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永井荷風「雪解」ルビなし

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amizako

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雪解

兼太郎は点滴の音に目をさました。そして油じみた坊主枕から半白の頭を擡げて不思議そうにちょっと耳を澄した。
枕元に一問の出窓がある。その雨戸の割目から日の光が磨硝子の障子に幾筋も細く糸のようにさし込んでいる。兼太郎は雨だれの響は雨が降っているのではない。昨日午後から、夜も深けるに従ってますます烈しくなった吹雪が夜明と共にいつかガラリと晴れたのだという事を知った。それと共にもうかれこれ午近くだろうと思った。正月も末、大寒の盛にこの貸二階の半分西を向いた窓に日がさせば、そろそろ近所の家から鮭か干物を焼く匂のして来る時分だという事は、丁度去年の今時分初めてここの二階を借りた当時、何もせずにぼんやりと短い冬の日脚を見てくらしたので、時観を見るまでもなく察しる事が出来るのであった。それにつけても月日のたつのは早い。また一年過ぎたのかなと思うと、兼太郎は例の如く数えて見ればもう五年前株式の大崩落に家倉をなくなし妻には別れ妾の家からは追出されて、今年丁度五十歳の暁とうとう人の家の二階を借りるまでになった失敗の歴史を回想するより外はない。以前は浅草瓦町の電車通に商店を構えた玩具雑貨輸出問屋の主人であった身が、現在は事もあろうに電話と家屋の売買を周旋するいわゆる千三屋の手先とまでなりさがってしまったのだ()昨日も一日吹雪の中をあっちこっちと駈け廻って歩く中一足しかない足駄の歯を折ってしまった事やら、ズブ濡にした足袋のまだ乾いていようはずもない事なぞを考え出して、兼太郎はエエままよ今日はいっそ寝坊ついでに寝て暮らせと自暴な気にもなるのであった、もともと家屋電話の周旋屋というのは以前瓦町の店で使っていた男がやっているので、一日や二日怠けた処で昔の主人に対して小言のいえようはずもなく解雇される虞もない……。

窓の下を豆腐屋が笛を吹いて通って行った。草鞋の足音がぴちゃぴちゃと聞えるので雪解のひどい事が想像せられる。兼太郎は寝過してかえっていい事をしたとも思った。突然ドシーンとすさまじい響に家屋を震動させて、隣の屋根の雪が兼太郎の借りている二階の庇へ滑り落ちた。つづいて裏屋根の方で物干竿の落ちる音。どうやら寝てもいられないような気がして兼太郎は水洟を啜りながら起上った。すぐに窓の雨戸を明けかけたが、建込んだ路地の家の屋根一面降積った雪の上に日影と青空とがきらきら照輝くので暫く目をつぶって立ちすくむと、下の方から女の声で、

「田島さん。家の物干竿じゃありませんか。」

兼太郎のあけた窓の明りで二階中は勿論の事、梯子段の下までぱっと明くなった処からこの家の女房は兼太郎の起きた事を知ったのである.

「どうだか家じゃあるまいよ。」と兼太郎はそんな事よりもまず自分の座敷の火鉢に火種が残っているか否かを調べた。

「田島さんもうじきお午ですよ。」

襖の外で言いながら、おかみは梯子段を上り切って突当りに一間ばかり廊下のようになった板の間から、すぐと裏屋根の物干へ出る硝子戸をばビリビリ音させながら無理に明けようとしている。いつも建付けの悪いのが今朝は殊更雪にしめって動かなくなったのであろう。

この硝子戸から物干台へ出る間の軒下には兼太郎の使料になっている炭と炭団を入れた箱にバケツが一個と洗面器が置いてある。

「あら、まア田島さん。炭も炭団もびしょぬれだよ。昨夜の中にどうにかしてお置きなされアいいのにさ。」

物干竿を掛直したかみさんは有合う雑布で赤ぎれのした足の裏を拭き拭き此度は遠慮なくがらりと襖を明けて顔を出した。眉毛の薄い目尻の下った平顔の年は三十二、三。肩のいかった身体付のがっしりした女であるが、長年新富町の何とやらいう待合の女中をしていたとかいうので襟付の紡績縞に双子の鯉口半纏を重ねた襟元に新しい沢瀉屋の手拭を掛け、藤色の手柄をかけた丸髷も綺麗に撫付けている様子。まんざら路地裏の嚊とも見えない。以前奉公先なる待合の亭主の世話で新富座の長吉と贔屓の客には知られている出方の女房になって、この築地二丁目本願寺横手の路地に世帯を持ってからもう五年ほどになるがまだ子供はない。

「おかみさん。湯に行って暖たまって来よう.。今日は一日楽休みだ。」と兼太郎は夜具を踏んで柱の釘に引掛けた手拭を取り、「大将はもう芝居かえ。一幕のぞいて来ようかな。」

「播磨屋さんの大蔵卿、大変にいいんですとさ。」

「おかみさんまだ見ないのか。」

「お正月は御年始廻りや何かで家の人がいそがしいもんだから。」と女房は襟にかけた手拭を姉さまかぶりにして兼太郎の夜具を上げ、

「ゆっくり行ってお出なさい。綺麗に掃除して置きますよ。田島さん、そうそう持って来るのを忘れてしまった。牛乳が火鉢の処に置いてありますよ。」

「今朝はもう牛乳はぬきだ。日が当っていてもやっぱり寒い。」と兼太郎は楊枝をくわへて寝衣のまま格子戸を明けて出た。

路地の雪はもう大抵両側の溝板の上に掻き寄せられていたが人力車のやっと]台通れるほどの狭さに、雪解の雫は両側に並んだ同じような二階家の軒からその下を通行する人の襟頸へ余洙を飛している。それを避けようと思って両方かの軒下へ立寄ればいきなり屋根の上から積った雪が滑り落ちて来ないともわからぬので、兼太郎は手拭を頭の上に載せ、昨日歯を割った足駄を曳摺りながら表通へ出た。向儼は一町ほども引続いた練塀に、目かくしの椎の老木が繁茂した富豪の空屋敷。此方はいろいろな小売店のつづいた中に兼太郎が知ってから後自動車屋が二軒も出来た。銭湯もこの間にある。蕎麦屋もある。仕出屋もある。待合もある。ごみごみしたそれらの町家の尽る処、備前橋の方へ出る通との四辻に遠く本願寺の高い土塀と消防の火見櫓が見えるが、しかし本堂の屋根は建込んだ町家の屋根に遮られてかえって目に這入らない。区役所の人夫が掻き寄せた雪を川へ捨てにと車に積んでいるのを、近処の犬が見て遠くから吠えている。太い電燈の柱の立っているあたりにはいつの間に誰がこしらえたのか大きな雪達磨が二つも出来ていた。自動車の運転手と鍛冶屋の職人が野球の身構で雪投げをしている。

兼太郎は狭い路地口から一足外へ踏み出すと、別にこれと見処もないこの通をばいつもながらいかにも明く広々した処のように感じるのであった。そして折々自分はどうしても路地に生れて路地に育った人間ではない、死ぬまでにいつか一度元のように表通に住んで見たいものだと思う事もあるのであった。兼太郎がこの感慨は湯屋の硝子戸を明けて番台のものに湯銭を払う時殊更深くなる事がある。

築地のこの界隈にはお妾新道という処もある位で妾が大勢住んでいる。堅気の女房も赤い手柄をかける位の年頃のものはお妾に見まがうような身なりをしている。兼太郎は番台越しに女湯で着物をぬぎかける女の中に、小作りのぽっちゃりした年増盛のお妾らしいものを見ると、以前代地河岸に囲って置いた自分のお妾の事を思い出すのである。名はお沢といった。大止三年の夏欧洲戦争が始まってから玩具雑貨の輸出を業とした兼太郎の店は大打撃を受けたので、その取返しをする目算で株に手を出した。とんとん拍子に儲かったのがかえって破滅の本であった。四、五年成金熱に浮かされている中、講和条約が締結され一時下った相場はまた暫く途拍子もなく絶頂に一達したかと思うと忽にしてまた崩落した。兼太郎は親から譲られた不動産までも人手に渡して本妻の実家へ子供をつれて同居するという始末、代地河岸に囲ってあったお妾のお沢は元の芸者の沢次になった。幸い妾宅の家屋はお沢の名儀にしてあったので、両人話合の末それを売って新に芸者家沢の家の看板を買う資本にした訳である。兼太郎は本妻との間にその時八つになる男と十三になる娘があったにもかかわらず、いつか沢の家に入りびたりとなった。本妻の実家は資産のある金物問屋の事とて兼太郎の身持に呆れ果て子供を引取って養育する代り本妻お静の籍を抜きやがて他へ再縁させたという話である。

丁度そんな話のあった頃から兼太郎は沢次の家にもどうやら居辛いようになって来た。初めの中は旦那の落目に寝返りをしたなどと言われては以前の朋輩にも合す顔がない。今までお世話になった御恩返しをするのはこれからガと沢次は立派な口をきいていたが、一年二年とたつ中いつか公然と待合にも泊る。箱根へ遠出にも行く。兼太郎は我慢をしていたが、遂には抱えの女供にまで厄介者扱にされ出したのでとうとう一昨年の秋しょんぼりと沢の家を出た。さすがに気の毒と思ったのか沢次はその時三千円という妾宅を売った折の金を兼太郎に渡した(.以後兼太郎はあっちこっちと貸間を借り歩いた末、今の築地二丁目の出方の二階へ引っ越して来た時には、女から貰った手切の三千円はとうに米屋町で大半なくしてしまい、残の金は一年近くの居食にもう数えるほどしかなかった。

雪は止んだ。裸虫の甲羅を干すという日和も日曜ではないので、男湯には唯一人生花の師匠とでもいうような白髭の隠居が帯を解いているばかり。番台の上にはいつも見る婆も小娘もいない。流しの木札の積んである側に銅貨がばらばらに投出したままになっているのは大方隠居の払った湯銭であろう。兼太郎も湯銭を投出して下駄をぬこうとした時、ガラガラと女湯の戸をあけて入って来た一人の女がある。

色糸の入った荒い絣の銘仙に同じような羽織を重ねた身なりといい、頤の出た中低な顔立といい、別に人の目を引くほどの女ではないが、十七、八と覚しいその年頃とこの辺では余り見かけない七三に割った女優髷とに、兼太郎は何の気もなくその顔を見た。娘の方でも番台を間に兼太郎の顔を見るといかにも不審そうに、手にした湯銭をそのまま暫く土間の上に突立っていたが、やがて肩で呼吸をするように、

「まあお父さんしばらくねえ。」といったなり後は言葉が出ぬらしい。

「お照。すっかり見ちがえてしまったよ。」

兼太郎は人のいないのを幸い番台へ寄りかかって顔を差伸した。

「お父さんいつお引越しになったの。」

「去年の今時分だ。」

「じゃ、もう柳橋じゃないのね。」

「お照、お前は今どこにいるのだ。御徒町のお爺さんの処にいるんじゃないのか。」

お照は俄に当惑したらしい様子で、「今日はアノ何なの11ちょっとそこのお友達の内へ遊びに来ているんですよ。」

「何しろここでお前に逢おうとは思わなかった。お照、すぐそこだから帰りにちょっと寄っておくれ。お父さんはすぐそこの炭屋と自転車屋の角を曲ると三軒目だ。木村ッていう家にいるんだよ。曲って右側の三軒目だよ。いいか。」
その時戸を明けて貸自動車屋の運転手らしい洋服に下駄をはいた男が二人、口笛でオペラの流行唄をやりながら入って来たので、兼太郎はただ「いいかねいいかね。」と念を押しながら本意なくも下駄をぬいで上った。お照は気まりわる気に軽く首肯いて見せるや否や男湯の方からは見えないズット奥の方へ行ってしまった。
茶の間の長火鉢で惣菜を煮ていた貸間のかみさんは湯から帰って来た兼太郎の様子に襖の中から、
「田島さん。御飯をあがるんなら蒸して上げますよ。煮くたれててよければお汁もあります。どうします。」
「お汁は沢山だ。」と兼太郎は境の襖を明けて立ちながら、「おかみさん、不思議な事もあるもんだ。まるで人情げなしにでもありそうな話さ。女房の実家へ置き去りにして来た娘に逢ったんだ。女湯もたまにゃア覗いて見るものさ。」
「へえ。まアil。」
「その時分女房は三十越していい年をしていやがったが、よくよくおれに愛想をつかしやアがったと見えて他へ片付いてしまやアがったんで、つい娘や子供の事もそれきり放捨って置いたんだがね、数えて見るともう十八だ。」
「この辺においでなさるんですか。まアこっちへお入んなさい。」
「湯ざめがしそうだから着物を着て来よう。おかみさん娘が尋ねて来るはずなんだ。あんまりじじむさい風も見せたくないよ。」
兼太郎は二階へ上り着物を着換えてお照の来るのを待った。午飯を食べてしまったが一向格子戸の明く音もしない。兼太郎は窓を明けて腰をかけ口に啣えた敷島に火をつける事も忘れて、路地から表通の方ばかり見つめていたが娘の姿は見えなかった。お照はやはりおれの事をよく思っていないと見える。人情のない親だと思うのも無理はない。尋ねて来ないのも尤もだ。手の甲で水洟をふきながら首をすっ込めて窓をしめると、何処かの家の時計が二時を打ち、斜に傾きかけた日脚はもう路地の中には届かず二階中は急に薄暗くなった。長い間窓に腰をかけていたので湯冷もする、火鉢の火を掻立てて裏の物干へ炭団を取りに行くとプンプン鳥鍋の匂がしている。隣家は木挽町の花柳病院の助手だとかいう事で、つい去年の暮看護婦を女房に貰ったのである。二階から此方の家の勝手口へ遠慮なく塵を掃き落すというので出方のかみさんは田舎者は仕様がないとわるく言切っている。兼太郎は雪に濡れた炭団をつまんで独り火を起すその身に引くらべると、貰って間もない女房と定めし休暇と覚しい今日の半日を楽しく暮す助手の身の上が訳もなく羨ましく思われたので、聞くともなく物干一つ隔てた隣の話声に耳をすました。すると物干の下なる内の勝手ロで、
「おかみさん、留守かい。おかみさん。」と言う男の声。物干の間から覗いて見ると紺の股引に唐桟縞の双子の尻を端折り、上に鉄無地の半合羽を着て帽子も冠らぬ四十年輩の薄い痘痕のある男である。
「伊三どん、大変な道だろう。さアお上り。」水口の障子を明けたかみさんは男の肩へ手をやって、
「今日は二階にいるんだからね。」と小声に言った。
「そうか。貸間の爺かい。じゃまた来ようや。」
「何、いいんだよ。さア伊三どん。おお寒い。」
男を内へ上げた後、かみさんは男の足駄を手早く隠してぴったり水口の障子をしめた。男は伊三郎という新富町見番の箱屋で、何でもここの家のおかみさんが待合の女中をしている時分から好い仲であったらしい。兼太郎は去年の今頃は毎日二階にごろごろしていたので様子は委しく知っているのであった。その時分には二人は折々二階へ気を兼ねて別々に外へ出て行フた事もあった。
兼太郎は炬燵に火を入れて寝てしまおうかと思ったが今朝は正午近くまで寝飽きた瞼の閉じられようはずもないので、古ぼけた二重廻を引掛けてぷいと外へ出てしまった。本より行くべき処もない。以前ぶらぶらしていた時分行き馴れた八丁堀の講釈場の事を思付いて、其処で時間をつぶした後地蔵橋の天麩羅屋で一杯やり、新富町の裏河岸づたいに帰って来ると、冬の日は全く暮果て雪解の泥濘は寒風に吹かれてもう凍っている。
格子戸をあけると、わざとらしく境の襖が明け放しになっていて、長火鉢や箪笥や縁起棚などのある八畳から手水場の開戸まで見通される台処で、おかみさんはたった一人後向になって米を磨いでいた。
「おかみさん。とうとう来なかったか。」
「ええ。お出になりませんよ。」とかみさんは何故か見返りもしない。
兼太郎はわけもなく再びがっかりして二階へ上るや否や二重廻を炬燵の上へぬぎすてそのままごろりと横になった。向う側の吉川という待合で芸者がお客と一所に「三千歳」を語っている。聞くともなしに聞いている中、兼太郎はいつかうとうととしたかと思うと、「田島さん、田島さん。」と呼ぶ声。
階下のかみさんは梯子段の下の上框へ出て取次をしている様子で「お上んなさいましよ。きっと転寝でもしておいでなさるんだよ。まだ聞えないのか知ら。田島さん。田島さん。」
兼太郎は刎起きて、「お照か。まアお上り。お上り。」といいながら梯子段を駈下りた。
お照は毛織の襟巻を長々とコートの肩先から膝まで下げ手には買物の紙包を抱えて土間に立っていた。兼太郎は手を取らぬばかり。
「お照。よく来てくれたな。実はもう来やしまいと思っていたんだ。おれも今方帰って来た処だ。さアニ階へお上り。」
「じゃ御免なさいまし。」とかみさんの方へ何とつかず挨拶をしてお照は兼太郎につづいて梯子段を上った。
「お照、ここがお父さんのいる処だ.)お父さんも随分変ったろう。」と兼太郎は火鉢の火を掻き立てながら、「ぬがないでもいいよ。寒いから着ておいで。」
けれどもお照は後向になってコートと肩掛とを取乱された六畳の問の出入口に近い襖の方に片寄せながら、
「さっき昼間の中来ようと思ったんですよ。だけれどお友達と浅草へ行く約束をしたもんだから。」
「そうか、活動か。」と兼太郎は小形の長火鉢をお照の方へと押出した。
「お父さん、これはつまらないものですけれど、お土産なの。」
「何、お土産だ。それは有難い。」と兼太郎は真実嬉しくてならなかったので、お照が火鉢の傍へ置いた土産物をば膝の上に取って包紙を開きかける。土産物は何かの缶詰であった。
「お父さん、やっぱり御酒を上るんでしょう。浅草にゃ何もないのよ。」
「ナニこれアお父さんの大好きなものだ。」
兼太郎は嬉涙に目をぱちぱちさせていたがお照は始終頓着なくあたりを見廻す床の間に二合罎が置いてあるのを見ると自分の言った事が当っているので急に笑いながら、
「お父さん、やっぱり寝る時に上るんですか。」
「何だ。はははは。とんだものを目付かったな。何、これア昨夜雪が降ったから途中で一杯やったら、もういいというのに間違えてまた一本持って来やがったからそのまま懐中へ入れて来たんだ。」
「お父さん、今夜はまだなの。お上んなさいよ。わたしがつけて上げましょう。」
丁度手の届くところに二合罎があったのでお照はそれをば長火鉢の銅壷の中に入れようとして、
「この中へ入れてもいいんでしょう。」
兼太郎は唯首肯くばかり、いよいよ嬉しくて返事も出来ず涙ぐんだ目にじっとお照の様子を見詰るばかりである。お照が二合罎を銅壷の中に入れる手付きにはどうやら扱い馴れた処が見えた。
兼太郎は昼間湯屋の番台で出逢ったその時から娘の身の上が聞きたくてならなかった。しかし以前瓦町に店があった時分から子供の事は一切母親のお静にまかしたなり、ろくろく顔を見た事もなかった位。朝起きる時分には娘はもう学校に行っている。娘が帰って来る時分には兼太郎は外へ出て晩飯は妾宅で食べ十二時過ぎでなければ帰っては来なかったので、今日突然こんなに成長した娘の様子を見ると、父親としてはいかにも済まないような心持もするしまた何となく恨んでいはせまいかと恐ろしいような気もして、兼太郎はききたい事も遠慮して聞きかねるのであった。
実際その時分には兼太郎は女房の顔を見るのがいやでいやでならなかったのだ。気がきかなくてデブデブ肥っている位ならまだしもの事生れ付きひどい腋臭があったので嫌い抜いたあまり自然その間に出来た子供にまでよそよそしくするようになった訳である。兼太郎がその頃目をつける芸者は岡目には貧相だと言われる位な痩立な小作りの女ばかり。旅籠町へ遂に妾宅まで買ってやった沢次の外に、日本橋にも浅草にも月々きまッて世話をした女があったが、いずれも着痩のする小作な女であった。大柄な女はいかほど容貌がよく押し出しが立派でも兼太郎はさして見返りもせず、ああいう女は昔なら大籬の華魁にするといい、当世なら女優向きだ、大柄な女は大きなメジ鮪をぶっ乙うがしたようで大味だと冗談をいっていたのもそのはず、兼太郎は骨格はしっかりしてはいたが見だてのない小男なので、自分よりも丈の高い女房のお静が大一番の丸髷姿を見ると、何となく圧服されるような気がしてならないのであった。
それこれと当時の事を思い出すにつけて兼太郎は娘のお照が顔立は母に似ているが身体付は自分に似たものかそれほどデクデクもしていないのを見ると共に、あの母親の腋臭はどうなっただろうと妙な処へ気を廻した。しかしそれは折から階下のかみさんが焼き初めた寒餅の匂にまぎらされて.確かめる事が出来なかった、
お照は火針へ差かざす手先に始終お燗を注意していたが寒餅の匂に気がついたものと見え、「お父さん御飯はどうしているの。下でおまかないするの。」
「家にいる時はそうするがね。毎日桶町まで勤めに行くからね、昼は弁当だし帰りにゃ花村かどこかで一杯やらアな。」
「お父さん。それじゃ今は勤め人なの。」
「碌なものじゃないよ。お前は子供だったから知るまいが、瓦町の店へ来た桑崎という色の黒い太った男だ。それが今成功して立派な店を張っているんだ。そこへ働きに行くのさ。」
「桑崎さん、覚えているわ。どこだかお国の人でしょう。この頃はどこへ行ってもお国の人ばかりねえ。お国の人が皆成功するのねえ。」
「お父さん見たようになっちゃ駄目だ。御徒町のおじいさんも江戸ッ児じゃないよ。」
兼太郎は話が自然にここへ巡って来たのを機会にその後の様子を聞こうと、「お照。お前母さんがお嫁に行く時なぜ一所について行かなかったんだ。連れ児はいけないというはなしでもあったのか。」
「そうでもないけれど:…・。」とお照は兼太郎の見詰める視線を避けようとでもするらしく始終伏目になっていたが、「お父さん、もうお燗がよさそうよ。どうしましょう。」
指先で二合罎を摘み出して灰の中へそっと雫を落している。
「お照、お前どこでお燗のつけ方なんぞ覚えたんだ。」
「もう子供じゃないんですもの。誰だって知ってるわ。」と猫板の上に載せながら、「お父さんお盃はどこにあるの。旨
兼太郎は肝腎な話をよそにして夜店で買った茶棚の盃を出し、
「どうだお前も一杯やるさ.お燗の具合がわかる処を見ると一杯位はいけるだろう。」
「わたしは沢山。」とお照は壜を取上げて父の盃へついだ。
「お照。お前にめぐり遇った縁起のいい日だからな。」とぐっと一杯干して、「お父さんがお酌をしよう。飲めなければ飲むまねでもいいよ。」
「そう。じゃついで頂戴。」
お照は兼太郎が遠慮して七分目ほどついた盃をすぐに干したばかりか火鉢の縁で盃の雫を拭って返す手つき、いよいよ馴れたものだと兼太郎は茫然とその顔を見詰めた。
「お父さん。いやねえ。先刻から人の顔ばかり見て。わたしだっていつまでも子供じゃないわ。」
「お照、お前、お母さんがお嫁に行ってから会っ治か。」
「いいえ。東京にゃいないんですって、大阪にお店があるんですとさ。」
「角太郎はどうしている。お前が十八だと角太郎は十三だな。」
「角ちゃんは今だってちゃんと御徒町にいるでし,。う。男ですもの。」
「女だといられないのか。」
「いられないっていうわけもないけれど、わたしが悪かったのよ。おじいさんの言う事をきかなかったから。」
「そんなら謝罪ればいいじゃないか。謝罪ってもいけないのか。」
「外の事と違うから、今更帰れやしませんよ。こうしている方が呑気だわ。」
「外の事とちがう。どんな事なんだ.、」
「どんな事ソて、その中に言わなくっても分りますよ。お父さんも道楽した人に似合わないのね。」
「わかったよ。だが、どうもまだよくわからない処があるな。お照、何も気まりをわるがる事はねえや。そんな事をいった日にゃお父さんこそ、お前に合す顔がありゃしない。お前がちゃんとおとなしく御徒町の家にいた日にゃ途中で逢ったって話も出来ない訳なんだ。そうだろう。乃公は女房や子供をすてた罰で芸者家からもとうとうお履物にされちまった。それだから、こうしてお前と話もしていられるんだ。」
「それアそうねえ。わたしが御徒町の家を出たからってお父さんが先のように柳橋にいたら、やっぱり何だか行きにくいわね。お父さん、何故柳橋と別れたの。」
「別れたんじゃない。追出されたんだ。もうそんな過ぎ去った話はどうでもいいや。それよりか、お照、お前の話を聞こう。表のお湯屋で逢ったんだからこの近所にゃ違いなかろうが、何処にいるんだえ。お嫁にでも行ったのか。」
「ほほほほ。お父さん。わたしまだやっと十八にな..たばかりよ。」
「十八なら一人前の女じゃないか。お嫁にだって何だって行けるぜ。自分でもさっきもう子供じゃないって言ってたじゃないか。」
「それアいろんな心配もしたし苦労もしたんですもの。」
「お燗はつけるしお酌はできるし、隅にゃ置けなそうだな。お父さんに似ていろんな事を覚えたんだろう。ははははは。当て見ようか。お茶屋の姐さんにしちゃ髪や風俗がハイカラだ。まずカッフェーかバーという処だが、どうだ。お照、笑ってばかりいないで教えたっていいじゃないか。」
「てっきりお手の筋ですよ。」
「やっぱりカッフェーか.、どうもそうだろうと思った。この近処にゃしかし気のきいたカッフェーはねえようだが、何処だい。」
「この間まで人形町の都バー-にいたんですよ.、だけれどももうよしたの。先に日比谷にいた時お友達になった姐さんがこの先の一丁目に世帯を持っているから二、三日泊りながら遊びに来ているのよ。もう随分…遊んだからそろそろまた働かなくちゃならないわ。」
「カッフェーは随分貰いがあるという話だがほんとかい。月にいくら位になるもんだね。」
「そうねえ、一番初めまだ馴れない時分でも三、四十円にはなってよ。銀座にいた時にはやッばり場所だわね。百円はかかさなかったわ。だけれども急がしい処は着物にかかるからつまり同じなのよ。」
「ふーむ偉いもんだな。どうしても女でなくちゃ駄目だ。お父さんなんか毎日足を棒にして歩いたっていくらになると思う。やっと八十円だぜ。その中で二十円は貸間の代に、それから毎日食べて行かなくちゃならないからな。そこへ行くと三十円でもくらしが出なけれア楽だ。」
「だから残そうと思えば随分残るわけなのよ。中には五百円も六百円も貯金している人もあるけれど、何の彼のって蓄ったかと思うとやっぱり駄目になるんですとさ。だからわたしなんぞ貯金なんかした事はないわ。有る時勝負で芝居へ行ったり活動へ行ったりして使っちまうのよ。」
「お客様に連れて行ってもらうような事はないのかい。カッフェーだって同じだろう。お茶屋や待合の姐さんと同じように好いお客や旦那があるんだろう。」
「ある人はあるし無い人はないわ。お父さんもうこれでおつもりよ。」
お照は二合壕を倒にして盃につぎ、「何時でしょう。わたしもうそろそろお暇しなくちゃならないわ。、二、三日中に行くところがきまったら知ちせるわ。」
「まだいいやな。あの夜廻は九時打つと廻るんだ。」
「今夜これから襦袢の襟をかけたりいろいろ仕度しなくちゃならないのよ。明日の晩にでもまた来ますよ。お酒と何かおいしそうなものを持って来ますよ。」とお照は立ちかけて、「お父さん、ここのお家、厠はどこなの。」
お照は約束たがえず翌日の晩、表通の酒屋の小僧に四合壜の銀釜正宗を持たせ、自身は銀座の甘栗一包を白木屋の記号のついた風呂敷に包んで、再び兼太郎をたずねて来た。甘栗は下のおかみさんへの進物にしたのである。乙の進物でかみさんはすっかり懇意になり、お照が鉄瓶の水を汲みにと、下へ降りて行った時袖を引かぬばかりに、
「お照さん、あなた、お燗をなさるんならこの火鉢をお使なさいましよ。銅壷に一杯沸いていますよ。何いいんですよ。家じゃ十一時でなくっちゃ帰って来ませんからね。いっその事今夜はここでお話しなさいましよ。田島さん、ねえ、田島さん。」と後からつづいて手水場へと降りて来た兼太郎にも勤めたので、二人はそのまま長火鉢の側へ坐った。
かみさんとお照はかき餅と甘栗をぼりぼりやりながら酌をする。兼太郎はいつになく酔払って、
「お照、お前がおいらの娘でなくって、もしかこれが色女だったら生命も何もいらないな。昔だったら丹さんという役廻りだぜ。ははははは。」
「丹さんて何のこと。」
「丹さんは唐琴屋の丹次郎さ。わからねえのか。今時の娘はだから野暮で仕様がねえ。おかみさんに聞いて御覧。おかみさんは知らなくってどうするものか。」
「あら、わたしも知りませんよ。御酒の好きな人の事を丹次郎ッていうんですか()アアわかりましたよ。赤くなるからそれで丹印だっていう洒落なんですね。」
「こいつは恐れ入った。ははははは。恐入谷の鬼子母神か、はははは。」
「のん気ねえ。ほんとにお父さんは。」
「酒は飲んでも飲まいでもさ。いざ鎌倉という時はだろう、ははははは。しかし大分今夜は酔ったようだな。」
「お酒のむ人は徳ねえ。苦労も何も忘れてしまうんだから。」
「だから昔から酒は憂の玉箒というじゃないか。酒なくて何のおのれが桜かなだろう。お酒さえ飲んでいれアお父さんはもう何もいらない、お金もいらない。おかみさんもいらない。」
「そんな事いったって、お父さん、一人じゃ不自由よ。いつまでこうしていられるもんじゃない事よ。」
「いてもいられなくっても最う仕様がないやな。まッ,お照そんな話はよしにしようよ。折角今夜はお正月らしくなって来たところだ。お照、お父さんのお箱を聞かせてやろうか。蓄音機で稽古したんじゃねえよ。」
やがて亭主が帰って来た。役者の紋をつけた双子縞の羽織は着ているが、どこか近在の者ででもあるらしい身体付から顔立まで芝居者らしい所は少しもない。どうやら植木屋か何かのようにも見れば見られる男で、年は女房とさして違ってもいないらしいが、しょぼしょぼした左の目尻に大きな黒子があり、狭い額には二筋深い皺が寄っている。かみさんは弟にでも勧言うような調子で、
「お前さん。田島さんのお嬢さんだよ。頂戴物をしてさ。」
「そうかい。それアどうも。」と言ったきり亭主は隅の方へ坐って耳朶へはさんだエヤシップの吸残りを手に取ったが、火鉢へは手がとどかないのか、そのまま指先で火を消した煙草の先を摘んでいる。
「どうです。芝居は毎日大入りのようですね。」と兼太郎は酔った揚句の相手ほしさに、
「一杯献じましょう。今年の寒はまた別だね。」
「ありがとう御在ます。お酒はどうも……。」と出方は再びエヤシップを耳にはさんでもじもじしている。
「田島さん。駄目なんですよ。奈良漬もいけない位なんですよ。」
「そうかい。ちっとも知らなかった。酒なんざ呑まないに越した事アないよ。呑みゃアつい間違いの喚とだからね。おかみさん、いい御亭主を持ちなすってどんなに仕合せだか知れないよ。」
かみさんは何とも言わずに台所へと立って膳拵えをしはじめた。
路地の内は寂としているので、向側の待合吉川で掛ける電話の鈴の音のみならず、仕出しを注文する声までがよく聞える。
「お父さん、それじゃわたし明日からまた先にいた日比谷のカッフェーへ行きますからね。通りかかったらお寄んなさいよ。御馳走しますよ。」とお照は髪のピンをさし直してハンケチを袂に入れた。
兼太郎は酔っていながら俄に淋しいような気がして、「寒いから気をつけて行くがいいぜ。今夜はやっぱり一丁目の友達のところか。」
「どうしようかと思っているのよ。今夜はこれからつぐ日比谷へ行こうかと思っているのよ。今日お午過ぎちょっと行って話はして来たんだし、それに様子はもうわかっているんだから。」
「今夜はもう晩いじゃないか。」
「まだ十二時ですもの。電車もあるし、日比谷のバーは随分おそくまでや4、てるわ。夏の中はどうかすると夜があけてよ。」
お照は出方の夫婦と兼太郎に送り出されて格子戸を明けながら、
「まアいいお月夜。」
建込んだ家の屋根には一昨口の雪がそのまま残っているので路地へさし込む寒月の光は眩しいほどに明るく思われたのである。
「なるほどいいお月夜だ。風もないようだな。」と上り框から外をのぞいた兼太郎は何という事もなくつづいて外へ出た。兼太郎は台処の側にある手水場へ行くよりも格子戸を明けて路地で用を足す方が便利だと思っているので寝しなにはよく外へ出る。
お照は二、三歩先に佇んで兼太郎を待っていたが、やがて思出したように、「お父さんあの人が芝居の出方なの。どうしてもそうは見えないわね。」
「むッつりした妙な男だ。もう一年越し同じ家にいるんだが、ろくそっぽ話をしたこともないよ。」
「何だか御亭主さん見たようじゃないわね。わたし気の毒になっちまったわ。」
路地を出ると支那蕎麦屋が向側の塀の外に荷をおろしている。芸者の乗っているらしい車が往来するぽかりで人通は全く絶え、表の戸を明けているのは自動車屋に待合ぐらいのものである。銭湯は今方湯を抜いたと見えて、雨のような水音と共に溝から湧く湯気が寒月の光に真白く人家の軒下まで漂っている。
「今夜は馬鹿に酔ったぜ。そこまで送って行こう。」
「お父さんソラあぶない事よ。」
「大丈夫、自分で酔ったと思ってれば大丈夫だ。」
「ねえ、お父さん。あのおかみさんは、わたし御亭主さんに惚れていないんだと思うのよ。」
「何だ。また家のはなしか。」
「惚れていない人と一緒になると皆ああなんでし,・うか。いやなものなら思切って別れちまった方がよさそうなものにねえ。」
「色と夫婦とは別なものだよ。惚れた同士は我壗になるからいけないそうだ。お前なんぞはこれからが修行だ。気をつけるがいいぜ。」
「お父さん。わたしが銀座にいた時分から今だに毎日々々きっと手紙を寄越す人があるのよ。わたしの頼むことなら何でもしてくれるわ。随分いろんなものを買.てもらったわ。」
「そうか。若い人かね。」
「二十五よ慶応の方なのよ。この間一緒に占いを見てもらいに行ったのよ。そうしたらね。 一度は別れるような事があるッて言うのよ。だけれど末へ行けばきっと望通りになれるんですッて。」
「いい家の坊ちゃんかね。」
「ええお父さんは銀行の頭取よ。」
「それじゃ大したものだ。あんまり好すぎるから親御さんが承知しまいぜ。」
「だから占を見てもらいに行ったのよ。だけれどね、お父さん。もしどうしても向のお家でいけないッて言ったら、その時は一所に逃げようッていうのよ。お父さん、もしそうなったら、お父さんどうかしてくれて。二階へかくまって下さいな。L
兼太郎は返事に困って出もせぬ咳嗽にまぎらした。いつか酒屋の四つ角をまがって電車通へ出ようとする真直な広い往来を歩いている。
「大丈夫よ.、お父さん、わたしだって其様向見ずな事はしやしないから大丈夫よ。カッフェーに働いていさえすれば誰の世話にならなくっても、毎日会っていられるんだから。いっそ一生涯そうしている方がいいかも知れないのよ。」
「お照、お前怒ったのか。」と兼太郎は心配してお照の顔色を窺おうとした時電車通の方から急いで来かかった洋服の男が摺れちがいにお照の顔を見て、
「照ちゃんか。日比谷だっていうから行ったんだよ。」
「これから行く処なの。」とお照は男の方へ駈寄って歩きながら此方を見返り、「お父さんそれじゃさよなら、もういいわ。さよなら、おかみさんによろしく。」
取残された兼太郎は呆気に取られて、寒月の光に若い男女が互に手を取り肩を摺れ合して行くその後姿と地に曳くその影とを見送った。
見送っている中に兼太郎はふと何の聯絡もなく、柳橋の沢次を他の男に取られた時の事を思出した。沢次と他の男とが寄添いながら柳橋を渡って行く後姿を月の夜に見送ってもういけないと諦をつけた時の事を思出した。思出してから兼太郎はどうして今時分そんな事を思出したのだろうとその理由を考えようとした。
お照と沢次とは同じものではない。同じものであるべきはずがない。お照は不届至極な親爺の量見違いから置去りにされて唯一人世の中へほうり出された娘である。沢次は家倉はおろか女房児までもふり捨てて打込んだ自分をば無造作に突き出してしまった女である。事情も人間も全然ちがっている。しかし夜もふけ渡った町の角に自分は唯一人取残されて月の光に二人連を見送る淋しい心持だけはどうやら似ているといえば言われない事もない。
お照はそれにしても不人情なこの親爺にどういうわけで酒を飲ませてくれたのであろう。不思議なこともあればあるものだ。それが不思議なら、あれほど恩になった沢次が自分を路頭に迷わすような事をしたのもやはり不思議だといわなければならない。
帽子もかぶらずに出て来た(りで娘が飲ませてくれた酒も忽醒めかかって来た。赤電車が表通を走り過ぎた。兼太郎は路地へ戻って格子戸を明けると内ではもう亭主がいびきの声に女房が明ける箪笥の音。表の戸をしめて兼太郎は二階へ上り冷切った鉄瓶の水を飲みながら夜具を引卸した。
路地の外で自動車が発動機の響を立て始めたのは、大方向側の待合からお客が帰る処なのであろう。

    大正十一年一月-二月稿

 

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