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江戸川乱歩「堀越捜査一課長殿」

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amizako

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       異様な封書

 警視庁捜査一課長|堀越貞三郎氏《ほりこしていざぶろうし》は、ある日、課長室で非常に分厚い配達証明の封書を受け取った。

 普通のものよりひとまわり大きい厚いハトロン封筒で、差し出し人は「大阪市福島区玉川町三丁月、花崎正敏《はなさきまさとし》」とあり、表面には東京警視庁のあて名を正しく書き、「堀越捜査一課長殿、必親展」となっていた。なかなかしっかりした書体なので、よくある投書にしても、軽視はできないように感じられた。堀越課長は封筒の表と裏をよくあらためたうえで、ペンナイフで封を切ったが、そのとき、「わざわざ東京へ送ってよこしたのは、東京警視庁管内に関係のあることがらだな」と考えた。しかし、思い出してみても、花崎正敏という人物には、まったく心当たりがなかった。

 封筒をひらくと、中にもう一つ封筒がはいっていた。そして、その封筒を包むようにして五枚とじの書簡箋《しよかんせん》が同封してあった。まずそれをひろげてみると、そこには、外封の書体と同じ筆跡で、こんなことがしるしてあった。

「わたしは大阪市内で発行しております『関西経済通信』編集長、花崎正敏というものでございます。一面識もないわたしから、突然手紙をさしあげますのには、深い理由があるからであります。わたしは今から一カ月ほどまえ、大阪市此花区春日出町二丁目の福寿相互銀行取締役、北園壮助氏から、同封の封書を手渡されました。北園氏はそのとき、重患の病床にあったのですが、『ぼくはあと一カ月も生きられるかどうかわからない。医者は隠しているけれど、自分には死期の近づいていることが、よくわかる。この封書をきみに預けるから、ぼくが死ぬまでたいせつに保管して、ぼくが死んだら、すぐに東京の警視庁の堀越捜査,一課長あてに、配達証明郵便で送ってくれ。ぼくはきみを信用して、これを頼むのだ。この封筒の中には、非常に重大な文書がはいっている。ぼくが死ぬまでは、だれにもうちあけたくない秘密が封じこめてある。だから、きみもけっして封をひらいてはいけない。きみを男と見こんで頼むのだ。約束してくれたまえ。けっしてこの中を見ないことと、ぼくが死んだら、必ずすぐに堀越氏あてに送ることを、誓ってくれたまえ』北園氏は、実にしんけんな調子で、そういわれたのです。わたしはそれを引きうけました。約束どおり、この封筒の中は見ておりませんから、どういう文書がはいっているかは、まったく知らないのです。北園氏は三日まえに胃ガンが悪化してなくなられ、きのう告別式が行なわれました。そこで、約束にしたがって、あなたにこの封書をお送り申し上げるしだいです。

 北園壮助氏はかぞえ年四十一歳の独身者です。奥さんは二年まえになくなられ、子どももなく、また、再婚もしておられませんので、まったく孤独の人でした。父母も兄弟も死亡して、遠い親戚《しんせき》がないではないが、文通もしていないということでした。わたしは『関西経済通信』の編集のことで、福寿相互銀行をたびたびたずねているうちに、専務の北園氏と知り合いになり、お宅へもお出入りするようになって、非常に親しくしていただいておりました。この重要な文書を、会社の人に託さないで、わたしにお頼みになったのも、そういう関係からであります。

 そういうわけで、この封書は、北園氏が死にぎわに、わたしを信じて託されたたいせつなものですから、普通の投書などと混同なさらず、きっとご一読くださるよう、お願いするしだいであります。なお、ご参考までに書き添えますが、北園氏はこれと同じような厚い封書を、もう一通わたしに託されました。そのあて先は東京丸ノ内の東和銀行本店庶務部長、渡辺《わたなぺ》憲一氏です。やはり、内容を見ないで、死後に郵送するようにということでありましたので、この手紙と同時に配達証明便で送りました。では、同封の封書をお取り捨てにならないで、ご熟読くださることをせつにお願いします」

 堀越課長はこれを読んで、異常な興味を感じないではいられなかった。問題の封書を取り上げてみると、やはり厚手のハトロン紙で、ズッシリと重く、表面には「東京警視庁堀越捜査一課長殿」、裏面にはただ「北園壮助」と、達筆な毛筆でしるしてあった。

(はてな、北園壮助、ずっと前に、何かの事件に関係して、聞いたことのある名まえだぞ。たぶん、おれの署長時代のことだ。だが、思い出せない。被疑者じゃない。被疑者なれば覚えているはずだ。証人かもしれない。いずれにしても、はじめての名まえじゃないそ)

 堀越課長は、そうおもったので、しばらく、その北園壮助という署名とにらめっこをしていたが、どうしても思い出せなかった。そこで、ペンナイフでていねいに封を切って、中身を取り出してみた。書簡箋七、八十枚をとじたものに、こまかいペン字でビッシリと何か書きつけてあった。

 とても執務時間中に読める分量ではない。うちに帰ってから、ゆっくり読もうと、封筒にもどして、ポケットに入れかけたが、どうもがまんができなかった。読みたくてしかたがなかった。また取り出して、せめてはじめのほうだけでもと、読みはじめた。そして、とうとう退庁時間までに、読み終わってしまった。むろん、たびたび妨げられた。下僚が報告にきたり、判こをもらいにきたり、新聞記者がやってきたりして、いまにも疑問が解けようとするところで、手紙をおかなければならなかった。それだけに、いわゆるサスペンスが長くつづき、堀越課長は、授業中に教科書の陰で小説本を盗み読みする中学生のようなもどかしさと、そこから生ずる一種異様の楽しさとを味わったものである。

 その手紙は、読み終わっても一度ではやめられないほど、驚異に満ちていた。課長は官宅に帰る自動車の中で、また手紙を取り出して読みはじめ、うちに帰ってからも、食事はあとまわしにして、読みふけった。

 課長がそれほど興味を感じたのも無理ではない。その手紙には、今から五年まえ、かれが渋谷、署長時代に、管内に起こった迷宮入りの不思議な事件の秘密が、事こまかに解きあかされていたのである。次にその興味ある手紙の全文を、内容からして前段と後段とにわけて掲げることにする。

前段

 堀越捜査一課長殿

 わたしはあなたとは一面識もないものです。今から五年まえ、あなたの部下に参考人として尋、問を受けたことはありますが、あなたには一度もお会いしておりません。しかし、あなたはむろんご記憶でしょう。五年まえの昭和二十×年十二月、あなたが渋谷署長をなすっていたときに、渋谷区栄通りの東和銀行渋谷支店から、一千万円入りの輸送袋が盗まれた事件を、よもやお忘れではありますまい。あれは不思議な事件でした。単独犯行ではありましたが、いわば銀行ギャンげグに類する、白昼のはでやかな事件だったものですから、新聞やラジオはずいぶん騒ぎました。盗まれた金額から考えられる以上の恐ろしいセンセイショソを起こした事件です。ですから、地もとの渋谷警察はもちろん、警視庁でも、手をつくして犯人を捜索されました。それにもかかわらず、あの事件は迷宮入りになってしまったのです。犯人が煙のように消えうせたからです。晴天の午後二時でした。人通りの多い町の中です。犯人自身も目につきやすい風態をして、そのうえ、でっかい札束入りのズックの袋をかついでいたのです。それが、衆人の目の前からスーッと消えうせてしまいました。

 あなたは今、警視庁捜査一課長として、大いなる名声を博しておられます。ことに最近は、あの向島三人殺し事件捜査の中心人物として、あなたの写真が新聞にのらない日はないくらいです。五年まえ、渋谷署長であられたころも、あなたは名署長でした。次々と起こる大小の事件を、かたっばしから明快に処理せられ、管内の治安に、累代の署長に比べるものもないほどの功績をあげられました。ですから、あの東和銀行支店の盗難事件は、あなたにとって、たった一つの汚点でした。あなたの部下は、逃げる犯人を、いまにも背中に手が届きそうな近さで、追跡したのです。人の寝しずまった真夜中ではありません。ゾロゾロその辺を人が動きまわっている白昼です。それでいて、犯人に消えられてしまったのです。警官諸君はもちろん、あなたの無念さは想像にかたくありません。

 警視庁でも、あなたの署でも、あらゆる手段を講じて、犯人捜索に努力せられました。しかし、警視庁管下の全警察力をもってしても、ついに犯人を発見することができず、迷宮入りの事件の一つとなってしまったのです。

 その、あなたにとってはたった一つの汚点である残念な事件の真相を、わたしは詳しく存じておるものです。それを、あなたにお知らせしたいのです。今ごろになって、何をいうかと、おしかりを受けるでしょうが、それにはやむをえない事情がありました。関係者が生きているあいだは、真相を語れない複雑な事情があったのです。しかし、わたしを最後に、あの事件の関係者は、犯人をはじめ皆この世を去ってしまいました。真相を発表しても、もうだれも迷惑をするものはないのです。そこで、わたしがまだ筆を執れるうちに、あの事件の真相を詳しく書きしるし、わたしの死後に、これをあなたに送るよう、信頼のできる友人に託しておくわけです。

 犯人や関係者が死んでしまってから真相を発表して、なんの効用があるのだ。ただ警察を侮辱するにすぎないではないかと、おっしゃるかもしれません。しかし、効用はあるのです。敗戦直後に比べて、警察官の質は非常に向上しました。科学捜査の施設も完備してきました。でも、警察官ひとりひとりのちょっとした注意力によって、手がかりをつかみうるような場合に、それを見のがしてしまうことがしばしばあるようです。東和銀行盗難事件にもそれがありました。一度だけではありません。そういう見のがしが、少なくとも二度はあったのです。

 しかし、あらゆる微細なものを、一つものがさず注意するということは、人間わざではできないことかもしれません。いくら老練な警察官でも神様ではないからです。すると、そういう微細な見のがしに、巧みに乗じた犯罪は、けっきょく成功するということになりますね。生意気をいうようですが、ここに警察官に対する大きな教訓があると思うのです。この事件の犯人は、常軌を逸して頭のいいやつでした。そして、常識はずれの手段を発明したのです。老練な警察官は非常に広い捜査学上の知識と、多年の実際上の経験を持っておられます。しかし、そこにはまだすきがあります。常軌を逸した犯人の着想は、あなたがたの盲点にはいる場合があるのです。あなたがたは犯罪捜査についてのあらゆる知識をお持ちですが、犯罪がひとたび常軌を逸してしまうと、それはあなたがたの知識外になるのです。そういう意味で、この事件の真相は、警察官一般にとって、重要な参考資料となるのではないかと思います。この手紙を書きます理由はまだほかにもあるのですが、そういう捜査上の参考資料としてだけでも、あなたのご一読を煩わすねうちはじゆうぶんあると信ずるからです。では、前置きはこのくらいにして、事実にはいります。

 この事件は、あれほどセンセーションを起こしたのですから、まだ、あなたのご記憶にあるかと思います。もし細部をお忘れになっていても、当時の事件記録をお取りよせになれば、詳しくわかることではありますが、そういうめんどうを避け、また、あなたの薄れたご記憶を補う意味で、いちおう、事件そのものの経過をしるすことにいたします。

 今から五年まえの昭和二十×年十二凋二十二日、火曜日、午後二時ごろ、渋谷区栄通りの東和銀行渋谷支店の横町に、一台の自動車がとまっていました。タクシーではなく、丸ノ内の東和銀行本店からさしまわされた自動車ですが、外見は別に普通のハイヤーと変わりはありません。運転手は本店常雇いの、事に慣れた男でした。

 そこへ、渋谷支店の横の出入り口から、ふたりの行員が出てきました。そのひとりは、両手で大きな角ばった麻袋をかかえています。毎日行なわれる現金輸送なのです。輸送の途中で、現金袋が強奪される事件がときどきありますので、多くの銀行では、犯人の注意をひきやすい閉店時間を待たず、日中、人通りの多い時間を選んで、現金輸送をするようです。

 支店のふたりの行員は、輸送袋を守って、出入り口から自動車に近づいていきました。自動車までは五メートルぐらいしかありません。それに、その横町はかなり広い通りで、歩行者や自転車に乗った人たちが、たえず行き来していました。犯人の乗ずる余地はないはずです。そのうえ、すぐそばの四つかどに交番があり、その前にはいつも警官が立ち番をしていたのです。

 行員は毎日のきまりきった行事ですし、近くにおまわりさんさえいるのですから、ついゆだんをしていました。まず第一に、このゆだんがいけなかったのです。輸送袋を、強奪されないように、しっかり抱きしめていなかったことが、いけなかったのです。

 どこか、その辺の軒下に身をひそめて、最好の時機を待ちかまえていたのでしょう、ひとりのがんじょうな男が、突然、パッと飛び出してきて、輸送袋を持っている行員に激しくぶっつかり、袋が地上にころがりおちたのを、恐ろしいすばやさで拾いあげると、風のように走りだしました。

 それが人間わざとも思われないすばやさだったので、ふたりの行員は、盗難ということがハッキリわからず、一瞬間ポカンとしていましたが、すぐに気を取りなおして、大声にわめきながら,追っかけました。それに気づいた自動車の運転手も、車を飛び出して、追跡に加わろうとして、とっさに、うしろの町かどの交番のことを思い出し、そこにかけもどって、警官に呼びかけまして、そして、警官と、行員ふたりと、運転手とで、賊のあとを追ったのです。町を通っていた人たちで、やじうま根性から、それについて走ったものも少なくありません。賊と追っ手との距離は十メートルほどもありました。その距離がなかなかせばまらないのです。むろん、賊の逃げる方向から歩いてくる人たちもあったのですが、賊のものすごい形相に恐れをなして、だれひとり阻止しようとするものもありません。

 賊はせまい町をグルグル回って、けっきょく、銀行から三百メートルほどの場所にある、松涛《しようとう》町《ちよう》の松濤荘へ逃げこみました。このアパートは都営アパートほどへや数はありませんが、やはり鉄筋コンクリートの高級アパートで、かくいうわたしも、当時そこの一階に住んでいたのです。そのころは、まだ小説家にあきらめがつかず、二流の娯楽雑誌などに、つまらない小説を書いていたものです。これには説明を要しますが、二流雑誌の原稿料などでは、とても松濤荘なゼに住むことはできません。実はわたしは、なくなった親から譲られた土地と家屋がいなかにありまして、それを売って、株をやっていたのです。小説家と株の投機なんて、まるで縁がないように見えますけれども、数多い文士のうちには、そういう例がないでもありません。現在の相互銀行専務という職業からもご想像願えると思いますが、わたしは株がなかなかうまくて、損をすることはめったになく、ときどきは小金をもうけたものです。それで相当ぜいたくな独身生活がつづけられました。

 さて、賊はその松濤荘に飛びこむと、廊下を走って、なんと、わたしの隣室へ隠れたではありませんか。わたしはその騒がしい物音を聞きました。でも、まさか、あれほどの事件とは知らないものですから、しばらくちゅうちょしていましたが、そとの騒ぎは大きくなる一方です。数人の人が何かわめいています。「合いカギだ、合いカギだ、管理人を呼べ!」とか、「裏へ回れ、窓から逃げるかもしれないそ!」とかいう叫び声がきこえます。そして、ドンドンと、破れるほど隣室のドアを乱打するのです。

 わたしももうじっとしていられなくなって、廊下へ飛び出しました。隣室の前には、制服の警官とふたりのセビロの男が、ひどく興奮して立ち騒いでいます。もうひとりの詰めえりの黒服を着た男が、廊下を入り口のほうへ駆けだしていくのがチラッと見えました。これが銀行の自動車の運転手で、建物の裏に回って、犯人が窓から逃げ出すのを防こうとしたのだということが、あとでわかりました。

 そこへ、アパートの管理人が合いカギを持って、駆けつけてきました。ドアはすぐにひらかれました。警官とふたりの男が飛びこんでいきます。わたしよりもさきに、数人のアパートの住人が廊下に出て、遠まきにこの騒ぎを見ていましたが、その人たちも、ひらかれたドアに近づいて、室内をのぞきこみました。

 ここでちょっと、アパートのへやの構造を説明しておきます。ドアをあけると、一坪ほどの玄関、その向こうが八畳ほどの洋室になっていて、一方のすみにベッドがあります。その洋室の窓が南側の裏庭に面しているわけです。浴室はなく、簡単な炊事場と便所が、洋室と壁を隔てた右側についております。わたし自身のへやもこれと同じ造りでした。

 玄関と洋室との境は板のひらき戸になっているのですが、賊はその板戸をひらいたままにしておいたので、入り口のドアのところから、洋室の大部分が、向こうの窓まで見通せるのです。その窓もあけはなってありました。そして、賊はもう室内にはいなかったのです。

 わたしはすぐ隣室の住人のことでもあり、また、小説家という職業からいっても、こういう事件には大いに興味がありますので、ほかの住人たちが遠慮をしているのをしりめに、ズカズカとへやの中へはいっていきました。みんなが裏庭に面する窓のところにかたまっているので、わたしもそのうしろから庭をのぞいてみました。すると、実に奇妙な光景が目にはいったのです。

 さっきの制服の銀行の運転手が、低いコンクリートベいの上に馬乗りになって、その向こうの町を通る人にわめいているのです。


「ニ十ぐらいのネズミ色に格子縞《こうしじま》のあるセビロを着たやつだ。このくらいの」と両手で大きさを示しながら、「大きな麻袋をかかえるか、かつぐかしていた。そういう男が走っていくのを見ませんでしたか」

 そとからの返事は、声が低くて聞きとれませんが、どうやら否定しているようなあんばいです。そこで、運転手はまたべつの方向に向きなおって、叫ぶのです。

「そちらのかた、あなたも見ませんでしたか、今いったような、特徴のある男です。肩幅の広いヨタモンふうの青年です」

 しかし、そちらの人も、そういう男は見なかったという返事らしいのです。その道路は狭い裏通りですが、人通りはたえずあるので、運転手は次々と同じ問いをくりかえしましたが、不思議なことに、右からくる人も、左からくる人も、賊らしい男を見たものがひとりもないのでした。といって、その道には人間の隠れられるようなものは何もありません。公衆電話も、ポストも、,マンホールさえないのです。また、へいの向こうがわは、大きな自転車店とその倉庫で、店には.数名の店員がいるのですが、あとでよく調べてみますと、その店員たちも、怪しい男がへいをのりこすのも、走っていくのも見かけなかったということでした。倉庫の中に隠れたのでないことも確かめられました。

「へいをのりこさないで、庭を右か左へ逃げたんじゃないか」

 こちらの窓から、警官がどなりますと、運転手はおこったような顔をして、へいの下の地面を指さしました。
「このくつ跡をごらんなさい。いまついたばかりだ。そっちのはぼくの足跡です。ほかに足跡と・いうものが一つもないじゃありませんか。ジュクジュクした土に、足跡を残さないで逃げられますか。その窓からこのへいまでつづいているのが、賊の足跡にきまってます。ホラ、ごらんなさい。このへいにも、どうぐつでよじのぼったあとが、ちゃんとついている。賊はへいをのりこして逃げたにちがいないのです」

 それでいて、へいのそとを通りかかるおおぜいの人が、また向こう側の自転車店の店員たちが、ひとりも賊の姿を見なかったのは、どうしたわけなのでしょう。すれちがった人でも、うっかり気がつかないという場合はあります。ひとりやふたりは、そういう見おとしがあっても不思議ではありません。しかし、通行人の全部が、また、店員が、例外なく見かけなかったとすると、これはおそろしく不合理な話になります。人間ひとり、煙のように消えてしまったとしか考えられなくなるのです。

 犯人の風体を耳にしたとき、わたしはすぐにそれが何者であるかを悟りました。そんな大がらな格子縞のセビロを着た男が、ザラにあるものではありません。「名作読物」社の編集員、大江幸吉です。かれはわたしの隣室の住人だったのです。犯人が逃げこんだへやは、大江幸吉の住居だったのです。へやを借りるとき、紹介してやったのもわたしでした。その懇意な男が、だいそれた銀行ギャングだったとわかって、わたしはぎょうてんしました。翌日になっても、かれが隣室へ帰ってこないので、それがいっそう確実になりました。そして、かれは永久にそのへやへは帰ってこなかったのです。

 それから捜査活動は、万遺漏なく行なわれました。犯人の逃走距離を時間によって推定して、その外周一帯に非常線が張られました。

 松濤荘には、やがて、警視庁からも、渋谷署からもおおぜいの人がこられ、建物の内部と外部の捜索がつづけられました。当時渋谷署長であられたあなたは、なぜかそのときは、姿を見せられませんでした。もし、あのとき、あなたが松濤荘へ来ておられたら、わたしもお目にかかれたでしょうに、ついその後も機会がなくて、お会いせずじまいになってしまいました。

 犯人の大江幸吉は、まだ室内のどこかに隠れているのではないか、また、かれの住乕から、何か手がかりがつかめるかもしれないというので、かれのへやの台所から便所まで、くまなく調べられました。しかし、どこにも人間の隠れられるような場所はなく、また、これという手がかりも発見されませんでした。かれのへやが管理人の合いカギでひらかれてから以後は、ドアのそばにも廊下にも、アパートの住人たちがずっと立っていましたし、裏の窓のほうには行員や警官などがいたのですから、一時へやのどこかに身をひそめて、人々のゆだんを見すまして逃げ出すということも、絶対にありえなかったわけです。

 アパートの建物はコンクリートの二階建てで、上下に八世帯ずつ、つこう十六世帯が住んでいたのですが、その建物のまわりを、庭ともいえないような狭いあき地が、グルッと取りまいているので、そこも入念に調べられました。前々日まで雨が降っていて、庭の土は全体にやわらかく、もしそこを人が歩けば、必ず足跡がつくような状態でした。それにもかかわらず、さっきの窓からへいまでの足跡のほかには、疑わしい足跡は庭全体に一つもないことがわかったのです。よく小説などには、綱渡りをしたり、綱にすがって、それをブランコのように振ったりして足跡を残さないでへいのそとに出る話がありますが、この事件の場合には、時間的にそんな余裕もなかったのですし、そういう冒険をした痕跡《こんせき》もまったく発見されませんでした。

 へいのそとの犯人の消えた道路は、おおぜいの刑事諸君が右往左往して、綿密に調査しました。また、自転車店の店員や、その道路に入り口のある家々は、残りなく調査せられ、また、厳重な質問を受けました。しかし、なんの手がかりもないのです。そういう町の捜査は、松濤荘の周辺一帯についても行なわれました。酒屋ややお屋、肉屋などのご用きぎだとか、よく外出する人々を、ひとりひとり、しらみつぶしに調べました。そして、それらのすべてが徒労に終わったのです。こんなふうに書きますと、警官でもないわたしに、どうしてそこまでわかるのかと、お疑いになるでしょうが、これらのことは、皆あとになって、渋谷署のあなたの部下であった捜査主任に詳しく聞いたのです。その捜査主任は、たしか木村さんといいました。この人には、その後二、三度尋問を受けましたので、その機会に、こちらからもいろいろお聞きすることができたのです。わたしはこの事件の参考人として、根掘り葉掘り、木村さんの尋問を受けました。といっても、署に呼び出されたことはなく、いつも木村さんがアパートのわたしのへやへ出向いてくださったのですが。

 アパートの建物全体も、いちおう捜索を受けました。ことに犯人大江幸吉の両隣のへやと、真上の二階のへやが、厳重に調べられました。それはこういうわけなのです。松濤荘には、各階に、庭に面するガラス窓のそと側に、幅二尺ぐらいのコンクリートのベラソダのようなものがついています。つまり、コンクリートの縁側のようなもので、それに低い鉄の手すりがついているのです。そして、一世帯ごとに、コンクリートの厚い隔壁があり、その隔壁に沿って、建物の壁に接して、太い樋《とい》が、二階の大屋根からずっとおりています。この隔壁で、かってに隣どうし、行き来ができないようになっているのです。その隔壁は、ベランダのそと側の手すりよりも、もっとそとへ突き出してあるので、もしそれを乗り越えて、隣のベランダへ行こうとすれば、ちょっと曲芸のようなまねをしなければなりません。でも、そういう曲芸さえやれば、行けないことはないのです。警察はそこへ目をつけました。犯人はその曲芸をやって、右か左の隣室へ逃げこんだのではないのか。そして、廊下の人たちのゆだんを見すまして、廊下のほうのドアから、コッソリ逃げ出したのではないか、という疑いです。

 この考えは庭の足跡と矛盾します。足跡はへいまで行ったまま帰っていないのですから、そ2!が犯人の足跡だったとすれば、同時に隣室へは逃げられなかったはずですが、警察としては、犯人のくつを手に入れたわけではなく(大江幸吉は一足しかくつを持たず、かれのへやから余分のくつは発見されなかったのです)庭の足跡を犯人のものと確定することはできないので、それはそれとしておいて、他の可能性をも調査したわけでしょう。

 それからもう一つは、二階の真上のへやです。犯入にもし器械体操の心得があれば、二階のベランダの縁にとびついて、二階の窓にのぼりつくことも不可能ではありません。ですから、この左右と上とのへやは最も綿密に、そのほかの全部のへやもいちおうは手分けをして調査したのです。その結果、今いったような逃亡手段も、まったく不可能であったことが、わかってきました。右、左、上の三つのへやには、犯人が消えうせたずっと前から、皆、人がいたのです。それも、裏窓に面した洋室にいたのです。そして、窓から犯人がはいってきたようなことは、絶対にないと証言しました。わたし自身も、犯人の右側のへやに住んでいましたので、その証言をしたひとりなのです。

 ここでまたちょっと説明しておきますが、このアパートは、一階も二階もだいたい同じ間取りで、中央に廊下があり、その左右に四世帯ずつのへやがならんでいるのです。それで、一階に八世帯、二階に八世帯、つこう十六世帯になります。犯人大江幸吉は、一階の南側に面した中央のへやに住んでいました。その右隣がわたしのへや、左隣が鬼頭という独身の私立大学の助教授のへやでした。この人も事件のときに在宅して、裏窓に面した机に向かっていたというのですから、まちがいはありません。むろん、犯人はその左隣のへやにも侵入しなかったのです。一へや通りこして、もう一つ向こうのへやまで行ったのではないかということも考えられますが、裏窓はすき通ったガラス戸ですから、そのそとを人間が通りすぎたとすれば、見のがすはずがありません。

 くどいようですが、ここは肝心なところですから、もうひとことだけつけ加えます。それなら、わたしと鬼頭氏とが、窓のそとを通る男に気がつくような位置におったのなら、犯人が自分のへやの窓からへいまで走るところ、そのへいをのりこすところも、見えたはずではないかという点です。それには警察でも気づいて、わたしも鬼頭氏も、くどく尋ねられましたが、ふたりとも、それはまったく見ていなかったのです。わたしのほうは、必ずしも窓のそとを見ていたわけではありませんが、鬼頭氏は窓に向かって書きものをしていたのですから、犯人がへいをのりこすというようなきわだった動きを、目のすみに感じないはずはありません。それがまったく気がつかなかったとすると、実に不思議な話です。わたしにしても、窓のほうは見ていなかったにしても、へやは一つきりなんですから、犯人が隣室の裏窓をあける音、走る姿、へいをのりこす騒ぎに、気がつかないはずはありません。しかし、わたしもまったくそういう動きを見ていないのです。

 犯人の真上のへやには、会社員の夫婦が住んでいましたが、事件のときには、奥さんだけがへやにいました。これも窓のそとをながめていたわけではなく、窓に向かったイスにかけて編みものをしていたのだそうです。しかし、目の下のへいをのりこす人間があれば、当然、目のすみで捕ええたはずなのに、この奥さんも、そういうものは何も見なかったという答えでした。

 裏庭に面したへやは、一階と二階で八世帯あり、事件のときへやにいた人は、そのほかにも数人はあったのですが、そのだれもが、庭を走ったり、へいをのり越したりする人の姿を見ていないことがわかりました。

 へんなことを書くようですが、わたしは何かの本で読んだトルストイのことばを思い出しました。「きみがこの世でいちばんこわいと思う怪談は何か」と問われたとき、トルストイは「見渡すかぎりの雪の原っぱに、人間も動物もまったくいないのに、ただ一足のくつ跡だけが、ザクッザクッと雪の上に印せられていく光景、これがいちばんこわい」と答えたというのです。この事件の犯人は、庭に足跡だけを残し、しかし、その姿はだれにも見せていないのです。当然見るべき人々が、ひとりも見ていないのです。トルストイの怪談ではありませんか。

 五日たっても十日たっても、犯人大江幸吉は、この世のどこにも姿を現わしませんでした。あんな大きな荷物を持って、あんなはでな洋服を着て、どこの非常線にもひっかからなかったのです。五日や十日ではありません。一カ月、一年、そして満五年がすぎ去った現在まで、かれはまったくこの世に姿を現わしません。盗みとった一千万円は、いったいどうなったのでしょうか。念のために書き添えますが、本店へ輸送する札束は、支店の窓口で愛け取ったものが大部分ですから、古い紙幣ばかりで、その紙幣番号の控えなどまったくないのです。

 犯人の右と左と上のへやが綿密に調べられたと書きましたが、その調べがどの程度のものであったかを、わたしの場合を例にとって、しるしてみます。

 あとでわかったのですが、そのときわたしのへやを調べられたのは、渋谷署のあなたの部下の木村捜査主任でした。それに、犯人を追ってきた銀行員のひとりがつきそっていました。捜すものは犯人大江と盗品の札束入り麻袋です。玄関から洋室、炊事場、便所と、あらゆるすみずみが捜され、ベッドの下、洋服ダンス、押し入れ、そのほか札束を隠せそうな場所は、残りなくあけてみられました。麻袋の中には千円札の百万円束が、ちょうど十個はいっていたのです。百万円束を一つずつに分ければ、ちょっと大きな引き出しにでもはいるのですから、わたしのへやの引き出しという引き出しは、全部ひらいて調べられたわけです。

 そのとき感心したのは、木村さんは、テレビの受像機の中まで調べられたことです。わたしは株のほうでちょっともうけていたものですから、そのころ輸入されはじめた十七インチのテレビ受像機を買って、へやにおいてあったのですが、木村さんはそのテレビの箱のうしろのふたをひらいて、中をのぞいてみるほどの熱心さでした。

 しかし、それほどに調べても、何も出てこなかったのです。わたしのへやだけでなく、ほかのへやも同じことでした。

 さて、次には犯人大江幸吉がどんな人物であったかということをしるさなければなりません。アパートの住人のうちで、大江と親しくしていたのはわたしだけでしたので、木村さんは、その後二度もわたしのへやをたずねて詳しく尋ねられました。

 当日とその二度の場合とにお答えしたことを要約して、大江の人物について、書いておくことにいたします。

 わたしが大江と知り合ったのは、事件の起こる二カ月ほどまえ、新宿の酒場で偶然話しかけられたからです。かれの勤めている「名作読物」という雑誌には、わたしもときどき寄稿していますので、かれのほうではわたしをよく知っていて、話しかけたのです。かれはなかなかおもしろい男で、わたしも酒好きですから、だんだん親しくなり、ときどきはいっしょに飲み歩くこともありました。

 そのころ、大江はかぞえ年三十歳だといっていました。わたしより五つ年下です。ちょっとヨタモンふうな美男子で、女には好かれるほうでした。肩幅がおそろしく広くて、はでな柄のダブル・ブレストがよく似合いました。髪は油っけなしのモジャモジャ頭にしていました。当時はやりのリーゼントスタイルではないのです。かれはちょっと話したのではわかりませんが、内心はひどくエキセントリックな男らしく、その片鱗《へんりん》がモジャモジャ髪にも現われていたという感じです。まゆは濃いボウボウまゆげで、近眼のめがねをかけていましたが、それが当時はやりだしたばかりの、あの上部の縁だけ太くなっている、ドギッイ型のやつでした。めがねの中に、文楽の人形のような大きな黒玉が異様に光っていました。黒玉といっても、かれのは茶色なのですが、それが目の白い部分に比べてひどく大きいので、じっと見つめられると、何か魔物にでも魅入られるようで、恐ろしくなるほどでした。鼻には別に特徴はありませんが、あごはひどく張っていました。ですから、顔は真四角な感じで、よく下駄《げた》のような顔というあれなのです。遠くから見ても、ひと目でわかるほどでした。かれの人相書きを書くとすれば、茶色の虹彩《こうさい》の異常に大きい目と、この四角なあごの二点でしょうね。

 そういうきわだった特徴を持っているのですから、いくら服装をとりかえてみても、すぐに気づかれるはずなのに、それが発見できなかったというのは、どうしたわけなのでしょうか。

 大江と知り合いになってから、一カ月半ほどたったころ、松濤荘のわたしの隣のへやがあくことになりました。アパートのへやが無条件であくなんて、当時としては珍しいのですが、この松濤荘の経営者は、へやの権利の転売については非常に厳重で、居住者がほかに移転するときは、ハッキリへやをあけさせることにしていました。そこでいちおう保証金を返し、次の申し込み者のなかから適当な人を選んで、改めて保証金を取るというやり方でした。

 わたしが酒場で大江と会ったとき、その話をしますと、ぜひ借りたいというので、わたしの友・人としてアパートの管理人に紹介したわけです。すると、わたしが相当ゆたかに暮らしているのと、大江も風采《ふうさい》はなかなかりっぱなので、首尾よくへやを借りることができました。保証金は八万円で、雑誌記者などには大金でしたが、これも大江はどこからかつこうをしてきました。そういうわけですから、事件が起こったのは、大江がわたしの隣のへやに来てから、十数日しかたっていなかったのです。おそらく、かれは、最初から銀行どろぼうをやる目的で、東和銀行支店に近い松濤荘を選んだのではないでしょうか。

 木村捜査主任は、むろんわたしの話だけでは満足せず、「名作読物」社のほうも調べました。そ.して、その結果をわたしに話してくれましたが、大江がその雑誌社にはいったのもごく近ごろで、最初にわたしと酒場で会った一カ月ほどまえだったのです。木村さんは社長に会って、いろいろ聞きだしたそうですが、社長も大江の前身は少しも知らないのでした。ある有名な小説家の紹介名刺を持って、ヒョッコリやってきて、使ってくれと申し込んだのだそうです。話してみると、作家と画家のことをよく知っていますし、編集についても一見識あり、風采もよく、現代ふうの美男子なので、社長もついほれてしまって、あとから、その名刺の作家に問い合わせてみると、「深くは知らないが、二、三度いっしょに酒を飲んだことがある。なかなかおもしろい男だ。まあ使ってやりたまえ」というような返事だったといいます。この作家は非常なはやりっ子で、「名作読物」なんかには、とても原稿をくれないような人でしたから、社長は、大江を採用すれば、その作家の原稿がとれるかもしれないという下心から、あまり詳しくも調べないで、入社させたわけでした。

 そこで、木村捜査主任は、その作家をはじめ、大江が出入りしていた作家や、ほかの雑誌社の飲み友だちなどを、できるかぎりたずねまわって、聞いてみたそうですが、だれひとり大江の前身を知ったものがないのでした。この方面はプッッリ糸が切れてしまったので、木村さんは、大江が松濤荘へくる前のアパートを調べました。それは大江が松濤荘へはいるときに書かされた借室証にしるしてありましたので、その町へ行ってみますと、そんなアパートはまったく存在しな.いことがわかりました。大江はでたらめを書いていたのです。また、借室証にしるされた大江の原籍地へも照会してみましたが、それもでたらめでした。原籍地の戸籍簿のその町名には、大江などという姓はひとりもないということがわかったのです。

 これで、大江の銀行どろぼうは、けっして一時の思いつきでないことがわかりました。まず絶対に自分の過去がわからないようにしたうえで、わたしに近づき、銀行どろぼうには最も好都合な松濤荘へはいりこんだのです。そして、どういう手段かはまったくわかりませんが、松濤荘の一室に逃げこんだまま、煙のように消えうせてしまったのです。

 迷惑なのはわたしでした。わたしは松濤荘に対して大江の保証人になっていました。ちゃんと判こが押してあるのです。わたしはさしあたって、犯人大江の最も身近な人物なのです。木村さんがたびたびわたしをたずねて、根掘り葉掘りお尋ねになったのも無理はありません。

 こうして犯人の前住所や原籍の筋さえプッツリと糸が切れてしまったので、もうどうすることもできません。警察では犯人の人相をたよりに、気長な捜査をつづけるほかなくなったようでした。

 木村捜査主任は、よほどあきらめきれなかったもようで、大江の知り合いのものを全部洗いたてたほかに、かれが出入りしていた新宿のバーなどを、木村さん自身で飲み歩いて、マダムや女給から聞きこみをやっていました。    .

 これは木村さんに聞いたのではありません。事件から三、四日たったある日、新宿のドラゴンというバーの美しい女給が、わた七をたずねてきて、その話をしたので、わかったのです。その女給は弓子という名で、まだ商売ずれのしていない美しい女でした。

「刑事がくるのよ、そして、大江さんのことを、なんだかんだって尋ねるのよ。あたし、なんにもいうことなんかあるはずがないわ。あたしのほうだって、刑事さん以上に、あの人を捜しているんですもの」

 弓子はわたしもよく知っていました。そのドラゴンというバーへ飲みに行った回数では、わたしのほうが大江よりも、はるかに多いのです。大江はわたしほどこづかいが自由ではありませんでしたからね。そこへ飲みに行ったのは、わたしの四、五度に対して、大江は一度ぐらいの割合だったでしょう。というのが。そのドラゴンは新宿では一流の店で、酒と女がそろっているかわりに、ずいぶん高くとられるからです。最初わたしが大江と出会った酒場なんかとは段ちがいのバーです。

 弓子という女は、ドラゴンのピカ一でした。最初にはいったのがこの店で、まだ半年とたっていなかったのですから、どことなくウブなところがありました。わかりやすいために女優を例に引きますと、弓子は、まあ木暮実千代《こぐれみちよ》をグッと若くしたような、どことなくエキゾチックな感じで、あいきょう者ではありませんが、人当たりは柔らかく、頭も悪くないのです。

 大江幸吉は、わたしにもこの女が好きだと宣言して、無理をしてドラゴンへかよっていましたが、いつの間にか彼女をものにしてしまいました.そのことは、わたしも薄々は感じていましたけれど、弓子がこんなに心配して、わたしのところまでたずねてくるほどとは知らなかったのです。

 弓子としては、わたしは大江の先輩で、アパートまで世話してやったのだから、大江のことは相当深く知っているだろうと思って、やってきたのですね。しかし、わたしは今までも書いてき・たとおり、何も知らないのです。大江の情人《いろ》の弓子になら、こちらから尋ねたいぐらいのものです。そこで、ふたりは「わからない、わからない」と言いかわしながら、ため息をつくばかりでした。

 弓子はそんな際でも、「あら、テレビがあるのね。今やっているの?」と聞くのです。まだテレビの珍しいころでした。わたしが立っていって、ダイヤルを回すと、ちょうど正午すぎだったので、ニュースか何かやっていて、弓子はしばらくそれを見ていました。前にこのテレビのことは、ちょっと書きました。木村捜査主任が、その中に札束が隠してあるのではないかと、うしろのふ・たをひらいてみたあのテレビです。

 それから、わたしは弓子をそとへ誘い出し、いっしょに食事をしたあとで有楽座の映画を見ました。実をいいますと、わたしは弓子が好きでたまらなかったのです。大江に先手をうたれたので、そしらぬふりをしていましたが、内心では嫉妬《しつと》に耐えないほどでした。その大江が罪を犯して行くえ不明になったのですから、わたしは今こそおおっぴらに弓子にほれてもいいわけです。

 この辺でまた、ちょっとお断わりしておきますが、これからしばらく、わたし自身の身の上話をしるすことになります。それが銀行盗難事件となんの関係があるのだと、おしかりを受けるかもしれません。しかし、わたしはこの手紙にむだなことは一行も書いておりません。わたしの身.の上話にしても、けっきょくは盗難事件そのものに深い関係を持っているのです。その部分を飛ばしてお読みくださっては困るのです。念のために申しそえます。

 そこで、わたしは急に弓子に接近しはじめたのですが、しかし、その恋愛の経過を書くのがこ・の手紙の目的ではありませんので、ごく簡単に結果だけをしるしますと、それから二カ月ののち、わたしはついに弓子を自分のものにしました。そして、三カ月のちにはもう結婚していたのです。.わたしは両親には死に別れ、兄弟もありませんし、弓子のほうも両親がなく、やっぱり孤独な身、の上でしたから、だれに気がねすることもなく、この結婚はスラスラと運びました。

 しかし、ただ一つ気になることは、わたしは性格でも、からだつきでも、大江とはまったく逆のタイプだったことです。友人の場合は、それがかえっていいのですが、大江の気質なり男ま、兄なりに、あれほどひかれていた弓子が、その逆のタイプのわた七を、真底から愛しているのかどうかということでした。

 だれでもわたしを文士や詩人のタイプだといいました。いわゆる青白きイソテリですね。大江とは逆にあごはすぼけていていかにも貧相ですし、肩幅も普通よりはせまく、われながらしょうぜんとした形をしているのです。性質も、二流雑誌に小説を書いていたほどですから、おくびょうなインテリ型で、大江のような闘志も活気もありません。そのほか、あらゆる点が大江とは逆なのです。ただ似ているのは、ギャンブルを愛するということだけだったでしょう。わたしは勝負事はなんでも好きで、勝ち運も強いのです。この点では、はるかに大江以上でした。かれは見かけによらず勝負事には弱いほうでした。わたしの青白いからだの中には、そういう陰性な闘志が激しく燃えていたのかもしれません。

 わたしは弓子と結婚するとまもなく、ふたりで大阪へ来ました。株などよりはもっと確実な大きなもうけがしたくなったからです。小説にはもう見切りをつけました。いつまでやっていても、はやりっこになれる見込みがなかったからです。それよりも、愛する弓子にじゅうぶんぜいたくをさせるために、金持ちになってやろうと考えたのです。弓子は幼時に家が豊かだった関係もあって、相当なぜいたく屋でした。

 わたしは以前大阪に住んでいたことがあって、多少の知り合いがありました。それに、弓子と結婚するまえ、株でいちかばちかの勝負をやり、思いもよらぬもうけをしていました。その金があったからこそ大阪行きを思いたったのですが、さて、大阪へ行って、わたしたちは何をはじめたとお思いになります。パチンコ屋をひらいたのです。わたしの大阪の友人がパチンコ屋をやって成功していました。その友人の世話で、うまい場所に貸し店を見つけることもでき、金を借りることもできたのです。パチンコ屋は、場所さえよければ、ひどくもうかるものです。みるみるわたしは金をこしらえました。そして、借金を返したうえ、自分で高利を貸すほどになったのです。高利といっても、個人に貸すのではなく、あぶなげのない会社の手形の割引を専門にやったのですが、パチンコとその高利貸しとで、わたしはさらに財産をふくらませました。

 そして、大阪へ行って三年めには、現在の福寿相互銀行を起こすほどの素地ができたのです。そのころには金融方面の有力者にも顔が広くなっておりましたので、わたしが株の半分を引き受けるからと相談すると、数名の有力者が話に乗ってきました。そして、小さいながら、資本金万千万円の相互銀行が設立されたのです。その福寿相互銀行は、その後も着々として地歩を固めております。わたしはもうこの世になんの不足もない身の上でした。


後段


 福寿相互銀行が設立されてまもなく、弓子はカゼから肺炎になり、それをこじらせて、わずか十日あまり病床についたばかりで、あっけなく死んでしまいました。たった三年ほどの同棲《どうせい》で、わたしは愛する妻を失ったのです。はじめは行きずりのバーの女給に心をひかれたのにすぎませんでしたが、結婚してみると、彼女こそ世界にたったひとりのわたしのほんとうに求めている女だったということが、わかってきました。ですから、わたしは結婚前よりも、結婚後に真の恋愛をしたといってもよいのです。

 わたしたちは三年のあいだ、お互いに激しく愛し合いました。普通の夫婦が一生かかって費やす愛情を、わたしたちは三年のあいだに使いつくしてしまったのです。ですから、夫婦生活にすきまのできるような事件は何もおこらなかったのですが、ただ一つ妙なことがありました。弓子が幽霊を感じるようになったのです。目に見えるのではありません。心で感じる幽霊なのです。結婚してから一カ月ほどのち、わたしたちが大阪へ引っ越してまもなくのことでした。ある夜、わたしが外出から帰って、居間のふすまをひらきますと、弓子がひとりで机にもたれて雑誌を読んでいましたが、ふすまの音に、肩のへんをビクッとさせて、急にこちらを振り向きました。そめ顔を見て、わたしのほうがギョッとしたくらいです。サッと血の気の引いた顔、飛び出すほどみひらかれた目、まったく面変わりのした恐怖の表情でした。

「どうしたんだ」とたずねますと、弓子はそのままの姿勢で、じっとわたしの顔を見つめていたあとで、むりに笑い顔をしてみせました。

「なんでもないのよ。ふっとおびえたの。こわい小説を読んでいたからかもしれませんわ」

 しばらく話し合っているうちに、血の気がもどり、いつもの弓子の顔になってきました。そして、その晩は、それっきり、なんのこともなかったのですが、しばらく日がたつと、似たようなできごとがあり、それから三カ月ものあいだ、しばしばそういう妙なことが起こったのです。わたしが気づいたのは、回数にして十回ほどにすぎませんが、弓子のおびえかたは一同ごとにひどくなり、その恐怖心理が影響して、ついには、わたしまでが幽霊を感じるようになってきました。

 それは銀行どろぼう大江幸吉の幽霊でした。かれが死んだかどうかはわかりませんが、警察があれほど捜しても発見できないのですから、あるいは死んでいないともかぎりません。また、べつの考えかたをすれば、幽霊は死霊ばかりではなく、生霊というものもあるわけで、死霊にせよ生霊にせよ、大江の魂が弓子の変心を恨んで、また、わたしが彼女を横取りしたのを恨んで、目に見えぬ怨念《おんねん》となって、わたしたちの身辺に迫ってくるということが、まったくありえないとはいえません。弓子もわたしも、大江の名は一度も口にしませんでしたが、ふたりとも、それが大江の怨霊《おんりよう》だということは、わかりすぎるほどわかっていました。

 夜など、弓子とふたりきりで向かいあってすわっていますと、弓子の目がびっくりするほど大きくなって、じっと空間を見つめていることが、たびたびありました。目はわたしのほうを向いていますけれども、わたしではなくて、わたしの少しうしろの空間を見つめているのです。

 そうすると、弓子の恐怖がわたしにつたわって、わたしの目まで大きくなってきます。うしろを振り返る勇気はなく、じっと弓子のおびえきった顔を見つめて、わたしの顔もおびえてくるのです。ふたりは石のようにほしかたまって、長いあいだ身うごきもせず、にらみ合っていました。そういうことが何度もあったのです。

 あるときは、夜なかに、ふとんの中で、これがおこりました。弓子が突然、わたしのそばから飛びのいたのです。恐ろしい悲鳴をあげて飛びのいたのです。わたしはほんとうにギョッとしました。彼女は気がちがったのではないかと、非常な不安にうたれました。同時に、わたしもこわかったのです。わたし自身が、いっせつな大江の怨霊にのりうつられ、大江の姿になって、弓子をこわがらせたのではないかと感じたからです。幽霊はわたし自身ではないかと思ったからです。実になんともいえない複雑な、異様な恐怖でした。わたしはのどの奥からギャッという叫び声が押しあげてくるのを、やっとのことで食いとめたほどです。

 そんなことがつづくあいだに、弓子はだんだんやせていきました。顔色も青ざめ、目ばかりが大きくなり、気味わるく光ってくるのです。わたしはそれをじっと見ていなければなりませんでした。なんともいえない恐れと苦しみに、わたし自身もやせる思いでした。恐怖にうちひしがれた弓子は、わたしをただひとりのたよりにして、すがりついてくるのです。それでいて、大江の怨霊はわたしのすぐうしろに漂っているらしく、わたしのすがたを見ておびえるのです。夜中にふとんの中から飛びおきたりするのです。しっかり抱きしめてやるわたしの手をふりはらって、まるでわたし自身が幽霊ででもあるかのように、逃げるのです。

 もうわたしは耐えられなくなりました。ついにあることを実行しようと決心しました。もう一歩でそれを実行するところでした。すると、不思議なことに、ちょうどそのころから、憑《つ》きものが落ちるように、弓子の異様な動作がバッタリ消えてしまったのです。もう彼女は幽霊を見なくなったのです。そして、青ざめていた顔が日一日と赤みをまし、やせていたからだも、だんだん太ってきました。彼女に憑きものがしていたのは約三カ月で、それが落ちてしまうと、もうなにごともなかったように、もとの愛すべき弓子にもどりました。そして、今から二年ほど前、弓子が急に病死するまで、わたしたちは愛情に満ちた夫婦生活をつづけたのです。

 弓子はカゼがもとで肺炎にかかり、じゅうぶん手当をしたのですが、何か彼女の体質に欠陥があったのでしょう、半月ほど病床についたきりで、あっけなく死んでしまいました。

 彼女が息を引きとる前日、自分でも死期を感じたのでしょう。まくらもとにすわっていたわたしを、涙ぐんだ目で見上げて、突然、こんなことをいいました。

「あなたに別の愛人ができても、あたしは恨みません。あたしは魂であなたを愛しつづけます。あなたの愛人さえも愛してあげることができると思います」

 彼女はそういって、わたしの手を握り、くちびるを求めるのでした。わたしは涙を流して、彼女をシッカリと抱きしめてやりました。ふたりはふとんの上にかさなって、最後の愛情を伝え合いました。ところが、そうしているうちに、わたしはふと、背中を虫がはっているような悪寒《おかん》をおぼえたのです。かさなり合っているふたりのあいだから、久しく忘れていたあの幽霊が、大江幸吉の幽霊がもうろうと現われ、そいつのやせたからだが、みるみるふくれあがって、わたしを弓子の肉体から、はじき返すように感じたのです。

 わたしは抱きしめていた手をはなし、弓子から離れて、彼女の顔を凝視しました。そのやせ衰え、青ざめた顔こそ、幽霊そのもののようでした。その青ざめた顔で、彼女は薄笑いをしていたのです。わたしはゾーッとしました。彼女がいまいいだそうとしていることが、たちまち予感されたからです。

「あたし、ズーッと知っていたのよ」

 薄笑いを浮かべたまま、低い低い声でいいました。

「え、何を、知っていたっていうの?」

 わたしはわざとそしらぬ顔で、たずねました。

「だめよ。あたし、長い長いあいだ、考えに考えつづけて、ちゃんと解決してしまったんですもの……あたし、もう一生のお別れでしょう。ですから、あたしがあのことを知ってたということを、あなたに打ちあけておきたいの。知ってても、あなたを愛しつづけたってことを」

 とっさに、わたしは何もかも悟りました。あの不思議な幽霊を見ていたあいだ、彼女は半信半くもん疑でいたのです。そして、あの恐ろしい三カ月の苦悶のあとで、彼女は真相をつかんだのです・それでもわたしを愛しつづけたのです。いや、それゆえにこそ、かえってわたしを二重に愛することができたのです。

「あたしずいぶん考えましたわ。でも、長い月日のあいだに、一つずつ、ほんとうのことがわかってきたのです……いちばん最初は、あのあなたの東京のアパートにあったテレビよ。あたしがはじめておたずねしたとき、あなたは、なぜかテレビにわたしの注意をひくようなことをいって、あたしがそれほど興味も持っていないのに、ダイヤルを回して、ニュースを見せてくださったわね。あれはなんだかその場にふさわしくない挙動だったという考えが、あたしの頭のすみに残っていたのよ。でも、そのわけがどうしてもわからなかった。やっぱり東京にいるあいだに、あなたがフッと漏らしたあのことを思い出すまでは。

 あなたは、たった一度だけれど、うっかりあのことを、あたしに話してしまったのよ。それは、銀行どろぼうがあった日に、渋谷警察の捜査主任が、あなたのへやも調べにきて、テレビの器械の裏側のふたまであけてみたという、あの話なの。それから数日後に、あなたがあたしにテレビのニュースを見せてくれたことを考え合わせると、ハハァそうだったのかという答えが出てくるのよ。

 それからまた、長いあいだかかって、あたし、もう一つのことを思い出した。ホラ、あの樋《とい》よ。あのアパートには大屋根からの太い樋が、ベランダよりも内側に、建物の壁にくっついて、ズッと下へおりていたでしょう。あたし、何度めかにあなたをおたずねしたとき、窓によりかかっていて、ふと、あの太い樋の裏側を見たのよ。壁にくっついているがわよ。そこに樋のトタン板が腐って、舌のようにはがれているところがあったわ。さしわたし十五センチぐらいの角ばった穴で、舌のようになったトタンを、おしつければ穴が隠れてしまう、あれよ。あの穴がテレビの代わりになったということが、あたしにはちゃんとわかったのよ。ね、そうだったでしょう。

 それから、あなたは隠していたけれど、あなたが総入れ歯だということは、お互いに知りあってから、じきにわかった。むつかしかったのは目でしたわ。これがいちばんあとよ。ふと、ある小説を読んでいると、そのことが書いてあったので、ハッと気がついたの。まぶたの中へ入れるプラスチックのめがね、コンタクトレンズ……ね、あたし、何もかも知っていたでしょう。

 そのほかのことは、この四つの秘密に比べれば、なんでもないことだわ。どうにでも、ごまかせることだわ……ね、わかる? あたし、何もかも知っていて、あなたを愛しつづけたのよ。それがうれしかったのよ。あたしがはじめて愛したあの人と、あなたと、ふたりぶん愛せたのよ。一時は気味が悪くて気が狂いそうだったけれど、ふたり分愛せるのだということを悟ってから、あたし、もうなんでもなくなった。それを知る前よりも、あなたが何倍もいとしくなった」

 そして、彼女はまたわたしの手を求め、くちびるを求めました。わたしたちは涙を流して、さっきよりもいっそうかたく抱きしめ合ったまま、いつまでも離れませんでした。

 ここでまた、おことわりしなければなりません。わたしは昔、小説家でした。このまじめな手紙にも、その昔のくせが顔を出すのです。そして、こんな思わせぶりな書き方をさせるのです。弓子を見送って二年、今度はわたしに死期が近づいております。もうあと一カ月か二カ月のいのちでしょう。そんなせとぎわになっても、わたしはまだ遊戯をやっているのです。犯罪の真相を語ることを、できるだけ引きのばして、あなたをイライラさせ、けっきょくは、あなたをおもしろがらせようとしているのです。わたしはなんというあきれた男でしょう。

 しかし、もうこれ以上は引きのばしません。今こそ告白します。あの銀行どろぼうの真犯人は、このわたしだったのです。

 わたしは生涯《しようがい》にたった一度のあの犯罪に、完全に成功しました。その犯罪手段は、むろん神様に対してはすきだらけでした。しかし、人間はそのすきを見つけえなかったのです。全警視庁の力をもってしても、これを発見することができなかρたのです。その意味で、わたしは「完全犯罪」をなしとげたともいえるわけではないでしょうか。

 あの当時、わたしはかぞえ年三十五歳でした。ある私立大学を出て、十余年のあいだ、種々さまざまの職業を転々しました。しかし、どの職業にもわたしは全身をうちこむことができなかったのです。小説家にはなりたいと思いました。そして、二流雑誌にときどき原稿を買ってもらうところまでは行ったのですが、とても、それが豊かな生活をする見込みはありませんでした。親が残してくれた郷里の家屋などを売って、株をやりましたが、これもわずかな元手のことですし、それに、わたしは元金をなくしてはたいへんだという考えから、安全第一のやり方をしておりましたので、もうけたといっても知れたものです。わたしとしては、こんなことで満足することはできませんでした。

「安全第一」といいますと、さきにしるした弓子と大阪へ行く前にいちかばちかの投機をやったということばと矛盾しますが、実はあれは世間への口実で、そのときわたしの手には、すでに東和銀行支店から盗んだ一千万円の大金がはいっていたのです。大阪へ行ってパチンコ屋をはじめ、高利貸しをやった元手も、実はその一千万円を小出しにしていたのです。両方とももうかったにはちがいありませんが、もともとわたしは大金を持っていたのですから、わずか三年のうちに、相互銀行の設立をもくろむことさえできるようになっ流わけです。

 さて、お話をもとにもどして、わたしはそうして、一攫千金を夢見ながら、アパート生活をつづけていたのですが、近くの東和銀行支店へ預金の出し入れをしに行くたびに、わたしの心の中に、一つの空想が、だんだん成長してきたのです。わたしはあの銀行の仕事ぶりを、長いあいだかかって、詳細に研究しました。そして、現金がどういう方法で本店へ運ばれるか、月のうち、または週日のうちで、どういう日に、最も多額の現金が運び出されるか、その札束の一枚一枚の番号が控えてあるかどうかというようなことを、残りなく調べあげたのです。

 銀行の横町のかどに交番がありましたが、これも最初から、わたしの計画の中にはいっていました。あすごに交番があることが、わたしの計画にはかえって必要でさえあったのです。

 わたしの心の中で、この計画が熟してきたのは、事件の半年ほど前のことでした。わたしはそのころから、遠方のまったく見知らぬ歯科医と眼科医にかよいはじめました。といいますのは、わたしはずっと以前から、「変装」についての一つの創意を持っていたのですが、いよいよ、それを実行する決心をしたからです。

 わたしは「変装」については、子どものころから深い興味を感じていました。そして、おとなになっても、その興味が少しも衰えなかったのです。これは神話時代から人類の心の底に根強く巣食っているメタモ;ファシス、「変形」の願望、別のことばでいえば「隠れみの」や「隠れ笠《がさ》」を持ちたいという隠形《おんぎょう》の願望です。多くの人はおとなになると、そういうおとぎ話は考えなくなるものですが、わたしはおとなになっても、ずっとそのことを思いつづけていました。そして、簡易変装術というようなものを発見したのです。

 変装は、近くで対談しても、あるいは同じベッドにはいってさえ、相手に気づかれぬほどのものでなくては、実用になりません。カツラやつけひげなどは問題外です。最も理想的な変身術は、顔面はもちろん、全身の整形外科手術によって、まったく別人となることですが、そして、それはじゅうぶん可能なのですが、この方法では、てがるにもとの自分の姿にもどることができません。甲にもなり、また、とっさに乙にもなれる変装術でなくては、わたしの計画には役だたないのです。そこでわたしは、そういう場合に最も適切な簡易変装法を考案しました。

 しかし、この変装術には、わたしでなくてはできない部分を含んでいました。歯のじょうぶな人ではだめなのです。わたしは若いときから歯性が悪くて、三十歳のころには虫歯でない歯は一本もないというありさまでした。それで、三十を越してまもなく、総入れ歯にしたのですが、これがわたしの変装術の最も重要な条件となったのです。

 技巧のへたな総入れ歯は、すぐにわかりますけれども、わたしの場合は技巧も悪くなかったのですし、また、肉体のほかの部分が若々しいのにごまかされて、多くの友だちがわたしの総入れ歯を少しも気づきませんでした。これがわたしの着想のもととなったのです。

 患者は総入れ歯になっても、なるべくもとの相好が変わらないことを望みます。したがって歯科医はこれに応じた総入れ歯を作るのですが、もしもとの相好が変わってもよければ、いくらでも変えることができます。歯並びを変え、出っ歯を出っ歯でなくしたり、また、その逆にもできますし、歯ぐきを思いきり厚くすれば、ほおをふくらませ、あごを張らせることも自由です。ほおのやせた役者は、口の中へ含み綿を入れてほおをふっくらさせますが、入れ歯は歯ぐきそのものの形を変えるのですから、その効果は含み綿などの比ではありません。

 有名な人でいえば、なくなった上山草人が若いころから総入れ歯でした。かれがアメリカで怪奇映画に主演していた時分には、この総入れ歯を利用して、いろいろな形の入れ歯を作らせておき、役にょって入れ歯を取りかえて、極端な変貌《へんぼう》をなしとげてみせました。あれです。わたしは毎日横浜の、あまり有名ではないが非常に技巧のうまい歯科医に通って、おもいきりほおをふくらませ、あごを張らせる総入れ歯を作らせました。小しばいの俳優だといつわり、舞台の変装用に使うのだといって頼んだのです。

 かむための入れ歯ではなくて、変貌用の入れ歯ですから、はめごこちは非常にわるく、むりにあごを張らせてあるので、ほおの下部の粘膜を押しつけて、長くはめていると、そこがただれてくるほどでしたが、犯罪の目的のためには、そのくらいのことはがまんしなければなりません。その厚ぼったい総入れ歯をはめて、鏡を見ますと、わたしの顔がおそろしく変わっているのに、われながら驚くほどでした。

 次は目です。人間の顔の中で、いちばん個性の出ているのは目です。目の感じを変えることができたら、ほかの部分はそのままでも、人相が一変します。その証拠に、仮装舞踏会などで、目だけのマスクをあてれば、だれだかわからなくなるではありませんか。そこでわたしは、変名で横浜のある眼科病院にかよいました。そして、やはり舞台で使うのだといって、まぶたの中にはめこむプラスチックのコンタクトレンズを作ってもらったのです。わたしの目は、俗に三白眼といって、白眼の面積のほうが多いのですが、それを逆に、白眼が少なくて、虹彩《こうさい》の大きな目にしてもらいました。コンタクトレンズの表面に、義眼と同じやり方で、これを描いてもらったのです。また、わたしの目はまっくろな虹彩ですが、コンタクトレンズのほうは目だつほど茶色にしてもらいました。それをまぶたの中へはめて、鏡を見ますと、実に気味の悪い目に一変していました。まるで文楽の人形の目のように、大きな茶色の虹彩が目の中いっぱいにひろがっていて、その目でじっと見つめられると、何かまがまがしい妖気《ようき》のようなものが感じられるのです。この二つが変貌の眼目でしたが、それだけではまだふじゅうぶんなので、二、三の仕上げのタッチをしなければなりません。わたしは非常に薄いまゆなので、その上に巧みにまゆ墨をはいて、やや濃いボウボウまゆにしました。顔色は青白いので、気づかれぬほど肉色の化粧をして、じようぶそうな色つやにしました。それから、わたしの髪の毛が柔らかくて少しちぢれているのをさいわい、油をつけないで、モジャモジャ頭にしました。そうすればはえぎわがわからなくなり、額がちょっと狭く見えるのです。目のコンタクトレンズをカバーするためには、新しい型のべッコウ色の縁の、度の弱い近眼鏡をかけました。

 そういう仕上げをしたあとで、鏡を見ますと、わたしの顔はまったく一変していました。北園壮助はこの世から消えうせて、大江幸吉という見知らぬ人物が、鏡の中からニヤニヤ笑っているのでした。

 あとは服装を取り替えればいいのです。わたしは男にしては目だつほどなで肩なので、変装の服の肩には、肩幅を広くみせるために、思いきって大きなパットを入れました。(あとで説明しますが、わたしは自分でそれを入れたのです)また、服の柄も、グレイ地に白っぽい格子縞《こうしじま》のある、はでなダブル・ブレストを選びました。顔色がよくなり、ほおがふっくらして、あごが張り、青年のようなめがねをかけたうえで、この服を着ますと、当時かぞえ年三十五歳であったわたしが、五つ六つ若くみえるのです。くつなども、むろんわたしの足には合わない別の型のものを買いました。

 こうしてわたしの変身は完成し、まったくの別人と成りおおせたのです。しかも、その変装をすてて、もとのわたしにもどるのには、一、二分もあればじゅうぶんという、その簡便な点に、わたしの考案の最大の特徴があったわけです。わたしは自分の体臭をごまかすことも忘れませんでした。そのためには、大江に化けて女などに接近するときだけ、強い香水を使って、体臭を消すことにしたのです。むろん、声の調子やことばつかいも、いろいろくふうして、一変させたのです。

 これだけの準備をしたうえで、わたしはいよいよ実験にとりかかりました。大江幸吉という新人物をこの世に誕生させたのです。そして、北園であるわたしと、大江に化けたわたしとが、共通の知り合いの前に、交互に姿を現わして、相手が気づくかどうかを、時間をかけて、ためしていったのです。そして、完全に成功しました。だれも、これっばかりも疑うものはなかったのです。わたしは、わたしの発明と演技とに、絶対の自信を持つことができました。

 これからあとの犯罪経路は、あなたのような専門家には、だいたいおわかりのことと思いますが、しかし、まだ少しばかり説明を要する点が残っております。

 事件の三カ月以前、わたしは大江幸吉になって、「名作読物」社に入社しました。その方法は前に書いたとおりです。それから一カ月ほどたって、新宿の酒場で北園壮助と大江幸吉が知り合いになりました。むろん、実際にそこで顔を合わせたわけではありません。北園壮助のわたしと、大江幸吉に化けたわたしとが、交互にその酒場へ行って、マダム、女給、飲み友だちなどに、互いに相手のうわさをして、友だちになったことを吹聴《ふいちよう》したのです。そうすれば、酔っばらいでゴタゴタしている酒場のことですから、ふたりが一度も同席していなくても、当然いっしょに飲んでいたような錯覚をおこしてしまうのです。わたしの妻になった弓子の勤めていたバー・ドラゴンでも同じ手を用いました。そして、弓子自身が北園と大江とは、ドラゴンで一度や二度は顔を合わせたことがあるように、錯覚していたくらいです。

 そういう架空のつきあいを一カ月半ほどつづけたあとで、北園が大江を松濤荘アパートに紹介して、隣どうしのへやに住むことになったのですが、そのときも大江といっしょに管理人に会うわけにはいきませんので、あらかじめ北園が話して、承諾を得ておいて、大江は北園の不在中にへや借りの手続きをしたのです。さて、隣どうしに住むようになってからのひとり二役は、ずいぶん忙しい仕事でした。大江は午前に雑誌社へ出勤しなければなりません。その時分には、作家の北園のほうは、ドアにカギをかけて、まだ熟睡中です。かれは夜中に執筆するくせなので、夕がたまで寝ていることも珍しくありません。そういう習慣をアパートの人たちはじゅうぶん知っていたのです。夕がた大江が帰ってくると、今度は北園のほうが外出する番です。そして、場合によっては、北園が出かけたかと思うと、じきに帰ってきて、即座に大江になって外出し、あるいは廊下だけに姿を見せ、またその逆の入れ替わりもやるというわけで、しばいの早替わりのような忙しさです。その早替わりには、裏窓のそとのベランダを通路に使いました。あのコンクリートの隔壁を曲芸のように越して、どちらのへやへも行き来していたのです。これはだれにも見られる心配はないのでした。

 こういうやり方で、わたしはアパートの住人たちを完全にあざむきおおせ、このおしばいは十二、三日でじゅうぶんその目的を達しました。それに、そんな早替わりの日々が半月以上もつづいては、こちらのからだが、たまりません。いよいよ犯罪を実行するときがきたのです。

 銀行事件の経過はご承知のとおりです。あのとき、大江に化けたわたしが、アパートの大江のへやへ逃げこむところを、ハッキリ目撃してもらわないと、わたしのトリックはだめになるのでした。それには、銀行の人たちだけでは心もとない。警官が追っかけてくれるのが最も好都合です。警官が目撃しておれば、これはもう何より確かな事実として扱われるからです。銀行のそばに交番のあることが、かえってわたしの犯罪には必要であったという意味が、これでおわかりになったでしょう。

 大江はアパートの自分のへやに逃げこむと、ドアにカギをかけ、裏窓のそとのベランダから、隔壁を越して、北園のへやにはいり、まず千万円入り分麻袋を十七インチ・テレビの箱の中に隠しました。これにはちょっと説明を要します。わたしはこの犯罪のために、わざわざテレビを買い入れたのです。そして、別に古いブラウン管を手に入れ、それをガラス切りで切って、正面から見えるガラスの面だけを残し、それに裏から白っぽい染料を塗って、前からながめたのでは、完全なブラウン管に見えるようにしました。そして、器械に付属していた完全なブラウン管を技きとって、その前面だけのガラスと取り替えたのです。それから真空管や付属の装置全部も取りはずし、テレビの箱の中をガランドウにし、そこへ札束の麻袋を入れたのです。あの箱の中へ、千円札の百万円たば十個ぐらいはじゅうぶんはいります。相当の余裕さえありました。

 しかし、そのままでは、うしろのふたをひらかれたらすぐわかるので、それをごまかすために、前もって、古いラジオセットを買ってきて、一枚の黒っぽい板に、真空管や付属の器械や電線などをゴチャゴチャといっぱいに取りつけておき、その板を、麻袋のそとからはめこんで、うしろのふたをひらいても直接麻袋が見えぬようにしたのです。

(申し添えますが、犯行時間は午後二時でしたから、この時間にはテレビは何もやっていないのです)

 案の定、木村捜査主任は、テレビの箱に目をつけて、うしろのふたをひらいてみました。しかし、そのころはテレビ放送がはじまったばかりで、一般の人はテレビの箱の中がどんなふうになっているか、ほとんど知りません。木村さんも知らなかったのです。ふたをひらいてみると、中は真空管やゴチャゴチャした器械でいっぱいになっていたので、ごまかされてしまったのです。それに、しろうとでも、ブラウン管がじょうご型で、相当奥行きのあるものだということは、広告の絵などで知っていますから、そういう大きな場所を取るブラウン管が取りつけてある中へ、一千万円の札束を入れることは、とてもできないだろうと考えるのが自然です。正面から見れば、ちゃんとブラウン管があるのですから、木村さんがそういう錯覚をおこしたのは、少しも無理ではありません。こうしてわたしの計画はまんまと図に当たったのです。

 しかし、それは犯罪直後のとっさの調べでした。これだけで終わるはずはありません。あとからもっと入念な調査が行なわれるにちがいないのです。わたしはそれも、むろん考えに入れておりました。第二段の隠し場所は窓のそとの太い雨樋《あめとい》でした。わたしはあらかじめ、その樋の壁に接した人目につかない場所に、ちょっと工作をしておきました。手ごろな高さのところを、硝酸で焼き切って、トタン板を小さなとびらのようにペロッとはがし、それをひらけば、径十五センチほどの不規則な四角い穴になるようにしておいたのです。

 捜査の人たちがアパートを引きあげると、わたしはすぐにテレビの箱から麻袋を出し、中の百万円の札束を、雨が降ってもだいじょうぶなように、一つずつじょうぶなビニールの布で完全に包み、用意しておいたさびた鉄の長い針金で、その一つ一つを順々にしばり、十個の札束がじゅずつなぎになったのを、樋の破れ穴から中へ入れて、下へたらしました。そして、針金の端を折りまげて、破れ穴のふちにひっかけ(さびた針金ですから、樋の色と見わけがつきません)ペロソとめくれたトタン板をもとのようにおさえつけ、穴を隠しておいたというわけです。そして、その後、機会を見ては、その針金を引き上げ、百万円束を一つずつ取り出し、それをまたはんぱな額にして、遠い銀行へ変名で預金したり、証券を買ったりして、一カ月ほどのあいだには、すっかり嵩《かさ》を低くしてしまいました。つまり、テレビの箱いっぽいの紙幣が、数冊の預金帳と、数枚の証券に変わってしまったのです。

 紙幣の隠し方の説明が、ついさき走りしてしまいましたが、大江に化けたわたしが、北園のへやにはいって第一にやったのは、札束入りの麻袋をテレビの箱に隠すことでしたが、その次の瞬間には、変装をといていました。まず大江のはでな服をぬいで、裏返しにして北園の洋服ダンスの中に掛けました。

 この大江の洋服にも仕掛けがあったのです。上着にもズボンにも裏というものがなくて、両側とも表なので、はでなほうを裏返すと、じみな黒服になってしまうのです。わたしはできあいの肩幅の広い黒服と格子縞の服とを買ってきて、両方の裏をはがし、自分が二つの服を縫い合わせました。ずいぶん時間がかかりましたが、服屋に頼んでは証拠が残るからです。その黒地のほうを表にして、洋服かけに掛けたのですから、裏のはでなほうは隠れてしまい、捜査官が洋服ダンスをひらいても気がつかなかったというわけです。

 わたしはあらかじめ、大江の服の下に、北園のセビロを着こんでいました。ですから、上の服をぬぎさえすれば、そのまま北園の服装になったわけです。あとはくつです。わたしの足に合わないくつをぬいで、洋服ダンスの下に並べてある数足のわたしのくつの中にまぜ、わたし自身のくつを取ってはきました。ここで思い出しましたが、わたしは大江に化けて銀行に出かける直前に、庭に面したへやべやにだれもいないときを見はからって、ベランダから庭に降り、裏のへいとのあいだの地面に、大江のくつ跡をつけ、そのよごれたくつで、コンクリートベいにも土をつけて、そこから逃げ出したように見せかけておきました。つまり、あの問題のくつ跡は、事件のあとではなくて、前につけておいたものです。

 では、へいからへやまで、足跡をつけないで、どうして帰ったのかとおっしゃるでしょうが、これはわけのないことでした。この裏庭は幅三メートルほどの狭いあき地で、それがグルッと建物をとりまいているのですが、もとは全体にじゃりが敷いてあったのが、すっかり土に埋まってしまって、ただ建物の軒下とへいぎわだけに、細く帯のようにじゃりが残っているのでした。ですから、見たところ全体に柔らかい土ばかりの庭のように感じられるのです。しかし、実際は、へいぎわと軒下のじゃりが、すっかり埋まりきらないで、堅い部分が岬《みさき》のように両方から出っばっている個所があり、大またに飛び越せば、まったく足跡のつかないところがあるのです。わたしは大江のくつ跡をつけたあとで、へいぎわのじゃりの上を四、五メートル右のほうへあるき、そういう個所を飛びこして、自分の窓ぎわにもどりました。そのときわたしの姿を見られるようなへやべやには、だれも人がいなかったのです。その堅い部分は、じゃりが残っているといっても、なかば土に埋まっているのですから、ちょっと見たのでは、全体が柔らかい土ばかりのように思われるので、だれもそういう手段には気づかなかったのです。

 それから総入れ歯を入れ替え、めがねをはずし、コンタクトレンズをはずし、用意していたくしで、モジャモジャ髪をきれいになでつけました。札束の袋を隠してから、これだけのことをするのに、二分ほどしかかかっていません。その動作は、前もって、たびたび練習をしておいたのです。あの日にかぎって、まゆ墨は使わず、化粧もせず、香水もつけないで、北園にもどるのにできるだけ時間がかからないようにしておいたのです。

 こうして、犯罪当日の北園の室内捜索では、少しの嫌疑《けんぎ》も受けないですみました。しかし、それだけで終わるはずはない。もう一度ゆっくり調べにくるにちがいないということを、わたしはちゃんと勘定に入れておりました。それで、札束を樋に移して、テレビの受像装置をもとどおりにしたのですが、まだそのほかにも重要な犯罪の跡始末が残っていました。

 それは、札束のはいっていた麻袋と、テレビの箱の中に立てた真空管などをゴチャゴチャ並べた板と、ブラウン管の前面だけのガラス、変装に使った大江の服とくつ、まぶたに入れたコソタクトレンズ、めがねなどを、この世から消してしまうことでした。そのうちいちばん重要なのは、札束のはいっていた麻袋です。これはその晩のうちに、アパートの自分の炊事場で焼きすてました。次は変装服です。わたしはその表裏をはがして、はでな格子縞のほうだけを、はさみでズタズタに切り、二晩もかかって、少しずつ焼きました。人造繊維との混ぜ織りでしたが、いくらか羊毛がはいっているので、そのにおいがほかのへやへ漂っていくのをおそれたからです。

 黒地のほうは、別に証拠になるわけでもないので焼くのは見合わせ、また、くつはおそろしくにおいがするだろうと思ったので、これも焼かないことにしました。すると、黒地の服の片側と、くつと、、さっきのボール箱とをどこかへ隠さなければなりません。土を掘って埋めるなどは危険です。旅をして火山の噴火口に投げこんだり、船に乗って海中に捨てに行くという手もありますが、そんなことをすれば、わたしの行動そのものから足がつきます。そこで、わたしは、どう深い池の底へ沈めることにきめました。

 事件の翌日の晩、わたしはその三つの品とおもしの石を、じょうぶな天竺《てんじく》もめんに包み、しっかり結んで、夜にまぎれて、アパートから持ち出しました。行く先は善福寺池です。電車で吉祥寺まで直行し、それから十町あまりの夜道を歩いて寂しい善福寺池に着き、犯行前に見定めておいた最もどう深そうな場所へ、それを沈めて帰ったのです。

 ところが、それから一カ月あまりたったころ、ギョッとするようなできごとがおこりました。善福寺池に水死人があったのです。子どもが誤って池に落ち、なかなか死体が上がらず、池の中の捜索が行なわれました。わたしはそれを翌日の新聞で知り、思わず心臓の鼓動が早くなったものです。捜索隊が池の中をかきまわして、例の包みが発見されたら一大事だからです。

 しかし、新聞には子どもの死体がどろの中から発見されたと書いてあるばかりで、そのほかのことは何もわかりません。たとえあの包みが出たとしても、一見つまらないものばかりはいっているのですから、新聞が書くはずはないのです。

 わたしは非常な不安を感じないではいられませんでした。あの包みが発見され、警察に持ち帰ってたんねんに調べられたら、どんなことになるかわからないと思いました。そこでじっとしていられなくなって、荻窪署《おぎくぼしよ》にさぐりを入れてみることにしました。新聞に子どもの水死事件を扱ったのは荻窪署だと書いてあったのです。さいわい友人に警察署まわりの新聞記者がありましたので、それとなくその男に頼んで、水死事件以後のことを聞き出してもらいました。

 すると、あの包みは確かに引き上げられ、警察へ持ち帰られたということがわかりました。しかし、中には古服や、古ぐつや、ガラクタがはいっているばかりで、なんの意味もないしろものとして、そのままゴミ箱に捨てられてしまったというのです。わたしはそれを聞いてホッと胸をなでおろしました。

 そして、それきりでした。その後、わたしを不安がらせるようなことは何もおこりませんでした。銀行盗難事件はまったく迷宮にはいり、犯人大江幸吉は文字どおりこの世から消滅してしまったのです。この架空の人物の残してくれた資金にょって、わたしは物質上の幸福を得ることができました。恋人を妻として、かなりぜいたくな暮らしをつづけることができました。

 わたしは大江幸吉のことは、わたしだけの秘密にしておきたいと思いました。妻の弓子には、あくまで隠しておくつもりでした。そのためには、あらかじめ、ずいぶんこまかく気をくばっておいたのです。大江幸吉は、顔かたちを変えたばかりでなく、ことばつかいのくせや、声の調子まで、まったく別人になりきっていたつもりです。この心くばりは閨房《けいぼう》の技巧にまで及んでいました。そこでも、大江はまったく北園とは別人として動作したのです。

 それにもかかわらず、弓子はついにわたしの秘密をかぎつけました。はじめはわたしの身辺に大江幸吉の亡霊を感じ、ただ恐怖するばかりでしたが、やがて、彼女はわたしの恐ろしい秘密を気づきはじめました。そのきっかけとなったのは、最初わたしのアパートをたずねたとき、彼女があまり見たがりもしないのに、わたしがテレビのダイヤルを回して、ニュースを見せたことでした。そのときの、何か不自然なわたしの態度でした。

 わたしは犯罪当日、捜査官たちがアパートを引きあげられるとすぐ、テレビの箱から札束の麻袋を取り出し、中の装置をもとどおりにし、いつ再度の調べがあってもだいじょうぶなようにしておいたのです。ですから、それをだれにでも見せびらかしたかった。「どうです、これはほんもののテレビですよ。この中へあの大きな麻袋を隠すなんて、思いもよらないことですよ」と証明してみせたかった。それで、弓子がきたときにも、ことさらダイヤルを回したわけです。そこに何かわざとらしさがあったことが、弓子の記憶のすみに影を残していたのでしょう。

 木村捜査主任も、弓子と前後して、再度わたしのアパートへこられ、いろいろと質問をくり返されました。そのときもわたしはテレビのダイヤルを回し、ちょうど夜だったので、何かの演芸をお見せしたのです。むろん、わたしの態度には、弓子のときと同じように、わざとらしさが感じられたにちがいありません。それにもかかわらず、弓子が気づきえたことを、木村さんは気づかれなかったのです。わたしのテラビ受像機は、犯罪の当時も、その晩のとおり完全な状態にあったものと思いこんでしまわれたのです。しかし、このことで木村さんを責めるのは酷だと恵います。弓子はわたしの妻なのです。昼も夜もわたしに接し、わたしの微細な動作を見、わたしの微細なことばのあやを耳にして、ああいう推理をする前に、すでに直覚的にわたしの秘密をさとっていたのです。木村さんはたった二度か三度、短い時間、わたしを観察し、わたしの話を聞かれたのにすぎません。弓子ほどの洞察《どうさつ》ができなかったとしても、けっして無理ではないのです。

 この秘密を分け合ったたったひとりの弓子は、とっくにこの世を去り、わたし自身もまた、まもなくこの世を去ろうとしています。そして、あの犯罪は「無」に帰するのです。そうすれば、大江幸吉という架空の人物の秘密を知ったものは、だれひとりこの世にいなくなります。それでいいのです。それでこそ、わたしは安らかに往生できるわけなのです。

 しかし、ふしぎなことに、わたしの心のすみには、なんとなくやすんじないものがあります。あの犯罪の秘密が「無」に帰することを欲しないものがあります。なぜでしょう。たいせつな秘密がゼロになってしまうのを惜しむのでしょうか。人間は自分の秘密を、完全に消滅させることを好まず、だれかひとりにだけは伝えておきたいという願望を持つものなのでしょうか。それはひょっとしたら、俗に犯罪者の虚栄心といわれるのかもしれません。いずれにせよ、わたしはこの秘密をあなたにだけは打ちあけておきたいのです。当時あの犯罪捜査の当面の責任者渋谷警察署長であったあなた、現在は警視庁捜査一課長という重要な位置につかれているあなたにだけは、真相をお知らせしておきたいのです。

 今までの記述でよくおわかりのことと思いますが、この事件において、警察は少なくとも前後二回、目の前にある重大な手がかりを見のがしました。あなたの部下であった木村捜査主任が、テレビの機械的知識を持たなかったために、わたしのトリックにかかったこと、それから荻窪署の係官が、この重要な手がかりの包みを、意味もないガラクタとして捨ててしまったこと、この二つです。

 木村さんの場合、たとえ機械的知識がなくても、もう少し入念に、ゴチャゴチャした真空管などの奥まで手を入れてみれば、なんなく麻袋を発見することができたのです。しかし、あのときは犯人逃走の直後で、その追跡のほうが重要だったのですし、また、特別にわたしを疑う理由は何もなかったのですから、わたしのへやの捜索がやや形式的であったとしても、木村さんを責めることはできないでしょう。木村さんが、ともかくいちおうは、テレビの箱にまで注意したことを、むしろ称賛すべきかもしれません。

 荻窪署の場合も、一見ガラクタにはちがいないのですから、深く調べなかったのも無理とはいえませんが、係官はあの包みに、おもしの石が入れてあった点を、なぜ疑ってみなかったのでしょう。そして、ソーンダイク博士のように、ボール箱の中のガラスのかけらを一つ一つたんねんに調べてみたら、茶色の虹彩を描いた奇妙なコンタクトレンズの破片に、気づいたにちがいありません。それを出発点にして、あの包みの中にあった奇妙な品物の取り合わせに疑いをいだき、それからそれへと推理をおし進めていったら、どこかで銀行盗難事件と結びついたかもしれません一度そこへ結びつけば、あの包みの中のくつと、松濤荘アパートの裏庭の犯人のくつ跡(その石膏型《せつこうがた》はちゃんと採ってあったはずです)とがピッタリ一致するという、非常に有力な手がかりをつかむこともできたわけではありませんか。

 この二つの注意不足には、いずれも無理もないところがあり、ただちに係官たちの失策とすることはできないかもしれません。神様でない人間には、まぬがれがたい過失として恕《じよ》すべきかもしれません。しかし、そのために、わたしの犯罪は完全犯罪となり、一生涯、罪を罰せられずして、あの世へ去ることができるのです。これはわたしにとって、どういうことなのでしょうか。また、神様にとって、どういうことなのでしょうか。

 これをお読みになって、あなたは、人間である警察官の捜査力には限度のあることを、いまさらのようにお感じになっていることでしょう。そして、犯罪捜査というものの微妙な、奥底の知れないむつかしさについて、しみじみと反省しておられるのではないでしょうか。

 さて、たいへん長い手紙になってしまいましたが、これで、わたしの書きたいと考えていたことは、いちおう書き終わったように思います。乱筆の長々しい手紙を、よくお読みくださいました。わたしはこの手紙を読んでおられるあなたのお顔を見たいように思います。また。読み終わられてからの、あなたのご感想が聞きたくてたまりません。でも、それは無理な話ですね。あなたがこれをお読みになるころには、わたしはもうこの世にいないのですから。

 では、あなたのご多幸と、ご健康を祈りながら、生涯にたった一度の、あなたへのこの手紙を、ご返事をいただくことのできないこの手紙を、終わることにいたします。さようなら。

  昭和三十×年十二月十日
                                  北園壮助

〔追伸〕 この手紙と同時に、同じ友人に託して、あの当時の東和銀行渋谷支店長、現東和銀行本店庶務部長の渡辺憲一氏に、一通の配達証明郵便を送ります。それにはあのときのご迷惑を謝し、当地住友銀行本店振り出しの二千万円の銀行小切手を封入しました。わたしは福寿相互銀行の持ち株の大部分を別の資本主に譲り渡し、二千万円の現金を作って住友本店に預け入れ、これを引き当てに小切手を振り出したのです。二千万円のうち一千万円は、五カ年の利息として加えたものです。当時のわたしの暴挙に対するいくぶんのおわびになるかと思います。むろん、この金額は、渡辺憲一氏の手から東和銀行へ返済していただくわけであります。

                          (「オール読物」昭和三十一年四月号)

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