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亀井勝一郎「中尊寺」

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amizako

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                        せきやま
 平泉の駅から北へ約八丁の道を行くと、中尊寺のある関山の麓に達する。さほど高くはない
が、相当に嶮しそうな一大丘陵で、その全体が寺域となっている。麓から本坊への登り道は、月
見坂と呼ばれ、かなりの急坂だ。全山を蔽うのは鬱蒼たる数丈の杉の巨木、根もとには熊笹が繁
り、深山へわけ入った感が深い。天狗が出て来そうな風景である。彼岸には大雪が降ったとい
う。私の出かけたのは数日後だが、快晴にもかかわらず至るところ残雪があり、道もまだ凍りつ
いていた。
 急坂を登りつめて稍ー平坦になったところに、昔の仁王門の址がある。その傍に東の物見がある
が、ここへ来て、眼前に突如として展けた広漠たる風景に驚いた。平泉の東北方深く、一望のも
                                    たはしねやま
とに眺められるのである。稲株の残った広い田野を隔てて、東寄りにそびえるのは束稲山(多和
志根山)。白雪に蔽われた重畳たる北上山系がこれにつづいている。物見の前面、間近に望まれる
のは愛宕山、陣場山等の低い山だが、背後には奥羽大山脈がつらなる。これらの山脈の間を、遙
かから、雪解の水を湛えた北上川がゆったりと流れてくるのが見える。関山の裾をめぐり、田畑
の間を縫って、西から北上川に注ぐのは、有名な衣川である。大奥羽とでも叫びたいような、漠
漠としてまた荒涼たる風景である。
 奥羽の生命は云うまでもなく北上川だ。源を岩手県北部に発し、それより南流すること七十六
里余で、現在の石巻附近牡鹿郡から仙台湾に入る。花巻あたりから平野を沃し、下流は周知のご
とく宮城野である。上代中世にわたって、蝦夷征討の軍はおおむね北上河岸によって北進したと
いう。仙台北の多賀城址は、当時の一大軍事拠点であった。鎮守府も、それから安倍、藤原の豪
族も、本拠はすべて北上川の流域に置いたそうである。
 奥羽とは元来、陸奥と出羽の総称である。現在では青森県だけを陸奥と云うが、これは江戸時
代に入ってからのことで、上代中世は、青森の他に、陸中(岩手)、陸前(宮城)、磐城(福島東
部)、岩代(福島西部)の五国をまとめて陸奥と呼び、羽前(山形)、羽後(秋田)の二国を併せて
                                        なこそ
出羽と称した。この両国に入るには、有名な三大関所があった。太平洋沿岸にあるのが勿来の
                          ねず
関、山岳地帯を通るのは白河の関、日本海岸側にあるのは念珠ケ関大体今の山形県新潟県の境
の西端から、福島県茨城県の境の東端をつらねる線上にある。昔の旅人はここまで来ると、長嘆
息していよいよ僻地に赴く心を定めたものらしい。芭蕉の道の記にも、「心もとなき日数かさな
るままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。いかで都へとたより求めしもことわりなり。中にも
此の関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。」とある。
 上代から中世にかけての奥羽史をみると、著名な三度の蝦夷大征討と、同じく三度の大戦乱が
挙げられる。最初は景行朝における日本武尊の蝦夷征討、それから五百五十年経て、大化改新時
代の斉明朝における阿倍比羅夫の征討がある。更に百四十年後、平安朝の桓武天皇の代に坂上田
村麻呂が征夷大将軍に任ぜられて、四年かかって平定したと伝えられる。田村麻呂の時代から、
             いわゆる
二百五十四年後に起ったのが所謂前九年の役で、平泉の名があらわれるのはこの時からである。
                よりとき
 前九年の役は、陸奥の大豪族安倍頼時、貞任、宗任等一族の、藤原中央政権頽廃に乗じて自家
                               よりよし よしいえ
勢力を伸張しようとしたことに基く叛乱である。これと戦ったのは源頼義、義家の父子であった。
安倍一族はもと俘囚の長と云われる。俘囚とは帰順した蝦夷の称だが、頼時の祖先が阿倍比羅夫
に服して、同姓を与えられたと云う。この戦乱は頼義が鎮守府将軍に任ぜられた天喜元年からか
ぞえて、貞任を衣川関に敗走せしめた康平五年まで、十年に及ぶ勝敗を決しかねる長期戦であっ
た。出羽の大豪族清原茜贈の援軍によって、辛つじて平定した。安倍一族の強豪ぶりと、弓の名
手青年義家との華かな戦いぶりは、史書物語の伝うるところである。
 次に後三年の役は前九年の役より二十四年後に起っている。清原武則は、さきに頼家を援けて
安倍一族を滅したが、代って彼は鎮守府将軍となり、陸奥出羽両国に権勢をふるった。武則もも
                   いえひら       まさひら
とは俘囚の長である。ところがその子清原家衡の代になって、血族真衡との問に内紛を生じ、こ
の地方は混乱をかさねたので、時の陸奥守義家は真衡を援けて家衡一党を滅した。永保三年であ
る。
                    やかた    きよひら      つねきよ
 清原一族衰退の次にあらわれたのは、平泉館の始祖、藤原清衡である。清衡の父経清の遠い祖
                                     ひでさと
先をたずねると、結局鎌足まで行くのだが、奥州に住みついたのは俵藤太(藤原)秀郷の四代の
 かるきよ
裔軽清の頃と推定される。清衡の父経清は安倍一族と親しく、その妻は安倍頼時の娘、即ち貞
任、宗任とは義兄弟にあたる。清衡にとっては伯父になる。経清は安倍一族とともに前九年の役
に倒れたが、そのとき清衡はわずか二歳であったという。母に伴われて辛うじて戦禍を遁れた。
幼少の頃から苦労したわけだが、後二年の役の時(清衡二十六歳頃)は義家に対し臣従の礼を
とった。それで義家に親任され、清原一族に代って陸奥を支配することになったという。
      もとひら   ひでひら
9清衡の子は基衡、その子は秀衡即ち藤原三代で、平泉の建設者達である。しかし秀衡の子懿
衡に至って、文治五年源頼朝のため滅された。概観すれば平泉の歴史を形成する人物は、安倍一
族、清原一族、藤原一族で、前九年の役の始る永承六年からかぞえると、文治五年平泉壊滅ま
で、およそ百三十八年の歴史ということになる。(現在から八百九十九ー七百六十一年前)こ
の間、藤原三代九十年が最も栄華を極めた。
 ここで一言しておかねばならないのは、これら大豪族の領有した経済的地盤である。北上川流
域が奥州として豊饒の地であったことはむろんだが、当時珍重すべき物産が数々あった。砂金、
     あざらし
銀、馬匹、海豹皮、鷲羽、檀紙、絹布等が主要なものだが、とくに砂金が多量に採れたことの影
響は大きい。平泉の飛地文化を形成したこれが原動力と云ってもよい。奈良朝時代から有名で
あったことは、東大寺大仏造顕に献上したことでもわかるし、大伴家持の長歌またこの事実を示
している。平安期における旺んな造仏造寺にとっても、金銀は、必需品である。これらの物資は
貢物或は税として早くから京都へ送られていた。そして背後に活躍したのは民間の金商人達であ
る。彼らの手を通して、交換に京都の様々の文物が流れこんだことは想像に難くない。
                     もうまい
 安倍一族、清原一族は蝦夷の出ではあるが、蒙昧の域は脱していたとみなければならない。京
都公卿或は源家との混血も伴って、風雅の道は相当に心得ていたであろう。安倍頼時は束稲山に
桜樹}万本を植えた。貞任は周知のごとく、衣川の戦いで義家と歌のやりとりをしている。彼ら
豪族が富強を競った胸底には、二百四十里を離れた王朝文化に対する、燃ゆるがごとき憧憬が
あったに相違ない。
*
 東の物見を過ぎて奥へ入り、本坊の案内を乞うて更に奥へ進むと、正面のやや小高いところ
に、昔の大金堂の跡がみえる。この辺りは起伏にとみ、杉の大樹の他に、桜、樅、竹林などがあっ
て深山の感はいよいよ深い。大金堂を正面にして左方の、杉の巨木群の底に沈潜しているような
静寂で整った形をみせているのが即ち金色堂である。当時の建造として今に伝わるのは、この金
色堂と、背後にある経蔵だけで、平泉と云えば殆んどこの御堂だけを思い出すようになってい
る。
 しかし藤原三代に建立された寺舎には、我々の想像を絶するものがあったらしい。初代清衡は
          もうつ
中尊寺を、二代基衡は毛越寺を、三代秀衡は無量光院を、夫々造営したが、これらの規模結構は、
大体今日の宇治平等院を彷彿せしむるものがあったと云う。平安朝における最美の寺院であり、
二百四十里を隔てて王朝仏教の精華はここ墜歟に開花したのである。当時における三寺の状態
は、「吾妻鏡」巻九(文治五年九月+七日)に簡潔に述べられてある。頼朝の征討直後、当時の僧
侶衆徒が保護を求めて注申した記録である。それによると、大金堂北隣の二階大堂(大長寿院と
号す)のごとき、コ咼五丈。本尊。三丈。金色弥陀像。脇士九躰。同丈六也。」を安置したとある。
事実とすれば東大寺大仏に次ぐ巨像である。頼朝は之に傚って鎌倉大仏をつくったと伝えられて
いる。
 中尊寺は清衡が平泉の館を創設してから十年後の、長治二年頃から建立しはじめたらしい。完
成時には、寺塔四十余宇、禅坊三百余宇を数えた。清衡がこうした大寺院を建立したのは、必ず
しも京都の模倣だけではない。さきに述べたように、彼は幼少の頃からつぶさに人生の辛酸をな
め、父はじめ一族の死に遭った。前九年と後三年の二大戦乱における敵味方の戦没者を弔う心に
発したことは、経蔵に現存する天治三年の願文によって明白である。同時に戦後の平穏を念じ、
仏教による教化を志すところもあったであろう。前記「吾妻鏡」によれば、彼は白河関より津軽
 そとがはま
の外浜に至る二十余日の道筋に、一町ごとに笠卒都婆を立て、その面に金色の阿弥陀像を描き、
旅人の指標としたという。
             きかわらぶき
 金色堂は方三問、宝形造りの木瓦葺である。内外を漆で塗り堅め、その上に全部金箔を塗った
わけで、普通光り堂と呼ばれる。薄暗い杉の巨木群問に、これが光り輝いていたときの荘厳を思
                                  さやどう
うべきである。後に(鎌倉幕府の正応二年)保存のため、五間四方の外堂、即ち覆堂を建立し現在
につづいている。覆堂の内部に入ってみたが、金箔は殆んど剥落し、漆も所々白色を呈し、全体
が燻んで華麗の趣はない。建立当時ならば或は成金趣味を思わせたかもしれないが。
 正面が清衡壇、右が基衡壇、左が秀衡壇で、その下に遺骸が眠る。各壇上には、阿弥陀如来坐
像を中心に、観音勢至の二脇侍、多聞持国の二天、並に六躰の地蔵が夫々三壇に立ち、合計三十
三躰の仏像群が全部金色に輝いて安置されたわけである。私の訪れた時は、ちょうど学術調査団
の入山中で、三遺体は本坊でレントゲンをかけられていたらしい。壇上の諸仏は本尊一躯を除い
て、すべて近くの阿伽堂に移されてあった。暗い空洞のような内陣をみていると、天井に金色に
輝く螢火のようなものが見える。わずかに残った金箔がまさに剥げ落ちようとして外光に輝いて
いるのである。毎年春の湿気時には、こうして次々と剥落して行くそうである。
 阿伽堂で諸仏を拝観する。同じ藤原仏と云っても、三代の間には夫々;二十年の間隔がある。
たとえば六地蔵の風貌にその変化がうかがわれよう。清衡の代(天治期)の地蔵は、おそらく当
時最高の名品である。眠るがごとき童顔に、女性的な優美を宿し、実におおらかな感じをうける。
基衡の代(保元期)になると、そういう面影は失せて、眼を伏せ唇を堅く閉じ、いささかむっと
したお顔になる。更に秀衡の代(文治期)になると、これは意外なほど表情が凡庸で、頭でっか
ちで、とくに眼差に精彩がない。最初はおそらく京都で制作され、次第に仏師が平泉に来り、や
がて土地の人も学んで、三代目頃は平泉派とでも云うべき仏師の一団が発生したと推察される。
 金色堂は、清衡が死後の安住を夢みた一種の浄土であったろう。金色の内陣、金色の仏体、云
わば浄土荘厳を造型化したわけで、弥陀来迎図を臨終の枕辺に垂れて後世を念じた王朝貴人の風
に傚ったとも考えられる。彼は晩年に及んで、益ー信心深き人であった。「吾妻鏡」にも、「吾が
朝の延暦、園城、東大、興福等の寺より震旦の天台山に至るまで、寺毎に千僧を供養し、入滅の
年に臨みては、始め逆善を修し、百箇日結願之時に当り、一病無く、掌を合せ仏号を唱ひ、眠る
が如くに眼を閉ぢをはりぬ。」(原漢文)と記してある。
 しかし今度の旅で、私の最も感心したのは、経蔵にあった三代の写経であった。宋からとりよ
せた一切経を、一巻毎に写したもので、現在二千七百三十九巻を蔵しているそうだ。私の閲見し
たのは、清衡写経の「優婆塞戒経雑品之三」と、基衡写経の「大般若波羅密多経十六」の二巻で
ある。基衡経は紺地の紙に金字で写し、清衡経は一行毎に金字と銀字で写してある。とくに驚嘆
したのは、経巻の見返しに金銀で描かれた仏画であった。霊鷲山の説法図や来迎図を題材とした
ものだが、手法は当時の大和絵の様式と謂う。
 これはもう美しいとだけ云っていられるものではない。実に繊細優雅な筆致で、入念にこまご
まと描き出され、そこには沈静な息吹すら感ぜられる。深い信心のもつ誠実、尼僧のごとき清
浄、そしておのずからあらわれている無類の華やぎ、幾度見ても倦かず、立ち去るに忍びなかっ
た。三代の信仰は、造仏造寺よりむしろ写経に結晶していると云って過言であるまい。
 中尊寺に現存する国宝は約三千点という。往時の建造物は後醍醐天皇の建武二年、野火のため
悉く焼失、わずかに金色堂経蔵の二棟のみ残るが、山上に散在する後世の各堂内にはいずれも国
宝が充満している。芭蕉がここを訪れたのは元禄二年、旧暦五月十六七日頃であった。「奥の細
道」に次のごとく記す。
 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の
                      こがね
仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢と
なるべきを、四面新に囲んで甍を覆うて風雨を凌ぐ。
 五月雨のふりのこしてや光堂
しはし
暫時千載の記念とはなれり。
 実に簡潔だ。内部を拝観したかどうか疑わしい。経堂に三将の像をのこし、とあるのは芭蕉の
誤りである。美術史家でなかった彼は、仏像の鑑賞に煩わされることなく、ただ拝し、無量の思
いを残して去ったのであろう。しかし金色堂の状景は、この短い一節に尽くされていると云って
よい。
 金色堂の北一丁、関山の西北端に、嘉永六年(江戸末期)に造営された白山神社とその能舞台
がある。写経についで感心したのは、能舞台であった。野外に在るので明るく開放的だ。堅牢で
豪壮なすがたも実にいいが、位置がまたすばらしい。この位置と方角を選んだ人は詩人にちがい
ない。見物席などはまるで無視している。舞台正面に立つと、眼下断崖の彼方、衣川の古戦場が
一望のもとに眺められるのだ。私が能楽師なら一生に一度ここで舞うことを望むだろう。東の物
見からは衣川下流がよくみられたが、この能舞台と近くの西の物見からは、衣川の中流から上流
にかけて、遠くうねって流れるさまが望見出来る。衣川と云っても、今は幅二一二間の狭い川だ。
杉林や田畑を縫っているが、わずかに白く光るので川と気づくほどである。
 上流をたずねると、中尊寺関山の麓をめぐり、更に西方古の泉ヶ城址(秀衡の子忠衡の居城)
                            やかた
をめぐり、更にのびて西北の山間、烟霧の中に消える辺りが衣の館、即ち安倍貞任の居所跡にあ
たる。今はわずかの杉林と民家がみられるが、この辺り一帯から真向いの陣場山、或はその奥の
              さく
山岳地帯が戦場であった。衣川の柵を越えて行けば、白雪に蔽われた奥羽山脈の焼石岳に突き当
る。これを越えると出羽の国の金沢の柵址である。今の秋田県横手の北方に当る。更に西進すれ
ば日本海岸の鳥海山に辿りつくわけだが、鳥海の柵と、金沢の柵と、衣川の柵をつないだ線が、
当時の北方交通路であるとともに、安倍一族の活躍した舞台である。
*
 中尊寺の山を降り、もと来た道を西南へ十数丁引き返して毛越寺を訪れた。二代基衡の造営に
成る。ちょうど中尊寺関山につづく塔山の南側にあたり、太田川支流の流れる平原地帯である。
毛越寺は「吾妻鏡」によれば、完成当時堂塔四十余宇、禅房五百余宇と伝う。金堂を円隆寺と号
し、東西十六間、南北十四間.運慶作るところの丈六の薬師像を本尊として、同じく丈六の十二
神将を之に配したと記録されている。むろん今は跡形もない。嘉禄二年(鎌倉時代)と天正年間
(桃山時代)と、二度の火災で全堂宇消滅した。
 わずかに残るのは南大門の礎石だけである。周囲一間もあろうと思われる礎石だけが並んでい
る。その上に腰をおろしてみると、眼前に大泉池があり、まんなかに小さな島が残っている。そ
の向う側に円隆寺があったわけで、往時は池に十八間の反橋を架し、渡って金堂に詣でたといわ
れる。
 運慶が平泉まで来たかどうか不明だが、基衡と運慶との交渉が「吾妻鏡」に載っている。円隆
寺の仏像をつくるとき、基衡は運慶に依頼した。ところが運慶は上中下の三品を示して、どれに
するかとたずねたそうである。基衡は中品を依頼したと記してあるが、「吾妻鏡」の文面からは、
仏体に商品的等級を附しているような印象を受ける。
 これは謝礼の問題にも関連してくるが、基衡は中品を頼んで莫大な礼をとられたらしい。その
             あざらし           けふのほそぬの  ぬりぺ
目録に、「金百両、鷲羽百尻、水豹皮六十余枚、安達絹千疋、稀婦細布二千端、糠部の駿馬五十
        しのぶもちずり
匹、白布三千端、信夫地摺千端等、此の外山海の珍物を副ふ。」とある。三年の間、仏像完成ま
                           すずしのきぬ
でこれらの物資を平泉から京都へ運んだわけである。また別に生美絹を三艘の船に積んで送った
                     ねりぎぬ
という。運慶等仏師は内心大いに喜んだが、更に練絹の大切であることを冗談にほのめかした。
原文には「戯論」とあるが、物資豊富とみて更に吹きかけたらしい様子である。使者は直ちにこ
れを基衡に連絡すると、基衡は悔い驚き、改めて三艘の船に練絹を積んで送ったそうである。
 以上すべて「吾妻鏡」に記載するところだが、読んでいると、基衡は運慶一派にとって、実に
手頃のカモであったような印象をうける。基衡は金持の田舎文化人扱いされ、しこたま物資を請
求されたのではあるまいか。そんな想像が湧いてくる。同時に運慶は仏師界における大ボスで
あったような気がしてならない。ところが、出来上った本尊は無比の傑作であった。京都で之を
叡覧した鳥羽法皇は、驚嘆のあまり洛外に運ぶのを許さなかったという。基衡はこれを聞いて
マ心神失・度」。持仏堂にこもり、七日間水漿を断じて、九条関白に愁訴し、漸く平泉まで運び来
ることが出来たと伝えられている。どこまでが事実かわからぬが、この個所を読んでいると、基
衡の性格がおぼろげながら想像されるようだ。父の清衡は辛酸の人生に処し、深き信心に達した
が、基衡はその遺風を継ぎつつ、しかも二代目らしい無類の好人物として印象されるのである。
*
 藤原一族の栄華権勢が絶頂に達したのは、三代秀衡の時代である。平泉を完成したのは彼であ
る。基衡は保元二年歿し、後を継いだ秀衡は、十二年後の嘉応二年鎮守府将軍に任ぜられ、名実
ともに奥羽を支配した。生涯の事跡をみると、仏教信心はもとより、度量のひろい英風ある人物
であったらしい。中尊寺の閑山、金鶏山を背景として東面、北上川を隔てて束稲山を望見すると
            からの
ころに造営したのが、当時伽羅御所とよばれた彼の館である。北隣に猫間池を隔てて、義経を庇
   たかだち
護した高館という急坂の丘陵を控えている。清衡の館たる柳の御所、二の丸がそれをめぐって
あった。伽羅御所の南隣は次男泰衡の館、この一画の背後に建立されたのが即ち無量光院であ
る。
 無量光院は宇治平等院を直接模したもので、ほぼ同様の結構であったことが「吾妻鏡」にみえ
る。堂内四壁の扉には観無量寿経の大意を絵画で示し、秀衡自身狩猟の躰を描いたと伝えられ
る。丈六の阿弥陀仏を本尊とし、三重の宝塔を建て、三十三間堂を造営した。中尊寺、毛越寺等、
父祖の遺業を完成したのはむろんである。無量光院等の寺舎はもとより、平泉の館の全部は、後
に泰衡が頼朝の追討に遭って敗走する際、火を放って悉く焼失せしめた。したがって現在遺物と
して伝わるものは一つもない。
芭蕉が平泉を訪れたのは、秀衡歿後からおよそ五百年後の、元禄二年(四+六歳)であること
は前に記した。彼がどういう道順で平泉に至り、何から見はじめたかを、「奥の細道」によって
辿ってみよう。芭蕉は旧暦五月十一日、松島の瑞巌寺に詣で、翌十二日平泉へ心ざしたが途中で
道に迷ったらしい。現在の小牛田から一の関に通ずる道を知らず、石巻の湊へ出てしまった。こ
                               といま   とめ
こで一泊し、翌士二日、迷いながら北上川の堤に沿うて北進、十四日戸伊摩(現在の登米)に宿
をかり、十五日、北上川沿いにおよそ二十里の道を踏んで平泉に達したようである。平泉旧跡の
訪問は、おそらく十六七日頃ではなかったかと思われる。
 三代の栄耀一睡の中にして、大門のあとは一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金
           たかだち
鶏山のみ形を残す。先づ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を
めぐりて、高館の下にて大河に落入る。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、
夷を防ぐと見えたり。偖も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河
                             なみだ
あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
 夏草や兵どもが夢の跡
 つづいて先に引用した光堂の記がある。簡潔無比、今日実際とてらしあわせて、要を得ている
のに驚いた。芭蕉はまず毛越寺の南大門址を通ったのであろう。「大門のあと」はこれ以外にな
い。それから高館に登ったわけだが、この間の道筋は秀衡等の館、寺舎の跡である。現在も田野
あるいは宅地となり、無量光院の址には一条の鉄路が東北へのびている。芭蕉が第一に高館に
登ったことは、彼の歴史と風景に対する造詣を語るものと云える。高館は平泉のほぼ中央に位置
する丘陵で、附近の地勢風景が俯瞰出来るのみならず、ここは義経の最期を遂げた所、平泉史を
あわれ深く色どる物語の中心地である。私は毛越寺から再び引返して登ってみた。
 頂上には方一間ばかりの義経堂があるのみ。天和三年(徳川綱吉の時代)の造営だが、破損は甚
しい。北上川の流れも、昔と今とでは相当の変化があるそうだ。秀衡の頃は高館の東およそ十丁
の、束稲山の裾を縫って流れていた。現在は高館側に流れを変え、この丘陵を侵蝕しているた
め、高館の北東面は数丈の断崖となり、真下に北上川が望まれるわけである。往時の高館のおも
かげはない。そして柳の御所も、二の丸も、弁慶屋敷も、すでに河底に沈んでいる。
 中尊寺の東西の物見はほぼ北方に限られたが、ここからは東西南北が望見出来る。中尊寺関
山、つづく塔山金鶏山等を背とし、これら群山の周辺に三代の遺蹟がくりひろげられていること
がわかる。更にこの外郭を囲むように、山の北側を流れるのが衣川、南側を流れるのは太田川、
ともに北上川にそそぎ、三川合して、自然の堀のように平泉全体を包む。東北方、北上川上流に
衣が関址がみえる。高館、秀衡、泰衡の館は、芭蕉の指摘したように、これと隔てて一の城塞を
形成しているわけだ。そして館の真正面、東方に束稲山がそびえ、春には頼時の植えた一万本の
桜花を眺めながら、猫間池に竜頭極彩色の舟を浮べ、管絃奏して遊楽したと伝えられる。しかし
後世の山火のため、束稲山の桜樹はすでになく、猫問池もない。
*
 秀衡の治世期間は三十年(保元三年基衡の後を継いでより文治三年歿まで)と考えられるが、
晩年になって、平泉は異様の気配を漂わせる。藤原最盛期であるとともに、没落の序曲が始るわ
けだ。このとき秀衡をめぐって、史上有名な二大人物が登場する。一人は義経であり、一人は西
行である。両者ともに秀衡との関係は深い。
 西行は前後二回、平泉を訪れている。最初は康治二年の頃(二+六歳)と推定され、平泉は基
衡の代であり、秀衡は少年期から青年期に入る年配であったと思われる。西行は鎮守府将軍俵藤
太秀郷より九代の裔で、即ち藤原三代とは同族であり、奥州御館系図にも彼の名は記載してあ
る。最初の旅の詳細はわからぬ。「山家集」の中に、「陸鄭毆にて、年の暮によめる」として、
「常よりも心ぼそくそ思ほゆる旅の空にて年の暮れぬる」という一首、また束稲山の桜を見て、
「聞きもせずたわしね山の桜花吉野のほかにかかるべしとは」、「奥になほ人見ぬ花の散らぬあれ
や尋ねを入らむ山ほととぎす」の二首、どれも平凡だが、青年期の作であろうか。
 第二回の旅は文治二年(六+九歳)で、これは「吾妻鏡」巻六によって明白である。伊勢より
東海道を経て、途中鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮の境内を徘徊しているところを幕臣に発見さ
れ、頼朝に引見された。「歌道並弓馬事」に就いて問答したという有名な話がある。文治二年八
月十五日の事として、「吾妻鏡」に比較的詳しく載っている。頼朝は敬意を以て遇し、帰りには
「銀作ノ猫」を贈物としたが、西行は門外に遊ぶ子供に、これを無造作に与えたという話も当時
のことだ。十六日鎌倉を発し、奥州に向ったが、この旅の目的は「東大寺料為レ勧二進沙金ご(吾
妻鏡)としてある。
 平泉に着いたのはおそらく同年十月十二日であろうと推定される。「山家集」に、「十月十二
日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく殊の外に荒れたりけり。いつしか衣川見ま
    まか
ほしくて罷り向ひて見けり。川の岸につきて、衣川の城しまはしたる事柄やう(様子)かはりて
          なぎさ      さ
物を見る心ちしけり。汀こほりてとり分き冴えければ」と前置きして、「とりわきて心もしみて
冴えぞわたる衣川見に来たる今日しも」の一首がある。西行が衣川に面して何を思いめぐらした
かわからぬが、史をみると、この時平泉には異様の暗雲がさしかかっていたことがわかる。
 平家が壇の浦に壊滅したのは寿永四年三月である。この戦いに最も功あったのは云うまでもな
く義経だが、兄頼朝との確執はすでに深く、同年九月には義経は追討される身となっている。十
一月、義経は西国に遁れようとして海上風浪に逢い、一党四散、彼は吉野山、多武峰と遁れる。
翌文治二年、伊勢、美濃等をさまよい、少数の家来妻女すべて山伏姿に身を変じ、安宅の関を通
り、北方から平泉に辿り着いたのは、おそらく文治三年二月以前であったろう。二月には平泉遁
入のことが鎌倉に情報されているから、前年暮には既に達していたかもしれぬ。そうだとすれば
西行とほぼ同時期、少くとも滞在中に秀衡に身を寄せたことになる。西行と義経が会ったかどう
かわからぬ。いずれにせよ頼朝の性格、経歴を知る西行は、源家の宿命的な血族相剋の悲劇を見
ぬいていた筈だ。「物を見る心ち」とは、来るべき悲劇の予感ではなかったろうか。義経の壊滅
はやがて彼の同胞藤原の壊滅である。必至の宿命の前に、「とりわきて心もしみて冴えぞわたる」
の一句があったのではなかろうか。
 秀衡と義経との関係は更に深い。義経が鞍馬寺を脱して平泉に辿りついたのは承安四年(+六
歳)。秀衡は時に鎮守府将軍として隆盛の絶頂にあったが、祖父清衡が源義家に臣従した伝統の
ままに、義経を厚く遇した。「源平盛衰記」巻の三はこの間の物語である。源氏が以仁王の令旨
を奉じて一斉に挙兵したのは、それから六年後の治承四年だが、義経、頼朝の会見は同年十月で
あった。これより先、平泉を脱したわけだが、秀衡は強く諫止したと伝えられる。秀衡の意中は、
この時から義経をして奥羽の統領たらしめることにあったらしい。
 義経の性格と教養を形成する上に、秀衡並びに平泉文化は大きな役割を果したであろう。彼の
敏捷果敢な戦法は、奥羽山岳戦の伝統を継ぐ。瀟洒とも云える垢ぬけした態度は、平泉の王朝風
を継いだと云えよう。彼には平家公達のような面影があった。この点、木曾山中に育つた義仲と
は対蹠的である。しかし両者ともに、青春の功名をめざして生育の地を去った。それから十余年
後、義仲は義経軍に追われて粟津の原に歿し、義経は頼朝に追われて敗残の身を奥州に遁れたの
である。「朝にかはり夕に変ずる世間の不定こそ哀なれ」と平家物語は語る。
 しかし秀衡は今度も義経を快く迎えた。あたかも王者の待遇を与えたことは、平泉第一の要害
であり景勝の地たる高館に、その居所を造営したことでもわかるであろう。北に隣接して弁慶屋
敷や従臣屋敷を設け、秀衡は後事を託した感がある。不幸なことに、秀衡は文治三年十月病歿し
た。後を継いだのは次男泰衡であるが、臨終に及んで秀衡は泰衡はじめ一族を招き、義経を推戴
することを誓わしめたと伝う。「源平盛衰記」巻の十二はこの間の物語である。元来、奥羽藤原
氏の富強は頼朝の常に心労したところで、平家滅亡後最大の障碍となっていた。秀衡が義経を隠
匿したことは、この事情を更に険しくしたであろう。秀衡歿後、直ちに義経追討の宣旨と幕命を
泰衡に送ったのである。これは執拗にくりかえされたらしい。
 文治五年四月三十日、泰衡は幕命の圧迫に堪えかね、父の遺命に背いて、折から衣川の館に滞
在中の義経を襲撃した。義経はわずかの手兵を率い、数百騎の泰衡勢と戦ったが破れ、持仏堂に
入り、まず妻(二+二歳)、子(女子四歳)を刺し、次で自殺したと「吾妻鏡」は記している。泰
衡の弟忠衡は父命を守り、義経に味方し奮戦したが、兄の刃に倒れた。現在金色堂の泰衡遺体の
側にある首級がそれである。「時のうつるまで泪を落し侍りぬ」と記し、また「夏草や兵どもが
夢の跡」の一句には、義経に対する芭蕉の痛切な悼みがあったであろう。
 泰衡が義経の首級を鎌倉の頼朝に致したのは、同年五月二十二日であった。しかし奥州完全征
圧の頼朝の根本方針は変らぬ。同七月十九日、頼朝自ら千騎を具して泰衡追討のため鎌倉を出発
                       おうくま
した。先発の諸軍はすでに太平洋沿岸側(岩城岩崎、逢隈河湊等を廻る)と、日本海岸側(念珠ケ
関を廻る)から進み、頼朝は中央白河関を目ざし、総勢二万と伝う。 一方泰衡軍は第一陣地を河
                        おうくま
津賀志山(岩代伊達郡)に築き、同山と国見宿の中間に逢隈川の水を貯え、東海道軍に当り、別
軍は出羽に向って北陸軍に対した。平泉史上最大の攻防戦が展開されたのである。
 頼朝の果敢な進撃は、九十年の泰平になれた泰衡をわずか一ヵ月で敗走せしめた。平泉を占拠
したのは八月二十日である。追撃があまりに急であったため、泰衡は居所へ立ち寄るひまもな
かったという。直ちに火を放ち、三代の栄耀を一瞬にして灰燼に帰せしめたのはこの時である。
彼はまもなく、家臣河田次郎に背かれ殺害された。当時中尊寺と毛越寺はたすかったわけで、頼
朝ほその荘厳にうたれ、厚い保護を加えたことが「吾妻鏡」にみえる。同十月二十四日、頼朝は
                          しようけつ
鎌倉に凱旋している。翌年泰衡の残党大河兼任が挙兵、一時猖獗を逞うしたが、問もなく衣川に
敗れ、奥羽全く平定したのは文治六年(建久元年)二月十二日と伝えられる。同月十六日、西行
           にゆうじやく
は、河内国石川郡弘川寺で入寂した。西行がいつ頃平泉から姿を消したかはわからない。

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