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大下宇陀児「石の下の記録」(1)


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青い石

 その石は、公園にあるベンチほどの大きさがあり、形も
ベンチに似ていて、人が二人ならんで腰かけられるほどの
ものだった。
 庭石としては、わりに上等とされる伊予の青石だったか
ら、昔でもかなり多額な金を出して、この庭のうちに引か
せたものだったのだろう。庭の広さや、所々にのこってい
る基礎工事のコンクリートの配置などで、戦災前はこの家
           せつちゅうしき
が、かなりりっぱな和洋折衷式の屋敷であったということ
が、うなずかれる。石はその屋敷の焼け跡の、半分は附近
の人の手でたがやされた家庭菜園になっている庭のうち
の、枯れて黒くなった桜の木のそばに、どつしりすえてあ
った。
 表面には、ほこりをかぶっているし、陽が射して乾いて
いる時は、見向く気もしないほど白茶けた汚い石に見える
けれど、雨がふって濡れて、ほこりが洗い流されたときに
見ると、肌の緑色が濃く鮮やかに深味をまし、小さなヒダ
の間に、白い石英の縞が刻まれていたり、伊予石としても
                      じようもん
よほど特別なものなのだろう、こまかい無数の赤い条紋が、
あちらこちらに現われてきたりするので、なるほどこれ
は、かなり値打ちのある庭石だということがわかるので
あった。
 戦災を蒙る前のこの家には、附近の人の話によると、上
品な一人の老人と、その老人の一人息子である音楽好きの
青年と、青年の妻である若い女とが住んでいて、召使いの
者も二人ほどいたということであった。
 石の上には、その上品な老人がきて腰をおろして、庭の
うちの木や草や土の色をじつと眺めながら、過ぎ去った永
い年月のうちに起った事がらを、それからそれへと思い出
していた日もあったろうし、月の美しいある夜、老人の息
子とその妻とが、そっとよりそって腰をかけて、愉しく睦
じく、時の移るのを忘れて、語り合ったこともあるだろう
と思われる。石は、老人の心を知り若い夫婦の語らいを聞
いた。そうして時がいつしか過ぎた。老人が死んだのは、
戦争の終るより二年前である。老人の死後一年ほどして息
子は出征し、南方前線で戦病死したとの公報が、終戦の年
の秋に来たが、その時はもうこの家が焼けてしまってい
る。残された妻は、病院にいて良人が死んだという知らせ
をうけた。そうして同じ年の冬、良人の遺愛のヴァイオリ
ンを枕もとへ飾ってもらい、良人はまだ生ぎているのだか
ら、その良人のもとへ自分は行くのだといって、嬉しげに
微笑したまま死んでしまった。
 屋敷跡は、庭は、そして石は、誰がこの所有者であるか
わからないほどになった。
 庭の木は、全部黒くこげて焼けたけれど、根株の生きて
  さるすべり
いた百日紅とツゲと青桐と山吹が、細い芽をふき出し、蘭
 おも と
や万年青もだんだん生きかえった。
 そうして、石のところへは、雀がきていたり、陽の暖かい
時に、猫がきて眼を細め、香箱をつくったりしていること
のほかに、今年の春頃からして、奇妙な一群の人々がき
て、腰かけたり、そばに立っていたり、しかもあまり長く
そこにいるということはない、じきに立ち去ってしまうの
だけれど、その石を、特別な奇妙な目的で、利用し合うよ
うになった。
 奇妙な一群の人々というのは、年齢十七八歳から二十二
三歳までの、青少年男女である。
 そして、石を利用するのは、石の地べたに接している面
             ねぶかわ
が、となりにあるやはり庭石の根府川石と重なり合うよう
になっていて、その部分に、手をさし入れることのできる
ほどの穴ができていたからである。
 穴は、すぐ目に立つというほどのものでなく、しかも、
雨も、風も、中へははいらなかった。それで少年や少女
たちは、穴を、郵便のポストに使った。甲から乙へ、手紙
を書いてきて穴のうちへ入れておく。すると、乙は、都合
のいい日に学校をエスケイプし、何か用があるような顔を
してそこへやってきて、誰も怪しむものがないということ
を見きわめてから、穴のうちへ手をさしこみ、甲からの手
紙を発見することができる。つまりこれは、ポストよりも
つと時間がかかるけれども、ある場合にはまたポストより
もつと有用であって、彼等のための私設郵便局の役目を果
しているのであった。
 この郵便局を経由してくる書信は、親や兄弟や教師のた
めに検閲されるという心配がぜったいにない。
 仲間たちは、女のことでも会合のことでも金のことで
も、安心して手紙のうちへ書いた。父親がとてもがんこな
おやじで、金があるくせ小づかいをくれないから、こんな
父親は早く死んでくれた方がいいというグチを書いた。銀
座の喫茶店のレジをやっている女を紹介してもらえてあり
がたかった、そのお礼には、今度田舎の叔父の家の娘が、
洋裁を習うために上京してくるから、その娘を君に紹介す
る、という約束をした。君に金を借りたまま返せないでい
るが、自分の姉が嫁入っている家へこないだ遊びに行って、
ナルダンの十七石入りを、うまく持出してきた、どこ
か、時計を文句なしで買ってくれるところを教えてくれ、
そうすればすぐに金を返すことができるから、という取引
の手紙を書き、いっしょにその手紙の中へ、ほかのグルー
プの若い連中ばかりでやっているダンスパアテーへの招待
券を同封したりしたー。
 彼等は、時として、石のところへ二人つれできたりした
が、そういう時は石の上へ、腰をかけあぐらをかき、何か
重大な相談でもあるらしく、三十分も一時間も話しこんで
いて、煙草をむやみにぷかぷかとふかしつづけるのであっ
たが、その時取交す会話のうちには、日本語でもなく英語
でもないわけのわからない単語が、いくつか混っているこ
とがあった。
         いんこ
 それらの言葉は、隠語である。
 警察をサッと呼び、刑務所をヨセバといっている。ハヤ
   かいたいおうりよう
ノリは拐帯横領、ハイクルは自転車、グニヤが質屋でズヤ
 けいずかい
が故買者、そうして、たばこをモク、酒をキスなどという
のである。
「オイ、今日はね、ぼくが会計引きうけるぜ」
「ありがてえな。何かバクイことでもあったのかい」
「ぼくの財布だって、いつもヤクとは限らないよ。ケー
チャン売ったんだ。ヤリマンがとこ持ってるぜ」
 隠語が上手ではないし、いつもそのようにしてしゃべる
のではないが、彼等はスゴムことが好きであり、スゴム
と、そういう風な言葉づかいになるのである。
 スゴムわりに彼等は、見かけたところ普通の青年男女と
一向に変りがなく、イヤ、もしかしたら普通以上に、上品
だったりおとなしそうであったりしたが、それは彼等のう
ちに数名、中流以上の家庭の子供がいたからであった。
 知名な宗教家の二男坊がいた。
 ある銀行支店長の娘がいた。
 ついこないだまで爵位をもっていて、その爵位は失った
が、財産はまだ十分ある某会社重役の息子もいるというぐ
あいだった。
 だから、この仲間は、気がつかずにいたら、不良でもな
く与太もんでもないと思われたにちがいない。必要な場合
に、彼等はいくらでも礼儀正しくしていることができたし、
いくらでもユーモラスに明朗に理智的な顔つきをしている
ことができた。身なりはいつもきちんとしていて、学生服
のほかに、背広服も持っているし、その服のポケットに
は、アイロンをかけたハンケチと、服のほこりを払うため
の小型なブラッシまで、ちゃんと入れている。親戚知人の
家へ、客の一員として呼ばれて行った時は、会話にも態度
にもソッがなく、末頼もしき少年に見え青年に見え、所望
に応じて、ピアノを叩くことのできる少年もいるのであっ
た。
 i青い石は、彼等が何を話すか何をするか、一から十
まで知っている。しかも、だまって彼等を眺めている。
 そうして、もう一年近くも、彼等はこの石を、利用しつ
づけてきたのであった。

「山岸さん1 山岸さアん! 山岸さんはいないの?」
                きみこ
 奥の部屋から、女中を呼びたてる貴美子夫人の、美しく
澄んだ声がした。
 世の中が変ったのだから、女中でも、名前を呼び捨てに
するのはよくない、といって注意すると、はじめはすこし
不服だったらしいが、結局慣れて、さんづけになった。そ
うしてふみやが山岸さんに変った代りに、貴美子夫人が、
自由気ままに男の友達をこしらえて、ダンスホールへ出か
けたり、競馬に熱中するようになってしまった。
         ふじい ゆうた    あさって
 二階の書斎にいる藤井有太は、明後日の国会本会議です
るはずになっている質問演説の原稿をこしらえながら、想
念が一向にまとまらない。政府は、労働争議に対しての処
置に窮している、それを論難攻撃しさえすればよいのだ
が、自分が大臣になっていても、今度の争議では手の下し
ようがないという気がするし、だとすれば非難すべきもの
は闘争委員会であって政府ではないと考えるから、議論の
ほこさぎ
鉾先がにぶってしまうのである。
 原稿紙へ、代議士は、『政府の無策なるは、すなわちこ
れ国民に対しての一大罪悪である』と書き、この文句はな
かなかいいと気に入って、野党からの大拍手があるに違い
ないという自信が湧いたが、次に『普通一般の罪悪につい
ては、これを法律によって刑罰に処するの道があるけれど
も、かくの如くにして政府の行う罪悪につきては、哀れむ
べきかな国民は、これを処罰するの手段を知らないのであ
る』とまで書いてみて、あとの文句が出て来なくなってし
まった。
 彼は、原稿紙の余白へ落書をはじめた。
 最近に友人のある画家から習った象の絵であるが、頭を
描き鼻を描いたあと、耳と目をつける位置が狂って、どう
もこれでは豚の方に似ているなと思い、苦笑した。一度動
物園へ行って象を見てくる方がよいのであろう。しかし、
上野の動物園では、戦時中に猛獣を全部殺してしまったは
ずであり、象も今はいるかいないかわからない。そういえ
ば、家でも戦時下の食糧難時代に、飼犬のグレートデン
が、一日に一升の御飯を食べるので、仕方なしに青酸加里で
毒殺したが、その時は実に可哀そうであったと思い出す。
犬はベアと呼んでいた。ベアは、主人の庭へ下りた姿を見
て、尾をふり、かけてきて頭をすりつけた。そうして、主
人の手にある毒入りの肉片でいつものようにワウワウと吠
えたりグルグルと三べん廻る芸をしてみせた。その頃はま
だ元気でいた叢子が・窓から眺めて泣き出して、「あな
た、よして下さい。あたし、なんとでもしてベアの食べる
もの工夫しますから」といったが、そんな工夫のできない
世の中であった。家中のものが、見るのはいやだと言い、
主人自身も逃げるようにして茶の間へ入ってしまってか
ら、二十分後にふみやが青い顔をして、ガレージの横でベ
アの死んでいることを告げにきたものだめたが、その晩に
                  むく
節子が、「あんなむごいことをして、いい報いはあるはずが
ありませんよ」といった言葉は、不幸にして節子自身の運
命を予言している。二週間ほどのちに空襲があった。節子
は外出していた。そうしてその外出先きで節子は爆弾の破
片にやられたのである。
 ふいに、孤独な淋しい感じが、身体中に浸みわたってき
た。
                ひぎだし
 代議士は、鍵を出し、重要書類の抽斗をあけて、その底
にしまってある節子夫人の写真を出して見ようとして、し
かし、すぐに元のとおり、抽斗をしめ、鍵をかけ、鍵は手
文庫の中ヘポトリと落してしまった。
 懐古的な考えは避けなければならない。すべてが前進的
であるように要求されている。社会も道徳も憲法も新しく
なった。これに対応しての希望を持たねばならない。希望
がなかったらそれは人生の喪失であり生命の壊滅である。
殊に政治家たるものは、つねに青年と同じき活気に充ち
て、希望の多き前途を見つめ、勇往邁進するところがなけ
れば、遂にこれ国家全体の壊滅を招くということになる。
 彼は、椅子をはなれ、つめたい夜の空気を吸おうと思っ
て、窓をあけた。
 数日問天気がつづいていて、そのために貯水池の水は激
減し、時間給水になるかも知れぬと新聞に出ていたが、明日
もまた天気らしく、空には星がいっぱいに輝いている。星
を見ることは、節子が好きであったと思い出したが、また
それを考えるのはいけないことだと気がついて、五六ぺん
つづけて深呼吸をしてみた。両手を頭上へあげながら息を
   こ
吸い、弧を描いてそれをおろしながら、息を吐く。星が高
いところで、尾を曳いて飛んだようだった。あの星の破片
は、どこへ、どんな風にして消えて行ったのだろうか。科
学者の話では、星一つの直径が太陽系全体の直径に等しい
ものがあると聞いたが、さて今の星の破片も、もしかした
ら、そういう巨大な星であったかも知れないー。
 代議士は、そうだ、科学の振興に関する政府の施策を、
なお検討する必要があると思いついた。労働争議について
の質問よりも、この方が重大な問題であるとも思う。政権
                        あず
にかかずらっての攻撃演説などは面白くない。よし、明日
は委員会に出てこの点を力説しよう。第一、政党のうち
に、科学の研究に関しての調査機関が、形に於ても実質に
           け
於ても皆無だというのが怪しからぬ話である。こんな状態
だから、議会が国民の信用を失うのではないか。
 彼は、元気が出てきた。
 机に戻ろうとして、もう一度、空の星を見上げたが、そ
の時、庭のうちで何か音がした。そうして、黒い人影が、
スルスルと内玄関の方へ走って行ったようだった。
    ゆうぎち
「ああ、有吉だ。あいつが帰ってきたのだ」
 そうして代議士は、せっかく湧いた清新の気が、たちま
ちどこかへ消え失せて、鉛のように気が重くなるのであっ
た。
       ふんぎゆう
 家庭のうちの紛糾に、心を煩わされていては際限がない
とわきまえているが、そのくせどんな小さなことにでも、
無関心でいられるたちではない。ことに有吉については、
父親たる自分にこそ全責任があるのではないかという不安
      し
がある。彼は強いて机に向い、演説の草稿を書きすすめよ
うとしたが、今度はもう落書すらできなくなってしまつ
た。
 奥の部屋の客は、まだ帰らぬのであろう、書斎を出て階
段をおりてくると、にぎやかな話声と笑声とが聞えてき
た。妻は有吉の帰宅を知らずにいるのかも知れない。また、
知っていても、それを気にするような女ではない。怒りが
こみ上げて来そうになるのを、イヤ、これは、妻よりも自
分に責任があったのだと思い返して怒りをおさえた。そう
して、有吉に与えてある勉強部屋へ行こうとすると、とつ
ぜん、足がすくんだ。
 内玄関を上った畳の上に、点々として赤い血が落ちてい
る。血は、それほど多量ではなく、しかしひどく鮮明で、
あの不気味な色をしていた。代議士は、血を見ることが生
れつき嫌いだった。血の色が目に入ると、顔が青くなり、
寒気がし、時には嘔吐をもよおしたりする。大の男が血を
見ただけでそんな状態になることを恥かしく思い、他人に
はそれを知られぬようにつとめてきたが、それは生理的に
恐怖を感じるのである。いまも、畳の上の血を見ると、自
                       なまつば
分の背中や顔にジワジワと汗がわいた。口のうちに生唾が
たまり、視界がドンヨリと暗くなって、めまいでも起しそ
うな気持だった。一方では、そのくせに、血が畳の上だけ
でなくて、玄関のタタキにも、廊下の板じきにも、ポタリ
ポタリと落ちているのをハヅキリ見ている。そうして、誰
がなぜこんなに血を流したのかと不安に思い、また女中を
呼び、早く始末させなくては、と考えている。すると、
「ああ、先生1」
                ともすぎなりと
 廊下から、ぬっと現われてきて、友杉成人が声をかけ
た。
「ここにいらつしゃったんですか。お知らせにいこうと思
ったんですが、有吉君が帰ってきました」
「ウム」
「怪我をしているんです。腕から血が流れていまして、大
したことじゃないけれど、医者に見てもらった方がいいと
思いますしi」
「どうして怪我をしたのかね」
「まだ、詳しくわけを訊いてみるひまがありませんが、ゴ
ロマイたのだといっています。ゴロマクってのは、喧嘩の
ことでしょう」
「喧嘩でやられて、家へ逃げて帰ったというわけか:・…」
「だいたい、そんなところでしょう。私の顔を見ると、昂
奮していて泣き出しましたが、お父さんには黙っていてく
れと言いました。先生は知らぬ顔をしていて下すった方が
よいと思います」
   おやじ
「……親父には……黙ってうってじゃない、会うのがいや
だといったんじゃないかい。え?」
「……はア、実は……有吉君には、あとで私から、ゆっく
         こごと
り話します。いま、叱言をおっしゃっても、むだだ、と思
いますし……」
                   みじ
 父親は、腹立たしくなりし、かしすぐに、惨めな目つきに
変った。幼少の頃の有吉に、似たようなことがいく度かあ
った。元気がよくて利口な子だったが、某師範の附属小学
校へ通っていて、友達に意地の悪い強い子があったから、
時々いじめられて帰ってくると、父親の顔を見て急にワー
ンと声を立てて泣きそうになり、男の子が、なんだ、涙な
んか出してみっともないというと、父の服の袖へ顔をなす
りつけて涙をふきかくし、それがまた可愛ゆくてたまらな
かったから、あとではきっとねだられて、双眼鏡やローラ
     とうぎゆうばん
スケートや闘球盤を買わされたものだった。節子が、あ
なた、そんなに有ちゃんを甘やかしたらいけませんわ、と
文句を言い、イヤ、甘やかせるんじめ、ないさ、前から買っ
てやる約束だったよ、と嘘をいったこともある。が、ああ
その子は、いま友杉を見て泣いたというのに、父に会うこ
                  こわ
とをいやがっている。それは、父の叱言を怖がっているの
ではなくて、父を憎んでいるからなのである。
 友杉成人は、気の毒そうにして、代議士の顔を眺めてい
た。
 そして、ともかく、医者へつれて行って手当をさせま
す、ナニ、大した怪我ではありませんから、それほど心配
しなくてもよいですが、まア私に全部まかせておいて下さ
い、といってから有吉の部屋に引返して行った。
 ふみやが顔を出し、オドオドとこちらを見ている。
「血をふいておけ!」
 はげしくいって代議士は、逃げるように二階の書斎へ行
こうとし、しかし、階段をのぼりかけてから、またもどっ
てきた。
「玄関のタタキも、水を流して洗っとくんだ。ーそれか
ら、奥さんには、何も言わなくてよいのだからな。いい
か」

友杉成人は眉毛が濃く、額や頬に特徴のある深い皺があ
って、年よりはひどく老けて見えたが、今年三十二歳だっ
た。前線で貫通銃創をうけたため、健康がまだ十分でな
く、しかし真面目な性質の男だったので、同郷の先輩藤井
代議士に信頼された。健康を回復するまで世話を見てやろ
                    きが
うというので、復員後ずっとここの家へきて起臥している
のであった。
 居候であり、書生であり、秘書であると同時に下男でも
あり、一方では有吉のために家庭教師でもある。彼は応召
前、製薬会社の技手をしていた。苦学してある工業大学の
夜学部を卒業していたから、数学や物理が得意だった。そ
の点で有吉が、友杉には一目おいているのである。近頃で
は有吉は、父親よりも友杉に対して親密であり、従順なと
ころがあった。父親とは、話をするのもいやな風で、しか
し友杉の言葉には、ちゃんと耳を傾けている。かげでは、
友達同士の話で友杉のことを、家にいる居候の若年寄り
だ、などと悪口をついたが、実際は友杉をある程度尊敬
し、ある程度怖がっている。友杉のかぶっている帽子が垢
と汗とで穴があいた。有吉が押入をさがし、父親の使い古
しのソフトをもってきて、友杉の部屋の釘へ、黙ってかけ
て行ったことなどもあった。
 1かかりつけの病院がじき近くにある。
                      かみそり
 友杉がそこへつれて行くと、傷は、左の腕を安全剃刀の刃
で斬られたものであり、手術は簡単だったけれども、出血
がわりに多量だったし化膿の恐れもないではなく、二三日
のうち入院した方がよいということになった。
 その手術のとき、ワイシャツをぬがせようとしたら有吉
は、シャツの下に何かかくしているものがあった。
 それは一冊のノートであり、腕を繃帯で首へ吊ると、そ
のノートの処置に困ったらしく、病室のベッドへきて寝る
時になると、それを枕の下へおいてみたり、毛布の間へ押
しこんだり、結局どこにも置く場所がなくて困っていると
いう風であった。友杉は、電話で藤井代議士に入院のこと
を話し、自分がつきそっているからと断わっておいて、病
室へ戻ってきたとき、有吉がノートのことをひどく苦に病
んでいるのに気がついた。
「有吉君、どうしたんですか、その手帳は9」
「ううん、べつに、なんでもないんです」
「大切な手帳らしいですね。私があずかっておいてあげま
しょうか」
 返事をせずに有吉は、顔を少し赤くした。
 それからノートを、ベッドの敷布の下へ入れようとし
て、とちゅうで、気が変ったようだった。ちょっとのう
ち、窓のカーテンのあたりに目をやって考えこみ、とつぜ
んノートを友杉の方へさし出してよこした。
「そうだ、友杉さんなら、中を読まれてもかまわないんで
す。だけど、書いてあることはぼくの秘密です。誰にも
しゃべらないという約束をして下さい」
 何かを思いつめた必死の色が、眼のうちに輝いている。友
杉は両親もなく兄弟もない。ふいに胸の内に熱いものを感
じて、この十八歳の少年を抱きしめてやりたい気がした。
 もう十一時に近かったが、病院へは、交通事故で怪我を
したという患者がかつぎこまれてきて、医師や看護婦のせ
わしげに廊下をあるく音がした。
「手術のあと、痛まない?」
「それほどじゃありません」
「じゃいいや。眠ったらどう?……」
「ええ:…・」
 窓の方を向いて眠ろうとしてから、何を考えたのか、
「しかし、友杉さんは、バカだとぼくは思うなア」
 だしぬけにいったので、
「え、なんだって? どうしてさ」
 と訊いたが、ちょっと間をおいて、
「うん、そのことは、またいつか話しますよ。本当はぼく
の方がバヵかも知れない」
 そういったきり、あとは口もきかず、身動きもしなくな
ってしまった。
 ノートが、肩の下からはみ出してる。
 渋い茶色の表紙にペン画で眼鏡の絵がかいてあり、中は
わりに上質の紙のものである。
 そっとぬき取って開いてみると、第一頁に『青い石の歴
史』としてあったが、次の頁からは、通信文がいくつか書
きならべてあった。手紙をこのノートへ書いて送ると、先
方が同じノートへ返事を書いてよこし、更にそのノートへ
次の手紙を書いて出すというやり方らしい。長かったり短
かかったり、また日附があったりなかったりで、差出人の
名前も、秘密を保つためだろう、ぜんぜん書いてなかった
が、筆蹟からみて差出人の一人は、有吉であることがすぐ
にわかった。そうして、その相手は女である。女は有吉よ
り字がうまく、しかし、誤字をところどころつかってい
る。友杉は、スタンドの光をこちらへ向けて、この奇異
なる記録を読みはじめたのであった。
      ×      ×
 金曜日・二月十三日-風が五日も六日も吹きつづけて
いる。荒廃した東京は、空が土ほこりに充たされて、その
土ほこりの空気を吸うから、人間もますます荒廃してしま
うのだ。ヒュウヒュウと鳴る風の音を聞いていると、ぼく
              こうきゆう
はその音の中に、人間の笑ったり号泣したり、また狂人の
ように罵り合う声が聞えるような気がしてしかたがない。
 しかし、ぼくは風の吹く街が大きらいだから、じつと家
の中にひっこんでいた。そうして、いつも君のことを考え
ていた。君の顔を見ないで君のことを考えるのはよいこと
なのだ。顔を見たら、駄目になってしまう。見ないで考え
ていても、どうかするとぼくは、いけないことばかり空想
するのだが、そばに君がいないから、そのうちに気がおち
ついてくる。ただ困ることには、そうやっておちついて考
えていると、いつかまたいろいろの心配や不安がわいてき
て、じつとしてはいられない、何かしなけりゃならぬと思
うが、さて何をしたらいいのかわからないし、酒でも飲ん
で、そこらをあばれ廻ってやりたいような気がしてくるこ
とがあるのだけれど。
 かさはら
 笠原さんから君が借りた金は、ぼくが返した。笠原さん
が何か言ったら、ぼくがやっつけてやる。安心したまえ。
 では第一信は、これでおしまいにする。今度君に会う前
に、君からの第一信をもらえると嬉しいね。さよなら。
      ×       ×
 二月十九日1とてもすてきな思いつきでしたわね、青
い石の歴史は。二人でやりとりした手紙が、そのままいっ
しょになって残るのだから、ほんとにあたしたちの記念す
べき歴史になるわ。
 さいしょに、お礼。
 笠原さんのこと、ありがたいわ。でも、あんまり無理し
ないでね。無理したら、あなたが今度は笠原さんと同じ
になりゃしないかと心配するの。笠原さんは、もうすっか
り悪漢ね。何をしているかわかりゃしない。あんなの大学
生だなんて、おかしいわ。こないだM子さんに会ったら、
M子さんは笠原さんに夢中になって、とても笠原さんをほ
めている。だけど、M子さんは笠原さんと温泉へ行ってき
たんだっていう話よ。あきれたわ。
 あたし、とてもあなたに会いたくてたまらずにいます。
あなたは、あたしを見ないであたしのことを考えるのが好
きだっていうけれど、あたしは、そうじゃありません。毎
日毎時間毎分、あなたに会っていたいと思うのよ。顔を見
たら駄目になるっての、どういうことかわからないわ。ち
つとも駄目じゃない。ある小説家の書いた本を読んだらそ
のことが書いてありました。責任さえ持てば、あたしたち
若いものは、何をしたっていいんですって。パパがその本
見つけて、こんな本読んではいけないって言って、取りあ
げちゃった。だけど、パパは自分じゃ面白がってその本読
むにちがいないから、ずるいのよ。あたしは、べつにもう
一冊買ってきました。今度あなたに持って行ってあげる。
それを読めば、あなたも、あたしに会うと駄目になるなん
て言わなくなるわ。
 今度は、二十五日に会えます。
 その日は、バザ!のお手つだいで出かけられるんです。
午前十時、いつものところで待っていますから。
      ×      ×
                     マージヤン
 ニ週間ぶりで、ぼくは家へ帰った。ぼくは、麻雀やって
れば、ぜったい間違いはないのに、山ちゃんがぼくを誘っ
てオイチョをやった。オイチョじゃかなわない。麻雀のヨ
ロクをすっかり取られて金がなくなってしまったのだ。
 家へ帰ってみたら、ぼくは、なんだかとても疲れている
ことに気がついた。頭の芯がボヤケていて、何をするのも
めんどうくさい。こんな時、君に会ったら、元気が出るの
じゃないかと思うけれど、1。
 今日はこれでおしまい。さよなら。
      ×       ×
 三月四日1きのうは、お雛さまの節句。そしてあたし
は、昔の型通りのお嬢さんになって長いおふり袖を着て、
一日中とても神妙にしていました。だって、この頃はあた
し、パパやママの信用ゼロなの。パパやママは、気がつい
ていることがあるのかも知れない。あたしが外へ出るのを
なかなか許さないから、当分の内、信用回復のためママた
ちの気に入るようにしていなくちゃならないんです。
 ママと言えば、あなたはあなたのママについて、一度も
お話をしてくれたことがなかったでしょう。今度会ったと
き、あなたのママのこと話してちょうだい。
 あたしのママは、悪い人じゃないけれど、いいえ、悪
いどころじゃない。とってもいい人だけれど、いつもあた
しのこと、お嫁さんにやるまで、何々をしちゃならないと
か、何々をしなくちゃならないとかいっている。あたしに
できるだけ沢山の値打をつけようとしているのだけれど、
それじゃあたしお嫁さんという商品になるために生れて来
たみたいだから、。バカらしくなってあたしは、わざとママ
の喜ばないことを言ったりして、ママを泣かせたり怒らせ
たりしちゃう。1そのくせ、そういう時にはあたしだっ
て、悲しいみたいで泣きたくなり、ママ可哀そうだ、あた
しの方がほんとはとても悪い子になっているんじゃないか
な、と思ってしまうんだから、ちっともわけがわからな
い。
 でも、ママは、あたしをよい商品にするために、四月か
ら洋裁学校へ通うことをゆるしてくれました。
 だから、四月からは、たくさん自由に外出できるので
す。それまで、あたしのこと忘れないで愛していてね。
       ×       ×
 手紙は、まだ数通あった。
 そうしてその手紙の中で、有吉と有吉の相手の少女と


は、喜びや楽しさを語ると共に、不安や懐疑に苦しめられ
つつ、心の中にからみついているものを、何かしきりに訴
えようとしているのであった。
 友杉は、ため息をつき、もう眠ってしまった有吉の横顔
を眺めた。
 それから、またノートを読みつづけたが、そのうちにド
キッと胸をうたれる気がした。有吉が、次のように書いて
いたのである。
      ×       ×
 僕は昨夜君に、ずいぶんと迷惑をかけてしまった。ダン
スホールを出てから、いやがる君を、むりやりとカストリ
屋へ引っぱって行った。そうして、酔っぱらって、大声で
歌い出して、もしあの時にやって来た警官の姿を見なかっ
たら、まだまだどんな狂態を演じたかわからないのだ。
 君は、ベソかいていたね。腹を立て、ぼくにあいそがつ
きたという顔をしていたね。ぼくは、ちゐ、んとそれがわか
っていたのだけれど。
 まったくすまない。ごめん。
 が、ただ頭を下げてあやまるだけじゃ、君は気が強くて
ゆるしてくれないだろうと思うから、ぼくのあの狂態の理
由を、ハッキリ君に話しておこう。実はダンスホ!ルで、
見てはならないものを見てしまった。あそこへ、笠原さん
が来ているのを、君もぼくもいっしょに気がついたね。笠
原さんがいるから、ぼくは面白くなくなり、もう帰ってし
まおうかと思ったり、また逆に、笠原さんの前で、君とう
んと仲好く踊って見せようかなんて考えていた。ところ
が、問題は、そんな簡単なものじゃなかったのだ。
 笠原さんは、ぼくたちには、ニヤッと笑っただけで、ぼ
くたちを無視していたね。そして少し遅れてやってきた一
人の女と、あのすばらしいステップで踊り出したね。
 ぼくは、それを見ていると、血が頭の中でゴーッと音を
立てて逆流する気がした。君は、笠原さんの相手をした女
を知らない。だから平気だったろうけれど、僕は、あまり
にもよく知り過ぎている。ほんとのことをぼくは言っちま
おう。あれは、ぼくの家にいる女だ。ぼくの母だ。ぼくの
母と呼ばれている、ぼくのお父さんの妻なのだ。
 とても美しい。
 とても聡明だ。
 しかし、ぼくのお母さんなんだよ。
 ぼくは、その時に、自分の腕の肉をつかんだ。ドスを持
っていなくて倖せだった。持っていたら、斬りつけたに違
いない。ぼくは人殺しをやったかも知れないのだ。
 苦しくなって、僕はホールから出てしまった。それか
ら、カストリ屋へ行ったのだ。君に迷惑をかけたのは、こ
ういうわけだったのだから、わかってくれるね。
 笠原さんーさんなんて、さんづけにして呼ぶのは、も
うよそう。あいつは悪漢笠原でたくさんだ。悪漢笠原は、
ぼくを辱しめ、ぼくの父を辱しめる。しかもあいつは恐ろ
しいやつだ。どんな風にしてだか知らないが、狙った獲物
へはすぐ接近してしまう術を知っている。大胆で智慧があ
って美貌で、学校だって怠けているくせに、いつも試験は
首席だというのだ。ぼくはあいつを殺したいと思う。殺し
てしまったら、さぞかし胸のうちがサッパリすることだろ
う。
 まだ、書きたいことがうんとあるが、この先きは、何を
書くかわからない気がする。また会った時に、話すかも知
れないし、話さないかも知れない。では、さよなら。
      ×       ×
 友杉はノートをバタリと閉じた。
 そしてウームとうなり声を立て、腕組みをして考えこん
でしまった。

眉目秀麗な鬼

新学期のはじまった明るい四月の午後二時である。
 S大学法文科教室E号の教室へは、男の学生が十四人
と、女の学生が三人、ノートや書籍や雑誌を腕にかかえ、
または、グラウンドでテニスやキャッチボールをやったあ
       うわぎ
となのだろう、上衣をぬいで肩にかけて、汗をふきふきあ
つまってきた。
 この法文科教室には、問題が一つ持上っている。前学期
の半ばごろから持上った問題であって、三月の休暇を持ち
こしたが、まだ解決にならないから、今日はどうしても解
決してしまわなくてはならない。その問題というのは、教
授R博士の醜聞についてであった。
 R博士は、今年五十八歳だった。そして、まことに謹厳
か  もく
寡黙な人格者として知られてきたが、学内で、ふしぎな噂
がひろがりはじめた。教授は、毎週一回、木曜日とか金曜
日とかの晩に、若い女をつれてホテルへ行くというのであ
る。女は、肥っていたりやせていたり美しかったり美しく
なかったりだったが、街の女や喫茶店の女給や、また洋裁
下請の未亡人などだということで、それを誰がいつ発見し
たのかわからない。しかし教室では、だんだんにそれが評
判になった。ついに教授会へは、無名の投書が数通とどい
て、R博士を辞職せしむべきであるという意見が高まって
きたようであるが、さて教授会がどんな処置をとるのだろ
うかと、学生たちが興味をもって眺めていると、実際は何
一つ変ったことが起らない。R教授は、あい変らず教壇に
現われた。若い頃欧洲へ留学し、その時ウインで買ったと
いう自まんの鞄が、もうすっかりとすり切れたのを、色の
違った革で修繕し、それを、講義のたびに、ドサリと机の
上においた。それからハンケチで鼻をかみ、唇をいっぺん
モグモグとうこかしてみてから、ひくい単調な声で、権利
や義務や法人や個人や、法則や公式の話をはじめる。学生
たちが、たまらなくなった。そうして委員会を結成したの
であるー。
  一人の学生は、たばこをすって、なにか愉快そうな笑い
声をたてた。


 他の一人は、腰かけではない机の角へ尻をのせ、足がい
てえんだよ、といって靴をぬいだが、ぬいだ靴をさかさま
にしてふると、ポロリと小石が二つこぼれておちた。
 女の学生だけが、さすがにつつましやかに教室の窓のと
ころへ行って、一かたまりになり、ミシンの針が安く買え
るという話をしている。
 とつぜん、色の黒い下品な眼つきをした学生が、ほかの
委員をおしのけるようにして教壇へあがって行くと、黒板
ヘチョークで絵を描きだしたが、それは、なかなか器用な
もので、女が一人寝台に寝ていて、そばの床に博士がひざ
まずき、なにか女に謝まっているというような形の絵にな
った。
 学生たちは、どっと声を立てて笑った。
 それからしかし、年少な一人の学生が、バカ! とどな
ってとびだして、
「なんだー・下等なことをするのはよせ! 神聖な教室の
黒板は、カストリ雑誌の口絵や共同便所の壁とは違うんだ
ぞ。うん、喧嘩するなら、誰にでもぼくは相手になる!」
 腹を立てながらその絵をふき消したので、急に一同、し
ーんとした顔つきになってしまった。
「ああ、来た来た」
 と誰かが叫び、学生中での最年長者で、戦時中は衛生兵
            すみよし
としてビルマへ行っていた住吉という学生が、眼をしょぼ
つかせ、なにか、困ったことがあるという風で、教室の入
口に顔を見せると、ようやくその場の空気に、一つのまと
まりがついたようである。
 さっきの下品な落書をした学生が、
「オイ、待ってたぞ、委員長。結果はどうだった?」
 とせっかちな口調で訊き、さて住吉委員長は、やはりしよ
ぼついた眼つきのまま壇上に立って、彼がいま学校当局
      ただ
の意向を問い糺しに行ってきた、その報告をしはじめた。
 報告によると、学校では、教授会も事務局も、R博士の
醜聞をまったく問題にしていないようである。噂は雌だけ
           えつれき
のことであって、教授の閲歴人格などから考えてみても、
教授がそんな非常識な行動をとるはずはないのだとしてい
る。これは誰かが博士を中傷するために言い出したことで
あろう。イヤ、或は誰かR教授に似た人物があって、その
人物が女をつれてホテルへ行くのを、見まちがえたという
ぐらいのことではあるまいか。学校当局としては、事実を
明細に調査したわけではないが、博士に直接その話をして
みたところ、博士がハッキリと噂を否定したから、問題は
もう終ったことにしてしまった。学生諸君も見苦しく騒ぎ
立てることなど、よしたらどうか。教授会では、事件の性
質が性質だけに、慎重審議を重ねたが、けっきょく、事件
は一笑に附する、ということにして、従って学生に対して
も、正而からこの問題についての弁明をするというような
処置はとらぬことになった。悪くすると、新聞などにも記
事が出るようになり、R教授のみならず、学校全体が世間
の笑いものにされる危険がある。願わくは学生諸君も、よ
く自重して行動をあやまらず、諸君自身の名誉をも傷つけ
ぬよう、十分に注意してほしい……というのである。
 事件は竜頭蛇尾で、つまらないものになってしまったら
しい。
 報告が終ると、学生たちの一部は、やれやれ、これでめ
んどうがなくなったというような、ホッとした顔つきにな
り、しかし他の一部は、せっかくの意気込みをくじかれて
拍子ぬけがし、しかし明らかにこの報告では不服だった。
彼らは強硬派である。そうして教授の醜行については大憤
慨をし、今日は、辞職勧告の決議文を作るつもりだったの
である。報告をそのまま受入れるものとすると、もう決議
文の必要もないだろう。事件にはこれでピリオッドがうた
れ、でも、その代りには、騒ぎ立てた自分たちが軽卒だっ
たと非難され面目を失い、校内での物笑いにされるという
こともないではない。
 住吉委員長は、手帳をくって、報告に落ちがあったかど
うかと調べてみて、
「で、ぼくらは、態度を決定しなくちゃならんと思うの
だ。ぼくらはR博士排撃の目的で立ち上った。が、どうや
ら排撃は不可能らしい。それについて、意見を述べてくれ
たまえ」
 そういって一同を見まわしている。
 委員たちの間では、ガヤガヤと私語の声が起った。そう
して、情勢がもうここへ来たのでは、我々のR教授排撃
も、ここらで中止にした方が賢明だろうというものが、半
分以上はあるようで、しかし強硬派がそれではおさまらな
い。強硬派は、いきり立って意見をのべた。
「委員長! ぼくは、教授会の態度があいまいだと思うの
だ。事実を調査しないでおいて単にR博士が噂を否定した
という、それだけで、事件を片づけようというのは、表面
こ  と
糊塗の卑劣な手段だ!」
                       じようとう
「そうだ。そういうやり方は、古い軍閥と官僚との常套手
段だったのだ。自分たちに都合が悪いと、すぐ臭いものに
蓋をする。事なかれ主義以外の何物でもないのだ」
「ぼくらに自重しろという。しかし、黙って引っこんでい
ることだけが自重じゃないそ」
「然り! われわれは、大学の名誉を尊重する、そしてそ
の故にこそ、なお徹底的に事実を究明しなくちゃならな
い!」
 熱烈な口調である。また、たしかにある程度正しい言い
分だという気がする。
 しかし、その時まだ大部分の学生が、あいまいな眼つき
で顔を見合せたり、小声で何か囁き合ったりしていて、こ
の強硬派の意見にすぐと賛成しなかったのは、やはり彼ら
が、教授会を恐れていたからであろう。教授会に反対し、
教授たちに睨まれるのは、あまりよいことでないにきまっ
ている。こういうことは程度問題で、進みすぎてはよろし
くない。まかりまちがうと、卒業期の就職問題にも影響が
ある。R教授も一通り弁明が立っているというのだから、
ここらでこっちは手を引いた方がよいのではないかIl。
「委員長。採決だー」


 と穏和派らしい背の高い学生がどなった。そしてつづけ
てその学生は、排撃運動を中止するか否か記名投票で決定
しろという動議を出した。
 住吉委員長は、当惑している。
 投票だったら、ことに記名投票だったら、穏和派が勝つ
にきまっている。しかし学校当局は、ことにR教授は、委
員長であるこの自分を、排撃運動の指導者だったと見なし
ているにちがいない。だとしたら、これからの自分の立場
は、ひどくまずいことになってしまうだろう・…:。
 ふと目を上げると委員長は、教壇からいちばん遠くはな
れた席に、ポッンと、一人きりで英文の雑誌らしいものを
読んでいる学生に気がついた。その学生は、黒いつやつや
した髪の毛をしていて、白い額と品のよい鼻や唇が、映画
俳優のように、整った感じを与えるのである。彼は、秀才
として学内では評判の青年だった。しかも今日は、はじめ
から今まで、一言も口をきかずにいるのであった。
「笠原君!」と委員長は呼んだ。「君の意見はどうなんだ
い。君もかなり強硬な排撃論者だったと思うんだが……」
            のぼる
 ふいに名を乎ばれて笠原昇は、少しびっくりしたようで
もあり、しかし、雑誌を惜しそうにして閉じて、ゆっく
り答えた。
「ああ、ぼくの考えですか。ぼくは、少しばかり諸君の意
見と違うのだがー」
「結構だよ。要するところは、排撃を中止するのかしない
のか」
「イヤ、中止にはぜったい反対。しかし主意がぼくは違う
のです。ぼくはR教授の醜聞が事実か否かを問題にしな
い。むしろぼくは、博士のあの臆病な性質にかんがみて、
また、あるいは、大学教授の俸給と、いまのインフレ物価
とを対比してみて、パンパンをつれてホテルへ行くなどと
いうことは、博士にはできないことだと思っている。だか
ら、その点で事実を究明しようなどというのは愚劣であっ
て、しかし、排撃はあくまでやり通す必要があるんじゃな
いですか」
「というと、君の意図する排撃の理由は?」
「むろん、理由はあるのです。ぼくはR博士がこの教壇
に、立つだけの値打ちがない人物だと認めている。博士の
頭脳は平凡です。新知識を吸収するだけの力がなく、また
新しい研究や発見もしていない。そうして毎学期毎学年、
一行一句違わぬ文句をしゃべっているだけの機械じゃない
ですか。ぼくらは、あの講義を直接博士の口から聞かなく
てもよい。去年のノート、一昨年のノート、十年前の先輩
のノートを借りてくるか、でなくば古本屋から、博士の著
書をほんの二三冊買ってきて読めば、それで事は足りるの
です。こういう教授がいるのでは、われわれは学校の授業
料と、授業料よりもっと貴重なわれわれの若い時とを、毎
日浪費していることになるのだと、ぼくは思う。ぼくらの
仲間のある者は、はげしい肉体的バイトで学資を獲てい
る。しかも、たった二日で読んでしまえる著書の内容を、
週に三時間ずつ、一年かかって聞かされるのです。イヤ、
          みにく
いったいぼくは、古くて醜くて動かないということ、それ
がすでに許せないのだ。若くて美しくて生き生きしている
ものは、それだけでも讃美するだけの価値があるし、たと
え何かの過失があったにしても、そういう若さや美しさは
その過失を償うことができるのに反し、古くて醜いものこ
そは、ぜったいに償いがないのです」
 強硬派も穏和派も、しーんとして耳をかたむけていた。
おちついた顔で、静かな口調でしゃべるのであったが、こ
の青年の弁舌は人をひきつける力を持っている。反対した
ら、手ひどくやりかえされるような気もするし、聞いてい
て、なにか酔ったような気持になるのであった。
「いいですか。博士は停年間近であり、停年までは、この
名誉ある大学の講座にしがみついていたいのです。教授会
はというと、もえずるもかるるも同じ野辺の草でしよう。
教授会はそういう博士の心境に共鳴し同情しているのであ
って、それは教授仲間の友情であるとも言えるし、その友
情をぼくは悪いとはいわない。しかし、彼らの友情のかげ
に、ぼくらの犠牲が要求されるのです。古い醜いものへの
友情のために、なぜぼくらの若さが犠牲にされるのです
か。犠牲を脱出するために、われわれは断乎博士を排撃す
           ねざよもう
るのです。この際この時、虚妄であったにしても、醜行の
噂が出たのは幸いだったとぼくは思う。嚀だけでも、博士
が見かけだおしの劣等人格者だったかも知れないという論
拠にはなる。われわれは、この疑惑に包まれた博士につい
で、そろってその聴講を拒否すればよろしい。元来は諸君
も、博士の講義には不満があった。その不満をおさえてい
たところへ、たまたま醜聞があったので、ついに爆発して
排撃運動をはじめてしまった。どうです、これが諸君の本
音ではなかったのですか。翻って思うに、一つの真に欲す
ることをそのまま実行にうつすということ、これがわれわ
れの若さの特権でしょう。躊躇しているのは滑稽です。ぼ
くらは、ただまっしぐらに進みさえすればよいのです!」
 一人が拍手すると、ほかの者もつりこまれて感動の拍手
をおくってしまった。
 もうこれでいざこざはない。言われると、なるほどそう
かという気がするから、みんな迷いはなくなって、満足し
た顔つぎになっている。委員会は、態度を決定できるので
あった。
 決議文起草委員を選任しろと叫ぶものがあった。
 直ちに学生大会を開き、そこへは新聞記者にも来てもら
った方がいいという意見が出たり、決議文が受けつけられ
なかったら長期同盟休校だと、どなったりした。
 しかし、委員会がまだ終らぬうちに、笠原昇は席を外
し、青葉のもえ出た校庭を、少しいそぎ足になって歩いて
いるー。
 彼は、いくつかの時問を約束してあった。そうしてその
      た しろみつお
第一番目に、田代光雄という牧師の家を訪ねることになっ
ていた。
 一時間と五分の後、その郊外にある牧師の家の、キリス
ト像とマリァの絵のほかは、ほとんどなんの飾りもないよ
うな、質素で小さな応接間では、
わされていたのであ一る。

次のような会話がとりか
「イヤ、よく来て下すったですな。私は深く感謝します
よ。もしかしたらあなたは来てくれないのじゃないかと私
は考えた。来てくれないようだったら、話はたいへんこん
ぐらかるし、困ったことになると思いましてね」
     かつえ
「お手紙に葛江さんのことが書いてあり、重大事件だとい
うのですから、ともかくお訪ねしたのです。葛江さんは、
今日は見えないのですか」
「ええ、葛江は今日はおりません。いないようにしておい
たのです。ええと、そうですね、はじめにお知らせしてお
ぎましょうか。手紙にはそのことを書きませんでした。し
かし、葛江は自殺しようとしましてね」
「ああ、そうですか。いつの事ですか」
「十日ほど前です。催眠剤をのみました。分量が多過ぎた
ので助かったのですが、父親の私としてはたいへんびっく
りしましてね、娘がそんなことをする理由が少しもわから
ないのです。世間ていも悪いし、ことに教会の信徒の方々に
知られては面白くありませんから、医者にたのんで、秘密
にしてはもらいましたが、さて娘にわけを聞いてみても泣
くばかりで、ほとほと私も手を焼きました。けっきょく、
娘の居間を探してみて、娘の愛読している歌集の中から、
あなたへあてて書いた娘の手紙を発見し、それで大体のこ
とは想像がついたというわけですよ」
「手紙を、まだ僕は読んでませんね。見せてもらえるで
しょうか」
「そうですね、場合によっては、お見せした方がいいかも
知れません。しかし、その前にハッキリさせておきたいこ
とがあるのです。第一、手紙など見ないでも、あなたとし
てはたいてい事情がわかるはずだと思うのですが……」
「さア、どうでしょうか。案外ぼくには、わからないの
じゃないか、とも思うんです。ーイヤ、待って下さい。そ
う急に腹を立てたような顔をなすっても、ぼくとしては迷
惑なんです。ぼくと葛江さんとの間に、どんなことがあっ
たかというと、具体的な事実だけについて言ったら、多
分、葛江さんの手紙をお読みになったお父さんのあなたと
しては、ほとんど御推察どおりのことがあったと考えて下
すってかまわないでしょう。しかしぼくは、葛江さんが自
殺を企てたという、その心理状態までを、詳しく知ること
はできないのですから……」
 会話が、ハタとそこで途切れたのは、牧師田代光雄のや
せた細い顔の、額にたれ下った白髪の下に青い怒りの筋が
さっと現われ、牧師はその怒りをおさえるため、しばらく
のうちギュッと唇を噛んでいなければならなかったからで
ある。
 ペンキのはげた窓のかまちに、花が二っ咲いたパンジイ
の鉢がおいてあった。
 学生笠原昇は、チラリとその花の鉢をながめたが、すぐ
に、まっすぐな視線を牧師の顔にうつした。そして、今度
は自分の番ではない、葛江の父がしゃべる番だということ
をハッキリきめているように、たじろがぬ眼つきでこの哀
れな牧師を見つめていた。
 ついに牧師が、むりに口のへんに微笑を刻んだ。
「ああ、どうも昂奮するからいけませんね。ま、手紙のこ
とは、あとでまた、話しましょう。実は私は、あなたに会
う前に、祈りをささげておきました。あなたに対し、敵意
を抱くことは許されない。それから葛江に過失を許すとと
もに、あなたをも、許さねばならない。許すどころか、あ
なたを愛さねばならぬということを考えましてね」
「まるで、ぼくが罪人みたいですね」
「え?」
「過失だの許すだのって、そういう言葉は、罪人に対して
使うのじゃないんですか。ぼくがどんな罪を犯したので
しょうか」
「   」
「牧師さんが言いたいと思っていらっしゃることは、ぜん
ぜんわからないのじゃありませんよ。それに、葛江さんだ
けについて言えば、葛江さんは、過ちを犯したことになる
かも知れませんね。なぜなら葛江さんは、ぼくという人間
を誤解していました。葛江さんは、ぼくが葛江さんの肉体
       しる
に一つの新しい印しをつけた。だからぼくが永久に葛江さ
んを愛さねばならぬのだと、一人で勝手にきめてしまった
のです。明らかにこれは、葛江さんの過失でしょう。そう
してそれは、お父さんでめるあなたが許してあげるのはよ
いことです。ぼくも、あなたの立場だったら、許すでしょ
う。但し、あなたがぼくを、許すとか許さないとか、そう
いうことを言う権利はないはずのものだとぼくは思います
ね。ぼくは、盗賊のようなことをしたんじゃありません
よ。また葛江さんの手足を縛っておき、自由を奪っておい
たのでもありません。それどころか、葛江さんは、その
晩、とても倖せそうに見え、また自分でも、めたしは世界
一幸福な女だって言ったんです。ぼくの膝の上でそう言っ
たことを、むろん忘れてはいないでしょう。事実、そう思
ったにちがいありません。してみればぼくは、葛江さんの
身体と同時に意志をも拘束していないのですからね。加う
るに葛江さんは、もう子供じゃなくて、立派に成熟した女
性です。教養も乏しくはない。自分というものに対して、
責任を持っているはずです。ぼくを非難しようとするの
は、どういう点についてですか」
 再び牧師は沈黙し、膝の上においた手を、こまかくぶる
ぶるとふるわせていた。
 牧師という神聖な職業についていなかったら、ありとあ
らゆる汚い言葉を使って、この眉目秀麗な青年を罵り恥か
しめ、顔に青痰を吐きかけてやりたかったのであろう。ま
た腕力を許されるのであったら、四肢を擱みよせて、ふり
まわし、たたきつけ、唇を引き裂きたいと思ったのであろ
う。老牧師は、青年の顔を見るのが恐ろしくて眼をとじ
た。それから手をあげて胸に十字を描き、もし一日に七度


なんじに罪を犯し、七度悔いあらためてなんじに帰らばこ
れを許せ、と口のうちでくりかえし唱えた。
「笠原さん。私はね、ある偶然な機会からして、三人の酒
に酔った若者たちが、勝手ほうだいなおしゃべりをしてい
るのを、そばで黙って聞いていたことがありますよ。その
若者たちは、学問もあまりないらしく、まア小学校を卒業
しただけのように思われました。そして動作が乱暴で下等
で、でも自分たちは、それを得意に思っているらしいので
  まち
す。街の与太者たちでしょう。彼等は、笑って騒いで、女
や賭博や、もっと悪いことについて、盛んにしゃべってお
りました。ところが、そのうちに戦争の頃の話になると、
一二人ともに戦地へ行って来たんですね。戦地での体験談を
めいめい話し、戦争なんて、もうこりこりしたといってい
るのでしたが、その時私は、ハッとして気がついたことが
ありましたよ。戦争の体験を語る時には、その若者たちの
顔色が、純真な子供のように熱っぽく輝き、眼つきがとて
も、真剣になっているのです。こういう変化は、なぜ起っ
たのかわかりますか」
「さア……」
「戦争というものに、今の日本人が憧れを持つはずはあり
ませんね。与太者たちも、こりこりしたといっています。
しかし、ただ一つあ・の頃を思い出して、急に気持を真面目
にさせたり、また何か懐しいような感じを起させるのは、
当時の若者たちにハッキリした目的があったということな
                        だま
んですよ。その目的はまちがった目的でした。みんなで騙
されて、その目的に向って突進しました。しかし、まちが
っているにせよ騙されたにせよ、目的があったということ
は、生きる張合いを感じさせることで、だから与太者で
も、その頃を思い出すと、我知らず顔色が輝いてくるとい
うわけなのです。終戦後、日本はひどく変りました。それ
から、若い人たちは、生きることの目的がわからなくなっ
たのじゃないでしょうか。目的がわからないから、その日
その日の動物的な本能だけで生きつづけている、これが若
い人たちの生態だと私は思うのでしてね、私は若い人たち
に同情をしているのですよ。決して若い人を憎みません。
復員兵の強盗や殺人犯でも、真に憎むべきものは、極めて
少数だろうと思うのです。まちがった目的を与えておき、
最後に急に何を目的にしたらよいかわからないような日本
にしてしまった。そういう指導こそ真の責任があったので
あって、だから今の迷っている青年たちは可哀そうなもの
だと私は考えるのです。それについてあなたは同じように
思ってみたことはないでしょうか」
「青年の立場を理解し、青年に同情するとおっしゃるんで
すね。ぼくは、そういう現代の青年の一人として、いちお
う感謝の意を表明しておきましょう。まるでこれは、ぼく
                      ぎようかいし
が刑務所へ入っていて、その刑務所おかかえの教誨師か
ら、ありがたいお説教を聞かされているようなものです。
ただし、断わっておきますが、ぼくはそういう街の与太者
とは、まったく別の種類の人間ですからね……」
「ああ、もちろん私は、あなたを与太者だなどといったの
じゃない……」
「同時にぼくは、あなたが観察するような目的がわからな
くなった人間でもないんです。ぼくは、目的を掴んでいま
す。生きて行くことそれ自身が目的ですからね、問題は非
常に簡単になってくるんじゃないでしょうか。いったい、
生きていなかったら、何があるというのですか。屁理窟や
空想はよしときましょう。それに、死んでも名前が残るな
んてのは、ひどいごまかしに過ぎませんね。死んだ人の名
前は、生き残った人に都合がいい場合にだけ、残すように
なっているんです。死んだ当人にしてみれば、自分の名前
なんか、お線香の煙より早く消えてしまっても、残念だな
んて思わないのでしょう。ーイヤ、ぼくは、議論をしに
来たのじゃなかったんです。葛江さんのお父さんからのお
手紙で、いっぺんはお目にかからなくちゃならんし、敬意
を表しようと思って来たのでした。実は、約束があって、
時間がもうありません。けっきょくのところ、葛江さんが
自殺をしかけた。それでぼくは何をすればよいのでしょう
か」
 牧師は、眼鏡をはずし、つぎのあるハンケチで、いくど
も玉をふきなおした。
 何か、しゃべれば、怒りが爆発しそうである。心を平静
にしていた方がいいのだろう。こんな男に会ったことはな
               じげん
い。この男は、私の住む世界とは次元を全く異にした世界
の男なのであろうか。
 。バサッと何か軽い物のおちるような音がこの室の外で起
ったので、牧師は、顔を上げてドアの方をふりむき、それ
から室を出て行った。
「ああ、葛江か。iいつ帰ってきたのだね?」
「すみません、お父様!」
「泣くことはない。もう、泣かなくてもよいのだ。お前、
会ってみるか、私も、いろいろと話をしてみたが……」
「聞いていました。そしてお父様に、とてもすまないこと
をしたと思いました。ーあたし、もう永久に会いたくな
いのです」
「うむ」
「蔦江、バヵだったのよ、これからはもっと利口になる!」
                       け
 若い女の泣く声がし、父親がそれをなだめている気はい
だったが、笠原昇はトントンとたばこの切口を机の角でた
たいた。そして、うまそうに煙を吸い、天井のしみやマリ
アの絵を、興味のない眼つきで眺めている。
 牧師は、娘を奥の部屋へやってから、応接室へもどって
きた。
「葛江さんが泣いていたようですね」
「違います。泣きはしません。その代り、あなたがどんな
人問だか、ハッキリと知ったようですよ。私も、実はあな
たに来てもらったのは、葛江との結婚について相談したい
と思ったのですが、それはもう相談しない方がいいとわか
りましたし……」
「結構でしたね。こういう問題は、智能のすぐれた者の間
だったら、きわめて単純に解決されるはずだと、ぼくも
思っていたのです。時間をむだにしないだけでも助かり
ますよ。では、これでぼくは……」
 牧師の顔には、最後のはげしい怒りが現われ、しかし何
も言わなかった。
 そうして笠原昇は、すぐ玄関へ出て靴をはいてしまっ
た。
 二時間ののちー。
 笠原昇の姿が現われたのは、銀座のダンスホール赤い星
である。
 彼は、学生服ではなく、仕立の上等な背広を着ていて、
その自信のある態度や容貌は、一分のすきもない青年紳士
に見えた。
 タンゴやクイックのいくつかの曲目が終ったあとで、ホ
ールへ入ってきた一人の女が、まっすぐに笠原昇のところ
へ歩いてきたが、何か親しげに笑い合って話をしたあと
で、二人はワルッを踊りだした。
 その踊りぶりは、ホールの中でも、目立てっ美しくて、
優雅でリズミカルである。
 ホ:ルの支配人が、病気で休んでいるオーケストラの楽
士をつかまえて訊いた。
「あの女、すばらしいね。いつもうちのホールへ来ている
のかい」
「いいえ、この頃来はじめたんですよ」
「そうかい。あとで紹介してもらわなくちゃならん。女優
……でもなさそうだが、どういう女だか知っているかい」
 楽士は、この好色家の支配人を、軽蔑するように目で笑
って、
「知ってますよ、しかし、気をつけた方がいいでしよう
ね。藤井有太という代議士がいるでしょう。その代議士の
奥さんだそうですからi」
 ネクタイをなおしながら答えた。
危険な時期
      一
 朝から曇っていたし、空気は、水がまじっているかと思
われるくらい、湿度の高い日だった。
 少年藤井有吉は、今日で四日間も家へ戻らずにいる。そ
うして、ズボンにシャツ一つで、女の子といっしょに、映
画館ひばり座を出てきた。
 女の子は、スカートに青い横の縞が二本はいった女学校
の制服を着ているが、コスモスの花をぬいとりした絹のハ
ンケチで、鼻の頭やおでこの汗をおさえた。それから、新
宿の街を歩きだしながら、心配そうな目つきで、有吉の顔
をのぞいた。
「ねえ、どうしたっていうのよ」
「うん、何がさ?」
「映画、とてもよかったわよ。あたし、涙が出てきてたま
んなかったの。だのに、急に途中で出てきてしまうんです
もの」
 有吉は、べつに、返事をしない。
 だまって、まっすぐに向うへ顔をむけて、人の波をかき
わけて行くのが、まるで何か怒っているようにも見える
し、女の子の言うことを、フン、何を。ハヵなことをいって
いるんだと、軽蔑しているようにも見える。
 夕方までには、まだ十分に時間があり、街にはいっぱい
に人が浴れていた。女の子が、有吉と腕を組んで歩いて行
くのが、骨が折れる。ふいに有吉は、すれちがった三人組
の学生に、ドシンと横腹をつかれてよろよろした。腹が立
ち、歯を喰いしばったがどうにもならない。女の子をつれ
て歩いているのが悪いのである。嫉妬されるのがあたりま
えだろう。三人組の学生は、行きすぎてからふり向いて、
バヵ野郎と呶鳴って行った。
「暑いわね。アイスクリーム、たべたいわ」
「うん」
 そのくせに、軒なみといっていいほど並んでいる喫茶店
には、はいる気がしなかった。小さくて汚くて、客の少な
い店をやっと見つけて、その隅っこのテーブルへ腰をおろ
し、女の子は、またハンケチで汗をふき、有吉のために、
赤い色の可愛いい扇子を、出してやった。
「ねえ、何か怒ってるの?」
「ううん」
 首をふって、ズボンのポケットからたばこの箱をつかみ
だしたが、たばこはもう一本もない。箱をつかみつぶし
て、床へなげた。
「怒ってなんか、いやしないよ」
「そう。それならいいけど、あたし、心配だわ」
「さっき話した川上のことだろう」
「ええ、それもあるわね。川上さんは、あなたといちばん
仲好しだったでしょ。その川上さんが警察へつかまったと
いうのは……」
「いった通りさ。チャリンコの仲間へはいったからだよ。
あいつ、金つかいが荒いと思ってたら、チャリンコやった
んだね。省線で、鞄を切ったところをつかまった。。ハヵだ
よ。まるで川上は……」
 女の子は、アイスクリ!ムをロへはこびながら、疑わし
そうに、有吉の目をのぞいている。有吉は、視線をわきへ
そらし、壁にはってある劇場のポスターをながめた。
「スリラー劇って、面白そうだね」
「え?」
「そこにポスターが出ているぜ。今度の時、見に行こう
か」
 有吉は、無理に笑い顔をして見せている。新しく、子供
をつれた女の客がはいってきて、ソーダ水を註文した。
「芝居もいいわね。だけど、ほんとうはあたし、川上さん
と同じことを、あなたがやりはしないかと思って心配して
いるのよ」
            ふう
 と女の子は、思い切った風でいった。
「じょうだんじゃない!」
「いいえ、じょうだんでなくないと思うの。あなた、今日
は暑いから上衣をぬいで来たっていった。だけど、上衣を
売って来たのだってこと、あたしは知ってるのよ。だれで
も、お金に困ると無理をするわ。お願いだから、川上さん
のようなことしないでね」
「もちろんさ。川上はパヵだってぼくいったじゃないか」
「ええ、そうね。それはあなたは、川上さんなんかより、
ずっと利口だとあたしも思ってるわ。だけど……」
 あとの言葉につまった時、店の給仕がアイスクリームの
皿を取りにきたので、つめたいコーヒーを二つと註文し
た。そしてその金は女の子が払った。
「あたしね、この頃は考えるのよ」
「何をだい」
「あたしたち、とてもまちがったことしてるんじゃないか
って。本読んだら、書いてあったわ。解放された行動には
責任が伴わなくちゃならないっていうのよ。ところがあた
したち、ずいぶんお金をつかっている。アイスクリームや
映画なんかいいとしても、映画の前にあなたと行ったとこ
ろ、あそこは一時間部屋を借りただけで三百円もとられる
でしょう。それをあたし、あなたにばっかし払わせてきた
わ。この頃は、一週間に三度。四度のこともあるわね。四
度としたら、それだけで一週間に千二百円になるんでしよ
う。一月を四週間と見て四千八百円……いいえ、それだけ
じゃ、たりない、もっともっとかかるわね」
 ちょうど店へは、新しい客が二組もはいってきて、その
一組は、有吉のすぐ隣りの席についたから、それ以上の話
はできなくなった。
 有吉は、救われたような顔をしている。
 コーヒーを、ガブリと飲みほして、壁の時計を見上げ
た。
「ああ、いけないや。少し、おそくなっちゃった」
「これからどこかへ行くの」
「うん、約束してある。麻雀することになってるんだ」
「勝つといいわね。あたし、お祈りしているわ……それか
ら、さっきのこと忘れないでね。川上さんのようなことし
たら、あたし死んじゃうから」
 最後を女の子はわざと悲しくならぬように笑っていっ
た。
 そうして喫茶店を出て二人は別れた。
 有吉は、しばらくのうち、駅の方へ行く女の子のうしろ
姿を見おくり、ため息をついたが、やがて大人ぶった様子
で電車道を横ぎり、大木戸の方へ向って歩いて行った。
 街の人通りは、次第に少なくなり、それにつれて家並み
もまばらになってくる。
 とつぜん彼は、街の前後を、見すかした。
 それから、誰も彼の行動を注意していないと見きわめて
から、細い横町のうちへ入って行って、なるほど麻雀クラ
ブの看板が出ている貧弱なバラック建ての二階家へはいろ
うとした。
 実は、ここのクラブで、今日は、重大な相談をすること
になっている。それは、仲間の者たちが、有吉ばかりでは
なく、ひどく近頃は金につまってきていた。両親の品物を
持出したり、親戚をだましたりするだけでは、とうていも
うやりきれない。そこへ川上がチャリンコでサヅへつかま
ったのは、彼等のための訓戒にならず、かえって刺戟にな
ってしまった。いっそもっと大胆にやろうという話が出
た。仲間に加入しない良家の子弟があり、そういう友人の
家へ遊びに行くことがあるから、家の中の勝手もわかって
いる。人に憎まれるような手段で、ぼろい儲けをしている
家だけでいいから、それを一つ狙ってみようということに
なっていたのであった。
 仲間は、すでに集まっているのであろう。
 有吉が、合図の口笛を三度鳴らすと、家の中からも、
ちょっと間をおいてから、同じ口笛が聞えてきた。
 有吉は、曇りガラスのはいった格子戸へ手をかける前
に、もう一ぺんあたりを見まわし、誰も人はいないと確か
めたはずだったが、ガラスの格子戸を半分ほどあけると、
「有吉君!」
 ふいに、うしろから名を呼ばれた。
 そして、ふりむいて見て、ギョッとした目つきになっ
た。
 彼にとってはいちばん苦手の人物、家庭教師で書生で居
候で父親の秘書の友杉成人が、そこに立っているのであ
る。
「ヤレヤレ、やっと君をつかまえたぞ」
 友杉成人は、人の好い笑いを口のはたへきざみ、しか
し、大股に近づいてきて、有吉の腕をつかんだ。
「昨日は二時間。今日は、べんとう持ってきて、朝から頑
張っていたんですからね。さア、有吉君、ぼくといっしょ
に帰りましょう」
 いやだ、という代りに、有吉は肩をねじまげ、友杉の手
をふりはなそうとしたが、友杉は、有吉の全身を抱きよせ
るようにしてしまった。
 仲間が、家の中から顔を出してのぞいたので、有吉は恥
かしくなり、友杉なんぞなんでもない、下らない奴だとい
う顔をして見せたかったが、友杉は、
「ああ、君たち。ぼくは有吉君を、家から迎えにきたん
だ。今日は、いっしょに帰るからね」
 仲間に笑い顔でいっておいて、外から格子戸をしめてし
まった。
「ぼくがいる限り、君を、困るようなことにはさせません
よ。ともかく、そこらを歩きましょう」
「でも……」
「お父さんが怒ってるから、ぼくが迎いに来たんじゃな
い。ぼくはぼくだけの考えで君を迎いに来たんです。なア
に、ここの麻雀クラブへ君が来るってこと、笠原君から聞
いたもんですからね」
「えヅ」
 「笠原君を、君は嫌いだったね。しかし、笠原君を君のお
母さんが家へつれて来たから、君のことを聞いてみたら、
ここのクラブを教えてくれたんです。まア、笠原君のこと
は、あとで話すとして、家へ帰った方がいいと思うな」
 有吉は、抵抗できなくなった。そうして、いっしょに歩
きだした。

 代議士藤井有太の邸は、牛込の高台の、焼け残った地区
にある。
 そこへ帰るのには、都電が便利だけれども、二人は歩い
て市ケ谷のお濠ばたへ出た。濠では、子供たちが列をつく
って釣りをしていた。
「釣りは、ぼくは名人ですよ、もう長いこと出かけないが
……」
 友杉がいって立ちどまったので、有吉も自然にそこへ足
をとめ、それから岸の芝生に腰をおろした。
 空気はやはり湿っていて、しかし、夕方間近の薄い陽が
さしてきた。
                      まぶな
 友杉は、釣りの話をしはじめ、鮒にはヘラ鮒や真鮒があ
るということや、鯉は芋で釣るなどと話したが、有吉は、
少しも面白いという顔をしない。
「有吉君も、釣りをやるとか、山登りをするとか、何かス
ポーッやるといいと思うんですがね」
「ええ、それは、ぼくも思うんです。だけど、やってみた
ってつまらないという気がするものだから」
「やらぬうちに、そう考えるのがいけないんですよ。やれ
ば、きっと面白くなる」
「そうか知ら……」
 有吉は、気のない返事をして草の葉を引き抜き、指の先
きで、小さく引き裂いて捨ててしまった。そして、
「笠原のやつ、そんなにしよっちゅう家へ来るんですか」
 と、だしぬけに真剣な目つきになった。
「ああ、笠原君のことですか。ーイヤ、そう、しよつ
ちゅうじゃありませんね。二度来ただけでしょう」
「ぼくが家をとび出してからi」
「そうですよ」
「じゃ、まるで、しょっちゅうだ!」
 怒りが血管の中を駈けまわっているのが友杉にはわか
り、友杉は、急いで話題を変えねばならぬと気がついた。
「笠原君は、来ても、長くいるんじゃないからいいでしよ
うー。そうだ、それよりかぼくは有吉君に、訊くのを忘
れていたことがあるんだけど……」
「どういうことですか」
「君が怪我をして病院へ入った晩だった。君はぼくのこと
つかまえて、バヵだと思うっていったでしょう。あれはど
ういう意味のことだったんですか」
 首をかしげて考えてみて、有吉はやっとその時のことを
思い出したらしい。彼は、気まりの悪そうな顔をしたが、
とたんにニッと笑ったので、右の頬にえくぼができた。
「ううん、あれは……ぼくは……友杉さんのこと、悪口の
つもりでい'たのじゃないんです」
「そう。わかってますよ。そのすぐあとで君は、君自身の
方が。バカかも知れないって言いなおしたんだから」
「そうです、ほんとに、ぼく、そういう風に、いつも思っ
てみるんです。あの時、友杉さんを.ハヵだといったのは、
友杉さんがとても真面目だから……うん、どんな説明をし
たらいいのかわかんないな。ともかく友杉さん、世間の人
とはまるで変ってるでしょう」
「ぼくが馬鹿正直だっていうのですか」
「馬鹿正直1っていうのじゃないけどさ。世間には、友
杉さんみたいな人は少いですね。お父さんから月給いくら
もらってるの」
「月給なんてありませんよ。電車賃や湯銭もらうだけです
ね。でも、腹の減ることはないんだし、読書の時間はたく
さんあるし、ぼくは不服に思わない」
「だからです。だから。バカじゃないかっていったんです。
世間で、女と遊んだり酒飲んだり、ぜいたくしている奴
は、たいてい友杉さんより学問のない、つまらない男ばっ
かりです。友杉さんは、そういうことをしたいと思わない
んですか」
「したくないことはありませんよ。ただ、今のぼくは、そ
れをしなくても、生きて行けるからいいんです」
「じゃ、のちになって、何かで金を儲けてから、するんで
すか」
「イヤ、のちのことは、わからないでしょう。してもいい
ようになった時に、ぼくがそれをしたかったらするので
す。したくなかったら、やはり、しません」
 少年有吉は、人の生きることを、酒や女の享楽のための
みだと思いこんでいるらしい。この思想は、誰が植えつけ
たものだろうと考えてみて、ふいに友杉の胸の中へは、憤
りに似た感情がたぎり立ったが、それといっしょに有吉に
は、どんな話をしたらいいのかわからなくなり、絶望を感
じた。とにかく、お説教ではだめである。また古い訓話や
修養の書籍を、百冊読ませても千冊読ませても役に立たな
い。いいのは、清新な、今までとはまったく別な方向の興
味を持つようなものをあたえることである。感情家で意志
が弱くて、そうして子供らしさをまだすっかりと失いきっ
ていない有吉には、どんな清新な興味をもたせたらよいの
であろうか。
 話をせずに、友杉は、この十八歳の少年の横顔を、しば
らく眺めた。
 少年は、上衣もなく、帽子もなく、町の与太者と同じに
ノータイで、胸が露出しそうになっているが、やはりどこ
かに良家の子弟らしい上品さをそなえている。
「今日は、あそこのクラブで、麻雀やるつもりだったんで
すね」
「え、ええ……」
 と有吉は、疑いの目を友杉に向けた。
「麻雀は、ぼくもやるんですよ。兵隊に行っていて覚え
た」
「ほんとですか」
「ほんとですとも。それに、めったに負けたことはないん
                        モー
です。隊に、とても上手な奴がいましてね。そいつは、摸
パイ
牌を、テーブルへ伏せて手もとへ引いてくるだけで、百発
百中という奴でした。こっちのテンパイは、すぐと奴にわ
かってしまう。そいつに仕込まれたのですからね。1そ
うだ、いつか、有吉君とやってみるかな」
 ワアッと、向うで子供たちが騒ぎだしたのは、大きな鮒
がかかって、それが上げられないからである。その子供の
竿は輪になって大きくたわみ、道糸がピーンと張りきって
いて、鮒が抵抗しながら水中を逃げまわるうちに、ほかの
子供の糸とからみ合ったから、ますます騒ぎは大きくな
った。
 友杉は、はねおきて、走って行った。
「だめだい、こんなおまつりにしちゃっちゃ、ばらしてし
まうよ」
 そうして、手ぎわよく、鮒を釣り上げてやった。
「さア、帰ろうかね。有吉君。お父さんが、とても君のこ
と、心配しているんですよ」
「そうですか、お父さんは、ぼくのことを話すことがある
のですか」
「あるともさ。いつだって、君を可愛がり、君のことを考
えているにきまっているよ。1ただ、近頃お父さんも、
政治がたいへんに忙しくてね、中正党の代議士たちと大喧
嘩はじめたようだけれど……」
 喧嘩という言葉を聞いて、有吉は、少しく興味を感じた
ようである。それは、どういう喧嘩かと尋ねるので、友杉
は、現内閣の最大与党中正党に不正事件がある模様で、そ
れを有吉の父が糺弾するのだといって運動を起したから、
近いうちに議会も大紛乱におちいるのだろうと、簡単に説
明して聞かせた。
 しかしながらー。
 やがて彼等が家へ帰りついた時、そこへはちょうどに、
                もろうちたつや
今の話にも出てきた中正党の代議士諸内達也が、訪問して
きていたのである。
 もちろん、その訪問は、政治的な意味をもつものだっ
た。
 玄関へ、山岸ふみが出て、只今旦那様は会社の御用で外
出なすっておられますが、というと、諸内代議士は、その
               こうふく
ごま塩頭になって五十歳を越した剛愎な顔に、チラリと失
望の色をうかべ、しかし、では止むを得ない、許されるな
ら奥さんにでもお目にかかりたいのだ、といった。
 ふみやが、その取次で、奥へ引っこんだ時に、友杉と有
吉とが帰ったのである。
 今度は、ふみやに代って友杉が出て、諸内代議士を、玄
関脇の洋風応接室へ案内した。
 それから、貴美子夫人が、ゆっくり和服に着かえてそこ
へ出てきて、出てくるといっしょに、
「友杉さん、暑いわね。窓をみんなあけてちょうだい。扇
風機かけて……それから山岸さんにそういって、何かつめ
たいお飲物を……」
gz

 と言いつけた。
 応接室は、ピアノのある窓の向うが、モッコクやサルス
ペリやカエデの木のもっさりとしげった植込みになってい
で、石燈籠が一基すえてある。
 有吉は、父がいなかったのでホッとして、はじめに湯殿
へ行き水浴をした。それから身体をふいてから自分の部屋
へ入ったが、気がおちつかず庭へ出ると、とつぜん思いつ
いて、応接室の外の植込みのうちへもぐりこんだ。
 そこからは、来客と、来客に応対している若い美しい母
の顔が、ハッキリ見える。そうして、話していることも、
      ぎきと
ぽとんど全部聴取ることができるのであった。

 藤井代議士の若い妻である貴美子は、もと、江田島出身
したての海軍士官と結婚したことがあった。
 すでに亡くなった父親は、ある程度名を売ったことのあ
る政治家で、その妾腹の子として生れたが、生れるとすぐ
父親のいる本宅へ引取られて育ったから、教養はまず申し
分のない娘であった。戦時中の昂奮で、眉目秀麗な若い海
軍少尉と結婚すると、その新婚生活をわずかに三日間すご
しただけで、良人は潜水艦に乗りこんで出動し、それから
数ヵ月のちに、良人の遺髪と写真とのはいった白木の箱が
残された若い妻のもとへ戻ってきたのであった。
 彼女は涙をこぼしたが、黒い喪服を着て焼香台に立ち、
水晶の念珠をつまぐっている姿が、祭壇にそなえられたど
んな花よりも、美しく生々として見え、葬儀に列した親触
や知人や友人のうちの男たちは、思わず息をつめ目を見は
り、そして苦しくなったほどだった。
 終戦後、藤井代議士が、先妻の節子をなくしたあとであ
り、貴美子の父親であった政治家の後輩であるという関係
から、貴美子の幼少時代から知っていたので、三、四の曲
折を経たのちに、めでたく結婚することができた。
 この結婚で、一時ではあったが藤井代議士は、人生がす
っかり新しくなったほどに元気づき幸福を感じ野心が大き
くなり、関係事業の方面はもちろん、政治的な活動でも、
その郷里を地盤とした選挙では最高点の栄誉を占めたほど
である。
 しかし、公平に観察してみると、貴美子夫人は、古い道
徳観によるにしろ新しい眼で見るにしろ、簡単に批判しき
れぬいろいろな面を持っていた。
 藤井有太と結婚する時、あたくし、ぜいたくとわがま
まは、ふんだんにさせていただくわ、といった。そして、
事実ぜいたくでありわがままであった。ところが、息子の
有吉は、この若い母親を、非常に聡明であるといってい
る。男の友達を次から次へとつくり、ダンスホールなどへ
出入するが、それでいて、どの男の友達とも、ある線以上
のつきあいはしないようであるし、一方にはそれが彼女の
利口さであって、たとえどんなことがあったにしても、他
人の前でぼろを出したり、弱点をおさえられるようなこと
は、いっさいしないのだという見方もないではない。最も
親しいと思われるAやBという男の友達との間柄が、いっ
たいどこまで進んでいるのか、AB以外の男たちには、ぜ
んぜんわからないというようなわけであった。
 いま、諸内代議士を迎えて、彼女は大きい深い椅子に、
少しはすっかいに腰をおろして、時々パチリと目ばたきを
し、まっすぐに客の目をのぞくようにしているー。
 諸内代議士は、まぶしそうであった。
 扇風機の風があたり、もう涼しいのに、たえずハンケチ
で、汗をふいた。
「……で、そんなわけですから、政治家たるものとして
は、政治の威信を保つためにも、ここで藤井君と我々とが
いがみ合っているようなことは、ぜったいに回避せなきゃ
いかんということになるのでして:::」
 諸内代議士は、そういって、甲に荒い毛が生、兄ボッテリ
ふくらんでいる右の手で、ポケットの葉巻をぬき出した。
「まア、つまり、党派のためとか政権とか、そういうケチ
な根性じゃぜったいないですよ。要するところは、政界が
いつまでも紛糾していておちつかんと、産業が一向に振興
しない。結果は明白、日本はいつまでも再建できぬことに
なるのだから、わが党としても総裁以下、その点で意見が
まとまった。藤井君にも、心機一転、大乗的見地からし
て、国民大衆のため、わが党へ入党していただきたいとい
うわけです」
「と、おっしゃると、妥協じゃない、という風に聞えます
わね」
 ニッコリ笑っていったが、その笑いは、冷たく皮肉に澄
んでいたので、代議士は、少しうろたえてまた汗をふき、
しかしすぐに立ち直った。
「ええ、そうですよ。もちろん妥協じゃありません。御主
人が、妥協嫌いな竹を割ったような御性格だということ
は、議員仲間で誰でも知っていることですからな。主義主
張に多少の差違はある。しかし、実はわれわれは御主人の
手腕識見に惚れています。それに、入党されたら、将来の
幹事長は疑いのないところでしよう。かたがた雨降って地
固まるの譬えで、この際藤井君を一枚わが陣営に加えれ
ば、党の威信も倍加しますし、藤井君としても、損のない
取引だということにはならんでしょうか。イヤ、すでに大
体は藤井君にも、この党全体としての意志は諒解してもら
ったつもりであり、あとはただの一押し、ここで奥さんに
お目にかかれたのが倖せでした。奥さんから、ぜひ御主人
  かんじよう
に、勧請していただきたいのですよ」
「わかりましたわ。話すだけは話します。でも主人は、取
引とか損とか、そういうことは経営している会社の方だけ
の言葉であって、政治家としての行動については、そうい
う言葉はないはずだということを、いつか申したことがご
ざいますの。お話を伺っておりますと、主人が中正党へ参
るとしますと、それを主人に申さなくてはならぬことのよ
うな気がしますが」
「ああ、イヤ……」
 と代議士は、さっきょり目に見えてうろたえて、照れが
くしに、アハハハと笑った。
「それは、奥さん、ー皮肉をおっしゃるものじゃありま
せんよ。むろん、これはここだけの話で、奥さんから、そ
こをうまく、懇請していただければよいのですから。アッ
ハハハ……」
 貴美子夫人も、声は立てないが、目だけ笑わせている。
それは、この客を軽蔑しているような笑いでもあるし、ま
た単に客といっしょになって、面白がっている笑いのよう
にも見える。
「でも、ほんとに、皮肉のつもりじやございませんのよ」
「ああ、そうでしたか」
「あたくし、主人の好きな政治について、今までにこんな
お役目、申しつけられたことありませんわ。政治の話は面
白いんですけど、避けていた方があたしは損しませんも
の」
「ほ、ほう」
「いえ、そんなこと申しても、おわかりにはなりませんわ
ね。ただあたくし、政治のことには、なるべく口を入れな
いようにしているってことを申したんですのよ。1です
から、主人の藤井を中正党に入れるお手伝いなんて、とて
もあたくしには苦手ですわ。たとえば、あなた様の真似を
して、主人にそれを勧めるとなると、党利党略のためとい
うのと、国民大衆のためというのと、二つがこっちゃにな
ってしまって、どっちがどっちだか、わからなくなってし
まうんじゃないかと思いますの。あなた様のお話を聞いて
いるうちだけでも、あたくし、ハヅキリとそこが呑みこめ
ないくらいですものね」
 良人がどんな立場にいるかは、よく見ぬいている。まだ
入党の諒解など、ついているはずがなく、それで貴美子夫
人は、政党の総務であり、政務次官にもなったことのある
この代議士を、からかい半分で、皮肉をいっているのであ
った。
 諸内代議士は、それでも、根気づよく粘りつづけた。
 目まいがするほど美しいだけでなく、思いもよらず頭の
鋭い女だったが、女を相手にして腹を立てても下らない。
それに次期政権が廻ってくると、自分は大臣になるという
こともある。それを思えば、ここで事態を円満に解決する
ため、この場だけの恥や外聞は捨ててしまって、所期の目
的を貫徹するの要がある。イヤ、この女に会ってみたのは
面白かった。芸妓のように柔軟なところがあるし、貴族の
ように高ぶっているところもある。この女に会うだけのた
めに、まだいくどでも訪問するだけの価値があるな、とし
まいには図々しくなって考えはじめた。
 ついに、中正党入党のことは、良人が帰宅した時に、夫
人から勧めてみるという約束だけできた。
 諸内代議士は、椅子をはなれ、玄関へ出たが、その時
に、
「奥さん、ちょっとお待ち下さい」
 といっておいて、門外に待たせてあった自動車の運転手
に声をかけ、オーイ、あれを持って来い、と言いつける
と、学生服の運転手が、りっぱな大きなかさばった果物の
籠をはこんできた。
「これは、手土産ですが……」
「あら、そんな御心配を……」
「イヤ、心配というほどのものではありませんが、どうか
受取っておいて下さい。……それから、もしかすると、中
に腐ったやつがあるかも知れませんから、女中さんなどで
なく、奥さん御自身で、中身をあらためていただいた方が
よろしいですな」
 意味ありげな微笑とともにいっておいて、
「じゃ、失礼しました。奥さんを信頼しますからね、すべ
でよろしく願いますよ」
 代議士は、ほとんど逃げるようにして出て行ってしまっ
た。
 果物の籠が、上に包装紙がかかったまま、そこに残され
でいる。
 ふみやが、出て来ていて、それを奥へはこぶつもりで手
をかけると、
「お待ち。山岸さんI」
 ふりむいて、夫人が友杉にいった。
「これはね、問題だわよ。十万か二十万、もしかすると百
万円ぐらいの札束がはいっていると思うの。手をつけたら
いけないでしょ。先生のお書斎へ持ってっとくのね」
 誰も気づかなかったが、庭の植込みを出た有吉が、玄関
の、半開きになったドアのかげへ来ていた。
 そうして、友杉は、言われた通り、果物籠を、二階の代
議士の書斎へ、運んだのであった。

(つづく)
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