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亀井勝一郎「吉野の山」


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 吉野を訪れたのは四月なかばすぎである。今年の花は例年より十日ほど早く開いたそうで、私
の行った頃は、下千本と中千本はすでに散り、上千本にいくらか残花をとどめる程度であった。
やや遅かったわけだが、何しろ満開の時は十万の人が出たというので、おそれをなしたのであ
る。しかし残花を追う遊覧客はまだ絶えなかった。酔漢も多い。現代の花見気分は一応味い得ら
れたのである。
 夕方近く、宿に着いたが、谷あいに霧が深くたちこめてきて、何ものも見えぬ。欄に寄って霧
                                      ほら
を眺めていた。三年前の初夏、ここを訪れたときも霧が深く、その霧の中から山伏の法螺貝を聞
いたことがある。桜がすぎて、ほととぎすの鳴きはじめる頃から、山伏の姿がぽつぽつあらわれ
るという。今は茶店の拡声器から「銀座のカンカン娘」がしきりに響いてくる。風流も変ってき
たものだ。吉野山と云えばまず花に浮かれ、南朝の遺跡を巡る、というのが定石で、私もこの定
石を出ないのだが、もうすこし吉野の山を究めたいと思ってやって来たのだ。霧の底にはどんな
歴史がひそんでいるか。
                                      みゆき
 花見というものは、もと宮廷の行事である。平安朝の嵯峨天皇弘仁三年、神泉苑に幸して、花
の下に宴をひらいたのが始りということになっている。即ち「花の宴」である。.吉野山について
云えば、文禄三年春、豊臣秀吉が家康以下近千人の家臣をひきつれて観桜したことが太閤記にみ
                              いわゆる
える。北野茶会にならぶ豪華な饗宴であったらしい。しかし今日の所謂花見が、一般庶民の間に
まで普及して、集団的に押しかけるようになったのは江戸時代も中頃以後だそうである。文人墨
客の往来がはげしくなったのもこの頃からである。歴史は浅いが、そのもてはやされ方は大変な
もので、富十山とともに、吉野の桜ほど手垢にまみれた風景はあるまい。そしてやたらに歌われ
はじめた。古来どれほどの駄句がここで濫発されたかを考えてみるのも面白い。
 今度の旅では奈良の前川氏、田原本の鍵岡氏の案内を頂いたが、吉野山に入る前に、飯貝の尾ド
                            たにし
上家に暫く足をとどめた。尾上氏は界隈の旧家で、その住居を田螺庵と呼ぶ。先祖の残した江戸
時代の吉野山絵巻や、頼山陽、富岡鉄斎のここに遊んだ折の色紙、軸などみせて頂いたが、その
中に正岡子規筆の額があった。江戸から明治にいたるまでの、吉野桜を吟じた代表的俳句二十ほ
どを選択したものだが、それを一読して、おそろしくまずいのに驚いた。あとで明治末に発行さ
れた吉野案内をみると、ここにも古来の和歌俳句が名所とともに再録されてあって、歌人俳人か
ら公卿武将まで並んでいるが、みな月並だ。これはどういうことだろう。少くとも吉野の桜を
歌ったかぎりでは、名歌名句など一つもないのではないか。私はそういう感想をいだくに至った
のである。
 どうも吉野の桜という奴は曲者らしい。満山満開の花に接すると、人間の心は浮かれて散漫に
なるのかもしれない。或は名句をひねってやろうと思っているうちに、花に酔い、酒に酔い、人
に酔い、みな酔漢になって歌い棄てるのだろうか。乃至は吉野の花は一つの型になってしまった
のか。花見に出かける人間は、まず大抵月並なことになってしまうようだ。ところで、この月並
の底に徹して、やぶれかぶれになったあげく、有名な一句を残した人がある。貞室である。

  これはこれはとばかり花の吉野山

 貞室は大酩酊したらしい。やけくそを起したらしい。この気持を知っていたのは芭蕉である。
「吉野の花に三日とどまりて、曙黄昏のけしきに向ひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり
胸にみちて、あるは摂政公のながめに奪はれ、西行の枝折に迷ひ、かの貞室が是は是はと打ちな
ぐりたるに、我いはん言葉もなくて、いたづらに口を閉ぢたる、いと口をし。思ひ立ちたる風流
いかめしく侍れども、爰に至りて無興の事なり。」(笈の小文)と記しているが、貞室の句を、「打
ちなぐりたる」と評したところが面白い。芭蕉の吉野吟遊は、「野ざらし紀行」「笈の小文」にみ
えるが、満山満開をまっこうから吟じた句は一つもない。「吉野にて桜見せうそ檜笠」「花さかり
山は日ころの朝ぼらけ」の二句が挙げられるかもしれないが、少しずらしてあって、しかも軽い
発想である。桜に向って頑張ると、貞室のようになることを芭蕉は知っていたと見える。
                       ふんぷん
 私は以前貞室のこの句を軽蔑していたものだ。俗臭芬々の通俗俳句と思っていたが、これは私
が吉野桜を知らず、酔漢でなく、文筆の苦吟も味っていなかったためらしい。貞室は大いに風流
いかめしく臨んで、あれこれ思案したにちがいないが、そのうち思いあまって、大通俗の裡に
ひっくりかえってしまった。芭蕉はさすがに苦労入だ。月並ということは大切である。道に分け
入るものの、一度は払わねばならぬ贅沢税のごときものだろう。名所なるものは大抵俗化してい
るが、まず俗に入らねばならぬ。吉野の花を訪うものも、月並から始めてよい。奈良へ行ったら
まず大仏という風に。
 吉野山は不思議な山で、浮かれているうちに妙な悲哀を宿す。何となく気にかかるように出来
ているのが南朝悲史である。花にひかれて奥へ奥.へとすすむうちに、更に奥へ誘惑するような力
を持っている。これは西行のおかげである。吉野の歴史は複雑だ。私は学問がないので、こうい
う古典の地へ来るときはいつも俄か勉強するのだが、.史書歌書を読むにつれて心細くなる。私は
足のゆるすかぎり歩いてみようと思った。しかし霧を眺めながら、まず酔漢になることにした。
*
 吉野の花見は前記のように江戸時代からだが、これは家康が修験道者(所謂山伏)の勢力を弾
圧したことが大きな原因になっている。奈良県の地図をみるとわかるが、その七割は山岳地帯で
ある。しかも峰々や谷あいの間道が縦横に走り、ここへ入ったら最後、容易に発見されないこと
が了知される。古来、政治的亡命者、陰謀者など、遁入した例は少くない。謀反入にはもってこ
                 すこぶ
いの巣窟である。山賊も横行していて、頗る物騒な場所であったのだ。実勢力を握っていたのは
むろん山伏達で、修験道を無視して、ほんとうはこの山を語ることは出来ない。
           えんのおずの  うばそく
 天武天皇の白鳳三年、役小角(又は役優婆塞)即ち役の行者が、吉野奥の大峰山(山上ケ岳)
に修験道を創始したと伝えられる。行者の出生は明らかではないが、「日本霊異記」には大和葛
木上郡・茅原村の人とある。「続日本紀」の文武紀にも、奇異の験術を用い、人心を惑わすもの
として追捕令の出たことがみえる。唐まで遁れたともいう。壬申の乱後であり、世相不安の時代
であるから、志を得ぬ皇族あるいは僧か帰化人が、この山岳地帯に遁入して、新風を創始したの
かもしれない。飛鳥京の宮廷仏教とは異った道で、当時これは一種の反逆ではなかったかと想像
される。ともかく時世を慨した人の荒行である。奈良朝にみられる人心混迷の煽動力ともなった
であろう。
 現在の吉野山から、更に南の山岳地帯を六里よじ登って行かなければ、大峰山に到達出来な
い。標高千七百二十米。いまでも本堂はここにあるわけで、修験道は細々ながらつづいている。
しかし私は六里の山道など閉口である。それにむずかしく云えば、吉野は裏道にあたるそうで、
本筋は熊野から入るのだそうで、これは更に容易ならざる峻嶮だ。花見の余暇などに出来るもの
ではない。修験道を信じるか、謀反を起すかだ。昔でも大変な道中であったらしく、後に現在の
蔵王堂を建て、多くの参詣者はここで足をとどめたという。
 山伏について私は知るところ殆んどない。吉水院には国宝の役行者木像があるが、まことに奇
怪なものだ。弁慶の有名な山伏姿は、江戸時代に整えられた近世風であり、歌舞伎によって更に
美化されたものだが、上古はああいう姿とは全然ちがう。断崖絶壁で鍛えた荒々しい肉体を、よ
れよれの衣服でつつみ、右手に錫杖、左手に最多角念珠をもち、頭は蓬髪、鬚はのび放題、脛を
まる出し、素足に高足駄をはいた、野蛮きわまる風態だ。行者の木彫を見ていても、虱などいる
のではあるまいかと思われるほどだ。同時代の京の僧形に比べてみると面白い。
                  ふんぬ
 信仰の本尊は金剛蔵王権現で、これまた忿怒の相である。役行者が大峰山上に念じていたと
        ゆうしゆつ
き、最初地蔵菩薩が湧出したが、優しい顔だったので落第したとある。悪世には憤怒を以て戦え。
これが行者の信念であったらしい。よほど憤り深かった人の荒行であったにちがいない。北畠親
房の「神皇正統記」を読んで、行者のこの忿怒と気骨を感じた。親房の性格にもよるだろうが、
吉野朝の公卿の中では、彼は修験者の風をそなえためずらしい人物と云ってよい。
 ところで役行者の流れは、平安朝鎌倉と時経るにつれて強力なものになって行ったらしい。出
羽の羽黒山まで勢力伸張し、諸国を往来する山伏は六万に及んだという。大峰から吉野山にかけ
て建立された寺社、諸坊等は名の伝わるだけでも百三十五ある。その中で補修或は復興されて今
に残る主なものが、蔵王堂、吉水院、竹林院、如意輪寺等である。時代はまちまちだが、修験道
の総本山であったことは明白である。とくに山伏独特の健脚は、畿内から関東奥羽の連絡に様々
の役割を果したらしい。義経が吉野に潜伏し、山伏姿に変装して奥州平泉へ遁走しえたのは、彼
らの庇護によるであろう。吉野を脱して伊勢に入り(おそらく名張を越えたと思われる)、美濃
を経、安宅関を通り、北方から平泉に達した道順は、山伏の通路とみてよい。
 南朝がこんな山中に五十余年の命脈を保ったのも、山伏を除外しては考えられぬ。彼らは一面
において僧兵の役割を果し、他方政治力、経済力ともなったであろう。食糧はどうであったか。
この点心配で調べてみたが、東方伊勢に出て志摩の港に通ずれば、ここは当時海賊の根拠地で、
東海四国と連絡が出来た。西方河内を通しては瀬戸内海に達する。海上権の争奪戦は、南北朝史
の重要な一面であったという。ここで詳しく語りえないが、元来南北朝半世紀にわたる混乱ほど
要領を得ないものはない。鎌倉幕府崩壊後の、長期の無政府状態と云うべきであろうか。後醍醐
帝は明確な理想、即ち王政復古をめざされたわけだが、これに応じて動いた南北朝の武家達は、
各ー勝手に勅命宣旨を戴いて、実際には一種の戦国時代を現出した感がある。そして彼らの実力
及び心理に、公卿がいかに通じていなかったかがわかる。
「神皇正統記」の後醍醐紀をみても、武家の論功位階決定にいかに手をやいているか。親房卿は
憤慨するばかりで、手がつけられなかったらしい。武家としての正成が、帝と足利尊氏との講和
         いつしゆう
を進言して公卿から一蹴されたことは致命的であった(「梅松論」)。公卿連は、王朝の盛時を回顧
して、事毎に嘆き憤っているが、実際政治には無能なのである。南朝遺蹟を巡ると、この間に処
せられた後醍醐天皇の孤独が痛感される。
 吉水院には後醍醐帝の御座所がある。義経潜伏の問も残っている。双方をみれば、この山に潜
入してきた人の心境風態がわかるような気がする。寺院のおそろしく陰気くさい部屋だ。いかに
も落魄して隠れるといった場所で、花の中にありながら、まるで花を感じさせない。ここに居た
ら必ず没落する。さすがに後醍醐帝は金輪王寺(現在の南朝宮跡)に移られ、谷に南面せる明る
                             えいよう
い御所を造営されたが、いよいよ思い出すのは過去の宮廷生活の栄耀であったらしい。公卿達の
憂鬱と感傷と愚痴も察せられる。侍従吉房朝臣の「吉野拾遺」をみれば明らかだ。この人は後醍
醐帝崩御後出家したが、先帝の思い出を綿々と綴ったのがこの本である。吉野朝の悲しさはこの
拾遺にきわまる。
 親房とは反対の女性的な人であったらしい。それだけに文学趣味の叙述も多く、当時の山中生
活の状景がこまごまと写されている。やたらに化物が出てきて面白い。燈火の乏しい時代の夜の
吉野は、まさに鬼気迫るものがあったであろう。闇の中から突然大男の山伏が出てきたり、女の
叫ぶ声が谷間から谷間へこだましたり、そういう実状から妖怪変化譚が生れるのは当然である。
今では夜中の吉野山などうろつくものずきもいまいが、とにかく恐ろしい山であったのだ。桃山
末期までこの状態はつづき、家康が取締ったことは前述したが、そのときの禁制をみても、「諸
軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、武家牢人寄宿之事」等が戒められてあって、物騒であったことが想像
出来る。
*
 こういう山中へ単独で入りこむのは、よほどの豪傑にちがいない。吉野朝をさる百三四十年
前、西行はこの奥に三年修業したと伝えられる。六十九歳で奥羽まで歩いて行ったような逞しい
人であるから、腕力も相当であったろう。しかも花を求めてきたのだから、よほど変った人と思
われたかもしれぬ。周知のごとく、西行には吉野桜を詠じたものが多い。「山家集」「聞書集」
を通して、私の気づいただけでも一二十首あった。しかし後代の花見とはちがう。いや当時として
も実にめずらしく、ぽつんと一人だけ離れて、まことに独創的な花見をした人として印象される
のである。「独り山の花を尋ぬといふ事を」と前書した十一首であるが、この前書は吉野の花を
歌ったすべてに附していいのではあるまいか。

 誰かまた花を尋ねて吉野山苔ふみわくる岩伝ふらむ
 吉野山雲をはかりに尋ね入りて心にかけし花を見るかな
 おもひやる心や花に行かざらむ霞こめたる三吉野の山
 おしなべて花の盛りになりにけり山の端ごとにかゝる白雲
 吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはずなりにき
 吉野山ひとむら見ゆる白雲は咲きおくれたる桜なるべし
 花の色の雪のみ山にかよへばや深き吉野の奥へ入らるる
 谷の間も峰のつゾきも吉野山花ゆゑ踏まぬ岩根あらじな
 ときはなる花もやあると吉野山奥なく入りてなほたつねみむ
 吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬ方の花をたつねむ
 吉野山奥をもわれぞ知りぬべき花ゆゑ深く入りならひつゝ
 私の好きな歌十一首選んでみたが、所謂秀歌と云、ったものは一つもない。近世以降の吉野桜に
まつわる歴史的感傷性も技法の人工臭もまるでない。西行は秀歌を作ろうなどという意識をもた
なかった入だ。即興的に歌い棄てたものだが、次々読んで行くと、所謂花見の歌とは似て甚だ
異ったものが感ぜられる。何かもの狂おしい印象を与えられる。彼は何故こんなに奥へ奥へと誘
われたのか。今の下千本中千本でなく、少くとも上千本より奥千本、更にもっと奥の、人跡稀れ
なところだけが好んで歌われている。そういう誘いについて、自問自答しているような歌もあ
る。ここに出てくる「花」という言葉を、全部「孤独」という言葉におき代えてみたらどうだろ
う。
 時に浮かれているようにみえる歌にすら、何か身を捨ててかかっているところがある。死なば
死ねとだに存ずれば何事も大事なしと云った覚悟が心底にあって、花に身を託した感がある。花
見かもしれぬが、また妙ないい方だが、これは死見とも云える。「願はくは花の下にて春死なん」
                    ようえい
といった時の死の予感が、孤独者の菩提希求が揺曳して、心花にあるのか雲にあるのか、むしろ
生死の空に流転していると云った風で、こんな花見は彼以前にも以後にもなかったようだ。秀作
                                        ほうげ
意識の毛頭ない点もここから了解されよう。平安朝以来の多くの歌僧は、僧である故に一切放下
を念じたのは当然だが、歌人としては技法に執し、虚栄に執し、秀歌を競った。ただ西行のみ、
歌においても放下の念を持しえたのではなかろうか。深く哀しい無心がそこにある。
 こういう歌は今の吉野山とは無縁である。花の影に死を思わせるような歌は誤解されて流布す
るだけだ。近来の花見の型から脱却するのは容易でない。花見案内に広告されている所以だ。し
かし、誤解も時には必要で、西行にひかれてともかく奥を辿る気にはなる。下千本中千本でたと
い酔漢になっても、上千本から奥へと志す殊勝の念は起すのだ。
                             みくまり
 町の賑いを遁れて、かなり嶮しい山道を十五六町登ったところに水分神社がある。この神社の
入口あたりに立ったとき、私はやっと吉野山へ来たように感じた。上千本のつきる辺りである。
どれほどの高さであろうか。眼下一望のもとに眺められるのは、下千本中千本から吉野群峰の全
                 しこ
体である。蔵王堂も如意輪堂も小さく指呼の間にみえる。幾重もの連峰の彼方に、薄く横わって
いるのが葛木山、更にかすかながら二上山も眺められる.、その間に白く光る一条の流れは吉野川
の流れであろう。
 私がここに立ったのは、宿に一泊した翌日の夕方であった。それまで何をしていたかという
と、実は何もしていなかったのである。前夜は多少酔漢になったが、隣室には数名の大酔漢がい
て、深更まであらゆる流行歌を歌い、それもタネ尽きて、ついに御詠歌となり、念仏を唱え、最
後にハトポッポを歌って静かになったのは、午前二時頃であったろうか。寝不足と春のけだるさ
で、如意輪堂や塔尾陵を巡ってみたが、なかば上の空であった。谷間から谷問へ木霊するのは相
変らず「銀座のカンカン娘」である。夕方近く遊覧客の帰る頃、逆に上千本から奥へ向ったわけ
だが、花時の吉野は、この辺りの、それも夕暮の時刻にかぎるようである。
 水分神社はいつの創建かわからぬが、現在の社殿は慶長三年秀吉の復興せるものと云う。私は
神社にはさほど興味をもたないが、桃山造りのこの社殿はめずらしかった。場所もいい。本殿、
拝殿、幣殿、楼門が連結したままきちんと四角にまとまって、中庭(境内)をつつんでいる。周
囲は鬱蒼たる杉の大樹である。中庭は狭いので薄暗い。そのまん中に満開の桜が一本、目にしみ
いるような鮮かさで咲いていた。あまり白く華麗で造花のようだ。水分神社は子守の宮とも云っ
て、子授けやお産に関係があり、本居宣長はここの申子だと伝えられている。
 楼門を入って左手の、拝殿の一隅を何げなく見ると、そこに西行の像があった。奥千本の西行
庵に安置されていた像だか、あまりにぞんざいにされるので、近年ここへ移したという。高さ三
                                      じゆんぼく
尺ほどの坐像である。塵と泥にまみれて黒ずんでいる。容貌骨格が頗る逞しく、しかも醇朴な百
姓親爺といった親しみもあって、なかなかいい。一種の民芸と云っていい。肖像として美術史家
にかえりみられるほどのものではなかろうが、私には大変感じが好かった。
 像の裏面をみると、願主は江戸南鍛冶町の大井八右衛門定恒、細工人は益田慶運、天明五年春
とある。大井定恒がいかなる人か不明だが、江戸でつくらせて、わざわざ吉野の奥まで運んだわ
けである。よほど西行に傾倒した人であろう。作者の慶運もむろん無名の彫刻師である。運慶を
さかさまにして慶運と号したわけだが、この人は西行の像を頼まれて、きっとはにかんだのであ
ろう。殆んど気づかれぬようなユーモアがそこにある。それが像の無邪気さにもあらわれてい
る。ここへ来て、こんな無名な彫刻師の西行像に会うのはたのしい。
 西行庵は水分神社から更に十六七町の山道を辿らねばならぬ。西行庵と云っても、むろん江戸
期につくられたささやかな記念堂にすぎない。吉野山の風趣は上千本から、この奥千本にあると
云ってよい。そして西行の歌にもあるように、雲霞が絶えない。吉野の花は有名だが、実は峰々
に去来する浮雲、谷あいにたちこめてくる霧、これは見のがしえぬ吉野山風景である。例によっ
て芭蕉はこの辺りを数行で完全に描き出してしまった。さきに平泉を訪ねて、そこでも芭蕉の俳
文と句に感心したが、どう思案しても第二芸術にはとてもかなわぬと痛感した。
 独り吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く白雲峰に重なり、煙雨谷を埋んで、山賤の家所
所にちひさく、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声心の底にこたふ。昔より此の山に入り
て世を忘れたる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや睡五の廬山といはむも亦むべなら
ずや。
  ある坊に一夜をかりて、
 きぬた
 碪打つて我に聞かせよや坊が妻
                  かた
 西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町ばかり分け入るほど、柴人の通ふ道のみわづ
かに有りて嶮しき谷を隔てたる、いとたふとし。かのとくとくの清水は昔にかはらずと見えて、
今もとぐとくと雫落ちける。
 露とくとくこころみに浮世すすがばや
                                 (野ざらし紀行)
*
 西行から芭蕉たち旅人の足跡を辿り、吉野朝の遺址をたずね、修験道を調べ、花見の歴史をさ
ぐる、これだけでも大変だが、更にさかのぼって上代(飛鳥朝から奈良朝)の遺蹟や歌枕を巡ろ
うとすれば、方向を変えねばならぬ。吉野山と吉野の山とは元来ちがうそうである。万葉集には
「吉野山」という固有名詞は一つもない。すべて「みよしの」或は「吉野の山」となっていて、
その地域も吉野川流域一帯から、龍門高取連山あたりまで含めて漠然と指したものらしい。桜は
当時からあった筈だが、万葉集に全然歌われていない。書紀続紀にあらわれる吉野も、すべて吉
野川北岸にかぎられている。そこで私は一旦山を降って奈良に帰り、翌日ひとりで上代の吉野を
訪ねることにした。霖雨の降りしきる日であったが、思いきって出かけてみた。私は天武天皇が
好きなのである。
 現在の大和上市町で降りて吉野川沿いに東上すること一里ばかりで宮滝に達する。三船山、吉
野連峰が重畳とつらなり、川も小谿谷と云った趣を呈して、ここは花の吉野とは別天地である。
斉明天皇より聖武天皇に至る歴代の離宮の所在地と伝えられている。
      おおしあまのみこ
 天武天皇が大海人皇子と云われていた頃、先帝(天智)臨終に当って、大友皇子に位を譲ら
れ、出家して吉野宮に入られたと天武紀にしるしてある。即ち壬申の乱の直前である。上代の皇
族も志を得なかったり、不如意の折は離宮に身をひそめたとみえる。むろん遊行の場合が多かっ
た。上代人がどういう道順で宮滝へ来たか明らかではないが、大体飛鳥から多武峰を越え、龍門
の山を越え、吉野川に達して東上したのではないかと思われる。万葉集の中で私の好きな歌があ
る。
      みみがのみね           ひま
 み吉野の 耳我嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける その雪の 時なき
                くま
 がごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を

天武天皇の御製だが、いつ頃いかなる心境のもとに歌われたのか明らかではない。耳我嶺はど
こを指すのか。これも今に名が伝わらないが、龍門の山ではないかと考証されている。歌の内容
            みなぎ
は漠としているが、ここに漲る感情ははっきりしていて、憂悶の思いがじかに伝わってくる。帝
位を辞して、吉野に入られるときの歌か、それとも一種の相聞で、恋の憂愁にみちて山路を辿ら
れたときの作か。いずれとも解されるが、この調べと感情内容は、さきに述べ来った吉野山の歌
とは全然ちがったものである。
 私も耳我嶺を求めて通りたいと思った。飛鳥路から吉野に至る道を辿りたい。今度の旅では果
しえなかったが、芭蕉は、ちゃんと通っている。「雲雀より上に休らふ峠かな」という句はこの
山道での作である。
 ところで宮滝だが、どこが離宮の跡なのかさっぱりわからぬ。三船山をめぐって吉野川が大き
          なつみ
く迂廻したあたりに、菜摘の里、たぎつ河、秋津野など、万葉の歌枕のあることは古い地図で承
知したが、離宮の跡はどこなのか。宮滝の中荘小学校を訪れて、この附近から出土した弥生式土
器や古瓦を四五十点みせて貰ったし、遺跡の礎石の写真もあったが、さてこの辺と見当をつけて
たずねてみても何もない。細雨の降るなかを、山路を辿ってみた。川のほとりを歩いてみた。小
谿谷と云ったが、淵が深く、水は清冽である。古の様子を知るには万葉の歌以外にはなさそうだ。
                   こしゆう
柿本人麻呂の有名な長歌がある。吉野離宮に扈従した折の歌で、当時の状景はわずかにしのばれる。
  すみ
 八隅しし わがおほきみ きこしをす 天の下に 国はしも 沢にあれども 山川の 清き河
 内と み心を吉野の国の花散らふ 秋津の野辺に 宮柱
       ももし  き
 太敷ませば 百磯城の 大宮人
    な
 は 船並めて 朝川渡り舟きほひ 夕川わたる 此の川の 絶ゆることなく 此の山の い
 や高知らす水激る 滝の宮処は 見れどあかぬかも

 三船山の背景に、吉野連峰と龍門連峰のさしせまったその間を吉野川が流れているわけだが、
風景として規模は小さい。吉野離宮もおそらく楚々たるものであったろう。桜花はない。秋津野
はわずかに展けた河畔であり、滝というのは川が断層となって、流れのやや激しい云わば急湍で
あって、懸瀑ではない。昔と今とでは地形にも川の流れにも変化はあるだろうが、一体に万葉の
歌から想像すると大きくみえるから不思議だ。のどかに心ひろかった故であるか、詩歌の誇張の
せいであるか。飛鳥川がしきりに歌われるので、どんな大きな川かと思えば、幅一問ほどのどぶ
川である。香久山耳梨山とは豆粒ほどの丘にすぎない。人麻呂の長歌から想像すると、宏壮な宮
殿と幅ひろい大河が浮ぶのだが、現実の風景は小さいのである。
 しかしさすがに場所はいい。せまりくる峰々には絶えず雲が去来し、杉の巨木に蔽われた谷間
の霧の湧き立つさまもおもしろい。夏は涼しそうな処だ。小ちんまりしているが、実に清潔な感
じのする風景である。
 飛鳥平城の貴人達が、清流に憧れ、山峡に憧れた有様が偲ばれる。吉野山の喧騒とは全く隔絶
して、現在は訪れる人とてない。霖雨はひまもなく降りしきる。私は傘をさして、河畔を歩き、
やや小高い畑地を巡り、稀に会う里人に、離宮の跡は何処ぞと問いただしてみたが、知る人もな
い。
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