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片岡鉄兵「綱の上の少女」


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 街の夏祭りを当て込んで、このごろ来ていた軽業師の中に、私の妹がいるという事実は、私をひどい憂欝に陥し入れてしまった。

 生まれつき空想家の私は、これまでの二三年間、幾たび、妹をそうした境遇から救い出そうと考えただろう……けれども、私はどうすることも出来なかった。私は貧しい少年職工にすぎなかったし、彼女はいつも旅から旅を放浪して歩く巡業団の中のひとりだったのだからー私は、どれだけ彼女に逢いたくても、いつどこで彼女たちが興行しているのかも知らなかったし、また、この三年足らずの間には、たまには彼女が属する「山谷興行部」の巡業先を知る機会があったとはいうけれども、私にはその土地まで行く旅費のあろう道理がなかったのだ。

 彼女はそんな身の上にならなければならなかったーこれは、彼女が誘拐されたというようなことがあったわけではない。私の父が、そうした興行師に、彼女を売ったのである。私の父は、どういう性格の人間であって、また、どういう生活や職業を渡って来たものであるか、それは確かに不潔で、惨めであったろう、そして、それは父の罪ではなくて、この世の中の出来上りのさせた罪であったかも知れない、それゆえ、私は父がどんなことをした男であったろうとも、父を責める気持ちにはなれない。しかし、父が、私の妹を軽業師の手に渡したという一事だけは、許すことが出来ない。私はそれを想うたびに、父を呪い、父を憎まずにはいられないのだ。これは私の不当に科せられた刑罰である、不幸である、父を憎まずにはいられないということは……だが、その父は'もうこの世にはいない。十年前に、死んでしまった人である。,

 もう十一二年も前のことである。そのころ、私の一家は神戸にいた。私にはひとりの妹があった。私たちの住んでいたところは、兵庫の貧しい裏通りであった。だが、もう、遠い、遠い、昔のことのような気がする。私は、その裏通りについて、詳しい記憶を持たない。母が生きているころ、時々「兵庫にいた時……」と何か下らぬ思い出話をしたそのたびに、私は、漠然と、じめじめした小路の水たまりや、剥げた赤い布片れや、小児の喚き声や、何か怒鳴る筒袖の女たちを眼に泛べるだけであった。不思議なことに、そうして思い泛べる街の光景は、一度も明るい日光に照らされている姿では脳裡に出て来なかった。私の記憶にある兵庫の裏長屋の通りは、いつも、いつも、くろずんだ薄明りのうちに、煤煙にまみれながら横たわっている……

 私が九つだったから、妹は四つか五つであったろう。ある日、私は玩具のポンプを弄んでいた。そのポンプは父が買ってくれたのか、それとも、近所かどこかの子供を苛めて奪い取ったのか、私はおぼえていない。とにかく、黒い土の、わずかな空地に、盥を置いて、私は黒い煤煙の流れる空を睨みながら、光る一条の水を玩具のポンプから飛ばしていた。そこへ、小さな妹がチョコチヨコと走って来て、盥を距てた私の真向いにしゃがんだ。私は、不思議に、しゃがんだ妹の無格好な物に反感を持った。そこで、いきなり、それを目がけて、ポンプの水をシュウと射込んだ。妹がワッと泣き声をあげたので、母が表口に飛んで出た。

 「まア、繁はまたふみを虐めよったな!」

 母がそんな言葉で私を罵りながら、濡れてしずくの垂れる妹の脚を前掛けで拭いているのを見ると、私は急に取返しのつかぬ罪を犯したように考え、言いようのない恥を感じた。私は、何とか言い抜けなけれぽ、このことで一生自分が汚辱にまみれるだろうという意味の、漠然とした感じから、真赧になって、

「嘘や、嘘や、そら、ふみの小便やがな!」

「小便の臭いかい、これが!」

 妹については、そういう記憶がある。そして多分、そんなことがあって、間もないころだったろうー1ある日、いつも親子四人が寝る二枚の薄い蒲団の上に、私は小さい妹の姿を見失ったのである。

「ふみ、おらんがな」

 と私は、背ろむきになって寝ている母の背中に向って言った。

 母は黙っていた。……

 と、母の肩の上から、父の顔がぬっと現われ、私を見て言った。

「ふみは、もう戻って来ぬ。あれは、他所の子になったんのやから、もう戻っては来まいがな」

「他所の子にー」

 その朝、どこからか、詰襟の服を着て、節くれだった丸い指に、幾つとなく大きな部厚な金指輪を嵌めた男が来て、ふみを連れて行ったのは、私も知っている、そうだ、このことは不思議に、ハッキリとおぼえている、その男は、紅い、大きなゴム風船を持って来て、ふみにやった。それから、.露路を去ってゆくその男の肩ごしに、ふみの小さな顔が、ニコニコと笑っていたのであったが、私はふみの顔よりも、ふみの顔の一尺ばかり上を、ゆらゆらとしながら遠ざかって行く紅い風船を、ぼんやり見送ったのを今で/もハヅキリおぼえている……

 私の両親は、ふみは他所の子になったのだが、貰われて行ったその家は、金持ちだから、安心したら好い、と私に言った。私はひどく悲しくなって泣いた。声をあげて泣くと、母も一緒に声をあげて泣いた、すると父がひどく怒った。……それから二三日は、私はじつに淋しかった。九つの子供は、しかし、まだ父を憎みはしなかった。その後、時々、妹に会いたくて、彼女が貰われて行った他所の家に行ってみたいど言い出して、父母を困らせたものだ。すると、父母は、そんな時きまったように、相手の家が金持ちだから、行ったって決してふみに会わせてはくれないと言いきかすのであつた。

「金持ちだから、あんな大きなゴム風船も持って来たのじゃないか」

 そう言われれば、なるほどと、私は思った。

「金持ちだから、貧乏人を家に上げてはくれないじゃないか」

 そう言われても、なるほどと思った。同時に、私は金持ちというものは、何というわけの分らぬ、鬼のような人間だろうと思った。私は金持ちが羨ましく、そして憤おろしかった。私の知らぬ世界にあるところの金持ちを激しく敬い、激しく呪った……

 その翌年、父が死んだ。神戸から、母の故郷の中国地方のある街に、私と母とが移って来たのは、私が十二の時だった。その間の私たち一家の暮しかたについては、想い出すのも身ぶるいがする……それはしかし、ここでお話をする必要はあるまい。そして、私は今から七年前に、小学をやめ、今の工場に職工見習いとして入ったのであった。十四の時である。

 その間に、私は妹のことなどスッカリ忘れていた之言っても好い。貧乏や、そのほかいろいろの、その日その日の生活1それは、生活であって生活でない、一種の無限の苛責であったような月日は、私たちに、可哀そうな妹のことを想い出す余裕すら与えなかったのであろう。生きることが、その日その日の苦患であって見れば、苦患にこたえて、身悶えするほかに生きる道はなかったのだから。ところが、五年前のある日、私は突然意外なことを母から聞かされた。

「お前にゃ隠しておったがな、ふみがこの間までこの街に来とったんだよ」

「ふみが?」

 私は驚いて訊いた。すると、母もハッとしたように、口を噤んでしまった。

 その時は今から考えると、母に死が迫っているのが、彼女自身の疲れた心には予知されていたのに違いない。彼女は、その二三日前から病床にいた。妹について、私に真実を語ることを母に決心させたのは、そのおぼろな死の予感ではなかったかとも考えられる。久しく考えてから{母はようやく口を開いた。

「先月、あの夏祭に、軽業が小屋掛けしとったやろう。あれや。ふみは、あそこで綱渡りしとった……わしは逢うて来たぞな」

「どうして? あれは金持ちの家にやったんじゃないか」

 私は激しく昂奮して、詰るように言った。そこで、母は急に眼から涙をぽろぽろこぼし始め、それから金持ちにやったのではない、父が軽業の興行師に売ったのであることを告白した。

 ふみを売ったのは、「山谷興行部」という軽業師の一行の親分にであった。その親分は、どういう関係からか、母の昔の知合いだった。(これらの話は、母も話すのが不愉快そうだったし、私も厭だったので、あまり深く立ち入っては聞かなかった。)それで、父が娘をその男に売ってしまったのである。

「親父に、なんでそんなことをさせたんや。阿母んも、阿母んやないか。軽業師に売るのは、女郎に売るのも同じことじゃ。売らなけれア、食えなんだのなら、家内一同、首をくくったらええのじゃ。どないしてでも生きて行かんならんいう法はない。自分の娘を女郎や綱渡りに売るなどいう考えをーどだいそんな考えが起るものじゃないんだ。この世の中にア、そんな考えが起るもんじゃないとせんならんのや。そんなら、阿母ん、どんなに暮しに困ったって、そんな考えを退けてから方法を考えんならんのやろが……」

 そのころの私は、まだ中学講義録もとっていなかったし、雑誌や小説を読んだり、それから何よりも第一に、大崎さんのような先輩も持っていなかったので、自分の思想を十分に母親に伝える言葉を知らなかった。私はひどく母を咎め立てて昂奮した。始終、あの、十一二年前の、黒ずんだ朝の露路を、ゆたゆたと遠ざかって行った紅いゴム風船の記憶を眼に浮べながら……

 しかし、私はその上母を非難しようとは思わなかった。父が売ると言った時、母はあらゆる方法をつくして反抗したのだったという。母は泣いたり、罵ったり、死ぬると言って脅したりした。でも、父はとうとう売ってしまった、というのである。

 先月、その山谷興行団が来た。その時軽業の赤い大きなビラが、銭湯に掛かっズいたのを母が見たのであった。母は無知で、文字は読めなかったのだが、山谷興行団のビラが、十年前のと同じ刷りであったのが、母の記憶を、刺激したのである。母は私に内密で、軽業の天幕に行った。そして、昔なじみの親方に逢った。無理にたのんで、娘に逢った……

「逢った?」と私は訊いた。

「よそながらに、なア」と母は泣きつづけるのであった。

 よそながらにでなければ、親方は逢わせてくれなかったのである。

「あれが、お前さんの娘さ」

 場内一杯の人ごみの中に、親方は母を引っ張って行った。そして、高いところを指さした。高いところの綱の上である。十二三の小娘が、ビロオドの肉襦袢をきて、いま綱の上に右の脚をピンと伸ばして上げた瞬間だった6:・:o

「あれが……おお」

 母は袂で眼をおおうた。「好い、きりょうだろう。喜ぶが好い。人気者だよ、あれ、あんな花環や、ほら、あんな幟やら……な、敷島はつせ嬢へと書いてあるだろう1字が読めんかね、お前さんは。 ハハハハ」

 そんなことを親方が説明してくれたのである。母は、親方が指さすままに、そっと顔を持ち上げて、「そら、あんな花環を」と言われれば花環を、「ほら、あんな幟を」と言えぽ幟を、ふるえる空気の底に、順々に眺め渡した。上を見る気にはなれなかった。敷島はつせ、敷島はつせ、と、心の中に飲み込むように繰り返し呟きながら、母は、花環を、幟を、順々た、そっと眺めたのであった。花環を、幟を、そして幟を、花環を、眺めている間に、ああ、幟から花環に眼を移すその間に、自分の娘は高い綱の上から落っこちるかも知れない……もう娘は持ち上げた脚を綱に戻したのかしら? 今、落っこちて来はしないかしら? あの、チラと見た顔の、細い眉、張り切って凝る眼、固くむすんだ唇、花環、…幟、敷島はつせ……

 私はその時の母の気持ちが、そのまま自分の胸に、こたえて来るのを感じた。そして、私自身が、敷島はつせ、敷島はつせと心で繰り返しながら叫んだ。私自身が、高い綱の上で、ピンと持ち上げた脚を見た。細い眉を見た、一ところに凝った眼を見た、花環を見た、幟を見た……幻でなく、さながらに母の話の中にそれらの物を見たような気がした。母は言った。

「なあ、繁や。どうぞして、ふみをあそこから連れ戻る工夫はないだうか」

「そんなことーそれよりか、こっちの身の上のことの方が忙しいがな」

 そういった私の心は、嘘ではなかった。私はほんとの心持を、苦りきって言い放つほかはなかった。自分自身らが生きるために忙しいのに、どうして今は他人同様にかけ離れて月日のたつ妹のことなど構っていられよう。私がそれを冷やかに言うのを見て、母はすぐ黙ってしまった。

 母の死んだのは、その後間もなくである。

 それから五年間たった。私はその間に、多少仕事にも熟練し、日給も上って来た。それに、母に死にわかれてからは場末の安宿に暮す独り身である。私は下らぬことに金を費さなかった。中学講義録もとれば、雑誌も読み、人から借りて小説も読むようになった。そして大崎さんが、私の思想をスッカリ変えてくれてしまった。だが、私は大崎さんに感謝こそすれ、決して大崎さんを知るようになったことを怨んでも悔いてもいない。大崎さんについては、また後で、もっと詳しく話すことにしよう。

 とにかく、私はこの二三年間、妹を救い出すことをいろいろと空想もし、計画も立てたのである。初めは、妹のことなど忘れて(それは少しも不自然ではなかった)いられたのが、だんだんそうでなくなった。次第に私は、山谷興行部の、敷島はつせなる、まだ見たこともない女軽業師が、私の心の中に色の濃い存在となって来だしたのを知った。女軽業師、敷島はつせ嬢。

「彼女は俺の妹だ」

 この考えは、最初のうちは、しかし、まだ空漠たる空想のように頭に来るだけだった。それが、だんだん胸を打つ実感として感じられて来た。

 すると、私の妹が、高いところの綱を渡っていることが、時々の幻想でなく、いつの瞬間にもあるであろう事実となって、私の心を痛めつけた。

 美しい女! 妖しい魅力! 綱の上……

 彼女は私の妹だ。私の妹が、可愛いい、この世にたった一人の肉親が、あの、昔私がポンプで濡らしてやった妹が、紅い風船につり下げられた可愛.いい女の子の顔の主が、いつもいつも高いところの一本の綱を渡っている! 私の妹はいつその綱から落っこちて死ぬるか分らないのだ、彼女たちの興行団は、いまどこで天幕を張っているのか知らない。あるいは九州の果てで、ひょっとしたら北海道の片田舎で、今、この瞬間に、いや、次の瞬間に、彼女が高い綱の上から落下して死なないとは、どうして言えよう。それゆえに、私は、いま、この瞬間に、いや、次の瞬間に、ひやッ、ひやっと脅かされずにはいられないのだ。いつの瞬間も、彼女は、生命を脅かされている。それゆえ、いつの瞬間も、私は遠い知らぬ他国の空の、一本の綱を踏みしめている妹の生侖を安心することは出来ないのであった、そのような三年間であった。

「ひょっとしたら、俺は敷島はつせを恋しているのかも知れない!」

 ある日、私はそう思った。そして、自分で顔を赧らめずにいられなかった。私はもう二十歳になる。私は寂しい少年である。私は異性の友だちを持たない。友だち以下の何のつながりすら、私は異性に持たないのだ。私が妹についての悩みは、私の性欲の成長につれて深く、激しくなって行った。私は、ほかに何の対象もないから、見も知らぬ敷島はつせについて、冒険を空想し、苦痛を享楽しているのではあるまいか? この考えは、私を非常に寂しく不愉快にした。それゆえ、私はそんな考えは、頭から努めて振り落そうとした。次ぎに、

「考えて見ると、俺の悩みは、俺が生活に余裕が出来、知識が加わって来るに従って成長して来た。これは何ということだろう」

みはこれは確かに発見であった。私はこの発見の前に眼を瞠って、そして私の手や足を、他人の物でもあるかのように、今さら、物珍しげに見つめたのである。

 そういうときなのだ、山谷興行団の一行が、この街の夏祭りをあて込んで、乗り込んで来たのは。ビラで見ると、その中には確かに敷島はつせもいる、そのことは私を不安にし、同時に憂欝にした。そして、一種、もの懐かしい悲しみとも、不思議な憬れとも言えぬ心の憔埣が、私の胸を一杯にした。

 だが、物語の前置きは、もういい加減に切り上げるとしょう。このような長い前置きよりも、私は、次ぎの、非常に短い本題を語ることに、一層の焦燥をおぼえているようだ。



 夏祭りの季節となって、街のなかほどを流れる青い水に沿う河原には、さまざまの見世物の小屋や天幕が、うすきたない白さに連なり、重なり合って建てられた。機械人形や、手品や、シネマや、アルコオル漬の仔や……それらの見世物の中に、あの「山谷興行部」の天幕は一際大きく、高く餐えていた。天幕のまわりに、色彩を散らす旗と幟、そしてコルネットに引かれて青い大河を渡り、対岸にまで拡がってゆくバンドの響きは、街の四方から人の足を吸い寄せていた……忙しい夏の夕ぐれは、祭りの群衆が刻々に厚みを増して行くに従って、次第に闇をふかめて行く……

 私は貧しい少年職工であった。河原に渡る橋の上まで来て、私は泣きたくなった。私の眼の前を、おびただしい群衆が、かるい足どりで祭りへ急いでいるのである。彼らはみんな楽しい、はしゃいだ気持ちで、敷島はつせを見に行くのであろう。私の妹は、彼らのために辱しめられるのだ! 私は、辱しめられている妹を、これから見に行くのであろうか? 高い綱の上を、踏みしめ、踏みしめて行く妹を、汗っぽい群衆が辱しめている。汗っぽい群衆が、笑いながら、心の中で彼女を汚辱しているとも知らずに、一本の綱の上に命を賭けた彼女が、身も心も「死ぬまい」という人間最大の努力の一歩一歩を踏みしめているのだーかつての日に私の母がそうであったように、私はそうした姿の妹を、十何年ぶりに眺めに行くのであろうか?

 私は、昼の間の労働の疲れも忘れていた。コルネットか、天幕の群れから、私の心に誘いこむような響きを送って来る。いつのまにかあたりは暮れはてて、闇を染め出した明るみの中に、「山谷興行部」と金糸で縫った黒天鵞絨の幟が、夜風に魔物のようにひらめいていた……私の心は身構えていた、気がついて見ると、身構えていた、非常に大きな冒険をする前の、お伽噺の英雄のように1彼女を救い出すのだ、少女を、妹を、と、私の心はそんな、あてもないことを叫んでいた。

 しかし、そんな空虚な昂奮で、実際がどうなろうものでもない。それは、はかない、効果のない空想にすぎないのだと、私はすぐ私自身に言い諾かせていた。私は、河原の方へ、下りて行こうとして、急にそれが厭になった。妹が群衆に恥かしめられている天幕の中へ、自分も入って行くのが、自分自身に恥かしくさえなった。もし妹を救い出すことが、とうてい出来ない夢だと知っているのだったら、私は何をしに妹の汚辱を見に行くのであろう? この考えは、私をひどく顔赧らめさせた。自然、私は橋の上を、河原とは反対の方向に去らねぽならなかった。ふと、私は大崎さんの下宿がこの近傍の横町にあるのを想い出したのである。大崎さんに逢って、いろいろと訊いてもらいたいことがあるよう.な気がした。

 大崎さんは二年ほど前から、この町にある組合を作るために東京から来た主義者であった。まだ学校を出たての、若い人なのだったが、顔はひどく蒼白めて、皺が多く、そして眼ばかりが鋭く光っていた。それゆえ、年だって、もう四十に近いとさえ想われるのであった。この街へ来た当座は、労働者たちの気受けもよく、その事務所には、たくさんの工場から始終組合員たちが出入りしていた。菜葉服に取り囲まれて、あの痩せて蒼白めた大崎さんは、いつも微笑していた。ただ、大崎さんの声ばかりは、生き生きと澄んでいた。すべてが弱々しい大崎さんの、身体じゅうの精力が、その清らかで太い声の中に集まって溶けているのかと想われる。そういう声で、大崎さんは、いろんなことを説く、私たちの仲間は、みんな大崎さんの雄弁に魅力を感じていた。どうしてあの貧弱な身体をした大崎さんの言うことで、こうまで我々の世界の近づきつつある底力のある足音を、聴くような思いをさせられるのであろうか、それは分らなかったが、私たちは大崎さんの話のうちに、いつか私たちの力がいかによい未来を作るものであるかについて、大きな自信を持つようになったのである。とりわけ、私は大崎さんから愛せられていたようだ。それだからだというわけではないが、私はいまだに大崎さんを尊敬しているのである。大崎さんを気の毒だと思っている。ここへ来てから、大崎さんの指揮した運動がみんな滅茶滅茶に失敗したのは、私も認める。けれども、それだから大崎さんが資本家に買収されているかのように言った流言を、東京の本部が軽々しく信じたことを、かえすがえすも口惜しく思うのである。失脚した大崎さんは、事務所を追われて、いま下宿しているのだ。そうした大崎さんを、いまだに訪れるのは、ほとんど私ひとりであったと言っても好い。

「やア、どうだね、妹さんを見て来たかね?」

 私の顔を見ると、大崎さんは万年床の中から声をかけた。先日逢った時に、私は妹のことの一切を告白しているのである。

「それですがね。僕は、もう何もかも厭になっちゃいましたよ」

 私は投げ出すように言って、大崎さんの枕もとに坐った。そして、さっき橋の上で感じたことを、そのままここで言った。

「つまり、僕は、空想家なんですね。すぐそんな境遇から妹を救い出そうなどと考えるんです……そんな空想家だから、あなたの信者にもなっちゃったんで一

「ふむ。それで?」

「つまり、僕の思想や熱情は、大した根拠の上に立ってるんじゃない。全く、夢のような空想から……」

「立派な自覚だよ。,その通りさ。革命は英雄好みでなければよっぽど思い上った奴らの、盲目な突進がなくちゃ出来ないや」

 大崎さんから、こんな言葉を聞こうとは思いがけがなかったので、私は少々狼狽した。私の顔いろを見てとって、大崎さんは、スパスパと寝床の中で煙草を吹かし始めた。そして、気味のわるい微笑を、あの蒼白く張った薄い皮膚の上に漂わせることから、一層顔の上に皺を深くしながら言った。

「だが、そういうことは、君のような性格の人がもっともらしく吐く言葉だよ。僕なんか、すこし違った考え方をするね」

「どういう……?」

「君と饌とじゃ、性格がまるで反対だ。第一、僕には、八つや九つで別れて十何年も別れていた妹があったとしても、まだ見ぬ赤の他人も同様な女が、ほんとの妹として実感に来ないものね。まして、それを救い出そうなんて童話や活劇まで創作する気にはなれない」

「活劇はあなただって創作してるでしょう。あなたの理想は、活劇や血を通ってから実現されるのじゃありませんか」

「創作ではないよ。計画だよ。僕が君だったら、妹を救うよりも、むしろ殺すね。僕だって、妹の軽業を見る気にはなれないよ。けれどもそれは君のようにセンチメンタルからではない。軽業なんかをやってる妹が、僕自身のいちばん醜い姿のように見えるからだよ。いや、そうでもない、そんな妹を見たら、殺したくなるからだよ」

「殺す? 殺す?」

 私はカッとなった。大崎さんこそ殺しても好いとさえ感じた。そして、真赤になって、

「罪が、妹にあるでしょうか?」

「罪は資本家にある」

「誰が資本家です?」

 大崎さんは、山谷興行の団長こそ資本家だと言った。そして、私の妹は、団長の資本のひとつだと言った。

「だから、資本家の資本を破壊するという意味で、彼女を殺すのさ。ハハハハハ」

 大崎さんは急に哄笑した。そして、そんな非論理な冗談をほんとうにして腹立てている私をあわれむような眼で見た。

「まア、これでも飲みたまえ」

 そう言って大崎さんは、枕もとにあったウイスキイの瓶を私にすすめた。いつもなら酒など見向きもせぬ私だったが、どういうものかその夜は、ぐっと一と息に酒を飲むのが、私にとってすこぶる自然なような気がした。「妹を殺せ!」私の心はそう叫びながら、大崎さんが興味ふかげに見ている前で、がぶがぶウイスキイを肚の底にまで飲み込んだ。

「ヤ、やったな」と大崎さんは感嘆した。

「僕、妹のことなんか忘れます。あれが、始終、危険に身をさらされていることを、念頭から取り去っちまいましょう」

「念頭においてたって、どうにもならないんだからね。肉親のことを気にしてたら、僕たちは手も足も出なくなるよ。君なんか、その点では、・せっかく非常に有利な地位にあるんだから、わざわざ他人同様な妹のことで、強いてこだわる必要もあるまいじゃないか」

「そうです。僕は、妹なんかない。よしあったって、いつでも綱から落っこちて死ね死ね!」

 私はウイスキーの瓶を、畳の上にドシンと突き刺すように置いた。瓶の中で、液体が、クラクラとゆれ、私の空威張りの心が、それに調子を合わせて動揺し、全く統,一がつかなくなってしまった。

「死ね! 死ね! ひとりの妹さえ救えない者が、どうして多くの者のために、闘うことが出来る!」

 私がそんな大きなことを言いながら、再びウイスキーを口に持って行った時、大崎さんは煩そうな顔をして、あっちへ身体の向きを転じてしまった。

 結局、私は救われない気持ちで、大崎さんの下宿を出て行った。すると、ほど遠からぬ河原の空が、ぽうと明るく照って、バンドの音が、私を煽動するようにここまで響き渡って来た。私は、すこしウイスキーに腰をとられているように感じながら、足の運びを足の意志に任せていた。その足はいつか橋上に出ていた。その足はいつか、河原におりて、そして夏祭りの群衆の中にもまれている私自身を知った。

 そこは明るい世界である。数々の天幕と、楽隊の音と、夜店の間を、群衆は流れたりたゆたったりしていた。その明るい騒擾の中で、私が考えていたのは「殺す」という異常なことであった。私はそれゆえ、あの大きな天幕を、眼の前に見る夢の国の入口かのように見つめながら、歩いているのだった。私は、私の働きの邪魔になる見知らぬ少女を殺すつもりであった。それから、あの腹立たしい、暴戻な資本家の資本を破壊するつもりであった。いや、世の中の一切が、私の手で破壊されなければならないように、私の耳は、先刻大崎さんが洩らした「ハハハハハ」という哄笑をまだ捉えて離さないでいたー可愛い妹も、あわれな少女も、資本家も、資本も、みんなみんな、殺し、破壊してしまえ! ここに蠢く群衆諸君! 諸君は私の片腕にも足りない。諸君がいかに、私の前に無力であるかを、今私は証明して見せるであろう。これはたまらなく愉快なことだIi、ハハハハハ。私は聴いている、悪魔の哄笑を。いや、バンドの音だ、コルネットだ、太鼓だ。美しく飾った天幕に、私はなかなか.近寄れない。私は、浪にもまれている。今にこの群衆が、怒鳴り、金切り声をあげる中で、私はすばらしい殺人を行うであろう! 天幕は眼の前に聳えている。道化や、-彩色美人や、肉襦袢の男が、天幕の表口に設えた楽屋の欄干から、群衆を見下して笑っている。どれが、私の妹だというのだろう。私は白粉の匂いを嗅いでいる。太鼓を叩いている。笛を吹いている。それだのに、私はもう聴力を失っているように感じられる。すばらしい殺人の夢に、心ばかりが怒鳴りたくて、叫びたくて、私はなかなか天幕の方に進めないではないか。

 けれども、私は殺人なんか出来ないのを、よく知っていた。心の底の底で、そんないたずらな昂奮を嘲笑っている私をよく知っていた。私が殺すことを考えたのは、ほんの偶然の面白がりからだったのに違いない。私は殺す方法も考えていなかったし、どんなことをしたって殺せるなんて真面目に自惚れてもいない。そうだ、ほ瓦の一時の好みだ。偶然だ。全く、「彼女を殺したら」といった古風な小説趣味が、偶然に私の心に泛んだというだけの話だったに相違ない。ああ、私は偶然を呪おう。

 その証拠に、ふと天幕の近くで、私は一軒の夜店を発見したのである。この明るい世界の、無数の夢と吐息とが、泡立って凝って出来上ったかのような、紅、紫、のゴム風船が、糸を引っ張って店の上に浮いていた。

 突然、私はそのたくさんのゴム風船が、私に笑いかけたように想った。私は心の底から湧き上って来るもので胸がつまった。十何年前の、兵庫の裏通りの煤けた露路を遠ざかって行った紅い風船と、その風船の下でニコニコ笑っていた幼い顔とが、私の眼のなかに、突然浮き上ってすぐ消えた。:・…

「おい、いくらだい」

 私は哀愁で一杯になりながら、店の親父に声をかけていた。たくさんな中でも、いちぽん大きくて紅いゴム風船のひとつが私の手に渡された時、私はこの妙にかるいくせに、握った手もとに油断のならぬ荷物の肌を感じて、見知らぬ妹に、急に近づいたような気がした。

 しばらくして、私は軽業の天幕の入口に来ていた。一等券を買って、五十銭を財布から出そうとした拍子に、風船の糸がもっとで手からはずれようとして、私はおっと危い、と呟いた。糸が手からはずれたら、この大きな風船は空中に逃げてしまうのである。

「おっと、危い」

 客を案内する女給仕が、ゴム風船なんか子供らしい物を大切そうに持っている私を、さもおかしそうな眼つきで見ていた。彼女は、うつむいて口をハンカチで押え、笑いをこらしながら私を一等席に案内して行った。

 一歩入った時、私は、永らく怖れ、待ち設けていた瞬間に、みずから飛び込んだ感じで、心臓が圧し潰されたかと思った。そこでまた一杯の灯の明りと、人間の匂いとーそして、売られた娘の体臭とが、炎となって私のぐるりに渦巻くように感じられた。一歩入ったまま、私は立ちすくんだ。逃げ出そうかと思った。場内を埋めた見物の、みんなが私を嘲っているように思われた。

「あれ、自分の妹のあさましい容子を、貧乏な兄が見に来ているよ」

 誰かがそう言って、それゆえ、見物が一斉に自分の方を振り向いて嘲笑しているような気がして私は前の方へ出て行く勇気を失った。

「どうぞ、こちらへ」

 先きに立った女給仕は、意地わるそうに促したてた。

 「俺は一等だぜ」

 私は、心を見透かされまいと用心するかのように、わざと元気に言った。

 「ですから、どうぞ1一等席は、いちばん前ですから」

 私は、見物席の間に、わずかに通じている通路をとおって、前の方に進んで行かねばならなかった。恥かしく、そして臆病にちぢこまって、私はうつむきながら歩いた。

 舞台では、何か演っているようだ。

 「こちらへ」

 給仕はとうとう私を一番前の席に案内して、一つの空いた場所を指した。

 坐りながら、

 「敷島はつせという女は、まだ出るの?」と訊いた。

 「今、やっています」

 女給仕がそう言うので、私は舞台に目を投げた。が、そこには二人の男が、一生懸命に上向いて、何かかけ声・のような物を叫びかけているだけで、女らしい姿は見えなかった。

 「どこに? ア、あれ?」

 「あれです」

 給仕は高いところを指さした。すると私の胸はにわかに乱調子な鼓動を鳴らしはじめた。そして、激しい呼吸.つかいが、どう抑えようとしても治まらなかった。ーふと気がつくと、私は紅い大きなゴム風船を持っているではないか。心臓の鼓動は、私の手から白い細い糸をつたって、紅い風船に、音たかいリズムを通わせるようなーそれにしても、私の妹は、あんなに高い、高いところで、それはほとんど、天幕の天井につかえるほどのところで、あんなに細い綱を渡っているではないか。何と、彼女が小さく見えることよ。私の眼は、あんなに高い、高いところに張り渡した蜘蛛の糸かのような細い綱に、しかと食い込んだ彼女の足の裏に突きあたった。肉襦袢の、もも色の皺に灯火が織る影を見た。白い、小さな頭! 短かい顎の上に、キッと結んだ口と、やや低い鼻の固い表情を見た。眼が光っている! おごそかだ!私は私の女を見た。私の妹を見た。今、死ぬるかも知れない、弱い、小さな、美しい存在だ。世界のどこかに、このような少女が私につながっていたとは!

「アイ、ショリ!」

 下の男が彼女の方を見上げながら、底力のこもったかけ声を投げた。

 とたんに、今まで綱の三分の一どころをためらっていた少女が、トトトンと二足三足綱の上を前方に進んで、すぐまたそこで立ち止った。そして、キラリと、彼女の細い眼が光った。それが、遠い下から見上げる私の眼には、闇の底で光るガラスのように映った。

 私は、あふれるように眼から涙が湧き出るのを感じた。すると、水底から見上げる青空なる虹のように、はるか上の方で桃色の渦が、おぼろに廻転しはじめる……

 それだのに、私は眼の底から、彼女のあの緊張した顔が消えないのが苦しかった。彼女は口を結び、目を据えて、ジッと焦点を見つめている。全身から放射する生命の力が、綱の向い側の端を凝視させるのである。ひとつの瞬きでそれを見失ったら、死だ。それゆえ彼女の顔中が、生の望みと、祈りとで張り切っているではないか。

 涙を拭いて、だが、私はもう彼女のそうした顔つきを見てはいられなかった。いつか、私は一生懸命に彼女の足の裏を眺めていた。足の裏は、「死ぬまい」とする努力で、残酷なほど深い、太い皺が彫られ、それが綱にしがみついていた。彼女はまた進んだ、二あし、三あし、

「アイ、ショリ!」

 その時、さっきの女給仕が、いつのまにか私のところへ引き返して来ていた。

「誠に申しかねますが、木戸の方がやかましいものでございますから、その風船をお預りしたいので……」

「風船?」

 私は妹の足の裏に妹の生死が釘づけにされているのを見た。

 「その風船を……どうぞ、はねますまで、木戸でお預りしたいのでございます」

 あんなに高いところを! またもや妹は進んで行った。私のこの世にたった一人の女は……

 「あの、もし、風船を」

 「風船?」

 「アイ、ショリ!」

 「風船を、どうぞ」

「「煩い!」

 私は持っている風船を給仕の方へ投げつけた。

 「相済みません」

 給仕は、キャヅチ・ボオルの無格好な手つきで、それを受けとろうとした。だが、投げつけられた風船は、給仕の方には飛んで行かなかった。私の手を放れると同時に、それはッイ、と、思いがけもない方向に外れ、急速な勢いで、空中を上に、上にと昇って行った。

「あー」

 場内がにわかにざわめき始めた。

 「馬鹿、気をつけろ!」

 誰かが、そんな罵りを叫んだ。私は恥かしいことをしたと思った。と不思議にも、十何年前のうす暗い露路を、ゆらゆらと、遠ざかって行った紅いゴム風船が、ハッキリ目に泛んですぐまた消えた。

「風船だ」

「あら、風船」

「まア!」

「馬鹿!」

 舞台の上を、スイ、スイと昇って行く風船は場内の時ならぬざわめきを尻目にかけて、ますます速力を加えた。舞台に立っていた一人の男は、あわただしく、長い青竹の竿を持って来て、ポンと風船を打った。風船は叩かれて急に横にそれて、そのため一層高いところの彼女に近寄るようになった。私の手は思わずその方に伸びた。私は叫びたくなった。私の魂は私の身体を抜け出て、飛んで風船の上に乗った。それゆえ、魂の抜けた私の身体から、思わず伸びた両手は、昇ってゆく風船を引き戻そうとしてもがいた。風船に乗った私の魂は、次第に綱の上の彼女の近くに行きながら、一生懸命に風船を押えつけようとしていた。突然、私の魂は、風船を離れ、綱の上の彼女の上に飛び移った。私は彼女にしがみついた。私の魂が彼女になった。恋しい、私の、ただひとりの少女が私であった。私は、もう一間で、綱のむかい側に渡るところであった。その時、私の耳に、はるか下の方の時ならぬざわめきが、光のように波打って来た。私は酔って歩く磯づたいのように、浪のねをうつらうつらと聴いた。けれども、もう一と息だ、私の妹は焦点を失ってはならなかった。私は一層、眉と眉との間に力を入れ、眼を凝らし、一点の焦点を取り逃がすまいとした。私は、「妹!」と下から叫びたくなった。私の足の裏は、冷酷に張り渡された綱を鋭く感じた。私の足の拇指に異常な力が入り、指のぶしが折れそうに、一本の綱に凍りついた。もう三足だ! 今だ! 私は……そうではない。彼女だ。彼女の眼の前に、突然、真赤な風船が、幻の人魂が出現した。はるか下の方の見物の群れは総立ちとなった。怒濤のような騒めきが、急に、一瞬間、ハタとーその時、彼女の焦点に集中されていた彼女の全存在から、彼女の一生の夢と色彩とが放射した。それがゴム風船のぐるりに移って真赤に、くるくると燃えながら廻転したーハタと喧騒が消え、その瞬間に、水底のような沈黙がにわかに世界を圧し去った。

 すぐーその深い沈黙の底に、バサ、という音が、舞台の固い床の上を叩いた。ここのあらゆる耳を撥いた一つの音。ひとつの死が叩いた音。

 私の人魂は、高いところに渡された一本の綱の上をためらいながら、数丈の下にへしゃげた私の恋しい少女の屍体を、ぼんやり見下ろしていたのである。……
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