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亀井勝一郎「美貌の皇后」


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                                         ふぴ
 法華寺は大和の国分尼寺である。天平十三年光明皇后の発願されしところで、寺地は藤原不比

等の旧宅、平城京の佐保大路にあたる。天平の盛時には、墾田一千町の施入を受くるほどの大伽
藍であった。その後次第に崩壊し、現在の本堂は、慶長年間豊臣氏の命で旧金堂の残木を以て復
興されたものと伝えられる。円柱の腐蝕甚しく、荒廃の感は深い。平城宮の廃墟に近く、今はわ
ずか七人の尼僧によって法燈が擁られるのみ。本尊は光明皇后の御姿を写したと云われる十一面
観音である。この二月久しぶりで拝観した。
 私は「大和古寺風物誌」の中でもかいたが、この観音像についての有名な伝説をもう一度紹介
しておきたい。北天竺の轍階羅国に見生王という王様がいたが、どうかして生身の観音を拝みた
く思い、或るとき発願入定して念じた。するとやがて、生身の観音を拝みたくば「大日本国聖武
王の正后光明女の形」を拝せよというお告げが下った。しかし見生王は自ら遠国へ渡ることが出
来ないので、再び入定して念ずると、今度は彫刻師を派遣して皇后の姿を彫らせ、それを拝せよ
というお告げがあった。そこで王は、如審帥という名匠を日本へ趣わすことになった。
 文答師ははるばる難波津に着いて、そのことを上奏したが容易にゆるされない。ただし皇后の
願い、即ちその頃亡くなった母君のために御堂に安置する仏像をつくρてくれるならば、望みを
かなえようということになって、文答師はまず皇后の願いのとおり釈迦像を造顕した。その代り
光明皇后をモデルとして、三嫗の観音像をつくることが出来たという。一嫗は見生王のため本国
にもちかえり、他の二躯はわが国に止めたが、いま法華寺に安置されている十一面観音はその一
つであるという伝説である。
 興福寺濫艦ぼ記載するところで、歴史家はもとより信用しない。しかし古来この像を通して、
光明皇后の御影を偲ぶのが仏教徒のならわしとなっていたようである。興福寺に現存する八部衆
や十大弟子の作者が、伝えられるごとく文答師一派であったとすれば、光明皇后がモデルになら
れたことはあながち、甚しい虚構とも云えない。右の伝説の中で、母君というのは、天平五年亡
くなった橘三千代である。皇后がその冥福を祈るため興福寺の西金堂を建立したのは天平六年、
時にお年は三十四歳と推定される。聡明仁慈、美貌のほまれ高かったことは続日本紀の万葉の相
聞によってもうかがわれる。文答師は肖像彫塑にかけては当時一流の芸術家であった。美貌の皇
后とこの天才との邂逅を考えることは、嘘でも大変結構なことではあるまいか。
様々の仏体のなかでも、観音像にはとくに美貌と柔軟性を追究したものが多く、形相から云え
ば厳粛な菩薩形をもととするが、これに艶麗な天女形を加味し、云わば東洋のヴィーナスとでも
いうべき位置を占めている。上代における観音の姿態の変遷について、私は次のように云ってみ
たことがある。飛鳥仏に宿る祈りは厳しく思索的であり、白鳳仏に宿る祈りは柔軟に音楽的であ
り、天平仏となればこれに舞踊性が加わる。仏師の芸術的才腕の推移を示すとともに、信仰の微
妙に消化されて行く相を語っているのではなかろうかと。
 上代の貴族が、どういう気持で仏像に対したかを想像するのは困難だが、そこには大体三つの
型の信仰がうかがわれる。薬師信仰と地蔵信仰と観音信仰である。この中で薬師信仰が上代では
首位を占めていた。推古朝から奈良朝にかけて、薬師像の造顕が多い。病苦の救済が何よりも望
まれたことがわかる。書紀をみれば明らかなように、天然痘と疫病には施す術がなかったのであ
る。地蔵信仰は彼岸への導入を主としたもので、時代はやや下り、旅人の指標になるほど庶民性
を帯びた信仰となった。様々の如来像もつくられたが、それを拝む心理はおおよそこの二つの型
にわけられると云ってよかろう。
 観音信仰はこの二者と共通の願をもつが、幅は無限にひろく、宗派性をもたぬのが一つの特徴
である。あらゆるものに化身して、そのものの身に即して、抜苦与楽すという普門品の教のとお
り、また世間の一切音を観ずという名のごとく、森羅万象の裡に遍在する密教的性格をもつ。自
                                      ゆうげ
由無礙である。自由とはつまり「空」のことだが、「空」における行為を仏教では「遊戯」とよ
ぶ。観音にはこの遊戯性がつよくあらわれているのである。さきに舞踊性と云ったのもこの意味
で、だから天女の柔軟体が加わり、衣の翻転は自在になる。同時に美的要素が著しく加わり、信
仰の対象よりもむしろ、美的悦楽の対象になる傾向をもつ。東洋においては、人体美の理想を観
音像に求めたと云えるかもしれない。
 こうした傾向は天平期に既にみられるが、次の弘仁から藤原、即ち平安朝になると、明らかに
官能に訴えるような「美」自体が仏像にそれとなく具現される。密教の影響は決定的で、宇宙一
切の事象を最高仏たる大日如来の化現とみるゆえに、美そのものが信の対象となる。菩薩なるが
故に美しいというよりは、美しいが故に菩薩だというこ乏になる。この推移は仏像彫刻のみなら
ず信仰上の大きな転機を示すが、天平にそのきざしがみえると云ってよい。文化の爛熟によっ
て、人間の官能と情感が繊細となり、一方で肉感的な美の慾望を充足させつつ、それを通して魂
の永遠の憩いの場所をも求めようとする、云わば矛盾せる願望に応えるような仏体があらわれ
る。
 同時に妖しい伝説が生じたのもこの時代である。美に憑かれた信仰者の破戒の伝説が。上代か
ら奈良朝にいたる仏教伝説の多くは、平安朝に成立したものである。十一面観音も、美術史的に
は弘仁期の作と考証されている。生身の観音を拝みたいなどという贅沢きわまる願望は、平安人
のものであろう。美人の菩薩という妖しい夢を、王朝の貴人は描いたのかもしれない。十一面観
音に光明皇后の御姿を偲ぶということのなかには、一種の快楽があったにちがいない。厳粛な法
悦とは別個の快楽があったにちがいない。
*
 十一面観音は高さ三尺ほどの白檀の立像である。暗い厨子の中にお顔を仰ぐと、切目の澄んだ
沈静な眼差と、朱のわずかに残った唇が印象的である。全体の色彩は殆んど剥落し、香煙にすす
けて、やや黒ずんでいる。首から肩へかけての圧縮したような重厚な筋肉、胸はこれと均衡をと
るように女体さながらにもり上り、豊満な胴体と、しなやかに左へくねらせた腰が、そこから肉
体の連続のように肉体に密着した天衣の流れに融合して行く。親指をちょっとあげて、今まさに
蓮華の花の上を歩み出そうとする右の遊び足に、巧みな舞踊性がうかがわれる。
 しかしこの像の完成に、最も微妙な役割を果しているのは、長くすらりと伸ばしたその右腕で
あろう。仏体の美を決定したのは右腕だと云っても過言であるまい。左へくねらせた姿態と実に
よく調和がとれ、全姿を見事に生かしている。写実的に云えば、右腕は長すぎるが、この場合は
この長さでなければならない。
 これより短かければ調和は乱れ、これより長ければ奇怪となる。この微妙な的確さ、非現実的
な長さを判断した仏師の芸は見事である。天衣の端をつまんでいる指も美しい。人さし指と小指
が、併行して外側にちょっと出ている、その可憐な感じは、そのまま腕の長さに対して効果的な
終止符ともなっている。
 写真ではどうしても伝えられない感じがある。とくに顔面がそうで、写真のようにきついとこ
ろはない。ずっと柔和で聡明の感じが深い。朱の残った唇と、二重のふっくらした頤の辺りはあ
どけなくみえる。三尺足らずの像で、その上黒ずんでいるので、ちょっとインドネシアの美少女
と云った感じがある。ここから光明皇后の全姿をしのぶのは無理かもしれない。全姿について云
えば、むしろ薬師寺の吉祥天画像や正倉院の鳥毛立女屏風の女性の方が似つかわしいかもしれな
い。しかしこれら女人の顔の方は困る。天平美女の典型のように云われているが、何もああふく
れてばかりいたわけではあるまい。お顔だけは十一面観音の方がいい。続日本紀の淳仁紀に、皇
                         は
后崩じた日の記録があるが、「幼にして聡慧、早く声誉を播せり。勝宝感神聖武皇帝儲弐の日、
納れて以て妃と為す。時に年十六。衆御を接引して皆その歓を尽す。礼訓に雅閑にして、敦く仏
道を崇ぶ。」と記す。少くともこの感じは十一面観音のお顔には伝えられているように思われる。
 ところで文答師が皇后をモデルとしたという伝説の裡には、深い仔細があるらしい。仏像は元
来信仰の対象である。これが厳密にまもられていたのは飛鳥白鳳期であるが、天平末期あたりか
らそろそろ怪しくなってきたことは前にもふれたとおりである。鳥仏師の名手たる点は、その厳
格無比な模倣性にある。具体的に云えば、彼のモ『ルは人体でなくて、伝来の仏体である。我が
仏師がいつ頃から人体を詳かに追究したか、記録はないが、伝説がある点でそれを代行している
点に留意したい。つまり、仏師が一個の独立せる彫刻家として、芸術意識を信仰の上に置いた
か、乃至はこの双方の間に格闘を味ったか、文答師の行為は、そういう問題を示唆した最初のも
のではないかということである。十一面観音のなまめかしさから、光明皇后の姿態をしのび、更
にその姿態に対した文答師の眼と心に思い及ぶわけだが、西洋美術におけるごとく、人体構造の
科学的記述や彫刻家としての技法は全く伝わらず、妖しい伝説として残っているところが面白
い。この点で、同時代の雰囲気も考えてみる必要があろう。
 弘仁年間に、仏教伝説を集めた「日本霊異記」という古書があるが、聖武帝時代のことが多
い。その中に次のような插話がのっている。
                               うばそく
和泉の国の、さる山寺に美しい一躯の吉祥天女像があった。或るとき優婆塞と名のる僧がこの
寺に住みつき、この吉祥天像を拝んでいるうちに愛慾を生じたというのである。恋着のあまり毎
日願をかけ、せめて天女のような美女を授けたまえと念じた。或る夜この僧は、夢の中で天女像
と交る。明けて天女像をみれば、像の腰のあたりが淫精に染まっていたという。彼は深く慚愧し
たが、深く信ずれば、感応せざるはなし、奇異の事なりとあって、涅槃経にも、多淫の人は画い
た女入像にも愛慾を生ずとあることを古書は附加えている。
 宗教的にはけしからん伝説だ。この原文は漢文体で、決していい文章とは云えないが、こうい
う怪しげなことが天平時代には多かったようだ。続日本紀を通覧すれば、僧俗の頽廃を戒めた詔
が少くない。だが他面では万葉相聞にみられるような奔放繊細な情感の養われつつあったのも事
実である。天平の仏師がこの間に処して、信心しながらも美に惑溺したことは想像するに難くな
い。女体の美を求めて、しかも必ず宗教的理念を目ざす観音像とか天女像に造顕しなければなら
なかったそめ制約が、同時に制約内での極度の微妙を追求する結果になったのではあるまいか。
そこに創造されたのが、「乳房のない女性」ともいうべき世界に類例のない観音像ではなかった
ろうか。
 芸術は偉大な誘惑術である。本質的にはいかなる宗教目的にも仕えるものではない。無条件に
美しいということが一切であり、観者をして無抵抗状態に導く魔力である。創造者は自ら覚醒
し、精密に技をふるいながら、一の「盲目」を創造するものである。この点で、仏教にはキリス
ト教のごとき非寛容はない。煩悩即菩提の「即」とは、或る意味で狡猾な微笑を含む。夢にあら
われて交ったという吉祥天女もさるもので、類似の伝説は光明皇后にもある。十一面観音は信と
美のあわいの戦慄の所産であったかもしれない。
*
 続日本紀を読むと、罪悪の匂いがする。続日本紀のみならず、歴史とはすべてそういうものか
もしれない。飛鳥の推古朝前後は、蘇我家の殺人の歴史である。白鳳の天武朝前後は内乱の歴史
である。天平の聖武朝前後は、藤原家と坊主の陰謀の歴史である。そしてその殆んどは血族問の
争いで、非命に倒れた皇族重臣の数はおびただしいものがある。或る天皇が崩御されると、今度
は自分が天皇になる番だと思いこむ自薦あるいは他薦の皇子、それをめぐる各氏族の勢力争いが
起る。推古帝以来奈良末期まで、女帝の擁立が頻繁に行われた一つの理由は、この間の融和に
あったとも云えよう。奈良朝のごとき七帝のうち四帝まで女帝である。天武天皇が壬申の乱後、
異腹の諸皇子を召して、一人一人抱きしめながら、「千歳の後に事無からむと欲す。」と誓いを交
                          ことこと
されたのは、血族相剋の終止を念願されたものであるが、悉く裏切られたことはその後の史に
明白である。奈良朝史は一面からみれば、壬申の乱後の各氏族の勢力調整とその破綻の歴史と
云ってよい。
「大和古寺風物誌」でも述べたところを、ここでもう一度より詳しく考えてみたい。この時代
(前期)における政界の巨頭は、藤原鎌足の息不比等である。蘇我家の専横を覆滅した藤原一家
は、時代の下るにつれて蘇我家と同様の行動をとるようになる。天皇家への滲透が始る。不比等
には賀茂姫、娼子娘、五百重娘、三千代等の妻があったが、智ハ茂姫との間に生れた娘宮子は、文
武帝の妃となり、この間に誕生されたのが後の聖武帝である。また不比等と橘三千代の間に生れ
   あそか ひめ
たのが安宿媛、即ち後に聖武帝の皇后となられた光明子である。血族結婚と一夫多妻は史を通し
ての習慣であって、異とするに足らない。ともあれ不比等は外戚として強固なる地位を得た。こ
の期間における天皇家とは藤原家のことである。
                                        み ぬ
 不比等の妻の中で、とくに橘三千代の存在は無視出来ない。三千代ははじめ敏達帝の嫡孫美奴
王の妃であったが、後に宮廷に入って文武帝幼少時の乳母となり、やがて不比等の妻となった。
藤原家の天皇家滲透に絶大の役割を果したのは三千代である。文武帝に宮子を推したのはおそら
く彼女であろう。聖武帝幼少の折も哺育し、後に自分の娘光明子を皇后にまで確立した手腕は並
          ようかい
並のものでない。政事に容喙したことも少くなかったと想像される。また彼女の息子は、後に左大
臣として政界の中枢を占めた橘諸兄である。天平の背後に隠然たる勢力をふるった辣腕の女性と
して著名である。
                    ながやのおおきみ
 こうした勢力に対立したAユ入の政界巨頭は長屋王であった。神亀元年聖武帝登極とともに
                  たけちのみ こ
左大臣に任ぜられたが、王は天武帝の皇子高市親王の息で、云わば天武直系である。ところが五
年目に殺されてしまった。天平元年に起った長屋王の変が、いかなる理由に基くか、続日本紀か
らは詳かにわからない。「私に左道を学び、国家を傾けむと欲す。」と密告するものがあって、長
屋王の私邸は藤原宇合以下の将兵にかこまれ、王は自殺を余儀なくされたのである。その妃(吉
備内親王i天武帝嫡孫)と王子達も自ら縊り失せた。これは聖徳太子の直系が蘇我家によって
おうさつ
鏖殺された悲劇に次ぐ事件である。その二年前、聖武帝と光明子の間に男子誕生、皇太子とされ
たが、わずか二歳で亡くなられた。その夭死は長屋王の呪咀によると判断されたらしいのであ
る。
 しかし、おそらく藤原家、橘三千代一派が、自家の勢力伸張のため、長屋王を退けんとしたの
であろう。反面から云えば、長屋王は光明子の聖武帝入内、及びその御子の立太子擁立等、云わ
ば藤原家の天皇家侵犯に烈しく反対したと考えられる。長屋王の変は天平元年二月であるが、同
年八月、光明子は正式に皇后として立たれたのであるから、この間藤原家と長屋王の間に激しい
争いのあったことが想像される。それまでの習慣として、天皇は幾人かの妃はもたれたが、皇后
はすべて皇族出身に限られていた。光明子立后は異例の事であり、藤原家の強引な推挙があった
ことは、立后直後の弁解めいた詔によっても察せられる。
 要するに光明皇后は、天武直系の犠牲において皇后となられたのである。壬申の乱の功臣遺族
等の非難羨望嫉視のうちに、御自身の地位をいかに観ぜられたか。鋭敏な御心にとって、これは
拭いきれぬ負い目であったかもしれない。聖武帝への愛情のこまやかさは万葉の相聞によっても
うかがわれるが、時の政争裡に、暗澹たる運命を負われたことはたしかだ。
奈良朝史は、よくみれば実に奇怪なことが多い。仏教の興隆というが、反面からみれば思想の
混迷、民の窮乏、経済的破綻、政治的不安、様々の罪悪の蔓延がある。平城京には少しの安定も
ない。とくに天平十年代は近畿地震帯の活躍した時代とみえて、十七年など毎日のように地震に
見舞われる。ひどい時代だ。僧侶の増大、大陸文明の流入によって、頽廃混濁の生じたことはむ
      かほ  ほふし
ろんである。「貌は桑門に似て、情は奸盗をさしはさむ。」(元正紀)、「異端を学び、幻術を蓄積
し、厭魅咒咀して、百物を害ひ傷むる者あらば、首は斬にし、従は流にせむ。」(聖武紀)、「京の
近き左側の山原に、多くの人を集め、妖言して衆を惑す。多きときは万人、少きときは乃ち数千
なり。」(同上)、「朝廷の路頭に屡ー匿名の書を投つ。」(同上)、こういう記述は人心の不安を示す
ものである。
 日本書紀から続日本紀にあらわれた歴代天皇の詔を読んで行くと、聖武帝に至って一つの大き
な特徴に気づく。「天皇罪悪感」の濃厚にあらわれていることである。天災から為政上の困惑、
乃至は反乱まで、それが起るたびに悉くその原因を自己におき、自身の罪として語られているこ
とで、これは他の詔には少い。仏法に深く帰依されたところからくる悔改の念とも云えるが、時
代苦を辛辣に感ぜられたことが明らかに察せられる。
 それにしても聖武帝の大寺建立の願は異様である。東大寺をはじめ各国に国分寺を設け、或は
飛鳥地方の大寺を平城京に再興し、事毎に寺舎を建立されたのは、信仰の深さに由ると考えられ
るが、他方においてそれがどれほどの財力人力を消耗したか。昔日の東大寺は、今日からは想像
も及ばぬ大伽藍であるが、そこに帝の仏法の夢があったことはたしかだ。云わば天平大浪漫派の
面影をしのぶことが出来るが、同時にまた大浪費家であったことも否定出来ない。そして、何か
に脅かされたように、やたらに旅行ばかりしておられる。旅行しない時は寺ばかり建てておられ
る。
 建立の願を詔についてみれば、事理はつくしてある。(「大和古寺風物誌」  「天平の花華」参
照)しかしこれが時の為政者に通じたとは思われない。百姓流離、徴税苛酷を嘆く声は高い。「東
大寺を造ることは、人民苦辛し、氏々の人等も亦是を憂と為す。」(孝謙紀)、「天下憂苦して居宅
       みち   なき      うらみなげ
は定ることなく、乗路に哭叫びて怨歎くこと実に多し。」(同上)、或は山上憶良の「貧窮問答」等
によってもこの年代の困窮の状は理解されるだろう。
*
 何故あんなに寺を建てたのか。その真意が純粋に宗教的なものとのみ思われず、藤原家の勢力
伸張に利用された点も少くなかったろう。しかし聖武帝御自身の信心は深く、ということは不安
に堪えられぬ事情があったということで、寺舎建立大仏造顕は一の狂気と申してよいほどであ
る。天平の東大寺など、何かに憑かれた人でなければ構想出来るものではない。聖武帝は、天皇
の罪悪感と不安を最大限に示された方のように思われる。その大きさが即ち東大寺の大きさであ
る。ついには藤原家すら帝の宗教的夢想には辟易したようである。聖武帝は位を退き、出家して
沙弥勝満と名のられたのは治世二十五年の後であるが、宗教的には天皇の自己否定であn,、政治
的には藤原氏による体裁のいい追放とも考察される。帝の宗教的理念と藤原家の政治力とはつい
                           ちつきよ
には深く対立したようである。晩年の聖武帝は薬師寺の一宮に蟄居された。
 今に残る奈良朝芸術とは罪悪の華のような気がしてならない。いや飛鳥白鳳天平と、殺人内乱
陰謀の深まる歴史に比例して、仏体はいよいよ光輝を増し、寺塔は壮麗を極める。ふしぎな現象
だ。聖武帝の御眼に映じた大仏殿とは、異様に狂おしい幻ではなかったろうか。帝の罪悪感に貫
かれた詔と仁愛と、しかも群臣によるその遮断と、他方に血族の絶えざる反目の裡にあって感ぜ
られた孤独こそ問題である。
 この年代の高貴なる人々の心裡に、或る深い懐疑と憂悶をもたらしたのはむろん仏教である。
少くとも釈尊は王侯の身分を否定して求道の俸餅となった。王子の身を驟離し、我が肉を飢虎に
喰わしめんとした金光明最勝王経捨身品のごときもある。或は華厳経の熾烈な求道遍歴、法華経
の微妙な悟道、すべてこの時代に読まれた筈である。聖武帝にもし思想上深い影響をもたらした
経文があるとすれば、華厳法華経であろう。それは聖徳太子における三経のごときものであった
かもしれない。そして経文に憑かれた天皇も摂政も、晩年は必ず政治的敗北者として隠遁を余儀
なくされている。
 こうした帝とともに仏道を歩まれた光明皇后は、さきの運命を負い目として、観無量寿経の童
提希夫人のごとく仏前に悔改の涙を垂れたのではあるまいか。法華寺は滅罪の寺という。救抜出
離の思想に憑かれた高貴の人の裡には、ふしぎな孤独が巣くうものらしい。古く尊い家系の血
     よじ
の、妖しく捩れて混濁し、悪の深淵と化した中から、身のおきどころのない憂愁が生ずるようで
ある。それが狂気のごとき造仏にも向い、また皇后においては病者を救う施薬院ともなハ・であら
          うみ
われ、ついには癩者の膿を吸う伝説まで生じたのではなかろうか。
 吉野朝初期、虎関の編纂記述した「元亨釈書」に、次のような有名な伝説がのっている。
 大仏殿完成して、光明皇后も安堵された或る日の夕、虚空に声あって、「后よ誇るなかれ。妙触
宣明、浴室瀚濯、その功云うべからず」と。即ち皇后は歓喜して、直ちに浴室をつくり、貴賤の
別なく病者に湯を施された。また自ら発願して、親しく千人の病者の垢を洗ってやろうと誓われ
た。そして側近の止むるのも聞かず、すでに九百九十九人まで垢を流しておやりになった。とこ
ろがいよいよ最後の一人というのは、全身に膿の出た癩者であった。しかもその癩者は、もし人
あってこの膿を吸ってくれるなら、必ず病は癒ゆるであろうと申し上げたのである。
 皇后は臭気の満ちた浴室に在って、さすが辟易されたが、もしこの癩者の願いを容れないとき
                   おもんぱか
は御自分の誓いが最後の一瞬に破れるのを慮り、止むを得ず唇をつけて瘡を吸い、膿を吐き、
頭から足の踵にまで及んだという。すると癩者の全身は忽ち大光明を放ち、仏の姿と化して忽然
去ったという伝説である。
 この浴室を「から風呂」と称し、遺跡が現在法華寺の境内にある。新しく後に建てたもので、
おそらく規模も小さいであろうが、その構造から大体の有様は推察出来る。茶室の入口のよう
な、背をかがめなければ入れぬ小さな戸口が一個所、あとは屋根のすきまを除くと、全部密閉さ
れた一間四方の浴室である。床はすのこになっていて、その下から湯気を通して蒸す。つまり蒸
し風呂で、密閉の室内に蒸されながら瘡やふき出ものを治癒するわけである。これは現代医学か
ら云っても効果があるそうで、今でも地方の癩病院から医師が見学に来て、結局この方法が最も
良いと語ったそうである。
 当時の風呂がどのようであったかわからぬ。皇后の施薬院の一部、あるいは法華寺に設備して
病者に施浴したのであろう。その折の病者の陶酔と謝念が、仏法とむすびついてかような伝説を
生じたと思われる。事実は皇后が、浴室の戸口から柄杓で湯をかけておやりになったか、乃至は
垢こすりの器具で撫でられたのであろうと想像している人もある。しかしこの場合は、どうして
も唇をつけたということが大事で、しかも相手は必ず癩病でなければならぬ。宗教的行為の一極
致として癩者への愛は聖書にもみられるところである。それとともに、この時の皇后は是非とも
美貌の皇后でなくてはならないわけで、天平随一の朱唇を、癩者の肌にふれたというところに伝
説の妙味があるのだ。
 光明皇后の御容貌が、実際にどうであったかむろんわからない。しかし高貴な女人の、何か傷
ましい感じさえするこの自己否定の極限に、生涯にわたる憂愁の面影を偲ぶことは出来る。そし
てそういう御方は、必ず美しい方であったにちがいないと臆測した後代人の、その臆測もまた美
しいと云うべきではないか。
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