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鈴木泉三郎「伊右衛門夫婦」

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 伊右衛門が後妻のお琴と晴れて一緒になったのは貞享四年七月からである。その時、お琴は既に妊娠していた。それは彼女が奉公していた与力伊藤喜兵衛の子であるのか、乃至はまったく伊右衛門白身の子にちがいないのかを彼等も互に知らなかった。だが世間では専ら伊藤の種であると噂した。それを承知で田宮は後妻に貰うのだと云った。お琴が喜兵衛の妾であったのは誰でも知っている事なので、そういう噂もそれから来た事だった。伊右衛門夫婦の耳にも折ふしそれが入って来た。二人はいい気持はしなかったけれども弁解のしようも無い事なのでだまって過ごしていた。お琴自身には伊右衛門の子であると無理にもそう思いたかったけれども、生憎その子が生れて見ると心なしか喜兵衛の面ざしが似通っているが、その事に就ては夫婦は互に二言も囗に出さなかった。
 名付親には仲人の秋山長右衛門がなって『お染』と呼んで愛育した。これは元気な可愛らしい女の子であった。一年置いてまた次が出来たが、今度は男で権八郎と名付けた。これこそまぎれもしない伊右衛門の嫡男である。が、どうした事か、この子は父にも母にも、先の男の喜兵衛にも似ていない。両親のどちらに似ても色白な美しい子である筈であるのに、権八郎は色も黒いし、嶮しい顔付をした赤児であった。夫婦は、父方母方いずれかの祖父母に似たのであろうと云い合って、満足していたけれども世間にはまたしてもへんな噂が流れていた。それは権八郎が伊右衛門の先の女房のお岩に生写しだという事である。お岩は小身でこそあれ田宮の家付の娘で、それを追出して外の女を引入れたために、お岩の一念がどこかに現れて、後妻の生んだ子がお岩生写しなのだろうというのである。お琴はそれを聞いたときは腹を立てた。世間の人が下らない事をまことしやかに噂するのは格別珍らしくもない。しかし、これはずいぶん、いやな噂だとおもって、しきりに伊右衛門に訴えた。
「捨てて置け。世間の噂はじき消える。かかり合っていては果しがない」
「それもそうでございましょうが……」
 と、お琴はよくよく腹の虫が納らないと見えて、まだ癇の立った蒼白い顔をしていた。
「あなたがお岩様のことを思い切れないので、わたくしと一つにいるときもいつも胸にうかべておいでなさるから……それできっとお岩様に似た子が出来るのでございましょう」
「ばかを云うな」
 と、伊右衛門は苦笑した。
 だけれども、それはお琴の悋気まじりの厭味ばかりではなかったので、伊右衛門は実際今でもお岩の事をよく思い出した。別れて五年も経ったのに、ずいぶん些細な点まではっきり心に残っている。それにお琴を呼ぼうとして「お岩……」と云いかける事も度々であった。恋しいとかなつかしいとかいうのではない。ただ不思議に覚えているのであった。その事は伊右衛門を苦しませた。殊に、一入いやなのは閨のうつつに、いつかお琴をお岩とおもいちがいしていることの多いそれであった。
 「ばからしい。無理に忘れようとするので、かえって強く思い出すのだ。気にしないでいる事にしたら、きっとそんな事もなくなるだろう」
―だが気にしないではいられなかった。そうして生れた子がそのお岩に似ているという―だが、ずいぶん心にある者に子は似るという事はあるだろう―そう思って、ふと伊右衛門は心を寒くしたのであった。

       二

伊右衛門は四谷左門町に住んでいた。御先手榊原采女組の持筒同心であった。養父は伊織後に伊左衛門と云う、家禄は三十俵二人扶持という小身の御家人であった。伊織は内福というと大袈裟だが、仲間の同心たちにくらべるとらくな生活をしていて、死んだときには、若い夫婦が当分凧張り傘張りをしないでも身ぎれいに過して行かれるぐらいの金は残してあった。金づかいのつましい用心のいい老人にくらべると、伊右衛門は金銭にそう多く心を費やさなかった。それで若夫婦が貯えてあった金をみんなつかってしまったのは、家督を継いでから二年ぐらい経つか経たないときであった。石に直して十五石ほどの家禄だけで暮して行こうというのは、いかに夫婦差向いであっても生やさしい倹約ではいけない。小鳥を飼って売買したり、虫を育てて虫屋へ卸すという小面倒な事は、風雅であっても伊右衛門には出来ない。さりとて、いくら仲間の誰彼がやっているからといって竹細工や団扇張りも、子持ででもあっての事ならとにかく、若い夫婦二人では、おいそれともかかれる内職ではなかったのだ。なんという事もなく、らくにくらして来た惰性でぜいたくをするでもなく、やっていても、それでも借金が嵩んだりした。
―お岩は、良人が養子であるだけ、そのひとに内職をして生活を扶けて貰うのはどうも気の毒でいやであった。父の在生中のように、どこまでも気楽に不自由無くさせて置かないでは申訳がないと思った。といっても、小身でも士の、一人娘の、掌中の珠といつくしまれて育って来た若いお岩が、いくら利発であるにしろそうそう上手な金の工面は出来兼ねるので、つい不如意の様子がだんだんと表立って来た。
 伊右衛門は美貌であった。すこし蒼みがかって白い顔で、単瞼の切れ上った、鼻のつんと高い、眉尻に藍色のほくろの眼につく、癇性らしさを口許に見せたいい男であった。貧乏御家人のようではない気品と、こせつかない鷹揚な様子は組屋敷の女たちの心を波立たせるに十分である。それから見ると、お岩は容色は落ちる。醜くはない十人並の眼鼻立で、色も女にしては浅黒い、だが、勝気らしい処のある、落着いたいい女房であったが、伊右衛門にくらべればお岩は儲け物をしているように、出入の小商人たちに取沙汰された。しかし心だては深切に行き届いた正直な女であったので評判はまことによかった。
 ―金の才覚がだんだん六かしくなって来ると、夏冬のうつり変りにも事を欠かせた。伊右衛門はそうしたときについ苦い顔をするが、荒い口は決してきかなかった。もともと口数の少い男だけれども、お岩にはそれが養子としての遠慮のように見えて、いかにも申訳なくおもった。口に適うものもたべさせられない事がある。そんなときはなおつらいなさけない気持がした。はじめは人だのみにしていた質屋の店へも、夜などかくれるように出入りする事がたんだん多くなって来た。
 ―伊右衛門はお岩が金に困って來ているのをよく知っていた。ずっと早くに、蓄財の絶えている筈なのに、その後も以前とかわらずに家の中にゆとりのあるのを、お岩の工面に依るものとは知っていたけれども、まるで自分にきかせないようにしているので、押してきくほど彼は気さくではなかった。彼はお岩がひと工面をしているわけでもなかろうとつい平気でいるうち、不自由さが急に眼にあまって来た。それでもお岩は暮し向きの事をぷっつりとも云い出さなかった。また、二三年前には見せた事のないつまらない惣菜などをつけて出したときにも、口へ出して詫びもいわなかった。質屋の蔵から時節の着物の出ないときにも決して口へ出して詫びはしなかった。それだけ一倍彼女の腹の中はつらい。それも伊右衛門は知らないでもなかったのだが、つい不機嫌になった。なんとか、やさしく口先でなりなぐさめて貰いたかった。よその若い女房によくある『あまえた』ところのまるでない妻―それが気位の高いようにも強情のようにも時には思って気色をわるくした。しかしお岩の心がいじらしくおもわないわけでもない。口のかわった僅かな晩酌の杯を取るときなぞなおさらである。晩酌―よくこれも続けられるとおもった。酒がわるくなって來だのは酒屋の払が滞っているのであろう。囗のかわった酒であるときは、お岩は良人の顔つきでよくわかった。
「ああ、また品がわるいと見える」
伊右衛門はだまってそれでも飲むがお岩にはひしひし胸にこたえるのである。で、金が才覚出来て、よそまで行ってすこしいい酒を買って来て、それもだまってつけて出したときは、良人が杯を取上げると、うれしいような心配なようで妙にそわそわした。そして、二杯三杯機嫌よく杯を重ねているのを見ると「うれしやお囗に適った」とおもって、ついうきうきした気分にもなるのであった。
 伊右衛門は「今日の酒はいい、どうしたのだ」ともきかなかったし、お岩も「いかがでございます。今日のはあがれますか」ともきかなかった。良人の心持は顔を見ていればわかったから、囗に出す必要はなかったのだ。自分はもうそれで満足した。手柄話をするでもない、女房としては当然の仕事であるとおもっていたから……。
 「もっと囗へ出してやさしく、こっそりとされたら……」
 伊右衛門はときにはそんな不足も考えないではなかった。なんだか物足りなかった。お岩はお岩で、
「……もっとくだけて気さくにして下さればいい。たまには、あたまごなしに小言も云って下さればいい、そうしたらどんなに張合があるか」と、おもった。
「強情な女だ。この節は―いやとうからおれの前で飯をたべない、膳の上を見られるのがいやなのであろう。なんでも打まけて、これこれだといえばいいのに」
そんな風に伊右衛門がおもう事もある。お岩はお岩で別の部屋でほんの腹を充たすばかりの食事をしながら、勝気な眼からついほろほろと涙をこぼすこともある。小身でも赤児の時から楽に育って来た自分の、今更に父母の生きていたころがこいしくおもい出されてならないからである。

       三

「折入ってお願いでございますが……」
「むむ!」
 お岩は伊右衛門の前へ坐って、改まって手をついた。田宮家の貧乏が人の囗の端にものぼるころである。
 「わたくしを御奉公に出していただきとうございますが」
 「奉公に?」
 と、伊右衛門は妙に白けた顔をした。理由はきかずとも分っていた。『貧乏』が夫婦別れをさせるのだ。お岩はそれを云いたして、どうぞ三年ばかり暇を呉れい、その間にはきっと立身なされようし、わたしも御給金をためてお送りもして御不自由のない様にする。御宿下りをたのしみに時々かえって来る。日々の事はさぞ御不便だろうが、おとなりの秋山様へもそれはよくおたのみするから、というのであった。とうからの計画と見えて、もう伊右衛門の承諾を得さえすればいいようになっていた。塩町通りの紙屋又兵衛にたのんで、それを請人に、表四番町の高島喜八という西丸御書院番の五百石取の旗本の家へ、身分をかくして目見得に行く手順になっていると云った。伊右衛門は多少不快な心持もしながら承知した。お岩の心持では、そうした旗本の家へ奉公して、きっと忠実につとめて奥様のお気に入るようにし、そこから手づるを求めて良人を世に出そうという計画であった。しかし囗に出してそうあからさまにはいえもしなかった。そう云えば伊右衛門がゆるして呉れる道理はなし、第一あまり賢女ぶって良人を安く見るようでいやであった。
 「百石や二百石の御目見得以上の侍として、器量なら見識ならはずかしくないのを、ああしてわずかな身分のひくい自分の家へ閉じこめて置いては申訳がない」
 ―それはお岩の、良人大事におもうひいき眼ばかりとは云えない。伊右衛門はお岩の心持が多少わかった。そして貞享四年の三月、お岩は棲みなれた田宮の家をあとに、高島の邸へあがった。彼女は果してじき高島夫人に認められて、その邸では古参の女中より次第に重く用いられはじめた。落ついて、しっかりした、よく気の届く、読み書きも達者な便利な者だと、主人の耳にも眼にもよくとまるのであった。
 その忠実なお岩のいなくなった伊右衛門の身辺は急に昧気のないさびしいものになった。彼は仕方なく夜はいつも仲間や上役の伊藤喜兵衛の家へ行って碁を打って更かした。
 ―喜兵衛は五十幾つの、角ばった赭ら顔の肥った士であった。彼は八十石を取っていてそれに小金を持っていた。正妻はとうに没してなく、家にお花という三十四五になる妾と、もう一人二十三になるお琴という若い女を妾にして置いてあった。お花が本妻気取りで諸事切廻していたが、お琴の方が美しくて出入の者にも評判がよかった。
 伊右衛門がお岩と夫婦別れをしたらしいという事がお琴の耳にはいったとき彼女は胸をさわがした。お琴は自分の願いがもう叶ったようにおもったのである。そして、ある夜、伊藤の邸に四五人の客の酒宴があったとき、お琴は伊右衛門とそこの離れ座敷ではじめて逢引した。中に立つだのはお花であった。お花はお琴が伊右衛門に心をよせているのをとうに気づいて、二人の中を取持ってやったのである。そして身重になっているこの年下の競争者を、無難に外に出してしまえば安心だとおもったのである。それには二人に傷をつけずに添わせる事が必要だった。お花は喜兵衛にうまくその事を話して腹の子ぐるみ伊右衛門にやってしまえとたきつけたのであった。彼女はまた伊右衛門の朋輩の秋山長右衛門と万事打合せて置いてだんだん二人を深間にさせてしまった。そしてその年の七月、表立ってお岩の留守の田宮の家へ、お琴を引渡してしまったのである。それに先立って、伊右衛門はお岩によく納得の行くようにはなして別れ話にしようとおもっていた。彼は万事お岩とは反対なあでやかなお琴に強く愛を傾けてはいたが、お岩をおもうとなつかしくはあった。が、秋山と、お花とが事をどんどんすすめてしまって、二人の間に深い関係の生じているのを露骨に知られているので、上役の伊藤に対しても表向き正式に後添のようにして貰わないわけには行かなくなった。で、いよいよ押しつまって六月の月末になってから、お岩を一日呼んで、その事を足許から鳥の立つように打明けた。
 尤も、伊右衛門の囗から別れ話を持出しはしなかった。伊右衛門はお岩に相談をかけたのであった。秋山や伊藤の家のお花がこれこれいう。自分も取返しのつかない失策で困っている。町の者なら金て内済にも出来るがどうもならない。どうしたものだろうと云ったのである。うつむいていつまでも考えていたお岩はやがて自分から離縁の話を持出した。
 ―お岩は、実にその帰り途から行方が知れなくなってしまったのである。小石川の関口に古く田宮の家に仕えたお岩の乳母が年老いて住んでいた。その家のうしろに深い淵があった。彼女は別れにその家を訪れて後その流れへ身を投げた。履物や所持品を持ってそこから伊右衛門の処へ急使が来たとき伊右衛門はなんだかほっとした。不憫だとおもう心に先立って、そう云う心持になったのを、後におもいかえして、彼はいつまでも浅間しくおもったのであつた。



 伊右衛門が、だんだん血色がすぐれず、憂鬱になって來だのは、前に云った二番目の千いの生れた後からであった。今度の坊ちゃまがお岩様に似ておいでなさる ―そんなことをよそできく事は時々あった。彼は顔で苦笑し、心の中では戦慄した。実際、そういわれて見ると、その赤児は、お岩に額つきから眼許がよく似ているようにおもえた。
「おお ―お岩か。よく帰って来た」
 お琴が用達に行ってかえって来たとき、伊右衛門がふとそう云いかけて立って來たので、お琴をぎょっとさせた。
「お琴 ―と云わなかったかな」
12
 と、目で誤魔化すつもりでも、眼はきょときょと落着かなかった。お琴は腹を立てて何か云うと、伊右衛門は口許をぶるぶるふるわせて、ついと外へ行ってしまった。
 「まあ、きみのわるい。どうかなすっている」
 ―と、お琴は心配しはじめた。
ある晩 ―お琴は人の声がするので眼をさました。それは良人の囈言であった。

「……おぬしは面やつれがした。御奉公がつらくはないか……高島殿に、身分の事……うむ、それは……気の毒な……」
 それは明らかにお岩の夢を見ているのであった。やがて、伊右衛門はひどくうなされた。お琴はあわてて揺りうごかした。

 苦しそうに眉根をよせてねむっている良人の顔を、夜半にじっと見てびっくりした事もあった。この頃めっきりやせて、眼の下に半月形の隈がうすぐろく出来ている伊右衛門は、不規則な苦しそうな寝息を立ててよく眠っているが、その眼からは涙が流れ出て、枕をしとどにぬらしているのであった。お琴はおもわず、枕許へ坐って寝間着の帯の間へ手をはさんでじっと考え沈んでしまった。ふと伊右衛門は魂のぬけたような、うつろの眼をあけて、じっとお琴を見つめていたがやがて
「うわあ」
と、不思議なおびえたうめき声を出して、立ちあがった。寝ていた子が驚いて眼をさまして泣き出した。
 ―それに気がついたのか、やがて伊右衛門はまたすごすごと床へ入りこむのであった。

    五

 ―伊右衛門は夜毎の眠りが浅くなった。そのくるしさに、よく出てあるいた。いつも不機嫌で、だんだんする事が粗暴になって来た。暮しはお琴の手でずっとらくにされていたが、彼はよく外で乱酔してかえって来た。
 伊右衛門はある晩、ふと思い出して菩提寺の妙行寺の住職を訪ねようと思って家を出た。お岩の行方がわからずになって五年目の冬である。身を投げたにはきまっているが、死体もあがらず、遺書もない。それにしても、もう五年も経つので、遅蒔乍《おそまきなが》ら戒名も受け供養をしようと思ったのである。妙行寺の和尚は留守だった。その取次の老爺が、いそぐ御用なら承って置こうと云った。
 「いや、いそぐ事ではない。手前は左門町の田宮で、女房の岩が先年から行方が知れず、今だに消息がないのは死んだものと思う、住持がいられたら戒名を授けて貰い、心ばかりの仏事をしようと思って、それで参ったのだ」と云った。
「左門町の田宮様 ―では御新造様はお岩様と申上げますな」
 と、老爺は不審そうに云った。
「さようです」
「はて、お岩様なら、折ふし御墓参にまいられまするが」
「ひえっ」
 伊右衛門は顔色を加えた。
「つい四五日前も見えました」
 と、老爺は平気であった。
「人ちがいではござらぬか。お岩は五年前の夏から消息が知れませぬ」
「いや、わたくしは田宮の嬢様のお岩様なら、こんな小さな頃から存じ上げて居ります。先月
二十二日にもたしか二十二日が御先代の御命日で」
「いかにも ―つい御墓参も怠って居りまして申訳がございませぬ」
 まったく伊右衛門はお岩と別れて ―というより、先代の一周忌以後この寺へ来た事がなかつた。
 「二十二日にたしかに御見えになりました。明日でもお墓を御らんになりませ。きれ
掃除もできて居ります」
 「左様でござるか」
 ―では生きているのか、そうおもうと、安心したと同時に眼がくらくらとした。それをようやくこらえて伊右衛門は辞してそこを出て来た
 ―お岩が生きている。しかも時々この四谷へ墓参に来るといえば、そう遠国にいるわけではないのだ。それにしても奉公先の高島で、ひどく心配して呉れたというし、請人の紙屋又兵衛もああしてお岩を死んだとおもっているし、誰もかもそう信じているのに ―。
 「もしや、それはこの世の者ではないのではなかろうか」
 そうおもうと、伊右衛門の足はすくんだようになってしまった。もっとくわしくあの寺男にきいて見ようかとはおもったが不見識に引返しもならなかった。まさか嘘をついたともおもえぬ。
 「だが、ほんとにお岩が生きているとしたら、一度あいたい、いやいや、生きているわけはない、お岩の幽霊かも知れない、それとも寺男のおもいちがいかもしれない」
 彼は権田原の方へぶらぶら妙行寺の裹の坂を上って行った。その辺はさみしい途であった。晴れて星が一杯出て、風がさむくその光りを吹き散らかしている……。
 ―伊右衛門はあてもなくあるいていた。彼はこのままどこか遠くへ行ってしまいたいような気がしていた。世の中が重くるしくてがまんが出来ないように考えられた。ふと彼は自分の行く前を一人の若い女があるいて行くのに気がついた。
    
その無提灯《むちようちん》の女が彼には暗い中に、はっきりと見える……。そしてそれが、気のせいでお岩に似ているとおもった。そっとそのあとをつけて行くと、星の中に片破月が陰気に上って、女の姿はなおお岩らしく見えて来た。彼は足を早めて行き摺りにその女の顔を見ようとおもった。そして、追い抜きながらその顔を見込むと、思わず彼は声を立てそうにおどろいた。その顔 ―お岩であるかないか、それもわからないその女は、下顎の前につき出た、赤い大きな囗でにやりと笑った。彼はそんな無気味なものを見た事がなかった。と、夢中で刀を抜くと、女の胴を横に払い、あやしい叫びをあげて倒れる処を脳天からもう一刀切り込んだ。気昧のわるい女はそれなりぐっとも云わなかった。血刀を下げたまま伊右衛門はよろめくように、そこに立っている樹の根へ腰をおろして、ほうっと苦しそうな深い吐息をした。
           ×         ×         ×                       せんだ が や
 どのくらい時間が経ったかわからなかったが気がついて見ると、そこは千駄ヶ谷と四谷境の三叉川の近くであった。大木戸から南へはいった奥である。伊右衛門は大きな銀杏の根へ腰をかけたままでいた。その前に女の死体がくろく横わっているのを気がついてやっと思い出しか。
 「そうだ。この女を切ったのだ」
 彼はあわてて立ち上かって、その女の顔を見込んだ。くらい月あかりで、それが紅と白粉を真白につけた顔の馬面の若い女であるのを知った。彼は急に恐ろしくなって、血刀を鞘に納めると、あわててそこを立った。
 ―急におそろしくなって来た。彼は膝ががくがくして足が地につかなくなった。それで、足袋跣足になったまま、いそいで尻をはし折ってそこを逃げ出した。
 うしろから、びたびた追って来るものがあるような気がして、彼はどうにもすくむ足を無理にはやめて左門町へ来た。振りかえって見ると誰もいない。彼はまだがたがた悪寒でもするようにふるえながら、裾をおろした。
¬ ―雪駄を忘れて来た」
―自分の家の中へはいると、ほっとして思わずべったり腰を上り框へおろした。唇の色まで変えて、髪をみたして気昧のわるいほど青くなっている良人を見ると、お琴はただまごまごした。血が、袖口と裾にそこら中についている……。
人相のよくない男

 I流しへ行って、はだかになって手足を洗いながら、伊右衛門は、
 「心配する事はない。ただ怪しいものを斬捨てたのだ」
 と云った。で、くわしい事をお琴がきこうとしたとき表の戸を叩いて案内を乞う者があった。夫婦は再びおどおどした。それでもお琴が戸をあけると、五十四五の、眼付の鋭い、鼻の赤い破落戸じみた爺が入って来て、後をぴったりと締めると、土間へ糞丁寧に手をついてお辞儀をした。伊右衛門はどてらに着かえて、そこへ出た。そして、嶮しい眼をして、
 「ど、どちらから参られた」
 と、無理にしずかにきいた。
 「へえ」
 と、爺はふところから手拭に包んだものを出して、それをひろげると伊右衛門のぬぎ忘れた古雪駄が出た。
 「ヘヘヘヘヘー お履物をお忘れで……」
 「…………」
 伊右衛門はしばらく囗がきけなかった。
「どうしろというのだ」
と、口許をふるわせながら、やっというとおもねず左の手で刀を引きよせた。
¬ヘヘヘ」
爺は狡そうにその手に一瞥を与えて、きたない歯を出して薄暗い中で笑った。
 「……女は手前共の奉公人で、夜鷹でございます。稼ぎ人を一人、わたくしは玉無しにいたしました……ヘヘヘヘヘ」
 と、家の中をじろじろ見廻した。
 「だから、どうしろというのだ」
 爺にとっても、気の立っている御家人は相手がわるい。それに大して金のある奴でもなかろう…。
「五両 ―へい、五両ならお安いお買物で ―人間一人の命 ―お試し斬代にこのお雪駄代、もう一つ、死骸取片付けも仕りましょう」
 「ふん。試し斬か」
 と、伊右衛門は云った。そしてお琴に云って金を出させた。
「きっと死骸は捨てるか」
「へいヽわたくしもあとくされがいやでございます。これから参って、川の中へ ―あそこは深うございます」
「じゃあ五両―。きっとたのんだぞ」
「へい。大丈夫でございます。わっちも風車の長兵衛でございます」
「長兵衛というのか。そしてあの者は……」
「お岩と申しまして、よく稼ぐ女でございました」
「なに、お岩……」
 と、伊右衛門は思わずぶるぶるとふるえた。
「へえ。夜鷹にしては容貌よしでございますが、旦那、ありや唖でございます」
「……唖だと。そして名はたしかにお岩というのか」
「へい、左様で……十三の時に買いまして今年で廿二……五両でお売りすれば、わっちも損は参りません。この節、病気がちで持て余して居りました。……いやどうも、とんだおさわがせいたしました」
 「…………」
 長兵衛の出て行ったあと、いつまでも伊右衛門はそこに坐ったぎりであった。
 どこかで梟の啼く声がしていた……。
 ―伊右衛門はそれから病気だといって引龍って外へ出なくなった。眼に立って衰弱した。組屋敷中で、お岩の幽霊が出るという話のひろまったのも丁度その頃からである。隣家の秋山のあるじが外から夜ふけて帰って来ると、自分の家の中から摺れちがいに蒼ざめた顔の女がふらふらと出て行ったのを見たが、それがお岩だったということや、伊藤喜兵衛の妾のお花かふと天井を仰ぐと、天井にはっきりお岩の顔が見えて、それからやみついたというような事も伝えられた。
 あるくれがた、伊右衛門が床の中で、すこし熱気があるのでうつうつしていると、上の子のお染が、よその知らない女の人が門口からのぞき込んで、自分を手招きするといった。お琴は留守であった。彼は、立って行って見ると、上り框の障子が五寸ばかりあけられてあった。そこをからりとあけて見ると、門の傍の百日紅のかげから、ふわりと風のようにやせた女が出て、影のようにすっと消えた。伊右衛門は、
¬ ―お岩、お岩'」
 と、よびながら、二三間外まで出て行くと、丁度そこへ用達に出たお琴が帰って來て、子供をすかすようにしてその病人をうちへ入れた。そんな事が、お岩の怨言が伊右衛門に取付いているという説をいよいよ高めてしまったのである。
 ―あくる年の秋、庭には萩がこぼれていた。日暮 ―曇ってさびしいうすい風が吹いている。伊右衛門は彼の唯一の御役道具の鉄砲を手入れしていた。と、ふと縁側に人のいるけはいがしたので、顔をあげて見るとそこに女がしょんぼりうなだれていた。彼は、いろを加えたが気づかないように筒に弾寵めをした。すると女は顔をあげてじっと伊右衛門を見た。伊右衛門は筒先を向けた。
 「あれ、あなた、何をなさいます」
 そう驚いてうしろで叫んだのは女房のお琴であった。すると影のような女はするすると庭をあるいて行った。伊右衛門は縁ばたまで出た。女は、庭と外との仕切の塀を、塀が煙ででも出来ているかのようにすっと抜けて向うの空地へ出た。そして塀の向うに立って、じっとこっち
伊右衛門夫婦を見ているのが伊右衛門の眼にありあり見えたのである。
 ―伊右衛門はお琴のとめるのもきかず引金をひいた。轟然とした音 ―弾は塀を貫いて、たしかに手ごたえがあった。と同時に伊右衛門は倒れた。そして甚しく吐血してそのまま息が絶えてしまった
 ―弾は外の空地の古い樫の幹に、当っていたのである。

 作者はふとした事で、信州善光寺大本願の宿院の青山善光寺(寛永年間谷中から移った)の光覚という尼僧の日記のような覚え書のような書類を読んだ事がある。
 それは元文年間のものであった。善光寺は尼寺で、光覚尼も相当の立場にいた人らしいが、その尼の日記の中で、同坊の澄永という尼が八十三で没した事が書いてある。『澄永尼俗名岩と申され候て、信州大本山より谷中へ参られ候折すでに五十幾つとかきき及び候、もと江戸のさむらいの娘とやらもうされ候、中年にての得度にして見事なる大寂滅なり。同坊皆々俗縁の母者人に別れたるおもいかくやとかたりあい候』という一節を読んで、俗名お岩という点に心を打たれた。お岩の戒名の妙行寺にあるのは得正妙念信女であるが、一説には青宥妙喜大姉である。行方不明だともいうし、たしかに死んだともいうが、生きていたとすれば、元文のはじめは丁度八十二三である。お岩は死んだ月日も不確実ではあるけれど、またこの澄永尼がそのお岩だとはたしかに言えぬかもしれぬ。しかし、もしお岩が生きのびて八十幾つにしずかな大往生をとげたとすれば、あの有名な四谷怪談の怨言は伊右衛門自身の心の中に棲んでいただけのことである。お岩は愛憎を打超えて平和な心境に入れたひとかもしれなかった。
そうだとすると、享保二年、お岩稲荷を勧請したりした事が、澄永老尼の耳に入ったとき、彼女はどんな心持がしたであろうか。自分の事だとは思えない境まで行着いていたであろうか、作者も読者も同じようにそれを知りたくおもっているのである。

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