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内藤湖南「飛鳥朝の支那文化輸入に就きて」


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飛鳥朝の支那文化輸入に就きて
 自分は先きに天平文化を研究する方法として、天平時代の人が支那の書籍をどれだけ見て居つたかと云ふことを知るのが一つの要件だと云つたことがある。此 方法が若し飛鳥朝にも施すことが出来れば大きに便利であるが、飛鳥朝は天平時代に比べて、此方法を用ひることが更らに難かしい。天平時代には、当時日本へ 将来された本の目録が、一部分なりとも存して居り、其の上また、内典、外典を将来した人も明かに解つて居るが、飛鳥朝になるとそれが甚だ乏しい。論語、千 字文が応神朝に将来された話は古事記に出て居るのであまねく知れて居り、又欽明朝に和薬使主が内外典薬書、明堂図等百六十四巻を持て入朝し、其子善那使主 が孝徳朝に本方書一百三十巻明堂図一巻を渡したことが新撰姓氏録に見えて居るから、代々書籍の輸入もあつたに相違ないが、そのまとまつた目録といふ者はな い。
 飛鳥朝のことは日本書紀に事実は記録されてあるが、其の日本書紀の材料となつたものも、飛鳥朝のことだからと云うて、必ずしも飛鳥朝に書かれた材料にば かり拠つたとは思はれない。明かに解ることは人名、地名などに当てられてゐる漢字の音が、日本書紀の中でも一様でないものがある。日本書紀を通じて用ひら れた漢字音は、上は神代、神武天皇以後でも、むしろ日本書紀編纂の時に行はれて居つた漢字音で書いたのが多いが、中には、飛鳥朝で用ひて居つた漢字音で書 いたと思はれるものもあつて、後者は法王帝説の中に載つて居る聖徳太子時代の漢字音と一致する様になつて居る。多分は蘇我蝦夷の家が焼けた時に、聖徳太子 時代の国史が大部分焼けたと云はれるが、其の時の残本に用ひられた漢字音が、即ちそれであらうかと思はれる。それ以後に編纂された材料には漢字音もこれと は違つて居るのであらうから、それ等の点から詳細に研究したならば、日本書紀の中でも、純粋に飛鳥朝の材料によつた部分と、さうでない部分とに分ける事は 出来るだらうと思はれるけれども、自分は国史の専門家ではなし、さういふ研究をしてゐる暇がない。先づ、今のところ極く解り易い点で、聖徳太子の憲法十七 条は、これは飛鳥朝の材料として動かす可からざるものであるから、その文を書く時にどれだけの支那書籍の智識をもつて書いたかと云ふことを調べるのが一つ の方法だと思ふ。これに就いては従来の学者も研究したものがあつて、例へば谷川士清の日本書紀通証、河村秀根の書紀集解などは、大変よく十七条憲法の中の 文字の出典を調べて居る。二つの中では集解の方が後から出て正確になつて居るから、それによつて見ると、此憲法を作る為には、経書としては書経、詩経、周 礼、礼記、左伝、論語、韓詩外伝などがあり、史書としては史記、漢書、後漢書等があり、諸子類としては老子、管子、韓非子、孫子、荀子、淮南子等があり、 其の他文選、又は仏教の書も見て居つたと云ふことが分る。又聖徳太子が定められた冠位の名によつて見ると、墨子なども見たらしい。勿論仏教の方は、又別に 六朝時代までの書籍があつたらしく、聖徳太子が三経疏を作られる時には、前人の色々な著述を参考にされたものらしい。而かも憲法などを作らるゝにしても、 一つの文句の中に色々な古書の意味を採り集めて用ひて居る処が見えるから、此等の書籍をば十分に熟読して、自由に材料として用ひられたことが推測される。 兎も角も、重要な支那の書籍は当時既に輸入されて居るのみならず、充分に熟読されて居つたことが解る。殊に仏教に関する著作は余程手に入つたものらしく、 現存して居るもので、法隆寺の金堂釈迦仏造像記(1)は、殆んど六朝人の文章を見る様であり、又伊予の道後の温泉の碑銘(2)などは現存の文章では誤字な どがあつて、はつきり読めないけれども、やはり六朝風の文で書いたことが推測され、十七条憲法の文よりも一段と華麗に見えるから、当時の人の漢文を書く力 の程度が解る。
 又其の他に最も驚く可きことは、当時既に漢字を利用して、一種の日本風の文章を書くことを発明して居つた事である。その著しいものは法隆寺金堂の薬師仏 造像記(3)であるが、其の他にも高屋大夫の観世音造像記(4)、法隆寺金堂の四天王造像記(5)、同寺旧蔵の観音菩薩造像記(6)などであつて、それ等 の日本式の文章は当時の都であつた大和附近に止まらず、遙かに離れた東国にも行はれたらしく、上野国緑野郡山名村の碑(7)などが其の例である。此等の日 本式の文は、同じく漢字を用ひて文を書いた新羅などには、同時代に於ては見出し難き例であつて、昔対馬の八幡宮に在つた天宝四載の鐘銘(8)、今京城の博 物館に在る天宝十七年の葛項寺の刻石(9)などは、皆我が天平時代に当る遙か後世の物である。此等によつて日本人が其の国語を重んじた精神を見出すことが 出来るので、聖徳太子が冠位十二階を定められた時も、其の各階に漢字を用ひると共に、それに国語の読み方をつけたと云ふことは、従来の歴史で知られなかつ たが、近年に至つて太宰府西高辻男爵の家に蔵せられてある翰苑と云ふ書に依つて、十二階の第一階である大徳を|麻卑兜吉寐《マヒトギミ》と読んだと云ふこ とが出てゐるので、此等の冠位にもやはり国語を重んじて、その国語の読み方をつけて置かれたと云ふことが発見された。これに依つて当時の文化は、一面に於 て支那の文化を徹底的に採用すると共に、一面に於ては又、我邦固有の文化を進めて、これを支那文化の程度にまで推し上げ、これを並べて用ひると云ふ考があ つたことが推測される。
 聖徳太子が使を隋に遣る時に、対等の意味で国書を草し、隋から日本へ送つた国書は、初めは勿論詔勅の意味で書いたのであらうが、使者になつた小野妹子 は、その対等でないことの明かなものはこれを途中で紛失し、対等らしく改竄することの出来るものは改竄して持つて帰つたと云ふことを見ても、其の独立国た る体面を重じた様子が解る。此の精神は恐らく当時凡ゆる文化の上に現れて居たことゝ考へられる。当時の芸術に此の精神が認められるかどうかと云ふことを研 究することは、極めて難かしいことであるけれども、細かに注意すると仏像其の他に於てもさう云ふ点が見出されるので、例へば前にも云つた法隆寺金堂の二天 像の如き、或は五重塔内の塑像の或者の如き、六朝の造像に大体類似して居るとは云ひながら、何んとなく其の内に又日本伝来の埴輪に存して居た型式の系統を 認めることが出来る様に思はれる。
工芸品に於ては、或は更らに著しきものがあつたかも知れぬので、飛鳥朝以前から既に存在した銅鐸は晩周以後の鐘の様式を変化して、流水紋、袈裟襷文の新様 を生じ、古鏡には漢以来六朝までの支那の文様を変化して、一種異様な文様を造り出したのが、早い古墳時代からあり、其の他又日本の神社などに見る様な建築 を文様に現したものもあり、狩猟文様としては法隆寺旧蔵の獅子狩の文様、又は正倉院銀壷に見ゆる支那の狩猟の文様でなく、全く日本風の狩猟の文様を現した ものも近年発見されて居る。
 それでは斯の如き飛鳥朝以前から飛鳥朝までに於ける日本精神の保存は、或は当時の文化が充分に支那文化を採用するだけの能力を具備して居らぬので、それ で日本風のものが残つて居たかと云ふに必ずしもさうでないと思ふ。古墳から出土する甲胄馬具など、金属性の調度品を見ると、進歩した支那工芸をそのまゝ利 用することも充分に為し得たらしい。それ故日本書紀などに見ゆる如く、聖徳太子は憲法を作られて其の内に仏教を尊敬することを書かれて居るかと思ふと、そ れと間も無き時に於て、又神祗を尊崇する詔勅を推古天皇に発せしめられた事実があるので、これが真の聖徳太子の日本文化と外国文化とを両存する方針であら うと思はれる。これが又同時に古代日本人の精神であつたであらう。而して飛鳥朝文化なるものは、実に其の精神の顕著なる表現であらう。

(1)法隆寺金堂釈迦仏造像記
法興元卅一年。歳次辛巳十二月。鬼前大后崩。明年正月廿二日。上宮法王枕病。弗■干食。王后仍以労疾。並着於床。時王后王子等及与諸臣。深懐愁毒。共相発 願。仰依三宝。当造釈像尺寸王身。蒙此願力。転病延寿。安住世間。若是定業以背世者。往登浄土。早昇妙果。二月廿一日癸酉王后即世。翌日法王登遐。癸未年 三月中。如願敬造釈迦尊像并侠侍及荘厳具竟。乗斯微福。信道知識。現在安隠。出生入死。随奉三主。紹隆三宝。遂共彼岸。普遍六道。法界含識。得脱苦縁。同 趣菩提。使司馬鞍首止利仏師造。(この文は六朝造像記の風の文として、筆路極めて暢達なるのみならず、其中に用ひたる弗■の字が古文尚書に出で、著床の字 が古代の医書の語を用ひたなど、又其の出典の豊富なることを見るに足る。)
(2)伊予湯岡碑
法興六年十月。歳在丙辰。我法王大王与恵総法師及葛城臣。逍遙夷与村。正観神井。歎世妙験。欲叙意。聊作碑文一首。惟夫日月照於上而不私。神井出於下無不 給。万機所以妙応。百姓所以潜扇。若乃照給無偏私。何異于寿国。随華台而開合。沐神井而疼疹。■升于落花池而化溺。窺望山岳之巖■。反冀子平之能往。椿樹 相■而穹窿。実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢。何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照。玉菓弥葩以埀井。経過其下。可優遊。豈悟洪灌霄庭。意与才拙。実慚七歩。 後定君子。幸無嗤笑也。(釈日本記載する所、山田孝雄、香取秀真二君が古金石逸文に訂正せる者に拠る。)
(3)法隆寺金堂薬師仏造像記
池辺大宮治天下天皇|大御身労賜時《○○○○○○》歳次丙午年召於大王天皇与太子而|誓願賜我大御病大平欲坐故《○○○○○○○○○○○○》将造寺薬師像 |作仕奉詔《○○○○》然当時|崩賜《00》造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王|大命受賜而《○○○○○》歳次丁卯年|仕奉《○○》
(4)観世音菩薩造像記
歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫|為分《○○》韓婦夫人名阿麻古願南旡頂礼|作奏也《○○○》
(5)二天像造像記
山口大囗費|上而《○○》次木■二人作也
薬師徳保|上而《○○》鉄師手古二人作也
(6)法隆寺旧蔵観音菩薩造像記
辛亥年七月十日記笠評君名大古臣辛丑日|崩去辰時故児在《○○○○○○》布奈太利古臣又|伯在《○○》建古臣二人志願(山田、香取二氏編古金石逸文)
(7)上野国山名村碑
辛巳歳集月三日記
佐野三家|定賜《○○》健守命孫黒売刀自此新川臣児斯多弥足辺孫大児臣娶三児長利僧|母為記定文也《○○○○○○》
(8)対馬国八幡宮に蔵せし新羅旡尽寺の鐘銘
天宝四載乙酉思仁大角干
為賜夫只山村旡尽寺鐘|成《○》
教受内成《○○○○○》記時願助|在《○》衆師
僧村宅方一切檀越拜|成在《○○》
願旨者一切衆生|苦離楽得《○○○○》
|教受成在《○○○○》節雀乃秋長幢主
(この鐘は今は無し、其拓本は松崎慊堂の覆刻本、希れに伝はれり。藤貞幹の好古日録にも、其文を出したるが、松崎本と一二の異同あり。)
(9)葛項寺石塔記
二塔天宝十七年戊戍中|立在之《○○○》
娚姉妹三人|業以成在之《00○○○》
娚者零妙寺言寂法師|在弥《○○》
姉者照文皇太后君■|在弥《○○》
妹者敬信太王■|在也《○○》
(天宝は唐の玄宗の年号にして、十五載に至徳と改めたれども、新羅鳳の辺土の事とて、其の改元を知らざりしなるべし。)
(昭和四年六月仏教美術第十三冊〉

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