろ外寇《がいこう》の
|蹂躙《じゆうりん》を受けたるに近きものあり。またこれ、元寇《げんこう》のための損害《そんがい》の主《おも》なものならざるに
あらざるなり。故《ゆえ》に外寇《がいこう》を恐怖《きようふ》し厭忌《えんき》するの念《ねん》が、如何《いか》ばかり深く当時の日本人の骨
髄《こつずい》に鏤刻《ろうこく》されしかは、必ず今日《こんにち》の想像以上ならざるべからずして「蒙古《もうこ》!」とさえ云
えば、何人《なんびと》も身を震《ふる》わせ色を変《へん》じて、眼前《がんぜん》に腸《はらわた》を食《くら》う獰悪《どうあく》の敵人が現れ出《い》でたる心地《ここち》
し、如何《いか》なる歓楽《かんらく》の席にても、過《あやま》って「蒙古」の二字を口より漏らす者ある時は、た
ちまち妖魔《ようま》の襲《おそ》い到りたるが如く、興《きよう》も酒《さけ》も醒《さ》めて果《は》てしなるべきを思う。然《しか》らずん
ばたとえ東北の僻陬《へきすう》にもせよ、六百年以後の今日《こんにち》において、なお「蒙古《もうこ》が来た!」の
一|語《こ》に悪童《あくどう》を慴伏《しようふく》 せしむるの権威《けんい》を留《とど》むるを得《え》ざるべきなり。
 宴飲《えんいん》の際《さい》、上下尊卑《じようげそんぴ》の階級を撤《てつ》し、親疎生熟《しんそせいじゆく》の差別《さべつ》を忘れて、礼法の覊絆《きはん》を脱しつ
つ、ひたすら歓楽《かんらく》を尽《つく》すを、一|般《ばん》に「無礼講《ぶれいこう》」と呼ぶは、今日《こんにち》なお予輩《よはい》の便宜《べんぎ》として
用うるところなるが、その無礼講《ぶれいこう》なる文字《もんじ》の、かかる場合に用い始められたる根源《こんげん》を
|探《さぐ》り来《きた》れば、また特殊の意味を含蓄《がんちく》せる一種の警語《けいご》なるを認《みと》めずんばあらざるなり。
 第九十六代|後醍醐《ごだいこ》天皇、英邁豪華《えいまいこうか》の資《し》をもってして、高時《たかとき》が人心《じんしん》を失《うしな》えるに乗《じよう》じ、
北条氏を亡《ほろ》ぼさんことを謀《はか》り給うや、美濃《みの》の武人|土岐頼員《ときよりかず》、多治見国長《たじみくになが》等、皇権《こうけん》回復
の陳勝呉広《ちんしようここう》としてその議《ぎ》に与《あずか》れり。ここにおいて、北条氏の耳目《じもく》を避《さ》くると共に、武
人の歓心《かんしん》を買うべく、天皇は公卿武士《くげぶし》および宮女《きゆうじよ》を混淆振蕩《こんこうしんとう》しての、雑然《ざつぜん》たる宴席《えんせき》を
|宮中《きゆうちゆう》に開き給えり。時|恰《あたか》も元弘《げんこう》元年の夏、花の如き後宮《こうきゆう》の美女は、皆|裸体《らたい》を生絹《すすし》の帷
子《かたびら》に包みて、その雪白《せつばく》の肉を透《す》かし視《み》るべく、もって宴《えん》に侍《じ》し酒を行《や》り、座間《ざかん》を翩翔《こうしよう》
す。優美なる公卿《くげ》と、俊爽《しゆんそう》なる武士と、酒と、歌と、管《かん》と、絃《げん》と、半裸体の幾多《いくた》の美
人と、それ等の対照|何《なん》ぞ非時代的なる。肉《にく》の香《か》と酒《さけ》の臭《におい》とは、鉄石《てつせき》の人をもまた爛酔《らんすい》
せしめずんば已《や》まず。その自由にして新味《しんみ》あること、宛然西欧《えんぜんせいおう》の歓楽郷《かんらくきよう》なり。かくて、
天皇は寵姫《ちようき》の膝《ひざ》に凭《よ》りつつ簾《すだれ》を隔《へだ》ててこの光景を賞観《しようかん》し給う。これ天皇の創意《そうい》に出《い》で
たるものにして、名《な》づけて「無礼講《ぶれいこう》」と云い給いしもまた天皇なり。誰《たれ》かこの間《かん》に、
時代を顛覆《てんぷく》すべき秘策《ひさく》の寓《ぐう》せられつつあるを知らんや。
 無礼講《ぶれいこう》なる文字《もんじ》の濫觴《らんしよう》 此《かく》の如くにして、その内容|此《かく》の如く複雑《ふくざつ》に、
その意味|此《かく》の如く奇抜《きばつ》なり。ただ、天皇の態度余りに浮華《ふか》に失《しつ》するの嫌《きら》いなき能《あた》わざ
りしが、果然《かぜん》、密謀《みつぼう》速やかに漏れて、頼貝《よりかず》、国長《くになが》は容易にその元《こうべ》を失い、天皇|逃《のが》れて
|笠置《かさぎ》に入《い》り給うの悲惨《ひさん》を招《まね》き来《きた》りぬ。
 予《よ》はすでに、武人《ぷじん》の発達《はつたつ》が一歩々々にその特殊《とくしゆ》の色彩を顕著《けんちよ》ならしめつつ、ついに
前例なき純武人的政治を創始して、十分なる効果を示《しめ》せるを認め、しかして、その間
より幾多|警語史《けいこし》の材料を発見し来《きた》りたるが、この小著《しようちよ》においては余りに多くを語るこ
と能《あた》わざるをもって、予《よ》の警語史《けいこし》をして、ただちに大踏歩《だいとうほ》の一|転進《てんしん》を為《な》して、日本歴
史中の精華《せいか》なる群雄割拠《ぐんゆうかつきよ》時代に入《い》らしむる前、ここに、蒙古《もうこ》の来寇《らいこう》を動機《どうき》と為《な》して別
方面に進路を開きつつ、南北朝《なんぼくちよう》時代より足利《あしかが》時代に連《つらな》り、海賊《かいそく》の名において支那朝鮮《しなちようせん》
に雄飛《ゆうひ》を試み、多くの痛快なる記録《きろく》を留めたる、我《わ》が波濤《はとう》の健児《けんじ》  中国《ちゆうごく》、南海《なんかい》、西
海《さいかい》の好武人《こうぶじん》の事蹟《じせき》を点検《てんけん》して、大陸半島の人士《じんし》よりこれ等の者に与えたる讃美《さんび》の警語《けいこ》
を拾集し、もってこの一段の局《きよく》を結ばんとす。
 我《わ》が海賊的健児《かいそくてきけんじ》、すなわち支那人および朝鮮人のいわゆる倭寇《わこう》は、実に、「蒙古《もうこ》もし
十年の間に再《ふたた》び来《きた》らずんば、我自《われみずか》ら進んで必ず蒙古を討たん」と神に誓《ちか》い、誓紙《せいし》を焼《ゃ》
いてその灰を呑《の》みし、かの河野通有《こうのみちあり》一流の快男児《かいだんじ》が、蒙古《もうこ》の来寇《らいこう》に報復《ほうふく》せんことを思
いて海を渡りたるをもって、その嚆矢《こうし》と為《な》すなり。しかも、通有《みちあり》の後《のち》なる伊予《いよ》の河野
氏《こうのし》は、日本海賊《にほんかいそく》の大問屋総元締《おおどいやそうもとじめ》にして、自《みずかコ》ら波濤《はとう》の支配者をもっており、その家門《かもん》の
|繁栄富饒《はんえいふじよう》時代に冠絶《かんぜつ》し、門葉《もんよう》の多きこと河野《こうの》の十八
|家《け》と称《しよう》せらるるを致《いた》したるが、すでにして後醍醐《こだいこ》天皇の延元《えんげん》三年五月、南朝のために
|摂津国安倍野《せつつのくにあべの》に戦死せし、中納言|鎮守府将軍北畠顕家《ちんじゆふしようぐんきたばたけあきいえ》の遺子山城守師房《いしやましろのかみもろふさ》なる者、豪
傑《ごうけつ》の風《ふう》をもってして、来《きた》って十八|家《け》の一なる村上氏《むらかみし》を継ぐや、河野の一族皆これを仰《あお》
いで首脳《しゆのう》と為《な》し、ついには、師房《もろふさ》全日本の海賊的健児を統一して、日本における海賊《かいそく》
の最上主権者となり、海賊大王中《かいそくだいおうちゆう》の大々王となり、海賊をして組織的行動《そしきてきこうどう》を為《な》し得《う》べ
く進化せしめ、同時に、後醍醐の皇子にして、第九十七代南朝|後村上《ごむらかみ》天皇の時代に太
宰府《だざいふ》を鎮護《ちんこ》せし、征西将軍懐良親王《せいせいしようぐんかねながしんのう》と好《よし》みを通じ、九州の海岸に碇泊地《ていはくち》を置いて、盛
んに支那朝鮮《しなちようせん》に遠征を試むるに到りたり。
 師房《もろふさ》死して、その子|義顕継《よしあきつ》ぎ、義顕《よしあき》の子|雅房《まさふさ》またその後《のち》を襲《おそ》い、累代山城守《るいだいやましろのかみ》と称《しよう》し
て、共に海賊大王《かいそくたいおう》たり、ヒーローたり、一指を動かして大陸半島を震憾《しんかん》せしむる巨人
たり。南北両朝対立して、国家の紀綱弛漫《きこうちまん》を極《きわ》めたるに乗《じよう》じ、小島国日本の内部にお
ける得失興廃《とくしつこうはい》を見て、一笑にだも価せずと做《な》し、支那、朝鮮より、安南《アンナン》、暹羅《シヤム》、呂宋《ルスン》、
|馬剌加《マラツカ》、印度《インド》の大範囲に及《およ》ぼして、八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の軍旗《ぐんき》を翻《ひるが》えしたる船舶《せんばく》を浮《うか》べ、半面《はんめん》
は侵略的《しんりやくてき》に、半面《はんめん》は通商的《つうしようてき》に、機宜《きぎ》に応じて適当の挙措《きよそ》に出《い》でつつ、到《いた》る所に満足な
る解決《かいけつ》を与《あた》えられざるはなく、予輩《よはい》をして、正史《せいし》以外に見出だされたる祖先の活動の
記録が、実に特筆大書《とくひつたいしよ》に価するものあるを見て、ひとたびはまず驚愕《きようがく》を禁ずる能《あた》わざ
らしめ、しかして後《のち》、欣喜《きんき》に堪《た》えざるものあらしめんとす。
 かくて、第九十八代南朝|長慶天《ちようけい》皇の天授《てんじゆ》三年(高麗王辛禍《こまおうしんぐう》の三年)五月には、我が
|海賊軍《かいそくぐん》の半島に加えたる打撃《だげき》の酷烈《こくれつ》なる、国都《こくと》まさに危《あやう》からんとして、高麗王をして
|遷都《せんと》を議《ぎ》せしむるの極《きよく》に及《およ》び、降《くだ》って、第百五代|後奈良《こなら》天皇の天文年間《てんもんねんかん》には、明《みん》の亡
命客王直《ぽうめいかくおうちよく》なる者、覇王的器度《はおうてききど》を有して、来《きた》って我が肥前平戸島《ひぜんひらとじま》に住《す》み、自《みずか》ら徽王《きおうし》と称《よう》
して、日本支那《にほんしな》両国の海賊《かいそく》を結合するの任に当《あた》り、同時に海賊《かいそく》の大資本主《だいしほんしゆ》となり、深
く日本人の勇武《ゆうぶ》に信頼して、常に「日本人一万あらば、必ず明朝《みんちよう》を滅《ほろ》ぼして支那《しな》を取ることを得《う》べし」と云いつつありしが、ついにはこの声言《せいげん》を事実に現すべく、天文《てんもん》二
十二年五月(明《みん》の嘉靖《かせい》三十二年)、空前《くうぜん》の大倭寇《だいわこう》を起して、これより三年を経たる弘治《こうじ》
二年に到るまで、大陸の各地を縦横《じゆうおう》せしめ、ただ日本人の数一万に満たずして、しか
も彼地《かのち》に上陸するや、無数の小部隊に分裂《ぶんれつ》しつつ、火《ひ》の粉《こ》の如く八方に分散《ぶんさん》したるを
もって、王直《おうちよく》の予期《よき》せしが如き偉功《いこう》を奏《そう》すること能《あた》わざりしと雖《いえど》も、到《いた》る所、都府《とふ》を
|焚《や》き、州郡《しゆうぐん》を陥《おとしい》れ、官軍《かんぐん》を敗《やぶ》り、富豪《ふごう》を掠《かす》めて、大国の朝廷をしてその処置に窮《きゆう》せし
めたる事実《じじつ》あり。
 その他|支那朝鮮《しなちようせん》における我が海賊的健児《かいそくてきけんじ》の驚歎すべき活動の実例は、彼国《かのくに》の史乗《しじよう》に収められたる記録より、著大《ちよだい》なるそれのみを抜萃《ばつすい》し来《きた》るも、なお十|指《し》を
|屈《くつ》するに余《あま》りあるなり。これにおいて予輩《よはい》は、彼国《かのくに》の史家が苦心洗錬《くしんせんれん》の余《あま》りに成《な》りた
る警語《けいご》を列《つら》ねて、日本人の勇武絶倫《ゆうぶぜつりん》なるを嘆美《たんび》するに、筆端《ひつたん》の到《いた》らざる所あらんかを
恐るるの状《じよう》あるを見、国史中に見出だされたる警語に対すると、まったく別様《べつよう》の興味
を感ぜずんばあらず。
 曰《いわ》く、「刀《かたな》長さ五|尺《しやく》。双刀《そうとう》を用うれば丈余《じようよ》の地に及《およ》ぶ。また手を加えて舞う。鋒《ほう》を
|開《ひら》けばおよそ一|丈《じよう》八|尺《しやく》。舞動《ぶどう》すれば上下《しようか》四|旁《ほう》ことごとく白《しろ》うしてその人を見ず」と、
これ彼の眼《まなこ》に映《えい》ずる日本刀にあらずや。何《なん》ぞその造語《ぞうご》の奇警《きけい》にして、その形容の歎美《たんぴ》
を極《きわ》めたる。曰く、「倭《わ》の竹弓《ちくきゆう》長さ八尺。足をもってその誚《しよう》を踏《ふ》み、立ちながら矢を
発す。矢は海蘆《かいう》をもって幹《みき》となし、鉄をもって鏃《やじり》となす。鏃《やじり》の濶《ひろ》さ二|寸《すん》、燕尾《えんび》をなす。
重さ二、三|両《りよう》。身に近づいてすなわち発す。中《あた》らざることなし。中《あた》ればすなわち人|立《た》
ちどころに倒る」と、これ彼の眼《まなこ》に映《えい》ずる日本の弓箭《きゆうぜん》にして、極力讃歎《きよくりよくさんたん》を払うこと、
また日本刀に対するに譲らざるを見《み》るべし。
 曰く、「衆《しゆう》皆刀を舞《ま》わして起《た》ち、空《くう》に向って揮霍《きかく》す。我が兵|倉皇《そうこう》として首を仰げば、
すなわち下より斫《き》り来《きた》る」と。また曰く、「衆奴《しゆうと》刀を揮《ふる》うこと神の若《ごと》し」と。さらに日
く、「島夷《とうい》出没|飛隼《ひじゆん》の如し」と。これ、彼の眼《まなこ》に映《えい》ずる日本人なり。我が戦士《せんし》なり。桓
武《かんむ》時代以来訓練を重ねられて、まったく理想的に発達したる我が武人の、戦場におけ
る馳突飛躍《ちとつひやく》の状態は、生温《なまぬる》き大陸人よりこれを見て、人間以上の者に対する感を起《おこ》し
たるに相違《そうい》なし。
 しかして、彼等は日本人の勇武《ゆうぶ》なるを驚異《きようい》するのあまり、ついには、「その国の西南《せいなん》
に鬼国《きこく》あり。利鏃《りぞく》を出《い》だす。しかして人|闘《たたか》いを好む。倭人人寇《わじんにゆうこう》するや、多くその人を
|募《つの》る。白番鬼《はくばんき》あり、黒番鬼《こくばんき》あり、すなわち古《いにしえ》の崑崙奴《こんろんと》なり。面深黒《おもてしんこく》にして、善《よ》く闘い
|妄《みだり》に死す。倭《わ》の勝《かち》を取る、大率《おおむね》これを前矛《ぜんぽう》と為《な》す」などと、極力|臆測《おくそく》を逞《たくま》しうして、
人を驚殺《きようさつ》しつつ併《あわ》せて己《おの》れ自身を驚殺《きようさつ》するの解説を下《くだ》さざれば、已《や》むこと能《あた》わざるに
|到《いた》れり。これ、我が薩摩《さつま》あるいは土佐辺《とさへん》より出《い》でたる、色黒く形《かたち》恐ろしき勇士《ゆうし》を見て、
これを神秘化したるものなるべく「善《よ》く闘い妄《みだつ》に死す」の一語、実に、彼の眼《まなこ》に映ず
る我が武人の面目《めんもく》を描《えが》き出《い》だして剴切《がいせつ》を極めたり。明史《みんし》に明記して曰く、「寇舶《こうはく》到ればすなわち風《ふう》を望んで逃匿《とぬつとく》す。しかして、上《かみ》またこれを統御《とうぎよ》する者あるなし。故《ゆえ》をもって、賊帆《ぞくはん》の指《ゆびさ》す所|残破《ざんば》せざるはなし」と、我が威力の彼を風靡《ふうび》する状勢を道破《どうは》し得て、またこれ一|警語《けいこ》たるを失わずと做《な》す。区《くく》々たる我が辺海《へんかい》の私兵にして、しかも彼の憂《うれ》いたりしこと此《かく》の如し。
 豊臣秀吉《とよとみひでよし》の外征《がいせい》にして、天もし秀吉に仮《か》すになお十年の齢《よわい》をもってせば、すでに三百余年前において、支那《しな》および朝鮮《ちようせん》の地図をして色彩《しきさい》を変ぜしむることを得たりしならんとは、我も人も正当に推測《すいそく》し得るところなるが、此《かく》の如く可能性に富みし秀吉の外征もまた、海賊を草分《くさわけ》と為《な》し、海賊を先達《せんだつ》と為《な》し、海賊が雄飛《ゆうひ》の物語に功名心を刺戟せられしために、起されたるものとすれば、予輩《よはい》は、彼国《かのくに》の史家文士《しかぶんし》が日本人の勇武《ゆうぷ》を讃歎《さんたん》すべく発せし警語の、これがためにさらに一段の光輝《こうき》を加うるを覚ゆるなり。

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