|新しいページ|検索|ページ一覧|RSS|@ウィキご利用ガイド | 管理者にお問合せ
|ログイン|

江戸川乱歩「妻に失恋した男」


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 わたしはそのころ世田谷警察署の刑事でした。自殺したのは管内のS町に住む南田収一という三十八歳の男です。妙な話ですが、この南田という男は自分の妻に失恋して自殺したのです。「おれは死にたい。それとも、あいつを殺してしまいたい。おい、笑ってくれ。おれは女房のみや子にほれているのだ。ほれてほれてほれぬいているのだ。だが、あいつはおれを少しも愛してくれない。なんでもいうことはきく、ちっとも反抗はしない。だが、これっぽっちもおれを愛してはいないのだ。

 よくいうだろう、天井のフシアナをかぞえるって。あいつがそれなんだよ。『おいっ』と、おこると、はっとしたようにあいそよくするが、そんなの作りものにすぎない。おれは真からきらわれているんだ。

 じゃあ、ほかに男があるのかというと、その形跡は、少しもない。おれは疑い深くなって、ずいぶん注意しているが、そんな様子はみじんもない。生まれつき氷のように冷たい女なのか。いや、そうじゃない。おれのほかの愛しうる男を見つけたら、激しい情熱を出せる女だ。あいつは相手をまちがえたのだ。仲人《なこうど》結婚がお互いの不幸のもとになったのだ。

 結婚して一年ほどは何も感じなかった。こういうものだと思っていた。二年、三年とたつにつれて、だんだんわかってきた。あいつがおれを少しも愛していないことがだよ。不幸なことに、おれのほうでは逆に、年がたつほど、いよいよ深く、あいつにほれていったのだ。そして、半年ほど前から、その不満ががまんできないほど激しくなってきた。こうもきらわれるものだろうか,だが、.いくらきらわれても、おれはあいつを手ばなすことはできない。ほれた相手に代用品なんかあるもんか。ああ、おれはどうすればいいのだ。

 おれは、あいつを殺してやろうと思ったことが、何度あるかしれない。だが、殺してどうなるのだ。相手がいなくなったからって、忘れられるもんじゃない。おれは失恋で死んでしまうだろう。

 しかし、もう一日もこのままじゃいられない。あいつが殺せないなら、おれが死ぬほかないじゃないか。おれは死にたい、死にたい、死にたい」

 こんなよまいごとを、直接聞いたわけじゃありません。南田収一が酔ったまぎれに、涙をこぼしながら、わめきちらしたことが、たびたびあったと、南田の親しい友だちから、あとになって聞きこんだのです。その友だちは、こわいろ入りで話してくれましたが、まあこんなふうだったろうと、わたしが想像してお話しするわけですよ。

 ある晩、南田収一は自分の書斎のドアに中からカギをかけて、小型のピストルで自殺してしまいました。わたしはその知らせをうけて、すぐに同僚といっしょに、S町の南田家へかけつけました。

 そのときはまだ、自分の妻に失恋して自殺したなんて少しも知らないので、自殺の動機をさぐり出すのに、たいへんほねがおれました。

 南田の父親は戦後のどさくさまぎれに財産を作った男で、南田収一はその財産を利殖して暮らしていればよいのでした。父母は死んでしまい、兄弟もなく、うるさい親戚《しんせき》もないといううらやましい身の上でした。つきあいも広くはなく、夫婦で旅行をしたり、いっしょに映画やしばいを見るぐらいが楽しみで、近所では実に仲のよいしあわせな夫婦だと思いこんでいました。変事の知らせがあったのは夜の九時半でしたが、かけつけて奥さんのみや子さんに聞いてみると、そのとき、女中は母親が病気で午後から千住の自宅へ出かけてまだ帰らず、主人は虫歯が痛むといって、琴浦という近所の歯科医へ行って、帰ったかとおもうと、そのまま洋室の書斎へとじこもってしまって、なにか考えごとにふけっている。奥さんは手持ちぶさたに、茶の間で編みものをしていたというのです。

 すると、書斎のほうで、なにかへんな音がした。表の大通りからオートバイなどの爆音がよくきこえてくるので、へんな音にはなれていたけれど、今のはなんだか感じがちがう。それに、主人が毎日ひどくふさいでいたことも気にかかるので、書斎へ行ってドアをあけようとしたが、中からカギがかかっている。いくらたたいても返事がない。合いカギというものが作ってないので、そとへまわって、ガラス窓からのぞいてみると、主人があおむけに倒れて、口から血が流れていたというのです。

 わたしたちも、その窓のガラスを破って書斎にはいり、机の上にあったカギでドアをひらきました。

 南田収一は黒いセビロを着て、あおむけに倒れていました。口と後頭部が血だらけで、息が絶えていることは、一見してわかりました。あとから警視庁鑑識課の医者がしらべましたが、南田は小型ピストルの筒口を口の中へ入れて発射したのです。後頭部が割れて、ひどい状態になっていました。

 貫通銃創ですから、ピストルのたまがどこかになければなりません。室内を調べてみると、そのたまは一方のシックィ壁に深く突き刺さっていました。南田はその壁の前に立って自殺したのです。遺書らしいものは、いくら捜しても発見されませんでした。

 むろんピストルの出所が問題になりました。許可を受けて所持していたわけではなかったのです。これは戦争直後、南田の父親がアメリカ人からもらったもので、たまといっしょに机の引き出しの奥にしまったまま、奥さんなどは忘れてしまっていたということでした。

 密室の中の自殺で、ピストルは南田が右手に握ったままなのですから、これはもう少しも疑うところはありません。自殺にちがいないと判断されました。

 いくら疑いのない情況でも、警察の仕事はそれで終わるわけではありません。自殺の動機を調べてみなければならないのです。

 わたしは奥さんにそれをたずねる役を引きうけました。事件の翌日、少し気のしずまるのを待って、南田家の茶の間でさし向かいになり、いろいろたずねてみました。

 みや子さんは。南田があれほど恋したのも無理はないほど魅力のある女性でした。年は二十八歳、南田がやせっぽちの小男なのにくらべて、上背《うわぜい》のある豊かなからだで、目のさめるような美しい人でした。

 奥さんと話しているうちに、わたしは何か隠しているなという感じを受けました。しかし、そう深くたずねるわけにもいきませんので、故人の友だちを教えてもらって、次々とあたってみることにしました。そして、最初にお話しした親しい友だちを見つけ、南田の奇妙な失恋の話を聞きこんだのです。

 そこで、もう一度奥さんに会って、うまく話を持っていきますと、奥さんもちゃんとそれを知っていたことがわかりました。主人のその気持ちはわかっていたが、自分にはあれ以上どうすることもできなかった。主人は精神異常者だったのではないかというのです。

 しかし、わたしには、みや子さんがいわゆる冷たい女だとは、どうしても考えられませんでした。こういう女に冷たくしむけられたら、南田がもだえたのも無理はないとさえ思いました。

 これで自殺の動機は推定されたのです。普通の人間はそんなことで自殺はしないでしょうが、病的な神経の持ち主ならば、そういう気持ちにならないともかぎりません。そこで、この事件はいちおうけりがついたわけです。

 ところが、わたしはこの結論に満足しなかったのです。自分の妻に失恋して自殺したというのは、人間心理の一つの極端なケースとして、小説にでも書けばおもしろいかもしれませんが、わたしにはどうも納得できませんでした。長年刑事をやってきた経験からの勘というやつが承知しないのです。

 ですから、この事件が警察の手をはなれてからも、わたしは余暇を利用して、もっと深くさぐってみようと決心しました。実はそういう抜けがけの功名みたいなことは禁じられているのですが、余暇を利用して、個人としてやるのならかまわないと思いました。

 わたしは南田家の近所から聞きこみをしようと、いろいろやってみましたが、何も出てきません。みや子さんも一週間に一度ぐらいたずねて、むだ話をしました。しかし、ここからも何も引き出せません。

 みや子さんは主人の葬式をすませると、広い家に女中とふたりで、つつましく暮らしていました。むろん、南田の財産はみや子さんのものになるのです。その額は三千万円を下らないだろうということでした。

 わたしは、ふと、南田が自殺の直前に琴浦という近所の歯科医院へ行ったということを思い出し、そこをたずねてみました。事件の当時にも、「自殺するものが歯を直したってしかたがないじゃないか」と思ったので、みや子さんに聞いてみましたが、この夫妻はふたりとも歯性が悪く、たえず近所の琴浦歯科医院へかよっていて、南田は自殺の前にも虫歯が激しく痛みだし、ともかくその痛みをとめるために歯医者へかけつけたのだろうということでした。歯医者へ行ったときには、まだじゅうぶん決心がついていなかったのかもしれません。そして、書斎で物思いにふけっているあいだに、とうとう自殺する気になったのかもしれません。こういう微妙な点は、常識だけでは判断できないものです。

 琴浦という歯医者は、南田家の裏にあたるT町の大通りにありました。歩いて三分ぐらいの距離です。琴浦医師は一年ほどまえ奥さんに死なれて、子どももなく、かよいの看護婦と女中だけで暮らしているということでした。四十ぐらいのがっしりした男で、まゆの太い骨ばった浅黒い顔で、背も高く、肩幅も広く、スポーツできたえたようなたのもしい体格です。聞いてみると、南田が自殺の直前、虫歯の痛みをとめてもらいに来たのは事実で、しかし、歯の痛みだけでなく、何か非常にゆううつな様子だったというのです。それ以上のことは何もわかりませんでした。

 それから三カ月ほど、わたしは執念深くこの事件に食いさがりました。故人の友だち関係は申すまでもなく、あらゆる方面を調べました。琴浦歯科医院に出入りする薬屋や医療器械店までたずねたほどです。

 すると、Kという医療器械店の店員から、へんなことを聞きこみました。事件の直後、琴浦医院の治療室にある手術イスの差しこみになったまくらだけを一個、至急持ってくるようにと、注文を受けたというのです。では、古いのと取りかえたのかと聞きますと、古いのは薬品でよごしたので捨ててしまったといわれるので、取りかえでなく新しいのだけを渡したという返事でした。

 わたしは、このちょっとした事実にこだわりました。こだわる理由があったのです。そこで、琴浦医師にはないしょで、女中さんに、古いまくらを捨てたことはないか、ゴミ箱にそういうものがはいっていなかったかとただし、また、その辺を回っているゴミ車の人夫をとらえて、聞き出そうとしたり、手をつくして調べました。しかし、だれも古いまくらを見たものはないのです。

 琴浦医師はその古いまくらを焼きすてたのではないかと想像しました。手術イスのまくらを、なぜ焼きすてなければならなかったか。

 わたしは一つの仮説をたてていました。非常にとっぴな仮説ですが、そこにこの事件の盲点があるのではないかと考えたのです。そして、琴浦氏がまくらを焼きすてたという想像は、このわたしの仮説とぴったり適合したのです。

 みや子さんもたびたび琴浦医師に歯の治療をしてもらっていたということを聞いたときから、わたしは一つの疑いをもっていました。みや子さんは琴浦医師に、はじめて真に愛しうる男性を見いだしたのではないか。そして、ついにふたりは共謀して南田を殺害するにいたったのではないかという考えです。治療イスのまくらを新しくしたという事実が、この考えを強力に裏書きしました。

 わたしは琴浦とみや子さんの身辺に、いよいよ執念ぶかくつきまといました。ふたりが話し合っているへやのぞとから立ち聞きしたこともたびたびでした。

 そして、南田が死んでから、ちょうど三月めに、ふたりは恐怖に耐えられなくなって、とうとう、わたしの前にかぶとをぬいだのです。

 みや子は南田に対して極度に用心ぶかくしていました。南田の生前には、琴浦と最後の関係におよんでいなかったほどです。看護婦の目を盗んで、ささやきと愛撫《あいぶ》だけでがまんしながら、そのがまんのつらさゆえにこそ、ついにこの完全犯罪ともいうべき殺人を計画するにいたったのです。むろん、三千万円の相続ということも、強い動機でした。

 琴浦はなぜ治療イスのまくらを焼きすてたか。そのまくらはピストルのたまで射抜かれ、血のりでよごれたからです。それが恐ろしい他殺の証拠になるからです。

 犯人が被害者の口の中ヘピストルのつつ先を入れて発射するなんて、まったく不必要なことですし、普通の場合、ほとんど不可能な方法です。したがって、口中にピストルをうちこんだ死体を見たら、だれでも自殺としか考えないでしょう。その裏をかいたのがこの犯罪でした。

 歯科医はいろいろな金属の器具を患者の口の中に入れて治療します。そのとき思者はたいてい目をつぶっているものです。たとえ目をあいていても、視角をはずして下のほうからピストルを近づけ、その先を口の中へ入れれば、やはり治療の器具だとおもって、患者はじっとしているでしょう。そこで手早く発射すればよいのでした。

 そのとき看護婦はもう家へ帰っていましたし、女中は口実を設けて使いに出してありました。また、問題のピストルは、みや子が主人の机の引き出しの奥から取り出して、前もって琴浦に渡しておいたのです。

 ピストルのたまが南田の頭蓋骨《ずがいこつ》を貫通し、まくらの木をつらぬいて床におちたのを、あとで南田家の書斎の壁にたたきこんておいたというのです。柔らかいものを当てて、金ヅチでたたいたのです。

 この犯罪には、もう一つつこうのよい条件がありました。南田家と歯科医院は、表から回れば三分もかかりますが、裏口は、草のしげったあき地をへだてて、つい目と鼻のあいだに向かい合っていたことです。琴浦とみや子は、治療室の死体を、夜にまぎれて裏口から南田家の書斎へ運び、指紋をふきとったピストルを死体の手に握らせ、別のカギでドアをしめました。カギはほんとうに一つしかなかったのですが、歯科医ですから、みや子に型をとらせて合いカギを鋳造するぐらいわけのないことでした。

                   (「サンケイ新聞」昭和三十二年十月より五回連載)
メニュー

更新履歴
取得中です。