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楠田匡介「脱獄を了えて」


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第四十八号監房

「よし! これで脱獄の理由がついたぞ1」
 六年刑の川野正三は、こう心の中で呟いていた。正三の
前には、一本の手紙があった。
 内縁の妻から来たもので、それには下手な字で、こまご
まと、正三と別れなければならない理由が書かれていた。
 今度の入獄以来、正三には、こうなる事は判っていたの
である。
 終戦後、これで三回目の刑務所入りである。罪名は詐
欺、文書偽造。
 三回目の今度と云う今度は、妻の領子もさすがに、愛想
をつかしていた。
「畜生!」
 正三は声を出して云った。
「どうしたい?」
 同じ監房の諸田が、雑誌から顔をあげて訊いた。
「うんー」
「細君《ばした》からの手紙だろう?」
林が訊いた。
「うん」
「そうか……」
 諸田が判ったように頷いた。
 その川野の前にある手紙の女名前から、別れ話である事
に、察しがついたからである。十二年囚の諸田にも、その
経験があった。
 諸田も林も、川野から内妻領子の事は、再三聞かされて
いた。
「どうしたんです?」
 年下の林は怪訝そうに二人の顔を見くらべた。だが川野
は返事をしなかった。
 川野正三は入監した日から、脱獄を計画していたのであ
る。
 入って丸二年、正三は、その機会の来るのを、じっと待
っていた。彼は詐欺で二年九ヵ月、恐喝で三年三ヵ月を食
っていた。
 囚人に取っては、裟婆くらい、あこがれの的はない。自
由と云うものはどれ程、いいものであるか、拘禁された者
でなければ、その味は判らない。
 自由になった時は、空気の味さえ違うと、云われてい
る。
 一坪六合に三人入れられている。明治時代に出来た赤煉
                       かし
瓦の建物で、四方板張り、五寸からある厚い、小さな樫の
ドアに向い合って、鉄格子のはまった窓がある。
          な
 下も板敷で、それは舐めたように、綺麗に掃除されてい
る。掃除も一つの仕事の内で、少しでも汚れていると、罰
を食うからである。
 窓の下に、水道の付いた洗面器。一方の壁に小さな棚が
あって、二、三冊の本と、洗面道具が乗っている。
 あさぎ
 浅葱色の薄っぺらの布団が、コバを断截…機に掛けた紙の
ように、キチンと揃えて、三人分、その壁の下に重ねられ
ていた。
 床には薄ベリが一枚。
 公然には話しする事も禁じられている。
 勿論、就寝以外は許可なくて横になる事も出来ない。体
が悪くて横になる時は、その許可を得て、房の前に「横臥
許可」の木札を出して貰う。
 積み重ねた夜具や、羽目に、寄り掛る事さえ出来ない。
 寒いからと云って、立って手足を動かす事も出来なけれ
ば、暑いからと云って、裸になる事も許されない。
 しゆろ
 棕櫚のマットを敷いた廊下を、看守がいつやって来て、
反則を取られるか、判らないからである。
 囚人には、この反則の懲罰は恐しい。面会も減らされれ
ば、手紙を書く回数も減ぜられる。
 書籍も取りあげられ、作業に出して貰えないから、食事
の量さえ減って来る。
 今、三人は、声を忍んで、ボソボソと話していた。
 侮雨は、いつやむとも判らない。
 就寝の時間までは、まだ暫くあった。廊下の隅の拡声器
は、どこかの落語を放送している。
 耳をすますと、石畳みを歩き廻る看守達の足音がする。
 暑い。汗が、だまっていても胸から、脇の下にジクジク
と湧いて来る。
 小さな窓は開け放されているが、風は少しも入らない。
 窓の向うに工場の屋根が見えていて、その向うには、煉
瓦の上をコンクリートで固めた高い塀がある。
「まだ四年以上あるんだぜ、じたばたしたって仕方がないさ」
 諸田は、あきらめさせるように云った。
 その諸田の刑期は、まだ七年からあった。
「うん──」
「つまらないまねはよせよ。自分で損するばかりだからな
──」
               やけ
 インテリで神経質な川野の事、自暴自棄になって、どん
な事をするか判らないと、思ったからである。
 川野は旧制の中学校を出ている。収監されてからも成債
はいい方で、早ければ、もう仮出獄を貰えるかも知れない
のだ。
 だが彼は、それを待っていられなかった。
 川野は脱獄をしてでもいいから、一日も早く出たいと、
あせっていた。──
 半年ばかり前の事だった。 .
 雑役夫である川野は、同じ村出身の船元とばったり作業
所で顔を合わせた。気の弱い男で、小学校は川野から三年
ばかりあとだった。
「へえ、お前も来たのか?」
 善良な青年だったのにと、川野は意外な気がした。
    たたき
「うん、強盗そこなって、三年半さー」
 一っばしの悪党らしく、こう隠語まじりで船元は云っ
た。
 それから時々、看守の目を盗んでは、村や知人の事を話
し合った。
 小さな漁村だが、今は市に合併されていて、
「新しく学校も出来たし、バスも一日十回くらい通るよう
になったよ」
「へえ……」
「それもさ、片岡さんが県会議員になってからさl」
 片岡と聞いて、川野の胃の腑にグッと突き上げて来る熱
いものがあった。
 この片岡繁太郎こそ、川野が入獄の日から脱獄しても、
たたき殺してやりたい相手だったからである。
 芸者に出ていた川野の妹を妊娠させ、そして捨てて殺し
てしまった当の相手が、片岡繁太郎である。
 川野と片岡は同じ中学を出ている。片岡は二、三年先
だ。
 片岡は大学を出てから、教員になり、教育委員になり、
去年制度が変って委員をよし、今度県会議員になったもの
らしい。川野の知っているのは、教育委員までである。
 川野の妹の静子は、川野の弁護費用を作るために、身を
売ってくれたのである。
           かつ
 川野は前科があって、恐喝の重罪を百も承知していたか
ら、詐欺や文書偽造をやっても恐喝なんてする男ではなか
ったのだ。
 小さな教材会社の注文書を偽造して、少しばかり儲けに
掛ったが、それを発見され、川野は逆に、その教材会社の
不正をねじ込んだ。それが恐喝に問われたのである。
         はい
 三年三ヵ月食って入獄ってから、川野はその教材会社
に、片岡繁太郎が関係している事を知った。
 詐欺の二年九ヵ月と、恐喝の三年三ヵ月を終ってからで
はもう遅い。
 ー鉄は熱い内にたたけ1
 川野は、この刑務所の中で教育されて、その復讐心の、
鈍るのを恐れた。
「その危険は多分にある」
 と、川野は自分自身に云っている。

計画

「手前を殺してやるぞ!」
 と、川野は、手紙のたび、便りの度に内妻の領子に書い
た。
 書いたって、届かない事は、川野には百も承知だった。
 全面にわたってそんな不穏な文句があると、それは投函
されずに、保安課に保管されてしまうし、一句くらいな
ら、墨黒々と消されて、それは出される。案の定、すぐ保
安から注意され、二回目には教育から呼ばれて、説教を食
った。が、川野は執拗にそれをやめなかった。
 これが脱獄の時の大きなトリックに使えるからだった。
 領子に届かないとなると、川野は親に、知人に書き出した。
「ええ、おい川野、細君を『殺してやる!』ったって、お
                        さび
前の刑期は、まだ四年もあるんだぜ。お前の身から出た錆
じゃないか! 身分帳を見ると、細君はよく君の事を心配
して一刑の時も二刑の時も寝ずに走り廻ったと書いてある
ぜ! そんな考えは捨てろよ!」
 教育科長から、こんこんと、こう云われた時、川野は、
「はい……ですが科長さん! ここに入っている時こんな
事を云って来るなんて……」
「だって、細君はまだ、二十五じゃないか。細君の前途だ
って考えてやれよ。細君にしたって、子供に前科を知らせ
たくない。と云ってるんだ! その前科者って焼き印を、
誰が押したんだ。お前自身じゃないか!」
「だが、私は赦せないんです! 僕は殺されたって、八ツ
裂にされたって、……あいつのために、こんな風になった
僕なんです! 領子をたたっ殺してやらないんじゃ……」
 ぶるぶる震えながら、目を吊りあげ、両手で胸を掻きむ
しる、芝居をして見せた。
「ええ、落ち付けよ……そして、静かに考えて見るんだな
i-また、何か云う事があったら聞いてやるし……保護司
の先生に相談して見たらどうだ?」
「いりません!」
 川野は叫ぶように云った。
川野の帰住地-妻の住んでいる所は、この刑務所のあ
る市から、汽車で七ッ八ッ北の宮城県寄りにあった。
 領子はその保護司にも相談して、今度の手紙になった事
は、川野も判っている。
 川野が「殺してやる!」と、云ってやった手紙に、
「この事は、あなたのよく了解済の事ではありませんか!」
 と、あったように、実は離婚を川野は承知していたので
ある。
 川野は入獄した日から、脱獄の計画をしていたーだ
が、一口に脱獄と云うが、どっこい、簡単に抜け出られる
所には、監獄は出来ていない。
 殊に、この川野のいる刑務所は、建った時から、一度も
脱獄者を出していない厳重さである。
 川野は合鍵の事を考えたが、塀までたどり着くのに、錠
は六ヵ所かかっていた。
 看守達が、各自持っている鍵を使っても、錠には一つ一
つの癖があり、その癖を呑み込まないでは、なかなか開か
ないものなのだ。
 だから、どこの監獄でも、脱獄と云えば監外の作業場が
多かった。
 不幸な事に、初めの内は、川野も所外耕作に出された
が、今は所内の雑役に廻されている。
 所外作業でも、帰監の時は点呼するし、いつも看守の目
が光っている。
 川野は、この二年間、あらゆる脱獄の方法を考えた。
 外からの手引があれば、成功率は高い。だが、今の川野
には、そんなつてはない。
 それかと云って、一人の力で脱獄するのは先ず不可能
だ。考えに考えた末、川野は船元を引っ張り込む事に計画
を立てた。
「おい船元!」
 機械工場のガラス拭きをさせられている時、川野は看守
の隙を見て、バスの修理の船元に話し掛けた。
「ええ……」
「お前に頼みがあるんだ!」
「ええ」
「そのバス、いつ修理が終るんだ?」
「今日中でさ」
「明日まで、出来上りをのばせよ」
「ど、どうするんで?」
 びっくりして、船元は、川野の顔を見た。
「仕事を続けてろ! 俺の方を向くな!」
船元から三メートルばかり離れて、川野は工場の窓ぎわ
の足場の上にいた。本工場のベルトのうなりや、ハンマー
の騒音で、幸い二人の話は誰にも聞かれる心配はない。
 川野は船元に背を向けているが、船元の動作は、窓ガラ
スに写っている。
船元はボンネットに、首を突込んでいた。
 バスと云うのは、毎日ここから四キロばかりの裁判所
に未決の被告を運ぶ、小型バスだった。朝昼晩三度バスは往復していた。
「あすまで掛かれよ!」
「へえ……」
「あすの夕方までよ」
「へえ……」
 そこへ担当看守が、近付いて来たので、二人は話をやめた。
「船元-明日は大丈夫か2」
 看守は、タイヤに片足を掛けながら、ボンネットを呪き
込んだ。
「ええ」
「頼むぜ……」
「ええ、明日の迎いには、間に合うつもりです」
 迎いと云うのは、午後三時半にここを出て、裁判所か
ら、被告を連れ帰る便の事である。
 川野は、このバスを利用しようと云うのである。
 担当は、足場の上の川野をチラと見たが、何も云わず、
そのまま彼の足場の下を通って行った。
 五、六メートル行って、看守は何か思い出したように、
振り返って、川野を見た。ドキンと、川野の心臓は口元ま
で、飛び出して来た。が、担当は、そのままスタスタと去
った。
「船元-明日の四時キッチリにここを出るようにせー」
「へえ……」看守の姿が消えると、川野は云った。
「こちらを向くなって、云ってるんだ!」
 川野は素早く、あたりを見廻す、同じ雑役夫の石渡は、
七、八間向うの窓を洗っている。
「な、何すんで?」
「ば、馬鹿! 大きな声を出すな!」
 川野はあたりを見廻したが、向うの看守台の看守は、下
を向いて何かしていた。
「厭だ! お、おれは、厭だ!」
船元は囚人の敏感さで、そのバスが何んに使用されるか
を感じ取っていた。
         ちんころ
「そうか! 船元、密告するならせい! 俺は刑がただ延
びるだけだが、手前は裟婆で何をして来た!」
 一瞬、船元の顔色の変ったのが、ガラスに写っている船
元の背から感じられた。
 いつか、船元は自慢話に、今まだ迷宮入りになっている
強盗殺人の犯人が、自分だとチョロリ喋った事がある。
 これは、よくある事で、刑務所では、自分を偉く見せる
ために、こんな作り話を喋る奴がいるものだ。だが、これ
は、本当の事件だった。
 同じ村で、小さな時から知り合いだーと云う気安さか
ら、喋ったのだったろうが、今の川野の一言はよく利いた。
 その時は、川野はその自慢話を鼻で笑っていたが、この
脱獄の計画に、川野はこれも計算に入れていたのである。
それは図に当った。
「手前もだまってやってくれるなら、俺は金輪際喋るこっ
てはない。やってくれるか?」
 川野は、ガラスの中の船元の背に云った。
「うんー」
 船元の返事が聞かれたのは、それからやや暫くたってか
らだった。
「何んだい川野さん。さっきから、一寸もはかどらんでは
ないの?」
 同じ作業の、子供子供した千崎が寄って来た。
「うんー」
 作業終りのブザーが鳴り、還房点検が終った。
 あの無気味な、硬い、施錠の音を幾つも背に聞いて、監
房に戻ってからも、川野は落ち付けなかった。
(昂奮しちゃいけねえ! 昂奮しちゃいけねえ!)
 と、自分に云い聞かせても、川野は時々ぶるぶると体が
震えた。
 船元の密告で、いきなり看守が、引ぎずり出しに来ない
かと、川野はビクビクした。
「おい川野! 顔が青いぜ! 病気じゃないか!」
 諸田が訊いたが、
「う、ううんー」
 と、川野は云った切りだった。
 看守の靴音が、近くにする度、川野はビクッと身を震わ
せた。川野は睡れなかった。

門まで

 朝、川野は、布団の裾の糸を、そっと爪で、すこしばか
りほぐしていた。
 諸田も林も、まだ目醒めていなかった。
 指を入れて、薄いポリエチレンの袋を引き出した。中に
は褐黄色した名刺大の布切れが入っていた。
 それをそっと、ズボソのポヶットにしまい込む。
 これも今日の日を待って隠し持っていたものである。そ
れはエチルパラチオンの濃液を浸した布切れだった。
 先日久しぶりに、農場に出されて、パラチオソ撒布を川
野は手伝わされた。その時作った布切れだった。これの猛
毒の事は川野も聞いていた。川野はきき耳を立てた。
 遠くで人の動き廻る気配がしている。
 マヅトの上を、看守の通って行く靴音が、体に感じられる。
(俺を起しに来たのでは、ないか!)
 と、体が固くなる。
 朝のサイレンが、澄んだ空に鳴り渡る。
 やがて起床のブザーがなって、人々の起きる音がし出し
た。
 刑務所の一日が始まったのである。
 点検があって、食事が終った。
 川野は落ちつけなかった。誰かに呼ばれたり近くに看守
            おび
の靴音がする度に、ドキッと怯えた。
(今呼びに来るか、今呼びに来るか!川野には寿命の縮まる思いだった。)
 今日も工場のガラス拭ぎに出された。持場は、木工の作
業場である。
 足場に乗ってガラスを拭いていると、修理工場は、ガラ
ス窓をへだてて、すぐ下に見える。
「おい! 船元ー」
 通りがかりに、そっと声を掛けた。
「うんー」
 さすがに船元の顔も硬ばっていた。
「四時だぜー」
「うん」
 その半日は、川野には、百年のように長かった。
 足場に乗っていても、気が落ち付けなかった。
           ちんころ
 ひょっとして、船元が密告しやしないだろうか?
 それが心配になって仕方がなかった。
 昼の食事まで、何事もない。
(看守達は知ってるんだ。が、現場を押えるまで・知らな
い振りしているんだ!)
 とも、川野には、思われた。
 計画を、誰にも喋っていないのだから、船元との会話だ
けでは、何んの証拠にもならない。
 食らっても懲罰房行だけである。だが、一歩塀の外に踏
み出せば、罰はずんと重くなり刑期ものびる。
(奴等は、それを待ってるのかも知れないー)
 仕事は手につかないばかりか、時間がやけに気になった。
 バスの方をチラチラ見る。修理が出来あがって、工場の
外へ持って行かれれば、それきりである。
 一時五十分-許しを得て便所に行く。
 バスの横を通った時、かがんで草履の鼻緒を直すような
振りして、船元に合図を送る。
 船元は片目をつぶって、右手の親指と、人差指で、丸を
作って見せた。O・Kの印である。
 川野は体を伸して、あたりを窺った。看守台の看守がこ
っちを見ている。
 川野は狼狽した。
(あっ! 感づかれたんじゃないか!)
 草履を手に取って、わざと鼻緒を引っばって見たりした。
 だが、それきりであった。チラと見ると、看守はもう別
な方を見ていた。
 時間は、牛の歩み程のろい。
 二時半、修理工場のバスには、もう船元の姿は見えな
い。
 三時-休みのサイレンが鳴る。
 十五分の休憩がある。収容者達は、建物の横に出る。
 キャッチボールをやる者、雑談をする者-
 川野はのろのろと足場を降りて、修理工場に入った。鍛
冶場の前にある熱処理用の手袋を一組素早くシャツの中に
たくし込む。これも前から目をつけていたものである。何
気なくバスの向う側に廻る。誰もいない。
 体や顔を動かさず鋭い目で、あたりを見る。誰も彼に注
意している者はない。幸い機械の蔭になって、川野の下半
身は見えない。
 何かに、つまずいたようなふりをして、川野はゴロリ
と、地べたに転った。
 そして、そのままバスのボデーの下に、もぐり込んだ。
 ボデーの下には、やや傾斜を持ったシャフトが、縦に走
っている。川野は作業衣をぬいで、それに巻きつけ、両手
に厚い作業手袋をはめ、硬く組んで、それにしがみついた。
 足はカップリングの上に、軽く組み合わせる。
 ブザーが鳴って、工場へ帰る入乱れた人々の足音がする。
 うっかりしていると、このバスの動ぎ出さない内に、ガ
ラス拭きに帰っていない事に気がつかれる。そうなると万
事休す。
 一秒一秒が、まるで長い時間に思われる。
 川野は永劫の思いで、バスに近づく足音を待った。
 何人もの、草履の足が通り過ぎる。
 川野の待っているのは、これらの足ではない。
 やがて革ゲートルをつけた看守の靴が、車の横で停った。
 「いいんだなI」
  一つの声が云った。
 「いいそうです」
 今一つの声が答えた、
 「では出掛けるか?」
「出ましょう」
 前の声は永井看守で、今一つの声は、運転手の細川看守
の声であった。
 やがて、川野の視野から、その四つの足が順々に消え
て、ボデーが幽かに揺れた。
 それがシャフトにしがみついている、川野の体に、不気
味に伝って来る。
 ブルルンと、エソジンの掛る音がし出した。 一瞬、恐怖
が、川野の全身を貫き通った。
 シャフトが廻転し、スピードが出てそれにしがみ付き通
せるだろうか? その恐しさだった。
 だが、もうどうにもならない。川野は計算していた。彼
は堪え通せると確信していた。
 よしんば、そのために、手の皮が、腕の肉が削り取られ
たって、もう矢は弦を離れてしまったのである。ー
 ブルン、ブルン、ブルンー
 シャフトは廻り出した。
 余り硬く握ってはいけない。作業衣が巻きついて、体も
一緒に持って行かれては、ボデーの鉄材で、頭の骨は、滅
茶苦茶になるだろう。
 だが、そうスピ1ドが出ない事を川野は知っている。
 バスは大きく一つ身.震いして、動き出した。
 足がカップリングのカバーから、落ちそうになる。
 ガタンと、前輪が、工場の敷居を越した。
 川野の体は、はね返って、すんでにボデーの鉄に、頭を
打ちつける所だった。
 ザザザザと、砂利を噛んで、バスは工場から、事務所の
横に廻った。
 目の隅に、玄関前の、コンクリートで作った丸い池が見える。
「わあっー」
 と、川野は真青になった。
 その池の囲りに、二、三人の囚人がしゃがんで、草取り
の作業をしている。
 佐藤に、水井に高原である。誰かが一人こっちを向け
ば、それでおしまいだ。
 ボデーの飾板が、車輪の半分から下に垂れてはいるが、
地べたにしゃがんでいては、川野の体の半分は、見えるは
ずである。
 ボデーの下と云っても、真夏の強い日光の照り返しで、
そこはほの明るい。
 川野の命が縮まった。
 川野は、シャフトの上で足を組んだ。
 もう一度、川野はヒヤッとした。
 組んだ足の先の、ゴム草履が、すんでの所で落ちそうに
なったからである。
 川野は足を動かして直そうとしたが、そうすればするほ
ど、草履は、指の間から、ズリ落ちそうになった。
 塵っ葉一枚ない、事務所前の広場で、そんな物が、突然
砂利の上に現われたら、人々は、どんなにびっくりするだろう。
 パスはスピードを落している。門に掛かったのだ。
 門には、幾つも視線がある。
 川野は必死になって、足の指先に力を入れた。草履はブ
ランブランと、ゆれている。
(門を出て、コソクリートの塀を廻るまで落ちずにいてくれ!)
 川野は全神経を、足先にこめていた。
 ジリジリジリと、鉄門の開く音がする。
 バスは停った。が、うっかり下手に履き直す訳には行かない。
 外出証を見せているのであろう。
 川野の目と、一メートルと離れない所に、門衛のズボン
と、靴が見えていた。
 川野の全身は汗みどろになっていた。
(もう、二、三メートルだ! 一たん動き出して、停らな
かったら、それで俺は救われるのだ! もし停ったら?)
 脱獄を確認して、保安課員が彼の首根っ子に、ピストル
の冷たい銃口を押しつけるからだ。
 川野は、その恐しさに、気が遠くなる思いだった。
 バスは動き出した。

逃げられる

「停るな! 停るな! 停るな!」
 川野は、全身で叫んでいた。
 一メートル、ニメートル……三メートル。
右手に見張所のボックスが見えた。
左手に差入れ屋の、売店のアイスクリームの白い箱。
 バスはグイと右にカーブしてスピードを出した。
「あっ!俺は助かったのだ!」
 川野は喜びでわくわくした。
 真夏の、コンクリート舗道は、強い陽の光に焼けていた。
 刑務所の塀をグルリと廻って、すぐ坂に掛る。
 道は廻りくねって登って行く。スピードは落ちた。
 川野の、バスの下から転がり落ちる計画の場所はここなのだ。
 一方は官舎の高塀に続いて、カーブして、ここが丁度、
上から人が来ても、下から来ても、死角になっている事
を、川野はよく知っていた。
 この通路は、国道に出るまで、刑務所の農場へ行く私用
道路で、めったに人の通る所でない事も、川野は熟知している。
 今頃は官舎の人も、めったにここは通らない。
 高塀の陰になって、望楼からも見えない所である。川野
は首を下げて、前後を見廻す。
 誰の足も視角に入って来ない。
 だが、うっかり手を離すと危険である。手を離した瞬間
パスにカーブを切られたんでは、後輪に櫟き殺されなければならない。
(もし、人が通っていたらままよ!)
 坊主頭に、青い菜葉服、一目で囚人と判る。
 川野は先ず、足を離した。
 踵がコンクリートの上に引きずられて、焼けるように熱い。
 手を離して、その手で頭を抱え込む。足を思い切り伸し
た。縮めていて、ボデーのどっかにでも触ったら、体はマ
リのように巻き込まれる。
 瞬間、川野の血は凍りつく。
             えび
 グッと圧力が来て、彼の体は海老のように巻きあげられる。
                   きしみ
 ザザと、耳のそばを後輪のタイヤが、鋭い軋をあげて通る。ー
 ー助かった! ー
 川野は、素早くゴロンと転って、傍の溝の中にのめり込んだ。
              はき
 草の中に顔を押し込む。ムッと嘔吐気をもよおすような
匂が、鼻を打ったーが、川野の全身は喜びに震えてい
た。そばを自家用車らしいのが通って行った。
 幸い草が深かった。い逼い出そうとしたが、体が硬わばっ
て、手足を曲げる事さえ出来なかった。
 十分──川野は這い出して、官舎の塀にそうて歩き出した。
 すぐ総務部長の官舎で、そこに壊れた鳩小屋がある。下
が物置きになって、上は鳩小屋になっている。総務部長の
息子が死んで、鳩を他へやってしまい、今は空小屋になっ
ている。これは再三汲み取りに行って知っていた。
 案の定、錠は掛っていなかった。
 物置きから細い梯子が掛っている。鳩小屋に入ると、ム
ッと、鳩の糞とすえたような匂が鼻を打った。
 川野は持って来た作業衣を敷いて、ゴロリと横になった。
 小屋の半分から上は、ガラス窓になっていて、むかい
に、刑務所の望楼が見えた。
 まだ川野の脱獄は知られていないと見えて、刑務所の中
は、静まり返っている。
 でも川野は、夜になるのを待つより仕方がなかった。
 うっかり、こんな恰好で、街頭を歩く事は出来ない。一
       あさぎ
目で囚人と判る浅葱色のズボン、同色のシャツ、しかも背
中には桜の輪郭に、刑務所の印のPの字が大きく、スタン
プで捺されている。
 頭は坊主刈、陽に当らない青白くむくんだ顔、青いゴム
製の薄い草履。ー
 川野は、日暮を待つ事にした。
 川野には長い時間であった。バスの下にいた時間は、ほ
んの一分か二分足らずであったが、川野には、何年も掛っ
たような気がした。幸い、手も足も怪我した所はない。
 何ヵ月もかかってねりあげた計画だから、失敗はないと
は思ったが、こうまでうまく行くとは、川野には思われな
かった。
 バスを利用する事は、前から思いついていたが、どうし
てあのバスの底にへばりつけるかは、計算が立たなかっ
た。船元が修繕工になるとは、夢にも思わなかったし、そ
の本工場のガラス拭きになれたと云うのも、川野には有り
がたい偶然であった。……
 川野は耳をすました。
 低くブザーが鳴っている。川野はニヤッと笑った。
 コンクリートの厚い塀を通して、慌しい空気が感じられる。
 川野の脱獄が判ったらしい。
 激しい人々の出入する音がする。号令を掛けている声もする。
 ジープが、通って行く。
 非常呼集のベルは、なお止まない。
 脱獄すると囚人は、刑務所を一足でも遠のこうとするも
めだ。まさか、すぐ望楼の前のしかも総務部長の鳩小屋に
隠れていようとは、気がつかないであろう。
 だが、探されれば、それまでである。川野は、ほぞをき
めていた。
 ここに隠れたのは、捜査隊の裏をかくばかりではなく、
川野にはもう一つの目的があった。脱獄後の着替えを、川
野は農場の隅に隠していたのである。
 何んとしても、この恰好では、あがきがつかない。それ
かと云って、その辺の表に乾してある洗濯物を盗んでは、
すぐそれから足がつく。
 長い日も暮れる。長い時間だった。
 夜になった。ドンヨリ曇って星もない。
 農場は、刑務所の横の小高い丘を越した向うにある。
 日中は、出入の激しい刑務所だったが、夜も更けて来る
と、この辺は人通りがとだえる。川野はそろそろと鳩小屋
を降りた。外に出たが、何んの物音もない。
 望楼の上には、武装した保安の看守の立っているのが、
ほのかに見える。
 塀にそうて溝の中を歩き、丘を廻って野耕地に入った。
 春の運動会の仮装に使った、ベレーとセルロイドの玉を
入れた眼鏡は、ポリエチレンの袋に入れて、畑の溝に埋め
てある。官舎からクスネた薄手の白ズボンとシャツは、こ
れもポリエチレンに入れて、堆肥の底に隠してある。
 すこし臭いが、いたんでいなかった。ポリエチレンは、
刑務所の工場で加工しているので、いくらも手に入った。
 川野は着替えて、刑務所のユニホームは、堆肥の中に押
し込んだ。
 川野は、この辺の地理には明るかった。
 ベレー帽に眼鏡、白い半袖に白ズボン。足は何んとも出
来なかったが、これは半里も歩くとビニール靴を一足手に
入れる事が出来た。素足に靴は、余り気持よくないが、こ
の場合だ。
 彼はこのためにも、夏を選ぶ必要があった。白ズボンで
は冬は歩けないし、食べ物にも事を欠く。夏の畑には生で
食べられる瓜類が一杯にある。
 川野は、内妻の領子の住んでいるH市とは反対の南へ南
へと歩き出した。
 川野に逃げられて、刑務所ではすぐ非常線を、北の街道
口に張ったろうし、H市の近くに張込をしているに違いない。
 川野は脱獄の目的を領子殺しにあると、思わせていたか
らである。
 川野と、今、川野の殺害目標である片岡繁太郎の関係
ば、誰も知らない。
             ひと
 川野は一言も片岡の事を、他人に喋った事はないし、片
岡もまた、あの事件を恥じて、iいや社会党の、しかも
教育関係出の県議なのでーこれっぽっちも云っていな
い。それどころか極力それを、ひた隠しにしているはずだ。
 二日歩いて、三日目にやっと国道で、東京行のトラック
を見つけて、乗せて貰った。
 半日で、片岡のいる市に着いた。
 片岡の家は、治郎兵衛沼のそばにある。
 片岡は去年の暮、新築してここに移っている。
 川野はこの町へ、ずっと前一、二度来た事があるので、
見当はついていた。
 まだ陽は高い。片岡の家の前を素通りする。大きな表札
が出ている。
 治郎兵衛沼は、青々と一杯に浮き草を浮べて水の色も見
えない。
 四方は水田で、人っ子一人見えない。
 所々に赤い旗が立っている。農薬を撒布した印なのである。
 川野は小学校の土手に腰をおろして、新聞を拡げた。
 余程小さくなったが、川野の脱獄の記事が出ている。足
取は掴めないが、内妻のいるH市に入るものとして、必死
の警戒陣を敷いているーと書いている。服装はどこも盗
難の届出がないから、まだ青い囚人服のままで山の中にで
ももぐっているに違いない。どんな衣類でもなくなった場
合は、届出る事、と、云うような注意書ぎも付記されている。
「あっはははは」
 と、川野は笑った。
      まち
「領子のいる市どころか、俺は正反対のここにいるんだ
ーそして、ベレーに眼鏡、白のズボン、白靴さ。あっは
はは」
 川野の記事と並んで、悪質の風邪のひどく流行し初めた事が出ている。
「片岡は、すぐ風邪を引く男だったっけなー」
 と、川野は思ったりした。

殺しそこねる

 日はとっぷり暮れていたーが、まだ宵の口だった。
 沼に面した方から川野は塀を飛び越した。広い庭を一巡
したが、片岡は留守らしかった。
「チェッー」
 川野は舌打ちした。
 金は一銭もないし、そうぐずぐずしていられない。
 全国手配にもなっているし、警察には写真はあるし、指紋も取られている。
 片岡が長い旅行にでも出ていられては事だ、と思った。
 蚊がひどい。川野はそろそろと、勝手元の方へ忍んで行つた。
 何かの煮える、おいしそうな匂がする。考えて見ると、
川野は、三日間と云うもの、満足な食事を取っていない。
 伸びあがって、そっと覗いて見る。
 すぐ目の下の調理台に膳が作られている。それは主人公
め膳だとすぐ判った。
     きよみず
 薄手の、清水らしい男用の大きな茶碗が乗っている。肴
ばまだ付けられていないが、福神漬の小井が乗っている。
 川野は、片岡の飲む水の中にでも、あの農薬を浸した布
を、抛り込もうと思っていたのである。
 川野はポリエチレンの袋を取り出した。福神漬の小鉢に
抛り込んでかき廻してやろうと思うが、手が届きそうもない。
 何かなかろうかとあたりを見廻すと、すぐ横に風呂の焚
日があって、火ばさみが置いてある。
 風呂場を覗くとプーンと硫黄の香がする。近くの温泉場
から取り寄せた、ゆの花に違いない。片岡は汗っかきで皮
膚の弱い男である事も思い出す。
 川野はポリエチレンの袋を破り、それを焚口に抛り込ん
だ。布を火ばさみで挾んで、福神漬の小井の上にかざし
た。やっと伸びあがって、火ばさみの先が、丼に届く。そ
の布切れを突込んで、掻き廻したいのだが、丼は深く、ふ
ちに火ばさみが当って、カチカチと音を立てる。
 小丼を引寄せて、もしひっくり返しでもしたら、何んに
もならない。
                  しずく
 川野は、それに水をふくませて、その雫をたらす事にし
た。湯殿の窓に戻って、火ばさみで風呂の蓋を少し開け、
その中に布を浸した。
 家の者は、表座敷にいると見えて、遠くの方から、何か
の音楽がきこえて来た。テレビでも見ているのであろう。
 その時、自動車の音がした。
「あら……先生がお帰りになったわよ」
 女の甲高い声が、すぐ川野の横手の窓でした。
「お風呂加減は、いいかしら〜」
 ガラリと、脱衣場の戸を開ける音がする。
 川野はハッとして、火ばさみを引っこめた。
 カチリと湯船のふちに当って、その火ばさみの先には、
例の布はついていなかった。
 どっかにけし飛んでしまっていた。
「チェッ! なんてこった!」
 闇の中を走りながら、川野は呟いていた。
 殺人は完全に失敗したのである。
 一キロも走って、川野は気落ちしたように立ち停った。
「おい、この福神漬は、ニンニク臭いね。誰かニンニクを食ったのかい?」
 その頃、食卓の前に坐っていた片岡は、けわしい顔で細
君を振り返った。
「いいえl」
「だって、匂をかいで見ろ! 俺のニンニク嫌いは知って
るじゃないか!」
 鼻に持って行った小丼を、片岡は、ストンと音を立て
て、食卓の上に置いた。
「箸も洗って来てくれ!」
 片岡は箸を抛り出した。
 一杯ビールを引っかけて、又風呂に入って、片岡は寝た。
              めまい
 その夜、熱を出し、嘔吐し、眩輩と頭痛を訴えて医者を
呼んだ。
「風邪らしいですな!」
 と、飛んで来た医者は云った。
「それに、何か悪いものでも食べませんか」
「いいや……」
 赤痢も流行していた。
 片岡は神経質な男である。赤痢が、この市に出てから、
彼は外では食事を取らなかった。
「風邪でしょうね……」
 そう云って、医者はその手当をして帰って行った。
           よだれ
 明け方、痙攣を起し、涎をたらして、
「ニンニク……」
 と、一言云った切り、片岡繁太郎は、三十六歳の若さで
死んで行った。
 死亡診断書には、
 ー感冒、心臓麻痺1
 と、書かれていた。
 肥っていて、心臓に脂肪がかかり、弱くなっていた事も
事実である。
「へえー」
 次の日、新聞を見て、川野は、くすぐったそうに一人で
呟いた。
 あんな危険な脱獄までして、殺そうと思った相手が、コ
ロリと死んだのである。
 あんまりあっけなかった。
 馬鹿らしくもあった。
 張り合い抜けの気もした。
 川野は、自分が、片岡を殺したんでないとなると、捕まるのが馬鹿らしい気がして来た。
 何んと云ったって、この自由の空気は、香ばしかった。
 刑務所の塀の中にはないうまさだった。
 手足が自由に伸ばせた。
 大きな声で物を云う事も出来た。
 勝手に寝る事も出来た。走る事も、飛びあがる事も、そ
して考える自由さえあったー
「やれ、やれ、やれ……」
 川野は、ゆっくり背伸びをして、国道を東京に向って歩
いていた。自由と云うものはいいものだ……
 新聞は、内妻の所へ帰るものとして、その方面を厳重に
警戒してるーと書いていた。
「馬鹿たれめ!」
 川野は、一寸したノビをやって、八千円ばかりの現金を握った。
 鰻を食べて見た。うまかった。寿司を食べて見た。うま
かった。
 冷たいビールは、こんなうまい物は、世の中にまたとあ
ろうか、と思った。
 上手に姿を変えて、変名して渡れば、知能犯の詐欺師だ
けあって、暮して行ける自信は川野にはあった。

噴霧器

 水戸から、上野行きの汽車に乗って、川野はギョッとし
た。あれから三日たっている。
 デッキに立って、ふと向うの箱を見ると、私服だが、川
野の担当看守が、今一人の男と、一人一人客の顔を覗くよ
うに見ながら、やって来る姿が目に付いた。
「げえっ!」
    のど
 思わず咽の奥から、妙な声が飛び出した程川野は驚愕した。
 何んと云ったって、二年間毎日顔を合わせていた担当看
守である。
 鱒村《ますむら》看守は・いい人だった。誰にもよくしたが、川野に
は特別目をかけてくれた。
 鱒村看守は、だんだん近づいて来る。
 汽車は急に速力を落して、駅の構内に入った。川野は思
い切って飛び降りた。
 上手に逃げれると思ったが、これはかえってまずかった。
「あっ! 誰かおっこちた!」
 窓から顔を出していた乗客の一人が、叫んだからである。
「あっ! 川野!」
 鱒村看守が大声をあげた。
「馬鹿野郎!」
 川野は自分に、毒舌を吐いていた。
(もう少し辛抱して、上手に逃げ終わせる工夫を、するべ
きだったのだ!)
 走りながら見ると、汽車を飛び降りた鱒村看守の追って
来る姿が見えた。
「川野! 川野!」
 背に川野は鱒村の声を聞く。
 川野には、皆んなが、北を探しているのに、ここへ自分
を追って来たのを不思議に思った。
 川野は、蹲村看守が農家出である事を忘れていた。
 刑務所で片岡県議の死を新聞で見て、鱒村は、
「おや!」
 と、思った。
 その死が、余りに、農薬の中毒死に似ているからであった。
 そして、ふと片岡は川野と同じ町出身だと、思い出した。
「偶然かな?」
 と、鱒村は首をかしげた。
(片岡県議も、川野と同じ町の生れだったな!)
 鱒村は考え続けて、ふと、あの川野の書いた内妻への手
紙を思い浮べた。
 保安で保管してある手紙を調べて見る。全部読み通し
て、鱒村はニヤリと笑った。
 川野は元来馬鹿な男ではない。相当物の判ったインテリ
である。今迄の刑務所でも、何一つの反則を取られていな
いし、担当に注意されると、素直に訊く男なのに、内妻殺
しだけは、しつっこく書き続けている。
 保安にも注意されているし、教育でもしかられている。
 受信を調べて見ると、領子の手紙にも離縁は、
 あなたも承知の事ではないか
 とある。鱒村は手だなーと感づいた。目的は外にある
に違いない。
 保安課長に申し出たが、
「そうかな」
 と、云ったきり煮え切らない。鱒村は友人の刑事に相談
して、片岡との関係を執拗に調査して貰った。川野の妹の
静子が浮んで来た。
 刑務所の農場で使った農薬はエチルパラチオソである。
図書室と、保健所で『有機燐製剤の薬理作用と化学的性
質』『有機燐製剤による中毒症例とその治療』なんて云う
本を調べて見ると、あの片岡繁太郎の症状が、このパラチ
オンの中毒と殆んど同じである。
 治郎兵衛沼の農会と、保健所に照会すると、そこでも、
パラチオン剤を撒布したが、片岡氏の死亡の時は、もうそ
の毒性は殆んどなくなっていたーと返事がある。
 撒布剤が霧になって、家の中に入って来ても、中毒死す
る事がある。
 刑務所でも相当注意して使わせていた。
 作業日記を調べて見ると、撒布の日に川野も農耕に出さ
れている事が判った。
 そこへ、治郎兵衛沼の隣町で、八千円のノビのあった事
が報告された。
「奴は、金を擱んだよ。片岡も片づけたし、東京へ飛びま
すよーー」
 東京は川野の第二の故郷である。
 鱒村は田見刑事と、川野を追ったのであった。……
 川野は、駅の柵を越すと田んぼに出た。
 暫く満足に食事をしていないので、ハアハア、荒い息を
吐きながら川野は走った。
 暑かった。邪魔になるベレーも、眼鏡も捨てた。汗が目
に入る。シャツをぬいでそれを拭いた。
 田では、噴霧器を使って、男が農薬を撒いていた。
「そ、それを貸せー」
「な、何をするんだい!」
 後ろから掴まれて、噴霧器の男が、びっくりして叫ん
だ。川野は、その噴霧器で、追って来る鱒村看守達を追い
払うつもりであったのだ。
「馬鹿こくでねえー」
 ゴム製の防毒衣に、防毒マスク、防毒眼鏡、 ゴムの長
靴、ゴム手袋のその男は、びっくりして、噴霧器の噴射ネ
ジを締めにかかった。
「そ、そのまま貸せ!」
 然し、それは無茶だった。
 防毒衣の男は、川野と争って、田の中にひっくり返され
た。だが、手からノッズルは放さなかった。鱒村達は、田
のあぜに立ちつくした。
「うわっー」
 川野は田の泥に足を取られて、ひっくり返った。
「ああ、頭が痛いー」
 病院に運ばれたが、どうにもならなかった。熱が出、頭
        めまい
痛を訴え、嘔吐し、眩暈し、涎をたらし、真青になり、そ
して、痙攣を起して川野は死んで行った。
 片岡県議の死の症状と、そっくりそのままだった。
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