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小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集』後語


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 寅彦の随筆を選んで文庫本三冊程度の分量にまとめてくれないかと岩波書店から頼まれたのは、たしか昭和十九年の秋の事だった。私が仙台でその仕事を終え目次を岩波書店に送り届けたのは、翌年の二月だったが、ちょうどその時分から戦局はますます日本に不利となり、東京は絶えざる爆撃にさらされ、印刷所と製本所とは次々破壊されて行ったので、それはなかなか印刷には回されなかった。そのうち終戦という事になった。終戦になっても日本の印刷能力と製本能力とはすぐ復旧するはずもなく、用紙の入手さえ一層困難を加えて来たので、自然選集はそのままにしておかれないわけに行かなかった。文庫本出版の見通しが相当はっきりついて、いよいよ選集の印刷にとりかかるがさしつかえはないかと岩波書店から言って来たのは、その昭和二十年も押し詰まった、十二月のころだったかと思う。しかし私は|躊躇《ちゆうちよ》し出した。
 初め私は、そのうち戦争がすんだら『寅彦全集』も重版される機会があるに違いないと、漠然想像していたようである、私の選択は冥々のうちにその予想に支配され、私はむしろ芸術的な香気の高い、その点で目前の息ぐるしさをくつろげる力をより多く持つと思われるものから、まず採録して行く方針に傾いた。従って科学の味の勝ったものは、あと回しにされる形になっていた。しかし敗戦後の日本の情勢が、当分『寅彦全集』のような大部なものの重版を許しそうもないとすると、この方針は当然改められなければならない。それは初め採録したものを捨ててしまうという事ではないとしても、相当多くのものを新たに追加して、一面寅彦の全貌を明らかにする事に努め、一面目本の新たな国情に適切なものにする必要があるのである。今日の日本ほど情味に欠乏している国もない。芸術的な香気の高い寅彦の随筆は、その意味では新たな日本の国情に適切なものであるには違いないが、しかし今日の日本にとってさらに必要なものは、きびしい批判力である。真の科学的精神である。寅彦の世界は二つのものの美しい調和から成り立ち、寅彦の書くものはすべてその源から流れ出ていないものはないが、しかし情味のほうにむしろ選択の標準を置いていた当初の編集は、改めてその方針を科学的精神に重きを置く事によって補足され平衡が保たれ、人々の心に潤いを与えるとともに人々の頭に条理を与えるものとならなければならない。そうしてもしそれが可能であるならば、寅彦がいかにしてそういう美しい調和に到達し得たかをさえ、示しうるものとなるべきである。私は寅彦の書いたものの中から、相当の程度、科学の味の勝ったものをここに採り入れようとした。
 それができあがったのは、昭和二十一年の二月初めの事だった。初め三冊の予定だったのが、とうとう五冊になってしまったが、これはやむを得ない事だった。そうして私はこれを編み上げるとともに、仙台から東京へ越して来る事になった。
 寅彦がその科学においてどんな事を目標にしていたものか、もとより私にわかるはずもない。のみならずそんな事を問題にするのは、身のほどを知らないさし出である。ただ寅彦の書くものの忠実な読者としての私の頭の中には、どういうものか、人類の選手として、物質と精神との間に堅固で不朽な橋を架けようとして、寸陰を惱しんで努力している寅彦の姿が、相当はっきり結晶しているのは、不思議である。もちろん寅彦は心理と物理との限界をはっきり自覚して、いやしくも物理学の範囲から逸脱しそうなおそれある事には、断じて足を踏み入れなかった。その点で寅彦は、物理学旨として、身を持する事きわめて|峻厳《しゆんげん》であった。それにもかかわらず寅彦が、椿の花の落ち方や藤の実の飛び方やとんぼの並び方に興味を持つ一方、電車の乗客や街頭の群集や言語の分布を支配する法則を発見しようと努めているところなどをながめていると、私の目の前で、物質と精神とを隔離する|堅牢《けんろう》で分厚な壁が、次第次第にその厚みを失い、しまいには今一打ちつるはしを打ちこみさえすれば、それはがらがらと崩れ、双方の世界は|無礙自在《むげじざい》に流通し合うのではないかとさえ思われて来るのである。無論この最後の一打ちは、一大力量を必要とするものに違いなかった。そうしてこの一大力量は、寅彦どころではなく、およそいかなる人間にも与えられていないものなのかもしれなかった。しかし自分の学問の限度をあれほどはっきり自覚した上で、厳格に謙虚に、厳格に確実に自分の仕事を進めていた寅彦が、これほどまでにその壁を追いつめていると感じられる以上、私は寅彦をもっと生かしておいて、寅彦の直覚と寅彦の統計学とが、この方面でどんな世界を|載《き》り開いて来るかを、せつに見たかったと思う。
 もちろんこれはひいきの引き倒しで、寅彦に関する私の|妄想《もうそう》の一つに過ぎないのかもしれない。しかし少なくともアントロポモルフィズムからの解放という事を信条として今日まで発達して来た科学に対して、それの所を得た尊重という事に力点を置いた寅彦の科学が、そうして科学と芸術とは根本において一つのものであると信じていた寅彦の科学が、どんな科学に大成されべきであったかは、寅彦の書くものの忠実な読者であった私一人のみならず、もっともっと広い世界の大きな興味だったはずである。
 寅彦の書くものが「|枕草子《まくらのそうし》』や『|徒然草《つれづれぐさ》』の伝統を|承《う》け、|俳諧《はいかい》の精神を|続《つ》いで、日本の随筆文学の中でユニイクな位置を占めるものである事は、周知の事実である。寅彦の書くものには、寅彦の芸術感覚と科学感覚とが至るところに光彩を放っている奥に、真に芸術家であるとともに真に科学者である高い「人間」が座を占め、入生批評であるにしても社会批評であるにしても、世界的に自由であり、現実的に|剴切《がいせつ》でありながら、常にそれが大きな愛で包まれているところに、大きな魅力があるという事も、恐らくだれでも知っている。ただ私に不思議に思われる事は、寅彦の書くものの中の、峻厳な批評的精神が、科学的精神がとかく見落とされ勝ちである事である。これは寅彦の書くものは、いわば筋金の通った柔らかな手といった感じを持っているところから、読者はその柔らかな|肌《はだ》ざわりを味わう事だけで満足してしまうためではないかと思われるが、しかしこれは真に寅彦の書くものを味わうゆえんではない。寅彦の真骨頂はむしろその筋金にあると言っても、決して過言ではないのである。寅彦は科学も芸術もともに人生の記録であり予言であるところに、その本質を同じくすると言っている。自分で休験した事を整理して記録し、そこから出て来る理法を発見して将来に備えようとするのが、科学であり芸術であるとすれば、寅彦にとって、記録に値しないものは芸術でないと同じく、何らかの点で予言の名に値しないものもまた芸術ではなかったはずである、逆に言えば、寅彦の書いたものは、寅彦が記録に値し予言を含むと信じていたからこそ、寅彦によって書かれたものなのである。従って寅彦によって書かれたものは、何よりもまずそこから、何事かがまじめに学びとられ、まじめに反省され、まじめに先が考え続けられる事を要請する。そういう事をしようとしない読者は、寂しい寅彦をさらに寂しくする読者である。
 大正十二年東京大震災の直後、寅彦は今後の震災と空襲とに備えるために、東京は全部六階建てか何かの地下部市に改造されべきであると言っていた事がある。それは突飛な予言として当局に一笑に付せられたものと見えて、当時何人もそれをまじめに取り上げる者はなかった。しかし昭和二十年に至ってその予言は適中し、東京はほとんど全部焦土に帰してしまった。—これは最も筈しい一例である。しかし寅彦の書くものにはこれに似た予言がいくらでも含まれている。寅彦の書くものは、そういう予言と示唆との鈴なりであると言っていい。それを生かすか殺すかは、結局読む者の態度のいかんによって決定されるのである。
 私の編集したものが寅彦の珠玉を遺漏なく採録し得ているかどうか。これにはあるいはいろいろ批評があるかもしれない。しかし私は私で、万全を期したつもりであると言っておくよりしかたがない。

  昭和二十一年十月一日
                                     小宮豊隆
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